カーテンの隙間から漏れる日差し。
四方に敷き詰められた書物の森から香る木の匂い。
数分、時には数十分の間隔の度にめくられる本のページ。
無機質なセピア色の部屋で、手の中の紙から代わる代わる出ては消える、カラフルな物語。
それだけが私の世界の、全てでした。
書店の会計の椅子に座り、日に十人に届くかも怪しい客が訪れるまで本を読み耽る。
専攻を取っている学部の講義が午後かもしくは休日の朝、
鷺沢文香の日常はいつも通りに始まった。
激しい喜びも、深い絶望もない。
時が伸びていると感じてしまうぐらい、緩やかで穏やかな心地よい時間が過ぎている。
そんな安寧の中で聖杯戦争が始まろうとしていると告げられても、とても信じられないだろう。
その認識は誤りであると、文香は知っている。
状況に流されるままでは逃避に転ぶと分かりきっているので、努めて忘却しないように戒める。
始まろうとしているではない。もう始まっているのだ。
読書を切って床につく前の深夜。日付の変わる時刻と同時に出現した文香の時代よりも更に一歩未来的なスクリーンから、この儀式の"開催者"の使いが姿を見せたのだ。
縦に体を白黒色に分けられた熊を模した生物、のようななにか。
裁定者、執行者というよりは道化(ピエロ)じみた造形と挙動の使者は愛嬌たっぷりに、そして聞く者の精神を逆撫でする口調で宣言した。
聖杯戦争の開幕。個人の願いを、多数の願いと命を踏みにじって実現と化す殺し合い。闘技場。
蠱毒の壺は閉められた。どこに逃げても、這い上がっても出口はない。
最後の一人になるまでこの儀式は終わらないのが
ルールだ。
文香もこのまま、いつまでも無関係を装ってやり過ごすことはできない。
戦う戦わないに限らず、関わらなければいけないのだ。
「―――――――――はぁ」
深く、溜め息。
腹の奥、懐に沈殿する不快な感覚を吐き出す。
浮かぶ疑問をいつも同じだ。悪循環なのに止められない。
それはつまり、関わるといってもどうすればいいのか。そこに尽きた。
戦争を降り元の世界へ帰還したい文香には避けられない主題。文香の綴る物語のテーマ。
混沌の坩堝と化していく戦場に出向き、己の意思を示し、勝利を目指す?
書物を愛するだけのアイドルでしかない、そしていまはアイドルですらない文香に?
出来るかという可能性以前に、やるのかという意志力云々の前に、指向の思考すら浮かばない。
望みこそ捨てないが、その為に他者を犠牲に踏みつけるという行為を、文香にはどうしても想像できない。
なら、待つしかないのだろうか。
目の前の戸を叩き、ガラスの靴を足にはめて、外にそびえる城に連れ出してくれたあの人のように。
誰かが希望を持って来てくれるのをただ待つだけが、文香に残った最善の行動なのだろうか。
それは甘美な選択に思えた。
同時に自ら希望を手放す堕落に感じた。
あの日差し伸ばされた望外の幸運。それによって文香は変わった。
変化を求めながらもきっかけを掴めず、座ったままの日々を繰り返す自分を脱ぎ捨てる事ができた。
魔法がかかったのは衣装だけではない。地に降りた星に触れて文香もまた輝き(キラキラ)を得た。
俯かずに歩き出せた、少しだけ前向きになった心が言う。同じように待つのだけはやめにしようと。
カンダタの
蜘蛛の糸の如く。希望が目の前に吊り下げられるまで固く動かないのでは、過去の文香のままだ。
それに、今の文香にはあるのだ。
我が身の危険を忘却する程ではないにせよ、一瞬そうしたくなるぐらいの、思わず動き出さずにはいられない"きっかけ"が。
持っていた本をレジスターを置いた机の脇に置く。代わりに手に取ったのはテレビ雑誌。
記憶するより指が慣れ親しんた分厚いカバーの感触とは違う薄い紙の束。
昨今のアイドル情勢、人気ユニット、歌のチャート別ランキング。
古き良きといえば聞こえはよく、悪く例えればカビの生えかかった古い書店においては、似つかわしくない類のもの。
店が売り物として入荷したのではなく、文香が自ら他の書店で買ってきたアイドル特集の月刊誌だ。
折込を入れた一面を開く。そこには文香も聞いた憶えのある大御所と言うべき存在とは違う少女の集まりが載せられている。
アイドル全盛の時代にあって注目を集める若手の人気ユニットの紹介記事。
見知った、どころか本来は共に肩を並べて歌と踊りを披露していた少女が、一人一人個別に紹介されている。
感じている。
一歩一歩を辿ってきた道を無かった事にされた。
上から塗り潰されて、何もかも白紙にされた痛みを。
でも、今は。より強く締め付けられるものがある。
両面のページいっぱいに、そこそこに簡素な紹介をされてるアイドル達の中で比較的大きく枠を取られている一人。
名前の通りの物怖じしない佇まい。流麗なる装束を身に纏うアイドルの星。ガラスの靴で踊るシンデレラ。
今の鷺沢文香には届くはずもない、なんの関わりもない人物。
かつての鷺沢文香にとっては、接することもできる距離になった人物。
「……凛さん」
呼ぶ。
細く低い、自信の無さの表れのような声。
けれど同じく歌を奏でる仲間からは綺麗だねと褒められた声で。
「彼女が、気になるんだね」
一人も客のいないはずの本屋で、答えはあった。
自分の呟きに応じる誰か。
もっとも声は文香の知る、少し大人びていて芯を感じさせる少女のそれではなく、喉のつくりからして違う音階であったが。
即ち、男性。
文香の背後、叔父の部屋に繋がる通路からの声に反応して振り返る。
「……ああ、ごめん。驚かしてしまったかな。
断りなく後ろから女性の声をかけるのは、たしかに紳士足り得ない行いだった」
軽く頭を下げるのは、見知らぬ珍客という訳ではない見知った人物だ。
今の鷺沢文香にとっては、もっとも身近な位置に座していると言ってもいいかもしれない。
「バーサーカー、さん」
それは北欧の伝承ベルセルクに端を発する、狂える戦士の名。
神々の宮殿に召し抱えられた戦士の魂。アインフェリア。ヴァルキュリア。
獣の皮を被り、人としての思考を捨てた凶暴性を発露させて戦い、事が終われば虚脱に陥る。
文香が、マスターとして契約したサーヴァントの位(クラス)の名称だ。
極力真名は秘め置くものという、聖杯戦争の掟に従い文香は彼をそう呼んでいる。
しかし文香は慣れなかった。その呼称に。バーサーカーという言葉から彼を連想するのに。
自分と言葉を交わし、明確に意思の疎通を行えている人物を、狂戦士と字することに対しての違和感があった。
金髪に碧眼。
英国人の標準である特徴に、紳士とはかくあるべきと示すような服装。
整った顔立ちから予想する年齢は文香と近いか、それより幾らか上か。
狂える獣も凶暴性も感じさせない、穏やかで優しげな青年だった。
「うん、なんだい?」
「いえ、その…………」
名を呼ばれた事か、じっと顔を見つめていた事にか。
何か求めるものがあるのかと思って、青年が文香に問いかける。
「あの…………」
返事に窮して、伏して黙する。
整った容姿と清涼な印象は、文香よりもよっぽどアイドルとして扱われてもおかしくないものだ。
新都のビルが立ち並ぶ地域にでも出ればスカウトの声が一度や二度はかかってくるぐらいには、と考えている。
面識はないが。男性のアイドルグループの中に混じっていても、おかしいとは思わないだろう。
異性との会話の経験が乏しい、それこそ記憶に残るのでは自分の担当するプロデューサーぐらいの文香にとっては、
それだけで面と向かって話し合うのに気後れしてしまう時も、なくもない。
「…………」
バーサーカーの翠の瞳と文香の蒼い瞳が繋がる。
怒り、威圧、憎悪、負に相当する感情は見受けられない。
文香は気付く。彼は待っている。自分の言葉を。
ゆっくり、じっくりと。今抱えている気持ちを明確に言葉にして出せるようになるまで。
無理に促そうとせず、焦らせる事もなく、落ち着いた心で、文香自身の意思で言える時を待っていてくれていた。
「バーサーカーさん」
「なんだい」
もう一度、彼の名を呼ぶ。
今度は正面に向き合って。
文香は強い人ではない。
戦う力。戦う意思。
聖杯戦争に臨む者なら誰でも身につけている強さというものを、なにひとつ持っていない。
書を嗜み、アイドルの道を踏み出していた、ただの少女以外の何者でもない。
ただ帰りたい。あるのもは奇跡も願望器も必要としないありきたりな希求。
「会いたい人がいます」
そんな小さな声に応えてくれた英霊にせめてもの誠意にと目を逸らさず、偽りない自分の意思を伝えた。
「会って、私は確かめたいです。本当に『彼女』なのかどうかを」
深夜に送られた討伐令という通知。
野に潜む狐を追い立てる狩りのように積極的に討つことを奨励する報せ。
それだけでも文香の普段から白い顔を一層蒼白に染めるに十分すぎる衝撃。
指名手配犯さながらに顔と名前を公開された二組と一人を見た瞬間。今度こそ文香は呼吸が止まった。
肺機能が止まって体が酸素を求めてあえぎ咳き込むまで自失してしまいそうになる理由が、そこには描かれていた。
「私はまだ……信じられません。彼女が、凛さんがここにいるなんて」
聖杯に招かれる因果の所以を文香は持たない。自分は決して選ばれないはずの人間だ。
だから自分がここにいるのは、理論上では間違ってないという確率上の話。それを運悪くも引き当ててしまった偶然のものであると思っている。
その論に照らせば、自分以外のアイドルもこちら側に来ている結果はおかしくはないかもしれないが。
……違う。そういうことではない。
困惑の原因は、文香が心の動揺を抑えられないでいるのは、そこではないのだ。
「それに、彼女が……――――――だなんて」
渋谷凛が聖杯に導かれているとするなら、彼女は今冬木の地で過ごしているはずだ。
テレビに映らない日はなく、雑誌で載らない日はない耳目を一身に受けるアイドルであるはずなのだ。
なのに。受け取った通知に描かれている彼女の下に記されていたのは、彼女の名前ではない、別の名称(クラス)だけだった。
「ああ、確かに奇妙だね。そして不安を煽る情報だ。きみにとっては特にそうだろう。
見知った人がサーヴァントとして呼ばれている。僕ら英霊でもそう多くない機会だ。
それが神秘薄れる現代ともなれば、なおさらさ」
渋谷凛は人間(マスター)としてでなく、死者(サーヴァント)として冬木にいる。
にわかには受け入れがたい事実を、あの夜文香は唐突に知らされたのだ。
「バーサーカーさんには、どうしてだか分かりますか……?」
魔術も神秘にも縁遠い文香には、英霊の存在する世界に関して、片鱗すら垣間見れない。
同じ英霊のバーサーカーの知識に依存する他なく、彼の言葉を待つ。
バーサーカーは意識を思考に集中し、脳内で集めた関連する知識を編纂して、一般人である文香にもわかるよう咀嚼してから口を開いた。
「聖杯戦争で召喚されるサーヴァントは基本的に七つのクラスに分類される。
剣や槍といった武器の獲物や魔術や暗殺などの個々の性質に準じ、英霊という強大すぎる無色の力の塊を最も見合う形の器に注ぐ事で英霊召喚を可能にしている。ここまでは聞いているね?」
「はい」
誰しもが心の内に抱える悪意を表層化してしまったジキルが、狂気の英霊(バーサーカー)のクラスで召喚されたように。
「そしてその中で、どの器にも属さない特殊なクラスに適性を持つサーヴァントもいるらしい。
いや、順序でいうなら基本クラスへの適性がないサーヴァントの為に、特殊なクラスをあてがったというのが正しいだろう。
ネバーセイバー。在り得ざる剣士。僕も内情の全てを知るわけではないけれど、やはり特異な名だろう」
特異であるとバーサーカーは語る。
荒ぶる英霊の魂が渋谷凛の形を取り、通常の形式では起こらない姿で現れた此度の変異を。
「特異……本来の物語の中にあってはいけないもの……ですか」
「うん、そういう解釈も正しいだろう。"在り得ない"事こそがひとつの逸話として昇華され、そういう性質の英霊が生まれたのかもしれない。
なんにせよこの聖杯戦争で、この儀式を主導する者にとって、彼女達が異分子であるのは確かだ」
文香はイメージする。異分子という言葉から導かれる推察を。
完成された一冊の本に紛れ込んだ別冊のページ。
誤字に脱字。汚れに破損。
編集から外れ紛れ込んでしまった、筋書きを成り立たなくしてしまう矛盾した文章。
それがそのまま世に出されてしまえば作品の価値は崩れてしまう。
破綻したストーリーは誰に目にも留まらず書庫の奥にしまわれて、埃を被るだけの時間を過ごしていく。
「だから……凛さん達に、手配を?」
当然売り手は未完成の作品など望まないだろう。
要らぬ部分を削ぎ落とし、修正せねばならない箇所を書き直そうとする。
では"これ"は、その作業の途中なのかもしれない。
聖杯戦争という物語を想定通りのエンディングへ到達できなくさせてしまう、みっつの異分子(イレギュラー)。
異常であり綻び。聖杯戦争を行うには不都合な要素。
であるなら、そこに穴はあるのかもしれない。殺し合う以外に生きて帰る方法はないと定められているルールを破る穴に。
「そうだね。その可能性も十分ある。
調合する薬品が1ミリグラム違うだけで実験の結果は大きく違う。ときには爆発したり大変な被害をもたらしてしまう。
彼らがそんな細やかな作業をしているかは、正直疑わしいけれど……求める結果に何らかの不都合はあるんだろう」
バーサーカーも同意する。薬を用いて研究するのを旨とする錬金術師の面を持つ碩学者の目線で。
「聖杯戦争の破綻、もしくは脱出。その一手になる目はあると僕は思うよ」
それは文香の生還の望みに繋ぐ、光明となるはずの言葉だった。
なのにバーサーカーの静かな表情には僅かに険しさが浮かんでいる。言葉を聞く文香も緊張している。
わかっているからだ。二人がサーヴァントの渋谷凛の情報を入手したのは、"通知"によるものだと。
「彼らは追われる立場で、それも多額の懸賞がかけられている。当然だけど会おうとするのは危険が伴う行為だ」
討伐令の報酬の内訳は、文香にもある全てのマスターに三画与えられた刻印。
いざという局面での切り札になるそれの効力の程をバーサーカーは伝える。
「令呪の使用法は多岐に渡る。己の意に従わないサーヴァントを従わせる強制。逆に転移や強化という通常の魔術師ですら叶わない補助にも使用できる。
聖杯戦争でこれほど有用な装備はないだろう。それだけ有用で、貴重なものだ。
切なる望みがあり、勝ちに行く主従は、積極的に討伐に参加するだろう」
それはつまり、ほぼ全てのマスターは凛達を敵として追い狙うという残酷な現状を有り示している。
餌をぶら下げた狐。狩られるだけの獣。
文香にとっての希望の縁は、他者にとってその価値にしか映らない。
彼女の危機に手を差し伸べる者は誰もいない。彼女が死んでも悼む者は誰もいない。
折角見えた光明はその実、嵐の中のいつ消えるとも知れぬかがり火に過ぎなかった。
「君の友人に関わる事は、君自身が戦いに巻き込まれる事になる。
矢面に立つのはサーヴァントの役目だ。けれど君はマスターだ。近づけば他の参加者にとって同じ敵として映る。
火の粉がかかる可能性は少なからずあるだろう」
戦い、殺し合う。どちらも大きな争いのない平成に生きる文香には、聞いた憶えはあっても体験などしたわけなどない。
それが間近に迫ると聞くだけで恐怖が豪雨のように全身を打ちのめす。
バーサーカーから教えられる現状を認識するほど、どうにもならない行き詰まりを見せつけられてしまっていた。
戦いになれば自我を失う魔力負担の大きいバーサーカーと魔術の素養のないマスターに、果たしてどこまでの事が出来るのか。
その範囲で、自らの望みに手を伸ばすのはどれほど遠大な距離があるのか。考えるだけで気が滅入ってくる。
「――――……それでも」
陰鬱に沈んでいくばかりだった部屋の中で、二つの声が交ざり合った。
「あ……」
か細くも途切れる事なくどこまでも響いていく鐘の音に似た女のもの。
「……おや」
穏やかさの中に揺るがぬ決意が秘められた男のそれ。
重ねられた声は調和し互いに溶け合った。
示し合わせていたわけでもない。ごく自然に口をついて出た言葉。
なのにその瞬間ピントが重なったように、二人の男女は同じタイミングで同じ言葉を口にしていた。
バーサーカー・ジキルの語った内容に偽りはない。
何を選んでもやはり聖杯戦争から逃れるには困難だ。
文化には終わりが見えない階段を昇り続けるのにも似た心労が募っているだろう。
しかし彼女は自分と同じ言葉を紡いだ。"まだ終われない""諦められない"と。
ページを開かれなければ、新たな物語は大団円にも悲劇にも動き出さない。
それはやがて来る痛みに震えながらも、膝を折らずに先を進む事を望む言葉だ。
マスターが続けようとした言葉、言わずともその心情は理解している。
追われる身の友人を見捨てるのが賢い選択と分かっていても、強い躊躇を抱いている。
脱出の鍵となる因子の可能性。目的の為の打算などはじめからなく、どうすれば助けられるかを考える。
文香の知る渋谷凛でないとしても。
アイドルでない文香の声は届かないかもしれないのに。
善性は聖杯戦争には不要でも、アイドルには必要不可欠の優しさだ。
聖杯戦争にまつわる、ある知識を思い出す。
マスターが召喚するサーヴァントはどこか精神性に似通った部分があるという。
それが共感を呼び良好な奸計を築くか、同種ゆえの嫌悪を抱いてしまうかは時々によるものだが。
そこへいくと、マスターには自分のような狂気の発露は微塵も感じさせない。
英雄の超越性も、戦士の武技も両者は縁遠い存在だ。共感する側面は見受けられない。
ジキルは思い出す。
二度目の生。最初の主。
魔術師の血を知らず継いだ以外どこまでも平凡で、その平凡さのまま善良さと正義感を併せ持った少年。
あの繋がりを忘れない。忘れないからこそ、ジキルは今も再び召喚された。
子供の頃に一度は胸に懐く淡い思い。
美しく尊いが、口に出した途端に雪の結晶のように砕け散ってしまう脆い心。
それは例えば、正義を為そうという若い理想。
悪逆を廃し、欲望を捨て去った、人の心を分断した善のみで満たそうという志。
それはあるいは、輝く舞台に立つという夢。
語り合い、共に並び踊った仲間を救いたいという情。
それでも、私(ぼく)は――――夢(りそう)を捨てられない。
ただ、握りしめて離さないこと。
英雄でも魔術師でもない、平凡な誰彼の願いに、自分は寄り添っている。
これもまた、願いが果たされたと言うべきか。
正義の誓いを共に課し、邪悪な儀式を遂行せんとする魔術師を打倒するのでなく。
罪人を閉じ込める牢獄の塔の囚われの少女を連れ守り、元の自由と平和な居場所へ送り届ける。
「美女と野獣、だったかな」
「……?」
「いや、そういう題名の話があったなと思い出しただけだよ」
「はぁ……」
納得したとばかりに頷いたバーサーカーに、文香は見当がつかず首を傾げるしかない。
僅かに翳っていた気が晴れた少女らしい仕草に微笑みで返す。
「大したことではないよ。ただ―――」
戸のガラスを鳴らす音が、その時二人の会話を打ち切った。
朝早くに、開店間もない時刻の来客。
一応は店番の文香も一日読書に耽っていられるくらいだ。入ってくるのを予想していなかったのは気が緩み過ぎていたのか、張りつめ過ぎなのか。
隣に目線をやると、バーサーカーはその身を霊体に変えていた。善の姿であるジキルはサーヴァントの能力も気配も有さず、それゆえ実体のままでいても魔力の消耗は殆ど無い。
しかし彼はあくまで仮初の住人。この店にいまいるのは文香のみ、留まって姿を見せるものでもないと考えたのだろう。
「……え?」
振り向いた先にあるものを見て、思わず目をこする。
木製の扉が開かれて入ってきた姿。
それは童話の挿絵が切り抜かれて現実に動き出したような、不思議そのものだった。
「……」
おずおずと、扉から誰かが顔を覗かせていた。
白い衣装に身を包んでいるらしき少女。
見える頭の位置からして背丈は小さい。十歳にも満たないのではないだろうか。
文香は何も言わず、少女はじっと文香を窺っている。
外に出るのは怖いが興味を惹くものがあって、遠巻きに観察しているような。
儚い容姿とあいまって、森の木々に潜む妖精にでも見られている感じがした。
「…………あの……」
沈黙に耐えきれず、なるべく脅かさないように声をかける。
少女は驚いて顔を引っ込めるが、すぐにまた覗いてきた。
そしてこちらを、黙って見つめ返す。
文香も視線を逸らさず見つめ合ってると、おっかなびっくりという様子で足を一歩分伸ばし、店の中へ入っていった。
「わぁ……」
入ってすぐ、少女の怯えは薄れていく。
右へ左へと視線を動かすうちに、不安より好奇心が大きくなっていくのがわかった。
全周にくまなく敷き詰められた無数の物語。そのひとつひとつの筋書きを想像しては楽しむかのように。
そしてひとしきり辺りを見回して、改めて文香へと視線を向けて言葉を発した。
「ここ……本屋さんですか?」
「……あ、はい。いらっしゃいませ」
陽光が森の木漏れ日のように差す薄暗い店内。
文香はここで初めて少女の全身像を眺めた。
淡い白と水色の、フリルで彩られたドレス。
帽子に、胸に、背に、結わえた長髪に結ばれたリボン。
スカートは傘を広げたように大きく広がっている。
手も脚も白いタイツと手袋で覆われ、唯一見える顔の肌も陶器のような白さ。
……人形、という言葉が不意によぎる。
小さくて、可愛らしく、浮世離れていて、だからこそ存在感が生身のそれと異なっている。
アイドルがステージの上で着ている衣装に似通っていているが、文香が知る彼女とでは何かが欠けているように感じた。
「えっとね……あたし(
ありす)、アリスの本を探してるの。お姉ちゃんはしらない?」
考えに意識を逸らされてる間に近づいたのか、少女は文香の座る会計台の前にいて、そう問いかけてきた。
「アリスの本……ですか?」
「うん。おしろのなかはなんにもないし、おじさんもあたし(ありす)の相手をしてくれなくてつまんないの。
だからおそとに出てきちゃった。時間におわれたウサギをさがしに穴におっこちちゃったの。
でね、やっぱりあたし(ありす)はアリスの本が読みたいなって思ったの。あたし(ありす)がひとりぼっちのころから読んでいたわらべうた。
あたし(ありす)の好きな、アリスの物語。ひとりぼっちでふしぎの国にまよいこんだ、かわいそうなおんなのこ……」
謳うような心地。
子供らしい要領を得ない言い回しに理解を投げ出さず、文香は少女の台詞を読み解こうと向きあった。
文脈から想像するに、ありすとはこの少女の名前なのだろう。そしてアリスという少女が登場する本を探している。
アリスの名前の人物など世界中に出て来る。題名も作者も分からないとなると探そうにもお手上げだ。
しかし少女が語って聞かせた内容からして、その作品はやはり、あの有名な作者のものだろうか。
「……ルイス・キャロルの小説ですか?」
「お姉ちゃん、本の名前、わかるの?」
期待を寄せた目で少女が文香を見上げる。
「正しいかはわかりませんが……不思議の国に迷い込む少女の物語でしたら……棚の奥を探せばあると思います」
「ほんとに?やったぁ!」
目当ての品があるとわかった少女はその場で飛び跳ねて喜びを表現した。
とはいえ文香と少女の想像が一致するものとは限らない。その点を念押ししつつ、文香は店の奥へ足を運んだ。
この店に置かれている本は店の大きさに反してかなり多い。
慣れぬ客が目当ての書を探そうとすれば、迷路を彷徨うが如く店内を右往左往するほどだ。
膨大な書の森を文香は迷わず進む。どこにどのジャンルの本があるか。店番である以上当然のごとく全て記憶してある。
高く並ぶ本棚に囲まれて暗い場所にまで来たところで、その時文香の頭の中に直接言葉が伝わった。
『少なくとも、サーヴァントは近くにいないようだね』
霊体化していたバーサーカーからの声。
そうと理解していても、すぐに動揺は拭えなかった。
奇異にも映る少女を彼は、あるいはマスターなのではないかと観察していたらしい。
文香の方はといえば、まったくそこには行き着かなかった。
あんな小さな女の子すらもが聖杯戦争に参加している。
それは街の住民全てを敵と思えという事だ。想像するだけでも恐ろしい話だ。
『そうですか……よかったです』
安堵と共にそう返事する。文香にはそれが精一杯だ。
敵として向かい合う気持ちで、あの少女の顔を見る事などできそうもなかった。
洋書、童話、普段は殆ど誰も手につけない場所から難なく予想した本を抜き出して店頭へと戻った。
「……お待たせしました」
戻ってみれば、少女は備え付けの椅子に座って何かの雑誌を読んでいた。
こちらに気づいた途端、ぴょんと跳ねて文香へ近寄り持った本を覗き込む。
「わあ!アリスの本だ!」
『Alice's Adventures in Wonderland』と題名が書かれた本を見て、満面の笑みで声を上げる。
見ていた雑誌を放り捨て、早速とばかりに文香から受け取って項を開き、そのまま物語を魅入ってしまった。
無邪気に気ままに遊び、自分に刃が向けられる可能性など考えもせず無防備に読書に夢中になってる少女を見て、文香も自然と表情が綻んだ。
「ご希望に添えたようで……なによりです」
やはり、こんな幼子が殺し合いに関わってるとは思えない。
冬木には比較的海外から移り住んだ住民が多い。おそらくはその家系だろう。
自分たちの心配は杞憂でしかない。文香はそうひとり理屈づけて納得させた。
「ありがとうお姉ちゃん、あたし(ありす)の願いを聞いてくれて。まるで魔法の鏡みたいね!」
少女――――ありすは、そんなことを言ってきた。
一瞬なんのことかと頭を捻って、その意味するところにたどり着く。
魔法の鏡。有名な童話に登場する、悪い魔女が所有する道具だ。
持ち主が問いかければ、どんな質問にも正しい答えを教えるという。なんとも少女らしい喩え方だ。
「そんなことは……私はそれほど物知りではありません。本を読んだだけで得た知識など……小さなものです」
「そうかしら?それじゃあもういちど聞いてみようっと」
ありすは『不思議の国のアリス』を置いて、また別の本の項を開いて文香に見せた。
童話本と比べて分厚いカバーのないぺらぺらとした紙を束ねた雑誌だ。
ありすが尋ねるまで文香が読んでいたテレビ本。文香が童話を探してる間にありすが読んでいたアイドル誌だった。
「かがみよかがみ。あたし(ありす)のもんだいこたえてみせて。
あたし(ありす)とおなじ名前のこの子はだあれ?」
いまのありすと変わらない衣装で彩られた無数の少女。
見開きで紹介されたアイドル達のひとりを、名前を隠して白い指が示している。
長い黒髪。幼い容貌。大人びようとすましている表情。城に住むお姫様のような、青いドレスの少女。
「……橘ありすちゃん」
「ほら、やっぱり!」
「その本を読みましたから……」
同じ名前(ありす)。同じ少女。
子供のままに無邪気なありすと、理性的であらんと夢見るありす。
接点のない二人を、文香が知ることで互いが繋がった。
なるほど、思ってみれば確かに面白い偶然だ。
「この子もアリスなのね。あたし(ありす)とおなじふしぎのアリス。
かわいいドレスを着て、おしろでおどってとっても楽しそうだわ。けれどアイドルって、なにかしら?」
小首をかしげて無邪気に、興味深そうに。
ありすはその疑問を口にした。
アイドルという言葉と、概念
それはかつての此処の文香にとっては遥か遠い場所にあった。
今は違う。その言葉の意味も在り方も、既に文香は知っている。
「アイドルは……歌を歌い、舞台で踊って……人に夢と輝きを見せる仕事です」
何の意味もないことを、気がつけば文香は口にしていた。
「おどり……ゆめ?
シンデレラみたいに、キラキラかがやくの?」
目の前にいる幼い少女。限りない可能性があり、希望ある未来を夢見られる人。
先達の教えなんて偉そうなことは言えない。そもそも自分は此処では外様の人間だ。
無事に事が済ませられても、後は無責任に元の場所に去ってしまうだけ。
それでも残したいと思ったのだ。自分の物語の足跡を。
「ええ、そうです。彼女たちひとりひとりがシンデレラなんです」
「でもシンデレラは十二時になったら魔法がとけちゃうよ?かねがなったらみんなきえてしまうわ。
おうじさまにあえるまで、ままははにいじめられちゃうの?」
「いいえ……彼女たちは消えませんよ。かけられた魔法は一度だけですが、その一度だけで彼女たちはお姫様に変われたんです。
時間が来て、姿が戻っても……その時の気持ちを忘れずにいれば、シンデレラで在り続けられます」
閉じられて、開かれず、何も生み出さないと思っていた自分自身。
埃を被ってしまわれていた書を紐解いてくれた手。その手に引かれるままに、自分の物語は世界に向けて紡がれた。
数多の名著のように、己という一冊の詩が人々に受け入れられ、新たなページが記される日々。
いつの間にか、文香はアイドルだった。身も心も磨かれて、眩い光の差す場所に自然といた。
それは誰もが幻想に抱いた夢を叶える御伽噺であり。
ある少女が今も登る、輝く世界の魔法にかかった物語。
全て、あの日から変わった体が憶えている。今も変わらぬこの身に残っている。
この世界ではその記録がないとしても、本当の意味で全てが無くなったわけではないのだから。
こうしている今も膝を折らず立っていられるのは、そういうことだ。
夢を終わらせたくない。その願いが瞳を閉ざさずに前を見ていく力に変わっている。
「えいえん……あたし(ありす)のおはなしもつづくの?あたし(ありす)も……アイドルになれるの?」
仮初の国で偶然出会った、幻想の住人。
理解しているかは分からない。全てが終わってここの人々も同時に消えてしまうのかもしれない。
……ここの世界に関わって、残るものなどないとしても。
彼の人にもあるだろう物語が、文香をアイドルの世界に引き入れたように。
手を引く気軽さで生まれた程度の詩篇でも、物語の大きな変化を生む一片になってくれたならと。
「はい。あなたがその気持ちを忘れない限りは、きっと」
お互いを鏡にして、互いの願いを映し合っている。
言葉は目の前の少女に向けてであり、少女の瞳の中の自分自身にも宛てられている。
「未来は白紙のページのままで、いつでもあなたの物語が記されるのを待っています」
二人共にかかってくれることを願って、ささやかな魔法を口にした。
「……すてきなお話。
あたし(ありす)はもう不思議の国の少女(アリス)だけど……そんなゆめも、見れたかもしれないんだね」
ありすは感慨深そうに瞳を閉じて、両腕で自分の体を抱きしめた。
愛しい物語を、小さな胸の中にいっぱいしまいこむように。
「たのしいお話いっぱいありがとう、鏡のお姉ちゃん。
ほんともっといっぱいお話したいんだけど……いまはだめなの。あの子がおなかをすかせてるわ」
それから、幾度かの会話の後にありすは立ち上がった。
外に通じる扉の向こう。遮蔽物で見えないそこには、何かの生物のような気配がするのを文香は感じた。
ペットでも連れていたのだろうか。ここに来たのは散歩の途中だったらしい。
今まで聞こえなかった、扉越しに聞こえる息遣いは犬のようだ。
「聞きたいことができたらまたくるね。あたし(ありす)も遊びを考えておくから、そのときは一緒にお茶会をしましょうね!」
買った童話を持って、ぱたぱたと足を動かして出て行くありす。
扉を締めて完全に姿を消した途端、室内は元の暗い空気に戻った。
童話に出てくる屋敷のような雰囲気もなくなり、今は殺風景なさびれた本屋だ。
不思議な子だった。
ふわふわしてるというか、ぼやけてるというか。
儚い、淡い、夢幻。言葉にすればそうしたイメージの具現。
狭い世界の現れた少女は、それこそ魔法のように立ち消えた。
自分の言葉を、果たしてあの子はどう受け止めただろうか。本気でアイドルを目指そうとするだろうか。
もしそうして同じステージで出会えたのなら――――彼女は、自分はどう思うだろうか。
ありもしないと弁えて、それでも想像する文香は意識せず小さく笑った。現実に起きたならとても希望があり、夢のある話だなと。
「……?」
だからレジスターを整理する指先に感じた不快な感触にも、反応するのが僅かに遅れた。
掌を返して指先を確認する。外に出ず、荒れてない白い指には粉のようなものが付着していた。
ありすが代金に渡した一万円札にも同じ汚れがあった。白く煤けた燃え滓にも見える。
「……灰、でしょうか」
自分で言って、それはないなと改めた。
当然、本屋で火災など起こすわけがない。棚の奥から引っ張り出した本だ。掃除はしたがまだ埃が残ってしまっていたのだろう。
彼女の手も汚してしまっていると申し訳なく思った。
周りを丁寧に掃いて、所定の位置に座り文香は凛を探す方法について思いを巡らした。
手がかぶった灰の汚れなど、とうに記憶からこぼれて消えていた。
【一日目・午前(10:00)/C-5・書店】
【鷺沢文香@アイドルマスターシンデレラガールズ】
[令呪] 残り三画
[状態] 健康
[装備] なし
[道具]
[所持金] 個人の所有は控えめ
[思考・状況]
基本:戦うことなく元の世界に還りたい
1:渋谷凛を探す。サーヴァントでもNPCの方であっても、会って確かめたい。
2:ありすちゃん……不思議な子です。
[備考]
ありすをマスターであると認識していません。
【バーサーカー(
ヘンリー・ジキル&ハイド)@Fate/Prototype 蒼銀のフラグメンツ 】
[状態] 健康、ジキル体
[装備] なし
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本:正義の味方として在る
1:文香を守り、日常へと戻す。
2:渋谷凛(サーヴァント)達が儀式を綻ばせる可能性に期待。ただし接触は慎重に。
[備考]
ありすをマスターであると認識していません(サーヴァント不在のため)。
討伐令をかけられた組を「聖杯戦争の異分子」と推察しています。
♥♡ ♥♡ ♥♡ ♥♡ ♥♡ ♥♡
くるくるまわり、くるくるおどる。
つちくれのめいろをかけめぐる。
「ありす(あたし)以外のありす、もう一人のありす」
朝の通路には誰もいない。
誰も少女の姿を見られはしない。
昭和の世界を迷い込んだ場違いな幼子は、あちらこちらへと気ままに飛び移る。
自分を見捨てた世界の法則など知らぬとばかりに。電脳魔は遊び場を渡り歩く。
「あいたいな、あえるかな」
白い衣装を追う、黒い獣。
不浄と汚濁の塊。吐息すらも腐っている魔王の犬。
飼い犬は主人である少女に従いまだ誰にも牙を向けていない。
向けてないだけで、けれど犬は飢えている。目に入る全てを口にしたくてたまらない。
餌を食べる許しが少女から出たなら、有象無象の区別なく食い散らかす本能だけが躍動している。
「あえたらどうしよう。鏡のお姉ちゃんもさそって、お茶会にしちゃおうかな。
アイドルのこともきいて、一緒に遊んで、それでそれで……」
これらの魔も所詮は爪牙の一欠片。
マスターの自覚もなく外を出歩く虚ろな少女の御守りに過ぎない。
真の主たる六天の王は未だ、地の底より現出した己の居城に座している。
一切万象を己の郷へ落とす王は卑賤に戦功を求めて動くことはない。ただ、釜が開く時を待つのみ。
「あえるのがたのしみね、ありす」
地獄を引き連れる少女は、その時を待っていた。
【一日目・午前(10:00)/???】
【ありす@Fate/EXTRA】
[令呪] 残り三画
[状態] 健康
[装備] 魔獣数匹
[道具] 『不思議の国のアリス』
[所持金] それなり(血や灰で汚れている)
[思考・状況]
基本:
1:ありす(あたし)以外のありす(
橘ありす)を探して、いっしょに遊ぶ。
2:鏡のお姉ちゃん(文香)ともっと遊びたい。
3;アイドルってすてき
[備考]
文香をマスターとは認識していません。
予選で敗北したマスターからいくつか所持品をもらっています。
安土城で変異した獣を散歩に連れてます。ありすの言うことはいちおう聞いてくれます。
【一日目・午前(10:00)/???(安土城)】
【セイバー(
織田信長)@戦国BASARA】
[状態] 健康
[装備] 大剣、銃
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本:総てを塵に
1:座して待つ。
[備考]
最終更新:2016年11月05日 19:24