捨身飼虎


(略)北涼の法盛訳『菩薩投身餓虎起塔因縁経』に拠れば如来前身乾陀摩提国の栴檀摩提太子たり、
貧民に施すを好み所有物一切を施し余物なきに至り、自身を千金銭に売って諸貧人に施し他国の波羅門の奴たり、
たまたま薪を伐りに山に入って牛頭栴檀を得、時にその国の王癩病に罹り名医の教に従い半国を分け与うべしと懸賞して牛頭栴檀を求む、
波羅門太子に教えこの栴檀を奉って立身せよという、太子往きて王に献り王これを身に塗って全快し約のごとく半国を与うるも受けず、
その代りに王に乞うて五十日間あまねく貧民に施さしむ。王その志を感じ布施五十日の後多く銭財を附けて本国に送り還す、
太子国に帰りてことごとく銭財を貧民に施し父母と妃の止むるを固辞し、山に入って仙人に従学す、母夫人時々美膳を送りて供養す、
太子が修道する山の深谷に牝虎あり、新たに七子を生む、
時に大雪降り虎母子を抱き三日食を求むれども得ず、飢寒極めて虎母その子を噉わんとす、
五百の道士これを見て誰か能く身を捨て衆生を救わんと相勧む、太子聞きて崖頭に至り虎母子を抱いて雪に覆われたるを見、
大悲心を発し寂然定に入りて過去無数劫の事を見、帰って師に語るらく、われ昔願あり千身を捨てんと、
すでにかつて九百九十九身を捨てたれば、今日この虎のために身を捨てて満願すべしと、
師曰く卿の志願妙なり必ずわれに先だちて得道すべし、得道せばわれを遺るるなかれと、師と五百道士と涕泣して太子を送り崖頭に至れば、
太子種々その身の過悪を訶責し今我血肉を以てかの餓虎を救い舎利骨のみ余されん、
わが父母後日必ず舎利を収めて塔を建て、一切衆生の病諸薬針灸癒す能わざる者来りてわが塔を至心供養せば、即日必ず除癒を得んと誓い、
この言虚しからずば諸天香華を雨さんと言うに、声に応じて曼陀羅花降り下り大地震動と来た、
太子すなわち鹿皮衣を解きて頭目を纏い、合手して身を虎の前に投じ母虎これを食うて母子ともに活くるを得た、(略)

――――十二支考
南方熊楠/大正三年

   ●

天清浄。
地清浄。
内外清浄。
六根清浄。
心性清浄にして諸諸の穢れ不浄なし。
我身は六根清浄なるが故に天地の神と同体なり。
諸諸の法は影の像に随うが如く為す処を行う処清く浄ければ所願成就。
福寿窮まりなく最尊無上の霊宝。
吾今具足して意清浄ならん――。
己は一体何者なのか――。
穴持たずポークと呼称される存在は、そんな事を考えている。
羆――ではあるのだろう。ネコ目クマ科に属する哺乳類である。
それは間違いない。
だが。
己を含むこの世界に存在する羆達は、明らかにその定義から逸脱している。
突然変異などと云うレヴェルではない。
大体、己が今こうして思考を行っている事が既に有り得ない事なのだ。
人間の言葉を理解するけだものも。
けだものの感情を理解する人間も。
現実にはいない。
いるとしたら、それは理解したつもりになっているだけだ。
動物が何を視て何を思っているのか、所詮人間には一つも理解は出来ぬのだ。
所謂愛玩動物が人に懐くのは、生きる為だ。
餌を食うために動物の方が合わせているだけだ。
人は勝手に犬や猫を人に見立てて友情や愛情を一方的に感じているが、それは間違いだ。
可愛がると云う行為は一種の虐待なのである。
動物は我慢しているだけだ。
我慢すれば糧を得られると、そう学習したから、そのようにしているだけなのだ。
それと同様に、自分が人間を殺すのも、単にそれが捕食する対象であるからに過ぎぬ。
食人の風習がある人間の民族もあると云うが、矢張り旅人を獲って食うような習慣はない。
喰うとしても食物ではなく、寧ろ死者に対しての敬意を表するが故に食する事が多いのだ。
そうでなかったとしても、例えば同族は喰ってはいけないだとかルールが定められている。
何れにせよ、そんなものはけだものには無い。
その――筈なのに。
己には、それ――感情に類するもの――があるように思えるのは。
何故だ。

脳裏に浮かぶのは、先程己が殺めた人間の事である。
――あれは。
何のつもりだったのか。
慈悲か。命乞いか。凡てを諦めていたのか。己には迚も察せぬような何かがあったのか。
――違うな。
問題はそんな事ではないのだ。
結局のところ、他人が何を考えて行動しているのかは、絶対に解らない。
だから。
あの人間の行動を理解しようとしている事、それ自体が問題なのだ。
そんな事を思っておき乍ら、己はあの人間を殺めている。
喰らうでもなく、只殺すために殺したのだ。それが当然の事であるかのように。
人の如く思いを巡らし、しかし人を殺さずにはいられぬ禽獣。
それは既に、イメヱジの中にしか存在し得ぬ怪物であろう。
――そう。
怪物だ。
己は羆のカタチをした怪物怪獣化物モンスタークリーチャーなのだ。
穴持たずポークはそう結論した。
ならば――その怪物に慈悲の心を示したあの人間は、それこそ生き仏だったか。

南無帰依仏。
南無帰依法。
南無帰依僧。

南無帰命頂礼。
大日大聖不動明王。
四大八大不動明王。
――莫迦な事を。
仏の教えなど。己からは――。
この狂気の世界からは、最も遠いものではないか。

三昧法螺声。
一乗妙法説。
経耳滅煩悩。
当入阿字門。

低い唸り声を穴持たずポークは発した。
或いは――己は、嘗ては人間だったのやも知れぬ。
その行い故に、冥府魔道へと堕ちたのやも知れぬ。
因果が為に現世にてこの姿になったのやも知れぬ。
だがそれはもう、関係がない事だ。
――止めておけ。
考えるのは。
己の事も。あの人間の事も。
ただ喰らうのみ――それが己の存在意義だ。
それで――善いのだ。

阿毘羅吽欠縛日羅駄都鑁。

無人の街を穴持たずポークは進む。
茫洋とした月明かりが、茫洋とした景色を胡乱に浮かび上がらせる。
街には其処彼処に洞穴の如き暗闇がぽかりと口を開けている。
裂け目からひょいと覗けば、覗いた者は簡単に闇に取り込まれてしまう。
そんな危うさがある。
ただ闇雲に進む。
獲物がいれば。
――狩るだけだ。
そして。
穴持たずポークは――自らが喰らうべきモノを視た。

黄金と紅色に彩られた様々な形の食物――クッキー。
無数に存在するそれが、宙を舞っていた。
――あれは。
それが何なのか、穴持たずポークは即座に理解した。
災害だ。
放置すれば際限なく増え続け、星を、宇宙を、世界を喰らい尽くすモノだ。
――関係ない。
喰らう。
喰らうのみ。
いずれ腹の中に収まるもの。
人も。鮭も。豚も。菓子も。何であろうが――喰らう。
穴持たずポークは。
翔んだ。
既に物理法則は超越した身。
喰らうべきものがあるのなら、其処に向かうだけだ。

唵。
縛日羅。
羅多耶。
吽。

唵薩縛。
怛他蘗多。
幡耶。
満耶襄。

荒れ狂う竜巻の中、穴持たずポークはクッキーと云う名の災害を只管に消費する。

オートミールレーズン。ビーナッツバター。プレーン。ココナッツ。ホワイトチョコレート。
マカダミアナッツ。ダブルチップ。シュガー。ホワイトチョコレートマカダミアナッツ。
オールチョコレート。ダークチョコレートコーティング。ホワイトチョコレートコーティング。
エクリプス。ゼブラ。スニッカードゥードル。ストロープワッフル。マカローン。
エンパイアビスケット。紅茶ビスケット。チョコレート紅茶ビスケット。丸い紅茶ビスケット。
丸いチョコレート紅茶ビスケット。ハートモチーフ付き丸い紅茶ビスケット。
ハートモチーフ付き丸いチョコレート紅茶ビスケット。
マドレーヌ。パルミエ。パレット。サブレ。カラモア。サガロン。
ショートフォイル。ウィンミント。フィググラトン。ロアオル。

唵阿莫伽毘盧遮那摩訶母駄羅摩尼鉢納摩人縛羅鉢羅韈利多耶吽――。

喰らう。
十兆を喰らった時点で内臓は機能を停止した。
喰らう。
十五兆を喰らった時点で脳が弾けた。
喰らう。
己はそう云うモノだからだ。

吾今具足して意清浄ならん。

最後の一つ迄も喰らい尽くし――。
膨張した穴持たずポークは、弾けて消えた。

目の前には何もない空間が広がっている。
虚空だ。
――否。
穴持たずポークは、無量大数程の隔たりがある遥か彼方に、己が殺めた人間の姿を視た。
笑顔で。
こちらに皿を差し出している。

――もう喰ったさ。
――腹ァ……いっぱいだ。

そして穴持たずポークは思った。
仮に自分を操り、行動を取らせた者がいるのだとすれば――。

結局この台詞を云わせたかっただけなんじゃないのか、と。


【穴持たずポーク 死亡】

※穴持たずポークの死体は消滅しました。
※クッキートルネードは穴持たずポークに喰い尽くされました。


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最終更新:2015年01月17日 11:47