「航跡の価値」Ⅴ
チャンは厳しい顔で手に持っている書類へ目を通している。ロンドンへ帰郷してから10日間、新聞のように毎日船員から届けられる周辺各街の相場動向についての分厚い書類である。自宅にある書斎で僅かばかりの時間だけ商人としての顔を取り戻す時間を作っている。いつになるか分からない出航にそなえ商人として出遅れないようにと心がけた習慣であった。
「軒並み飽和状態だな。」
周辺の相場は小刻みな変動を見せるものの利益を確保するには物足りない数字だと彼の目に映っている。酒、宝石、工業品、鉱石どれも平均的な相場付近で取引されていては、北海方面に旨味はなかった。ただ、宝石に関しては現状で平均的な相場だがじわりじわりとその相場は上がってきていた。先日、チャンが交易所の主人に言った通りカーボヴェルデ周辺の海はどこからか現れた海賊が常駐し、欧州まであと少しと気の緩み始める船はその餌食になっているとの情報が巷からチャンの耳にも届くようになっていた。しかし、辛うじて難を逃れたり、大きな迂回路をとって運ばれるものが少なからず届いている為、急激な相場変動は起きていないようだった。
「近海は美味しい話がないな。」
一応、最後まで軽く目を通し書類を閉じる。最愛の妻が作る料理に艶と張りを戻した顎鬚を何気なしに確かめるような格好でなにやら考え事をしている。その視線は部屋中を確かめるように行ったり来たりを繰り返しているが、どの一点にも焦点が合わず何かを見ようとしているわけでもなかった。
静寂ゆえに長く感じた数分間にチャンは自身の中でロンドンを発つ決心を固める。そうなればとチャンは防寒着を羽織ると、自船が係留されている港へと向かった。
「おーい。誰か居るか?」
提督の声に副官の一人が船室から顔を出す。
「出航する準備に掛かってくれ。そうだな、10日分ぐらいの物資で良いや。」
出航の言葉を聞いて副官が詳細を聞こうと近寄ってくる。どうやら掃除中だったらしく手には固く絞った雑巾を持っている。
「うんうん。いあ、急ぎじゃないな。これからウィスキーの買い付けに行ってくる。3・4日後に出れれば良いかな。」
チャンは副官からの質問に悠々と答えている。
「だいぶ体も休まっただろうし。なによりお前達の給料も捻出しないとね。これから年末にかけて物入りだし。」
笑いながらそう言うと副官の肩を叩きながら船を下りてゆく。相場が動かないならコッチが動くしかない、あまり長居し過ぎると出発するタイミングを逸しそうだと出航を決めた理由を作っていた。
「軒並み飽和状態だな。」
周辺の相場は小刻みな変動を見せるものの利益を確保するには物足りない数字だと彼の目に映っている。酒、宝石、工業品、鉱石どれも平均的な相場付近で取引されていては、北海方面に旨味はなかった。ただ、宝石に関しては現状で平均的な相場だがじわりじわりとその相場は上がってきていた。先日、チャンが交易所の主人に言った通りカーボヴェルデ周辺の海はどこからか現れた海賊が常駐し、欧州まであと少しと気の緩み始める船はその餌食になっているとの情報が巷からチャンの耳にも届くようになっていた。しかし、辛うじて難を逃れたり、大きな迂回路をとって運ばれるものが少なからず届いている為、急激な相場変動は起きていないようだった。
「近海は美味しい話がないな。」
一応、最後まで軽く目を通し書類を閉じる。最愛の妻が作る料理に艶と張りを戻した顎鬚を何気なしに確かめるような格好でなにやら考え事をしている。その視線は部屋中を確かめるように行ったり来たりを繰り返しているが、どの一点にも焦点が合わず何かを見ようとしているわけでもなかった。
静寂ゆえに長く感じた数分間にチャンは自身の中でロンドンを発つ決心を固める。そうなればとチャンは防寒着を羽織ると、自船が係留されている港へと向かった。
「おーい。誰か居るか?」
提督の声に副官の一人が船室から顔を出す。
「出航する準備に掛かってくれ。そうだな、10日分ぐらいの物資で良いや。」
出航の言葉を聞いて副官が詳細を聞こうと近寄ってくる。どうやら掃除中だったらしく手には固く絞った雑巾を持っている。
「うんうん。いあ、急ぎじゃないな。これからウィスキーの買い付けに行ってくる。3・4日後に出れれば良いかな。」
チャンは副官からの質問に悠々と答えている。
「だいぶ体も休まっただろうし。なによりお前達の給料も捻出しないとね。これから年末にかけて物入りだし。」
笑いながらそう言うと副官の肩を叩きながら船を下りてゆく。相場が動かないならコッチが動くしかない、あまり長居し過ぎると出発するタイミングを逸しそうだと出航を決めた理由を作っていた。
良く日の当るテーブルで異国の茶を楽しむ女性が2人。砂漠の地から帰ってきたばかりの両名には頬を撫でるように通り過ぎる風が少し肌寒く感じる。
「場所が場所だったから、普段以上に寒く感じるわね。」
僅かばかりの時間で熱を奪い取られている紅茶を口に運びながらシュルコーに身を包む女性が率直な気持ちを口に出す。
「こっちが冬になったら、移住しちゃう?」
「それは勘弁ね。あの場所も仕事だから行けるのよ。」
「どうかしら?貴女はどこででも生きてゆけそうだけど。」
「それはないわね。なによりあそこには紅茶がないもの。」
「重大な問題ね。」
「あの日差しは憎いほどに元気すぎるわ。肌に悪いわ。」
広げ見せた手は程よく日焼けしている。ただ左手を飾るブレスレットの付近はかつての肌色の名残を留めており、色白を想像させるその色の面影は今の彼女には数箇所しかみられなかった。
「変な虫もつかないし、ちょうど良いんじゃないの?」
「良い人が逃げたらどうするのよ。」
「私が貰ってあげるわ。」
もう一人の女性はくっきりとした瞳を意地悪そうな目つきに変えて正面の女性に投げかける、その耳にはサファイアをあしらったピアスが銀色の髪の光に支えられて時折その存在感を示している。いつも身嗜みに注意を払う彼女らしくその輝きはどこかさり気なく無駄に意識しなくても良いほど調和がとれていて、その色彩感覚は美術という学問を学ぶ彼女らしかった。
2人が楽しげに話している内容からチュニス方面からの帰りだと分かる。オスマンの勢力下にあるため下準備に色々と手を焼かされるが、欧州とは異なる習慣や信仰に形成された独特の文化や美意識は新しいものを好む欧州の好事家や貴族達にとっては身近にある神秘を求めようとする好奇心でギルドに依頼が入るのである。ただ、慣れても厳しい砂漠での作業は緑豊かなフィールドでの調査に慣れている冒険家には過酷なもので、太陽が2個あるのではないかと思うほどの熱気に体力自慢の船員達もついつい愚痴を零し、風が吹けば砂塵を噛みながらの作業を強いられ、二重苦・三重苦になることも珍しい事ではなかった。そんな環境から戻ったばかりの2人にとっては欧州の気候を寒く感じるのは当然のことだった。
ここ数ヶ月、主に東を含む地中海での活動を主としていた2人だったが、航行するに小さな海域でもなぜか港で互いの船を確認しあう事は稀だった。それは海を往く仲間内でも同じことであり、どの港にも船がひしめぎ合っているにも関わらず、不思議と出会うことは少ない。そう思うと自分達が生きる術として選んだ場所とはかくも広いものなのかという事を否応なしに実感させられる。
後々、同じ海域に居たという事を互いに話し合ったりすると、その思いは尚更に大きくなるのである。そんな経験の中で偶然ナポリという街の書庫でばったりと再開した2人は特になんの予定も入っていないという2個目の偶然も重なり久々に行動を共にしたのである。冒険を職業として生きている人にとって、誰かと行動を共にするということはとても重要な事であり、今の2人のように互いに気の置けない者同士なら尚更に貴重な時間になる事を2人は認識していた。それは独力でもある程度の成果を上げることは可能だが、複数での活動は互いにサポートし合う事で様々な面で負担が軽くなり、そしていつも同じ顔ばかりつき合せている船員達が他船の船員との交流を持つことで心的ストレスを軽減させる事も十分に期待できる。さらには、調査に関して一人で導き出せない難問を互いに考えあう時間を得ることができ、作業の効率化を望めるからであった。
「やっぱり、捗るわね。偶には速い仕事も良いわ。」
「思ったよりかは楽だったわね。天候を除いてだけど。」
「うん、でも久々に楽ができそう。こんな艦隊行動なら歓迎よ。」
ぐっと背伸びをするように空を仰ぐ、熱風にやられて纏まりを持たない髪が彼女の肩口で踊っている。もう少し手入れをすれば良いと思うほど、その髪は飾り気のない様相を見せている。
「トーレスと出航した時は大変よ。あの人って生粋の軍人だから、船員もそろって体力のお化けみたい…」
「ふふふ。アンレ、それは仕方ないわ。いつも生死の境目に立つような人よ。ひ弱な人なんて居ないでしょう。」
「山道でも何でも散歩感覚よ…信じられない。」
追加した紅茶とラスクを口へ運ぶ。慣れた味を良く確かめながら2人の表情は明るい。
「お話の途中に申し訳ありません。」
そんな2人の会話に突然に横から割って入る声、2人はさっきまでの表情を一変させてその声の主を見る。恰幅の良い体とそれに似合った顔と顎鬚、一見して悪人には見えない風貌に少し気をそがれた感覚を覚える。声をかけた人物は自らをチャンと名乗り、かつてはF・トーレスと同じ商会に所属していたといった。それを聞いた2人は自己紹介しながら今自分が所属している商会こそがチャンの言うF・トーレスその人が商会長を務めているのだと言った。
「おぉっ。あのトーレスが商会長を…。」
チャンには思いがけない言葉だった。無頼漢のように振舞っていた彼が人を率いる立場になっていようとは予想だにできないことだった。
「えぇ、それにケンケーン、シッド、ハガルも同じく参加してくれています。」
「うーん。懐かしい名前を聞きました…で、トーレスは今どこに?」
「今は出征中で確か北海の方に…」
チャンは我が耳を疑った。ロンドンを出航し当初の予定通りにユトランド半島方面へ出ていれば会えたのである。思わず天を仰ぎながら自らの航路変更を悔やんだ。
「いやはや、数日前までロンドンに居たのですよ…」
苦笑いのような顔もどこか憎めない目の前の人物にある程度の共感を得ながら2人はチャンに席を勧める。しかしチャンはそれを丁寧に断ると2人を食事に誘う。
「お嬢さん方、とても良い事を聞きました。ご一緒したいのですが相場命の商人ですから今日はこれにて失礼させていただきます。また後日お会いしましょう。」
そう言うなり目の前の2人の女性に英国風の挨拶を済ませるとチャンはテーブルから離ていった。
「チャンさんって言ったかしら。トーレスに会いたそうだったけど…」
チャンが去っていった方向を眺めながらライラが呟く。
「会ったら会ったで大変でしょうね、場面が目に浮かぶよう。」
「当然すぎて分かりやすい答えね。」
麗らかな日差しがゆっくりとその役目を終える準備に取り掛かっている。依頼がなければ東にでも行こうかなというライラの提案にアンレーデは頷いた、複雑な歴史に彩られたかの地は何度訪れても飽きが来ない、それは自然と高まる向学心を押さえつける事ができないほど魅力的な地方だった。
「良いわね…」
今から胸弾む思いを抱きながら、新たなる旅への想いを互いに口に出している。そんな楽しい時間は街が深紺に染まるまで続いていた。
「場所が場所だったから、普段以上に寒く感じるわね。」
僅かばかりの時間で熱を奪い取られている紅茶を口に運びながらシュルコーに身を包む女性が率直な気持ちを口に出す。
「こっちが冬になったら、移住しちゃう?」
「それは勘弁ね。あの場所も仕事だから行けるのよ。」
「どうかしら?貴女はどこででも生きてゆけそうだけど。」
「それはないわね。なによりあそこには紅茶がないもの。」
「重大な問題ね。」
「あの日差しは憎いほどに元気すぎるわ。肌に悪いわ。」
広げ見せた手は程よく日焼けしている。ただ左手を飾るブレスレットの付近はかつての肌色の名残を留めており、色白を想像させるその色の面影は今の彼女には数箇所しかみられなかった。
「変な虫もつかないし、ちょうど良いんじゃないの?」
「良い人が逃げたらどうするのよ。」
「私が貰ってあげるわ。」
もう一人の女性はくっきりとした瞳を意地悪そうな目つきに変えて正面の女性に投げかける、その耳にはサファイアをあしらったピアスが銀色の髪の光に支えられて時折その存在感を示している。いつも身嗜みに注意を払う彼女らしくその輝きはどこかさり気なく無駄に意識しなくても良いほど調和がとれていて、その色彩感覚は美術という学問を学ぶ彼女らしかった。
2人が楽しげに話している内容からチュニス方面からの帰りだと分かる。オスマンの勢力下にあるため下準備に色々と手を焼かされるが、欧州とは異なる習慣や信仰に形成された独特の文化や美意識は新しいものを好む欧州の好事家や貴族達にとっては身近にある神秘を求めようとする好奇心でギルドに依頼が入るのである。ただ、慣れても厳しい砂漠での作業は緑豊かなフィールドでの調査に慣れている冒険家には過酷なもので、太陽が2個あるのではないかと思うほどの熱気に体力自慢の船員達もついつい愚痴を零し、風が吹けば砂塵を噛みながらの作業を強いられ、二重苦・三重苦になることも珍しい事ではなかった。そんな環境から戻ったばかりの2人にとっては欧州の気候を寒く感じるのは当然のことだった。
ここ数ヶ月、主に東を含む地中海での活動を主としていた2人だったが、航行するに小さな海域でもなぜか港で互いの船を確認しあう事は稀だった。それは海を往く仲間内でも同じことであり、どの港にも船がひしめぎ合っているにも関わらず、不思議と出会うことは少ない。そう思うと自分達が生きる術として選んだ場所とはかくも広いものなのかという事を否応なしに実感させられる。
後々、同じ海域に居たという事を互いに話し合ったりすると、その思いは尚更に大きくなるのである。そんな経験の中で偶然ナポリという街の書庫でばったりと再開した2人は特になんの予定も入っていないという2個目の偶然も重なり久々に行動を共にしたのである。冒険を職業として生きている人にとって、誰かと行動を共にするということはとても重要な事であり、今の2人のように互いに気の置けない者同士なら尚更に貴重な時間になる事を2人は認識していた。それは独力でもある程度の成果を上げることは可能だが、複数での活動は互いにサポートし合う事で様々な面で負担が軽くなり、そしていつも同じ顔ばかりつき合せている船員達が他船の船員との交流を持つことで心的ストレスを軽減させる事も十分に期待できる。さらには、調査に関して一人で導き出せない難問を互いに考えあう時間を得ることができ、作業の効率化を望めるからであった。
「やっぱり、捗るわね。偶には速い仕事も良いわ。」
「思ったよりかは楽だったわね。天候を除いてだけど。」
「うん、でも久々に楽ができそう。こんな艦隊行動なら歓迎よ。」
ぐっと背伸びをするように空を仰ぐ、熱風にやられて纏まりを持たない髪が彼女の肩口で踊っている。もう少し手入れをすれば良いと思うほど、その髪は飾り気のない様相を見せている。
「トーレスと出航した時は大変よ。あの人って生粋の軍人だから、船員もそろって体力のお化けみたい…」
「ふふふ。アンレ、それは仕方ないわ。いつも生死の境目に立つような人よ。ひ弱な人なんて居ないでしょう。」
「山道でも何でも散歩感覚よ…信じられない。」
追加した紅茶とラスクを口へ運ぶ。慣れた味を良く確かめながら2人の表情は明るい。
「お話の途中に申し訳ありません。」
そんな2人の会話に突然に横から割って入る声、2人はさっきまでの表情を一変させてその声の主を見る。恰幅の良い体とそれに似合った顔と顎鬚、一見して悪人には見えない風貌に少し気をそがれた感覚を覚える。声をかけた人物は自らをチャンと名乗り、かつてはF・トーレスと同じ商会に所属していたといった。それを聞いた2人は自己紹介しながら今自分が所属している商会こそがチャンの言うF・トーレスその人が商会長を務めているのだと言った。
「おぉっ。あのトーレスが商会長を…。」
チャンには思いがけない言葉だった。無頼漢のように振舞っていた彼が人を率いる立場になっていようとは予想だにできないことだった。
「えぇ、それにケンケーン、シッド、ハガルも同じく参加してくれています。」
「うーん。懐かしい名前を聞きました…で、トーレスは今どこに?」
「今は出征中で確か北海の方に…」
チャンは我が耳を疑った。ロンドンを出航し当初の予定通りにユトランド半島方面へ出ていれば会えたのである。思わず天を仰ぎながら自らの航路変更を悔やんだ。
「いやはや、数日前までロンドンに居たのですよ…」
苦笑いのような顔もどこか憎めない目の前の人物にある程度の共感を得ながら2人はチャンに席を勧める。しかしチャンはそれを丁寧に断ると2人を食事に誘う。
「お嬢さん方、とても良い事を聞きました。ご一緒したいのですが相場命の商人ですから今日はこれにて失礼させていただきます。また後日お会いしましょう。」
そう言うなり目の前の2人の女性に英国風の挨拶を済ませるとチャンはテーブルから離ていった。
「チャンさんって言ったかしら。トーレスに会いたそうだったけど…」
チャンが去っていった方向を眺めながらライラが呟く。
「会ったら会ったで大変でしょうね、場面が目に浮かぶよう。」
「当然すぎて分かりやすい答えね。」
麗らかな日差しがゆっくりとその役目を終える準備に取り掛かっている。依頼がなければ東にでも行こうかなというライラの提案にアンレーデは頷いた、複雑な歴史に彩られたかの地は何度訪れても飽きが来ない、それは自然と高まる向学心を押さえつける事ができないほど魅力的な地方だった。
「良いわね…」
今から胸弾む思いを抱きながら、新たなる旅への想いを互いに口に出している。そんな楽しい時間は街が深紺に染まるまで続いていた。
後日、チャンが正式にゴールデン・ルーヴェに加入したという旨の書簡が商会管理局から届けられ、その中には紹介人および認可決定人としてF・トーレスのサインが連ねられていた。
(しつこく引っ張ります。)