生きる、ということ ◆Ok1sMSayUQ
廃村の外れ。
朽ちかけた家屋が多いその場所でも、一際古さびた、廃墟と言ってもいいその場所に、ユズハはいた。
車輪のなくなった自転車が倒れ、罅が入りところどころ崩れている塀は危なっかしく、ガラスが割れ、地面に散乱している。
まるで針山の頂上のような危ない場所だったが、ユズハはそこに留まったまま動こうとしない。
いや、動けなかった。
彼女は、目が見えないから。
生来体が弱く、盲目であるユズハは外出の機会も少なければ、行動できる自信もなかった。
出歩くときには大抵誰かがついていてくれたし、見知った場所であるから頭が地図を組み立ててくれる。
けれども今は違う。見知らぬ場所にたった一人で放り込まれ、誰の助けもなく、無音の世界に取り残されている。
恐怖心はなかった。目が見えない生を過ごしてきたために、精神的には強くなっていた自覚はあった。
どう行動していいのかが分からなかった。未開の土地、見知らぬ土地で、経験の乏しいユズハは選択肢すら浮かばせることができなかった。
大抵こういうときには兄のオボロが側についていてくれたものだが、今はその兄もいない。
そのように仕組まれたのだろう。あの声も言っていた。
男性か女性か、なかなか判断できない中性的な声。近くから聞こえていたはずなのに、気配すら感じられなかった声。
まるで亡者のような声の主に抱いたのは嫌悪感ばかりで、ユズハは荷物も持たずにここまで歩いて、それからずっとこのままだった。
そもそも殺し合いなどできるはずがないのだ。肉体的にも、精神的にも。
出自もあり、ユズハは保護される立場であり、慈しまれる立場だった。世の中の醜い争いはあることは知っていても、蚊帳の外だった。
だから他者に対する明確な敵対心はなかったのだ。嫌悪感を抱いた声の主にでさえ、傷つけようという発想はなかった。
傷つけたくない、傷つけられないではなく、傷つける方法さえ、ユズハは知らなかった。
それを当たり前にしてきた彼女には不思議と思う気持ちはなく、困ったような表情を浮かべるばかりだった。
ともかく、ユズハは動けない。
空気の匂い、風の通りから判断して室外であり比較的開けた場所にいることは分かるのだが、どうなっているのかが判断できない。
確かめようにも声をかける人もいなかった。故にこうしてじっとしているしかない。
無闇に動こうとしなかったユズハの判断は正しかった。地面には割れたガラスが散らばり、他にも抜け落ちた釘、尖ったコンクリート片があり、
盲目の人間が歩けば間違いなく怪我をしてしまうような状況である。
目は見えなくとも聡いのがユズハだった。なんとなく、という程度ではあるけれども、危機を察知していた。
だから誰かがやってくるのを待つことにしたのだった。
殺し合い。言葉が本当なら、やってきた誰かがユズハを殺すことになる。だがそればかりではない可能性もある。
戦のようなものだ。敵ならば殺され、味方ならまだ助かる余地はあると見ていた。
もっとも、その味方は少ない。トゥスクルの人達が全員いるとは限らないし、ここの広さがどれだけなのか検討もつかない以上探し出してくれる確率も低い。
分の悪い選択だったが、これ以外にやれることもなかったのだから仕方がなかった。
いや、とユズハは自分の存外に冷めた思考を見直した。
どちらでもいいのかもしれない、と思っていた。敵でも、味方でも。それが自らの運命で、仕方がなかったことなのだと。
ユズハの生は受け入れることを常としてきていた。どんな理不尽、どんな苦痛でも、自らそれに対処する術がなかったのだから。
誰かの助けを借りなければ何をすることも叶わない生。生きているようで、その実生きているのかも分からない生。
他者から見れば、ユズハだって立派に生きているように見えるのだろう。人間らしく生きてきたという自覚もあった。
ただ、結局のところ、そこに自分があるのかは怪しかった。その時々で自分の知識に照らし合わせ、正しいとされることに合わせてきただけだった。
与えられたものを疑問もなく使うばかりで、本当に選んできたのかも分からない行為の積み重ねしかしてこなかったのがユズハだった。
そんな自分の行為もまた、受け入れるしかなかった。そうすることしか、できなかったから。
ハクオロがユズハの思考を眺めていればそうではない、そんなことはないと声を大にしていたのかもしれない。
そうしてくれるのだろうという確信があった。トゥスクルの皇は、時々人の心を見透かしたような言葉を投げかけてくる。
そういうとき、ユズハは僅かに残った自覚を意識する。本当に、と問いかける自分が生まれるのを感じていた。
答えそのものまでは見つからなかったが、もう少しで分かりそうな気がしていた。そう、もう少し、時間さえあれば……
「ハクオロさま……」
我知らず、ユズハは口にしてしまっていた。
開かない視界を開かせてくれる男の存在を、あと少しだけでいいから手繰り寄せたかった。
会いたかった。ハクオロに。
動悸を帯び始めてきた胸をそっと、ユズハの青白く細い腕が撫でた。
心なしか落ち着きなくなっていた。冷静になっていたはずだったのに。
これはどういうことなのでしょうと思い始めたとき、砂利を踏み鳴らす音が聞こえた。
ピク、と耳が逆立つ。盲目である分、ユズハの聴力は並以上の感知能力がある。
足音ひとつでどのくらいの体格の人間であるかは大体予測できる。この感覚は、女性だろうか。
ゆったりとした足音は、慎重になっているというよりものんびりとした様子だった。
誰だろうとユズハは考える。足音からトゥスクルの人間でないことくらいは分かるのだが。
首をかしげていると、足音が止まった。気配が向く。気付かれたのだ、と分かった。
僅かに体が強張る。冷静になりきれていない体が緊張の汗を帯び始める。
受け入れることしかできないと分かり切っていながら、こうも落ち着かないのはなぜだろうと疑問にさえ思った。
ともかく、味方以外の人間――即ち、敵はすぐ近くにいた。
一歩一歩近づいてくる。音が大きくなっているから、分かった。
気配までが敏感に感じられるようになる。
明確な悪意こそないものの、特に好意も感じられない。つまり、どうするか判断に迷っているようだった。
どういうつもりなのだろうと思っていると、遠慮がちに、間延びした声が届けられた。
「……あの~、そこ、危ないですよ?」
ユズハ自身は全く認識できていなかったが、素っ頓狂な表情になっていた。
声をかけた主の名を、古河早苗という。
彼女の地元では有名な、のんびり屋の一児の母だった。
* * *
「ふふ、なるほど、そんなお兄さんがいらっしゃるんですね」
「ええ。とても優しくて、いい兄だと思ってます。ちょっと早とちりなところがありますけど……」
「男の人はそれくらい元気があった方がいいですよ。秋生さんなんて、毎日子供達と野球してますから。店番を放り出すのはいただけないんですけど」
「ヤキュウ……?」
「玉遊びのようなものですよ」
「……すみません、よく分からなくて」
「あ……」
沈黙が落ちた。ユズハは目が見えない。まして異文化の人間ともなれば想像は難しいだろう。
それ以上フォローの言葉が見つからず、早苗は言葉を濁すしかなかった。
ユズハがいた場所から、少し離れた公園。正しくは公園跡というべきで、
錆び付いて塗装が殆ど取れてしまったジャングルジムに、手すりのなくなった滑り台、そしてチェーンの片方が切れたブランコが残るのみだった。
噴水からは水も出ない。砂場には壊れた玩具が転がっている。そこは人の思い出すら残さない、寂しい場所だった。
それでもベンチは比較的きれいな状態であったため、早苗はとりあえずそこに連れてきて座らせ、談笑を重ねていたのだが、
今の一言で途切れてしまった。
空気が悪くなったのはユズハも察知したらしく、困ったように笑顔を浮かべる。
早苗は気を取り直すようにして「ええと、とにかく、秋生さんはいい人なんですよっ」と続けた。
「はい、分かります」
「いい加減な人なんですけど、でも一番にわたし達のことを考えてくれて」
「何かあったら、まるで漫画のヒーローみたいにすぐ駆けつけてくれて」
「でもちょっと向こう見ずで、時々怪我して帰ってきて」
「それで、わたしと、娘が、苦笑いしながら救急箱を持ってきて」
「仕方ない、って、みんなで、笑うんです」
「はい、分かります。……とっても、いい家族ですね」
ユズハは笑った。含みのない、柔らかい笑顔だった。
その表情が、声が、どうしようもなく……渚に、似ていた。
重なる。精一杯の笑顔で頑張る姿に。病弱でも高校生活を満喫しようと変わり始めた姿に。
臆病で、弱気でも、やれることをやろうとしていた娘の姿に。
だから、だから、わたしは。
「……もう、いいですよ」
「もう、いいんです」
はっきりと、ひとつの諦めと、ひとつの決意が早苗に届けられた。
言葉の内容が分かっていながら、早苗は「どうして」と言っていた。
早苗の手には、ナイフが握られていた。
刃先は突きつけていない。いや、向けてすらいなかった。殺すという気配すらなかったのに。
それだけではない。全てを受け入れるような笑みを、どうして浮かべていられるのか。
これらの意味を含んだ「どうして」に、ユズハは「分かります」の一言で応じた。
「迷っていたのは、そういうことですよね」
最初から、気付かれていた。
目が見えないのは、ナイフに気付いていないことから分かりきっていた。
だからすぐに殺せると思った。
夫のため、娘のため。やらなくてはならない。自分が守らなくてはならない。
人が死ぬのは大嫌いだけど、大切な家族が死ぬのはもっと嫌だから。
天秤にかけ、これでいいと洗脳するように何度も何度も繰り返し、
ナイフの刃を見つめながら思考を麻痺させ、やれると思ってやろうとしたはずなのに、
光のない無垢な瞳が、娘に瓜二つな声が、殺意を鈍磨させた。
だが頭の中ではやれ、やれ、やれ、やれ、と、耳障りな、車のクラクションのようなノイズがあった。
片隅にこびりついた思考が、もうやめにしようという発想を許さなかった。
殺したくない。でもやらなければならない。殺せ。殺せない。やれ。やれない。
早苗は逃げた。ユズハとの会話に興じることで、目を逸らした。
けれども逸らしきれなかった。一度抱いた決意は覆せない。そうしなければ、優しい娘は、夫は、守れない。
家族がゆえに、早苗は他の誰よりも家族のことを分かりきっていた。
だから。今度こそお別れにしようと思った。
口に出して、言い訳を並べ立てることで、正当化しようと思った。
免罪符を作ろうと思った。無理矢理にでもそうしなければならなかった。
そうして取り出したナイフの刃を、ユズハは見ていた。見えない目で。
見て、殺されると分かりながら、ユズハは赦した。
赦したのだ。
「私は、いいんです。それで……誰かの強さの、ひとしずくになれるのなら」
生きる意味を見つけ出した女の声だった。
赦して、なお、この女は赦さなかった。
全てを受け入れる一方で、忘れることを、目を逸らすことを拒む女の決意だった。
光を失った目が、早苗の顔を覗き込んだ。
よせ。やめてくれ。逃げることを赦さない、その目を。
「でも、でも、お兄さんがいますよね。ハクオロさんって人にも、会いたいんですよね。だったら、だったら」
「仕方ないんです」
私には、受け入れることしかできないから。そう付け加えたユズハは、ただ盲目で病弱なだけの少女ではなかった。
受け入れることしか知らない人間でありながら、受け入れることによって生きようと必死な少女だったのだ。
兄に会うより、ハクオロという男に会うよりも、
生きた証を、残したいのだ。
いや違う。自分の存在を残せる候補として、彼らの存在があったに過ぎない。
先に見つかったから、こちらを選んだ。それだけのことだった。
無垢で、無垢が故に、少女は残酷だった。
その実感が早苗の体を重くする。それでも、逃げる選択肢はなかった。
そうしなければ守れない。
そうしなければこの少女も本当の意味で死ぬ。
古河早苗は、やらなければ守れないと言い聞かせた瞬間から、逃げることは許されなかった。
人間が人間を殺すという現実から、逃げることを許されなかった。
「サナエさん」
ユズハが手を握った。静かな声の主の手は、暖かかった。
生きている。生きているのに。
早苗は涙を流した。人間を殺す代償に、涙を流すというのなら、
わたしは、どれだけの涙を流せばいいのだろう。
「娘さんや、旦那さまに、会えるといいですね」
お願い……
わたしに。
人を。
殺させないで。
我侭な願いは、届くことはなかった。
それでもやめるという発想はなかった。
自分達は、殺し合いをしなければならなかった。
ここから無事に逃げられると甘い考えを持てる、子供ではなかった。
大人だった。大人だったから、逃げることは許されなかった。現実に対処しなければならなかった。
大人は、少女ではいられない。
「ごめんなさい」
刺した。
「ごめんなさい」
二度、三度。
体に穴が開き、血が手のひらを濡らす。
「ごめんなさい」
それで何が変わるわけではなかった。
罪が薄まるはずはなかった。
それでも、言葉にしなければならなかった。
「ごめんなさい」
事切れた。
ユズハの手から力が抜けた。
支える力も失った少女は、仰向けに倒れ、穏やかな笑顔を浮かべていた。
誰かの役に立てる喜びを知った、幸せな人間の顔だった。
【時間:1日目午後2時ごろ】
【場所:C-4 公園】
古河早苗
【持ち物:NRS ナイフ型消音拳銃、予備弾×10、水・食料一日分】
【状況:健康】
ユズハ
【持ち物:不明支給品、水・食料一日分】
【状況:死亡】
最終更新:2011年09月06日 17:19