アラン・イディットは爽やかな気持ちで目を覚ました。どうして眠ったのか信じられないほど待ち遠しい目覚めであった。
窓から差し込む朝の光、枕元のスピーカーが流す流行歌、血の巡りを良くするべく躍動するマッサージベッド、これら全てがアランを祝福していた。
けれども一番槍でアランを覚醒させる役目を果たしたのは、寝室に充満した香であった。
ベッドの脇には新製品のスメッグ散布装置が置かれている。
それから発せられる香りが脳神経の一部を覚醒させ、また別の一部を麻痺させてアランを素晴らしい気持ちに浸らせるのである。
起き抜けの恍惚状態にあるアランはひどく幸福であった。何もかも美しかった。
普段ならベッドの執拗なマッサージ機能を鬱陶しく感じることもあるけれども、今はそれすらも愛おしい。
アランは片言ながら自然とスピーカーに合わせて流行歌を口ずさんだ。
色恋の歌で濫用される『君』という対称代名詞ですら現実の舌に甘味を感じさせた。
スメッグ濃度三倍、スカッと爽やかの謳い文句は伊達ではなかった。
ストロベリーのフレーバーも実に具合の良いもので、以前使っていたバーベキュー風味のように胸焼けと脳焼けに悩まされることもなかった。
この日の朝食はピッツァとフライドポテトとスメッグコーラであった。
アランの寝ている間に、小間使いモロンが用意したものである。
アランからしてみればひどく質素で大味の食物であったが、彼は成人前の学生であるので我慢するほかはない。
スクールを卒業して成人すれば、こんな不味い食事を強制されることもないのである。
スクールに通わねばならぬことと出費を極度に制限されることとは、未成年コーディネイターに課せられる義務である。
彼が十五歳に達する一年後には今のように一人で食事をすることも無くなるであろう。
一人はたいへん心細いが、こうして今のうちに孤独を嫌うべく鍛錬しておかなければコーディネイター社会の不適合者になりかねないのであるから、これはある種の必要悪である。
前途有望なアラン・イディットという少年は、そのことを洞察し理解し、また納得もしていた。
アランは朝食をとりながらニュースを見た。昨日、第072工業区で爆破解体が行われたそうである。
そこに新たなMS用レジャー施設を建造するらしかった。確かにそれなりのレジャー施設を作るには結構な面積が必要であろう。
このキーウィタースでMSスポーツは贅沢な娯楽の部類に入る。MSを停める駐機場やMS用テニスコート、MS用ゴルフ場などの整備で相当の手間がかかるに違いない。
こうした突然の爆破解体という物騒なニュースを見るのは初めてのことであったが、アランは己の若さと無経験とを思い、こんなふうにさりげなしに流されるのであるからそう珍しいことでもなかろうということで納得した。
アランは朝食、入浴、化粧、といった登校の身支度をたっぷり二時間かけて済ましてアパートメントを出た。
アランの部屋の自動扉が閉まったのとほぼ同時に、隣室のハスハ・イディットが部屋を出てきた。
「おはよう、アラン」
「偶然だね。一緒に行こうか」
アランと同じ銀の髪色をした少女は小さく頷いた。
町はすっかり目覚めていた。道路にはMSが闊歩し、建物の各所に配置されたスピーカーからは快い流行歌が大音量で流れている。
アランはタクシーの天井窓越しに空を見上げた。大気は澄み渡って機械部品の天蓋をありありと見せ付けていた。
アランはこの空を好いていた。頼もしい機械装置に守られていると実感できるからである。今日もいい日だ、とアランは思った。
『一日二回のセックスは健康の基本! さあ皆、セックスだ! セックスをしよう!』
市街地の大型空中モニターには、健康推進週間のマスコットキャラクター、ミスター・マラディックが大写しに映し出されていた。
CGで構成された架空の人物である彼は、比喩の思案に投げ首した描写によれば男臭いと呼ばれるような笑顔を見せて、絵の具のように真っ白い歯を光らせた。
無論、この光もうそ臭い合成映像である。
『私は十二回以上している。おかげで見も心もこんなに健康さ!』
筋骨隆々たる体躯を躍らせて、彼は己が肉体の健全さを喧伝する。腰の動きがやたらに生々しいのが憎らしい。
大胸筋が瑞々しく震えて汗の飛沫が煌めいた。
『レッツセックス! セックス、セックス、セックスセックスセクロス! エス、イー、エーックス! エス、イー――』途中の言い間違いはこしらえものの愛嬌である。
アランは携帯端末を取り出して予測スケジュールを見た。放課後にシアターへ行った後、二時間ほどの空きがあった。
アランはクラスの女子を幾人か物色して頭の中であたりを付けてみた。結構な人数が該当してアランは安心した。
もしもマラディック氏のスローガンに副えなかったなら、落ち着かない気持ちになりそうであったからである。
『皆さんの笑顔の源、それは、キット・カッツ……』
別な空中モニターが、新製品のチョコレートバーのコマーシャルを流している。
コーディネイターに酷似した無数のコマーシャル・モロンが一斉にチョコレートバーを懐から取り出して、それを頬張った途端、恰もこの世では到底浮かべられそうにないような無上の笑顔を浮かべた。
実際に咀嚼しているのか怪しいものではあるが、口腔に接触した時点でもはや十全の満足を覚えるほどに美味であるという解釈も出来なくはない。
『スメッグエキス配合! キット・カッツは、あなたの幸福なひと時を提供します』
「スクールの売店に置いてあるかな」
「ものを食べるときあんな顔はしないわ」
と、隣席のハスハが水を差した。アランは少し咎めるような口調で言った。
「美味しそうなんだからかまわないじゃないか」
「そう」
とだけ返事をして、ハスハは頬杖を付き直した。彼女はぼんやりと開いた目で、つまらなげに町の光景を見るともなく見ていた。
人々はスメッグを服用するとしばしばそんなふうな目つきになる。楽しい幻覚と戯れる最中は外界を知覚する必要を無くするからである。
然るにこのハスハという少女は素面であった。アランは彼女がスメッグを使うのを見たことがない。
口にこそ出さないけれども、人を幸福な気持ちにするこの有用な薬物を毛嫌いしているきらいがある。
以前に交際していたときもアランが錠剤を薦めるのを断り、それどころかアランの携帯する錠剤をみんな取り上げてごみ箱に押し込んでしまった。
やるべき遊び事が無くなった折である。寝床に行くには気分が乗らず、シアターなどの娯楽施設へ行くには懐が寂しい。
残ったのはスメッグで脳髄を朗らかにして楽しく談笑することであった。しかしそれすらも奪われた。
アランは時間の観念を認識するにつけ、いたく苦しい思いをした。コーディネイターにとって退屈は何よりも恐るべきものである。
アランが憂いて死ぬるばかりの苦しみに苛まれている最中、残酷なハスハはというと、寧ろ上機嫌で、彼女には珍しく饒舌ですらあった。
アランがこの面倒な少女との純粋な異性交遊を止したのはそれから三日後のことである。
カラオケに誘えば「時間とお小遣いで恥を買いに行くようなものだから」と拒絶し、シアターに行こうと言うと「あんなの、暇つぶしどころか頭つぶしよ」というわけのわからないことをのたまって応じない。
漸くのことで説得して連れ出しても彼女は鬱々として楽しまず、アランまでもが嫌な気持ちにさせられる。
自然の行為の現場においてもそうであった。
暗闇にほの白く浮かぶ彼女の肌は、ややもすると別の少女らのそれと真逆に、ぞっとした印象を与えるのである。
彼女に独特の押し殺した息遣いや、香水の染み込んでいない生の肌の匂いばかりがその原因とは思われない。
如何なる見当をつけるにせよ、ともかく事を終えるたびにアランは得体のしれない、後ろめたい気持ちを味わうのである。
こうしたもろもろの不愉快事が重なった結果に交際関係を更新するというのであるから、
コーディネイター間で通用している倫理に照らし合わせてみても不誠実やら契約不履行やらとは言われまい。
寧ろその選択は非常に倫理的でさえある。ハスハの完全な同意が得られなくとも、アランには権利を行使する義務があるのである。
〈顔は、顔だけはいいんだが〉とハスハの横顔をのぞき見ながらアランは思った。
ほつれた銀髪と細やかな産毛は、日光に照らされてほのかな輝きを帯びていた。
タクシーがトンネルを潜る最中、頭上に空中モニターが展開された。
何かがトンネルを通るたびごとに決まってコマーシャルが流れるようになっているのである。
人形が万歳をしたロゴマークはMS販売会社のものであった。
『指先ひとつでハッピーに! あの名機COS-Dが、話題のハッピーパックを搭載してリメイク!
定評のあるコーヒーメーカーとマッサージシートはもちろん、エスプレッソマシーン、無重力回転ベッド、
今話題の全天周囲ミラーといった最新システムも、なんとボタン一つで一切合財万事がOK!
お手間は一切かかりません! ボタン一つ、指の一押しがあなたのMSライフをより快適に、よりハッピーに変革します!
フレキシブルな関節機構も健在! フットボールOSもヴァージョンアップ! 軽快で洗練された挙動が、あなたを魅了します。
ハッピーハッピーイェーイ! ハッピーハッピーイェーイ! そう……あなたはボタンを押せばそれでいい』
「ひっどいCM。こんなのに引っ掛かるのは懐古趣味の年増連中だけだね」
色を変えただけの旧式MSと新型の装備とを抱き合わせで売るのはこのMSメーカーの常套手段である。
冗長な口上でうんざりさせるのも通例である。対するに新型MSのコマーシャルは簡潔明瞭で、強要感抜きに購買欲をそそってくる。
在庫処理が目的なくせに下手な仕方でやるもんだ、こいつの広報担当モロンは性能が低いに違いない、そうアランは推測していた。
「そうね。あなたの言う通り、誰も引っ掛からない。誰も古いものを欲しがらない」
ハスハは独白じみた口ぶりで面白みの無い見解を述べた。
「あたりまえだろう」
アランが言い返すと、ハスハはアランの目を暫く見つめた後、黙って俯いてしまった。何やら考え込んでいるのである。
これは彼女の良くない癖であった。突然どうでもいいことを言ったかと思えば、訴えるような仕草を見せて、アランが応じないでいると自分の中に閉じこもってしまう。
活動せずに一人で物思いに耽ることは、不道徳な行いである。コーディネイターは常に楽しんでいなければいけない。
これは施設で誕生して物心付くまでに、常時言い聞かされて来た道徳律の一つである。
〈なに考えてんだか〉アランはハスハに関する思考を打ち遣って、携帯端末を弄り出した。
彼女に引き摺られてこちらまで罪を犯してはたまらない。様々な楽しみで埋まったスケジュール表を眺めてアランは顔を綻ばせた。
苦悩を感ずる暇のないこと、多忙であり続けることは徳である。アラン・イディットは模範的なコーディネイターであった。
その銅版画には、奇妙な戦士が描かれていた。
顔の皺やら肌の張り具合から察するに、年の頃は三十台中盤の所謂男盛りであろう。
V字型の角飾りの付いた兜を被り、目の下から鼻にかけては隈取をしたように真っ黒く染まっている。
それが刺青なのか化粧なのかは定かではない。口はへの字に引き締められ、硬そうな顎鬚の塊がその下に付いている。
聴覚を妨げないために、兜の両脇には無数の四角い穴が縦列に空けられている。
甲冑は体の殆どを覆っているが、どういう魂胆があってかふくらはぎとわき腹の部分が丸出しにされている。
十字架の飾りが付いた左手の盾は大ぶりで取り回しに優れないであろうが、欄外の注釈には、この盾は我が子の棺の蓋である、というようなことが書き入れてある。
武器はといえば、弓矢と二本の剣である。弓は右手にあり、剣は背中に差しているのであろう、二本の柄が突き出ている。
それぞれ光の弓矢、光の剣という注釈が付いている。
この戦士の物語が書かれた当時の文章そのものは虫食いだらけで判別が付かなくなっているけれども、銅版画の表題らしき大文字はどうにか読み取れる。
現代語に訳せば、『自由の戦士ガンダム』というそうである。
画面が切り替わり、別の銅版画が映し出される。表題は『遍歴の老郷士ガンダム』である。
先の自由戦士殿の恰好と意匠が似ているが、こちらはかなりみすぼらしい感じがある。
身を守るための甲冑は紙細工のように薄っぺらく、全体として板を継ぎ接ぎしたような印象である。
手には貝殻のような盾と白色の石弓をそれぞれ携えている。剣の柄は見当たらない。
前のガンダム氏とは違い、兜の角の代わりに立派過ぎるほど立派な口ひげを生やしている。
この貧しい老人は資金難で武具一式を揃えられなかったのかもしれない。へそから下の部分が殆ど裸である。
別な宗教による倫理的迫害の痕跡が、黒インキの上塗りとして残っている。
『少年闘士ガンダム』の銅版画に切り替わる。ガンダム氏、ガンダム老に比べると顔立ちは格段に幼いが、それを補って余りあるほどに逞しい体つきをしている。
兜の角は二対で、その真ん中にはひどく大きな宝石の飾りが付いている。
両腕に鉄板のような盾をくくりつけ、そのうえ強弓を手にしてさえいる。
背中に差してある柄も丸太じみた太さであるが、少年の腕力ならば支障なく扱えそうである。
美男子のガンダム、りりしい女騎士のガンダム、着膨れしたガンダム、上半身とはらわたと下半身の三つに切断されたガンダムの遺骸、
半人半獣のガンダム、無闇に大きいガンダム、と各々特徴を持ったガンダムたちの銅版画が順々に表示されていく。
わかり良い共通点といえば、目の隈取とV字の角くらいである。
聴講者たちが白黒の銅版画に飽きてくる頃合になってようやく色鮮やかな絵画の出番が来る。
『天使ガンダム』と表題されたいわば宗教画の類である。
翼を持つガンダムと、そのガンダムに蹂躙される一つ目の巨人たちが描かれている。
無数の宗教画が挙げられたが、いずれもその二つの人種を題材にしているようである。
中にはガンダムと一つ目の巨人たちが手を取り合って協力し、異形の怪物に立ち向かっているのもある。
次に無数の石像の写真が映し出された。出土品らしいそれらはところどころが欠けているが、さほど空想力を働かせなくともその全貌を眼下に描き出すには充分に良好な保存状態の品である。
それらは前に挙げた銅版画や宗教画とは異なり、写実的な人間の像ではなかった。
原始的な宗教儀式で使われたり奔放な芸術活動で作られたりする類の、何かを象徴する極めて異様な人形であった。
審美眼の鍛えられていない人々からしてみると一時の興味を覚えさせこそするけれども、全体像をあらかた把握してしまえば貴重な時間を無駄にしてまで観察する価値は見出せられない。
鎧武者としてのガンダムの面影を見止めるだけでもう結構である。この映像を流す講師はそれを承知していたのであろう。
銅版画のときより短い時間を割くに留め、手早く出土品の年代を遡って行く。
石像が陶器人形に代わった。幾人かの聴講者が首をひねった。
それから青銅製の人形になり、金銀細工の繊細な人形が映し出されたとき、聴講者たちはいたく驚嘆した。
年代を遡るごとに人形の精巧さが増して行くのである。
加えて、これらの彫刻品及び手工細工の題材にしていると思われたガンダムなる二足動物の種とは、聊か別の方面に傾いた題材の特徴が目立ち始めたからである。
第二芸術から玩具じみた造型に移り、終わりごろにはとうとう工業製品に立ち至った。
貴金属と宝石を材料に製造された技術的にも金銭的にも卓越した一体の人形は、現代の自称考古学者によって『モビルスーツ・ガンダム』という表題が付けられている。
「古典芸術の研究はさておき、だ」
格納庫に張られたスクリーンから白いMSに目を移して、バッシュ・ビッシュは顎をしゃくった。
「肝心の角が折れてるぞ」
メンテナンスベッドに寝かされたMSの角は確かに片側が欠けていた。本来V字型であったのが所謂ペケの字になってしまっている。
よくよく見れば頭部の損傷以外にも、背中の突起やら肩の先やら、もろそうな箇所があちこち欠損していた。
「たしかに、あんな乱暴に引き摺ってくるのはどうかと思う」
コンティ・ネイブリットが相槌を打った。パートナーにまで同意されては、ナギ・ヴァニミィは穏やかでない。
「うっさい! 急いでたんだから仕方ないじゃない!」
「なあコンティ、家庭内暴力に気ぃ付けような。この獰猛な女は子供にまで暴行を加えかねん。倅が自閉症になったらちゃんと言え。相談に乗るぜ、有償で」
「安心しなよ、コンティ。ボクはオールラウンダーさ」
バッシュの言葉に便乗して、ジョウ・ハーテンが話に加わった。
ジョウはいやに機敏な動作でコンティの背後に回ると、彼の肩に手を置き、耳元に唇を寄せてひどく優しい声で囁いた。
揉み解すような手つきで撫で回された臀部から発せられた信号がコンティを総毛立たせる。
「あ、あたってるんだが」
「あててんのさ」
わき腹の後ろのあたりにいくばくかの弾性を具えた硬質の物体が押し当てられた。
中肉中背のコンティと大男であるジョウとの身長差からして妥当な位置である。
頬を撫でる吐息に寒暖計は適当な数値を示すであろうが、コンティ自身は冷たいものを感じたようである。
この現象によって心理状態の及ぼす知覚の変化が立証され得るかもしれない。
「この変態ども!」
二重の羞恥によってナギの耳が赤くなった。罵倒語が複数形なのはそのためである。
しかしバッシュとジョウは両人とも自身が正当でない評価を下されたと思ったらしい。
バッシュからしてみれば自分は極々普通のことを言ったに過ぎないという言い分が立つ。深読みするほうが猥雑なのである。
ジョウはというと、口説くのを邪魔されて興をそがれた様子であった。
「うるさい黙れ喋るな女」
敵性人種が反抗的な態度に出たことで、普段は緩められている眉間が引き締まり、ジョウの容貌が威嚇用のそれにすりかわる。
その顔立ちに似つかわしく盛り上がった筋肉は、一応の瞬発力はあるがやはり見栄え相応でもあるナギの細腕など容易にへし折るに違いない。
コンティの顔は青ざめている。男らしくありすぎてもジョウの前では困りものであるが、こんなふうに妙なところで優柔不断なのも方々に付け入る隙を与えるのである。
不快な類の推論というのは、驚嘆すべき速さで行われることが多い。
ナギの苛立ちはコンティの決断力の不足から、一足飛びにオペレーターの某少女やら、今はヴェスタに乗っていないメカニック担当の某女史やらに及んだ。
日ごろから彼女らに対してささやかな優越感を抱いていても、やはり腹立たしいものは腹立たしいのである。
ナギは手始めにバッシュに食って掛かることにした。それで勢いをつけてからコンティとジョウを相手取ろうという腹である。
ナチュラル解放戦線のリーダーであるロウ・ブレーンという青年は、幹部の四人が真面目な会議をうっちゃらかしてふざけ合っている光景を目にして、情けない気持ちに襲われた。
けれども手で額を覆ったりこめかみを揉んだりするといった大げさな身振りは彼には許されていなかった。
遠巻きに眺めて失笑している整備員たちに示しをつけるべく毅然たる態度を固持せねばならぬのである。
解放戦線の幹部たちはヴェスタの格納庫の一画、強奪したDollタイプMSの横たわる場所に集まっていた。
解放戦線の当面の方針と、この奇怪なDollタイプMSの処遇を相談するためである。
極めて重要な話し合いとはいうものの、先のMSパイロット四人はあの有様であった。
残った二人、割合真面目な人物であるケレン・カタリとクリトン・キーンですら、パイロット四人が遊び始めるや否やスクリーンの前で非実際的な事柄にかまけ出した。
ケレンとクリトンはガンダムの伝承に興味があるらしく、先ほど提示された美術品や英雄譚の歴史的価値を論じ合っている様子であった。
ナチュラル解放戦線なる武装結社は、その装備の有用性に比して不相応にも、未経験な年若い青年の寄り集まりに過ぎなかった。
ナチュラルの生活圏にある最大勢力、自然保護区自治政府が擁する軍隊や自警団のように適切な規律は設けられていない。
その理念はどうあれ、不良な青年の徒党というふうに見られても弁解の効かない類の組織である。
ロウはこうした事情を充分以上に承知してはいたが、それにしたってこの有様は酷すぎた。
解放戦線は管理局のDollタイプMSから這々の体で逃げ出して、ようやっと体制を立て直せる時間を得た。
そしてアサルトフィールドを使用したためにヴェスタのSEジェネレータは万全の状態ではないのである。
管理局の追撃から逃れられるかも分からない状況で、乗組員たちはそれぞれの仕事をこなしつつも、団結の意志や公共心というものをまるで見せなかった。
幹部たちにおいてはいっそう酷い。強奪作戦の開始前より大げさにふざけ回っているのである。
シヴォーフ・ラーグ、カマッセ・デッセ、デッド・ザコディスという三人の仲間を失ったにもかかわらずである。
彼らの不真面目はことさらに責め立てるべきものではありえないが、批判なしに褒められたものでもない。
ある種の反省は相応の益を与えず、負債として疲労ばかりが残るためにその後の判断に支障を来たす。
この点からしてみれば努めて陽気に振舞うことは有益といえるが、それが慣習となってしまったのなら道義的に芳しくない影響が生じて来る。
加えるに彼らは若く、見解を任意に加減する習性が完成していない。買い叩くのに慣れてしまった者が安売りしないとは限らないのである。
ロウはこのような考えから、公衆倫理の堕落を防ぐという手前勝手な口実を得た。
バッシュがうめき声を出した。ナギの爪先が股座に吸い込まれるのは咄嗟に庇った手のひらで防がれたが、力の伝達ばかりは如何ともしがたい。
ロウはバッシュのうるさ口が止んだのを見計らって幹部たちを叱責した。
「バッシュ、いいかげんナギで遊ぶのは止せ。コンティ、ナギを止めろ、それが君の義務だ。ナギはともかく落ち着け。
ジョウ、君の多情をベン・スパンキンスに報告されたいか」
ジョウは肩を竦め、ナギは押し黙った。バッシュは自分の腰をとんとん叩いている。無言でいるのは体をいたわるためであろう。
そうでなければ苦痛の余韻を堪えているのである。いずれにせよ彼という人物がロウの怒声に怯むことはありえない。
コンティはというと、彼はジョウから素早く距離をとって冷や汗を拭っていた。
「ケレン、クリトン、君らも大概にしろ。興味深いのには同意できなくもないが、今は我々自身の生きのこることが先決だ。
それからウーティス、貴方ともあろう人が何をしている。さっさと本題に入ってくれ」
と、最後はスクリーンに向けて言った。
ウーティスと呼ばれた布のスクリーンは、無数に表示していた古美術品のサブウインドウをそそくさと閉じて、脇のスピーカーから『面目ありません』という合成音声を発して謝罪した。
「このDoll-DAというDollタイプがガンダムに類似しているのはさて置くとしてだ、結局のところ、我々に運用出来るのか」
『アームレイカー等の構造はCOSタイプと同規格ですが、マニュアルを見たところ――』
とウーティスが言いかけたときにナギが口を挟んだ。
「マニュアルなんてあったの?」
「なきゃ困るだろうが」
ナギの疑問顔をバッシュが鼻で笑った。彼女の顔つきに再び悶着を立ち上げる気配が見えかかる。
「しばらくは二人とも喋らないでくれ。ウーティス、続きを」
『マニュアルを見たところ、SEフィールド制御に並行する操作系が極めて不鮮明であるように思われます』
あいまいな物言いである。
「どういうことだ」
「要するに、です」
ウーティスとともにDoll-DAの解析作業を行ったクリトン・キーンが取り次いだ。
「ひどく不親切なんです、そのマニュアルというのが。
腕を振る、足を動かす、SEフィールドで斥力を発生させるといった基本動作のみ、それも同時ではなく単独で行う仕方しか載っていないのです。
OSを見てみると、用途不明のプログラムで容量の殆どが占められているのがわかりました。
ヴェスタのそれと照らし合わせてみましたが、SEフィールド制御とも無関係なプログラムばかりです。
現実的な用途についてはからっきし、必要の無いことで穴埋めしている点に於いては昨今のレジャーMSに引けをとりませんね。
SEフィールドを抜きにしてマニュアル通りの運用をするならば、せいぜい極めて硬いティハターンといった按配でしょう。
ソフト面については以上です」
そうは言いながらも嬉々としたクリトンの様子を見るに、シヴォーフたちは無闇に命を散らせたわけでもなさそうである。
コーディネイターであるクリトン・キーンという人物は、遠まわしな話し方を好んでいる。
「Doll-DAという機体コードから、どのようなことが連想されますか」
「Doll-A、アメタペイストのハッテン型ってところかい」
クリトンの問いにジョウが応じた。
「それにしちゃあ、見た目が全然違ってる。Aは胸糞悪い恰好をしてやがるがね、DA君は、いい。実にいい。素晴らしい。最高だ」
Doll-AとDoll-DAとは同じく人型MSであるが、前者は女性型であるのに対し、後者は男性的な体つきをしている。
肉感を損ねるスカートなどの付属物はなく、筋肉を模したらしい装甲が全身に折り重なっている。ジョウがため息を漏らしたのも尤もである。
『ハーテンさんの見方には多少芳しくないものが感じられますけれども、アメタペイストの発展型というのは正解です。
しかしこれは各部の構造についていうのではありません。純粋な性能面での話です』
「それで」
ロウは幾分か苛立った口調で尋ねた。ウーティスもコーディネイターであるが故に話の運びが冗漫である。
そもそもコーディネイターという人種は、はっきり要点のみを述べることを嫌う傾向があるともいえる。
「解析が甚だ不十分ですので細かい点は省きますが、
現状、即ち初期状態、生まれたまま、素の、なまの、その装甲が恰も赤子のように繊細な柔肌であり、
つまりですね、生娘、否、生息子ともいえる純情可憐で一切の穢れを帯びていないこの状態においても、
Doll-DAのSEフィールドの出力はですね、いいですか?
なんと、アメタペイストの五倍以上はあると推定され得るのです!
ソフト面の問題が解消されればベンセレム最強のMSといっても過言ではありません!
そうしてそれに加えて自己進化自己再生自己増殖自己抑制の四大根本機能が極めて有機的に極めて正常に作用すれば――」
「で、使えんのか」
バッシュがクリトンの言葉を遮った。クリトンは物足りない顔をした。
「あ、ええ、はい。当面はディズンの基本OSとヴェスタの稼動データを元に代替品を作っておりますので、それを使います。
実践テストをするまでは断言しかねますが、理論上は充分にアメタペイストと渡り合えるでしょう。たぶん」
クリトンの言い分にはかなり不安な点があるが、管理局に対抗する手段を解放戦線が得たということは間違いない。
「しかし、それなら先ほど垂れたガンダムの講釈に何の意義がある」
この状況で、遊んでいる暇は無いのである。
『命名のご参考になればと思いまして』
「は?」
ロウの質問にウーティスの的外れな言葉が返ってきた。
『歴代のガンダムの名称は、何々ガンダム、ガンダム何々という形式になっています』
ケレンが頷いた。
「なるほど、象徴としての意味合いでガンダムを採用するのは悪くない。Dollタイプは悪名が高すぎるからね」
「ガン、ガン、ガン……何だい?」
単純な名前を散々聞かされたというのに、ジョウは覚えられないでいる様子を見せた。
ケレンは妙な目つきでジョウを見てから、すぐに元の顔をして言った。
「ガンダムだよ、ジョウ・ハーテン。ガンダミズムって言葉くらい、君も良く知ってるだろう」
「そうそう、ガンンッダムね。アニキガンダムとガンダムマッソゥ、どっちも捨てがたい」
「止めとけ、補充要員募集で男が寄り付かなくなる。誰だって清らかでいたいんだ」とバッシュが指摘した。
「こんな変態MS、どるだで充分よ、どるだで」
「どるだ?」
ナギがいきなり口にした響きの良くない単語を聞いて、コンティは怪訝な顔をした。
「見たまんまでしょ」
機体の肩に書いてあるDoll-DAという文字をナギが指差した。
「ほら、ど・る・だ。そうでしょ?」
『ガンダムドルダ、或いはドルダガンダムとなるでしょうか』
「ガンダムドルダ、なかなか恰好良い名前ですね。ドルダ、ドルダ、ドルドルダ、ふむ、極めて美しい響きです」
「コーディネイターどものおセンスは相変わらずおイカれになっていらっしゃる」
「ドルダってなんだかドリルっぽいねぇ。ドリルはいい。穴を掘るのは雄のロマンだもの。そうは思わないかい、コンティ・ネイブリット君」
「お、俺に近寄るな! 手を伸ばすな肩を掴むな尻を揉むな首筋に息を吹きかけるな!」
「ちょっと、コンティにちょっかいかけんじゃないわよ!」
ロウは頭を抱えた。
あたりは薄暗かった。特定の高度に敷き並べてある黒雲が、天蓋から発せられる光を弱めているのである。
黒雲の上の天蓋は日常通りの職務に勤しんで、明るすぎず暗すぎない白夜を再現し、エネルギー資源を惜しむべくひたすら神経を酷使している。
上役の指示は数時間も前に届け出されていたはずあるが、即座に新たな命令を遂行するに彼は鈍重に過ぎた。
たしかにこれほどの図体に張りめぐった神経にくまなく気を配るのは困難に違いない。
彼が己の徒労に気が付いて、上司の喚き声を思い出して慌てる頃には黒雲自体消え去っている。
けれども全自動化してある彼が叱られることはないであろう。彼が無事であるために寧ろ褒められるかもしれない。
九死に一生を得た悪童が功績も無しに賞賛されることと同様である。
事実、彼以外のものたちの被った負債は彼の失態を誤魔化してあまりあった。
これまでは町という生産道具を長持ちさせるべく時たま降らす雨で地を潤していたのが、こうなった今では全て無益な骨折りになってしまった。
もし会計士がいたのなら、忌々しくってたまらなかったろう。
幾千人、幾万人とも知れない人々が瓦礫の間にひしめいている。
急ごしらえの歩道が渓流のように曲がりくねっているのを見るに、押し寄せているといったほうが良いかもしれない。
それぞれの先頭には防護服を着た者が立ち、具合の良い足場を探り当てながら人々を導いている。
彼ら先導者がいるおかげで群衆は憂いなく前へ歩んでいける。最後部では銃火器を手にした屈強漢らが、脱落者が出ないか目を光らしてくれてもいる。
遠目に見る限りで群衆は三つに大別できた。
歩みを止めることなく速やかに進んでいく人々、個々の反応がのろく、渋滞しながらゆっくり行進する人々、殆ど手さぐりで足を運ぶ人々である。
それぞれの姿形は近寄って見なければわからないが、日ごろの彼らの働きぶりを思えば、動作で似通っているなら見た目も似通っていることであろう。
ポスト・フェストゥムの便乗する輸送機が072工業区に降り立ったときには、雲行き怪しく雨の降る気配が見え始めていた。
クラゲ型の雲を観賞するには来るのが遅すぎたようである。以前文献で見た通りに、天空高くに茸の傘が咲き開くという風光明媚を期待していたポストは聊か興ざめがした。
けれども天は地上の生き物の事情に関与せず、その逆もまた同様である。
空が快方の兆しを見せても尚、泥から生まれたものたちの疾病は改まる様子を見せない。
嵐はなるほど暴君の如くに違いあるまいが、二本足の畜群の気まぐれに比べればおとなしいものである。
一方は季節が巡れば全快し、もう一方はその数十倍かの輪転を経ねばならない。
空やら山やら海やらの自然の光景を打ち眺めて感歎し、
僕らはなんてちっぽけなんだと拙い詩を綴るのは、己の姿を見まいとする意志の表れか、さもなければ自分が主観であることを忘れるせいであろう。
ポストは防護服を着ながら、心中でそんなような意味のことを呟いた。
全身を覆う防護服ではそれぞれ容姿の区別が付き難くなる。
コーディネイターがモロンと見間違われるのは問題となるが故に、ポストの防護服は彼専用の特注品であった。
あまりに手数がかけられているために、それは防護服というよりも人間大のMSに近かった。
各所に配置された電磁式マッサージが血行を良くし、空調は任意に変更可能なハーブの香を伴っている。
ヘッドマウントディスプレイは最新映画から通販番組までいつでも好きなときに何度でも視聴可能で、決して退屈する暇を与えない。
そのほか様々な機能を詰め込んだ結果に重量は増してしまったが、各所に仕込んだ人工筋肉の働きで彼自身は楽に動けるようになっている。むしろ着ていないときより機敏な動きが可能である。
外観の意匠もそれなりに凝らしてあった。
口から後頭にかけてとわき腹のぐるり、それから腿と膝の間の左右合わせて六本のパイプが聊か旧式めいた印象を与えるけれども、赤い塗装と頭部の角という判りやすい特徴があるので大衆受けする見栄えである。
ポストは副官のザリー・マッカティンを伴って輸送機を降りた。ザリーの防護服の生地は体つきを判別できるくらいに薄手である。
無論、動作の補助機構など付いていない。イェニチェリー・モロンの彼にはそれでも充分であった。
割合に被害の少ない区画には故障者選別用のテントが仮設してある。
ポストは手始めにそれらのいくつかを見て回り、彼の期待にそぐうものどもを見物した。
テントの前には行列が出来ている。その行列を一見するだけでも、モロンたちはめいめい勝手な恰好をし、己が運命に合わせて面目をあらためているのがわかる。
熱と毒とを伴う光は彼らの上に平等に降り注がなかった。
個体性を滅却するよう弄繰り回された人間家畜らは数瞬のうちに失敗者と成功者に二分された。彼らの生を仕分けしたのはたった数歩の距離である。
暗がりにいた者は皮脂や骨格を僅かに欠損したにとどまり、アーミー・モロンの指図にも従順である。
窓からやや離れていた者はその半身を炙られて、有機素材のフリルやら褌やら飾り紐やらを引き摺って歩き、途中うっかり落し物をして体重を軽くしつつも、やはりテントにたどり着く。
窓に近かった者は努力空しく脱落するか、そもそも再起動を促される必要を持たない。せいぜい自身の落した影で壁画を刻む程度である。
これら故障者のより分けは結構な手間であった。症例が殆ど失われているために、肌色の面積ばかりでは判断が付きかねた。
中身の具合を詳しく確かめるには分解するしか手立てがない。
いっそまとめて供養すればいいとも思われ、物惜しみしたために却って損になるといえようが、他に仕様がない。これも規則である。
如何なモロンでも再利用の望みを捨ててはいけない。モロン一体血の一滴、勿体無いの精神である。モロンの励みとなるべく促進せられねばならないのである。
その公共心に鼓舞されてか、あるいは己の有用性を証明するべく躍起になっているのか、瓦礫の町の群集の歩みは止む気配を見せない。
これがコーディネイターやナチュラルであったならそうはいかない。甘ったれて泣き喚くやら、動く気力を無くすやらで、被害と費用と無駄な時間とが上乗せされたことであろう。
「なんだ、これは」
ポストは仕分け表を見て眉を顰めた。それを手渡した現場指揮官のモロンは、最敬礼をしてから先ほどと全く同じ説明を行った。彼は礼を失したと思っているらしい。
「いや、作業を続けたまえ」
現場指揮官は向日葵のような笑顔を浮かべたまま、防護服に付いた角を揺らして去っていった。
ふんぞり返っているばかりの上司に仕事の邪魔をされても彼は気分を害さない。
コーディネイターに盲従するのにも、自身の職務に従事すると同様に無上の幸福を感ずるべく条件付けられているからである。
再利用可能なモロンの割合が少ないのには納得できる。
けれども残った廃棄モロン――一応稼動はしているが労働に堪えないモロン――のうち八割以上が、消毒の後に食品加工へ回されるというのは不可解であった。
コーディネイターとモロンの立場では、モロンを食すのが別段自然に背くことであるとはいわれない。
ナチュラルが牛や馬を酷使した末に腹をくちくするのに用いるのと変わりないことである。
稼動年数の過ぎた殆どのモロンの殆どの部品は加工センターで有用な食物に生まれ変わり、同胞の日々の糧を補ってくれている。
肝や脳髄といったごく一部分を除ければ大した手間もかからず還元されうるのである。排泄物も少量で済み、総合すれば穀物より安く付く。
それ専用のモロンさえある。そちらは資源の節約手段としてではなく嗜好品として扱われる。
製造後十ヶ月の幼生モロンの腿肉は実に口当たりが良い。それなりに安価で、揚げ物にするにも都合の良い形状をしている。並みのレストランで出されるのは大抵がこれである。
雌のモロンで、自然に発達させた生殖機能を未使用のまま特定年数維持すると細胞が具合良く熟成され、コーディネイターの肥えた舌をも唸らせる高級食材となる。
殊に胸部は美食家にとって珍味の宝庫である。
乳腺周りの脂肪分は舌ざわりが滑らかで、特異な噛み心地のする心臓は滋養強壮の効験がある。
しかし通が好むのは顎肉であろう。これは一体のモロンから少量しか取れないので、運が悪ければ玩味する機会がないまま一生を終えてしまう。
体毛の少ない猿は年がら年中幾度でも発情可能であり、魚類などのように生殖を果たすと栄養価を減じるということはあまりない。
けれども質はどうしても変わるらしいのである。ホップが受粉するとビールの味が落ちたり、牛が子を生むと食感が損なわれたりするのと同様であるといえよう。
こうした言い分は迷信といわれるであろうが、迷信一般のもたらす影響は害ばかりとは限らない。
ある種の箔付けなしには文明社会といわれるような機構は円滑に回らないと断言し、その形而上学的裏づけをする人もある。
人力の節約乃至生活水準と呼ばれるものの向上と共に清貧の流行は廃れざるを得ない。
ポストが不可解を感じたのは、素材の状態に関してであった。
未来のシチューやハンバーガーが事前の加熱処理を受けたのはまあ許容できる。冷えてもレンジが温め直す。
しかし、アサルトフィールドのもたらす放射能で味付けされた精肉は異物混入騒ぎどころではない。
コーディネイターは口にしないにせよ、彼らは勤勉実直なモロンたちの食卓に上る。
最悪、ナチュラルの暮らす自然保護区へ廃棄の名目で贈呈されかねない。
その場合は粉状の加工食品であり、ナチュラルの特定の階級の家庭で珍重され濫用されている魔法のような調味料である。
ありもしない素材の旨みを引き出して味覚を遊ばせるばかりでなく、奇形人や奇形児の製造工程に一役買い、
そのうえでナチュラルの慈悲心と虚栄心を満足させるために、せっかく自然のままに保ってあった遺伝子プールに余分なものを添加する可能性もなくはない。
数世代前のナチュラルが勤しんだように、聖者の旗印を掲げるか不可避的災害の法精神に則るかして梅毒を流行させるのと、どちらが愉快であるかもわからない。
ポストはそんなふうに憶測を進めて行った。一言しておくと、この種の論法の飛躍は彼の望むところでもある。
人体の仕組みに関する科学的な裏付けというのは公共化したうぬぼれに違いなく、むしろ絶対に無害と証明済のレッテルを貼られたものこそ恐ろしい、という軽率な逆説を確信していられるほどに、彼はうぬぼれているのである。
〈リグ・ヴェーダは何を企んでいる。ベンセレムを滅ぼそうとでもいうのか〉
人間の世界の一切を管理している量子型演算処理システムの名がポストの心中で呟かれたとき、テントの外から奇声が響いてきた。
発端は一体のモロンが脱落したことである。
脱落というのは、彼の代謝やら何やらの機能が酷使された末に急激に減退し、彼の肉体が動作するのを止めたということである。
全身生焼けのうえ、曲がった鉄棒がわき腹から突き出ているのであるから長持ちしたほうであるともいえよう。
痛苦に対する鈍感は必要最低条件であるにせよ、育児モロンによる辛抱強い教育の甲斐があったというものである。
手先と踵から溶け落ちつつある皮膚を惜しんで前倣えの恰好で歩いていた彼は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
お腹の鉄棒を除いてもらえなかったのが心残りであろう。
彼の所属するグループは、例の手さぐりで進んでいるグループである。
ほとんどは彼と似たり寄ったりで、なかには腕の片方が欠損し、体の均衡を崩して歩き難そうなのもある。
これらの誰かが公正心を発揮したなら「まごまごすんな! だらしねえぞ!」と彼を怒鳴り付けても不思議でない。
しかしそんな暇は与えられなかった。
彼が彼の前を歩いているモロンに覆いかぶさる形になる。皆が皆自分ひとりで精一杯の有様である。他人の重みなど支えきれるはずが無い。
彼の後ろを歩いているモロンも無事では済まされなかった。その歩みからしてナチュラルでいう生後一年程度のものに近い。
安ぴか自動車と同じく急には止まれないのである。
前のめりの風潮は前後に向けて瞬く間に広がって行った。
党派心から唱えられる危険思想のドミノも、こうも速やかには行かなかったろう。そちらの方は信仰に躓くが如くで、長生きし、生き返りもするが、我他の根は保つ。
麦は踏まれれば良く育つとはいわれるが、人体はそうとも言い切れない。
時には苦労の仕方を間違えることもあり得るし、ましてやこのモロンたちはがたぴしとした状態である。
前後の監視者たちは横たわる人体の河を見て途方にくれた。一斉に怠けられては、雇用を抵当に脅し辛くなる。
アーミー・モロンはとりあえず一声かけてもらおうとして、先頭に寝ている肉の塊を足蹴にした。
気付けである。愛情の表現である。ベンセレムのプロレタリアートという同胞への労わりである。
モロン慰安用の感動映画に常套の場面でもあるが、アーミー・モロンの博愛心が如何に激しくとも死者までは生き返らせないらしい。
報いは軍靴を潤す肉汁だけであった。
帳簿を持つ伝道師から骨董を買ったり紙幣を座布団に傅いたりした経験が彼らにあったなら、別な結果を期待して良かったかもしれない。
けれども美容石鹸と同じ戸棚に並べられた信心の影響は酷く狭量なもので、当人以外に効能は無いともいわれている。
モロンたちの少ない小遣いを合わせても復活劇を起こすには足らなかったろう。実に遺憾なことである。
後に報告書に目を通した際、ポストは以上のような所感を抱いた。
絶息者の群れからさほど離れていないところには、別のモロンの行列が続いている。目的地のテントが近いためである。
その行列の直ぐ近くにまた別の行列が続き、人口密度はかなりのものになっている。
仕分けが遅々として進まないので、割合健康なグループの幾つかは待機を命じられ、ひと塊になって整列している。
その整列組の中に、ドミノ倒しの光景を初めから終わりまで観察していたモロンがいた。
彼は顔の半分が焼けただれて片目が見えなくなっているが、首から下は殆ど無傷であったので、軽傷と診断されていた。
モロンに対して物心が付くという言い方は正しいか判らない。
とにもかくにも彼が出荷され、教育された通りの判断で教育された通りの作業をこなすようになってから数年後、彼の情操に妙な兆しが生じた。
職務より休息のほうに、微かに多くの快を感ずるようになったのである。
食物の摂取や通勤の行進に比べて便座カバーの手編み作業はなるほど幸福ではあるが、
宿舎に張られたハンモックに腰を凭れかけ、目を瞑ったときにもたらされるあの感覚、目玉がぐるぐると回り、機械の音も便座カバーの幻覚も暗闇の中に溶けて行く感覚はまさに至福であった。
こうした比較判断の萌芽を経た後、彼の便座カバーに対する真心は揺らぎ始めた。
彼は日々のハンモックが待ち遠しくてたまらなくなった。
そうはいうものの、便座カバーへの情熱が完全に消失したわけでも作業がなおざりになったわけでもない。
指先を毛糸で愛撫されることは相変わらず心地よいし、Uの字の膨らみは彼の前立腺に微弱な刺激を与える。
編み目の乱れていない完全な品が運良く完成したときなどは、頭上から眩い光が差し込んでくる
――実際、彼が良い仕事をすると天井のライトが光る仕組みになっている。彼のような最下等のモロンにも、慈悲深いベンセレムの管理装置であるリグ・ヴェーダはご褒美の演出を用意してくれるのである――
それでもハンモックのもたらす恍惚には及ばなかったが、便座カバーへの愛情の一切を放擲してハンモックがためのみに生きるほどにも、彼は人間離れしていなかった。
モロンの遺伝子構造はコーディネイターやナチュラルと左程変わらない。
胎児のときに行われた退化処理と弛まない表象結合教育とによって人間性と呼ばれる情操を見かけ上克服してはいるが、その本性にはやはり貪欲が含まれているのである。
けれども、そうした移り気の日々の幸福も長くは続かなかった。彼は煩悶という頭の働きを感得したのである。
畢竟するに彼は二人とも選ぶことが出来なかった。ハンモックは実に艶かしく、彼を魅了する。しかるに逢瀬の時間は一日の六分の一である。
物心付いて以来の六分の四の時間を彼は便座カバーと過ごした。これからも過ごすであろう。
そう思うにつけ、彼は便座カバーを諦め切れなかった。便座カバーは長らく付き添った伴侶である。
彼女――ナチュラルの物差を使った場合、このような喩えになる――への愛を捨てて、彼女から見放されるのも忍びない。
いっそのこと両方とも選んだら良いではないかとも思われるが、彼はどうしてもそんな心境に至らなかった。
偽りの妊娠で騙されたり、それぞれ根気良く嘘をついてお互いを陥れる光景に悩まされたり、
訴訟沙汰に発展して僅かな慰謝料と莫大な裁判費用を毟り取られたり、気を抜いた隙に彼の背後で白刃が煌めいたりするのを恐れてのことでは無論ない。
モロンは誠実であるからナチュラルのような疑り深い考え方はしないのである。
それはともかくとして、主客の相違はあるが彼は彼自身と便座カバーとハンモックとの間に階級的な区別を設けることを知らなかった。
あるのはいわば異性的な相違のみで、そこに教育で植えつけられた一意専心の良心の声が結びついた。
どちらか一方を選ぶか、さもなければどちらとも放棄してしまうかという三つの選択肢が、彼の意識にはっきりとした形で現れていった。
そこへ持ってきて、ナチュラル解放戦線の引き起こした未曾有の大災害である。
愛しき便座カバーも美しきハンモックも彼を残してどこかへいなくなってしまった。彼は焦げ臭い工場の中でなんとなくそう思った。
それは彼なりの確信であった。視界が狭く、体が思うように動かないのも、彼の傷心の作用かもしれなかった。
彼はモロンである。永らうか永らわざるかの問いを自分に向けて発するためには発育が足りていない。
良心の声の命ずるまま、彼はアーミー・モロンの命令に応じて半壊の工場から這い出て群集に加わった。
彼の同胞は少なかった。群集の中にいる者の殆どは、彼の見たことの無い恰好をしていた。
彼は微かな期待を込めてあたりを見回したが、いくら個性的な面々といえども、便座カバーやハンモックなど同伴しているはずもなかった。
彼はテントの付近で待たされることになった。その理由も理由を知ろうという欲求も彼には皆目見当が付かないが、なぜか落ち着かない気持ちになった。
視界の消失しているところ、つまり彼の右頬がそわそわするのである。この感覚は実に奇怪であった。
彼はそわそわするところに触れてみた。食事で出されるオートミールに似た触り心地がした。
指に力を込めてほじくってみると、オートミールよりかなり硬いが、ちぎり取ることが出来た。
暫く手の中で弄んでみた。なかなかの快を覚えた。
妙な色合いをした人々が次々と倒れていく。その動きには一貫性があり、編むのに失敗した便座カバーから毛糸を解いていくのを思わせた。
彼は幻覚に合わせてその仕草をしてみた。惜しいことに幻覚はすぐに晴れてしまった。
左手には何も無く、右手には変な塊が乗っている。彼は注意を倒れている人々に戻した。
彼の近視眼では仔細に観察は出来ないが、大きさは違えども右手のものと同じものであるように思われた。
彼は隣の人を見た。隣の人の肩には同じものがあった。
妙な色合いの人々はもはや動かなかった。便座カバーやハンモックのようにいなくなったということと道義かもしれなかった。
機能しない、有用でないモロンというものは有限の神の観念と同じくどこにも存在してはならないのである。
彼はあらためて右頬から摘み取ってみた。やはり同じものであった。
彼は生産されて始めて、自分というものがいなくなるかもしれないと感じた。何よりも永く連れ添ったのは自分というものである。
六分の四の便座カバーと六分の一のハンモックを失ってでさえあれほどの不快を覚えたのである。
六分の六の自分が居なくなった場合の不快はとてつもないに違いない。彼はもう何も失いたくなかった。
しかも今や一番分量の多い一番大切なものを失おうとしているのであった。
彼の感官は鋭敏になって行った。触感のもたらす様々な反応を表す術は彼には限られていた。彼は小さく呻いた。
しかしありあわせの表現は彼の不快を和らげるのではなくて、いっそう激しくするのに貢献した。
呻くごとに耐えられなくなってきた。右頬がざわつき、全身の筋肉が強張った。彼はとうとう絶叫した。
狂気は伝染するものらしい。正常なコーディネイターならそう結論付けたろう。
けれどもポストはナチュラルじみたものの見方をして、眼前の光景にむしろ正気の片鱗を見出した。
ある大なる影響を及ぼした行為に付く形容動詞の選抜は、それぞれの時代における歴史書の記述に一任される。
例外もあるにはあると信じたいが、どうしてかそれらはしばしばないがしろにされ、
賢明な人々ですら、物差の目盛りが王冠の台の節々によって定められたり、世評の悪さより良心の疚しさの方がずっと片付け安かったりするといった摩訶不思議な現実に幻惑せられ圧倒せられ、
小が大を兼ねないことを惜しみつつも、自身の判断力においては一夫一婦か売笑の態度で我慢せざるを得ない。
しかしポストは懸命でないどころか思い上がっていたから、彼自身の任意の判断を下すことが出来た。
一体のモロンの叫びは人間理性の産声といっても良かった。
理性の光は、元来理性動物として生きるべきらしい人々にあまねく行き渡り、目のなかの梁を取り去ってしまう。一度目の叫びは空しく響くに過ぎない。
他のモロンたちは勤労に役立たぬ認識を排除するように仕込まれた精神的片輪者であり、耳で聞こうとしない。
大半の部分が死滅させられている脳髄は、同胞から発せられた警鐘を幻聴と判断する。
二度目の叫びは短かった。息継ぎの充分でないためであろう。けれども、群集のなかの幾体かのモロンが音の発生源に目を向ける。
産声は三度、四度と続く。彼の喉はその度に痛めつけられ、一度として同じ音を鳴らさない。注意を喚起されるモロンの数は確実に増して行く。
叫び声がぶれた。楽器の弦が緩んだようでもあり、電子音声にノイズが混じったようでもあるが、それは潰れかけた喉の断末魔ではなかった。
もの言わぬ群集の中にいた別の一体が、彼の動作を真似したのである。
その次の叫びでは一挙に五体加わり、更に次の合唱には数十体が参加する。
科学的根拠があるといわれるような新式の健康法などと異なり、その流行は一時のものと見くびるには凄惨に過ぎた。
牧畜に悪魔が乗り移ったかの如くであるが、彼らに溺死の徴候は見られない。
その場に立ち止まり、天へ向けておぞましい賛美歌を捧げている。
彼らの歴史が以降も続いたなら、例の一体のモロンは彼の遺伝子の先祖が初めて鈍器を手に同類を殺めたのに比する栄光を手にしたかもわからない。
或いは神の声を聞く神の庶子として崇められたかもしれない。
救世モロンの声に同調した無数のモロンのなかに、他のモロンに比べて弱々しい体つきのモロンがいた。
彼の用途は作業員の監督で、いわば白服を着せられる立場にある。彼には報告書を書くためのいくばくかの語彙が与えられていた。
彼は合唱しながら、現在の自分たちの情緒に合致する表現は無いものか思案した。
体の節々にあり、殊に皮膚の変質した部分や肉の欠けたところ、折れたり取れたりしてもはや元には戻らない箇所から来て、気にすれば気にするほど耐え難くなる感覚のことである。
彼は腕から突き出た棒切れを摘んで、ぐいぐいと揺らしてみた。
「いたい」
その言葉が勝手に口から出た。教育施設で一度教えられたきりで使われることのなかった言葉である。
彼の無意識の中で観念と結びついていたのであろう。記憶というものは不確かであるが、時々はこんなふうに勝手な真似もしてくれる。
「いたい、いたい」
彼は反復した。彼の声は隣の者の耳に伝わり、隣の者は彼の声を真似し、そのまた隣の者が真似の真似をする。
モロンという生き物は先入見を持たず実直である。人づての情報を捻じ曲げることはしない。
それぞれの目的に合致する表現ならば尚更である。
「――いたい! いたい! いたい!」
彼らはこうして最初の言葉を得た。救世モロンが人間的自由の象徴に祭り上げられるための足場が作られたといえよう。
彼らが今後何らかの手段で繁殖し、何らかの手段でめいめい監視しあうようになり、何らかの手段で生存目的を見出したとする。
そうなれば便座カバーとハンモックと救世モロンの関係が詮索されるに違いない。自己の起源というものはいかな種族においても興味の的になり得る。
便座カバーとハンモックと救世モロンとは三つにして一つであると言う人があり、
いやいや、便座カバーのみが始まりにして終わりであり、ハンモックは我々全員に行き渡るものであり、
そうして救世モロンは便座カバーがその意志を伝えるべく使わした存在で、彼は便座カバーの濡れるのを防ぎ、
同時に全てのハンモックの撓みを強制するべく自ら望んでウォシュレットの吹き上げに臀部を貫かれたのだ、と言う人もあろう。
君らはまるでわかっちゃいない、と議論の場で歎息し、仔細ありげに閉口して見せる人が幾人かは必ずある。
往々にして彼らはその深遠な真理を開帳する機会をば墓場か酒場まで持ち越してしまう。
また別のある人はその方面の議論で生計を立てようとは考えないで、便座カバーを汚さずハンモックをぴんと張るだけで満足し、
絶対の性質を帯びる度合いに応じて所有される便座カバー性や、
ハンモックの網の菱形の不可謬性に含有され得る恩寵の権能の絶対的に必然的な世界厠組合の専有性といった専門語が飛び交うのを横目に、
ただただ実在する隣人の奉仕に苦心する生涯を送るかもしれない。
彼の日々の娯楽は、トイレットペーパーを開いて眺めることである。
勿論、便座カバーの息子らは産まれる以前からものの善し悪しを見分け隣人を愛する能力を完全に具えているから、
この手の反自然的で反革命的なうえ無学な考えを哀れんで救いの手を差し伸べる人々も出て来るであろう。
そういう善意の人々の種類は様々であるが、
その性質としては自分の理論の正当さが証明されるまで議論し続ける旺盛な探究心と、
自分以外の頑固者に向かって肥溜めに落ちろと呪う習性、そして地上に跋扈する無知と盲目と無信仰を憎むこと甚だしい点で共通している。
なかでも腕力の強い集団になると、我が口から発せられた言葉と我が厠のトイレットペーパーのほかは一切が虚偽ということなる。
彼らにとっては排便の回数の削減ですら容易である。
週一回以上の排便は便座カバーに皺を作り、更には臀部が排便の都度便座に刺激せられることによって肥大化する結果、
ハンモックの編み目と臀部との外的ないし内的な合一性が得られずに総合的な恩寵の度合いが損なわれる。
この明々白々な真理を受け入れるように皆を訓導すればいいのである。訓導そのものは肥溜めを指差すだけで事足りる。
彼らは誠実である。トイレットペーパーの材料が見当たらないときには、資源環境に配慮して反故紙を用いる。
彼らは再生紙でないトイレットペーパーを持つ人を見つけると、便座カバーの衛生のために、その穢れたトイレットペーパーごとその人を水洗浄の刑に泣く泣く処さざるを得ないが、
そういう悪党や丈夫な紙というものは量があまりに多いものであるから便器の穴が詰ってしまい、清浄なる水溜めは俗臭ぷんぷんたる様相を呈する。
しかし彼らは人類の道徳的改良の代表者を自負するだけあって、すぐさま解決策を見出す。
手間のかかる水洗式ではなくて、汲み取り式を使えばいいのである。実際水洗式はあまり効率の良い仕方ではなかった。
気概のある悪党ともなると、絶え間の無い水流に揉みしだかれて紙とともに溶けて行きながらも、
ちょっとした演説をかましたり、二三の警句を残して善男善女によくない感化を及ぼしたりする。
その点、汲み取り式なら心配はいらない。紙も人体も丸まって落ちるのは一瞬である。
長く続く苦悶の声で聴衆が気分を害することもない。花火と同じく瞬間の美というものも感じられる。
この見世物は俗界にも受けが良く、任意の相場に合わせて入場券が取引され、そこからはねたものらが便座カバーの栄光により多くの奉仕を為す。
彼らは己が義務には非常に厳格であるが、無論人間らしい寛容さも持ち合わせている。
残虐非道な悪漢の着物といえども、当人とトイレットペーパー以外には罪の穢れはないのである。
人々が水遊びに飽きる頃合になると、都市住民の間でトイレットペーパーそのものに注目しようという風潮が高まって来る。
類稀な耳と脾臓を具えた七十人の賢者らが密室で七十二日間熟考した末、トイレットペーパーの純白の中に一切の徳と真理が含まれているという事実を発見するのである。
この剛毅な人々は、トイレットペーパーを雨天の時の傘代わりに使ったり、細かくちぎってスープの具材にしたり、使用済みのそれらをかき集めてアルコール飲料の醸造を試みたりする。
患うことがあっても、トイレットペーパーを溶かし入れた肥壷に身を浸せばたちまち元気になる。
これは肥壷の内部に飽和した超自然的緒力が結晶作用を引き起こして生じる極めて便座カバー的な成分が皮膚から浸透し、救世モロンの齎した奇跡と類似の治癒力が擬似的に働くためである。
副作用としては発汗、蕁麻疹、口臭、呼吸不全、口元の湾曲、頬の肥大化、唾液の気泡、眼窩の陥没及び眼球の反転、
涙腺の誤作動、被虐的嗜好の発達、深遠という語句への過剰反応、トイレットペーパーの字句に依拠しない言葉が発音不可能になるという声帯異常、
通行人ないし知人に付き纏って改宗を迫る等々が挙げられるが、いずれも些細な事である。
便座カバーの声を聞くことで得られるハンモックの浄福は、日常生活の不便を補ってあまりあるのである。
「イタイイタイイタイイタイイタイイタイ」というモロンたちの歌で耳を楽しませながら、ポストは彼らの未来を空想した。
横のザリーが気を利かせて棒切れを差し出したなら、指揮者の役割を買って出たことであろう。
〈しかしまあ、嘆かわしいことだ〉
ポストの表情が曇った。こんなに盛大な回心を遂げても、モロンはその生誕の以前からモロンとしての型にはめられている。
土竜の目は見まいがために付いている。地上の美に魅了されても、彼らは光を避けて生きるほかないのである。
片目の者が盲人国で王様になれるとは限らない。世界の平和を守るべく初めに行動するのは、きまって善人である。
無知は罪であるらしく、そしてまたその逆も正しければこの場で最も善なる者と呼べるのは現場指揮官のモロンであろう。
モロンは総合してナチュラルの子供にすら劣っているといわれるが、費用を惜しまずに特定の分野に特化させた際にはナチュラルの追随を許さない。
彼の専攻した科目は人殺しである。対象がモロンである場合は、目に梁を入れなおす手間を省くことである。
命令が通信機でアーミー・モロンたちに行き渡った。
「イタイイタイ」の呪文でまやかされたのは、テント前の一群ばかりではない。
移動中待機中を問わず、さっと見渡せる範囲にある工業モロンの半数近くがものを言い出し、その感染力も増しつつあった。
それぞれの手持ちの弾薬の合計は、想定される必要数に比べて余裕があるとはいえない。
しかしアーミー・モロンたちは勇敢である。彼らは絶望的な状況でも最後まで戦い抜く。小銃には銃剣だって付いている。
彼らはナチュラルとは違って、いざというときでも銃剣の正しい使い方が出来るのである。
志操堅固なアーミー・モロンたちの陣形が整うにつれ、銃声は伴奏のようになって行く。工業モロンのほうも負けじと声を張り上げる。
どちらの側を見るのが楽しいか目移りする光景であるが、アーミー・モロン側の優位が固まりかけると、ポストは工業モロンたちの動向に着目した。
〈そろそろ来るかもしれんな〉
工業モロンたちの全員が全員無抵抗主義を実践していられるというわけではなかった。
反骨心を持ち合わせているモロンも相当数が混入していた。「イタイイタイ」の調子が変わる。
便座カバーと救世モロンがもう一方の頬を差し出せというようなことを教えようが教えまいが、徒党を組めば荒事をしたくなるのはこの動物の性である。
工業モロンたちは駆け出した。
雪崩れてくる群衆にアーミー・モロンが飲み込まれる。
懸命に撃ち殺してはいるが、工業モロンたちは大なる仲間が小なる仲間を捕まえて盾にしたり、押し合いへし合い、山積みになった同胞の残骸を乗り越えて飛び掛ってくる。
彼らは殴る蹴るの暴行や、噛みついたりひっかいたりといった無礼は働かない。ただ抱きついて相手を引き倒すのである。
敵を愛せの教えには行為の上で従順であるらしい。
彼らは銃創の数にかまわず突進する。口では痛いと言いながらも実際の苦痛はまるで感じていないようである。
イタイというのは彼らの教義ともいえるのかもしれない。赤色の体液でついつい喉を詰らせている者もある。
ポストは自分に先見の明があることを喜んだ。すると「あいつはなんて嫌味な野郎だ」とモロンたちは思ったのか、救世モロンに率いられる軍勢の陣形に変化が見られた。
鋭角形をした一点突破に向いていそうな陣形である。頂点はポスト・フェストゥムなるコーディネイターを向いている。
足の本数の違いはあるにせよ、猛牛も人間も赤い色や赤という響きに心を乱されるのかもしれない。
ポストの特注防護服は赤かった。立派な角も付いていたので、それで威嚇していると誤解されたかもわからない。
ポストの周囲のアーミー・モロンは隊伍を乱しながらも彼らの神を守るべく懸命に発砲する。
ポストに無理に連れて来られたザリー・マッカティンですら銃を手にしている。
〈よし行け。さあやれ。頑張れ頑張れ〉
ポストの数十歩前方で奮闘していたアーミー・モロンが工業モロンの抱擁を受けた。
その工業モロンは隻腕であったが健脚でもあり、無辜の同胞を押し倒すのに梃子の原理を要しない。
倒しざまに銃剣の切っ先で裂かれたのであろうわき腹に、はみ出ているものが見える。
アーミー・モロンが抜け出ようともがくのも空しく後続の選手が重なった。先の工業モロンが蛙の鳴き声に似た音を立てた。
救世軍は仲間たちを避けて進むつもりはないらしく、またもや新たな一体が参上して、役目を終えた同志に脚立に対するが如く足をかける。
そしてその偉大なる第一歩が踏み出されんとした瞬間であった。モロンの視線が、ヘルメット越しのポストの視線と重なった。
ポストは反抗期のモロンを抱きしめるために諸手を大きく広げて、笑顔を浮かべていた。
モロンの四肢が動きを止めた。目が見開かれ、唇は小刻みに震えていた。彼は怯えているらしかった。
ポストの目から涙があふれた。
「かわいそうな子供たち!」
ポストがそう言い切ると同時に、モロンの体は弾け飛んだ。
ポストの目を見てしまったモロンがアーミー・モロンと工業モロンの二体を巻き添えにして四散したために、それぞれの残骸は区別が付かなくなっていた。
部品の散らばったのと逆の方向には、MOS-Hヒューブリスが立っている。不測の事態に備えて待機していたのが、ようやっと完全に起動したのであろう。
ヒューブリスの両腕は丸ごと機銃になっていて、威力も精度もなかなかのものである。この距離ならばポストを誤射する可能性は限りなく零に近いといえよう。
今は弾薬と砲身を対人用のものに換装してあるが、かつてモロンであったものたちの現状を見るに、暴徒の鎮圧には向いていないようである。
暴走した工業モロンの大半はMSによって速やかに処理された。暴走していない工業モロンも多数巻き込まれて、未だ機能しているのは全体の一割に満たなかった。
彼らはこの後に洗浄・消毒され、片輪でないものは再教育を受けてから別の工場区画へ送られ、もはや生産手段に値しなくなったものは食品加工に回される。
残った九割のモロンは処理場へ送られる。外気で早く腐りそうなのもあり、半死半生で新鮮なのでも銃弾を摘出する手間を考えれば食材に適さない。
しかしいちいち残骸を回収するのもなかなかの骨である。
急遽応援に駆けつけた大型コンテナに、工業モロンの体が積まれて行く。
マニピュレータを作業用シャベルに換装したMOS-Bビアーがトレーラーの中身を掬ってコンテナに載せ換える。
シャベルの平たい部分を使って山を平らにするのを忘れてはいけない。
人体は複雑な形状をしているので、こまめに押し込んでいなければすぐに満載になってしまう。
そういう作業を行うのであるから、アーミー・モロンたちはもはや重火器を手にしていなかった。
彼らは争いを忘れて、勤労でもって社会に奉仕していた。ポストの目には長閑な情景である。
暇つぶしに自分も手伝ってみたいが、そんなことをしようとすれば過保護なアーミー・モロンたちは黙ってはいまい。
彼らはポストのために即席でベンチを設え、ポストには彼の用向きが済むまでなるべく快適に過ごしてもらいたいのである。
ポストは何かがヘルメットの上に落ちたのを感じた。ここはキーウィタースの工業区であるから、自然保護区のように小動物が空を飛んでいるはずがない。
隣に立っているザリーを見ると、彼の防護服にもそれが落ちて黒い染みを作っていた。
「黒い雨か」
小雨が始まった。ザリーは用意してあった傘を差して、ポストが濡れるのを防いだ。
傘は一人用である。ザリーの防護服が斑模様になって行く。
間もなく大降りになった。棒のような雨であった。ザリーの体は黒い油にまみれたようになった。
身の安全が確信できるところで雨を感じていると、いやに感傷めいた気持ちになってくる。
二三の詩を吟じたくなったり、イェニチェリー・モロンに話しかけたりしても不思議でない。
「ザリー君」
「御用でありますか、閣下」
「今回のことについて君の所感を聞かせてほしい」
「と、言われますと」
ポストは興味深げにザリーの目を見て笑った。問い返したということは、学習したということである。
「彼らの暴走についてだよ、ザリー・マッカティン君。皮切りは一体のモロンに過ぎん。
が、連鎖反応が起きた以上少なくとも大半のモロンにその兆候はあったのだろう。このことはモロン全体の情操の変質を如実に示していると思われないか」
十秒ほどして、ザリーが答えた。
「イェニチェリー・モロンのザリー・マッカティンには閣下の仰られることが理解致しかねます。
ですがご参考までに申し上げますと、近年のモロンの不具合発生率に並行して、コーディネイターにおける精神障害発症率の増大が認められているのであります」
〈こやつ、やり返しおったわ〉
ザリーにぼろを出させることも出来なくはないが、ポストはひとまず話を打ち切ることにした。
今後、ザリーに起こるであろうことを期待したのである。
「いやなに、ベンセレムが滅ぶまいかと思ってね」
そうしてそれらの異変はリグ・ヴェーダが故意に引き起こしている可能性もある、と続けたいところであるが、滅多なことは口にするものではない。
〈ナチュラルの浸入、モロンの目覚め、正気なコーディネイター、それぞれ無関係であるはずはない。一切は、神の意思に導かれている〉
ポストは廃墟と化した町を眺めた。生物の頭数が減り、いくらか手心が加わっていた。
それでも惨状と呼ぶに充分であった。彼はこれを生み出した人々について思いをはせた。
同種族間の争いに於いて明確な規則や殺生の完全抑制の働きのないのは二本足の動物くらいなものである、
そう述べる義人は居なくもないが、それは過大な評価であろうとポストは思っていた。
いくら自称理性動物といえども、面と向かった隣人を殺せと命じられてためらわない個体の割合はかなり小さいと思われる。
現実のその生き物が、もし広告上の敵国人や映画の主人公のようにあたりまえと言わんばかりの顔をして何百匹もの同族を殺してのけたなら、世の中はこうも面白くはならなかったろう。
そうした行為には心情的にも空間的にも距離が必要となる。
アーミー・モロンはそのために他のモロン以上の手間をかけられているし、野蛮といわれるナチュラルですらそうした抽象化を推進すべく努力を怠らない。
完全な殺戮合戦というものは完全な人非人を相手にしてようやくなし得るものであろう、というのがポストの見解である。
モロンは人形であり、残念なことに人間の要素も持ち合わせている。それはいわば人間性の分業制といってもよい。
〈偶像を破壊する者は畢竟自身を偶像と化す。その終局がベンセレムということだが……〉
「彼らも我らも一枚岩とはいかぬらしい」
ナチュラルの感受性を考えればアサルトフィールドをこんな大雑把には使うまい。屠殺場に寄ればハンバーガーは食べ辛くなる。
アメタペイストを退けるために使わざるを得なかったとしても、せめて二三被弾してからで、手遅れになる直前まで粘ったろう。
彼らは心の平静のために、何事につけ代償と口実を必要とする。頬打ちを食らえば、こちらも心置きなく胸を刺せるというものである。
ナチュラルという社会動物は今回のように短気に大量破壊兵器を用いるほど統制が取れてもモロンじみてもいない。
もしそうであったなら自然保護区のナチュラルはとうの昔に絶滅している。ポストはそう信じていた。
ロウ・ブレーンはテーブルに拳を叩き付けた。
「なぜ黙っていた。ウーティス」
彼は車椅子の老人を睨み付けた。
『教えていたとして、貴方は命じることが出来たでしょうか』
老人の口は動かなかったが、スピーカーの合成音声がロウの問いに答えた。
部屋のモニターには、072工業区から撤退する直前にヴェスタのカメラが捉えた光景が繰り返し流されている。
視覚不良やら何やらの口実を設けて、乗組員に伏せてあった映像である。
『私たちはこの先生きのこらなければならない。ヴェスタはDoll-Aの追撃から逃れねばならない。
そしてそのための唯一の手段はアサルトフィールド――天を焼き、夜中の夜明けをもたらし、毒を撒き散らす光。
この武器を、果たして貴方は有効に扱えたでしょうか』
「有効に、だと? 万単位の人間を殺すことがか」
『ええそうです。最優先事項を優先する。これほど当然のことはありません。しかし当然のことが出来ないのがナチュラルでもありましょう。
アサルトフィールドの正しい情報が貴方に与えられていたと仮定した場合、我々の生存確率は良くて三割。
貴方は必ず躊躇する。貴方はDoll-Aを前にして決断できない。仲間を失ってもまだ、貴方の良心、殺戮への恐怖が邪魔をする。
ヴェスタが傷つき、死との距離が縮まり、自分が生死の境にいる実感を得てようやく貴方は武器をとることが出来る。
しかしそれが手遅れでないとは限らない。乗組員は貴方の独断のために死亡したかもしれないのです』
ロウは自分の心の働きをウーティスに断言されたことが腹立たしかった。自分が彼に良心の疚しさを肩代わりしてもらっていることは尚腹立たしかった。
ウーティスが人間味のない確率を持ち出したのは憎悪の的とならんがためであろう。頭の冷静な部分で、ロウはそんなふうに解釈した。
「この件は私以外」
『知らせていません、リーダー』
「そのままで頼む」
ロウは目を瞑って、暫く考えてからきっぱりとした口調で続けた。
「ウーティス、アサルトフィールドはもう二度と使わないようにしてくれ。たとえ私から、使えと命じるときでもだ」
『どうしてですか』
「ボタン一つで何万人もの命を左右できたら、我々はきっとおかしくなる」
『ナチュラルの学問はそういう兵器をこそ作ろうとしているのに?』
「彼らが間違っているとは私には断言できない。だが、今の我々はあまりに幼い。自分が何をしているのかわからないまま、取り返しのつかないことをしてしまうかも知れない」
『再び使わねばならぬときが来たら? 貴方のその身勝手で幼稚な考えのために、仲間を、私たちをも巻き添えにするつもりなのですか』
「それでも俺はナチュラルの、人間の尊厳を守るよ」
『夢を諦めるとしても?』
「絶対に必要な人間なんていないんだ。宇宙(そら)を欲しがる馬鹿は俺たちだけじゃない」
ロウは席を立った。彼の去り際にウーティスは、
『今の言葉を、忘れないでいてください』
と言った。
ロウがいなくなってから少しして、洗面器を持ったクリトン・キーンが部屋に入って来た。
彼は老人の服を肌蹴さすと、濡れタオルで老人の体を拭き始めた。
「ロウ・ブレーンは指導者に向いてませんよ。彼には性格の強さというものが欠けています。良心に餌をやるのが実に下手だ。
扇動者たるもの、特別に懸命でも特別に善良でもなくていいのですが、懸命さと善良さの点で卓越していると思わせる何かを持たねばなりません。
要するに確固たる信念と呼ばれ得るような自己崇拝ですね。見解の狭さともいえましょうか。彼にはそれが無い。若すぎるんです。
もすこし老ければ使えるようにもなりましょうが、今はまだまだキャラクター性と大衆性が足りない。
そのくせピカドン・アタック禁止条約については、はっきり約束を取り付けないまま行ってしまった。
たぶん自覚は無いでしょうがね、彼、やっぱり逃げ道は忘れてないんですよ。
極めて詩人ぶった物言いをしつつも、助け舟は残しておくほどに実際的です。
まあその点は評価できなくもありませんが、私なんぞに看破されるようじゃなおさら迂闊で残念――」
『盗聴はともかく陰口は感心できません』
クリトンは老人の口の端から垂れている涎を拭った。さらさらして粘り気のない涎であった。
「機会があれば当人にも言うつもりです。目の前で叩かなきゃ面白くないでしょう?」
言いながら老人の耳たぶの裏を強く擦った。耳の穴や頭部の端子から出ているチューブに触れぬよう気をつけて、焦らずゆったりした手並みである。
「DAの件ですが」
『ガンダムドルダ、ですよ』
「失礼。ガンダムドルダですが、やはり主人公を欲しがってます」
『わかってはいました』
「三つ子の魂百以上というわけではありませんが、どうしてもナチュラルを受け付けません。
乳離れが出来ていないんです。ナギさんなんかはエランバイタルも高いので気に入ると思ったんですけれど」
『何なら貴方が乗ってみては』
「ひどいご冗談。だいいちとうに毛嫌いされてます。コーディネイター臭が消えちゃってるんでしょうね。それに」
クリトンは右手を挙げた。服は肘までまくってあったが、右腕自体は肘から上も黒い手袋で覆われていた。
「恋人が不在ですので」
『バッシュ・ビッシュの性格がうつりましたか』
「ウーティスこそ」
クリトンは老人のズボンを脱がしながら、含み笑いをして見せた。
『賽は投げられた、とでも言えばよろしいので』
「大罪人の気つけですね。ナチュラル的だ。極めてナチュラル的だ」
クリトンはため息を吐いて、老人の下半身を拭きにかかった。
アランが廊下を歩いていると、一人の少女が後ろから駆け寄って来て腕に抱きついた。
「アラン、セックスしよっ」
アランはいきなりのことで少し戸惑ったが、腕に感ずる柔らかな圧迫感と鼻をくすぐる香水の匂いに覚えがあって、すぐさま心を和ました。
「や、セーレ。今日も元気そうだね」
クラスメイトのセーレ・ヴィッチメイクはアランの顔を覗き込むように顔を傾けて、にぱっ、と愛らしい笑みを浮かべた。リボンで左右に纏めた桃色の髪が揺れた。
「おはよっ、アラン」
背後で陰気な顔をして歩いているハスハなんかとは違って、セーレは魅力的な少女であった。
彼女は異性に人気があった。アランを含めたクラスの少年たちの殆どは彼女と仲良ししたことがある。
学業の面でも肉体の面でも非の打ち所がないといわれている優等生である。
彼女と同じく優良児であるアランの目から見るとえくぼが目立ち過ぎるように思われたけれども、
皆が皆口を揃えて彼女を可愛いと賞賛するのであるから、アランのそれは単なる個人的で気まぐれな好みに過ぎず、本当は理想の見た目なのであろう。
ともかく、えくぼの不満さえ思い起こさなければ交遊して最も楽しい時を過ごせる相手の一人であった。
実際、アランはセーレと今までに十一回男女の交際をしていた。十二回目の今回は付き合い出して三日である。
アランは先ほどの申し出を受けて予定を立てた。
「じゃあ放課後でいいかな」
「うんっ」
セーレは元気良く言うと、アランの腕をぎゅっと抱き寄せた。
もはや慣れ切った触れ合いであるが、やはり気持ちの良いものは気持ち良い。アランはつい頬を緩めた。
「セーレ・ヴィッチメイク、おはよう」
ハスハが愛想を込めずに横合いから挨拶した。いつの間にか前に出て横並びになっていたらしい。
「あれっ、ハスハもいたんだ。おハロー。素敵な朝ね」
「そうね」
セーレにはハスハの表情はいつもと変わりなく見えたろう。
ハスハと付き合いの長いアランはというと、少女の瞳にあまり好意的でない色がほのめいたのを感じた。
ハスハは自分のいるのに気付かれなかったことを、不快に感じたかもしれない。
セーレはハスハのよからぬ感情を察する気配を見せず、アランの腕を引きながらハスハに声をかけた。
「ハスハも早く教室いこっ。授業始まっちゃう」
「ええ」
アランはセーレに引っ張られて駆け足になりながら、顔を振向けてハスハを見た。ハスハは急ぐでもなくとぼとぼ歩いていた。
彼女の機嫌が直っていないのは確実であった。そして自分がそういうふうな洞察をしてしまうこと自体が、なんだか疚しいことのように思われた。
〈他人の思惑を気にするなんて……良くない徴候だ〉
アランはセーレの顔を見た。ほのかに赤らみ、心底幸せそうに輝いて見えた。
セーレ・ヴィッチメイクはこれから先ずっと、五十歳という解体年齢を迎えるまで、今と同じように笑い、楽しみ、幸せに生きて行くことであろう。
そうしてそれは彼女と同じく優良なコーディネイターのアラン・イディットについても当てはまる。
〈そうさ。僕はこっち側の人間だとも。幸せな、充実した人間なんだ。ハスハみたいな劣等生とは違う〉
「ちょ、まっ、そんなに急がないでよ」
「だらしないわねぇ、ほらっ」
「危ないって」
腕を組んだ二人三脚の体勢を手繋ぎの形に変えて、セーレはとうとう走り出した。
アランはセーレがふざけたために、教室に着くまでに三体の清掃モロンを蹴飛ばした。
おかげでおろしたての靴が傷んでしまった。その上不運にも一度顔を蹴ったらしく、唾液すら付いていた。
アランに声をかける者があった。
「チョリーッス!」
「また食べ物の話かい。卑しいよ、エセク」
エセク・スカンティという隣席の少年である。
「むしゃぶりついた瞬間、口内に広がるスパイシーな風味。舌に絡みつくような、凝縮された脂の旨み。
特にベビーモロンを贅沢に使ったそれはまさしく味の尿石箱……ってちげーよオイ! チョリソじゃねーっての。っとにもう、わかんねーやつだなアランさんは」
エセクは、あちこちを整髪料で尖らせた緑色の髪を振り回して、一人で騒ぎ出した。
彼は珍しい情緒の持ち主であった。正常なコーディネイターを自負するアランにしてみれば、真面目に相手をすることは都合が良くなかった。
「僕は君の頭の具合がわからないよ」
「チョリッスよ、チョリーッス。挨拶っスよ挨拶。知らねぇの? これマジで流行ってんだぜマジで。ちょーマジ」
聞いた事もない挨拶である。世間は彼のいうほど反理性的ではあるまい。
「どこで。君の脳の中?」
「そうよ! もう一人の俺、ジョンもスミスも狂も影羅も、みーんな言ってんぜ!」
十四という年頃は難しいものである。大人と子供の境目で、酷く不安定な時期にあたる。
ハスハがいい例である。彼女はこの頃いよいよ接し難くなった。
エセク・スカンティはこの日も左腕に包帯を巻いていた。彼の言うところによれば、その包帯の中に第三の目が付いているらしい。
目玉が三つあるなら空間把握もさぞ精妙に果たせるに違いないが、アランは余計な詮索をして困らせようとは思わなかった。
如何に不快でも会話をせざるを得ない以上、友人は友人である。万人は万人のために、という道徳にアランは忠実であろうと努めていた。
ほとんどエセク一人がまくし立てるような談話にエセクの方が飽き出す頃合になって、白衣姿のモロンが教室に入って来た。
合計三十体で、教室にいる生徒たちと同じ数である。
「先生がおいでなすった」
「止しなよ。そんな言い方」
正しくは整備用モロンである。エセクには擬人化したあだ名をモロンにつけるという芳しくない奇癖があった。
そもそも先生というのは授業で習わなければ覚えない死語である。使い方にしたってよろしくない。
その敬称めいた語をモロンに用いるのは不当である。モロンはコーディネイターがいるからこそ存在が許されるのである。
整備用モロンは生徒全員に行き渡ると、一斉に「直立! 礼!」と叫んで頭を下げた。腰の角度はモロン共通規格の四十五度である。
「授業を! 開始させていただきます!」
モロンがそう合唱するとリクライニングシートが変形して、そこに座る生徒たちの手足を拘束装置で固定した。
ゴーグル型の端末を生徒の額に据え付けながら、モロンたちはてんでんに音声を発した。
「かゆいところは! ござりませんか!」
「股」
エセクが冗談めかして言った。幼年組ならともかく成人目前の学生がする要求ではない。モロンは愚直にも彼の命令に従った。
横から聞こえるエセクの鼻声にアランはいやな気持ちがしたが、鉄製のカーテンが下りてきて視界を覆ってしまうとすぐに忘れた。スメッグに似た香りを嗅いだからである。
「『VIRTUAL BOY』、起動!」
頭がぼんやりになったアランは、モロンの指示に従って自我を機械装置に委ねた。
窓から差し込む朝の光、枕元のスピーカーが流す流行歌、血の巡りを良くするべく躍動するマッサージベッド、これら全てがアランを祝福していた。
けれども一番槍でアランを覚醒させる役目を果たしたのは、寝室に充満した香であった。
ベッドの脇には新製品のスメッグ散布装置が置かれている。
それから発せられる香りが脳神経の一部を覚醒させ、また別の一部を麻痺させてアランを素晴らしい気持ちに浸らせるのである。
起き抜けの恍惚状態にあるアランはひどく幸福であった。何もかも美しかった。
普段ならベッドの執拗なマッサージ機能を鬱陶しく感じることもあるけれども、今はそれすらも愛おしい。
アランは片言ながら自然とスピーカーに合わせて流行歌を口ずさんだ。
色恋の歌で濫用される『君』という対称代名詞ですら現実の舌に甘味を感じさせた。
スメッグ濃度三倍、スカッと爽やかの謳い文句は伊達ではなかった。
ストロベリーのフレーバーも実に具合の良いもので、以前使っていたバーベキュー風味のように胸焼けと脳焼けに悩まされることもなかった。
この日の朝食はピッツァとフライドポテトとスメッグコーラであった。
アランの寝ている間に、小間使いモロンが用意したものである。
アランからしてみればひどく質素で大味の食物であったが、彼は成人前の学生であるので我慢するほかはない。
スクールを卒業して成人すれば、こんな不味い食事を強制されることもないのである。
スクールに通わねばならぬことと出費を極度に制限されることとは、未成年コーディネイターに課せられる義務である。
彼が十五歳に達する一年後には今のように一人で食事をすることも無くなるであろう。
一人はたいへん心細いが、こうして今のうちに孤独を嫌うべく鍛錬しておかなければコーディネイター社会の不適合者になりかねないのであるから、これはある種の必要悪である。
前途有望なアラン・イディットという少年は、そのことを洞察し理解し、また納得もしていた。
アランは朝食をとりながらニュースを見た。昨日、第072工業区で爆破解体が行われたそうである。
そこに新たなMS用レジャー施設を建造するらしかった。確かにそれなりのレジャー施設を作るには結構な面積が必要であろう。
このキーウィタースでMSスポーツは贅沢な娯楽の部類に入る。MSを停める駐機場やMS用テニスコート、MS用ゴルフ場などの整備で相当の手間がかかるに違いない。
こうした突然の爆破解体という物騒なニュースを見るのは初めてのことであったが、アランは己の若さと無経験とを思い、こんなふうにさりげなしに流されるのであるからそう珍しいことでもなかろうということで納得した。
アランは朝食、入浴、化粧、といった登校の身支度をたっぷり二時間かけて済ましてアパートメントを出た。
アランの部屋の自動扉が閉まったのとほぼ同時に、隣室のハスハ・イディットが部屋を出てきた。
「おはよう、アラン」
「偶然だね。一緒に行こうか」
アランと同じ銀の髪色をした少女は小さく頷いた。
町はすっかり目覚めていた。道路にはMSが闊歩し、建物の各所に配置されたスピーカーからは快い流行歌が大音量で流れている。
アランはタクシーの天井窓越しに空を見上げた。大気は澄み渡って機械部品の天蓋をありありと見せ付けていた。
アランはこの空を好いていた。頼もしい機械装置に守られていると実感できるからである。今日もいい日だ、とアランは思った。
『一日二回のセックスは健康の基本! さあ皆、セックスだ! セックスをしよう!』
市街地の大型空中モニターには、健康推進週間のマスコットキャラクター、ミスター・マラディックが大写しに映し出されていた。
CGで構成された架空の人物である彼は、比喩の思案に投げ首した描写によれば男臭いと呼ばれるような笑顔を見せて、絵の具のように真っ白い歯を光らせた。
無論、この光もうそ臭い合成映像である。
『私は十二回以上している。おかげで見も心もこんなに健康さ!』
筋骨隆々たる体躯を躍らせて、彼は己が肉体の健全さを喧伝する。腰の動きがやたらに生々しいのが憎らしい。
大胸筋が瑞々しく震えて汗の飛沫が煌めいた。
『レッツセックス! セックス、セックス、セックスセックスセクロス! エス、イー、エーックス! エス、イー――』途中の言い間違いはこしらえものの愛嬌である。
アランは携帯端末を取り出して予測スケジュールを見た。放課後にシアターへ行った後、二時間ほどの空きがあった。
アランはクラスの女子を幾人か物色して頭の中であたりを付けてみた。結構な人数が該当してアランは安心した。
もしもマラディック氏のスローガンに副えなかったなら、落ち着かない気持ちになりそうであったからである。
『皆さんの笑顔の源、それは、キット・カッツ……』
別な空中モニターが、新製品のチョコレートバーのコマーシャルを流している。
コーディネイターに酷似した無数のコマーシャル・モロンが一斉にチョコレートバーを懐から取り出して、それを頬張った途端、恰もこの世では到底浮かべられそうにないような無上の笑顔を浮かべた。
実際に咀嚼しているのか怪しいものではあるが、口腔に接触した時点でもはや十全の満足を覚えるほどに美味であるという解釈も出来なくはない。
『スメッグエキス配合! キット・カッツは、あなたの幸福なひと時を提供します』
「スクールの売店に置いてあるかな」
「ものを食べるときあんな顔はしないわ」
と、隣席のハスハが水を差した。アランは少し咎めるような口調で言った。
「美味しそうなんだからかまわないじゃないか」
「そう」
とだけ返事をして、ハスハは頬杖を付き直した。彼女はぼんやりと開いた目で、つまらなげに町の光景を見るともなく見ていた。
人々はスメッグを服用するとしばしばそんなふうな目つきになる。楽しい幻覚と戯れる最中は外界を知覚する必要を無くするからである。
然るにこのハスハという少女は素面であった。アランは彼女がスメッグを使うのを見たことがない。
口にこそ出さないけれども、人を幸福な気持ちにするこの有用な薬物を毛嫌いしているきらいがある。
以前に交際していたときもアランが錠剤を薦めるのを断り、それどころかアランの携帯する錠剤をみんな取り上げてごみ箱に押し込んでしまった。
やるべき遊び事が無くなった折である。寝床に行くには気分が乗らず、シアターなどの娯楽施設へ行くには懐が寂しい。
残ったのはスメッグで脳髄を朗らかにして楽しく談笑することであった。しかしそれすらも奪われた。
アランは時間の観念を認識するにつけ、いたく苦しい思いをした。コーディネイターにとって退屈は何よりも恐るべきものである。
アランが憂いて死ぬるばかりの苦しみに苛まれている最中、残酷なハスハはというと、寧ろ上機嫌で、彼女には珍しく饒舌ですらあった。
アランがこの面倒な少女との純粋な異性交遊を止したのはそれから三日後のことである。
カラオケに誘えば「時間とお小遣いで恥を買いに行くようなものだから」と拒絶し、シアターに行こうと言うと「あんなの、暇つぶしどころか頭つぶしよ」というわけのわからないことをのたまって応じない。
漸くのことで説得して連れ出しても彼女は鬱々として楽しまず、アランまでもが嫌な気持ちにさせられる。
自然の行為の現場においてもそうであった。
暗闇にほの白く浮かぶ彼女の肌は、ややもすると別の少女らのそれと真逆に、ぞっとした印象を与えるのである。
彼女に独特の押し殺した息遣いや、香水の染み込んでいない生の肌の匂いばかりがその原因とは思われない。
如何なる見当をつけるにせよ、ともかく事を終えるたびにアランは得体のしれない、後ろめたい気持ちを味わうのである。
こうしたもろもろの不愉快事が重なった結果に交際関係を更新するというのであるから、
コーディネイター間で通用している倫理に照らし合わせてみても不誠実やら契約不履行やらとは言われまい。
寧ろその選択は非常に倫理的でさえある。ハスハの完全な同意が得られなくとも、アランには権利を行使する義務があるのである。
〈顔は、顔だけはいいんだが〉とハスハの横顔をのぞき見ながらアランは思った。
ほつれた銀髪と細やかな産毛は、日光に照らされてほのかな輝きを帯びていた。
タクシーがトンネルを潜る最中、頭上に空中モニターが展開された。
何かがトンネルを通るたびごとに決まってコマーシャルが流れるようになっているのである。
人形が万歳をしたロゴマークはMS販売会社のものであった。
『指先ひとつでハッピーに! あの名機COS-Dが、話題のハッピーパックを搭載してリメイク!
定評のあるコーヒーメーカーとマッサージシートはもちろん、エスプレッソマシーン、無重力回転ベッド、
今話題の全天周囲ミラーといった最新システムも、なんとボタン一つで一切合財万事がOK!
お手間は一切かかりません! ボタン一つ、指の一押しがあなたのMSライフをより快適に、よりハッピーに変革します!
フレキシブルな関節機構も健在! フットボールOSもヴァージョンアップ! 軽快で洗練された挙動が、あなたを魅了します。
ハッピーハッピーイェーイ! ハッピーハッピーイェーイ! そう……あなたはボタンを押せばそれでいい』
「ひっどいCM。こんなのに引っ掛かるのは懐古趣味の年増連中だけだね」
色を変えただけの旧式MSと新型の装備とを抱き合わせで売るのはこのMSメーカーの常套手段である。
冗長な口上でうんざりさせるのも通例である。対するに新型MSのコマーシャルは簡潔明瞭で、強要感抜きに購買欲をそそってくる。
在庫処理が目的なくせに下手な仕方でやるもんだ、こいつの広報担当モロンは性能が低いに違いない、そうアランは推測していた。
「そうね。あなたの言う通り、誰も引っ掛からない。誰も古いものを欲しがらない」
ハスハは独白じみた口ぶりで面白みの無い見解を述べた。
「あたりまえだろう」
アランが言い返すと、ハスハはアランの目を暫く見つめた後、黙って俯いてしまった。何やら考え込んでいるのである。
これは彼女の良くない癖であった。突然どうでもいいことを言ったかと思えば、訴えるような仕草を見せて、アランが応じないでいると自分の中に閉じこもってしまう。
活動せずに一人で物思いに耽ることは、不道徳な行いである。コーディネイターは常に楽しんでいなければいけない。
これは施設で誕生して物心付くまでに、常時言い聞かされて来た道徳律の一つである。
〈なに考えてんだか〉アランはハスハに関する思考を打ち遣って、携帯端末を弄り出した。
彼女に引き摺られてこちらまで罪を犯してはたまらない。様々な楽しみで埋まったスケジュール表を眺めてアランは顔を綻ばせた。
苦悩を感ずる暇のないこと、多忙であり続けることは徳である。アラン・イディットは模範的なコーディネイターであった。
その銅版画には、奇妙な戦士が描かれていた。
顔の皺やら肌の張り具合から察するに、年の頃は三十台中盤の所謂男盛りであろう。
V字型の角飾りの付いた兜を被り、目の下から鼻にかけては隈取をしたように真っ黒く染まっている。
それが刺青なのか化粧なのかは定かではない。口はへの字に引き締められ、硬そうな顎鬚の塊がその下に付いている。
聴覚を妨げないために、兜の両脇には無数の四角い穴が縦列に空けられている。
甲冑は体の殆どを覆っているが、どういう魂胆があってかふくらはぎとわき腹の部分が丸出しにされている。
十字架の飾りが付いた左手の盾は大ぶりで取り回しに優れないであろうが、欄外の注釈には、この盾は我が子の棺の蓋である、というようなことが書き入れてある。
武器はといえば、弓矢と二本の剣である。弓は右手にあり、剣は背中に差しているのであろう、二本の柄が突き出ている。
それぞれ光の弓矢、光の剣という注釈が付いている。
この戦士の物語が書かれた当時の文章そのものは虫食いだらけで判別が付かなくなっているけれども、銅版画の表題らしき大文字はどうにか読み取れる。
現代語に訳せば、『自由の戦士ガンダム』というそうである。
画面が切り替わり、別の銅版画が映し出される。表題は『遍歴の老郷士ガンダム』である。
先の自由戦士殿の恰好と意匠が似ているが、こちらはかなりみすぼらしい感じがある。
身を守るための甲冑は紙細工のように薄っぺらく、全体として板を継ぎ接ぎしたような印象である。
手には貝殻のような盾と白色の石弓をそれぞれ携えている。剣の柄は見当たらない。
前のガンダム氏とは違い、兜の角の代わりに立派過ぎるほど立派な口ひげを生やしている。
この貧しい老人は資金難で武具一式を揃えられなかったのかもしれない。へそから下の部分が殆ど裸である。
別な宗教による倫理的迫害の痕跡が、黒インキの上塗りとして残っている。
『少年闘士ガンダム』の銅版画に切り替わる。ガンダム氏、ガンダム老に比べると顔立ちは格段に幼いが、それを補って余りあるほどに逞しい体つきをしている。
兜の角は二対で、その真ん中にはひどく大きな宝石の飾りが付いている。
両腕に鉄板のような盾をくくりつけ、そのうえ強弓を手にしてさえいる。
背中に差してある柄も丸太じみた太さであるが、少年の腕力ならば支障なく扱えそうである。
美男子のガンダム、りりしい女騎士のガンダム、着膨れしたガンダム、上半身とはらわたと下半身の三つに切断されたガンダムの遺骸、
半人半獣のガンダム、無闇に大きいガンダム、と各々特徴を持ったガンダムたちの銅版画が順々に表示されていく。
わかり良い共通点といえば、目の隈取とV字の角くらいである。
聴講者たちが白黒の銅版画に飽きてくる頃合になってようやく色鮮やかな絵画の出番が来る。
『天使ガンダム』と表題されたいわば宗教画の類である。
翼を持つガンダムと、そのガンダムに蹂躙される一つ目の巨人たちが描かれている。
無数の宗教画が挙げられたが、いずれもその二つの人種を題材にしているようである。
中にはガンダムと一つ目の巨人たちが手を取り合って協力し、異形の怪物に立ち向かっているのもある。
次に無数の石像の写真が映し出された。出土品らしいそれらはところどころが欠けているが、さほど空想力を働かせなくともその全貌を眼下に描き出すには充分に良好な保存状態の品である。
それらは前に挙げた銅版画や宗教画とは異なり、写実的な人間の像ではなかった。
原始的な宗教儀式で使われたり奔放な芸術活動で作られたりする類の、何かを象徴する極めて異様な人形であった。
審美眼の鍛えられていない人々からしてみると一時の興味を覚えさせこそするけれども、全体像をあらかた把握してしまえば貴重な時間を無駄にしてまで観察する価値は見出せられない。
鎧武者としてのガンダムの面影を見止めるだけでもう結構である。この映像を流す講師はそれを承知していたのであろう。
銅版画のときより短い時間を割くに留め、手早く出土品の年代を遡って行く。
石像が陶器人形に代わった。幾人かの聴講者が首をひねった。
それから青銅製の人形になり、金銀細工の繊細な人形が映し出されたとき、聴講者たちはいたく驚嘆した。
年代を遡るごとに人形の精巧さが増して行くのである。
加えて、これらの彫刻品及び手工細工の題材にしていると思われたガンダムなる二足動物の種とは、聊か別の方面に傾いた題材の特徴が目立ち始めたからである。
第二芸術から玩具じみた造型に移り、終わりごろにはとうとう工業製品に立ち至った。
貴金属と宝石を材料に製造された技術的にも金銭的にも卓越した一体の人形は、現代の自称考古学者によって『モビルスーツ・ガンダム』という表題が付けられている。
「古典芸術の研究はさておき、だ」
格納庫に張られたスクリーンから白いMSに目を移して、バッシュ・ビッシュは顎をしゃくった。
「肝心の角が折れてるぞ」
メンテナンスベッドに寝かされたMSの角は確かに片側が欠けていた。本来V字型であったのが所謂ペケの字になってしまっている。
よくよく見れば頭部の損傷以外にも、背中の突起やら肩の先やら、もろそうな箇所があちこち欠損していた。
「たしかに、あんな乱暴に引き摺ってくるのはどうかと思う」
コンティ・ネイブリットが相槌を打った。パートナーにまで同意されては、ナギ・ヴァニミィは穏やかでない。
「うっさい! 急いでたんだから仕方ないじゃない!」
「なあコンティ、家庭内暴力に気ぃ付けような。この獰猛な女は子供にまで暴行を加えかねん。倅が自閉症になったらちゃんと言え。相談に乗るぜ、有償で」
「安心しなよ、コンティ。ボクはオールラウンダーさ」
バッシュの言葉に便乗して、ジョウ・ハーテンが話に加わった。
ジョウはいやに機敏な動作でコンティの背後に回ると、彼の肩に手を置き、耳元に唇を寄せてひどく優しい声で囁いた。
揉み解すような手つきで撫で回された臀部から発せられた信号がコンティを総毛立たせる。
「あ、あたってるんだが」
「あててんのさ」
わき腹の後ろのあたりにいくばくかの弾性を具えた硬質の物体が押し当てられた。
中肉中背のコンティと大男であるジョウとの身長差からして妥当な位置である。
頬を撫でる吐息に寒暖計は適当な数値を示すであろうが、コンティ自身は冷たいものを感じたようである。
この現象によって心理状態の及ぼす知覚の変化が立証され得るかもしれない。
「この変態ども!」
二重の羞恥によってナギの耳が赤くなった。罵倒語が複数形なのはそのためである。
しかしバッシュとジョウは両人とも自身が正当でない評価を下されたと思ったらしい。
バッシュからしてみれば自分は極々普通のことを言ったに過ぎないという言い分が立つ。深読みするほうが猥雑なのである。
ジョウはというと、口説くのを邪魔されて興をそがれた様子であった。
「うるさい黙れ喋るな女」
敵性人種が反抗的な態度に出たことで、普段は緩められている眉間が引き締まり、ジョウの容貌が威嚇用のそれにすりかわる。
その顔立ちに似つかわしく盛り上がった筋肉は、一応の瞬発力はあるがやはり見栄え相応でもあるナギの細腕など容易にへし折るに違いない。
コンティの顔は青ざめている。男らしくありすぎてもジョウの前では困りものであるが、こんなふうに妙なところで優柔不断なのも方々に付け入る隙を与えるのである。
不快な類の推論というのは、驚嘆すべき速さで行われることが多い。
ナギの苛立ちはコンティの決断力の不足から、一足飛びにオペレーターの某少女やら、今はヴェスタに乗っていないメカニック担当の某女史やらに及んだ。
日ごろから彼女らに対してささやかな優越感を抱いていても、やはり腹立たしいものは腹立たしいのである。
ナギは手始めにバッシュに食って掛かることにした。それで勢いをつけてからコンティとジョウを相手取ろうという腹である。
ナチュラル解放戦線のリーダーであるロウ・ブレーンという青年は、幹部の四人が真面目な会議をうっちゃらかしてふざけ合っている光景を目にして、情けない気持ちに襲われた。
けれども手で額を覆ったりこめかみを揉んだりするといった大げさな身振りは彼には許されていなかった。
遠巻きに眺めて失笑している整備員たちに示しをつけるべく毅然たる態度を固持せねばならぬのである。
解放戦線の幹部たちはヴェスタの格納庫の一画、強奪したDollタイプMSの横たわる場所に集まっていた。
解放戦線の当面の方針と、この奇怪なDollタイプMSの処遇を相談するためである。
極めて重要な話し合いとはいうものの、先のMSパイロット四人はあの有様であった。
残った二人、割合真面目な人物であるケレン・カタリとクリトン・キーンですら、パイロット四人が遊び始めるや否やスクリーンの前で非実際的な事柄にかまけ出した。
ケレンとクリトンはガンダムの伝承に興味があるらしく、先ほど提示された美術品や英雄譚の歴史的価値を論じ合っている様子であった。
ナチュラル解放戦線なる武装結社は、その装備の有用性に比して不相応にも、未経験な年若い青年の寄り集まりに過ぎなかった。
ナチュラルの生活圏にある最大勢力、自然保護区自治政府が擁する軍隊や自警団のように適切な規律は設けられていない。
その理念はどうあれ、不良な青年の徒党というふうに見られても弁解の効かない類の組織である。
ロウはこうした事情を充分以上に承知してはいたが、それにしたってこの有様は酷すぎた。
解放戦線は管理局のDollタイプMSから這々の体で逃げ出して、ようやっと体制を立て直せる時間を得た。
そしてアサルトフィールドを使用したためにヴェスタのSEジェネレータは万全の状態ではないのである。
管理局の追撃から逃れられるかも分からない状況で、乗組員たちはそれぞれの仕事をこなしつつも、団結の意志や公共心というものをまるで見せなかった。
幹部たちにおいてはいっそう酷い。強奪作戦の開始前より大げさにふざけ回っているのである。
シヴォーフ・ラーグ、カマッセ・デッセ、デッド・ザコディスという三人の仲間を失ったにもかかわらずである。
彼らの不真面目はことさらに責め立てるべきものではありえないが、批判なしに褒められたものでもない。
ある種の反省は相応の益を与えず、負債として疲労ばかりが残るためにその後の判断に支障を来たす。
この点からしてみれば努めて陽気に振舞うことは有益といえるが、それが慣習となってしまったのなら道義的に芳しくない影響が生じて来る。
加えるに彼らは若く、見解を任意に加減する習性が完成していない。買い叩くのに慣れてしまった者が安売りしないとは限らないのである。
ロウはこのような考えから、公衆倫理の堕落を防ぐという手前勝手な口実を得た。
バッシュがうめき声を出した。ナギの爪先が股座に吸い込まれるのは咄嗟に庇った手のひらで防がれたが、力の伝達ばかりは如何ともしがたい。
ロウはバッシュのうるさ口が止んだのを見計らって幹部たちを叱責した。
「バッシュ、いいかげんナギで遊ぶのは止せ。コンティ、ナギを止めろ、それが君の義務だ。ナギはともかく落ち着け。
ジョウ、君の多情をベン・スパンキンスに報告されたいか」
ジョウは肩を竦め、ナギは押し黙った。バッシュは自分の腰をとんとん叩いている。無言でいるのは体をいたわるためであろう。
そうでなければ苦痛の余韻を堪えているのである。いずれにせよ彼という人物がロウの怒声に怯むことはありえない。
コンティはというと、彼はジョウから素早く距離をとって冷や汗を拭っていた。
「ケレン、クリトン、君らも大概にしろ。興味深いのには同意できなくもないが、今は我々自身の生きのこることが先決だ。
それからウーティス、貴方ともあろう人が何をしている。さっさと本題に入ってくれ」
と、最後はスクリーンに向けて言った。
ウーティスと呼ばれた布のスクリーンは、無数に表示していた古美術品のサブウインドウをそそくさと閉じて、脇のスピーカーから『面目ありません』という合成音声を発して謝罪した。
「このDoll-DAというDollタイプがガンダムに類似しているのはさて置くとしてだ、結局のところ、我々に運用出来るのか」
『アームレイカー等の構造はCOSタイプと同規格ですが、マニュアルを見たところ――』
とウーティスが言いかけたときにナギが口を挟んだ。
「マニュアルなんてあったの?」
「なきゃ困るだろうが」
ナギの疑問顔をバッシュが鼻で笑った。彼女の顔つきに再び悶着を立ち上げる気配が見えかかる。
「しばらくは二人とも喋らないでくれ。ウーティス、続きを」
『マニュアルを見たところ、SEフィールド制御に並行する操作系が極めて不鮮明であるように思われます』
あいまいな物言いである。
「どういうことだ」
「要するに、です」
ウーティスとともにDoll-DAの解析作業を行ったクリトン・キーンが取り次いだ。
「ひどく不親切なんです、そのマニュアルというのが。
腕を振る、足を動かす、SEフィールドで斥力を発生させるといった基本動作のみ、それも同時ではなく単独で行う仕方しか載っていないのです。
OSを見てみると、用途不明のプログラムで容量の殆どが占められているのがわかりました。
ヴェスタのそれと照らし合わせてみましたが、SEフィールド制御とも無関係なプログラムばかりです。
現実的な用途についてはからっきし、必要の無いことで穴埋めしている点に於いては昨今のレジャーMSに引けをとりませんね。
SEフィールドを抜きにしてマニュアル通りの運用をするならば、せいぜい極めて硬いティハターンといった按配でしょう。
ソフト面については以上です」
そうは言いながらも嬉々としたクリトンの様子を見るに、シヴォーフたちは無闇に命を散らせたわけでもなさそうである。
コーディネイターであるクリトン・キーンという人物は、遠まわしな話し方を好んでいる。
「Doll-DAという機体コードから、どのようなことが連想されますか」
「Doll-A、アメタペイストのハッテン型ってところかい」
クリトンの問いにジョウが応じた。
「それにしちゃあ、見た目が全然違ってる。Aは胸糞悪い恰好をしてやがるがね、DA君は、いい。実にいい。素晴らしい。最高だ」
Doll-AとDoll-DAとは同じく人型MSであるが、前者は女性型であるのに対し、後者は男性的な体つきをしている。
肉感を損ねるスカートなどの付属物はなく、筋肉を模したらしい装甲が全身に折り重なっている。ジョウがため息を漏らしたのも尤もである。
『ハーテンさんの見方には多少芳しくないものが感じられますけれども、アメタペイストの発展型というのは正解です。
しかしこれは各部の構造についていうのではありません。純粋な性能面での話です』
「それで」
ロウは幾分か苛立った口調で尋ねた。ウーティスもコーディネイターであるが故に話の運びが冗漫である。
そもそもコーディネイターという人種は、はっきり要点のみを述べることを嫌う傾向があるともいえる。
「解析が甚だ不十分ですので細かい点は省きますが、
現状、即ち初期状態、生まれたまま、素の、なまの、その装甲が恰も赤子のように繊細な柔肌であり、
つまりですね、生娘、否、生息子ともいえる純情可憐で一切の穢れを帯びていないこの状態においても、
Doll-DAのSEフィールドの出力はですね、いいですか?
なんと、アメタペイストの五倍以上はあると推定され得るのです!
ソフト面の問題が解消されればベンセレム最強のMSといっても過言ではありません!
そうしてそれに加えて自己進化自己再生自己増殖自己抑制の四大根本機能が極めて有機的に極めて正常に作用すれば――」
「で、使えんのか」
バッシュがクリトンの言葉を遮った。クリトンは物足りない顔をした。
「あ、ええ、はい。当面はディズンの基本OSとヴェスタの稼動データを元に代替品を作っておりますので、それを使います。
実践テストをするまでは断言しかねますが、理論上は充分にアメタペイストと渡り合えるでしょう。たぶん」
クリトンの言い分にはかなり不安な点があるが、管理局に対抗する手段を解放戦線が得たということは間違いない。
「しかし、それなら先ほど垂れたガンダムの講釈に何の意義がある」
この状況で、遊んでいる暇は無いのである。
『命名のご参考になればと思いまして』
「は?」
ロウの質問にウーティスの的外れな言葉が返ってきた。
『歴代のガンダムの名称は、何々ガンダム、ガンダム何々という形式になっています』
ケレンが頷いた。
「なるほど、象徴としての意味合いでガンダムを採用するのは悪くない。Dollタイプは悪名が高すぎるからね」
「ガン、ガン、ガン……何だい?」
単純な名前を散々聞かされたというのに、ジョウは覚えられないでいる様子を見せた。
ケレンは妙な目つきでジョウを見てから、すぐに元の顔をして言った。
「ガンダムだよ、ジョウ・ハーテン。ガンダミズムって言葉くらい、君も良く知ってるだろう」
「そうそう、ガンンッダムね。アニキガンダムとガンダムマッソゥ、どっちも捨てがたい」
「止めとけ、補充要員募集で男が寄り付かなくなる。誰だって清らかでいたいんだ」とバッシュが指摘した。
「こんな変態MS、どるだで充分よ、どるだで」
「どるだ?」
ナギがいきなり口にした響きの良くない単語を聞いて、コンティは怪訝な顔をした。
「見たまんまでしょ」
機体の肩に書いてあるDoll-DAという文字をナギが指差した。
「ほら、ど・る・だ。そうでしょ?」
『ガンダムドルダ、或いはドルダガンダムとなるでしょうか』
「ガンダムドルダ、なかなか恰好良い名前ですね。ドルダ、ドルダ、ドルドルダ、ふむ、極めて美しい響きです」
「コーディネイターどものおセンスは相変わらずおイカれになっていらっしゃる」
「ドルダってなんだかドリルっぽいねぇ。ドリルはいい。穴を掘るのは雄のロマンだもの。そうは思わないかい、コンティ・ネイブリット君」
「お、俺に近寄るな! 手を伸ばすな肩を掴むな尻を揉むな首筋に息を吹きかけるな!」
「ちょっと、コンティにちょっかいかけんじゃないわよ!」
ロウは頭を抱えた。
あたりは薄暗かった。特定の高度に敷き並べてある黒雲が、天蓋から発せられる光を弱めているのである。
黒雲の上の天蓋は日常通りの職務に勤しんで、明るすぎず暗すぎない白夜を再現し、エネルギー資源を惜しむべくひたすら神経を酷使している。
上役の指示は数時間も前に届け出されていたはずあるが、即座に新たな命令を遂行するに彼は鈍重に過ぎた。
たしかにこれほどの図体に張りめぐった神経にくまなく気を配るのは困難に違いない。
彼が己の徒労に気が付いて、上司の喚き声を思い出して慌てる頃には黒雲自体消え去っている。
けれども全自動化してある彼が叱られることはないであろう。彼が無事であるために寧ろ褒められるかもしれない。
九死に一生を得た悪童が功績も無しに賞賛されることと同様である。
事実、彼以外のものたちの被った負債は彼の失態を誤魔化してあまりあった。
これまでは町という生産道具を長持ちさせるべく時たま降らす雨で地を潤していたのが、こうなった今では全て無益な骨折りになってしまった。
もし会計士がいたのなら、忌々しくってたまらなかったろう。
幾千人、幾万人とも知れない人々が瓦礫の間にひしめいている。
急ごしらえの歩道が渓流のように曲がりくねっているのを見るに、押し寄せているといったほうが良いかもしれない。
それぞれの先頭には防護服を着た者が立ち、具合の良い足場を探り当てながら人々を導いている。
彼ら先導者がいるおかげで群衆は憂いなく前へ歩んでいける。最後部では銃火器を手にした屈強漢らが、脱落者が出ないか目を光らしてくれてもいる。
遠目に見る限りで群衆は三つに大別できた。
歩みを止めることなく速やかに進んでいく人々、個々の反応がのろく、渋滞しながらゆっくり行進する人々、殆ど手さぐりで足を運ぶ人々である。
それぞれの姿形は近寄って見なければわからないが、日ごろの彼らの働きぶりを思えば、動作で似通っているなら見た目も似通っていることであろう。
ポスト・フェストゥムの便乗する輸送機が072工業区に降り立ったときには、雲行き怪しく雨の降る気配が見え始めていた。
クラゲ型の雲を観賞するには来るのが遅すぎたようである。以前文献で見た通りに、天空高くに茸の傘が咲き開くという風光明媚を期待していたポストは聊か興ざめがした。
けれども天は地上の生き物の事情に関与せず、その逆もまた同様である。
空が快方の兆しを見せても尚、泥から生まれたものたちの疾病は改まる様子を見せない。
嵐はなるほど暴君の如くに違いあるまいが、二本足の畜群の気まぐれに比べればおとなしいものである。
一方は季節が巡れば全快し、もう一方はその数十倍かの輪転を経ねばならない。
空やら山やら海やらの自然の光景を打ち眺めて感歎し、
僕らはなんてちっぽけなんだと拙い詩を綴るのは、己の姿を見まいとする意志の表れか、さもなければ自分が主観であることを忘れるせいであろう。
ポストは防護服を着ながら、心中でそんなような意味のことを呟いた。
全身を覆う防護服ではそれぞれ容姿の区別が付き難くなる。
コーディネイターがモロンと見間違われるのは問題となるが故に、ポストの防護服は彼専用の特注品であった。
あまりに手数がかけられているために、それは防護服というよりも人間大のMSに近かった。
各所に配置された電磁式マッサージが血行を良くし、空調は任意に変更可能なハーブの香を伴っている。
ヘッドマウントディスプレイは最新映画から通販番組までいつでも好きなときに何度でも視聴可能で、決して退屈する暇を与えない。
そのほか様々な機能を詰め込んだ結果に重量は増してしまったが、各所に仕込んだ人工筋肉の働きで彼自身は楽に動けるようになっている。むしろ着ていないときより機敏な動きが可能である。
外観の意匠もそれなりに凝らしてあった。
口から後頭にかけてとわき腹のぐるり、それから腿と膝の間の左右合わせて六本のパイプが聊か旧式めいた印象を与えるけれども、赤い塗装と頭部の角という判りやすい特徴があるので大衆受けする見栄えである。
ポストは副官のザリー・マッカティンを伴って輸送機を降りた。ザリーの防護服の生地は体つきを判別できるくらいに薄手である。
無論、動作の補助機構など付いていない。イェニチェリー・モロンの彼にはそれでも充分であった。
割合に被害の少ない区画には故障者選別用のテントが仮設してある。
ポストは手始めにそれらのいくつかを見て回り、彼の期待にそぐうものどもを見物した。
テントの前には行列が出来ている。その行列を一見するだけでも、モロンたちはめいめい勝手な恰好をし、己が運命に合わせて面目をあらためているのがわかる。
熱と毒とを伴う光は彼らの上に平等に降り注がなかった。
個体性を滅却するよう弄繰り回された人間家畜らは数瞬のうちに失敗者と成功者に二分された。彼らの生を仕分けしたのはたった数歩の距離である。
暗がりにいた者は皮脂や骨格を僅かに欠損したにとどまり、アーミー・モロンの指図にも従順である。
窓からやや離れていた者はその半身を炙られて、有機素材のフリルやら褌やら飾り紐やらを引き摺って歩き、途中うっかり落し物をして体重を軽くしつつも、やはりテントにたどり着く。
窓に近かった者は努力空しく脱落するか、そもそも再起動を促される必要を持たない。せいぜい自身の落した影で壁画を刻む程度である。
これら故障者のより分けは結構な手間であった。症例が殆ど失われているために、肌色の面積ばかりでは判断が付きかねた。
中身の具合を詳しく確かめるには分解するしか手立てがない。
いっそまとめて供養すればいいとも思われ、物惜しみしたために却って損になるといえようが、他に仕様がない。これも規則である。
如何なモロンでも再利用の望みを捨ててはいけない。モロン一体血の一滴、勿体無いの精神である。モロンの励みとなるべく促進せられねばならないのである。
その公共心に鼓舞されてか、あるいは己の有用性を証明するべく躍起になっているのか、瓦礫の町の群集の歩みは止む気配を見せない。
これがコーディネイターやナチュラルであったならそうはいかない。甘ったれて泣き喚くやら、動く気力を無くすやらで、被害と費用と無駄な時間とが上乗せされたことであろう。
「なんだ、これは」
ポストは仕分け表を見て眉を顰めた。それを手渡した現場指揮官のモロンは、最敬礼をしてから先ほどと全く同じ説明を行った。彼は礼を失したと思っているらしい。
「いや、作業を続けたまえ」
現場指揮官は向日葵のような笑顔を浮かべたまま、防護服に付いた角を揺らして去っていった。
ふんぞり返っているばかりの上司に仕事の邪魔をされても彼は気分を害さない。
コーディネイターに盲従するのにも、自身の職務に従事すると同様に無上の幸福を感ずるべく条件付けられているからである。
再利用可能なモロンの割合が少ないのには納得できる。
けれども残った廃棄モロン――一応稼動はしているが労働に堪えないモロン――のうち八割以上が、消毒の後に食品加工へ回されるというのは不可解であった。
コーディネイターとモロンの立場では、モロンを食すのが別段自然に背くことであるとはいわれない。
ナチュラルが牛や馬を酷使した末に腹をくちくするのに用いるのと変わりないことである。
稼動年数の過ぎた殆どのモロンの殆どの部品は加工センターで有用な食物に生まれ変わり、同胞の日々の糧を補ってくれている。
肝や脳髄といったごく一部分を除ければ大した手間もかからず還元されうるのである。排泄物も少量で済み、総合すれば穀物より安く付く。
それ専用のモロンさえある。そちらは資源の節約手段としてではなく嗜好品として扱われる。
製造後十ヶ月の幼生モロンの腿肉は実に口当たりが良い。それなりに安価で、揚げ物にするにも都合の良い形状をしている。並みのレストランで出されるのは大抵がこれである。
雌のモロンで、自然に発達させた生殖機能を未使用のまま特定年数維持すると細胞が具合良く熟成され、コーディネイターの肥えた舌をも唸らせる高級食材となる。
殊に胸部は美食家にとって珍味の宝庫である。
乳腺周りの脂肪分は舌ざわりが滑らかで、特異な噛み心地のする心臓は滋養強壮の効験がある。
しかし通が好むのは顎肉であろう。これは一体のモロンから少量しか取れないので、運が悪ければ玩味する機会がないまま一生を終えてしまう。
体毛の少ない猿は年がら年中幾度でも発情可能であり、魚類などのように生殖を果たすと栄養価を減じるということはあまりない。
けれども質はどうしても変わるらしいのである。ホップが受粉するとビールの味が落ちたり、牛が子を生むと食感が損なわれたりするのと同様であるといえよう。
こうした言い分は迷信といわれるであろうが、迷信一般のもたらす影響は害ばかりとは限らない。
ある種の箔付けなしには文明社会といわれるような機構は円滑に回らないと断言し、その形而上学的裏づけをする人もある。
人力の節約乃至生活水準と呼ばれるものの向上と共に清貧の流行は廃れざるを得ない。
ポストが不可解を感じたのは、素材の状態に関してであった。
未来のシチューやハンバーガーが事前の加熱処理を受けたのはまあ許容できる。冷えてもレンジが温め直す。
しかし、アサルトフィールドのもたらす放射能で味付けされた精肉は異物混入騒ぎどころではない。
コーディネイターは口にしないにせよ、彼らは勤勉実直なモロンたちの食卓に上る。
最悪、ナチュラルの暮らす自然保護区へ廃棄の名目で贈呈されかねない。
その場合は粉状の加工食品であり、ナチュラルの特定の階級の家庭で珍重され濫用されている魔法のような調味料である。
ありもしない素材の旨みを引き出して味覚を遊ばせるばかりでなく、奇形人や奇形児の製造工程に一役買い、
そのうえでナチュラルの慈悲心と虚栄心を満足させるために、せっかく自然のままに保ってあった遺伝子プールに余分なものを添加する可能性もなくはない。
数世代前のナチュラルが勤しんだように、聖者の旗印を掲げるか不可避的災害の法精神に則るかして梅毒を流行させるのと、どちらが愉快であるかもわからない。
ポストはそんなふうに憶測を進めて行った。一言しておくと、この種の論法の飛躍は彼の望むところでもある。
人体の仕組みに関する科学的な裏付けというのは公共化したうぬぼれに違いなく、むしろ絶対に無害と証明済のレッテルを貼られたものこそ恐ろしい、という軽率な逆説を確信していられるほどに、彼はうぬぼれているのである。
〈リグ・ヴェーダは何を企んでいる。ベンセレムを滅ぼそうとでもいうのか〉
人間の世界の一切を管理している量子型演算処理システムの名がポストの心中で呟かれたとき、テントの外から奇声が響いてきた。
発端は一体のモロンが脱落したことである。
脱落というのは、彼の代謝やら何やらの機能が酷使された末に急激に減退し、彼の肉体が動作するのを止めたということである。
全身生焼けのうえ、曲がった鉄棒がわき腹から突き出ているのであるから長持ちしたほうであるともいえよう。
痛苦に対する鈍感は必要最低条件であるにせよ、育児モロンによる辛抱強い教育の甲斐があったというものである。
手先と踵から溶け落ちつつある皮膚を惜しんで前倣えの恰好で歩いていた彼は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
お腹の鉄棒を除いてもらえなかったのが心残りであろう。
彼の所属するグループは、例の手さぐりで進んでいるグループである。
ほとんどは彼と似たり寄ったりで、なかには腕の片方が欠損し、体の均衡を崩して歩き難そうなのもある。
これらの誰かが公正心を発揮したなら「まごまごすんな! だらしねえぞ!」と彼を怒鳴り付けても不思議でない。
しかしそんな暇は与えられなかった。
彼が彼の前を歩いているモロンに覆いかぶさる形になる。皆が皆自分ひとりで精一杯の有様である。他人の重みなど支えきれるはずが無い。
彼の後ろを歩いているモロンも無事では済まされなかった。その歩みからしてナチュラルでいう生後一年程度のものに近い。
安ぴか自動車と同じく急には止まれないのである。
前のめりの風潮は前後に向けて瞬く間に広がって行った。
党派心から唱えられる危険思想のドミノも、こうも速やかには行かなかったろう。そちらの方は信仰に躓くが如くで、長生きし、生き返りもするが、我他の根は保つ。
麦は踏まれれば良く育つとはいわれるが、人体はそうとも言い切れない。
時には苦労の仕方を間違えることもあり得るし、ましてやこのモロンたちはがたぴしとした状態である。
前後の監視者たちは横たわる人体の河を見て途方にくれた。一斉に怠けられては、雇用を抵当に脅し辛くなる。
アーミー・モロンはとりあえず一声かけてもらおうとして、先頭に寝ている肉の塊を足蹴にした。
気付けである。愛情の表現である。ベンセレムのプロレタリアートという同胞への労わりである。
モロン慰安用の感動映画に常套の場面でもあるが、アーミー・モロンの博愛心が如何に激しくとも死者までは生き返らせないらしい。
報いは軍靴を潤す肉汁だけであった。
帳簿を持つ伝道師から骨董を買ったり紙幣を座布団に傅いたりした経験が彼らにあったなら、別な結果を期待して良かったかもしれない。
けれども美容石鹸と同じ戸棚に並べられた信心の影響は酷く狭量なもので、当人以外に効能は無いともいわれている。
モロンたちの少ない小遣いを合わせても復活劇を起こすには足らなかったろう。実に遺憾なことである。
後に報告書に目を通した際、ポストは以上のような所感を抱いた。
絶息者の群れからさほど離れていないところには、別のモロンの行列が続いている。目的地のテントが近いためである。
その行列の直ぐ近くにまた別の行列が続き、人口密度はかなりのものになっている。
仕分けが遅々として進まないので、割合健康なグループの幾つかは待機を命じられ、ひと塊になって整列している。
その整列組の中に、ドミノ倒しの光景を初めから終わりまで観察していたモロンがいた。
彼は顔の半分が焼けただれて片目が見えなくなっているが、首から下は殆ど無傷であったので、軽傷と診断されていた。
モロンに対して物心が付くという言い方は正しいか判らない。
とにもかくにも彼が出荷され、教育された通りの判断で教育された通りの作業をこなすようになってから数年後、彼の情操に妙な兆しが生じた。
職務より休息のほうに、微かに多くの快を感ずるようになったのである。
食物の摂取や通勤の行進に比べて便座カバーの手編み作業はなるほど幸福ではあるが、
宿舎に張られたハンモックに腰を凭れかけ、目を瞑ったときにもたらされるあの感覚、目玉がぐるぐると回り、機械の音も便座カバーの幻覚も暗闇の中に溶けて行く感覚はまさに至福であった。
こうした比較判断の萌芽を経た後、彼の便座カバーに対する真心は揺らぎ始めた。
彼は日々のハンモックが待ち遠しくてたまらなくなった。
そうはいうものの、便座カバーへの情熱が完全に消失したわけでも作業がなおざりになったわけでもない。
指先を毛糸で愛撫されることは相変わらず心地よいし、Uの字の膨らみは彼の前立腺に微弱な刺激を与える。
編み目の乱れていない完全な品が運良く完成したときなどは、頭上から眩い光が差し込んでくる
――実際、彼が良い仕事をすると天井のライトが光る仕組みになっている。彼のような最下等のモロンにも、慈悲深いベンセレムの管理装置であるリグ・ヴェーダはご褒美の演出を用意してくれるのである――
それでもハンモックのもたらす恍惚には及ばなかったが、便座カバーへの愛情の一切を放擲してハンモックがためのみに生きるほどにも、彼は人間離れしていなかった。
モロンの遺伝子構造はコーディネイターやナチュラルと左程変わらない。
胎児のときに行われた退化処理と弛まない表象結合教育とによって人間性と呼ばれる情操を見かけ上克服してはいるが、その本性にはやはり貪欲が含まれているのである。
けれども、そうした移り気の日々の幸福も長くは続かなかった。彼は煩悶という頭の働きを感得したのである。
畢竟するに彼は二人とも選ぶことが出来なかった。ハンモックは実に艶かしく、彼を魅了する。しかるに逢瀬の時間は一日の六分の一である。
物心付いて以来の六分の四の時間を彼は便座カバーと過ごした。これからも過ごすであろう。
そう思うにつけ、彼は便座カバーを諦め切れなかった。便座カバーは長らく付き添った伴侶である。
彼女――ナチュラルの物差を使った場合、このような喩えになる――への愛を捨てて、彼女から見放されるのも忍びない。
いっそのこと両方とも選んだら良いではないかとも思われるが、彼はどうしてもそんな心境に至らなかった。
偽りの妊娠で騙されたり、それぞれ根気良く嘘をついてお互いを陥れる光景に悩まされたり、
訴訟沙汰に発展して僅かな慰謝料と莫大な裁判費用を毟り取られたり、気を抜いた隙に彼の背後で白刃が煌めいたりするのを恐れてのことでは無論ない。
モロンは誠実であるからナチュラルのような疑り深い考え方はしないのである。
それはともかくとして、主客の相違はあるが彼は彼自身と便座カバーとハンモックとの間に階級的な区別を設けることを知らなかった。
あるのはいわば異性的な相違のみで、そこに教育で植えつけられた一意専心の良心の声が結びついた。
どちらか一方を選ぶか、さもなければどちらとも放棄してしまうかという三つの選択肢が、彼の意識にはっきりとした形で現れていった。
そこへ持ってきて、ナチュラル解放戦線の引き起こした未曾有の大災害である。
愛しき便座カバーも美しきハンモックも彼を残してどこかへいなくなってしまった。彼は焦げ臭い工場の中でなんとなくそう思った。
それは彼なりの確信であった。視界が狭く、体が思うように動かないのも、彼の傷心の作用かもしれなかった。
彼はモロンである。永らうか永らわざるかの問いを自分に向けて発するためには発育が足りていない。
良心の声の命ずるまま、彼はアーミー・モロンの命令に応じて半壊の工場から這い出て群集に加わった。
彼の同胞は少なかった。群集の中にいる者の殆どは、彼の見たことの無い恰好をしていた。
彼は微かな期待を込めてあたりを見回したが、いくら個性的な面々といえども、便座カバーやハンモックなど同伴しているはずもなかった。
彼はテントの付近で待たされることになった。その理由も理由を知ろうという欲求も彼には皆目見当が付かないが、なぜか落ち着かない気持ちになった。
視界の消失しているところ、つまり彼の右頬がそわそわするのである。この感覚は実に奇怪であった。
彼はそわそわするところに触れてみた。食事で出されるオートミールに似た触り心地がした。
指に力を込めてほじくってみると、オートミールよりかなり硬いが、ちぎり取ることが出来た。
暫く手の中で弄んでみた。なかなかの快を覚えた。
妙な色合いをした人々が次々と倒れていく。その動きには一貫性があり、編むのに失敗した便座カバーから毛糸を解いていくのを思わせた。
彼は幻覚に合わせてその仕草をしてみた。惜しいことに幻覚はすぐに晴れてしまった。
左手には何も無く、右手には変な塊が乗っている。彼は注意を倒れている人々に戻した。
彼の近視眼では仔細に観察は出来ないが、大きさは違えども右手のものと同じものであるように思われた。
彼は隣の人を見た。隣の人の肩には同じものがあった。
妙な色合いの人々はもはや動かなかった。便座カバーやハンモックのようにいなくなったということと道義かもしれなかった。
機能しない、有用でないモロンというものは有限の神の観念と同じくどこにも存在してはならないのである。
彼はあらためて右頬から摘み取ってみた。やはり同じものであった。
彼は生産されて始めて、自分というものがいなくなるかもしれないと感じた。何よりも永く連れ添ったのは自分というものである。
六分の四の便座カバーと六分の一のハンモックを失ってでさえあれほどの不快を覚えたのである。
六分の六の自分が居なくなった場合の不快はとてつもないに違いない。彼はもう何も失いたくなかった。
しかも今や一番分量の多い一番大切なものを失おうとしているのであった。
彼の感官は鋭敏になって行った。触感のもたらす様々な反応を表す術は彼には限られていた。彼は小さく呻いた。
しかしありあわせの表現は彼の不快を和らげるのではなくて、いっそう激しくするのに貢献した。
呻くごとに耐えられなくなってきた。右頬がざわつき、全身の筋肉が強張った。彼はとうとう絶叫した。
狂気は伝染するものらしい。正常なコーディネイターならそう結論付けたろう。
けれどもポストはナチュラルじみたものの見方をして、眼前の光景にむしろ正気の片鱗を見出した。
ある大なる影響を及ぼした行為に付く形容動詞の選抜は、それぞれの時代における歴史書の記述に一任される。
例外もあるにはあると信じたいが、どうしてかそれらはしばしばないがしろにされ、
賢明な人々ですら、物差の目盛りが王冠の台の節々によって定められたり、世評の悪さより良心の疚しさの方がずっと片付け安かったりするといった摩訶不思議な現実に幻惑せられ圧倒せられ、
小が大を兼ねないことを惜しみつつも、自身の判断力においては一夫一婦か売笑の態度で我慢せざるを得ない。
しかしポストは懸命でないどころか思い上がっていたから、彼自身の任意の判断を下すことが出来た。
一体のモロンの叫びは人間理性の産声といっても良かった。
理性の光は、元来理性動物として生きるべきらしい人々にあまねく行き渡り、目のなかの梁を取り去ってしまう。一度目の叫びは空しく響くに過ぎない。
他のモロンたちは勤労に役立たぬ認識を排除するように仕込まれた精神的片輪者であり、耳で聞こうとしない。
大半の部分が死滅させられている脳髄は、同胞から発せられた警鐘を幻聴と判断する。
二度目の叫びは短かった。息継ぎの充分でないためであろう。けれども、群集のなかの幾体かのモロンが音の発生源に目を向ける。
産声は三度、四度と続く。彼の喉はその度に痛めつけられ、一度として同じ音を鳴らさない。注意を喚起されるモロンの数は確実に増して行く。
叫び声がぶれた。楽器の弦が緩んだようでもあり、電子音声にノイズが混じったようでもあるが、それは潰れかけた喉の断末魔ではなかった。
もの言わぬ群集の中にいた別の一体が、彼の動作を真似したのである。
その次の叫びでは一挙に五体加わり、更に次の合唱には数十体が参加する。
科学的根拠があるといわれるような新式の健康法などと異なり、その流行は一時のものと見くびるには凄惨に過ぎた。
牧畜に悪魔が乗り移ったかの如くであるが、彼らに溺死の徴候は見られない。
その場に立ち止まり、天へ向けておぞましい賛美歌を捧げている。
彼らの歴史が以降も続いたなら、例の一体のモロンは彼の遺伝子の先祖が初めて鈍器を手に同類を殺めたのに比する栄光を手にしたかもわからない。
或いは神の声を聞く神の庶子として崇められたかもしれない。
救世モロンの声に同調した無数のモロンのなかに、他のモロンに比べて弱々しい体つきのモロンがいた。
彼の用途は作業員の監督で、いわば白服を着せられる立場にある。彼には報告書を書くためのいくばくかの語彙が与えられていた。
彼は合唱しながら、現在の自分たちの情緒に合致する表現は無いものか思案した。
体の節々にあり、殊に皮膚の変質した部分や肉の欠けたところ、折れたり取れたりしてもはや元には戻らない箇所から来て、気にすれば気にするほど耐え難くなる感覚のことである。
彼は腕から突き出た棒切れを摘んで、ぐいぐいと揺らしてみた。
「いたい」
その言葉が勝手に口から出た。教育施設で一度教えられたきりで使われることのなかった言葉である。
彼の無意識の中で観念と結びついていたのであろう。記憶というものは不確かであるが、時々はこんなふうに勝手な真似もしてくれる。
「いたい、いたい」
彼は反復した。彼の声は隣の者の耳に伝わり、隣の者は彼の声を真似し、そのまた隣の者が真似の真似をする。
モロンという生き物は先入見を持たず実直である。人づての情報を捻じ曲げることはしない。
それぞれの目的に合致する表現ならば尚更である。
「――いたい! いたい! いたい!」
彼らはこうして最初の言葉を得た。救世モロンが人間的自由の象徴に祭り上げられるための足場が作られたといえよう。
彼らが今後何らかの手段で繁殖し、何らかの手段でめいめい監視しあうようになり、何らかの手段で生存目的を見出したとする。
そうなれば便座カバーとハンモックと救世モロンの関係が詮索されるに違いない。自己の起源というものはいかな種族においても興味の的になり得る。
便座カバーとハンモックと救世モロンとは三つにして一つであると言う人があり、
いやいや、便座カバーのみが始まりにして終わりであり、ハンモックは我々全員に行き渡るものであり、
そうして救世モロンは便座カバーがその意志を伝えるべく使わした存在で、彼は便座カバーの濡れるのを防ぎ、
同時に全てのハンモックの撓みを強制するべく自ら望んでウォシュレットの吹き上げに臀部を貫かれたのだ、と言う人もあろう。
君らはまるでわかっちゃいない、と議論の場で歎息し、仔細ありげに閉口して見せる人が幾人かは必ずある。
往々にして彼らはその深遠な真理を開帳する機会をば墓場か酒場まで持ち越してしまう。
また別のある人はその方面の議論で生計を立てようとは考えないで、便座カバーを汚さずハンモックをぴんと張るだけで満足し、
絶対の性質を帯びる度合いに応じて所有される便座カバー性や、
ハンモックの網の菱形の不可謬性に含有され得る恩寵の権能の絶対的に必然的な世界厠組合の専有性といった専門語が飛び交うのを横目に、
ただただ実在する隣人の奉仕に苦心する生涯を送るかもしれない。
彼の日々の娯楽は、トイレットペーパーを開いて眺めることである。
勿論、便座カバーの息子らは産まれる以前からものの善し悪しを見分け隣人を愛する能力を完全に具えているから、
この手の反自然的で反革命的なうえ無学な考えを哀れんで救いの手を差し伸べる人々も出て来るであろう。
そういう善意の人々の種類は様々であるが、
その性質としては自分の理論の正当さが証明されるまで議論し続ける旺盛な探究心と、
自分以外の頑固者に向かって肥溜めに落ちろと呪う習性、そして地上に跋扈する無知と盲目と無信仰を憎むこと甚だしい点で共通している。
なかでも腕力の強い集団になると、我が口から発せられた言葉と我が厠のトイレットペーパーのほかは一切が虚偽ということなる。
彼らにとっては排便の回数の削減ですら容易である。
週一回以上の排便は便座カバーに皺を作り、更には臀部が排便の都度便座に刺激せられることによって肥大化する結果、
ハンモックの編み目と臀部との外的ないし内的な合一性が得られずに総合的な恩寵の度合いが損なわれる。
この明々白々な真理を受け入れるように皆を訓導すればいいのである。訓導そのものは肥溜めを指差すだけで事足りる。
彼らは誠実である。トイレットペーパーの材料が見当たらないときには、資源環境に配慮して反故紙を用いる。
彼らは再生紙でないトイレットペーパーを持つ人を見つけると、便座カバーの衛生のために、その穢れたトイレットペーパーごとその人を水洗浄の刑に泣く泣く処さざるを得ないが、
そういう悪党や丈夫な紙というものは量があまりに多いものであるから便器の穴が詰ってしまい、清浄なる水溜めは俗臭ぷんぷんたる様相を呈する。
しかし彼らは人類の道徳的改良の代表者を自負するだけあって、すぐさま解決策を見出す。
手間のかかる水洗式ではなくて、汲み取り式を使えばいいのである。実際水洗式はあまり効率の良い仕方ではなかった。
気概のある悪党ともなると、絶え間の無い水流に揉みしだかれて紙とともに溶けて行きながらも、
ちょっとした演説をかましたり、二三の警句を残して善男善女によくない感化を及ぼしたりする。
その点、汲み取り式なら心配はいらない。紙も人体も丸まって落ちるのは一瞬である。
長く続く苦悶の声で聴衆が気分を害することもない。花火と同じく瞬間の美というものも感じられる。
この見世物は俗界にも受けが良く、任意の相場に合わせて入場券が取引され、そこからはねたものらが便座カバーの栄光により多くの奉仕を為す。
彼らは己が義務には非常に厳格であるが、無論人間らしい寛容さも持ち合わせている。
残虐非道な悪漢の着物といえども、当人とトイレットペーパー以外には罪の穢れはないのである。
人々が水遊びに飽きる頃合になると、都市住民の間でトイレットペーパーそのものに注目しようという風潮が高まって来る。
類稀な耳と脾臓を具えた七十人の賢者らが密室で七十二日間熟考した末、トイレットペーパーの純白の中に一切の徳と真理が含まれているという事実を発見するのである。
この剛毅な人々は、トイレットペーパーを雨天の時の傘代わりに使ったり、細かくちぎってスープの具材にしたり、使用済みのそれらをかき集めてアルコール飲料の醸造を試みたりする。
患うことがあっても、トイレットペーパーを溶かし入れた肥壷に身を浸せばたちまち元気になる。
これは肥壷の内部に飽和した超自然的緒力が結晶作用を引き起こして生じる極めて便座カバー的な成分が皮膚から浸透し、救世モロンの齎した奇跡と類似の治癒力が擬似的に働くためである。
副作用としては発汗、蕁麻疹、口臭、呼吸不全、口元の湾曲、頬の肥大化、唾液の気泡、眼窩の陥没及び眼球の反転、
涙腺の誤作動、被虐的嗜好の発達、深遠という語句への過剰反応、トイレットペーパーの字句に依拠しない言葉が発音不可能になるという声帯異常、
通行人ないし知人に付き纏って改宗を迫る等々が挙げられるが、いずれも些細な事である。
便座カバーの声を聞くことで得られるハンモックの浄福は、日常生活の不便を補ってあまりあるのである。
「イタイイタイイタイイタイイタイイタイ」というモロンたちの歌で耳を楽しませながら、ポストは彼らの未来を空想した。
横のザリーが気を利かせて棒切れを差し出したなら、指揮者の役割を買って出たことであろう。
〈しかしまあ、嘆かわしいことだ〉
ポストの表情が曇った。こんなに盛大な回心を遂げても、モロンはその生誕の以前からモロンとしての型にはめられている。
土竜の目は見まいがために付いている。地上の美に魅了されても、彼らは光を避けて生きるほかないのである。
片目の者が盲人国で王様になれるとは限らない。世界の平和を守るべく初めに行動するのは、きまって善人である。
無知は罪であるらしく、そしてまたその逆も正しければこの場で最も善なる者と呼べるのは現場指揮官のモロンであろう。
モロンは総合してナチュラルの子供にすら劣っているといわれるが、費用を惜しまずに特定の分野に特化させた際にはナチュラルの追随を許さない。
彼の専攻した科目は人殺しである。対象がモロンである場合は、目に梁を入れなおす手間を省くことである。
命令が通信機でアーミー・モロンたちに行き渡った。
「イタイイタイ」の呪文でまやかされたのは、テント前の一群ばかりではない。
移動中待機中を問わず、さっと見渡せる範囲にある工業モロンの半数近くがものを言い出し、その感染力も増しつつあった。
それぞれの手持ちの弾薬の合計は、想定される必要数に比べて余裕があるとはいえない。
しかしアーミー・モロンたちは勇敢である。彼らは絶望的な状況でも最後まで戦い抜く。小銃には銃剣だって付いている。
彼らはナチュラルとは違って、いざというときでも銃剣の正しい使い方が出来るのである。
志操堅固なアーミー・モロンたちの陣形が整うにつれ、銃声は伴奏のようになって行く。工業モロンのほうも負けじと声を張り上げる。
どちらの側を見るのが楽しいか目移りする光景であるが、アーミー・モロン側の優位が固まりかけると、ポストは工業モロンたちの動向に着目した。
〈そろそろ来るかもしれんな〉
工業モロンたちの全員が全員無抵抗主義を実践していられるというわけではなかった。
反骨心を持ち合わせているモロンも相当数が混入していた。「イタイイタイ」の調子が変わる。
便座カバーと救世モロンがもう一方の頬を差し出せというようなことを教えようが教えまいが、徒党を組めば荒事をしたくなるのはこの動物の性である。
工業モロンたちは駆け出した。
雪崩れてくる群衆にアーミー・モロンが飲み込まれる。
懸命に撃ち殺してはいるが、工業モロンたちは大なる仲間が小なる仲間を捕まえて盾にしたり、押し合いへし合い、山積みになった同胞の残骸を乗り越えて飛び掛ってくる。
彼らは殴る蹴るの暴行や、噛みついたりひっかいたりといった無礼は働かない。ただ抱きついて相手を引き倒すのである。
敵を愛せの教えには行為の上で従順であるらしい。
彼らは銃創の数にかまわず突進する。口では痛いと言いながらも実際の苦痛はまるで感じていないようである。
イタイというのは彼らの教義ともいえるのかもしれない。赤色の体液でついつい喉を詰らせている者もある。
ポストは自分に先見の明があることを喜んだ。すると「あいつはなんて嫌味な野郎だ」とモロンたちは思ったのか、救世モロンに率いられる軍勢の陣形に変化が見られた。
鋭角形をした一点突破に向いていそうな陣形である。頂点はポスト・フェストゥムなるコーディネイターを向いている。
足の本数の違いはあるにせよ、猛牛も人間も赤い色や赤という響きに心を乱されるのかもしれない。
ポストの特注防護服は赤かった。立派な角も付いていたので、それで威嚇していると誤解されたかもわからない。
ポストの周囲のアーミー・モロンは隊伍を乱しながらも彼らの神を守るべく懸命に発砲する。
ポストに無理に連れて来られたザリー・マッカティンですら銃を手にしている。
〈よし行け。さあやれ。頑張れ頑張れ〉
ポストの数十歩前方で奮闘していたアーミー・モロンが工業モロンの抱擁を受けた。
その工業モロンは隻腕であったが健脚でもあり、無辜の同胞を押し倒すのに梃子の原理を要しない。
倒しざまに銃剣の切っ先で裂かれたのであろうわき腹に、はみ出ているものが見える。
アーミー・モロンが抜け出ようともがくのも空しく後続の選手が重なった。先の工業モロンが蛙の鳴き声に似た音を立てた。
救世軍は仲間たちを避けて進むつもりはないらしく、またもや新たな一体が参上して、役目を終えた同志に脚立に対するが如く足をかける。
そしてその偉大なる第一歩が踏み出されんとした瞬間であった。モロンの視線が、ヘルメット越しのポストの視線と重なった。
ポストは反抗期のモロンを抱きしめるために諸手を大きく広げて、笑顔を浮かべていた。
モロンの四肢が動きを止めた。目が見開かれ、唇は小刻みに震えていた。彼は怯えているらしかった。
ポストの目から涙があふれた。
「かわいそうな子供たち!」
ポストがそう言い切ると同時に、モロンの体は弾け飛んだ。
ポストの目を見てしまったモロンがアーミー・モロンと工業モロンの二体を巻き添えにして四散したために、それぞれの残骸は区別が付かなくなっていた。
部品の散らばったのと逆の方向には、MOS-Hヒューブリスが立っている。不測の事態に備えて待機していたのが、ようやっと完全に起動したのであろう。
ヒューブリスの両腕は丸ごと機銃になっていて、威力も精度もなかなかのものである。この距離ならばポストを誤射する可能性は限りなく零に近いといえよう。
今は弾薬と砲身を対人用のものに換装してあるが、かつてモロンであったものたちの現状を見るに、暴徒の鎮圧には向いていないようである。
暴走した工業モロンの大半はMSによって速やかに処理された。暴走していない工業モロンも多数巻き込まれて、未だ機能しているのは全体の一割に満たなかった。
彼らはこの後に洗浄・消毒され、片輪でないものは再教育を受けてから別の工場区画へ送られ、もはや生産手段に値しなくなったものは食品加工に回される。
残った九割のモロンは処理場へ送られる。外気で早く腐りそうなのもあり、半死半生で新鮮なのでも銃弾を摘出する手間を考えれば食材に適さない。
しかしいちいち残骸を回収するのもなかなかの骨である。
急遽応援に駆けつけた大型コンテナに、工業モロンの体が積まれて行く。
マニピュレータを作業用シャベルに換装したMOS-Bビアーがトレーラーの中身を掬ってコンテナに載せ換える。
シャベルの平たい部分を使って山を平らにするのを忘れてはいけない。
人体は複雑な形状をしているので、こまめに押し込んでいなければすぐに満載になってしまう。
そういう作業を行うのであるから、アーミー・モロンたちはもはや重火器を手にしていなかった。
彼らは争いを忘れて、勤労でもって社会に奉仕していた。ポストの目には長閑な情景である。
暇つぶしに自分も手伝ってみたいが、そんなことをしようとすれば過保護なアーミー・モロンたちは黙ってはいまい。
彼らはポストのために即席でベンチを設え、ポストには彼の用向きが済むまでなるべく快適に過ごしてもらいたいのである。
ポストは何かがヘルメットの上に落ちたのを感じた。ここはキーウィタースの工業区であるから、自然保護区のように小動物が空を飛んでいるはずがない。
隣に立っているザリーを見ると、彼の防護服にもそれが落ちて黒い染みを作っていた。
「黒い雨か」
小雨が始まった。ザリーは用意してあった傘を差して、ポストが濡れるのを防いだ。
傘は一人用である。ザリーの防護服が斑模様になって行く。
間もなく大降りになった。棒のような雨であった。ザリーの体は黒い油にまみれたようになった。
身の安全が確信できるところで雨を感じていると、いやに感傷めいた気持ちになってくる。
二三の詩を吟じたくなったり、イェニチェリー・モロンに話しかけたりしても不思議でない。
「ザリー君」
「御用でありますか、閣下」
「今回のことについて君の所感を聞かせてほしい」
「と、言われますと」
ポストは興味深げにザリーの目を見て笑った。問い返したということは、学習したということである。
「彼らの暴走についてだよ、ザリー・マッカティン君。皮切りは一体のモロンに過ぎん。
が、連鎖反応が起きた以上少なくとも大半のモロンにその兆候はあったのだろう。このことはモロン全体の情操の変質を如実に示していると思われないか」
十秒ほどして、ザリーが答えた。
「イェニチェリー・モロンのザリー・マッカティンには閣下の仰られることが理解致しかねます。
ですがご参考までに申し上げますと、近年のモロンの不具合発生率に並行して、コーディネイターにおける精神障害発症率の増大が認められているのであります」
〈こやつ、やり返しおったわ〉
ザリーにぼろを出させることも出来なくはないが、ポストはひとまず話を打ち切ることにした。
今後、ザリーに起こるであろうことを期待したのである。
「いやなに、ベンセレムが滅ぶまいかと思ってね」
そうしてそれらの異変はリグ・ヴェーダが故意に引き起こしている可能性もある、と続けたいところであるが、滅多なことは口にするものではない。
〈ナチュラルの浸入、モロンの目覚め、正気なコーディネイター、それぞれ無関係であるはずはない。一切は、神の意思に導かれている〉
ポストは廃墟と化した町を眺めた。生物の頭数が減り、いくらか手心が加わっていた。
それでも惨状と呼ぶに充分であった。彼はこれを生み出した人々について思いをはせた。
同種族間の争いに於いて明確な規則や殺生の完全抑制の働きのないのは二本足の動物くらいなものである、
そう述べる義人は居なくもないが、それは過大な評価であろうとポストは思っていた。
いくら自称理性動物といえども、面と向かった隣人を殺せと命じられてためらわない個体の割合はかなり小さいと思われる。
現実のその生き物が、もし広告上の敵国人や映画の主人公のようにあたりまえと言わんばかりの顔をして何百匹もの同族を殺してのけたなら、世の中はこうも面白くはならなかったろう。
そうした行為には心情的にも空間的にも距離が必要となる。
アーミー・モロンはそのために他のモロン以上の手間をかけられているし、野蛮といわれるナチュラルですらそうした抽象化を推進すべく努力を怠らない。
完全な殺戮合戦というものは完全な人非人を相手にしてようやくなし得るものであろう、というのがポストの見解である。
モロンは人形であり、残念なことに人間の要素も持ち合わせている。それはいわば人間性の分業制といってもよい。
〈偶像を破壊する者は畢竟自身を偶像と化す。その終局がベンセレムということだが……〉
「彼らも我らも一枚岩とはいかぬらしい」
ナチュラルの感受性を考えればアサルトフィールドをこんな大雑把には使うまい。屠殺場に寄ればハンバーガーは食べ辛くなる。
アメタペイストを退けるために使わざるを得なかったとしても、せめて二三被弾してからで、手遅れになる直前まで粘ったろう。
彼らは心の平静のために、何事につけ代償と口実を必要とする。頬打ちを食らえば、こちらも心置きなく胸を刺せるというものである。
ナチュラルという社会動物は今回のように短気に大量破壊兵器を用いるほど統制が取れてもモロンじみてもいない。
もしそうであったなら自然保護区のナチュラルはとうの昔に絶滅している。ポストはそう信じていた。
ロウ・ブレーンはテーブルに拳を叩き付けた。
「なぜ黙っていた。ウーティス」
彼は車椅子の老人を睨み付けた。
『教えていたとして、貴方は命じることが出来たでしょうか』
老人の口は動かなかったが、スピーカーの合成音声がロウの問いに答えた。
部屋のモニターには、072工業区から撤退する直前にヴェスタのカメラが捉えた光景が繰り返し流されている。
視覚不良やら何やらの口実を設けて、乗組員に伏せてあった映像である。
『私たちはこの先生きのこらなければならない。ヴェスタはDoll-Aの追撃から逃れねばならない。
そしてそのための唯一の手段はアサルトフィールド――天を焼き、夜中の夜明けをもたらし、毒を撒き散らす光。
この武器を、果たして貴方は有効に扱えたでしょうか』
「有効に、だと? 万単位の人間を殺すことがか」
『ええそうです。最優先事項を優先する。これほど当然のことはありません。しかし当然のことが出来ないのがナチュラルでもありましょう。
アサルトフィールドの正しい情報が貴方に与えられていたと仮定した場合、我々の生存確率は良くて三割。
貴方は必ず躊躇する。貴方はDoll-Aを前にして決断できない。仲間を失ってもまだ、貴方の良心、殺戮への恐怖が邪魔をする。
ヴェスタが傷つき、死との距離が縮まり、自分が生死の境にいる実感を得てようやく貴方は武器をとることが出来る。
しかしそれが手遅れでないとは限らない。乗組員は貴方の独断のために死亡したかもしれないのです』
ロウは自分の心の働きをウーティスに断言されたことが腹立たしかった。自分が彼に良心の疚しさを肩代わりしてもらっていることは尚腹立たしかった。
ウーティスが人間味のない確率を持ち出したのは憎悪の的とならんがためであろう。頭の冷静な部分で、ロウはそんなふうに解釈した。
「この件は私以外」
『知らせていません、リーダー』
「そのままで頼む」
ロウは目を瞑って、暫く考えてからきっぱりとした口調で続けた。
「ウーティス、アサルトフィールドはもう二度と使わないようにしてくれ。たとえ私から、使えと命じるときでもだ」
『どうしてですか』
「ボタン一つで何万人もの命を左右できたら、我々はきっとおかしくなる」
『ナチュラルの学問はそういう兵器をこそ作ろうとしているのに?』
「彼らが間違っているとは私には断言できない。だが、今の我々はあまりに幼い。自分が何をしているのかわからないまま、取り返しのつかないことをしてしまうかも知れない」
『再び使わねばならぬときが来たら? 貴方のその身勝手で幼稚な考えのために、仲間を、私たちをも巻き添えにするつもりなのですか』
「それでも俺はナチュラルの、人間の尊厳を守るよ」
『夢を諦めるとしても?』
「絶対に必要な人間なんていないんだ。宇宙(そら)を欲しがる馬鹿は俺たちだけじゃない」
ロウは席を立った。彼の去り際にウーティスは、
『今の言葉を、忘れないでいてください』
と言った。
ロウがいなくなってから少しして、洗面器を持ったクリトン・キーンが部屋に入って来た。
彼は老人の服を肌蹴さすと、濡れタオルで老人の体を拭き始めた。
「ロウ・ブレーンは指導者に向いてませんよ。彼には性格の強さというものが欠けています。良心に餌をやるのが実に下手だ。
扇動者たるもの、特別に懸命でも特別に善良でもなくていいのですが、懸命さと善良さの点で卓越していると思わせる何かを持たねばなりません。
要するに確固たる信念と呼ばれ得るような自己崇拝ですね。見解の狭さともいえましょうか。彼にはそれが無い。若すぎるんです。
もすこし老ければ使えるようにもなりましょうが、今はまだまだキャラクター性と大衆性が足りない。
そのくせピカドン・アタック禁止条約については、はっきり約束を取り付けないまま行ってしまった。
たぶん自覚は無いでしょうがね、彼、やっぱり逃げ道は忘れてないんですよ。
極めて詩人ぶった物言いをしつつも、助け舟は残しておくほどに実際的です。
まあその点は評価できなくもありませんが、私なんぞに看破されるようじゃなおさら迂闊で残念――」
『盗聴はともかく陰口は感心できません』
クリトンは老人の口の端から垂れている涎を拭った。さらさらして粘り気のない涎であった。
「機会があれば当人にも言うつもりです。目の前で叩かなきゃ面白くないでしょう?」
言いながら老人の耳たぶの裏を強く擦った。耳の穴や頭部の端子から出ているチューブに触れぬよう気をつけて、焦らずゆったりした手並みである。
「DAの件ですが」
『ガンダムドルダ、ですよ』
「失礼。ガンダムドルダですが、やはり主人公を欲しがってます」
『わかってはいました』
「三つ子の魂百以上というわけではありませんが、どうしてもナチュラルを受け付けません。
乳離れが出来ていないんです。ナギさんなんかはエランバイタルも高いので気に入ると思ったんですけれど」
『何なら貴方が乗ってみては』
「ひどいご冗談。だいいちとうに毛嫌いされてます。コーディネイター臭が消えちゃってるんでしょうね。それに」
クリトンは右手を挙げた。服は肘までまくってあったが、右腕自体は肘から上も黒い手袋で覆われていた。
「恋人が不在ですので」
『バッシュ・ビッシュの性格がうつりましたか』
「ウーティスこそ」
クリトンは老人のズボンを脱がしながら、含み笑いをして見せた。
『賽は投げられた、とでも言えばよろしいので』
「大罪人の気つけですね。ナチュラル的だ。極めてナチュラル的だ」
クリトンはため息を吐いて、老人の下半身を拭きにかかった。
アランが廊下を歩いていると、一人の少女が後ろから駆け寄って来て腕に抱きついた。
「アラン、セックスしよっ」
アランはいきなりのことで少し戸惑ったが、腕に感ずる柔らかな圧迫感と鼻をくすぐる香水の匂いに覚えがあって、すぐさま心を和ました。
「や、セーレ。今日も元気そうだね」
クラスメイトのセーレ・ヴィッチメイクはアランの顔を覗き込むように顔を傾けて、にぱっ、と愛らしい笑みを浮かべた。リボンで左右に纏めた桃色の髪が揺れた。
「おはよっ、アラン」
背後で陰気な顔をして歩いているハスハなんかとは違って、セーレは魅力的な少女であった。
彼女は異性に人気があった。アランを含めたクラスの少年たちの殆どは彼女と仲良ししたことがある。
学業の面でも肉体の面でも非の打ち所がないといわれている優等生である。
彼女と同じく優良児であるアランの目から見るとえくぼが目立ち過ぎるように思われたけれども、
皆が皆口を揃えて彼女を可愛いと賞賛するのであるから、アランのそれは単なる個人的で気まぐれな好みに過ぎず、本当は理想の見た目なのであろう。
ともかく、えくぼの不満さえ思い起こさなければ交遊して最も楽しい時を過ごせる相手の一人であった。
実際、アランはセーレと今までに十一回男女の交際をしていた。十二回目の今回は付き合い出して三日である。
アランは先ほどの申し出を受けて予定を立てた。
「じゃあ放課後でいいかな」
「うんっ」
セーレは元気良く言うと、アランの腕をぎゅっと抱き寄せた。
もはや慣れ切った触れ合いであるが、やはり気持ちの良いものは気持ち良い。アランはつい頬を緩めた。
「セーレ・ヴィッチメイク、おはよう」
ハスハが愛想を込めずに横合いから挨拶した。いつの間にか前に出て横並びになっていたらしい。
「あれっ、ハスハもいたんだ。おハロー。素敵な朝ね」
「そうね」
セーレにはハスハの表情はいつもと変わりなく見えたろう。
ハスハと付き合いの長いアランはというと、少女の瞳にあまり好意的でない色がほのめいたのを感じた。
ハスハは自分のいるのに気付かれなかったことを、不快に感じたかもしれない。
セーレはハスハのよからぬ感情を察する気配を見せず、アランの腕を引きながらハスハに声をかけた。
「ハスハも早く教室いこっ。授業始まっちゃう」
「ええ」
アランはセーレに引っ張られて駆け足になりながら、顔を振向けてハスハを見た。ハスハは急ぐでもなくとぼとぼ歩いていた。
彼女の機嫌が直っていないのは確実であった。そして自分がそういうふうな洞察をしてしまうこと自体が、なんだか疚しいことのように思われた。
〈他人の思惑を気にするなんて……良くない徴候だ〉
アランはセーレの顔を見た。ほのかに赤らみ、心底幸せそうに輝いて見えた。
セーレ・ヴィッチメイクはこれから先ずっと、五十歳という解体年齢を迎えるまで、今と同じように笑い、楽しみ、幸せに生きて行くことであろう。
そうしてそれは彼女と同じく優良なコーディネイターのアラン・イディットについても当てはまる。
〈そうさ。僕はこっち側の人間だとも。幸せな、充実した人間なんだ。ハスハみたいな劣等生とは違う〉
「ちょ、まっ、そんなに急がないでよ」
「だらしないわねぇ、ほらっ」
「危ないって」
腕を組んだ二人三脚の体勢を手繋ぎの形に変えて、セーレはとうとう走り出した。
アランはセーレがふざけたために、教室に着くまでに三体の清掃モロンを蹴飛ばした。
おかげでおろしたての靴が傷んでしまった。その上不運にも一度顔を蹴ったらしく、唾液すら付いていた。
アランに声をかける者があった。
「チョリーッス!」
「また食べ物の話かい。卑しいよ、エセク」
エセク・スカンティという隣席の少年である。
「むしゃぶりついた瞬間、口内に広がるスパイシーな風味。舌に絡みつくような、凝縮された脂の旨み。
特にベビーモロンを贅沢に使ったそれはまさしく味の尿石箱……ってちげーよオイ! チョリソじゃねーっての。っとにもう、わかんねーやつだなアランさんは」
エセクは、あちこちを整髪料で尖らせた緑色の髪を振り回して、一人で騒ぎ出した。
彼は珍しい情緒の持ち主であった。正常なコーディネイターを自負するアランにしてみれば、真面目に相手をすることは都合が良くなかった。
「僕は君の頭の具合がわからないよ」
「チョリッスよ、チョリーッス。挨拶っスよ挨拶。知らねぇの? これマジで流行ってんだぜマジで。ちょーマジ」
聞いた事もない挨拶である。世間は彼のいうほど反理性的ではあるまい。
「どこで。君の脳の中?」
「そうよ! もう一人の俺、ジョンもスミスも狂も影羅も、みーんな言ってんぜ!」
十四という年頃は難しいものである。大人と子供の境目で、酷く不安定な時期にあたる。
ハスハがいい例である。彼女はこの頃いよいよ接し難くなった。
エセク・スカンティはこの日も左腕に包帯を巻いていた。彼の言うところによれば、その包帯の中に第三の目が付いているらしい。
目玉が三つあるなら空間把握もさぞ精妙に果たせるに違いないが、アランは余計な詮索をして困らせようとは思わなかった。
如何に不快でも会話をせざるを得ない以上、友人は友人である。万人は万人のために、という道徳にアランは忠実であろうと努めていた。
ほとんどエセク一人がまくし立てるような談話にエセクの方が飽き出す頃合になって、白衣姿のモロンが教室に入って来た。
合計三十体で、教室にいる生徒たちと同じ数である。
「先生がおいでなすった」
「止しなよ。そんな言い方」
正しくは整備用モロンである。エセクには擬人化したあだ名をモロンにつけるという芳しくない奇癖があった。
そもそも先生というのは授業で習わなければ覚えない死語である。使い方にしたってよろしくない。
その敬称めいた語をモロンに用いるのは不当である。モロンはコーディネイターがいるからこそ存在が許されるのである。
整備用モロンは生徒全員に行き渡ると、一斉に「直立! 礼!」と叫んで頭を下げた。腰の角度はモロン共通規格の四十五度である。
「授業を! 開始させていただきます!」
モロンがそう合唱するとリクライニングシートが変形して、そこに座る生徒たちの手足を拘束装置で固定した。
ゴーグル型の端末を生徒の額に据え付けながら、モロンたちはてんでんに音声を発した。
「かゆいところは! ござりませんか!」
「股」
エセクが冗談めかして言った。幼年組ならともかく成人目前の学生がする要求ではない。モロンは愚直にも彼の命令に従った。
横から聞こえるエセクの鼻声にアランはいやな気持ちがしたが、鉄製のカーテンが下りてきて視界を覆ってしまうとすぐに忘れた。スメッグに似た香りを嗅いだからである。
「『VIRTUAL BOY』、起動!」
頭がぼんやりになったアランは、モロンの指示に従って自我を機械装置に委ねた。