悟りの境地を目指す

「悟りの境地を目指す」とは?


悟りの境地で述べた通り、「悟りの境地」は特異点です。
では、悟りの境地には至れないのでしょうか?

幸福の物理の目標を「悟りの境地を目指す」と書いたところに仕掛けがあります。

悟りの境地特異点であっても、限りなく近づくことは可能です。
もちろん限りなく近づく極限と、悟りの境地の状態は違う可能性があります。
幸福の物理では前者を目標としているのです。
悟りの境地に近づいていく過程が大事とも言えます。

悟りの境地へ至る近道はありません。
あったとしても、悟りの境地自体は目標ではないのです。
できるだけ客観的に自分を観測し、自分(主観)とその他(主観)をより分けていく。

パソコンに例えるならば、主観はOSと言えるかもしれません。

自分の手は観測主体ですか?
違いますよね。仮に手を失っても私は私です。
手は私がコントロールする外部デバイスに過ぎません。
私の命令に従ってい動作し、外界の情報を取得します。

自分の心臓は観測主体ですか?
違いますよね。もちろん心臓を失ったら死んでしまいます。私にとって必要な器官です。
しかしながら人工心肺にしても私は私です。
心臓は本能で動作する電源に過ぎません。

自分の脳は観測主体ですか?
もちろん脳を失ったら死んでしまいます。私にとって必要な器官です。
しかしながらそれ自体は私ではありません。
脳は私というシステムを実現する論理デバイスに過ぎません。

自分の記憶は観測主体ですか?
もちろん記憶によって私の思考は変化します。
でも記憶は所詮記録であり、それ自身は意思を持ちません。
実は記憶それ自体も外部の情報記録装置に過ぎません。

このように自ら観測し、自分自身自分自身以外により分けていく過程が幸福の物理です。
だんだん私が小さくなっていきますが、0にはなりません。
なぜなら、観測しているからです。
最終更新:2011年09月15日 00:39