Monster A Go Go
古ぼけた街灯のみが照らす薄暗い夜道を、一人の人物が歩いていた。
間隔のまばらな光の下を通るたびに、その肌が黒く照り返る。
闇に溶け込むような体躯が浮かび上がる刹那、見えるシルエットは、ヒトのものとは言いがたかった。
クロコダイルのような、全身を覆う鱗。
2メートルはあるであろう長身の後ろで、同じくらいの影を地に曳く長い尾。
ディノニクスなどの肉食恐竜の如く異様に発達した手足の爪。
両の腋窩、膝の裏などには、トビトカゲのような皮膜も窺い知れる。
更には頭部や肘、脊柱に沿って角質が硬化し、角のようにも見える様相を呈していた。
その体つきのせいか着用している衣服は、軍用の迷彩服を加工して腰から股間を簡便に覆えるようにしたものを、ベルトで肩から吊っているのみだ。
彼の名前は皇(すめらぎ)魁(かい)。元、日本の陸上自衛官である。
しかし、今の彼は、『アニラ』と呼ばれていた。
「フルルルルルルルル……」
舌と牙の間を擦過していく吐息が、闇にかすかな唸りを流す。
彼が所属するのは、『死者部隊(ゾンビスト)』と呼ばれる、世間的にその存在を抹消された者たちが集う特殊部隊であった。
そのゾンビストの中で11人、とある軍事研究の被験者に選ばれた者がいる。
それは、パプアニューギニアにて、感染者の脳を経口摂取することによって伝染し、患者にある種のトランス状態と身体機能の急激な上昇をもたらすという奇病が発見されたことで始まった。
部族の伝統として代々の家長がキャリアとなっていたその病原ウィルスを改良し、軍隊に罹患させて超人部隊を作る――、というのがその目的であったようだ。
『独覚ウイルス』と名付けられたその病原体の改変型――『D-1ウイルス』に感染したゾンビスト達は、『独覚兵』と呼ばれ、死者部隊の隊長自らがコードネームを与えていた。
各方位と十二支を護り司る仏法の守護神、十二神将から取られたその名。
“辰”の『アニラ』。
果たして皇がその名を受けた所為か、それとも彼自身が変貌を望んでいたからか。彼の体は感染後1ヶ月ほどで、徐々に現在のような爬虫類じみた肉体へと変化して行った。
精神のトランス状態をコントロールし、さらなる身体機能向上を図った『D-1ウイルス』は、それらの問題の解消と同時に、新たな問題を生み出した。
先に挙げた肉体の変貌と、強烈な『食人・食脳欲求』である。
ビカラ、ハイラ、マコラなど、頑なにその欲求に抵抗しようとした同僚もいた。
しかし11人の多くは、その身体の奥底から湧き上がる欲求に身を任せ、多くの戦場で人を殺し、そしてその脳を喰らった。
元々、日本の自衛隊が受け入れられない荒事を秘密裏に請け負うために設立された『死者部隊』の一員だった為に、食人への順応は早かったのだろうと思われる。
アニラもその一人だ。
彼は寡黙であり、命令と仕事を確実に遂行することをモットーとする。そのため、普段ならば訳もなく人食いに走るなどということはない。残りの独覚兵たちも、人の理性を無くしてはいないため、大抵はそうである。
しかし、仕事であれば別だ。
世界各国の戦場へ飛び、彼ら独覚兵は数多の人間を食い殺してきた。
解き放つことを許された欲求と、渇いた欲望へ暖かく降り注ぐ血肉の味に歓喜した。
彼らの変貌した体は、容易く人を裂き、頭蓋を割り、甘く蕩ける大脳を食せた。
今アニラがデイパックとともに肩にかけているのは、使い慣れたMG34機関銃。
その12キログラムはある機関銃を、彼は簡単に片手で振り回し、取りまわしてきた。
超人的に研ぎ澄まされた五感は、この暗い街道でも、昼間と変わらないほどに景色を見渡せる。
彼の足の鉤爪はメキシコにて、人の命を刈る『ユム・キミル(死神)の鎌』と呼ばれた。
研究所の職員の四肢をその腕力で一度に引きちぎったこともある。
――だが、そうであっても、皇魁にとって優先すべきは、仕事と命令であった。
彼のいた死者部隊は恐らく現在もメキシコで、政府の開発に対する原住民の反抗勢力を鎮圧すべく、激しい戦闘を行なっているだろう。
その作戦の要の一人である彼が連れ去られ、こんなところでヒグマや他人との殺戮合戦に興じるというのは、完全に作戦行動から逸脱した行為であり、あってはならないことである。
――可能な限り早急にこの場を脱出し、死者部隊と合流する。
それがアニラの行動方針であった。
ただ懸念となるのは、その脱出を妨げる首輪と、ヒグマの存在である。
首輪は、上官であるメキラ――真田二尉のようなその道に詳しい理知的な人材がいれば取り外せるかもしれない。
当座の問題はヒグマだ。
胴着の男性が放ったレーザーか火砲のような攻撃を、物理的に飲み込み、食してしまったという事態は、通常であれば考えられない。
アニラ自身も、訓練として、北海道は大雪山――『神々の遊ぶ庭(カムイミンタラ)』と称された地の研究所で、多数のヒグマを生身でくびり殺してきた。
一体何日連続で研究所の夕飯が熊鍋になったことか。思い出せない。
その経験からして、先ほどのヒグマは、如何な『穴持たず』と言えど尋常ではありえない状態だったと考えられる。
苫前羆事件。
その熊害の恐ろしさはアニラも聞き及んでいる。現在メキシコで交戦中の『ウァイ(獣)』と呼ばれる存在が、そのヒグマに例えられることがあったからだ。
しかし、殺人を犯すだけでは、そのヒグマはただの動物にすぎない。
自身が何度もくびってきたモノどもと何ら変わらない。
一方の『ウァイ』は、その殺人の遂行があまりにも人間的であった。
一頭か複数か、一種類の動物かすらわからない。狙われるのはメキシコ政府の関係者及びその傭兵ばかりであるため、件の反抗勢力が何らかの手引きをしているのは間違いないと、ゾンビストは見ていた。
だが、それらは人を爪で引き裂き、はらわたを喰らい、それでいて独覚兵の超人的知覚にもかからないように襲撃ルートや退却の痕跡を抹消している。
――自分たち独覚兵と同じ、『人の手の加わった獣性』である。
そうアニラは考えていた。
――そしてそれは、この状況下におけるヒグマたちにも当てはまる。
恐らく兵器として開発され、独覚兵と同じく、戦時下における強力な兵器として運用されるべく、試験運転されているのだろう。
――自分たちと全く同じ。
その考えが、アニラの中に何らかの感慨を生むわけではなかったが、ただ一箇所、その境遇に違いを見出せることはあった。
――独覚兵は、仕事を持つ人間であるが、彼らヒグマは、あくまで獣である。
独覚兵には明確に課せられた任務がある以上、それを逸脱して獣性の赴くまま欲望を解くわけには行かないのだ。
これから先、ヒトやヒグマと交戦することはある程度避けられまい。
その際、彼らの欲望に触発され、自身まで任務への早急な復帰を忘れぬよう、アニラは自分への戒めを作った。
歩きながらMG34を下ろし、肩当のストック部分へ、その鋭い鉤爪で文字を刻み付ける。
『最も合理的な手段を』
そしてもう一行。現状でアニラが最も合理的であると判断した行動を、刻む。
『ヒグマを倒し 帰る』
参加者は、自身も含めて人間である。殺害するとしても容易いし、説得して協力関係を結ぶことも可能だろう。しかしヒグマはそうではない。
まして、先の『火砲を飲んだヒグマ』のように、明らかに今までのアニラの記憶から逸脱した性能を持つ個体がほとんどであろう。それらを先に始末しなければ、この土地からの脱出はほとんど不可能と思われた。
――そのために、効率良くヒグマを倒す。
目的の達成のためには、多くの情報収集と参加者の協力――、なかでも、冷静に大局を見渡せる『指揮官』が必要であった。
アニラの単独戦闘能力は、恐らく独覚兵の中でも群を抜いているだろう。しかしそれはあくまで一兵卒としての働きである。
アニラには、よしんば自身の戦闘能力が優れていたとしても、戦術眼が優れているという自覚はない。彼の行動の成果の多くは、上官のメキラか、引いては隊長の『親父さん』の指令によるものである。
――上官たちの指令なしに動かねばならなくなった事態は、実は、皇魁としての自衛官人生の中でも、初めてのことだった。
そのため、アニラはひたすらに自身への命令を望んでいた。
自分が認められるほどに怜悧で、狡猾で、広大な視野を持ち、悠然たる態度で君臨する上官を――。
その時彼の目は、街道の遥か先に立つ、二人の男女の姿を捉えていた。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
「君、名前はなんて言うんだい?」
目の前に、若い男の人が立っていた。笑顔を浮かべて、私を気づかうように手を差し伸べている。
いきなり、ヘンな所に攫われてしまって、殺し合いだとか、ヒグマだとか、恐ろしいことの連続だった。そして見知らぬ真夜中の街に放り出されて。
自分ひとりだったら、何一つ理解することができず、座り込んだまま震えているしかできなかっただろう。
そこに、優しい笑みを浮かべた人が、手を伸ばしてくれている。
さっき呼びかけられたときは驚いたけれど、その笑顔を見て、ほっとした。
――この人は、私を殺そうとしたり、危害を加えようとはしてないんだ。
思いながら、自然とその手を握り返していた。
「えと……、私は、初春、
初春飾利と申します」
「アハハ、バカに丁寧だね。まぁこんな小さくて可愛い子が一人でいたら、心細いもんね。
ういはるちゃんって今いくつよ? それ中学の制服?」
「……え? えぇと……」
立ち上がると、その人との距離が近くなった。
単に立ったからだけではなく、その人の腕が、私を引っ張ったから。
――何かおかしい。
そんな感じがした。
その人の口から、深い息遣いが聞こえる。
そして、何かの花のような、でももっと生々しい、果物のすえたような匂いが漂った。
明かりに照らされたその人は、黒い髪を乱れさせ、無精髭を生やしている。
何日も食べてないかのようで、折角の整った顔立ちから肉が落ちていた。
こけた頬と窪んだ目が、強いコントラストに照りかえって、怖い。
筋肉質な体をワイシャツとジーンズに包んでいて、普通なら「かっこいい人だ」と思えるのに、やはり何かがおかしい。
――ワイシャツの袖が、垢で茶色くなっている。
潤いに乏しい指先が、自分の手首から水分を吸い取ってるようにも思えてきて、気味が悪くなった。
その人の顔が近くなる。両腕を持って引き寄せられたのだ。
反射的に身を硬くする。
「どうしたの? 怖がる必要なんてないんだよ。
なんかヒグマが出てきたらしいし怖かっただろうけど、俺は良いヒグマだから、安心して」
「ど、どういうことですか……?」
「ああ、俺は樋熊っていうの。
樋熊貴人(たかひと)。
たまたま連れて来られちゃって、良い迷惑だよねぇ、お互い」
顔に感じる息遣いが、どんどん荒くなる。
思わず後ろに下がろうとしたら、何かに足を取られて、仰向けに倒れてしまった。
――痛ッ……。
目の前の樋熊さんに、足を絡められたのだと気づくまでには、暫くかかった。
「……な……、な、何をしてるんですか!?」
「なぁ……、そんなイヤなこと、忘れっちまおうぜぇ……? なぁ?」
その間に、倒れた私の上には、樋熊さんの体が覆いかぶさっていた。
両手は頭の上で樋熊さんの右手に押し固められている。
握力が強くて、痛い。
その人は、左手でジーンズのあたりをまさぐり始めた。金属音がする。
――しまった。
最初に、しっかりと、『今から君達に最後の一人になるまで殺し合いをしてもらう』って、言われていたんじゃないか。
それを、笑顔を見せてくれたからってうっかり信じ込んで。自分以外はみんな敵になっていて当然なのに。
この樋熊さんは、そうして自分を信用させて確実に私を殺そうとしていたのだろう。
「ねぇ……、もしかしてその眼、殺されると思ってる?
大丈夫、だぁいじょ~ぶ。もっとステキな体験をさせてあげるだけだからさぁ」
鼻がくっつきそうになるくらい顔を寄せて、樋熊さんは言う。
逃げようともがいたけれど、脚は絡められ、腕は押さえられ、身動きが取れない。
ジーンズが左手で、ゆっくりと下ろされる。
樋熊さんは、そのまま私のスカートの中にまで手を忍び込ませてくる。
「う~い~はぁ~る~ぅちゃぁ~~~ん」
背中の毛が粟立つような囁きが聞こえる。
余りの恐ろしさに瞑った眼の奥に、とある顔が映った。
声質も明るさも全然違うけど、そんなセリフを、私は何度も聞いていた。
「佐天さぁんッ!!」
背骨の奥から、振り絞った声だった。
樋熊さんの体重が、一瞬浮き上がる。
「助けてぇっ! 助けてぇっ!」
そうだ。最初に私たちが集められていた場所で、確かに佐天さんの声がした。
佐天さんがここに来ているなら、きっと私を助けてくれる!
この怖い人も、二人いれば――!
「……ったく何だよ。驚かせんなよ」
そんな思いは、夜に掻き消える。
ずしりと、重い体が、再び上に乗ってくる。ふとももの付け根に、何か凄い熱いものが載っている。
もがいても、逃げられなかった。
筋肉質の成人男性と、小柄な女子中学生では、力の差がありすぎていた。
「会場は広いんだぜぇ……? 誰もこねーよ。ゆっくり楽しもうじゃんか」
樋熊さんはそのまま私のスカートを捲り上げて、何かを押し付けて来て――。
――カッカッカッカッカッカッカッ。
かすかな地鳴りのようなものが、確かに聞こえた。
樋熊さんもその音に気づいたようで、街道の延びる右の方へ顔を振り向けた。
まばらな街灯は車道の中央までは照らさず、墨を流したような闇の中は窺えない。
――カッカッカッカカカカカカカカカカカカ!!
軽やかに音は加速してくる。
電車が線路を越えて近づいてくるみたいに。
私たちが学園都市で使ってるモノレールみたいに、その影は滑らかに私の視界に滑り込んでくる。
人だ。
短距離走の金メダリストみたいに、新幹線みたいに、凄く低い姿勢で走っている。
アクセル全開の車みたい。
運転手の眼差しは真っ直ぐに私を見つめ、ぶれなかった。
ジャッ――!
スリップもない急ブレーキが、突風のみを纏って静かに私の頬を撫でる。
「――フーッ――――」
細く、笛のような吐息が聞こえた。
そして何かが私の鼻先を掠めて。
――パァン。
「いィぎゃああアアアアアァァァアアアァアガァアア!?」
人間のものとは思えない絶叫が聞こえた。
押さえられていた体が軽くなる。
身を起こすと、何メートルも横に、転がってうずくまる樋熊さんの姿があった。
カッ。
隣で、そんな軽い足音がした。
全身が真っ黒な、ヒトが、立っていた。
その黒く光るのは、ヘビのような鱗だ。額には何本も角のようなものが生え、長い金髪がたてがみのように靡いている。
全身が尖った鱗で覆われているせいか、服は腰にしかなかったけれど、それは綺麗に洗濯された迷彩服だった。
肩にはデイパックと大きな銃を背負っている。――参加者だ。
脚は、イヌや鳥のように大きく踵が上がっていて、一際大きな鉤爪が見える。
そして、鞭のように辺りの空気を叩く、長い尻尾。
小さいとき、恐竜図鑑で見た、竜人のような姿だった。
彼の眼は、暫く樋熊さんの様子を窺った後、私に向き直る。
赤く光る、爬虫類のような鋭い瞳。
そしてそのまま、彼は私を片手で軽々と抱えあげて、走り出した。
「わっ、ちょ、ちょっと、なにするんですか!?」
彼はそのまま信じられないフットワークで路地の脇に切り込む。
何ブロックも、速度を保ったままジグザグに走って、しまいにはビルの壁に飛びついた。
「ぬっふぇえ!? 壁、登ってる!?」
私を抱えたまま、竜人は片掌と足の裏を高いビルに吸い付かせて、走るのと変わらないような速さでその壁を登り始めていた。
驚きはしたが、でも、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、どんどん登っていく視点が観覧車のようで、楽しかった。
そういえば前、ニシキヘビを見せてもらったときも平気だったし、私は意外と爬虫類が好きなのかもしれない。なにより、こんな鱗だらけの腕なのに、私を抱え上げる力はとても優しかった。
樋熊さんが掴んできたときとは全然違う。裏表のない率直な安心感が、この竜の腕にはあった。
――レベル3、いや、レベル4くらいの能力者なのかも。
肉体変化(メタモルフォーゼ)という珍しい能力が学園都市にあることは知っていた。きっとそういった能力で、自分の体をトカゲか恐竜のようにしているのだろう。
彼は、高いビルの屋上まで登った後、フェンスを越えて、私をそこにそっと下ろした。
そのまま何をするでもなく、背の高い竜人は街の夜景を眺めている。
まず口をついたのは、先ほど思い浮かんだ疑問だった。
「あ、あの、あなたも、何かの能力者なんですか!?」
振り向いた彼の表情は、良く分からない。顔面まで硬い鱗に覆われているせいか、ほとんど表情筋の動きが表に出てこないみたいだ。
彼は『言っている意味がわからない』とでも言うように首を傾げ、迷彩のズボンから小さな名札を取り出した。
顔写真には、精悍で厳しい顔つきをした青年が映っている。今の竜人の顔とは、刈り込まれた金髪と鋭い目元くらいしか似てるとこがないかも。
そこに書かれている文面を見て、驚いた。
『陸上自衛隊 第一師団所属 皇(すめらぎ) 魁(かい) 准尉』
「じ、自衛隊!?」
学園都市のジャッジメントどころではなく、日本レベル、世界レベルで、人々の安全と治安を護って下さってる人じゃないですか!
「す、皇さん、っておっしゃるんですね……。私は、初春、飾利と言います」
緊張してどもってしまった。
すると皇さんは、デイパックを降ろして中から大ぶりのナイフを取り出してくる。何をするのかとたじろいだが、彼はグリップを私に向けてナイフを手渡してきた。
『自分の身は守れるようになれ』ということなのかもしれない。
「あ、あの、どうしてこんなことをして下さるんですか? 確か、これは参加者同士での殺し合いだって言われていたような……。それに、怖いヒグマがいるみたいですし」
皇さんはじっと私を見つめた後、担いでいた機関銃の肩当の部分を見せてくれた。
『最も合理的な手段を』
『ヒグマを倒し 帰る』
はっとした。今まで、目前の恐怖に隠れて見えなかった最大の目的が、そこにあった。
――帰るのだ。
佐天さん、白井さん、御坂さんたちのいる、あのいつもの日々に。
そこに到達する手段は、殺し合いではない。みんなで脱出することだ。
そのための最も合理的な手段は、仲間を集めること。そして、脱出への最大の障害となる、ヒグマを倒すこと。
……でも、みんなの前で、あんなに強そうだった胴着の人は、むごたらしく殺されてしまった。
「できるんですか!? あんな、バケモノみたいなヒグマを倒すことが!」
言い出してから、気づいた。
――目の前の皇さんだって、一目見ただけでは十分、怪物のように見える。
むしろ自分たちの知識にない姿の分、人によってはヒグマよりバケモノだと言う人もいるかも知れない。
……失礼なことを言ってしまった。
皇さんの表情は変わらない。鋭い眼差しで見つめてくるだけだ。
「あ、あの、その肉体変化(メタモルフォーゼ)、解いて下さって良いんですよ?」
返事はない。
しかし、彼の眼には一瞬、爬虫類のように半透明な瞼がかかった。瞬きだった。
皇さんは、手に持っていた名札をズボン吊りのベルトにつける。
真正面からしっかりと見えるように位置を確かめた後、こちらが恐縮するほどに勢い良く、「気をつけ」の姿勢をとった。
そして、右手を真っ直ぐに伸ばしてから、ぴったりと揃えた指先を額に。
敬礼。
――ああ。
解ってしまった。
戻れないのだ。皇さんは。二度と人間の姿には、戻れない。
自衛隊で何があったのかは知らない。でもきっと、皇さんは、そのトカゲや恐竜のような力と引き換えに何かの実験を受けて、人の姿を捨てたんだ。
――『世界レベルで、人々の安全と治安を護る』、そのために。
ひとりでに涙が溢れてきた。
今になって、緊張の糸が切れたのか。
私は、殺されそうになっていたところを、皇さんに助けてもらったのだ。
その実感が、今になって目の奥から溢れる。
皇さんから頂いたナイフをしっかりと掴んで、お辞儀をした。
「あ、ありがとうございました……ッ! 本当に、こんなにも、私たちを助けて下さって……!」
ジャッジメントは、学園都市の治安を守る存在。その一翼を担う私に、皇さんほどの覚悟があるだろうか?
任務のため、役目のため、自分の姿や今までの生活をも捨て去る覚悟。
彼はもう、コンビニに入って立ち読みすることもできない。クレープ屋さんで友達と、おしゃべりすることもできない。
私のポケットには、ジャッジメントの腕章は、確かに入っている。
でも、こんな校外の戦場で、私には、それをつける資格があるの――?
皇さんは、私の肩を軽く叩いた。
彼が指差す先、たぶん西の方で、小さいけれど確かに、赤く炎が上がっている。
――私たちがここに留まっている間にも、戦いに巻き込まれたり、助けを求めたりしている人がいるんだ。
皇さんは、鳥の羽ばたきのような音を立てて、脇の下から生えている膜を広げた。
バッタとかの虫の翅みたいな色合いをしていて、格好としてはモモンガみたい。
そのまま屋上を囲むフェンスに掴まって、よじ登ろうとする。
――行ってしまうの?
「ま、待ってください!」
思わず声を上げていた。皇さんはフェンスに掴まったまま、半身だけ振り返る。
「……私も、連れて行ってください。レベル1程度の能力者に、何ができるか解らないですけど。
それでも私は、学校を守る風紀委員(ジャッジメント)です!
皇さんのような、立派に役目を果たせるヒトになりたい!
佐天さんを……、みんなを、守って、帰りたいんです!」
皇さんは、私の言葉を、ただ静かに聴いていた。
そしてフェンスから音もなく離陸し、滑空する。
――降り立った先は、私の前。
もう一度うやうやしく、皇さんは敬礼していた。
なんだか嬉しくなってしまって。
私も、洟をすすりながら、たどたどしく、敬礼しました。
手にはナイフと、ジャッジメントの腕章をしっかりと掴んで。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
――聡い女子だ。
敬礼しながら、皇魁はそう感じた。
胸につけたのは、もう使う機会もないと思っていた昔の名札だ。自分が以前、まっとうな自衛官としてこの世に存在していた時代の。
何年も前の写真がついた名札を、後生大事にポケットに入れておく必要は、本来は全くなかった。だが、かさばりも重くもない物体だったので、そのまま放ってあった。
それがこのように信頼を築く一助になってくれているのなら、これ以上のことはない。
西北西の森の方角。恐らくはB-3の辺りに、火の手が上がっている。
他にもこの会場のいたるところで、同時多発的に戦闘が起きているのだろう。
協力できる人材を集めるなら、休んでいる暇はなかった。
ヒグマに各個撃破されてしまう前に、生き残った参加者で部隊を編成しなくてはならない。
しかし、先ほどこの女子を襲っていた男性のような者は、排除する。
マウントポジションから刺突をするのかと思いきや、刺そうとするのは己の下半身だった。
頭が悪い。
すえたケトン臭と性フェロモンを見境なく撒き散らすような生物は、結束の邪魔になるだけである。
本来ならば殺害して食脳もできたのだが、この女子を脅えさせぬよう、威嚇に留めた。
自分の渡したサバイバルナイフと、委員なるものの腕章を掴み、しっかりと前を見つめる女子。
その瞳に、アニラは以前の自分と同じ光を見た。
上官であるアンテラ――比留間浩一郎は、良くこう発言する。
『テメエの機能も性能も把握できねえ若者に、ここちのいい精神論ばかり無責任に吹き込む風潮は罪深いよな。
「なんとかなる」と思い込んで、戦場に足を踏み入れちまう奴も出てくる――』
しかし、皇魁は、そんな比留間や真田たち上官の生き様に触発された。
「なんとかなる」ではなく、「なんとかする」。
その解法を見出す手本は、常に上官が教えてくれた。
――今回は、自分が上官か。
本当に、戦場にて初めからこんな聡明な逸材と巡り合えたことは、僥倖である。
独覚兵となる前に、自衛官として過ごしていた日々が、何枚か記憶からめくられた。
ルワンダ難民救援隊の、あの惨劇を味わう前。
――人々の幸せだけを切に願っていたあの日々を、今度は防衛して見よう。
動かぬ表情のその下で、アニラは久しぶりに表情筋へ電信を送った。
【D-4 街/深夜】
【初春飾利@とある科学の超電磁砲】
状態:健康
装備:サバイバルナイフ(鞘付き)
道具:基本
支給品、ランダム支給品×1~2
基本思考:できる限り参加者を助けて、一緒に会場から脱出する
1:皇さんについていき、その姿勢を見習いたい
2:佐天さんと合流する
【
アニラ(皇魁)@荒野に獣慟哭す】
状態:健康
装備:MG34機関銃(ドラムマガジンに50/50発)
道具:基本支給品、予備弾薬の箱(50発×5)
基本思考:会場を最も合理的な手段で脱出し、死者部隊と合流する
0:まずは火の手の見えるB-3を確認しに行く※
1:参加者同士の協力を取り付ける
2:脱出の『指揮官』たりえる人物を見つける
3:会場内のヒグマを倒す
4:自分も人間を食べたい欲求はあるが、目的の遂行の方が優先
※この火は、
佐天涙子の放った第四波動が周囲に延焼したものです。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
「あ、の、ヤロォ……! クソワニ男がぁ……ッ!」
頭が、割れるように痛む。
これでも収まってきた方だ。ようやく身動きが取れる程度に。
樋熊貴人は、右目を押さえながら、荒い息で街道の地面から立ち上がった。
その眼からは、赤い血液に混ざって、透明なゲル状の物も流れ落ちている。
「ターミネーターかなんかかよ……。何の表情もなく――」
――俺の目を弾け飛ばした。
あの時、俺にはあのワニ男のしたことがわかった。
目の前で急停止し、俺目掛けてためらいもなく、『“鞭身(ムチミ)”の回し蹴り』をしたんだ。
鞭身とは、琉球空手の技法のひとつで、鞭のように四肢をしならせ、体幹からの打撃を行なうことにより速度を増し、表層への破壊力や打撃の切れ味を高めるものである。
実際にアニラが行なったのは、回し蹴りではなく、尻尾による攻撃であったが、大筋で樋熊貴人の認識は正しい。
アニラの尻尾による攻撃は、牛追い鞭の如く、先端の速度が音速を超える。暗がりで視認することはまず不可能だ。
そして、“目の前で急停止する”という手加減をしたにもかかわらず、その威力は、人間の眼球を眼窩内で破裂させ、その頭蓋の一部を砕くほどのものであった。もし本当に回し蹴りをしていたのなら、アニラの目の前には美味しそうな大脳のスライスサラダが並ぶことになっただろう。
――後ろに、跳んだのによぉ。
樋熊貴人が空手のインストラクターではなく公認会計士などだったら、その判断材料と反射神経の欠如により、更に深手を負っていたかもしれない。下手をするとそのまま死んでいた可能性もある。咄嗟に初春飾利の体から離れ、転げた行動は、恐らく正しい。
「ぜぇぇってぇ、許さねぇ……!
あのクソワニ……、ヤってやる……。あの女も、ヤってやる……」
ふらふらと立ち上がりながら、樋熊貴人の体は震えた。
痛みに、怒りに、飢餓に、体の奥底から湧き上がる熱に。
「にしても……、痛てえよ……なあぁあッ!!」
突如彼は、自分の右手を眼球に突き立て、その中身をほじくり返す。
「あッふぅぅ――!? いぃるぅうう――うぐぅ――!! くぎゅううぅぅ――!!」
脊髄を痛みが走り抜けて帰る度に、未ださらけ出されていた彼の下半身が屹立する。
ぞくぞくと腸から獣に喰われて行くような歓喜。
脳髄と繋がる視神経を引きずり出しながら、天上を一周した痛覚が、彼に絶頂を与える。
どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。
七回に分けて、彼の中から、粥のような白い獣が放たれた。
彼はそれらを左手に受けて、取り出した眼球とともに街灯の明かりへ捧げ持つ。
そして、久方ぶりの餌へ貪りつく猛獣のように、その眼球をしゃぶった。
鉄分と塩分が、硝子体のコラーゲンに絡んで、滋味深い味わいを作り出す。動眼筋群と強膜の歯ごたえが、暇の出ていた噛み合わせに悦びを与えた。
自らの情欲が産み落とした粥をすする。
卵の白身のような上質なタンパク質。アルカリ成分の与えるかすかな苦味と、亜鉛をはじめ必須元素のひとつひとつが、体の中にいくつもの命の素を帰していくようだった。
「アァあ~……! うめぇえよぉお……!」
気が狂ったように、樋熊貴人は笑う。
体が熱い。
今ならば、何でも喰ってやれそうだ。何でも、ヤってやれそうだ。
初春飾利の滑らかな肌。
ほどよく脂の乗った、柔らかなふともも。
ピンクの水玉の奥に隠れた、秘密の花園。
透き通るような皮膚を抜けて見える、静脈の青さ。
それらを全部食い破り、蹂躙し、滴り落ちる血液を啜ってやる。俺の存在を中にぶちまけられながら、恍惚と絶望に塗れるその唇を、食い千切ってやる。
「ワニもよぉお……、クッタことあるんだぜぇ俺はアァ……! 鳥と魚のアイノコみてぇなその肉も、喰い散らかしてやるゼェ……!!」
復讐と情欲の炎を燃やしながら、樋熊貴人の体は蠢く。
ぞわぞわと、むき出された四肢に黒い毛が生える。
片目を失った骨格が、軋みながら変形していく。
ボロボロと抜け落ちる歯の奥から、鋭い牙が生えてくる――。
――『D-1ウイルス』は、12番目の被検体となった研究者、御門周平によって、その存在がリークされかけた。
報道機関にその情報が達する前に、事態はゾンビストの手によってもみ消されたが、それまでのウイルスサンプルの経過は、明らかではない。
――そのため、ウイルスの一部が、学園都市などの、何者かの手に渡っていることも、考えられた。
極限にまで追い込まれた肉体と、その強い欲望の炎が、ウイルスと自身とに眠る遺伝子を呼び起こす。
それは、焦がれ、啼き、歌うような螺旋の夢。
夢をほどく者の精神によって如何様にも変奏する。
――恋しや。愛しや。
全てのものを欲し、飲み込まんとする黒い夢。
自分一人のために、万物一切を喰らい尽くして至る境地。
『独りのために、覚りを開く仏』。
――新たな『独覚兵』が、ここに誕生しようとしていた。
「マッテロヨォお……! ミンナ、全テ、やッテヤルカラヨオぉお!!」
ワイシャツを引き裂いた巨体は、あたかもヒグマのように黒い剛毛に包まれている。
「喰ッテヤル! クッテヤルゼェェエ!!」
渇望するほどに愛しい、暖かな血肉と脳を求めて、また“羆”が、生まれ出ようとしている。
【D-4 街/深夜】
【“羆”の独覚兵(樋熊貴人さん)@穴持たず】
状態:右眼球欠損、および右眼窩吹き抜け骨折。肉体変貌中。
装備:
道具:
基本思考:欲を満たす
1:あのクソワニ男(アニラ)をヤる。
2:あの女(初春飾利)をヤる。
3:他の奴ら全員を喰う。ヤる。
最終更新:2014年12月14日 23:31