夜の扉 ◆Ok1sMSayUQ
なぜ自分がここにいるのか、片桐恵は分からなかった。
覚えているのは、バジリスク号で岸田洋一に犯され、気を失ったところまでだ。
未だに股間の、自らの大切な箇所がじんじんと痛む。あの男に征服され、汚された場所が疼きを上げている。
征服。その単語を思い浮かべた恵の頭が、もう一つの記憶を呼び起こす。
犯されたのは二回。一度目は、船員の死体が横たわるブリッジで血まみれになりながら犯された。
死の恐怖を間近に突きつけられ、漂う臓物の匂いに忌避感も抵抗心もなくなり、自ら望んで犯された。
片桐恵は自尊心と、誇りを失った。
命の危険を前に、みっともなく痴態を晒す恥知らずの人間になった。
二度目はバジリスク号客室にて、寝ているところを犯された。正確には、そうするよう指示された。
片桐恵は、征服者に従う奴隷となった。
だが、それだけならまだ良かった。犯されるだけなら、辱められるだけなら、まだ被害者の顔をしていることができた。
自分はかわいそうな人間なんだと言うことさえできた。
もう一つの記憶。それは犯されたことではない。
自らも殺人に加担し、人殺しとなってしまったことだった。
犯された直後、岸田によって機関室へと連れて行かれ、レバーを握らされた。
押せ、と命じられた。レバーの先の、クランクの中から、人の呻き声が聞こえた。
このままクランクを回せば、中の人間は容赦なく押し潰されることは分かりきっていた。
がん、がん、と叩く音が聞こえる。必死に中から出ようとしているのが、分かった。
助けてあげたかった。あんな狭いところに押し込められて、苦しいだろう。
けれども思うだけで、行動には移せなかった。岸田がすぐ近くにいて、丸太のような腕を肩にかけていたから。
抵抗の意志を見せれば、万力のような力でねじ伏せられるだろう。
岸田は囁いた。クランクならまだ空きがある、と。
それは動かない自分に対しての最後通告だった。殺さなければ、殺す。
一度犯されたときの恐怖が蘇っていた。なす術もなく岸田の剛直を押し付けられ、純潔を汚された瞬間を。
躊躇なく踏みにじってみせたこの男なら。簡単に自分の命を奪ってしまうだろう。
けらけらと哄笑を浴びせながら、玩具で遊ぶような気持ちで、クランクのレバーを押すのだ。
想像は容易かった。殺さなければ、殺される。
死にたくない。もはや道徳も倫理観も、守るべき価値のなくなったものだった。
死にたくない。それだけの思いに突き動かされて。
死にたくない。片桐恵は、レバーを押した。
根源的な恐怖。命を失うという真実の恐怖を目の前にしては、それまで恵が培ってきたものなど何の役にも立ちはしなかった。
助けて。
神様。
声は、クランクの中から聞こえた。
祈るべき神の存在を無くしたのは、恵のほうだった。
おめでとう!
おめでとう!
これでお前も同じだ! この俺と同じだ!
喜色満面の笑みで自分を祝福してくれたのは、征服者だった。
恵は実感した。
最後の最後、この男は人間としての存在すら奪ったのだと。
「……そうよ、だから」
恵は呟く。犯されたことも、自分がここにいることも、既にどうでもよかった。
あの男はまだここにいる。岸田洋一という、征服者がここにいる。
岸田は飽くなき征服を続けるだろう。自らの欲のために、快楽のために。
じきこの島にいる人間は岸田の手にかかるだろう。そうなってしまったら最後、落ちるところまで落ち、人間としての価値すら失った人形が出来上がる。
生きているのか死んでいるのかも分からない、ただ恐怖にのみによって突き動かされ、自分の命を守るためならどこまでも貶める存在になる。
そうなる前に、岸田洋一は殺さなくてはならなかった。裁いてみせなければならなかった。
全てを支配しようと目論む男を、絶対に殺し尽くさなければならなかった。
自分自身も信じられなくなり、生きていることさえ罪悪と感じてしまう人間になる前に。
自分も許せず、他人を呪い、こうなってしまったのは仕方がなかったんだと運命に言い訳をする人間を作ってしまう前に。
岸田洋一が、恐怖で恐怖を支配する世界を作ってしまう前に。
どうせ自分は、ここで死ぬ。
岸田洋一は絶望の肴に、自分のあることないことを情報としてバラ撒くに違いない。
片桐恵は殺人鬼だ。船員をクランクに押し込めて殺した殺人鬼だ。ほら、ここにビデオもある。あいつが殺したんだ。
善人を装いながら、無害な他人の振りをしながら、無責任に悪意をバラ撒く。
そうして岸田の悪意に当てられた人間もまた、無責任に自分を詰るのだろう。
脅されたから? 仕方ない? そんなものが理由になるか。人殺しはいけないんだ。
責任を問い、崖に追い詰め、そして突き落とすのだろう。
だから諦めは持てた。岸田一人を殺しきってやろうという気概も湧いた。
あれだけ死ぬことを怖れていたのに、今は別にどうでもいいとさえ思っている。
逃げ道が、生きるための道が完全に閉ざされてしまったからなのだろう。人間として、女の子としてまともに生きる道を。
岸田の恐怖に支配された人間も、そうでない人間も、もう恵の味方ではないのだから。
ここは全て、恵の敵だった。
だから利用する。
人間を利用し、武器を利用し、状況を利用し、罠を張り、策を巡らせて、岸田を殺す。
あらゆる犠牲を払ってでも、見殺しにしても、時には自分が手を下してでも。
殺人鬼は、殺人鬼が殺すのだ。
こんな自分は、狂っているのだろうか。
自分も、周りも、全てを信じられず、結局は恐怖で支配することで苦しみから逃れようとしている自分は。
恭介。親近感を抱いていた相手。自分を任せていたかもしれない人間の名前を最後に呟いて、片桐恵は復讐の一人旅を始めた。
その手には、隠匿に便利な
デリンジャーを握って。
このちっぽけな銃が、人間の命を奪う凶器が、恵の唯一の希望の在り処だった。
【時間:1日目午後12時30分ごろ】
【場所:F-1】
片桐恵
【持ち物:デリンジャー、予備弾丸×10、水・食料一日分】
【状況:健康】
最終更新:2011年08月28日 03:53