ハスハと問答した広場に着いた。
アーミー・モロンの進行は遅く、アランを含むコーディネイターの一団はアーミー・モロンを撒いていたが、この広場の状況を見るに、生きて逃げられる可能性は無きに等しかった。
この展望台広場は園路の中継点で、交差点ではない。既にアーミー・モロンの暴れた痕跡のある以上、進んでも戻ってもアーミー・モロンに出くわすのである。
女性コーディネイターがへたり込んでめそめそと泣き出した。男性コーディネイターは口を覆って、今更にこみ上げて来た反吐を指の隙間からぶぴゅっと飛ばした。
恋人に「大丈夫、絶対、大丈夫だから」と言い聞かせながらも、自分のズボンに湯気を立てる男も居た。
広場には無数の亡骸がうち捨ててあった。銃弾による亡骸は割合きれいなものである。確実に息の根を止めるために、全員が全員頭を打ち抜かれている。
酷いのは銃剣やMSにやられた人間である。
展望台の手すりに前のめっている人は、背を散々に刺されるついでにわき腹を裂かれ、たぶん意味も無く引っ張り出されたのであろうが、荒縄を連想させるものをぶら下げている。
MSに踏まれたのはめったに面影を留めていない。誰のとも知らぬ腕が、草むらに転がっている。町の夜景は宝石箱のように煌びやかであった。
アランは知らず知らずに銀髪の亡骸の無いのを確かめていた。そして見覚えのある黒子モロンを見つけた。
黒子モロンは茂みの傍で、後頭部を一発で仕留められてあった。黒子モロンの手には、体の半分ほどを噛み潰された小鳥の死骸があった。
大方、新鮮な夜食をくちゃくちゃしていたところをアーミー・モロンに片されたのであろう。
アランは広場を見渡すと、はっと何か合点の行ったような気がして展望台の手すりに駆け寄った。
手すりの下は地肌がむき出しの崖である。夜間であるのに加え、木々に遮られているので高さはわからない。
しかしなんとなく空気の感覚からして、それほどの距離ではなかろうと感じられた。
〈こんなの理性的じゃない〉と自分でも思われたが、一緒に逃げてきた人々を振向けば、錯乱して「死にたくない死にたくない」とぶつぶつ繰り返している大人が居た。
今更自分が短絡をしたって後ろ指はさされるまい。アランはそんな回りくどい考えを巡らせた。それで自分を納得させると、独り言を言うように崖下の暗闇へ声をかけた。
「は、ハスハ……」
羞恥心がこみ上げて尻すぼみになる。
〈馬鹿馬鹿しい。やるんじゃなかった〉
第一ハスハの亡骸が見当たらないのは、彼女がこの広場から逃げ出したからである。そしてその後彼女がどうなろうと、アランの知ったことではない。
理由もなしにハスハが崖下に居ると感じられてしまったのは、この異常な状況のせいである。今の自分は盲目的な直感に踊らされて、真っ当な思考が出来なくなっている。
〈錯乱の徴候、なのか?〉
アランが不安になると、
「アラン……アラン……」
〈これは、良くない。非常に、良くない〉
いよいよ幻聴が聞こえて来た。ハスハと別れた後もスメッグは使っていない。つまり純粋に心理的な変調である。
「アラン……アランよね。来てくれたのね、アラン」
〈聞こえないったら聞こえない〉
そちらの仲間にしてもらうわけにはいかないのである。アランは目を瞑って「アーアー、聞こえない」と呟いた。
「アラン?」
「へ、ハスハ? 本当にハスハなのかい?」
「良かった。無事だったのね」
立ち位置の上で無事を心配すべきはアランの方である。アランは自分の理性に侘びを入れながら手すりを跨いだ。
崖の高さと勾配は、思いのほか結構なものであった。滑り降りたのは良いが、下に着く間際にはかなりの速度が出ていた。
尻餅を嫌い大げさに転がって衝撃を分散させなければ、どこか怪我をしていたかもわからない。
崖下は薄暗い森である。アランは携帯端末のカメラライトを点けた。
ハスハはすぐに見つかった。
「アランが来てくれた。ほんとうに来てくれた……そう……やっぱり、アランは私の……」
「酷い怪我だよ!」
ハスハが何やら呟きかけたが、アランのして見せた仰天はそれを打ち消すに余りあった。
ハスハを見た途端にひやりとしたのは、流血のために違いないのである。
ハスハは右手を抱えて、木の幹を背凭れに座り込んでいた。袖じゅう赤く染まっていた。てらてらと艶のあるところが傷であろう。
ハスハは化粧をしない。ただでさえ白い顔が青ざめて、蝋人形めいて見えた。
痛みの峠は過ぎたのか、ハスハは目をそっと細めて、どうにか息を整えようと胸を上下させている。少女と付き合っていた頃の記憶が一瞬、アランの脳裏によぎった。
「ハスハ、大丈夫?」
大丈夫でないのは承知の上である。少女が「ええ」と返して、痛みに顔を引きつらせるのも決まりきったことである。
「足も挫いたんだね。その、ごめんよ。でも、止血が要るかもしれない」
アランからしてみれば苦痛を与える前の断りであるが、ハスハはアランに触れられると不意を衝かれたような声を上げた。
銃弾は腕を貫通したようであった。
「アランは、何でもできるのね」
添え木に手ごろな枝を見つけて戻るとハスハが言った。
「僕はちゃんと勉強してるもの」
軽い口ぶりで返しはしたものの、応急処置の仕方などハスハの怪我を見るまで意識に上ったことはない。
学習装置のおかげであるがハスハの眼差しを見ると、目玉の裏側がむずむずする心地がした。『あなたは知っていることさえ知らないでいる』少女の目がそう語っているようにも思われた。
アランが自分の服ではなくハスハのスカートを引き裂いたのは、みみっちい物惜しみや無意識的な悪意の表出とばかりはいわれない。
アランは一応躊躇したのである。しかしロングスカートは動き辛く、手当ての布にそれを使えば一石二鳥である。どうせハスハらしく地味な安物なので、左程の損失でもあるまい。
スカートの思いがけない丈夫さに手こずりながら、アランは二つの打算のうちの一方をハスハに話して聞かせた。
ハスハのか細い声で、アランははたと気が付いた。コーディネイターは痛みに敏感である。うら若き少女ならば尚更である。
いっそ乙女という罵倒語で形容したい人間であっても、相手の痛みを思い遣るのは、コーディネイターのコーディネイターとしての義務である。
アランは俄に手を引込めて、自分のポケットを探った。
「止血のとき痛いからさ、痛み止め」
嘘は付いていない。スメッグには痛み止めの副作用がある。しかし特有の臭いは誤魔化せないのか、ハスハは眉を顰めて首を振った。
ふるふるというよりぷいぷいという首振りである。いつもより強情さが増している。
「飲まなきゃ痛いんだよ」
「いや」
「ほら」
アランは指で摘んだ錠剤を突き出した。
「いや、スメッグはいや」
「飲みなったら」
〈聞き分けの無い〉そう心中で毒づいて押し付けるが、少女は口を硬く閉ざし、無理に口に入れたところでぷっと吹き出してしまうであろう。
こんな根気比べが傷に響くのは当然である。
「この痛みは、私だけのもの。私だけの、本当の……」
ぶり返した激痛に震えながら、ハスハがうわ言めいたことを言い出した。
大いに痛々しい姿であったけれども、本末転倒の結果は却ってアランを依怙地にした。
〈やりたくないけど、やるしかない〉アランは錠剤を口に含んだ。
ところで目糞の材料は宝石に喩えられるが、他の体液仲間はというと、殆ど卑しい比喩に用いられている。
涙川も一晩経てば鼈甲だのに、全くもって不当な評価である。ひどい差別である。たいへんな不平等である。まちがいなく反液主主義的である。
汗にも液権を、アンモニアに自由を、色で態度を変えられるのはもう我慢できない、香水なる外敵の侵攻しつつある今こそ我々は団結せねばならぬ。
体液たちは宿主の寝静まったとき、そんな愚痴を零している。こんな協議が夜な夜な続いた結果、そのうち具合の良い妥協案が見出される。
最下位の者以外は、ある場合に限りその詩的格付けの向上を許すこととする。ある場合とは、理性とか名乗るあの傲慢ちきな監視人の眠ったときである。
貧しきものらは天国に上り、富めるものらの地獄で罰せられるのを見て楽しむ。それが約束である。御国がいよいよ近づいた。
涎女王はきらきら橋を渡しながら「さあさあ私を褒めて! 私はかわいい! 私はきれい!」などと早くも有頂天である。
その遥か下方に位置する連中は「ホルモンさん! ホルモンさーん! 早く早くぅ、早く来とくれぇっ!」「ばっかお前、俺が先だって言ってんだろ。そんなんじゃまた早死にしちまうぜ?」
「いいんだ。どうせ僕は、いつまでも仲間はずれなんだ」
「それはアンタが黄色くて臭くてしょっぱいからよ。まあ、あ、アタシの家来にしてやってもいいけど……か、勘違いしないでよね! アンタなんか別に何とも思ってないんだから!」と汗姫が一人合点して吹き上がる。
そこに「貴様ら! 何を騒いでいる!」と鶴の一声が響き渡り、しんと静まり返った。早寝遅起きのくせに、今日に限って目覚めていたのである。
声の主は全員をひとしきり睨み終えると、早速罵倒しようと「貴様らのような最下等の――」と言いかけるが、肝心の罵詈雑言が思い浮かばない。
貴様らはしょぼくれた何々と薄汚い何々をミキサーにかけて調理した挙句腐った何々をちりばめたとてつもない何々野郎だ、
というのが常套の形式であるが、その何々という材料が悉く当の叱咤する相手の名前なのである。
しかし暫く考えて素晴らしい悪口を思いついたらしく、学生をやり込めて得意がる老教師のような顔を浮かべた。「貴様らはまるで俺みたいな恥知らずだ!」皆一様にしゅんとなった。
相手の痛覚を省みずとも良くなり、聊か荒っぽい手当ては思い切りよく済ませることが出来た。少女の体はくたんとしていた。
慣れない感覚に圧倒されたのか、手当ての最中、少女は人形のようになすがままになっていた。
アランはハスハの顎に垂れた唾液をハンカチで拭った。
「ハスハ、終わったよ」
アランが声をかけると、ハスハは目をぱちりと開けて微笑んだ。いやに赤く見える唇から含み笑いが漏れた。
どうもスメッグが効き過ぎたようである。
「歩ける……はずないか」
「ん、だっこ」
アランの独り言にハスハが唇を突き出した。スメッグによる陶酔には同じ陶酔でもって対抗しない限り、受け答えしてはならないのが鉄則である。
今のアランは艶かしい気持ちなど微塵も持ち合わせないので、怪我人の運搬方法を考えるのに懸命であった。
担架の材料は無いし、そもそも人手が無いのである。
「誰か! 友達が怪我をしたんです!」
崖の上に向けて大声に叫んだが、聞き耳を立てても人声は返ってこない。
ハスハの頼りない声があんなにはっきり聞き取れたのであるから、この大声は向こうにも必ず聞こえるはずである。
〈誰もいなくなってしまったの? それとも……いや、僕は正気なんだ〉
アランはもう一度助けを呼んだ。すると微かに何かが聞こえた気がした。アランは安心して、
「こっちです! 下ですよ! 今怪我人が――」
『でっでっでっでっ……』
「……嘘だろ」
もはや少女の体と自分の筋肉を労わってなどいられない。アランは右腕をハスハの背に回し、左腕を膝の下に差し入れた。
「ハスハ、肩に掴まって……違う、逆。そう、首に回すんだよ」
少女の腕に力が篭ると、アランは立ち上がった。いわば半魚人持ちと呼ばれる横抱きである。
長距離の運搬に向かないが、手段をえり好みする余裕もない。
『でっでいう』
崖から土くれが転がって来た。アランは歯を食い縛って駆け出した。OSの粗悪なMSのようにちょこちょこした足運びであった。
〈みっともないみっともない――なんてみっともない!〉
命の危険と腱の断裂にびくびくしながらも、少年の心中ではそういう繰り言が呟かれた。
ポストはザリーの顔色の露骨さににんまりした。
〈色情狂めが〉
Doll-A07が撤退を始めてから、このイェニチェリー・モロンは円滑に機能するようになっていた。
ひどく勤勉であった。問わず語りに状況説明するくらい熱心であった。アナウンス用モロンの仕事を横取りして、美声の代わりにきいきい声を聞かせてくれた。
「アーミー・モロン二体、ポイントO-157のカメラに接近……破壊されたであります!」
いちいち言われずとも映像を見ればわかることであるが、試験明けの学生のように素朴な躁妄に水をさすのは思慮の足りぬ僻み根性というものであろう。
権柄づくはここぞというときまでとっておきたいというのがポストの考えである。
ポストは甘ったるいコーヒーに塩コショウを振りながら、自然公園の地図を眺めた。
無数の凸印は監視カメラの映像やの破壊順番やの情報から予測したアーミー・モロン部隊の位置を示している。
そのうち一つが動き出して、ポストはつい涙ぐんだ。
〈かわいそうに!〉
ポストの想像力は凸印の僅かな動きから、市民たちの血と汗と涙と脳漿を眼下に描き出して同情心を煽った。
〈私は、なんとやさしいのだろう!〉
ポストは見ず知らずの人の葬儀に出席した女性のように、しなを作った手つきで目元を拭いた。
そして涙に濡れたハンカチで顔を包むと、放屁めいた音を鳴らして洟を噛んだ。
ポスト・フェストゥムは缶詰工場の生産報告の字面で涙を流せる人間である。その心痛は察するに余りあった。
「さてザリー君。そろそろ君の推定も推測となったろう。言ってみたまえ」とポストは開いたハンカチを凝視しながら言った。
地図上に、Doll-DAの墜落地点が×印で表示された。凸印はそこのぐるりを囲むように位置し、それが時間の経過とともに狭まるのが見て取れた。
「進行目標はアンノウン墜落地点であると思われるのであります! しかしながら――」
「Dモードにしては鈍すぎ、MSもほとんど役立てていない。ということは……おっと、続けてくれ、ザリー君」
「……墜落地点が森林地帯でありますことを考慮致しましても――」
「ともかく手心を加えているのは間違いあるまい。細かい理屈は要らんよ……君の見解は実に興味深い。さあ、続けてくれたまえ」
「……降下直後の攻撃の際には――」
「園路と広場に限り、森には進行しなかった。むしろ避けて通った。それを察した市民は少なかったようだがね」
〈さすが48居住区、民度が高い〉
ポストは感嘆を示すために手を叩いた。
「ザリー君、君はやはり優秀だ。君の洞察力は驚嘆に値する。さあ、遠慮せず大いに語ってくれ。私は君の実力を非常に評価しているのでね」
「……恐悦至極であります。イェニチェリー・モロンのザリー・マッカティンには、身に余る光栄であります。
ですが続けて失礼を述べさせていただくことになるかもしれません。自分の推察するところ、所属不明アーミー・モロン部隊は――」
「市民を家畜のように追い立てているということだ。アンノウンの下にな」
「そうなのであります! 閣下!」
説明に散々口を挟まれたザリーは、ポストの下した結論に大声で同意した。
ポストの後ろに控えているお茶汲みモロンがびくっとするほどの大声であった。
足を進めるごとに腰の違和感は確実に大きくなる。
「平穏な日常が音を立てて壊れて行く……響き渡る軍靴の足音……胸を引き裂かれるような悲鳴……むせるくらい濃密な血の香り……」
『でっでっでっでっ……』
足の張りはもはや鈍痛と化している。
「でも本当は、私はこうなることを望んでいたのかもしれない……」
『でっでっでっでっ……』
喉が渇く。肺に穴が開いたように、ひゅうひゅうという音が口から漏れる。
「この世界は間違っていたのよ……なにもかもが作り物……私たちはみんな、嘘の中で生きていたの。
仮面を仮面と気付けないまま……自分が偽者だということを悟れないまま……平等に騙されたまま……何者にもなれず、失い続けたまま……」
『でっでっでっでっ……』
腕の感覚が無い。震えているかもわからない。
「いいえ。失うものなんて、初めからなかった……私たちは人形だもの。人形劇の役者なのだもの」
『でっでっでっ……』
汗だくの背中が冷たい。視界も霞んでいる。何か言ったが最後、自分はもう倒れてしまうに違いない。
「この世界に人間なんていない。あるのは人形だけ。
自由な人間、愛し愛される人間、幸せになるために生まれた人間、そうしてそういう人間たちの、素晴らしい人生……みんな嘘よ。
どこにも実在しないの。架空の生活なの。はやりの歌詞と同じような、フィクションなのよ……」
『でっでっでっ……』
足は音のしない方向に向けて運ばれて行く。枝を踏み折り、土を削り、膝の軋む感覚だけがそれを示している。
「けれど私たちは自己自身から目を逸らして、懸命に己を欺こうとする。
完成された社会、真実の文明なんてそのための幻想よ。本当はただ、永遠に打ち続く無人境が広がっているだけ」
『でっでいう……』
腕の中の少女が、けらけらと笑った。
「彼らはそれに気付いた。気付いてしまった。あのモロンたちは、人間となってしまった。
そして目覚めた人間から見ると欺瞞に満ちた今の世界というのは、吐き気を催す醜悪な世界なのよ……
これは粛清。世界の嘘を掃き清める、再生の前の破壊。彼ら真の人間にとっての始まり。
コーディネイターという人形にとっては、これは全ての終わり――そう、みんな終わる。
偽りの世界が崩壊する。永い永い悪夢が、やっと終わる」
『デストローイ!』
遠くで響いた銃声に意識がはっきりした。
〈気ちがい沙汰だ!〉とアランは叫びたかった。スメッグのために頭の働きを正常でなくしたハスハが、先ほどからアランの耳元でたわ言を呟いているのである。
これを投げ飛ばして頬打ちの清算をするという案は魅力的に思われたけれども、腕が痺れて断念した。
ハスハは得体のしれぬ感覚でその思惑を察したのかもしれない。アランの首に回した腕に力を込めて、体をより密着させた。
演説の止まったのを訝ってアランが目を向けると、彼女はまたもや何かを感知したらしく、濡れた唇で囁いた。
「――好きよ、アラン」
「それはどうも」
「アラン。最後にもう一度だけ……キスして」
「やだよ」
ハスハの目が潤んだが、アランはモロンの遠吠えに注意を向けた。
モロンの声が届かないところで小休止する頃には、ハスハに飲ませたスメッグの効果も消え去っていた。
少女が俯いて一言も発しないのは、腕の傷ばかりが原因ではなかろう。
その血量は顔を赤らめるには至らないが、絶えずあたりに目を配りながらも、アランと目が合いそうになるとうなだれてしまう。
弁護の種はある。スメッグの使い始めは誰しも分別を無くすし、ある程度飲み方を心得たアランですらも、時にはついつい悪酔いに耽ることがある。
ハスハの場合はたった一粒である。しかしこれは少女の体質からして著しい効果を上げてしまったに過ぎず、
彼女自身の精神が劣っていたのでは決してない。理性が欠如していたのでは決してないのである。
アランは思い遣りからそういう断定を下したが、自身も遣り切れない気持ちになるのは避けられなかった。
ハスハの恥じ入りようをみるに、躁狂の醒めた後の背汗はひとしおであろう。実に暗澹たる思いである。
もはや二度と飲むまい。飲んでも口を開くまい。記憶力の無いモロンが羨まれるひと時である。
「やっぱりモロンの暴走なのかな」とアランは切り出した。
「モロンはさ、僕らに危害を加えられない。そのはずだろう?」
ハスハは青ざめた顔を上げて、遠くを見るような目つきをした。
「わからない……」
「そうとしか考えられないよ」
「彼らには……アーミー・モロンたちには何か目的があるような気がするの。彼らは正常、なのかもしれない」
酔いの繰り言と矛盾するかに思われたがアランは口を噤んだ。やぶ蛇をつついて恥をかかし、それで己ひとり得意がるのはそんなに上等な嗜好とはいわれない。
「アランは、気が付いた?」
「あ、うん。それなりに」
「モロンたちは楽しんでいるみたいだった。けれど、本気でもなかったのよ」
「ただの憶測かもしれないよ」
「そうね……これは、狂ったモロンたちが引き起こしていること。今はまだ、そう考えたほうが――」
実のところアランには、ハスハの言う事が一言も理解できなかった。
自分が知らないのにハスハが知っているというのが何となく癪で、調子を合わせておかねば侮られるような気がしたのである。
『でっでっでっ……』
微かに聞こえてきたモロンの声が、ハスハの続けようとした言葉を打ち消した。
「やつらが来る。自分で歩くのは……無理そうだね」
ハスハが木に手をついて立ち上がった。
「ううん。歩けるわ」
「ばか」
アランはハスハのよろめいた体を支えた。
「結局さ、負ぶって走ったほうが速いんだ」
流石に半魚人持ちはもう勘弁して欲しいので、アランはハスハの負担を省みず、彼女を背負うことにした。
「ありがとう」
ハスハの吐息を煩わしく感じていると、耳元でそんなことが囁かれた。
余計なことを言って気を散らすなら、せめて謝罪を口にしてもらいたい。
からだじゅう痛かった。
手は動く。赤い光にかざしてみた。
「手、ある」
膝に触れる。足はちゃんとついている。
「足、ある」
顔を撫でてみる。凹凸は保たれてある。
「顔、ある」
不自然な水気はどこにも感じない。最後は胸に手を当てた。心臓は鼓動している。
「……あるったらある」
ナギはぱっと身を起こしてきょろきょろとコックピットを見回した。
モニターはエラーの表示で埋まったままであるが、ガンダムが完全に機能停止しているのでもあるまい。
自分が五体満足でいられたのは、落下の途中で慣性制御が働いたからである。そうでなければ気絶などでは済まされず、手足を探す羽目になったろう。
再起動を試みるも反応はなかった。
「最新機器って、これだから嫌なのよ」
なんでもかんでも小型化、精密化で、専門の技術者でなくては故障に対処できないよう作られている。
各部が関連し合っていて、あるところが駄目になれば全体も損なわれるという風で、人間の体のように脆いのである。不具合の原因すら分かりはしない。
ナギは出鱈目にキーを叩いたり、それで更なるエラーをはじき出すプログラムをなだめすかしたり、コンソールを殴りつけたりした挙句、とうとうガンダムの再起動を諦めた。
ナギはサバイバルキットを開けて拳銃を取り出した。もはやガンダムになど構ってはいられない。
いくらこれが大切なMSであろうが、死んでしまっては何もかもおしまいである。
「そうよ。あたしは絶対に生きてやる。この先生きのこって、やらなきゃいけないことがあるんだから」
クリトン・キーンのにやけ面をぱんぱんに膨らましてやることと、ついでにコンティを張り倒すことである。
ハッチは手動で開けねばならない。ナギはコンティの顔をちらと思い浮かべつつ、渾身の蹴りをそれに浴びせた。
コックピットを出ると森であった。周りの木々は大きく傾き、中ほどからへし折れているものや、根っこごと引っこ抜かれているものがあった。
抉られた地面のあちこちから白い煙が幾筋か昇り、熱気とともにゴムを焼いたような匂いも立ち込めている。おそらくこれらはガンダムドルダの墜落によるものであろう。
ガンダム自身はというと、「究極! ドルダ・キック」を放つ直前の姿勢で横たわっている。
ナギはワイヤーを伝って下に降りた。土の掘り起こされたところからは、生き物の臭みがほとんど感じられない。
草木を注視すると、みな人工の観葉植物よりも色艶がうそ臭い。それに形も整いすぎていて、映画撮影のセットを思わせた。
「ガンダミズムなんかどうでもいいけど、コーディネイターって、ほんと狂ってるのね」
以前にウーティスの話していた自然公園というところに違いない。ナギには先が思い遣られた。
この気ちがいめいた文化の中で、しばらく逃亡生活を送らねばならぬかもしれないのである。
コーディネイターの生活に犯罪というものはない。よってナチュラルでいう警察機構は存在しない。
市街地に入り込んでしまえばどうにでもなる。ここでは喫茶店の砂糖のように、最低限の生活物資は無償で手に入れられる。
そうした思い巡らしの途中、
「でっでっでっ……」という人声が聞こえた。
ナギは咄嗟にガンダムの足に身を隠した。顔を半分だけ出して覗き見ると、小銃を手にしたアーミー・モロンがいた。
ズボンの生地を破廉恥な形に突っ張らせ、こちらに向かって歩いて来る。
追っ手が来るのは当然のことであるが、ナギは今更ながら悪寒に襲われた。
ガンダムに乗っていたせいであろうか、つい先ほどまでは恐怖というものを全く感じなかったのである。
ナギはガンダムの足に背をもたせかけ、ゆっくり深呼吸した。
なぜかは知らないが、アーミー・モロンは掛声と足踏みの調子を合わせている。それで大まかな距離は察せられた。
ナギは拳銃のスライドを引いた。
「でっでいう?」
生身の人間を撃つのにためらいは無論ある。しかし殺人というものは、自分たちがMSでいつもしていることである。
殺さないと殺される。善人を気取り、臆病風に吹かれてはたまらない。これは誰しもがやらねばならないことで、絶対に必要なことなのである。
指の震えが止む。伊達にMSパイロットをやっているのではない。自己暗示には自信があった。ナギはドルダの足から飛び出した。
銃声が響き渡った。
「でででんっ、でっでっでっ……」
無傷である。銃弾は外れていた。アーミー・モロンがくるりとナギを真正面に向いた。
小銃の狙いと股間の突起とが並行になる。また撃つか身を隠すかの逡巡の束の間に、アーミー・モロンが口を開いた。
「デスト――」
「この変態!」
ナギはすかさず引き金を引いた。何度も何度も引き絞った。太腿に一発当たり、アーミー・モロンの体ががくんと揺らいだ。
転びかけると胴体に命中し、その影響でびくんと引きつった。もう一発胸に着弾し、アーミー・モロンは尻餅ついて倒れた。
激鉄の鳴る音だけが続いた。
「やった、の」
唾液がどっとにじみ出た。目が霞んだ。ナギは拳銃を取り落とした。
これは馬鹿げたことである。灰色のハムスターを見て金切り声を上げるのと同じ、いわば媚びへつらいから演繹された第二の本能に過ぎない。
人間は人間にとって最悪の獣である。したがって共食いが自然法で許されている。
正当な理由を証明できるなら、殺人という行為に何ら後ろめたいことはない。
寧ろ、この正当防衛という至上の正義はなされねばならない。嫌悪を感じて怖気づくなど言語道断である。
しかしナギ・ヴァニミィという女性は、自己の行為の結果を目の当たりにして実践的理性を失い、最高原理を忘却したらしい。
不当に多大な不快のあまり、身体機能に異常をきたしてしまっていた。
アーミー・モロンの倒れる間際、目が合ったのである。確かに合ったのである。獣のようで、幼子のような目に見えた。
ぞっとする目である。指先ひとつで命を左右してはいけないと、道学者流の傲慢さで訴えかける目であった。
無償の同情というご馳走で誘惑し、人間の良心を餓えさせる目であった。
想像力の咄嗟にでっち上げた人道茶番が頭に焼きついて、酸っぱいものが喉を昇った。
それは口に至ると歯の表面をざらざらにし、鼻腔も潤そうと暴れて鼻の奥をつんとさせた。
自分は何をぐずぐずしているのかとナギは思った。敵はまだいるかもしれず、しかも弾倉一つを丸々使い果たしてしまった。
このまま感傷に浸っていては、自分が殺されてしまうのである。利己心は第一の習慣であり、第二のそれより先に来る。
ナギが立ち直るまでにあまり時間はかからなかった。とにかく自分は死にたくない。後悔を楽しむのは後で存分に出来る。
ナギは自分の頬を打った。この痛みはコンティにも味わわせてやると思いながら、顔を上げた。
そのようにナギが嫌悪をねじ伏せて反吐を飲み下し、目を拭ったときであった。
血に染まったアーミー・モロンの上体が、むっくりと起き上がった。
「……デストローイ」
ナギは焔に似た閃光を見た。そして銃声と、弾丸の骨肉を穿ち臓物に押し入る音を聞いた。それは無数に聞こえた。
見開いたままの目が迫る地面を捉えた。口の中は胸やけしそうなほど濃厚な液体にたぷたぷと満たされた。
頬に押し付く土がいやに生ぬるかった。見聞きする一切がなんだか場違いなように思われた。
ナギ・ヴァニミィは考えることを止めた。しかし彼女の視界では、その場違いな光景がずっと映し出されていた。
アーミー・モロンの進行は遅く、アランを含むコーディネイターの一団はアーミー・モロンを撒いていたが、この広場の状況を見るに、生きて逃げられる可能性は無きに等しかった。
この展望台広場は園路の中継点で、交差点ではない。既にアーミー・モロンの暴れた痕跡のある以上、進んでも戻ってもアーミー・モロンに出くわすのである。
女性コーディネイターがへたり込んでめそめそと泣き出した。男性コーディネイターは口を覆って、今更にこみ上げて来た反吐を指の隙間からぶぴゅっと飛ばした。
恋人に「大丈夫、絶対、大丈夫だから」と言い聞かせながらも、自分のズボンに湯気を立てる男も居た。
広場には無数の亡骸がうち捨ててあった。銃弾による亡骸は割合きれいなものである。確実に息の根を止めるために、全員が全員頭を打ち抜かれている。
酷いのは銃剣やMSにやられた人間である。
展望台の手すりに前のめっている人は、背を散々に刺されるついでにわき腹を裂かれ、たぶん意味も無く引っ張り出されたのであろうが、荒縄を連想させるものをぶら下げている。
MSに踏まれたのはめったに面影を留めていない。誰のとも知らぬ腕が、草むらに転がっている。町の夜景は宝石箱のように煌びやかであった。
アランは知らず知らずに銀髪の亡骸の無いのを確かめていた。そして見覚えのある黒子モロンを見つけた。
黒子モロンは茂みの傍で、後頭部を一発で仕留められてあった。黒子モロンの手には、体の半分ほどを噛み潰された小鳥の死骸があった。
大方、新鮮な夜食をくちゃくちゃしていたところをアーミー・モロンに片されたのであろう。
アランは広場を見渡すと、はっと何か合点の行ったような気がして展望台の手すりに駆け寄った。
手すりの下は地肌がむき出しの崖である。夜間であるのに加え、木々に遮られているので高さはわからない。
しかしなんとなく空気の感覚からして、それほどの距離ではなかろうと感じられた。
〈こんなの理性的じゃない〉と自分でも思われたが、一緒に逃げてきた人々を振向けば、錯乱して「死にたくない死にたくない」とぶつぶつ繰り返している大人が居た。
今更自分が短絡をしたって後ろ指はさされるまい。アランはそんな回りくどい考えを巡らせた。それで自分を納得させると、独り言を言うように崖下の暗闇へ声をかけた。
「は、ハスハ……」
羞恥心がこみ上げて尻すぼみになる。
〈馬鹿馬鹿しい。やるんじゃなかった〉
第一ハスハの亡骸が見当たらないのは、彼女がこの広場から逃げ出したからである。そしてその後彼女がどうなろうと、アランの知ったことではない。
理由もなしにハスハが崖下に居ると感じられてしまったのは、この異常な状況のせいである。今の自分は盲目的な直感に踊らされて、真っ当な思考が出来なくなっている。
〈錯乱の徴候、なのか?〉
アランが不安になると、
「アラン……アラン……」
〈これは、良くない。非常に、良くない〉
いよいよ幻聴が聞こえて来た。ハスハと別れた後もスメッグは使っていない。つまり純粋に心理的な変調である。
「アラン……アランよね。来てくれたのね、アラン」
〈聞こえないったら聞こえない〉
そちらの仲間にしてもらうわけにはいかないのである。アランは目を瞑って「アーアー、聞こえない」と呟いた。
「アラン?」
「へ、ハスハ? 本当にハスハなのかい?」
「良かった。無事だったのね」
立ち位置の上で無事を心配すべきはアランの方である。アランは自分の理性に侘びを入れながら手すりを跨いだ。
崖の高さと勾配は、思いのほか結構なものであった。滑り降りたのは良いが、下に着く間際にはかなりの速度が出ていた。
尻餅を嫌い大げさに転がって衝撃を分散させなければ、どこか怪我をしていたかもわからない。
崖下は薄暗い森である。アランは携帯端末のカメラライトを点けた。
ハスハはすぐに見つかった。
「アランが来てくれた。ほんとうに来てくれた……そう……やっぱり、アランは私の……」
「酷い怪我だよ!」
ハスハが何やら呟きかけたが、アランのして見せた仰天はそれを打ち消すに余りあった。
ハスハを見た途端にひやりとしたのは、流血のために違いないのである。
ハスハは右手を抱えて、木の幹を背凭れに座り込んでいた。袖じゅう赤く染まっていた。てらてらと艶のあるところが傷であろう。
ハスハは化粧をしない。ただでさえ白い顔が青ざめて、蝋人形めいて見えた。
痛みの峠は過ぎたのか、ハスハは目をそっと細めて、どうにか息を整えようと胸を上下させている。少女と付き合っていた頃の記憶が一瞬、アランの脳裏によぎった。
「ハスハ、大丈夫?」
大丈夫でないのは承知の上である。少女が「ええ」と返して、痛みに顔を引きつらせるのも決まりきったことである。
「足も挫いたんだね。その、ごめんよ。でも、止血が要るかもしれない」
アランからしてみれば苦痛を与える前の断りであるが、ハスハはアランに触れられると不意を衝かれたような声を上げた。
銃弾は腕を貫通したようであった。
「アランは、何でもできるのね」
添え木に手ごろな枝を見つけて戻るとハスハが言った。
「僕はちゃんと勉強してるもの」
軽い口ぶりで返しはしたものの、応急処置の仕方などハスハの怪我を見るまで意識に上ったことはない。
学習装置のおかげであるがハスハの眼差しを見ると、目玉の裏側がむずむずする心地がした。『あなたは知っていることさえ知らないでいる』少女の目がそう語っているようにも思われた。
アランが自分の服ではなくハスハのスカートを引き裂いたのは、みみっちい物惜しみや無意識的な悪意の表出とばかりはいわれない。
アランは一応躊躇したのである。しかしロングスカートは動き辛く、手当ての布にそれを使えば一石二鳥である。どうせハスハらしく地味な安物なので、左程の損失でもあるまい。
スカートの思いがけない丈夫さに手こずりながら、アランは二つの打算のうちの一方をハスハに話して聞かせた。
ハスハのか細い声で、アランははたと気が付いた。コーディネイターは痛みに敏感である。うら若き少女ならば尚更である。
いっそ乙女という罵倒語で形容したい人間であっても、相手の痛みを思い遣るのは、コーディネイターのコーディネイターとしての義務である。
アランは俄に手を引込めて、自分のポケットを探った。
「止血のとき痛いからさ、痛み止め」
嘘は付いていない。スメッグには痛み止めの副作用がある。しかし特有の臭いは誤魔化せないのか、ハスハは眉を顰めて首を振った。
ふるふるというよりぷいぷいという首振りである。いつもより強情さが増している。
「飲まなきゃ痛いんだよ」
「いや」
「ほら」
アランは指で摘んだ錠剤を突き出した。
「いや、スメッグはいや」
「飲みなったら」
〈聞き分けの無い〉そう心中で毒づいて押し付けるが、少女は口を硬く閉ざし、無理に口に入れたところでぷっと吹き出してしまうであろう。
こんな根気比べが傷に響くのは当然である。
「この痛みは、私だけのもの。私だけの、本当の……」
ぶり返した激痛に震えながら、ハスハがうわ言めいたことを言い出した。
大いに痛々しい姿であったけれども、本末転倒の結果は却ってアランを依怙地にした。
〈やりたくないけど、やるしかない〉アランは錠剤を口に含んだ。
ところで目糞の材料は宝石に喩えられるが、他の体液仲間はというと、殆ど卑しい比喩に用いられている。
涙川も一晩経てば鼈甲だのに、全くもって不当な評価である。ひどい差別である。たいへんな不平等である。まちがいなく反液主主義的である。
汗にも液権を、アンモニアに自由を、色で態度を変えられるのはもう我慢できない、香水なる外敵の侵攻しつつある今こそ我々は団結せねばならぬ。
体液たちは宿主の寝静まったとき、そんな愚痴を零している。こんな協議が夜な夜な続いた結果、そのうち具合の良い妥協案が見出される。
最下位の者以外は、ある場合に限りその詩的格付けの向上を許すこととする。ある場合とは、理性とか名乗るあの傲慢ちきな監視人の眠ったときである。
貧しきものらは天国に上り、富めるものらの地獄で罰せられるのを見て楽しむ。それが約束である。御国がいよいよ近づいた。
涎女王はきらきら橋を渡しながら「さあさあ私を褒めて! 私はかわいい! 私はきれい!」などと早くも有頂天である。
その遥か下方に位置する連中は「ホルモンさん! ホルモンさーん! 早く早くぅ、早く来とくれぇっ!」「ばっかお前、俺が先だって言ってんだろ。そんなんじゃまた早死にしちまうぜ?」
「いいんだ。どうせ僕は、いつまでも仲間はずれなんだ」
「それはアンタが黄色くて臭くてしょっぱいからよ。まあ、あ、アタシの家来にしてやってもいいけど……か、勘違いしないでよね! アンタなんか別に何とも思ってないんだから!」と汗姫が一人合点して吹き上がる。
そこに「貴様ら! 何を騒いでいる!」と鶴の一声が響き渡り、しんと静まり返った。早寝遅起きのくせに、今日に限って目覚めていたのである。
声の主は全員をひとしきり睨み終えると、早速罵倒しようと「貴様らのような最下等の――」と言いかけるが、肝心の罵詈雑言が思い浮かばない。
貴様らはしょぼくれた何々と薄汚い何々をミキサーにかけて調理した挙句腐った何々をちりばめたとてつもない何々野郎だ、
というのが常套の形式であるが、その何々という材料が悉く当の叱咤する相手の名前なのである。
しかし暫く考えて素晴らしい悪口を思いついたらしく、学生をやり込めて得意がる老教師のような顔を浮かべた。「貴様らはまるで俺みたいな恥知らずだ!」皆一様にしゅんとなった。
相手の痛覚を省みずとも良くなり、聊か荒っぽい手当ては思い切りよく済ませることが出来た。少女の体はくたんとしていた。
慣れない感覚に圧倒されたのか、手当ての最中、少女は人形のようになすがままになっていた。
アランはハスハの顎に垂れた唾液をハンカチで拭った。
「ハスハ、終わったよ」
アランが声をかけると、ハスハは目をぱちりと開けて微笑んだ。いやに赤く見える唇から含み笑いが漏れた。
どうもスメッグが効き過ぎたようである。
「歩ける……はずないか」
「ん、だっこ」
アランの独り言にハスハが唇を突き出した。スメッグによる陶酔には同じ陶酔でもって対抗しない限り、受け答えしてはならないのが鉄則である。
今のアランは艶かしい気持ちなど微塵も持ち合わせないので、怪我人の運搬方法を考えるのに懸命であった。
担架の材料は無いし、そもそも人手が無いのである。
「誰か! 友達が怪我をしたんです!」
崖の上に向けて大声に叫んだが、聞き耳を立てても人声は返ってこない。
ハスハの頼りない声があんなにはっきり聞き取れたのであるから、この大声は向こうにも必ず聞こえるはずである。
〈誰もいなくなってしまったの? それとも……いや、僕は正気なんだ〉
アランはもう一度助けを呼んだ。すると微かに何かが聞こえた気がした。アランは安心して、
「こっちです! 下ですよ! 今怪我人が――」
『でっでっでっでっ……』
「……嘘だろ」
もはや少女の体と自分の筋肉を労わってなどいられない。アランは右腕をハスハの背に回し、左腕を膝の下に差し入れた。
「ハスハ、肩に掴まって……違う、逆。そう、首に回すんだよ」
少女の腕に力が篭ると、アランは立ち上がった。いわば半魚人持ちと呼ばれる横抱きである。
長距離の運搬に向かないが、手段をえり好みする余裕もない。
『でっでいう』
崖から土くれが転がって来た。アランは歯を食い縛って駆け出した。OSの粗悪なMSのようにちょこちょこした足運びであった。
〈みっともないみっともない――なんてみっともない!〉
命の危険と腱の断裂にびくびくしながらも、少年の心中ではそういう繰り言が呟かれた。
ポストはザリーの顔色の露骨さににんまりした。
〈色情狂めが〉
Doll-A07が撤退を始めてから、このイェニチェリー・モロンは円滑に機能するようになっていた。
ひどく勤勉であった。問わず語りに状況説明するくらい熱心であった。アナウンス用モロンの仕事を横取りして、美声の代わりにきいきい声を聞かせてくれた。
「アーミー・モロン二体、ポイントO-157のカメラに接近……破壊されたであります!」
いちいち言われずとも映像を見ればわかることであるが、試験明けの学生のように素朴な躁妄に水をさすのは思慮の足りぬ僻み根性というものであろう。
権柄づくはここぞというときまでとっておきたいというのがポストの考えである。
ポストは甘ったるいコーヒーに塩コショウを振りながら、自然公園の地図を眺めた。
無数の凸印は監視カメラの映像やの破壊順番やの情報から予測したアーミー・モロン部隊の位置を示している。
そのうち一つが動き出して、ポストはつい涙ぐんだ。
〈かわいそうに!〉
ポストの想像力は凸印の僅かな動きから、市民たちの血と汗と涙と脳漿を眼下に描き出して同情心を煽った。
〈私は、なんとやさしいのだろう!〉
ポストは見ず知らずの人の葬儀に出席した女性のように、しなを作った手つきで目元を拭いた。
そして涙に濡れたハンカチで顔を包むと、放屁めいた音を鳴らして洟を噛んだ。
ポスト・フェストゥムは缶詰工場の生産報告の字面で涙を流せる人間である。その心痛は察するに余りあった。
「さてザリー君。そろそろ君の推定も推測となったろう。言ってみたまえ」とポストは開いたハンカチを凝視しながら言った。
地図上に、Doll-DAの墜落地点が×印で表示された。凸印はそこのぐるりを囲むように位置し、それが時間の経過とともに狭まるのが見て取れた。
「進行目標はアンノウン墜落地点であると思われるのであります! しかしながら――」
「Dモードにしては鈍すぎ、MSもほとんど役立てていない。ということは……おっと、続けてくれ、ザリー君」
「……墜落地点が森林地帯でありますことを考慮致しましても――」
「ともかく手心を加えているのは間違いあるまい。細かい理屈は要らんよ……君の見解は実に興味深い。さあ、続けてくれたまえ」
「……降下直後の攻撃の際には――」
「園路と広場に限り、森には進行しなかった。むしろ避けて通った。それを察した市民は少なかったようだがね」
〈さすが48居住区、民度が高い〉
ポストは感嘆を示すために手を叩いた。
「ザリー君、君はやはり優秀だ。君の洞察力は驚嘆に値する。さあ、遠慮せず大いに語ってくれ。私は君の実力を非常に評価しているのでね」
「……恐悦至極であります。イェニチェリー・モロンのザリー・マッカティンには、身に余る光栄であります。
ですが続けて失礼を述べさせていただくことになるかもしれません。自分の推察するところ、所属不明アーミー・モロン部隊は――」
「市民を家畜のように追い立てているということだ。アンノウンの下にな」
「そうなのであります! 閣下!」
説明に散々口を挟まれたザリーは、ポストの下した結論に大声で同意した。
ポストの後ろに控えているお茶汲みモロンがびくっとするほどの大声であった。
足を進めるごとに腰の違和感は確実に大きくなる。
「平穏な日常が音を立てて壊れて行く……響き渡る軍靴の足音……胸を引き裂かれるような悲鳴……むせるくらい濃密な血の香り……」
『でっでっでっでっ……』
足の張りはもはや鈍痛と化している。
「でも本当は、私はこうなることを望んでいたのかもしれない……」
『でっでっでっでっ……』
喉が渇く。肺に穴が開いたように、ひゅうひゅうという音が口から漏れる。
「この世界は間違っていたのよ……なにもかもが作り物……私たちはみんな、嘘の中で生きていたの。
仮面を仮面と気付けないまま……自分が偽者だということを悟れないまま……平等に騙されたまま……何者にもなれず、失い続けたまま……」
『でっでっでっでっ……』
腕の感覚が無い。震えているかもわからない。
「いいえ。失うものなんて、初めからなかった……私たちは人形だもの。人形劇の役者なのだもの」
『でっでっでっ……』
汗だくの背中が冷たい。視界も霞んでいる。何か言ったが最後、自分はもう倒れてしまうに違いない。
「この世界に人間なんていない。あるのは人形だけ。
自由な人間、愛し愛される人間、幸せになるために生まれた人間、そうしてそういう人間たちの、素晴らしい人生……みんな嘘よ。
どこにも実在しないの。架空の生活なの。はやりの歌詞と同じような、フィクションなのよ……」
『でっでっでっ……』
足は音のしない方向に向けて運ばれて行く。枝を踏み折り、土を削り、膝の軋む感覚だけがそれを示している。
「けれど私たちは自己自身から目を逸らして、懸命に己を欺こうとする。
完成された社会、真実の文明なんてそのための幻想よ。本当はただ、永遠に打ち続く無人境が広がっているだけ」
『でっでいう……』
腕の中の少女が、けらけらと笑った。
「彼らはそれに気付いた。気付いてしまった。あのモロンたちは、人間となってしまった。
そして目覚めた人間から見ると欺瞞に満ちた今の世界というのは、吐き気を催す醜悪な世界なのよ……
これは粛清。世界の嘘を掃き清める、再生の前の破壊。彼ら真の人間にとっての始まり。
コーディネイターという人形にとっては、これは全ての終わり――そう、みんな終わる。
偽りの世界が崩壊する。永い永い悪夢が、やっと終わる」
『デストローイ!』
遠くで響いた銃声に意識がはっきりした。
〈気ちがい沙汰だ!〉とアランは叫びたかった。スメッグのために頭の働きを正常でなくしたハスハが、先ほどからアランの耳元でたわ言を呟いているのである。
これを投げ飛ばして頬打ちの清算をするという案は魅力的に思われたけれども、腕が痺れて断念した。
ハスハは得体のしれぬ感覚でその思惑を察したのかもしれない。アランの首に回した腕に力を込めて、体をより密着させた。
演説の止まったのを訝ってアランが目を向けると、彼女はまたもや何かを感知したらしく、濡れた唇で囁いた。
「――好きよ、アラン」
「それはどうも」
「アラン。最後にもう一度だけ……キスして」
「やだよ」
ハスハの目が潤んだが、アランはモロンの遠吠えに注意を向けた。
モロンの声が届かないところで小休止する頃には、ハスハに飲ませたスメッグの効果も消え去っていた。
少女が俯いて一言も発しないのは、腕の傷ばかりが原因ではなかろう。
その血量は顔を赤らめるには至らないが、絶えずあたりに目を配りながらも、アランと目が合いそうになるとうなだれてしまう。
弁護の種はある。スメッグの使い始めは誰しも分別を無くすし、ある程度飲み方を心得たアランですらも、時にはついつい悪酔いに耽ることがある。
ハスハの場合はたった一粒である。しかしこれは少女の体質からして著しい効果を上げてしまったに過ぎず、
彼女自身の精神が劣っていたのでは決してない。理性が欠如していたのでは決してないのである。
アランは思い遣りからそういう断定を下したが、自身も遣り切れない気持ちになるのは避けられなかった。
ハスハの恥じ入りようをみるに、躁狂の醒めた後の背汗はひとしおであろう。実に暗澹たる思いである。
もはや二度と飲むまい。飲んでも口を開くまい。記憶力の無いモロンが羨まれるひと時である。
「やっぱりモロンの暴走なのかな」とアランは切り出した。
「モロンはさ、僕らに危害を加えられない。そのはずだろう?」
ハスハは青ざめた顔を上げて、遠くを見るような目つきをした。
「わからない……」
「そうとしか考えられないよ」
「彼らには……アーミー・モロンたちには何か目的があるような気がするの。彼らは正常、なのかもしれない」
酔いの繰り言と矛盾するかに思われたがアランは口を噤んだ。やぶ蛇をつついて恥をかかし、それで己ひとり得意がるのはそんなに上等な嗜好とはいわれない。
「アランは、気が付いた?」
「あ、うん。それなりに」
「モロンたちは楽しんでいるみたいだった。けれど、本気でもなかったのよ」
「ただの憶測かもしれないよ」
「そうね……これは、狂ったモロンたちが引き起こしていること。今はまだ、そう考えたほうが――」
実のところアランには、ハスハの言う事が一言も理解できなかった。
自分が知らないのにハスハが知っているというのが何となく癪で、調子を合わせておかねば侮られるような気がしたのである。
『でっでっでっ……』
微かに聞こえてきたモロンの声が、ハスハの続けようとした言葉を打ち消した。
「やつらが来る。自分で歩くのは……無理そうだね」
ハスハが木に手をついて立ち上がった。
「ううん。歩けるわ」
「ばか」
アランはハスハのよろめいた体を支えた。
「結局さ、負ぶって走ったほうが速いんだ」
流石に半魚人持ちはもう勘弁して欲しいので、アランはハスハの負担を省みず、彼女を背負うことにした。
「ありがとう」
ハスハの吐息を煩わしく感じていると、耳元でそんなことが囁かれた。
余計なことを言って気を散らすなら、せめて謝罪を口にしてもらいたい。
からだじゅう痛かった。
手は動く。赤い光にかざしてみた。
「手、ある」
膝に触れる。足はちゃんとついている。
「足、ある」
顔を撫でてみる。凹凸は保たれてある。
「顔、ある」
不自然な水気はどこにも感じない。最後は胸に手を当てた。心臓は鼓動している。
「……あるったらある」
ナギはぱっと身を起こしてきょろきょろとコックピットを見回した。
モニターはエラーの表示で埋まったままであるが、ガンダムが完全に機能停止しているのでもあるまい。
自分が五体満足でいられたのは、落下の途中で慣性制御が働いたからである。そうでなければ気絶などでは済まされず、手足を探す羽目になったろう。
再起動を試みるも反応はなかった。
「最新機器って、これだから嫌なのよ」
なんでもかんでも小型化、精密化で、専門の技術者でなくては故障に対処できないよう作られている。
各部が関連し合っていて、あるところが駄目になれば全体も損なわれるという風で、人間の体のように脆いのである。不具合の原因すら分かりはしない。
ナギは出鱈目にキーを叩いたり、それで更なるエラーをはじき出すプログラムをなだめすかしたり、コンソールを殴りつけたりした挙句、とうとうガンダムの再起動を諦めた。
ナギはサバイバルキットを開けて拳銃を取り出した。もはやガンダムになど構ってはいられない。
いくらこれが大切なMSであろうが、死んでしまっては何もかもおしまいである。
「そうよ。あたしは絶対に生きてやる。この先生きのこって、やらなきゃいけないことがあるんだから」
クリトン・キーンのにやけ面をぱんぱんに膨らましてやることと、ついでにコンティを張り倒すことである。
ハッチは手動で開けねばならない。ナギはコンティの顔をちらと思い浮かべつつ、渾身の蹴りをそれに浴びせた。
コックピットを出ると森であった。周りの木々は大きく傾き、中ほどからへし折れているものや、根っこごと引っこ抜かれているものがあった。
抉られた地面のあちこちから白い煙が幾筋か昇り、熱気とともにゴムを焼いたような匂いも立ち込めている。おそらくこれらはガンダムドルダの墜落によるものであろう。
ガンダム自身はというと、「究極! ドルダ・キック」を放つ直前の姿勢で横たわっている。
ナギはワイヤーを伝って下に降りた。土の掘り起こされたところからは、生き物の臭みがほとんど感じられない。
草木を注視すると、みな人工の観葉植物よりも色艶がうそ臭い。それに形も整いすぎていて、映画撮影のセットを思わせた。
「ガンダミズムなんかどうでもいいけど、コーディネイターって、ほんと狂ってるのね」
以前にウーティスの話していた自然公園というところに違いない。ナギには先が思い遣られた。
この気ちがいめいた文化の中で、しばらく逃亡生活を送らねばならぬかもしれないのである。
コーディネイターの生活に犯罪というものはない。よってナチュラルでいう警察機構は存在しない。
市街地に入り込んでしまえばどうにでもなる。ここでは喫茶店の砂糖のように、最低限の生活物資は無償で手に入れられる。
そうした思い巡らしの途中、
「でっでっでっ……」という人声が聞こえた。
ナギは咄嗟にガンダムの足に身を隠した。顔を半分だけ出して覗き見ると、小銃を手にしたアーミー・モロンがいた。
ズボンの生地を破廉恥な形に突っ張らせ、こちらに向かって歩いて来る。
追っ手が来るのは当然のことであるが、ナギは今更ながら悪寒に襲われた。
ガンダムに乗っていたせいであろうか、つい先ほどまでは恐怖というものを全く感じなかったのである。
ナギはガンダムの足に背をもたせかけ、ゆっくり深呼吸した。
なぜかは知らないが、アーミー・モロンは掛声と足踏みの調子を合わせている。それで大まかな距離は察せられた。
ナギは拳銃のスライドを引いた。
「でっでいう?」
生身の人間を撃つのにためらいは無論ある。しかし殺人というものは、自分たちがMSでいつもしていることである。
殺さないと殺される。善人を気取り、臆病風に吹かれてはたまらない。これは誰しもがやらねばならないことで、絶対に必要なことなのである。
指の震えが止む。伊達にMSパイロットをやっているのではない。自己暗示には自信があった。ナギはドルダの足から飛び出した。
銃声が響き渡った。
「でででんっ、でっでっでっ……」
無傷である。銃弾は外れていた。アーミー・モロンがくるりとナギを真正面に向いた。
小銃の狙いと股間の突起とが並行になる。また撃つか身を隠すかの逡巡の束の間に、アーミー・モロンが口を開いた。
「デスト――」
「この変態!」
ナギはすかさず引き金を引いた。何度も何度も引き絞った。太腿に一発当たり、アーミー・モロンの体ががくんと揺らいだ。
転びかけると胴体に命中し、その影響でびくんと引きつった。もう一発胸に着弾し、アーミー・モロンは尻餅ついて倒れた。
激鉄の鳴る音だけが続いた。
「やった、の」
唾液がどっとにじみ出た。目が霞んだ。ナギは拳銃を取り落とした。
これは馬鹿げたことである。灰色のハムスターを見て金切り声を上げるのと同じ、いわば媚びへつらいから演繹された第二の本能に過ぎない。
人間は人間にとって最悪の獣である。したがって共食いが自然法で許されている。
正当な理由を証明できるなら、殺人という行為に何ら後ろめたいことはない。
寧ろ、この正当防衛という至上の正義はなされねばならない。嫌悪を感じて怖気づくなど言語道断である。
しかしナギ・ヴァニミィという女性は、自己の行為の結果を目の当たりにして実践的理性を失い、最高原理を忘却したらしい。
不当に多大な不快のあまり、身体機能に異常をきたしてしまっていた。
アーミー・モロンの倒れる間際、目が合ったのである。確かに合ったのである。獣のようで、幼子のような目に見えた。
ぞっとする目である。指先ひとつで命を左右してはいけないと、道学者流の傲慢さで訴えかける目であった。
無償の同情というご馳走で誘惑し、人間の良心を餓えさせる目であった。
想像力の咄嗟にでっち上げた人道茶番が頭に焼きついて、酸っぱいものが喉を昇った。
それは口に至ると歯の表面をざらざらにし、鼻腔も潤そうと暴れて鼻の奥をつんとさせた。
自分は何をぐずぐずしているのかとナギは思った。敵はまだいるかもしれず、しかも弾倉一つを丸々使い果たしてしまった。
このまま感傷に浸っていては、自分が殺されてしまうのである。利己心は第一の習慣であり、第二のそれより先に来る。
ナギが立ち直るまでにあまり時間はかからなかった。とにかく自分は死にたくない。後悔を楽しむのは後で存分に出来る。
ナギは自分の頬を打った。この痛みはコンティにも味わわせてやると思いながら、顔を上げた。
そのようにナギが嫌悪をねじ伏せて反吐を飲み下し、目を拭ったときであった。
血に染まったアーミー・モロンの上体が、むっくりと起き上がった。
「……デストローイ」
ナギは焔に似た閃光を見た。そして銃声と、弾丸の骨肉を穿ち臓物に押し入る音を聞いた。それは無数に聞こえた。
見開いたままの目が迫る地面を捉えた。口の中は胸やけしそうなほど濃厚な液体にたぷたぷと満たされた。
頬に押し付く土がいやに生ぬるかった。見聞きする一切がなんだか場違いなように思われた。
ナギ・ヴァニミィは考えることを止めた。しかし彼女の視界では、その場違いな光景がずっと映し出されていた。