悟りの境地

悟りの境地とは?


「悟り」は「自らを客観的に観測できる状態」と定義しました。
では、その境地とはいったいどこなのでしょうか?

問題になるのは「自ら」の部分です。
自らは自分自身、私、主観、一人称と言い換えても構いません。
観測した情報を受け取る「何か」です。
脳ではありません。脳はただの細胞の塊です。
脳という器官によって実現されている、「主観」というシステムです。

映画ターミネーターの一人称視点をご存知でしょうか。
赤い画面には、外界の情報に加え、体の各部位の情報や、過去の記録が表示されています。
では、この赤い画面を見ているのは一体誰なんでしょうか?

それがターミネーター自身の「主観」です。

悟りの境地とは「自ら」自身も完璧に客観観測できる状態です。
「悟りの境地」ではない状態とは、「自らを完璧に客観観測できていない状態」です。

ターミネーターの喩えで言うなら、例の赤い画面を観ている奴の後頭部を見るようなものです。

「観測する主体である自らを、客観的に観測する」という言葉に矛盾を感じませんか?
実は悟りの境地においては、観測が定義できないのです。
なので「悟りの境地」は観測行為の「特異点」なのです。

ではどうやったら「悟りの境地」に至れるのでしょうか?

最終更新:2011年09月14日 23:48