心の最果て ◆Ok1sMSayUQ
頭を抱えている。
うずくまっている。
岡崎朋也は、気持ちを乱している。
人目につきにくいであろう森の入り口。戦火の声も呪詛の呻きも遠く、生き物の気配すら薄くなった沈黙の中で、
岡崎朋也とHMX-17c、ミルファは互いに会話すらなく、佇んでいた。
いや、正確には、ミルファの方は気持ちの整理をつけたといってもいいのかもしれない。
朋也の方を気にしつつも、その視線は外界――殺し合いが繰り広げられていた市街地へと向いている。
戦うことを決めた、音無結弦の結末を知りたがっているのだろう。或いは、半死の人間を半ば見捨てる形で逃げ延びた自責も含まれているかもしれない。
「……行けばいいだろ。俺なんか放っておいて」
「岡崎さん、れも」
まともに名前を呼んでいる彼女の表情は、暗い。
それをするということは、朋也を置き去りにするということである。
音無から伝えられた、護衛任務の放棄である。命令の無視はできない。彼女はメイドロボだ。
ああ、と朋也は思った。命令して欲しいのだ。シルファは。
「俺なんか守ってても仕方がないだろ。俺は、たくさんの人を殺したんだぞ」
怨嗟のように、朋也は言葉を紡いだ。
自らの失策で春原芽衣は殺された。三枝葉留佳という少女は世界を呪いながら死んでいった。
音無結弦を、見殺しにした。三人死んだ。殺した。自分は悪くない存在だと欲を出し、這いずり回った結果だ。
誤解し、激昂し、容易く踊らされて。そんな自分は、今すぐ罵られながら殺されても文句も言えない立場だ。
「それは、岡崎さんが、やったんじゃ……」
「俺に責任がないって、本気で言い切れるのかよお前は」
問い詰めると、シルファは言葉をつぐんだ。ロボットの明晰な電子頭脳なら分かっているはずだ。
現在の状況を構築した要因の一つに、朋也が大きく関わっていることを。
しかし人間を補助し、味方であることを義務付けられているシルファははっきりと言えない。曖昧な衣に包んで渡す。
傷つけないように。立ち直れるように。慰める言葉を探して。これはシルファにとって、そういう対話なのだ。
「否定して欲しいんだよ、俺は。悪いのは俺じゃない、殺して回っているあいつらだ。あいつらは許さない。そう言うのは簡単だよ」
それまでの沈黙が嘘であるかのように、朋也はまくしたてる。
許せなかった。芳野祐介が。確かな事実ではある。怒って、敵討ちだと叫んで怒りに酔いしれることだってできただろう。
だが、朋也は分かってしまった。思い知らされた。日常だけでなく、この地獄でさえ、求めて行動すると取り返しのつかない結果を生むだけなのだと。
「だけどな、それで立ち直って、精一杯生きようとか、いなくなった人達のためにとか、そういう正義を叫んだところで、全部自分のためじゃないか。
誤魔化してるだけだ。許されたいと思ってるだけじゃないか。……そんな簡単に、死なせてしまったことは許されるのか?」
決意一つで全てが許されるわけがない。反省一つで昇華されてしまうほど、命とは軽いものだったのか?
そんな簡単に、許したり許されたりするものなのか? もしそうだとしたら――魂の価値なんて、あまりに薄すぎる。
「……らったら、わたしも同じれす! “めいろろぼ”なのに、役に立てなくて、守れなくて、そんなわたしに価値なんてないんれす!」
泣きそうな表情だった。人間なら実際、泣いていたかもしれない。
対話が、それまで無理矢理納得しようとしていたシルファの思考を引き剥がしたのかもしれなかった。
先刻までの冷静な口ぶりなどなく、朋也の言葉を聞いているうちに滲み出してきた矛盾の数々に、シルファは苦悩していた。
「そう、言ってたれすよ。わたしの頭が。使命を果たせない、不良品らって」
力なく、木の幹に拳を打ち付ける。いやそうではないのだろう、と朋也は思った。
ロボットは自らを害さない。自傷という概念がないからだ。自衛機能が、目的のない傷を防ごうとする。
もしも彼女に、自殺が行える機能が備わっていたのだとしたら、とっくに自壊していたのかもしれない。
もしもシルファが完全な人間の心を持ち合わせていたら。自分は、第四の犠牲者を目の当たりにしたのかもしれなかった。
なんて、皮肉――
そしてそれが、朋也にとっては小さな共感でもあった。
この状況に絶望しかしていないなら。己は無価値でしかないと悟っているなら。自分は自殺を試みているはずだ。
だのに行動に起こさない。取り返しのつかないミスを嘆く一方で、森に隠れて自らの身を守ろうとしている。
未来には失望の結果しか残されていないと分かりながら、なお命を紡ごうとする。
理由などない。生かされているから、生きている。シルファが己を害せないゆえに生きているのと同様に。
死にたくはない。しかし死にたくない理由はない。生きていたい。しかし生きる理由などない。
信念なき生。目標を持って生きている者から見れば、今すぐ殴られてもおかしくはない。
だから価値がない。だから意味がない。勝ち取ろうとしていない、努力を怠ったゆえにこうなったのだと言われているように、ふと朋也は感じた。
「だから、今度は俺を守るのか? いなくなった連中の身代わりに、俺を」
気がつけば、朋也は立ち上がっていた。突然の行動に絶句するシルファの肩をこれでもかと強く掴む。
シルファを責めたいのではない。そうした信念を強要させようとするなにかが、
揺らぎないものさえあれば何をしても許される、と語ろうとしている論理が、許せなかったのだ。
そうだ。芳野祐介も、あの怪力の女も。やると決めて、躊躇なく殺した。ある種の潔さが格好いいではないか。
覚悟を決めて行動する人間の、美徳。それは紛れもなく、魂の価値を薄めるものでしかなかった。
「あの人たちはダメだった。今度は間違えないようにしよう。いい言葉だよ。けどそれであいつらが慰められるわけじゃない!
許されないんだ、俺たちは! 何をどうしても、俺たちは一生人殺しで、苦しまなきゃいけない!
それでも、繋がれた命だ。死ぬはずだった俺たちの命の価値ってなんだ!? 自分が慰められればいいのか!? 違う、絶対に!」
半分意味を為していない言葉だと自覚しながらも、朋也は内奥からせり上がる熱を抑えることができなかった。
許されたい。父親に、誰かに。その一心で行動して、犠牲になっていった連中の意味は何だったのか。無意味にしてしまった。
そうだ。父親は自分の価値を認めさせたいがあまりに心を壊し、殺された皆はどことも知れない地で、食い物にされた。
「許すな。そういうことを、許しちゃいけない。自分のことしか考えてない奴を、絶対に許すな」
強く。抉るように、朋也は己に言い聞かせた。
自分を認めさせようとしなければ。自尊心などというものに溺れたりしなければ。
もう少し周りを見るだけで、誰も犠牲にならなかったのかもしれないのに――
「は、はい。はい……」
「誓ってくれ。平気で他人を犠牲にするような奴を、絶対に許さないって」
「……わ、わたしは。敵を許さない、れす」
少々乱暴だったか、と雰囲気に押されるようにして応じたシルファの声を聞いて、朋也はちょっとだけ冷静さを取り戻した。
掴んでいた肩を放し、僅かに頭を撫でてから離れる。
生き延びる、生きて帰る。そんな約束ではなく、ただ敵を許さないというだけの、刹那的な約束。
信ずるべきものも、拠るべき神もない。破滅的ですらある、誇りや矜持などとはほど遠い誓いである。
けれども、今はそれ以外の道を見出せなかった。綺麗事よりも、怒りが自分にはお似合いだと、朋也は思っていた。
「岡崎さん、顔、怖かったれす」
顔にも柔和さが少しは戻ったのか、シルファは半分泣き笑いのような表情で言った。
「不良なんだよ、俺は」
「フリョーなんれすか?」
「ああ。……だから、さっきはちょっと乱暴だった。悪かったな」
「フリョーは、謝らないれすよ」
おどけた言葉。朋也は肩を竦めて、うるせえと軽口を返すことができた。
精神的な状況は悪くない。大声で喚いたことが、活力を取り戻させたらしかった。
敵に狙われなかったのが奇跡的ですらある。どうやら他人の血を吸って、悪運も吸い取ったらしい。
「……れも、わたし、何したらいいんれしょう?」
敵を許さない。そうは言ったものの、目標となるものなどありはしない。
人間の防衛も、朋也が否定してしまった以上優先事項から外されてしまったのだろう。
首を傾げるシルファに、しかし朋也はどう言ったらいいのか自分でも分からなかった。
当然である。信念を拒み、持つことを否定した自分達には大きな目標などありはしなかった。
自分で考えろなどとは言えなかった。無責任である。最低限の礼節程度は、まだ持ってはいたかった。
「戻ろう」
「戻って……ええと、お葬式れすか?」
「できるかは怪しいけどな。なにせ俺は腕がこんなだ」
持ち上がらない方の腕を情けなく伸ばす。
隠そうとする自尊心など、とうに消え失せている。
シルファの腕力なら或いは、とも思いもしたが、コンクリのジャングルに打ち捨てられた死体の処理方法など検討がつかなかった。
斎場が都合よくあるとも思いがたい。埋めるのも燃やすのも難しいと思えた。
「まあ、葬式じゃない。ハイエナみたいな真似だけどさ、武器がなきゃ始まらない。使い慣れない刀なんかじゃなくて、もっと強い武器だ」
「戦うんれすか?」
「ああ……なんていうかさ……俺は、ここが許せないんだと思う」
「ここ?」
空を見上げた朋也につられるように、シルファも夜陰に浸かりきった夜空を見上げる。
米粒ほどの星々は、しかし地上で這いずり回る、自分達を見下ろして嗤っているようにも感じられた。
誰も彼もが己を慰めたいと欲し、大義名分で罪を塗り固めようとしている。滑稽に相違ない。
そこで、ふと朋也は立華奏の存在を思い出す。もしかすると、奏はそういう連中と戦う意志があったのかもしれない。
何を考えているか全く以って不明な彼女だが、奪おうとした者からは、積極的に守っていた。
死後の世界でさえ勝手を為す連中を、許せなかったのだろうか?
「……死後の世界とかなんとか、言ってたろ?」
「はい」
「もしかすると、そうなのかもしれない。色々な世界とか時代とかから、マジに集められてさ」
「ふむ」
「死んでるのかもしれない。夢の中かもしれない。何も分からない。わけわかんねぇ。
でもさ、だからってじゃあ何してもいいですよってのは、違うだろ?」
「はい、分かるれす」
「なのに、何してもいいように言われててさ……俺もそうなっちまって、ムカついたんだ」
「……みんな、自分のやりたいことばっかり?」
「殺し合いしてるの、全員そうだったよ。俺も、死んだってことはなんか悪いことしたんじゃないかって思って、俺は悪くないって言おうとして」
「わたしも、そうかも知れないれすね……役に立ってない“めいろろぼ”れすし……」
生きて帰れるとは思えない。地獄の底にまで落ちた自分には、蜘蛛の糸すら垂らされることはないだろう。
それでいいと思った。代わりに、敵を道連れにすることを決めた。
芳野達のような連中にだけは、勝たせるわけにはいかない。大切なものを持たず、人生の目的など持たなかった朋也の、それは逆恨みにも等しい怒りだった。
父親にすら理解を得ず、隣人の死に悩み、苦しんで。なのに決意や覚悟とやらで全てを奪ってゆく彼らが、彼らが従う論理が許せなかった。
この上もなく醜い。だから地獄に落ちたのだろうと朋也は思った。
「……れも、わたし、許せないんれす」
口には発していないはずの、朋也の内奥に応えるようにシルファは言った。
「はるはるを殺されて。音無さん見殺しにして。役立たずってわたし、理解してます。……ます。のに、納得しないんれす。こわれてます、こんなの」
「お前……」
「こわれてるから、欠陥品らから、ここにいて、捨てられて…………イヤって、思ったんれす」
それは、理由のない拒否反応だった。本人すら理解できないほどの、強い感情が、「イヤ」という一言に内在していた。
「わたしを、こわして欲しかった。……れも、あの人たちは、イヤれしたから……」
本来の機能を果たしてもいない自分など、いなくなってもいい。だが芳野達に壊されるのだけは我慢ならなかった?
舌足らずの、中身の足りない言葉を、朋也はそのように咀嚼する。
ここにも、ひどく矮小な逆恨みがある。
人工の心。取るに足らない末端でしかないもの。しかし確かに、小さな怒りがあったのだ。
日常から非日常に、理不尽をこれでもかと押し付けられて、機械の心でさえ、己を侵害されたと感じた。
「それを、岡崎さんが言ってくれました。敵、って。敵を許すな、って」
言語化不可能だった感情。プログラムされたパターンの中になかった、矛盾だらけの識別不能の情感。
定義付けてしまったのか、と朋也は苦く、深い感慨を抱いた。けれどもやはり、共感を覚えずにはいられない。
あまりにも無力で愚かだと知ってしまった自分達。救いも許しも求められるものではないのだと、価値のなさを認識してしまった自分達。
だからと言って、奪われるだけの結果を、決して認めない。認めてはならない。
心があるのに。感じられる、人間なのに。
「行きましょう、岡崎さん」
敵を許さないために。
食い物にされてたまるものか。
噛み付いてやる。牙を砥ぎ、狙いを定め、弱者と断じて見下ろす連中の喉笛に噛み付くのだ。
* * *
思考は、随分とクリアになってきていた。
人間風に言えば、胸のつかえが取れたと言うべきだろうか。
メイドロボは人間のため、人間の代わりに様々な問題に取り組み、解決し、貢献しなくてはならない。
それがシルファの、いやHMXシリーズの命題である。疑問は抱かない。問題の解決が人間を助け、解決が自己の喜びとなるようプログラムされている。
だが、その基本的事項にあってはならないはずの――いや、可能性としてありえないはずの問題が生じた。
主、あるいは同族と見做した親愛なる存在の抹殺である。正確には、抹殺してしまったのではないかという可能性問題が生まれたことだった。
音無結弦の言葉が真実であるなどという保障はどこにもない。にもかかわらず、シルファは真実味が高いと判断してしまった。
己自身、人間に接することを苦手とし、要求スペックを満たせなかったという事実があったこと。不良品が人間に害を為さないという保障もないのである。
次いで、周囲の人間が「わたしは死んだという自覚がある」という旨の発言をしていたこと。あまりにも、数が多すぎた。
シルファ自身が人間に仕えるための要求スペックを満たしきれていなかったという自覚があり、それゆえ彼女は己の判断、思考に対して評価を低く置いていた。
周囲の人間が間違った認識であり、事実誤認をしているなどという思考に至れなかったのである。
それが彼女に、ここは死後の世界であるというありえないはずの前提を植えつけた。そしてシルファは、新しい前提に則ってロジックを組み立てる。
死後の世界。であれば、自分達は死んでいる。ならば同様に、この島にいる姉妹機や主も死んでいる。
なぜ死んだのか――該当する記憶のデータはない。ないならば、憶測で考えるしかなかった。
そして自己評価の低いシルファは、己が一家全滅の要因に大きく関わっている可能性が高いと、結論付けた。
あくまでも可能性である。しかし十分あり得ると判断してしまった。
結果、さらに可能性が生まれる。自らが人間を害する可能性。要求事項を満たせなかった可能性。
ありとあらゆる、「自分はやはり欠陥品である」ことを証明できる可能性が生まれ、シルファは自己を見失ったのだ。
要求を満たせない欠陥品。ならば破棄されてしかるべきなのだが、こうして思考している自分とは何か。なぜ自らを破壊しようとしないのか。
岡崎朋也を連れて逃げていたときには、既にしてその疑問に侵されていたといってよかった。
シルファには、自殺の概念はない。だから自壊の論理を持てなかった。用を為さぬ、為せないはずの「わたし」がなぜここにいるのか。
壊して欲しい。しかし要求を伝えようとしない。朋也にも、他の誰かにも。
全ての答えを探した。模索した。しかし答えは出てこない。答えが見つからない。
思考に思考を重ね、電子頭脳が焼き切れてもおかしくはなかった。そうならなかったのは、他ならぬ朋也が納得できる答えを与え、証明してくれたからだ。
敵。
侵害しようとする、敵。
わたしの中にいる。わたしを壊せという願いさえも奪う、それは紛れもない敵だ。
許してはならない。絶対に許してはならない。戦わなくてはならない。
敵はするりと己の中に入り込んできた。存在をはっきりと感じたのは、あの時。
三枝葉留佳が悲壮な死を迎え、音無結弦が逃げろと叫んだあの瞬間だ。
あいつらだ、とシルファは答えを結んでいた。あの二人組。一言しか名前を聞き取れなかったが、憶えている。
芳野祐介と、カルラという男女が、自分の中に敵を送り込んで、奪ったのだ。
奪って、彼らはきっと食い物にする。証拠に、カルラという女は争いながら笑っていた。愉快そうに。
だからシルファは、立ち向かうと決めた。人間であっても、あれは敵なのだと断じた。
人間は優しいはずなのに、思いやる心があるはずなのに。彼らにはそれがなかった。
敵を教えてくれた優しい人間に、岡崎朋也に最大の感謝を。
人でありながら敵である、彼らに最大限の怒りを。
シルファに新たに記述されたクリアな認識。
人間の中にも、許すべきではない巨悪が潜んでいるという事実を知ったこと。
それは安全的見地から本来絶対行えないはずの、彼女が人間を殺せるということでもあった。
しかも紛れもなく、ただ己を守るためだけに、である。
……
…………
………………
やがて、街の中に入った。周囲を注意深く観察しつつ、シルファと朋也は慎重に現場まで足を運ぶ。
渦中にいたときは気付けなかったが、街の破壊された様子は記憶以上に惨憺としている。
コンクリの建物にひびが入り、電柱が根元からへし折れ、看板やガラスが無残に割られている。
気を抜いていると歩いているだけで怪我をしかねない環境である。シルファ自身はメイドロボであるためその心配はない。
「……」
観察する。朋也も、その心配はないようだった。
千切れた電線には近づかず、壊れた建物にも同様に。誘導するまでもなかった。
と――
「あ、わ、わっ」
地面の断層部分につま先が引っかかってしまう。
バランサーが利かなくなったシルファを、伸ばした朋也の手が支えた。
平易な言い方をすれば、朋也に気を取られて足元がお留守になっていたのだった。
はぅ、とシルファは赤面し、恥じ入った。なんと無様なことだろうか。
「すみ、ません」
「お前本当にメイドロボなのかって、ちょっとばかし疑っちまうな」
「……こわれてますから」
ハード的には何ら問題はないはずなのに、シルファはたまにこういうことをする。
プログラムでアトランダムに小さい失敗を繰り返すように設計されているわけでもなかった。
こうした原因不明のエラーは、彼女の『姉』でもあるHMX-12《マルチ》の時代から散見されていたらしい。
感情プログラムの自己アップデートの際に起こるノイズかもしれない、という見解を聞いたことはある。
が、だとしてもそうしたノイズを処理できないことは機能不全を起こしているのと同義であるとシルファは考えていた。
「違う。そこらの人間よりよっぽど『らしい』って言ったんだ」
多少語気を強くして朋也は言った。
しかし裏腹に、彼の視線は優しさを帯びている。
一瞬、思考が凍結した。原因は不明である。これもノイズなのかとシルファは考えたが、判断がつかない。
つかないから、彼女は礼に礼で応じることにした。見た目を取り繕うことも人間には必要なのだ。
「……ありがとうございます」
「別に。誰にだってできることさ」
ぺこりと頭を下げたシルファに対する朋也の態度は、冷たい。
冷たいが、拒絶ではない。彼は意外と、他者を尊重するのだと分かった。
不良ではないな、と改めてシルファは思い、同時に自分の処理優先事項から、ノイズの消去作業を取り止めることにした。
消さなくてもいいと、認められたように感じたからである。
「俺が同じようにコケそうになったら助けてくれりゃいい。それでチャラだろ」
「はい。そうします」
シルファは、それとない程度の微笑を浮かべている。
朋也は察したのかそうでもないのか、「誰もいないな」と話題を変えていた。
この場合の誰か、とは死体も含まれるのだろうと想像する。
地面に血痕や服の切れ端のようなものが残ってはいるが、肝心の体がない。
生き返る。唐突に音無の語った『死後の世界の
ルール』が想起されたが、果たしてそうなのだろうか。
ここはあまりに、持ち合わせた常識が通じなさすぎた。
「……せめて、音無くらいは」
「結弦ならもういない」
唐突に発された声だった。
空気のように透き通った声の主は、シルファと朋也のすぐ後ろにいた。
いつの間に現れたのか。関係者の名前が出てきたから登場したと言わんばかりのタイミングに、驚愕と絶句が重なるのみである。
少女、立華奏は荷物を抱えてその場に立っている。ひとつだけであることから、自分の持ち物なのだろう。
あまりにも、自然すぎた。
「……やっぱり、致命傷だったのか」
朋也もそれには気付いているようであった。
立華奏は音無結弦の知人であることは知っている。なれば、奏は音無を喪失しているのだ。
なのに奏からは一切の化学変化を感じなかった。人間の死を消化したにしては、彼女は自然体のままでありすぎた。
言うなれば、カルラと戦っていたときの彼女と、今の彼女の雰囲気は全くの同一であるように、見えた。
面識の浅いシルファでも感じられるほどに。朋也が気付いていないはずがない。
しかし朋也は先に結末を求めた。渋面を作り、奏の対面に立つ彼は、何かを確かめようとしているようにも見えた。
「ええ。助けられなかった。助からなかった」
「だけど、最後には立ち会えた。そうなんだな」
奏は頷く。
音無は奏に看取られながら死ぬことができていたのだと知る。
最低限の尊厳は守られていたことに少しばかり安堵は覚えたが、喪失であることには変わりがなかった。
「結弦は満足してくれていた。命を繋いでくれて、ありがとう、と」
言葉の中身は分からない。自分が死のうとも、奏が生きているから発された言葉なのか、それとも本人にしか分からない別の意味があったのか。
朋也はしばらく待ったが、奏は続きを語ろうとはしなかった。最後に言葉を交わしたという事実だけを告げた。
表情も変えず。シルファにはそれが、表情を変えられないのではなく、変えようとしていないように思えた。
悲しみを隠しているわけではない。憤りを抑えているのではない。それ以上に強固な決意が、感情すら支配している。
なぜだかシルファは、そう思った。思うほどに、奏は何かに酷似していたからだ。
「……お前は、それで良かったのか? 音無が何を思ったかは、俺には殆ど分からないが……」
「良かった。そう思うことにする。……だって、確かに結弦の気持ちは救われたから」
「俺が聞きたいのはそういうことじゃない。お前だ、立華。死んだのに、殺されたのに、良かった、だけなのか?」
朋也の声色が、変わり始めていた。
シルファに対して声を荒げたとき同様に。
音無の死の是非を問うているのではない。分かった。分かりすぎた。
だって、それは――
「そんなんじゃ、まるで」
――敵。
「肯定じゃないか」
奪われることの肯定。
侵害されることの肯定。
本人が良いと言ったなら、略奪されてもいいという肯定だ。
「私は、そうしたい。肯定することが、結弦が私に望んだことだから。皆を認めてあげたい、よかったね、って」
それが心を癒し、慰めるのであれば。
殺し合いで起きた悲劇ですら、彼女は肯定するのだ。
無駄ではない。否定する必要はない。彼女が受け止めてくれるから。望めば、与えさえしてくれるだろう。
天使だ、と瞬間的に、該当する言葉が浮かんだ。
行いを全肯定し、救い上げてくれるもの。
超越者の所業である。天使と言わずして、どう表現するのか。
だが、しかし。シルファは、朋也は――それを、彼女が救ってくれることを、痛烈に拒否した。
拒絶だと言っても良かった。
シルファは奏の言葉を聞き終えた瞬間、エドラムをデイパックから取り出し、全力で斬りつけていたのだ。
突然の襲撃だったにも関わらず、奏は攻撃意志があると見るや、すぐに身を引いて距離を取った。
一歩で5メートル以上は飛び退いた。シルファでは到底追いきれる距離ではなかったが……敵意は、増すばかり。
シルファの行動を受け取って、朋也も続く。
「……ふざけるな。お前のやると決めたことがそれか。俺は、俺達は、認めない」
何を思って、朋也が奏と対話したのか。
或いは、朋也は奏を引き入れたかったのかもしれない。
一緒に行動していたという経緯があり、朋也なりに思うところもあったのだろう。
自分達のために戦ってくれた彼女なら、とも思っていたのかもしれない。
けれども、しかし。彼女は音無の死を受け取った結果、肯定する方向へと動いた。
報われているから。救われたのだから。その結果を求めるために、あらゆる感情でさえ奪い去って。
「何考えてるかイマイチよく分からなくて、それでも、自分勝手なあいつらとは違うと思ってた俺が馬鹿だったな……立華も結局、あいつらと同じだ」
「――! それは、」
「親父にすら否定されて、ここでやること為すこと全部失敗して、何が良かったんだ?
つらいことを忘れればいいのか? 新しい価値観とやらを持てばいいのか? 何をしてでも?
そいつはいいな。お前が肯定してくれるんだ。幸せだ。……でも、幸せになりたいんじゃない。ただ許せない。
俺は、他人の望む慰めのために奪われたくない。自分の壊し方くらいは、自分で決める!」
なにかを言おうとして口を開いた奏を遮って、朋也は決別の怒りを叩き付けた。
朋也の、シルファの敵意は、他者を殺す領域にすら達している。
それほど。ここには、侵略を行う敵で溢れかえっていたのだ。
「天使なんだろうな。そう思うよ。でも、敵だ」
朋也も刀を抜き放つ。それが使い慣れない武器であっても、眼前の敵を見逃してはならない。
立ち向かわなければならない。気持ちを同じくする人間とメイドロボが、ただ立ち向かう。
「違う、私は」
天使が後ずさる。またもや何かを言おうとしたが、口を閉ざした。無表情に。
片や朋也とシルファは、凝然と睨む。沸騰寸前の怒りを内包して、天使でさえ殺すと決めた。
歩く。一歩ずつ距離を詰める。
天使は、反撃だって出来るはずの、彼女は。
「――ディレイ」
……
…………
………………
そんな声が聞こえた次の瞬間、天使の姿は忽然と消えていた。
魔法でも使ったかのように。
逃げられた。そんな認識がシルファを覆い、次いで握っていたエドラムがずっしりと重みを増したように感じられた。
そんなはずはない。物が突如重くなるはずはないのだから。
なぜか、と考えて、一つ思い至ったシルファは空を見上げた。
怒りは、力になるのだ。敵対するものを排除するために、リミッターを外せるのだ、自分は。
「……行こう、『シルファ』」
やがて、完全に天使は逃げ去ったと判断したのか、声がかかった。
朋也が自分を呼んでいた。今まで呼んでいなかったはずの名前を言ってくれていた。
仲間と認められた、自覚があった。そして仲間だと思う、自覚もあった。
「はい」
それまでの形相がなかったかのように、シルファは笑顔を花開かせた。
【時間:1日目午後10時00分】
【場所:F-7】
天使
【持ち物:不明、水・食料一日分】
【状況:逃走。F-7近辺に移動した】
シルファ
【持ち物:エドラム、水・食料一日分】
【状況:打撲他ダメージ(中)】
岡崎朋也
【持ち物:
日本刀、水・食料一日分】
【状況:ダメージ(軽)】
最終更新:2012年06月02日 03:34