パラ・ユニフス
――木偶(デク)か……?
阿紫花英良は、男の背後から見えてくる物体の姿を見ながら、一瞬そんなことを思った。
「ありゃあ……なんですかい、人形?」
「人形……? 何を言ってるんですかあれはヒグマ……ヒグマ?」
振り向いた男の顔でも、眼鏡の端に疑問が浮かんでいるのが見て取れる。
阿紫花は、自分の十指の先に繋がった傀儡を、直ちに傍へ引き寄せる。
「あんな妙ちきりんな奴からは逃げるに限らぁ……あーと」
「
武田観柳、私は大商人武田観柳です」
観柳と名乗る白スーツの優男と出会って僅か数秒。
阿紫花英良の行動は早かった。
薄い黒皮の手袋に包まれた長い指が、踊るように糸をたぐる。
グリモルディと呼ばれる巨大な道化姿の傀儡。内股で接地するその脹脛(ふくらはぎ)には、両側に頑強なキャタピラがあつらってあった。
それは、阿紫花の知る懸糸傀儡の中でもグリモルディが、最高の機動力を誇る所以。
――キリキリキリキリ……。
阿紫花の運指の一呼吸が、物言わぬ道化をマイムさせる。
木々の間からヒグマの姿をした何かが迫り来る前に、グリモルディは観柳の体躯を軽々と抱え挙げていた。
「えひゃい!?」
「あたしは阿紫花ってもんでさあ、んじゃあ観柳の兄さん、飛ばしますぜぇ!」
激しい駆動音をたてて、脹脛から背面へと車輪が回転する。
グリモルディの耳頭巾の端は、一方に観柳、一方に阿紫花をしっかりと固定していた。
森林の中であるという最悪の路面状況を轢き潰し、キャタピラが唸る。
下草、若木を踏み倒し、四輪駆動車の如く、道化が走った。
――阿紫花英良の出身地、黒賀村に伝わる人形操りの技法。
それは懸糸傀儡という巨大な操り人形を、特殊な糸のついた指輪を操作することで駆動させるという、昇華された伝統文化である。
精巧な懸糸傀儡は、軽量な素材と、からくりの機構のみで形作られているにも関わらず、ただの見世物だけではなく、土木作業や戦闘にも耐えうる堅牢さと精密さを兼ね備えていた。
当然この技術の悪用は固く禁じられていたが、村を出た者の中には阿紫花の如く、その技を本来の目的と違う利用法で用いる者たちがいた。
阿紫花の所属する「ぶっ殺し組」、及び「誘拐組」である。
黒賀の芸術である傀儡たちを犯罪に利用して生計を立てる集団であり、互いにライバル関係でもあった。
グリモルディは、その「誘拐組」のリーダー格である尾崎が使用している傀儡だ。
他の傀儡よりわずかに糸の引きが硬く、扱いに慣れるまで時間がかかるものの、仕込まれたギミックの多さと、「誘拐」に利用するに相応しい高速走破性能は阿紫花も一目置いていた。
――あのヒグマ型の木偶ごときが、追いついて来れる訳ありませんぜ。
木偶(デク)とは、「ぶっ殺し組」でもたまに使用する、傀儡の一種である。ただし、ある程度最初から行動を入力しておき、自立行動させることができるという、一風変わった人形だ。
使い手が傍にいなくても良い分、一概にその性能は低く、応用的な行動が取れないため、阿紫花たちの評価は、その管理運用に対するコストの割りに低かった。
そのため主な利用法としては、人型のものを差し向けて、対象に恐怖心を与えて隙をつくる程度に留まる。木偶だけで運よく標的の殺害を達せられる、というのは中々稀なことであった。
そこから推察するに、すでに件のヒグマ人形は遥か後方に置き去られていてもおかしくはない。
余裕を持って振り返った阿紫花の目に、すぐ傍に迫るヒグマの顔が映った。
「んな……ッ!?」
「……ガ……ガ、『ぱらり~、ぱらりっぱっぱっぱらぱ~』」
「!?」
突如ヒグマの口から響いたファンファーレに、武田観柳と阿紫花英良は揃って慄く。
ヒグマの形をした何かは、二足で立つその下肢を全く動かさず、その顔面も不気味なまでに動かない。
だが、高速で走るグリモルディの背後に、それはぴったりと追いついていた。
口を開かずに、それは声を上げる。
「只今ヨリ、タノシイ狩猟しょーノ始マリデゴザイマス。
狩人ハひぐま、獲物ハにんげんノ、オモムキアフレル一幕ヲ、オタノシミクダサイ」
パカッ。
ヒグマの顔面が真っ二つに割れた。
左右にこぼれる顔の肉の中から、一挺の猟銃が現れた。
後に『銃人形(ヒュジプーペ)』という呼称が明らかになる、オートマータの一形態であったが、阿紫花には知る由もない。
「――ッ!!」
咄嗟にグリモルディの左腕を背面へ回す。
猟銃から軽快な音が鳴ったのは、阿紫花の反応とほとんど同時であった。
「デ、デタラメすぎやしませんか……?」
グリモルディの大きな腕は、肩口から弾け飛んでいた。
黒賀の懸糸傀儡の中でも、グリモルディの骨組みは頑丈な方であるのに。
一瞬でも対応が遅ければ、銃弾は恐らくグリモルディの首筋を貫通していただろう。
――そしてその頭部にいる、阿紫花の心臓へ――。
「ナント獲物ハ、銃ヲハジイテシマイマシタ。ソレデモ狩人ハ平気デス。
オビエタけものハ、二発目ノ銃ガコワクナッテ、狩人ヲ見ラレナイカラデス」
ぱらぱらぴ~。ぴっぽろぱっぱっぱ~。
起きた事態を認識して話しているかのような得体の知れない音声。
耳元に迫る、遊園地のショーのような楽しげな音楽。
――カタカタカタカタ。
聞き慣れたはず歯車の音が、背後から聞こえる。
無感情に構えられる銃口を横目に見ながら、阿紫花英良は久方ぶりに、背筋の冷える感覚を思い出していた。
**********
アシハナとかいう、ひょろひょろしたナリの長外套の男。
人形遣いらしく、咄嗟に私を助けた機転は褒めてやる。
――だが。
武田観柳は最悪の気分だった。
ヒグマに襲われ、今にも殺されそう。というのも理由の一端ではある。
それ以上に、すさまじい吐き気が彼を襲っていた。
「……う、ぐぷっ……!?」
巨大な人形の帽子に絡められながら、森林の道なき道を、碌なサスペンションもなしに高速走行する車で走っているのである。いつ悪路に脚を取られて止まるかも解ったものではない。
現代の車や人形の操作に慣れている阿紫花英良にとっては、大した影響もない揺れだっただろう。
だが、観柳はものの数秒で酔っていた。
ガクガクと揺さぶられて、意識も朦朧となる。
嘔吐を堪えて背後を見た。
そこには、人形の背後にぴったりと追いすがるヒグマの姿があった。
気味の悪い音楽がその体から流れている。
そしてその顔面から現れる猟銃。
アシハナが、咄嗟に人形の左腕を振り向けた。
銃撃によって、その太い腕が真ん中から裂けて吹き飛ぶ。
「ナント獲物ハ、銃ヲハジイテシマイマシタ。ソレデモ狩人ハ平気デス。
オビエタけものハ、二発目ノ銃ガコワクナッテ、狩人ヲ見ラレナイカラデス」
「あ、あ……」
その銃は、武田観柳が、貿易の中で見たことのあるものだった。
観柳にとっては非常に記憶に新しい、新進気鋭の猟銃。
明治十三年に日本軍が正式採用する、初の国産の高性能銃である。
戦後まで、広く熊撃ち銃として使用されてきたものだ。
「む、村田銃だッ!! 近づかせるなっ!!
射程はなくとも、近接での威力は熊を容易く殺すぞ!!」
喘ぐように叫んだ。
追ってくるヒグマは、自分の頭部の銃身に、再び銃弾を込めている。
武田観柳にとって、この会場は見知らぬものだらけだった。
一万円札にしても、巨大な操り人形にしても、人形のようなヒグマにしても、現実味に乏しい。その中で最も現実味を持って迫る恐怖が、その村田銃であった。
銃で打ち抜かれ死ぬ者、刀に切り捨てられ死ぬ者。それらが匂いを伴って思い出される。
――こんな状況を打破する、展望はあるのか!?
アシハナの歯噛みが聞こえた。
「……二発目なんざぁ、許すわけありませんぜ!!」
グリモルディの右腕が背後へ回旋し、ヒグマの頭に据えられた銃を掴む。
そのまま、引き金を引かれる前に千切り取るつもりなのだ。
しかし観柳の目はその時、ヒグマの足元の毛皮が蠢くのを捉えていた。
「駄目だアシハナ! 人形の手を離すんです!」
「はぁ!? 何を言……って!?」
一瞬見合わせたアシハナの目は、次の瞬間驚きに見開かれる。
ヒグマの両膝がぱっくりと開いて、中から鎖のついたベアトラップ――とらばさみが打ち出されていたのだ。
そのままグリモルディの腕にかじり付いた鋸歯がその骨組みを砕き、巻き上げられる鎖が、肘から腕をもぎ取っていた。
より人形へ密着したヒグマの銃口が、微動だにせずアシハナの眉間を狙う。
彼は額に一筋の汗を垂らして、静かに言った。
「……観柳の兄さん、離れてくだせぇ」
「お、おい! どういう……」
「すぐに離れろぉ!!」
アシハナの腕が翻り、私の体を留めていた帽子の固定が外れる。
勢いのついた体はそのまま横の茂みに投げ飛ばされた。
何度か地面に跳ねて転がり、全身を草塗れにしてようやく勢いが止まる。
ドガァ――……ン。
薄れる意識の背後で一回、大きな音がした。
**********
グリモルディから武田観柳が振り落とされる姿が、阿紫花英良にはゆっくりと見えた。
目前に迫るヒグマが、撃鉄を上げる。
――ああ、何とか間に合ったみてぇですね。
走行を続けるグリモルディの行く先に、一瞬だけ目をやる。
そして目を瞑り、阿紫花英良はグリモルディの頭巾に深く身をもたせかけた。
――たまには良かったんじゃないですかね。こういうのも。
積もっていく退屈を、肌のピリピリする殺し屋稼業と、目の眩むような金の魔力で上塗りしていた日々。
そんなマンネリ化した環境からこの会場に呼ばれたのは、ある意味幸運だったのだ。
「獲物ハミズカラノ死ヲ覚リ、アキラメタヨウデス。ヤハリオビエタけものハ、二発目ノ銃ガコワクナッテ、狩人ヲ見ラレナイ。
ソレデハミナサン、狩人ノ勇姿ニ喝采ヲ……」
「……それは違いやすぜ、ヒグマのデクさんよ」
機械の音声の尻を喰うように、阿紫花は言い放つ。
薄く眼を開けたその顔は、不敵に笑っていた。
「……久々に、いい人形芸ができそうなんで、興奮してるんでさぁ」
左右にこぼれているヒグマの眼が、一瞬見開かれたようだった。
彼らの進行方向に迫っていたのは、今までとは桁違いに太い木々が密生した地帯だった。
如何に走破性能に優れたグリモルディのキャタピラでも踏み越えられず、ましてやその巨体は間を通り抜けることもできないだろう。
――衝突する。
「阿紫花英良、捨て身の人形芸、とくと眼に焼きつけなせぇ!
お代は、デクさんの命一つよ!」
ドガァ――……ン。
強烈な激突であった。
慣性で、グリモルディとオートヒグマータの体は前方に傾いた。
そしてグリモルディの首と阿紫花の体は、衝突で止まったキャタピラの元へと再び戻る。
――後方へと。
しかし、足元を内臓車輪で動かしていただけのオートヒグマータは、ほとんど吹っ飛ぶように前に動いている。
その勢いの交錯点。
阿紫花英良の指が、流麗に空を奏でた。
グリモルディの首が、蛇腹のように大きく伸びる。
空中で頭巾から飛び出した阿紫花が、ダイナミックに両腕を振りぬく。
蛇腹が回る。
オートヒグマータを飲み込む渦のように、中空の投網となる。
首の蛇腹は、吹っ飛ぶヒグマの勢いを受けて、その体へと激しく巻きついていた。
「さすが尾崎の傀儡ですぜ……。余計なギミックばっか仕込んでんですからねぇ!」
鬱蒼とした密林を背景にして、ヒグマは人形から伸びた蛇腹に、完全に捉えられていた。
頭部だけを軋ませながら、後方に降り立った阿紫花へ何とか向き直ろうとする。
着地した阿紫花はグリモルディの繰り糸を外し、背負ったデイパックへと腕を差し込む。
「……あたしの傀儡は、もっとシンプルなんですよ。使い込むほどに手に馴染むもんでね」
背中から広げられる両腕。
デイパックに折りたたまれていた傀儡が高く飛び出す。
「おいでなせぇ! プルチネルラ!」
極端にデフォルメされた細い下半身に、蜘蛛のように配置された四本足。対して、極度に筋肉質に膨らんだ上半身が持つのは、巨大な棍棒。
白塗りの道化の面が狂ったように微笑む。
グリモルディとは違い、小回りから機動力を追求した足回りと、一撃必殺の打撃力を持つ、「ぶっ殺す」者として設計された傀儡だ。
阿紫花はゆっくりとそのヒグマの元へ歩み寄り、悠然と語りかけた。
「……そういやもう一つ、デクさんの間違ってることがありましたわ」
その背後で、キリキリと歯車を軋ませて、プルチネルラが棍棒を振りかぶっている。
オートヒグマータの頭部は、ようやっと阿紫花に顔を向けた。
村田銃の引き金を、引こうとする。
――風を切る棍棒。
突風が過ぎ去った後には、一瞬だけ目の合ったヒグマの顔は、跡形もなく消し飛んでいた。
首を刎ねられたオートヒグマータは、ただその切り口から銀色の体液を溢れさせて、動かなくなった。
「追い詰められた獣は、二発目の銃弾なんざぁ待っちゃくれません。
……プロは必ず、獲物は一発で仕留めるんでさ」
プルチネルラの指輪を地面に落とす。
緩んできたグリモルディの首から、ずるりとオートヒグマータが滑り落ちる。
仕留めたヒグマから踵を返し、阿紫花英良は暗い夜空を仰いだ。
そして彼は取り出した煙草の味わいを、かすかな星々へと吹き上げていた。
**********
ぼんやりとしていた意識が戻ってくる。
私は、草いきれの中に倒れこんでいた。
――ああ……、舶来のスーツが台無しじゃないか。
そうだ。
私、武田観柳は、ヒグマの形をした村田銃人形に追われ、アシハナとかいう人形遣いを雇って、身を守ってもらおうとしたんだ。
だがなんだこのザマは。
スーツはボロボロ。打ち身であちこちが痛む。悪路を走ってきたせいで気持ち悪さと頭痛がいまだに残っている。
「お……、ぐぼっ……」
膝立ちになると、口の中に胃液が逆流してきた。
何度か地面にえづいて、荒い息をつく。
気分の悪さは晴れなかった。
……挙句の果てに、雇い主を払い落とすなんて言語道断。
幸い、あのやたら明るく場違いな音楽も、耳障りなヒグマ人形の声も聞こえず、辺りは静かだ。
――アシハナは勝ったのだ。
戻ってきたら、言いうる限りの苦情をぶつけてやる――!
当初の契約金を減らすと脅して、アイツを泣きつかせてやる――!
そんな息巻いた想像をしている武田観柳の肩が、背後から叩かれた。
「ようやく戻ってきたか! バカ人形遣いめ!
客をこんな風に扱って、ただで済むと思……って……」
――振り向いた眼鏡に光る、銀色。
首を失ったヒグマが、銀色の体液を流しながら佇んでいた。
「ひ……! ひやぁ!?」
そして、オートヒグマータの胸元が開き、アームのついた太い注射針のようなものが現れる。
這いずりながら逃げようとするも、既にヒグマは目の前だ。
上から勢いをつけて、針が振り下ろされる。
「ぐ、あぁあ……ッ!!」
血飛沫が飛ぶ。
武田観柳の眼鏡に、いくつも赤い点が浮いた。
――痛みはない。
恐る恐る目を開けた。
「……に、逃げてくだせぇ、観柳の兄さん……ッ!
目を、離しちまった、あたしの落ち度です……。まさか、まだ動けるなんて……」
阿紫花英良が、その右手を大きな針に刺し貫かれていた。
貫かれながらも、注射器を掴み返し、抜かせまいとしている。
オートヒグマータの両腕が、観柳の前に立ちはだかる阿紫花を掻き抱いた。
体幹を締める圧力に、阿紫花は声にならない呻きを上げる。
「な……、何をしてるんですかい……、兄さん……。
早く……、お逃げなせぇ……」
光を失いかけた阿紫花の眼差しから、大きな選択肢が突きつけられた。
観柳には、その文面が視界の全てを埋めているように感じられた。
――逃げる、か。
――逃げない、か。
ふらふらと立ち上がり、観柳は嘔吐を堪える。
まだここに、回生の展望はあるのか、と。
**********
アシハナは私の身代わりに死ぬのだ。彼の言うとおり私は逃げればいい。
彼はただ単に私との契約を守ったにすぎない。むしろ私がここで逃げずに共倒れすることは契約違反にあたる。
どう考えても逃げるのが正解だ。
いつだって私は無能な部下は切り捨ててきたし、武器となるのは金のみの、ただの商人だ。残ったところで何もできん。
それにここで彼が死ねば、私は渡すはずだった有り金をとっておくことができるではないか。万々歳だ。
観柳は、ふらつく足取りで走り始めた。
「あ、あ、あ、あぁぁ――!!」
喉を絞るようにして走る。
阿紫花英良の隣を、オートヒグマータの脇をすりぬけて、走った。
――観柳の兄さん……なんでそっちに向かって逃げるんです?
薄い意識の中で阿紫花がそう思ったとき、突如、ベアハッグの圧力が緩んだ。
オートヒグマータの意識が、逸れたのだ。
血流の戻り行く視界に阿紫花は、置いてあったプルチネルラへと走る武田観柳の姿を見る。
ヒグマの膝が開く。
トラバサミが襲う。
もう少しで傀儡に届くかというところで、観柳の足はトラバサミに挟まれた。
そのまま無様に顔から地面に落ち、引きずられそうになっている。
「……な、なんで逃げないんですかい!! これじゃあ、二人とも死んじまわぁ!」
「私はですねぇ……、実業家という職業柄、無駄が、嫌いなんですよぉ……」
トラバサミに負けまいと、観柳は必死に地面を掴んで這おうとしている。
頭痛と吐き気を堪えて探す。
阿紫花に足りない展望を追い、武田観柳の腕は地面をまさぐった。
「貴方の価値は、まだ償却しきってないんですから……!」
ずるずると、トラバサミとともに観柳は引き寄せられる。
ボロボロのスーツ、血まみれの眼鏡で、それでも武田観柳は笑っていた。
――手には、プルチネルラの繰り糸指輪。
吐き気が、おさまっていた。
「最後まで、働いてもらわなきゃ……」
「観柳の兄さん――!」
「私が困るんですよ!」
逃げるのではない。ただ逃げないわけでもない。
――取り立ててやる。
投資した分の利益は、枯れるまで吸い尽くしてやらねば気がすまない。
せっかく見つけた高利回りの人材を、こんなヒグマ人形に奪わせてなるものか!
観柳は、仰向けに体軸を回しながら、阿紫花へと指輪を放り投げる。
阿紫花が左手を伸ばす。
指輪は、皮手袋の上からするすると滑り込む。
届いたのは左の中指一本。
だが、阿紫花英良にとっては、それで必要十分だった。
「プルチネルラァッ!!」
大上段から振りかぶった片手の袈裟切り。
使い込まれた棍棒は、今度こそ一撃で、オートマータの全機構を圧壊せしめた。
【自動羆人形(オートヒグマータ)@穴持たず 完全破壊】
**********
「歩けますかい、兄さん?」
「ええ……、なんとか。半壊していたせいか、それほど強くは挟まれなかったようです」
「なら良かった……。それにしてもコイツはなんだったんでしょうねぇ」
二人は軽く傷口の応急処置を済ませていた。
幸い武田観柳の
支給品に立派な救急箱があったため、消毒液での洗浄及び、ガーゼと包帯で止血をした形になる。
黒い毛皮と銀色の粘稠液の塊になったオートヒグマータを見ながら、二人は首をかしげた。
「私が取り扱ってきた商品にもこんな人形はありませんでしたよ。もちろん、貴方の使うような傀儡も、ですが」
「そうですねぇ……。見たところ、あたしらの懸糸傀儡と同じくからくりで動いてたみてぇですが……。
なんともわかりませんねぇ」
「……ただ、これも『ヒグマ』であることは確かなんでしょうね」
オートヒグマータの残骸から歯車を拾い上げていた阿紫花は、観柳の呟きに振り返る。
観柳は、抱えていた黒いがま口の鞄を開いて見せてきた。
――福沢諭吉先生のご尊顔。
大量の一万円札が、きっちりと束になってつまっていた。
阿紫花でなくとも思わず笑いをこぼしてしまうような壮観さである。
しかし、観柳の指摘は金そのものについてではなかった。
「アシハナさん。こちらの紙幣には見覚えがありますか?」
「はぁ、勿論ありやすぜ。ソイツが欲しくてあたしゃ仕事してんですから」
「……『一万円』札が、『平成』という元号で発行されていてもですか?」
「……何が言いたいんですかい?」
阿紫花は、観柳の静かな眼差しの中に、尋常ならざる危惧を見た。
武田観柳は、震えながらがま口を閉め、訥々と話し始めた。
「……福澤諭吉さんのことは、私も知ってますよ。有名な方ですから……。
でもですね。私は、一万円なんて金額が簡単に紙幣になってるのなんて見たこともないし、平成なんて元号は聞いたこともない!」
叫びながら、観柳は襟元にびっしょりと汗をかいていた。
阿紫花は、彼の言わんとすることが推察できた。といっても、そうやすやすとは信じられない事柄であったが。
二人は、顔を見合わせる。
「……ねぇ、アシハナさん。今年は明治16年では、ないんでしょうか?」
「……残念ですが、違いますねぇ……。明治の後は、大正、昭和で、平成になりやす……。
ざっと、あたしのいた時代から、100年は前ですかね」
「は、ははははは……」
観柳は膝から崩れ落ちた。
自分の時代から、100年も後の世界。その中での殺し合いに、果たして生き残る術が見出せるのだろうか。回転式機関銃だとか剣のチャンバラなど、鼻先で笑われるような時代になっているのかも知れない。
100年前の知識しか持ち合わせていない自分には、あらゆることが初めてのものだ。
いちいちそれらに慌てていたら、助かる命も助からないだろう――。
「そう考え込みなさんな、観柳の兄さん。
考えておくべきは、『ここでは何が起きても不思議じゃない』ってことぐらいでさぁ……。
前に進みやしょう。そんで、ご苦労にも100年以上隔てた時間からあたしらを呼んできた主催をふんじばって、帰る方法を聞き出すんですよ」
――ヒグマ型の木偶は、自分の知識の中にあるどのからくり機構とも異なっていた。
観柳の兄さんの記憶にもなく、黒賀村の知識にもない。
ならば、その『ヒグマ』は、今よりも未来の人形操りの技術である可能性が高かった。
自分だって、観柳の兄さんと同じく、ある者から見れば100年前の人物かもしれない。
だから、自分の常識外の何が起こっても驚けはしない。
この殺し合いの会場はそういう空間なのだと、無理やり自分に言い聞かせるしかない。
――唯一の展望は、主催者を捕まえて、元の時代に戻る方法を知ることだけだ。
手に握るのは、プルチネルラが吹き飛ばしていた村田銃と、木偶から引きずり出したベアトラップ。
――もう、プロがどうのなんて驕りは捨てますぜ。使えるもんはみんな使ってやりますよ。
「……契約どおり、あたしはきっちり観柳の兄さんを守りますぜ。
そんで、あたしらみたいに脱出方法を探してる参加者を見つけやしょう」
「……ええ。私はまだ、こんなところで死にたくはありません……!」
阿紫花は手を差し伸べる。
見上げた観柳は、ゆっくりとその手を取った。
二人の握る糸と金。機転と執念。
それらは、確かに物語を次へと繋ぐ、かすかな展望だった。
【H-6,7の境界付近 森/深夜】
【武田観柳@るろうに剣心】
状態:疲労、スーツがかなり汚れて破けている、右下腿に筋層まで至る裂創(止血済み)
装備:金の詰まったバッグ@るろうに剣心特筆版
道具:基本支給品、防災救急セットバケツタイプ、ランダム支給品0~1(武器ではない)
基本思考:死にたくない
1:他の参加者をどうにか利用して生き残る
2:元の時代に生きて帰る方法を見つける
※観柳の参戦時期は言うこと聞いてくれない蒼紫にキレてる辺りです。
【阿紫花英良@からくりサーカス】
状態:疲労、右手掌から手背に針による貫通創(止血済み)
装備:プルチネルラ@からくりサーカス
道具:基本支給品、煙草およびライター(支給品ではない)、グリモルディ@からくりサーカス(両腕欠損)、ランダム支給品0~1、
紀元二五四〇年式村田銃・散弾銃加工済み払い下げ品(1/1)、鎖付きベアトラップ×2
基本思考:お代を頂戴したので仕事をする
1:手に入るもの全てをどうにか利用して生き残る
2:何が起きても驚かない心構えでいる
3:他の参加者を探して協力を取り付ける
最終更新:2015年01月17日 11:43