一日の花 - 崩壊学園wiki

人契連本部ビル。
雨が降り始めた。
いい雨だ。
鉄師一夏はこの蒸し暑さにうんざりしていた。しかし今の彼女はもう、それに耐え続けるつもりはなかった。この空も同様にうんざりし、彼女のために洗礼しようとしてくれているのだろう。
ここには何度来ただろうか。
ひとつはっきりしているのは、今の自分の気分は過去にここに来た時とは違うということだ。
ビルの前に立ち、高くそびえたつビルを眺めながら彼女はある人に電話を掛けた。

母親
もしもし、一夏。あなた……。

母が言葉を言い切る前に、鉄師一夏は話し始めていた。
自分の心の奥底にずっとたまっていたものを。
ずっと言いたいと思っていた事を。

鉄師一夏
…… お母さん。私、人契連本部の仕事、辞めるつもり。今後また演劇を学ぶかもしれないし、アニメの制作会社にいってシャボン玉のような幻想的な物語を作るかもしれない。
それと私、結婚したくないんだ—— 一生結婚するつもりはないの。だからこれからはもうお見合いの相手とか探さなくていいから。

そしてすぐに電話を切り、電源を切った。
その後、水たまりを踏みながら、鉄師一夏は清々しい風と共に人契連のビルへと足早に入って行った。
やや残念な事に、慕さんの姿は受付で見当たらなかった。

鉄師一夏
(少し話がしたかったけど、ここを離れた後に電話すればいいわね）

そんなことを考えていると、これまでもよく来た階へと辿り着いた。オフィスのドアを開けると、あの人物の顔が目に飛び込んできた。

上司
……お前……。

表情が驚きから一瞬で怒りへと変わった。

上司
鉄師一夏.....お前何をしに来た！言ったはずだ。本部にはもうお前がいる場所など無いとな！

鉄師一夏
そんな事わかってるわ。

こいつの前で笑顔を見せるのは初めてかもしれない。
鉄師一夏は筒状に丸めた書類を握りしめ、思いっきり上司の顔を殴りつけた。
そして反撃の隙も与えずに、上司の足を思いっきり蹴りつけた。

鉄師一夏
あんたみたいなアホ......ずっと前からこうしてやりたいと思ってたのよ！
私、今日でもう辞めるので！

背後から止めようのない叫び声が響いた。鉄師一夏は愉快そうにドアを開けオフィスを後にした。
……。
冷たい水をジャブジャブと何度か顔にかけると、ようやく蒸し暑さが和らいだような気がした。
鏡に映る顔からは、今も抑えられない笑いが見て取れる。

鉄師一夏
私が心から笑った時の笑顔って、こういう感じだったのね.....。

鉄師一夏はウインクした。

鉄師一夏
…… 今後はもっとたくさん笑うようにしよう。

彼女は微笑んだ。
うれしそうに微笑んだ。
しばらくしてお手洗いを後にした。

鉄師一夏
明日は何をしようかな?

タタッ……。

鉄師一夏
まずは慕さんと一緒に遊ぼうかな。

タタッ……タタッ………。

鉄師一夏
そして今後どうすればいいか彼女に相談してみよう。九霄さんにも聞いてみようかな。
九霄さんには色々と助けてもらったし.....彼女のために何かできるといいんだけどな。

トントントン！

鉄師一夏
……………？

あれっ、私って今、精神的にすごく楽になったはずだよね？
仕事も辞めたし、病院で十分休んだし。
でもどうして、まだあの幻聴が聞こえるの？
……… ...もしかして、これは幻聴じゃない？
じゃあこれは......一体誰がノックしているの？

鉄師一夏
……決めた。

どうせ人契連での最後の日だし、この音の正体がなんなのか見に行かないのも心残りよね。
そう考え、足音を追ってみることにした。あの晩もだが、誰が自分を驚かそうとしているのか確かめるために。
行こう。
……。
何もないけど......?
——

鉄師一夏
ここかな？
……？

誰もいなかった。
だが足音は今も続いていた。
どこから聞こえてきているのだろう？聞いた感じ、靴を履いていない足音のようだけど、人契連で一体どこの誰が靴も履かないで歩いているのかしら？
それにこの音の感じからして、私がついてくるのを待っているような。

鉄師一夏
すいません——誰ですか？何かお手伝いが必要ですか？

……………。

鉄師一夏
音が消えた？

タタッ……タタッ……。

鉄師一夏
まただ。だけど今回は壁の向こう側から聞こえてきたような……。

鉄師一夏は壁に近づき耳を澄ませた。
この人、確かに靴を履かずに歩いてるようだわ......それに壁に沿って移動して......上へと向かった？
音がする方向が変わり今度は鉄師一夏の.....真上から聞こえてきた。

鉄師一夏
……… これは......壁の中の鉄筋が壊れる音？

そうでなければ説明がつかないわよね？人契連のビルの外壁に貼りつくようにして移動している人がいるとでもいうの？でも防音効果の高い屋内に音を伝えることができて、壁の中に溶け込み、上にも行くことができるだなんてどういう事？

トントントン！

鉄師一夏
！？

トントントントン！

その誰かに招かれているかのようだった。

鉄師一夏
………………ゴクリ……。

唾を飲みこんだ。
鉄師一夏は……。
部屋を出て。
階段を登った。
そして音がする部屋へと行き着いた。
扉が半開きになっていて、まるで中へと導かれているかのようだ。
ギ……イ……。
部屋の中から誰かが椅子に座る音が聞こえた。
一度深呼吸し、鉄師一夏は部屋の中へと入った。
………………………。
階級によるアクセス制限の設定のない部屋に、机、椅子、それにパソコンが一台置かれている。
椅子には誰も座っておらず何も置いてなかった。そしてパソコンの画面の光であたりが少し照らされていた。

鉄師一夏
これって......私に椅子に座れ......ということ？

怖かった。鉄師一夏のの心は、なんとも言えない恐怖心で満たされていた。
しかしそれはこの不気味な出来事に対する恐怖ではなく、不思議な直感によるものだった。
鉄師一夏の直感が、このパソコンの中に——
見てはならないもの...........しかし彼女がいずれ目にする事になるものがあると告げていたのだ。
鉄師一夏は椅子に座った。
………。
………………。
……………………………………………………………………………「月隠計画？」
突然、警報音が本部ビル全体に鳴り響いた。

鉄師一夏
！？

現実になってしまった。恐れていたことが現実のものとなってしまった。
鉄師一夏はすぐに立ち上がり全速力でエレベーターへと向かい、乗り込むと下の階のボタンを押した。
鉄師一夏はあれを見るべきではなかった。
しかし彼女には見るほかなかった。彼女は力になりたかったのだから。ここは人契連、人類契約連盟のビル。ここにある秘密は世界と密技に関わっている。
それにあの英雄とも。

鉄師一夏
ああ......なるほど......そういう事だったのね——九霄さんがニューヨークに来たのも単なる旅行ではなかったんだ。
という事は......いけない。彼女に知らせないと。
......九霄さんにこの事を伝えないと......！

警報が鳴る中、エレベーターはいつも通りの速度で下へと向かっていった。
エレベーター内でスマホの画面をつけてみたが、圏外になっていた。
100、99、98......。
数字の変化と、心臓がら打つ速度とが不思議と一致していた。
この鼓動のように、数字も早く変わって.....止まっちゃだめ、止まらないで、そのまま行って——
エレベーターが止まった。
6階だ。
扉が開いた。
死を予感させる存在が目の前に立っていた。彼らは人契連の制服を着ている。
どうしよう？こんな重要な時になんで対抗する術も何も持っていないのよ?
しかし予想に反して彼らは鉄師一夏の事を一瞬見ると、なんの興味もなさそうに視線を別の所に向け、エレベーターへと乗り込んできたのだった。
彼女は自分がまだ人契連本部のバッジをつけていたことを思い出した。

鉄師一夏
(そういう事ね……。)
(……大丈夫、気付かれてないわ。)
あの……下ですか？

人契連の兵士
当たり前だろう。

バカなことを聞いてしまった。どうしていらぬ会話をして、彼らの注意を引くような事をしてしまったのだろう。
でも、幸いまだ疑いの目で見られてはいないようね.......。
早く下の階に着いて。早く.....早く.....早く......。
5階…………
が過ぎた。
4階…………
が過ぎた。
3階…………
チン。
止まった。
扉が開いた。

慕寒音
あら、一夏さん！

鉄師一夏
慕さん……？

慕寒音
プリンターの紙を取りに来たのよ。そういえばさっき警報が鳴ってたわね？

慕寒音は印刷室の方を指さした。

鉄師一夏
そうだったのね……。
私、この階だからまたね。

慕寒音
ああ……。

鉄師一夏はほっと息を吐いた。
こんなロシアンルーレットのような感覚、もう耐えられない。階段で降りよう。
恐怖がまるで毒のように全身に回っていくのを感じたが、鉄師一夏は体に残った最後の冷静さをなんとか絞り出した。震えちゃいけない。走ってもいけない。私が怪しいと.....勘づかれちゃいけない。
...だから、後ろを振り返っちゃダメ。
よし、ここまで来れた。
階段のそばまでやってきた。
これでようやく安心できる。

鉄師一夏
ビルから出られさえすれば……。

足を前へと踏み出した。
階段の手すりに触れると、ヒヤリとする冷たさを感じた。
そして鉄師一夏は、とある重大な事に気が付いた。

鉄師一夏
いけない、早く走って逃げないと——

あっ。
鉄師一夏の視界が突如、下にガクリと落ち、その後また上に戻った。　
彼女はすぐに足を銃で撃たれた事を悟った。
打たれる直前、彼女は自分がミスを犯していたことに、バカとしか言いようのないミスを犯していたことに気が付いていた。
エレベータには元々彼女ひとりしか乗っておらず、3階に用事があると言って降りたものの、3階のボタンを押していなかったのだ。
大理石の床が顔に迫ってきた。
そして彼女は階段の上から転がり落ちた。
固い床に激しくぶつかり、床の冷たさと痛みを感じた。
それでも止まることなく転がり落ちていく。
鉄師一夏の体にはもはや支えたりバランスを取るだけの力が残っておらず、彼女は階段を転げ落ちて行った。
階段の尖った部分にぶつかり、冷たさを感じ息が止まりそうになった。
しかしそれでも終わってはいなかった。彼女はそれで終わりにしてしまうつもりはなかった。
蓬莱寺九霄の所に行かなければ。彼女にすべてを伝えないといけない。鉄師一夏にはそのことがわかっていた......鉄師一夏には自分のその気持ちがわかっていた。
胸が苦しくなり、骨が折れ、割け、冷たさを感じた。
鉄師一夏はようやく転落していく自分を止めることができた。いや、もう落ちる場所がなかったのかもしれない。目の前はもう1階、出口だった。
いつの間にか雨は止み、明るい日差しがあたりを照らしていた。
陽の光がガラスの扉を介して床を金色に照らした。
そこはまるで金色の夢の世界のようだった。
そこに向かって......先を急いだ。

「パンパン、パン。」

何かに目を覆われてしまったのだろうか？
眼がぼやけ力が抜けた。何かが流れていき冷たくなるのを感じた。
鉄師一夏は、自分がずっと何を目指していたのかわかっていた。
力を失い重さを感じ、痛みと冷たさを感じた。
鉄師一夏には、自分がずっと英雄になりたいと思っていたことがわかっていた。
そうである以上......絶対に「あの場所」に行かなければならないのだが......。
最後の一歩が届かなかった。
感覚がマヒし、混沌と暗黒を感じ、冷たさを感じた。
絶対に……。

「パン！」

……。

寒い。
そして最後に……。

鉄師一夏が感じることができるものは冷たさしかなくなってしまったのだった。