ㅤ――無味。
喰らい尽くしたドラゴンからは、何の味も感じなかった。肉も尾も鱗も、その全てがまるで水のように後味が無い、透明な。
食べることへの喜び、おいしいものへの執着――数あるドラゴンの中でも、私だけが特に見せていた特質。それが、消えた。消えてしまった。
私じゃなかったものが取り除かれて、本来の私の輪郭が浮かび上がる。残ったのは、聖海の巫女としての、調和勢のドラゴンである私。かくあるべしと、固められた私。
ㅤ――私が消えてなくなってしまう。
残ったものこそが私であるはずなのに――不意に、そんな感覚が胸の中に襲って来た。
また一つ、私が固まっただけなのに。
また一つ、輪郭がはっきりしただけなのに。
また一つ、あるべき姿へと変容の歩みを進めただけなのに。
まるで、大切な何かを失ってしまったかのような、そんな錯覚。
まるで、否定されて然るべきだと信じてきた価値観が、真逆へと転換してしまうような、そんな感覚。
「……まあ、どちらでもいいか。」
ああ、今は本当にどちらでもいい。
私が、いち調和勢の龍であったとしても。
私が、本能のままに生きる、捉えどころのない水のような存在であったとしても。
ㅤ――調和を乱す存在でありトールの仇でもある、眼前の死神を見逃す道理なんて、どこにも有りはしないのだから。
死神の虚ろな眼と、視線がぴったりと合った。片時も外さぬその様相、向こうもこちらを天敵と認識したのは明らか。
「……さて。」
誰に語りかけるでもなく、口を開いた。本来その言葉の向かうべき相手がもうこの世に居ないことは分かっている。
だけど、吐かずにはいられなかった。
「最後の――勝負といこうか、トール。」
ㅤ――トールとは、勝負するのが好きだった。
混沌勢と調和勢、馴れ合うには互いの背負うものの違いから生まれる溝が、あまりにも大きすぎた。あいつとの関係の根底にあるのは、対立。けれど、あいつが人間たちの宮殿を破壊したあの時までは、決して殺し合うことを是とする仲では無かった。
その結果として生まれたのが勝負という儀だ。戦闘でなくとも、闘争ではある関係性のいち形態。混沌と調和の狭間にあるような、その程度の仲が私たちには丁度よく、そして心地よかった。
しかしその決着は、一度も付かなかった。互いが負けを認める性分では無かったから。保留している限り、"次"が約束されていたから。争いながらも、その"次"を私たちは待っていたのだ。
今やもう、その"次"は約束されていない。決着をつけることも叶わないままに、二人の永き戦いに突如として与えられたピリオド。死がふたりを分けた今、もう同じ土俵で戦える舞台は無くなった。
ㅤ――ただひとつ、目の前の存在を除いて。
「お前が倒せなかったコイツを私が倒したら……私の勝ちだ。文句はあるまい?」
多くの者と連戦を重ね、少なからず深い傷を負っているはずの刈り取るもの。しかし、未だ満身創痍にはほど遠い。特に、スキル『超吸血』によりさやかの死骸から力を吸収したことがその要因として大きかった。魔法少女としてのさやかの力は、想い人の腕の大怪我を治すための『癒し』に由来する。力の属性は、すなわち回復。その力を吸収した死神は、エルマが切断していた腕ごと、既に再生を果たしていた。それならば、純粋な戦力としてはトールと戦った片腕の死神よりも――だから、どうした!
正しさに裏打ちされた理屈なんていらない。逃げる選択肢を取るつもりがないのなら。
「ぶつかって……ありったけをぶつける、それだけだぁぁっ!!」
一歩近付くと、眼前に核熱がほとばしる。逃げるつもりがないとの予測の上で、こちらの前進を待っていたのだろう。力量に明確に差があるならば、先手を打って即座にねじ伏せればいい。逆ならば、先手を打たれる前に逃げるより他にない。その上で、こちらの攻撃を"待って"いるのなら、その意味はひとつ。少なくとも対等な敵であると、認められているのだ。
「受け止めるつもりか、ドラゴンの一撃を。」
武器を持っていないからか。それとも頭数が減ったからか。この程度の攻撃で止められるつもりとは、随分と甘く見られたものだ。
意にも介さず走り抜ける。振り抜くは、拳。ドラゴンの身体能力に、本来人間の身の丈に合った武器など、必要無し。
――空間殺法
応戦に用いられたスキルは瞬速の妙技なれど、トールがその軌道を見切り、受け流したもの。超えねばならぬ壁に、他ならない。
「負けないよ。」
見舞った体技と相殺し、両者は再び見合う。先のトールのように、その交錯の瞬間を狙い済ました完全なカウンターを叩き込むには至らない。
喪失も、怒りも。精神論など――決定的なスペックの差を埋めるには、足りない。普段の戦いの実力はほぼ同じであっても、普段と異なる徒手空拳の戦闘スタイルにおいてはトールのそれに一歩及ばない。
(まだだ。)
『――馬鹿だな。崖から足を滑らせた人間など、放っておけばよいものを。今回は、我の勝ちだな。』
――追想するは、いつかの、トールとの勝負。
(まだ、足りない。)
鳴動する剛炎が、再び懐に潜り込もうと迫るエルマの行く手を塞いだ。
『――旅人のコートを脱がせれば勝ち? 馬鹿馬鹿しい。そんなもの吹き飛ばしてしまえばいいではないか。』
――単なる競走であるときもあれば、変わった
ルールを設けたこともあった。
(あいつのように。)
――あいつは、いつもドラゴンとしての威風に満ちていた。だから――
翻した右手より顕現するは、トールより喰らった魔力を用いて発した激流の魔力。炎を打ち消し、進む道を開く。その先には当然、刈り取るものの姿。
(――奴に終焉をもたらせるだけの、闘志を!)
再び、ぶん殴る。腕に襲い来る、今度こそ明確な手応え。剛腕が刈り取るものの胴体を打ち付け、その巨体を大きく後退させる。
全身の体躯がぐらりと揺れる味わったことの無い感覚に、かの刈り取るものとて動揺を覚えずにはいられない。
「まだだっ!」
その一撃に終わらず。跳躍し、徒手空拳から繰り出される連撃。
一撃目は、胴体を大きく揺らした。
二撃目に、反撃に突き付けられた二つの銃口を払い除け、大地に叩き落とす。
三撃目に、真っ直ぐに打ち付けられた正拳が刈り取るものを吹き飛ばす。
「……しぶといな。」
その上で――常人ならば両の指で数えられぬ回数肉片に変わるドラゴンの連撃を受けてなお、刈り取るものはそこに在り続ける。落としたはずの拳銃も、両の腕に収まっている。存在自体が認知で構成されている刈り取るものというシャドウは、武器である拳銃も含めた認知存在。腕の再生とともに、必然的にそこに"在る"同体。
――至高の魔弾
無造作にばら撒かれた弾幕。その一つ一つが、命を文字通り刈り取らんとばかりに、どす黒く煌めいて――されど、足りない。怒れる龍を鎮めるには、到底。
「うおおおおッ!!」
両腕を掲げるとともに、エルマの激情を具現化したかの如き竜巻が、亜音速の弾丸の全てを吹き荒らして消し飛ばす。
同時に、嵐に身を隠し疾走する影。それに刈り取るものが気付けど、もはや手遅れ。両手を頭上で組み、上方から頭部を叩き付ける。刈り取るものを通して大地にまで亀裂が走るほどの衝撃。弱点としての脳など存在しないが、しかし衝撃で大きく体勢を崩した刈り取るものを加えて蹴り付ける。ダメージを許容しつつ何とか起き上がった刈り取るものは、『スキル』を詠唱する。次は炎か氷か、或いは雷か。どの有形力にも対抗できるよう、一歩引き下がって獄炎のブレスを準備し――
「……ッ!」
――サイダイン
「ぐっ、ああああっ!!!」
しかし反撃に繰り出されたのは、有形の属性ではなく、脳に向け直接送り込まれた害悪。不可視の脳波に抗う術もなく、頭を内側から掻き回されているかのような振動に膝を着く。
元より戦闘不能に至るだけのダメージを、食によって無理やりつなぎ止めていただけの肉体。そもそもにして限界は近かったのだ。視界が揺らぐ。栓が外れたように全身から力が抜けていく。幻か――刈り取るものに重なってトールの姿まで見え始めた。
(……遠いな。)
『――トールが行方不明だそうじゃ。』
死神――冥界の王ハデスの系譜であるそれは文字通り神性を帯びた存在であり、ドラゴンよりも種族としての格においてひとつ上に位置する。
『――神々の軍勢にたった一人で戦いを挑んだらしい。』
(お前も、こんな景色を観ていたのか……?)
世界の調律者たる神を打倒するのが容易であるならば、調和勢と混沌勢など生まれ得なかった。ドラゴンという絶対的存在として管理を受けることを嫌悪しながらも、しかしそれでも既存の秩序に組み込まれることを良しとする調和勢が生まれたのは――偏に神族の格を絶対視しているからに、他ならない。神の打倒が成せぬという共通の理念の下に、調和勢は存続している。刈り取るものへと食らいつくことは、間違いなくドラゴンの戦争の歴史に裏打ちされた無謀であった。
『――おそらくは、生きてはおらんじゃろう。馬鹿なことを……。』
(ああ、知ってるよ。だって、この死神に挑まずにはいられない私も――)
あの時は、神々の軍勢へ報復に単身向かおうなどとは考えなかった。結果的にトールが生き延びていたとはいえ、当時はトールの死を確信していながらも、ただただトールの身を案じることしかしなかった。だが、今は違う。刈り取るものにその身をもって報いを与えんと挑戦している。
あの時と今の差異は、何か。そんなもの、分かりきっている。
あの世界でトールと新たに築いた絆が、刈り取るものを逃がすことを許容しないんだ。それくらいに――
(――どうしようもない、大馬鹿なのだから!)
おぼつかない足をその地に立たせているのは、単に気合いでしかない。そんな満身創痍の状態のエルマに追撃で与えられる銃撃。二度、三度……人間を遥かに超越するドラゴンの皮膚の硬度を持ってしても、ギリギリでつなぎ止められた生命の糸を揺らすには十分過ぎるだけの痛みがエルマを襲う。
銃撃の数が二桁に達したその時、耐え難い衝撃についに膝をつく。銃撃に撃ち抜かれた脚は、もはや身体を支えるのに役に立たない。ならばと下半身を水竜のそれへと変貌させ、浮遊。
全身のドラゴン化はパレスに制定された制限により不可能。しかしドラゴンの力を解放した半身は、人間形態を超えた速度で接近を可能とする。ただし――
「……あっ。」
――力の代償。超速接近を臨んだ以上、途中では止まれない。
(まずいまずいまずいっ!)
不審に思うべきだったのだ。刈り取るものが何ら『スキル』を付与せぬ銃撃を繰り返していたことに。銃口のその向こう、硝煙に隠れた先。死神には、何かを準備する猶予があった。
――メギドラオン
真に強者と認めたものにのみ放たれる、刈り取るものの切り札。トールを葬った、混沌よりも深い終焉。刈り取るものにとって、すでにエルマは真っ先に排除すべき天敵であった。
「……く、そぉ……っ!」
あの銃撃は確実な死をもたらす爆心地への誘導だったのだ。死神のもたらす死、その真骨頂。
――ふと、自嘲が漏れる。
殺意に身を任せ、攻撃のみに一点集中した結果が、これだ。ああ、トール。私は……どうやらお前のようにはなれないらしい。輪郭が見えず、自分だけの色を持ちながらそれでも何色にも染まろうとする、透明な――水みたいな。そんな、ただそこに在り続けるだけの生き方が。
――私は、羨ましかったんだ。
『――さすがはテルネ様の一族だ!』
私には、立場があるから。自分というものが、すでに周りによって固められているから。
『――聖海の巫女様! どうか私たちに恵みを……』
そんな私が――お前のように生きられるはずがなかったんだ。お前のようにひとりぼっちで神に挑んだとて、お前のように……或いはお前よりも無様に、その身を散らす結果にしかなり得ない。そんなの、最初から決まっていたじゃあないか。
『――お前……一生そうしてるつもりか?』
「っ……!」
だから、やめろ。やめてくれ。私は水にはなれないと、知っているから。
――私を変えようと、しないでくれ。
「私は……。」
――立場が定められた私は、変わっちゃいけないんだ。だから……
「私、は……!」
刈り取るものの眼が妖しく煌めく。崩壊が、発動する。
――だから私は、何も選べない。
――だけど。
たった一つ、夢を語るなら。
たった一つ、希望を謳うなら。
たった一つ、許されない本当の気持ちを吐露するならば。
「ただ……お前と……一緒にいたかったんだああああっ!!」
たった一つ、叫びと共に――空間が空白に包まれていく。
これは、無謀に等しい神への挑戦。確定された終末の訪れ。
なればこそ、戦いによる戦いの終結を願ったドラゴンが、神剣によって撃墜された、かつてのラグナロクと同じ結末も――
――"独り"で戦う私には、必然的な到来か。
――但し。
――本当に、それが"独り"であるならばの話。
「……そうか。」
死神が、その名の通り相手の命を確実に刈り取ることを確信して放った必殺の絶技。その残滓の中――エルマの命の灯火は、消えずそこに存在していた。虚ろな眼が、驚愕に見開かれたのも束の間。すでに残像を残して消えていたエルマの動きに、反応が追いつかない。
「お前が救ってくれたんだな、トール。」
――時に、食べるという行為は儀式的・呪術的な意味合いを内包する。
肝臓が丈夫な生き物の肝を食せば、肝臓が良くなる。目の良い生き物の目を食せば、目が良くなる。或いは――不死の象徴たる人魚の肉を食せば、予言の力を持つ妖怪くだんの肉を食せば、それに応じた力を得られる。これらは一例であるが――他者の一部を取り入れるという行為は、その相手の能力や資質を取り入れるという発想とかなり近いところにあるのだ。
エルマは――混沌の龍トールの肉を骨ひとつ残さず喰らい尽くした。
本来であれば食すという行為で得られる力は、体内に存在した魔力や栄養素を取り込む程度の効力しか発揮し得ないだろう。しかし――ここは桜川六花についての知識を有するインキュベーターの認知で構成された世界。そこで成された『食』の行為には――少なからず、力の継承という意味が生まれる。
異世界と空間を接続し、そこへ物質を転送するトールの魔法。出自の違いから、エルマには到底扱い得ぬ類のものであったが――食によってトールの力を受け継いだことで、その魔法は発動した。エルマを消し飛ばすはずであったメギドラオンは、その力の根源ごとどこか異世界へと転送され、パレス内から消滅した。
その因果を経て――今、エルマはここに立っている。そしてメギドラオンという絶技の反動で動きが鈍ったその瞬間を、エルマは逃がさない。冷徹なる調和の意志を宿した拳が、刈り取るものの顔面を打ち付ける。みしり、と音をかき鳴らしながら沈んでいく拳。
「さあ……終わりだ。」
その瞬間、冷たさに満ちていた拳が、熱く熱く、燃え上がった。そこに宿るは、調和とはほど遠い、混沌の意志。勢いを増した拳は容易に刈り取るものの顔面を砕き、貫いていく。
その瞬間を以て――死神の名を冠した大型シャドウ、刈り取るものの巨躯は塵芥へとその身を散らし、虚無の中へと沈んでいった。
その散りざまは、あれだけの存在感を示していた割に、いやに呆気なくて。虚構に生まれた存在というものの儚さを、提示しているようで。
何にせよ、これで終わったのだと、確かな実感を込めて静かに呟いた。
「……勝ったよ、トール。」
そして、それと同時に――その場で仰向けに倒れ込んだ。
「勝負は、引き分けだな。お前がいなければ勝てなかった。だけど……この、勝利だけは。味覚の壊れた私にも、勝利の美酒の味わいを与えてくれるものなんだな。」
見上げた先には、眩しいばかりの太陽と――それが照らし出す青空が、広がっていた。
「……なあ、トール。」
そしてその先に――いつもと変わらない、トールの姿を見た。
「お前を元の世界に連れて帰る……だっけか? もうそんな建前は言わないよ。」
ぼんやりと霞みゆく視界の中でも、トールの姿だけは変わらずそこに在り続ける。いつか仲直りした時と同じように、何処か照れ臭そうにこちらを見ている。
「……今度こそ二人で、一緒に旅をしよう。人間の世界を見定めるなどという目的もない、ただ私たちが楽しむためだけの、自由な旅だ。」
死神の多彩なスキルを、少なからずその身に受け続けたこと。それに加え、メギドラオンの衝撃も完全に異空間に消し飛ばすことは出来なかったこと。すでに身体は、限界を迎えていた。
「人間の姿のままでの食べ歩きもいいな。お前が隣(そこ)にいてくれるなら、きっとどんなものでも、美味しいだろう。」
そもそもの話――この二度目の戦いに出向けたのも、トールの死骸から得られた体力と魔力を糧としたものに過ぎない。戦う前から、とうに限界など超えていた。
「それに……そっちだったら、小林さんも連れてこいとは言うまい?」
だから――この時は、必然的な到来であったのだ。
「……ああ。」
どこか満足気な表情のまま、エルマはそっと目を閉じた。
「――本当に……楽しみだ。」
その様相たるや、漂う水のように。静かに、そして、安らかに。
【E-6/住宅街エリア外/一日目 朝】
【刈り取るもの@ペルソナ5ㅤ死亡】
【上井エルマ@小林さんちのメイドラゴンㅤ死亡】
【残りㅤ36人】
最終更新:2022年01月04日 11:44