――これは、ある世界での、あったかもしれない日のこと。
手元に届いた封筒の、その宛名と送り主を見る。
何度目かも知れない挑戦。その結果が、ここに書かれている。
今回はそこそこ手応えがあった。面接での会話はそこそこウケたし、化粧のノリも良くて外見も褒められた。ダンスやボーカル等、実技の評価は分からないが、それでも悪いものではなかった、と思う。
その結果に、僅かな期待を込めた。
もしかしたら。
今度は。
■■■■■みたいに。
「――――そっか」
そんな期待は、刻まれていたたった数文字か数十文字の言葉で、断ち切られた。
並んでいた文字列を見て、一言だけ、温度の無い言葉が漏れる。
大丈夫。期待されて裏切られるのにも、もう随分と慣れた。そのはずだ。どこに当たってもハズレを引いてきたのだから、今更それが増えたくらいで何になる。
だから、大丈夫。私の希望は、私の夢は――私の、遥か彼方にあるはずの幸せは、まだ。
玄関先から、間延びした声が届いたのは、その時だった。
「――ただいま〜」
「……!お、お姉ちゃん!おかえ――」
まずい、という言葉が頭を過る。
この通知を、見せてはいけない。いや、そもそも姉には、オーディションを受けたことすら伝えていない。
一度無断で申し込んで、仮にも関係者だからとその難しさを説かれ、反対を表明されてからは、一人でこっそりと申し込むようになっていたから。
封筒を自室に隠し、握りしめていた通知はポケットに突っ込んで、急いで玄関へ向かう。
「ああ、にちか。まだ起きてたの〜?」
幸い、座り込んで靴を脱いでいた姉は、まだ玄関先で留まっていた。
ポケットの中に上手く隠れてくれたのか、はたまた視線の関係か、詰め込んだ書類には全く気付いていないようで、内心で小さく息を吐く。
そんなにちかの内心を知らぬままに、履いていた七草家の中では特に豪奢な靴を揃えて靴箱にしまったはづきは、立ち上がりながら諭すように小さく微笑んで。
「駄目よ〜、ちゃんと、寝ないと……ふぁ」
――そうしてすぐに、足取りが覚束なくなった。
「お、お姉ちゃん!?」
「ごめんにちか――ちょっと――ちょっとだけ――」
そう言いながらしな垂れかかってくる姉を、すんでのところで抱き止める。
昔から、そういう癖があった。眠くなると何処でも寝れる癖。まだ小さかった頃は、なんでそんなところで寝れるのか、寝るならちゃんと蒲団で寝ろ、と、下の妹なりに怒ったことを覚えている。
けれど、今はそんな癖という言葉だけで収まらないのだということを、知っていた。
自分や、母親や、祖父母を守る為に身一つで家を回す苦労。貯金や稼ぎとにらめっこをしながら、日々を繋いでいく。
その為に、姉が毎日のように、その命を削っていることを。
「お姉ちゃん」
――知っていて、尚、愕然とした。
軽かった。
スーツや鞄の重さ。体格差だって少しはある。だというのに、抱えてベッドまで連れて行くのが簡単のようにすら思える軽さ。
よく見ればその頬は痩せこけて、顔色だって化粧で誤魔化しているだけだ。睡眠不足にならないようこうして突発的に眠っているのでクマこそないが、今受け止めている彼女の体の細さが根本的な問題を物語っている。
そして、その肩越しに、自分の顔が見えた。
――ルックスは、まあ、悪くないね。健康的で、活発そうじゃないか。
不意に。
その言葉が、フラッシュバックした。
褒められた筈の言葉。嬉しかった筈の手応え。
それが、己の夢ごと、現実を穿ち抜いた瞬間に。
にちかは、姉を抱きかかえたまま、静かに玄関前に頽れていた。
「――何が」
もしも、世界に分岐点というものがあるのなら。
ほんの小さな規模であっても、その選択によって、確かに変わるものがあるような、そんな選択を分水嶺だとするなら。
「――何が、『なみちゃんみたいに』だ」
七草にちかにとってのそれは、きっと、この瞬間だった。
「――何が、『昔のあの頃みたいに』だ」
■
283プロダクションの
プロデューサー、という立ち位置を、自分がどのように思っていたのか。
最初は、憧れの仕事だった。ハードボイルドを気取りつつもその裏にある甘さを隠せていない尊敬できる上司や、マイペースでどこでも眠ってしまうけれど仕事はそつなくこなす事務員に囲まれて、夢を見たいと願った少女たちと二人三脚で走り出した。
それはそのうち日常に変わって、次第に見えなかった景色も見えるようになった。挑戦に伴う現実と理想の違い。描いてきた過去と未来への祈り。時に苦しむ少女達と共に悩み、時にその背中を力強く押して、時に寄り添いながら静かに見守って。
特別でありながら平凡である少女達と、一心不乱に、あの空の彼方へと届くようにと飛び続け。
そして、最後にはそれらすべてを投げ捨てた。
憧憬も夢想も親愛も想い出も、何一つを捨てて、ただ一人の少女の幸福の為に、輝ける空からも背を向けた。
そうであるならば、今世界が突き付けてきたこの局面は、間違いなくその報いの一つなのだろう。
間違いようもなく、「283プロダクションのプロデューサー」として、立ち向かわなければならない問題。
一枚のタオル。283プロダクションの文字が織られ込んだ、ライブの必須品。そしてそれに包まれるように届いた、プロダクションの連絡先だけが入っているスマートフォン。
事ここに至って、世界はたった一つの選択を突き付けてくる。
逃げるな。見ないふりをするな。自分が今存在している現実を、目を逸らさないで直視しろ。そうでなければ、お前の願いに先は無いと。
どうあれ、この会場においても彼は逃げかけたのだ。
「283プロダクションに自分以外のマスターがいる」可能性。そしてあるいは、その為に命を落としたのかもしれない白瀬咲耶の死。
投げ捨てた筈の物が、決して置き去りにされることなく、彼の首元に手を伸ばしているような、そんな錯覚。
『――だから精一杯の声で 最高の笑顔で――』
そのスマートフォンが聞き慣れたメロディーと共に誰かからの着信を伝えた時、彼はびくりと震え――その上で、見ないふりをしようとした。
どうあれ、自分にこうして矛先を向けている時点で、自分についてはある程度理解されているのだろう。
聖杯戦争の関係者であること。283プロから身を隠していること。もしかしたら、既に予選期間で数組を脱落させていることまで。
そこまで露見している上で、それでも尚こんな手段を取ったのであれば、単純な殺し合いについての話ではないはずだ。
「聖杯を奪い合う相手」としてではなく、「283プロダクションのプロデューサー」としてこちらに接触している事実が、それを物語っている。
自分は一度は捨てた身だと、否定してもよいだろう。しかし、そうなれば今度はもっと直接的なアプローチになるかもしれない。それこそ、殺し合いを必至とするような。
それでもいい、どうせ殺すのであれば受けて立つ――と、本来ならば言い切るべきだ。
だから、この電話に出る必要はない。
そんな理性の言葉に、しかし反して右手は電話へと伸びていた。
殺すのならば受けて立つ。なるほど、確かにそうでなければならない。聖杯を求めるのであれば、いずれはそうなるのだから。
しかしそう言い切れないことを、彼は知ってしまっていた。
白瀬咲耶の死の報に、躊躇してしまったから。
後戻りはできないと分かっていながら、彼が日々を共にした「アイドル」を殺すことを是とできるか、迷ってしまったから。
その逡巡が、その躊躇いが。
彼に、電話を取らせる判断をした。
「……もしもし」
そして。
電話から流れ出た音声が鼓膜を揺らした瞬間に、彼の体は雷に打たれたかのように固まった。
『私を落とした時と比べたら、随分と元気ないじゃないですか』
その電話の向こうから聞こえてくる、声。
彼を脅す第三者でも、彼の身を案ずるアイドルでもなく。
「――――――――」
幸せにしたいと願って。
その為にすべてを投げ出したはずの。
一人の、少女の声。
『そっちのあなたとは違うかもしれませんけど、言わせてもらいますね。
お久しぶりです。七草にちかです』
呼吸が止まる。
動悸だけが早くなって、そのくせ手足の末端が痺れるように冷えていく。
混乱する頭が酸素を食い荒らして、上手く考えることもできない。
『言いたいことは色々ありますけど、今は、それより早くお願いしたいことがあります』
そんな自分の動揺を知る由もなく、彼女は
夢で見たような、詰るような声ではなく。
レッスン室で聞いたような、悲痛に叫ぶような声でもなく。
『お姉ちゃんを、助けてください』
ただ、凡百の少女が、必死に縋りつくような声で。
迷うことなく、そう言った。
■
「……もしもーし。もしもーし!聞いてますか!」
スマートフォンに向かって叫ぶ。
折角だから強気でいこう、と思い切って最初の言葉を言ってみたが、まさかここまで相手が黙り込んでしまうとは思わなかった。
そりゃあノイローゼだか休職だかしてたらしくてあまり声が出ないのかもしれないが、少なくとも今の受話器の向こうからはそういったノイズすらない。
『……あぁ……ごめん。聞いてる、よ』
――いや、めちゃくちゃ聞いてない人じゃないですか!それで騙せると思ってるんですか?
口元まで出かかった言葉をなんとか飲み込む。
やがて出てきた声も細々として捻り出したそれで、本当に聞いてるのかどうかいまいち確証が取れないそれだった。
多少は心配もするが、それはそれとして今は時間がない。
「……わかりました。とりあえず、細かい説明は後回しで……今、そっちの283の事務所がめっちゃめちゃピンチで、やばい人が向かってるかもしれないんです!」
マスターとかサーヴァントとか、そういう言葉は一応伏せる。相手がほぼそうであることは分かっているが、具体的なクラスだとかそういう情報がゼロである時点で細かく伝えるメリットも特にない。
「だから、お姉ちゃんに伝えて――プロデューサーさんが言えば、皆はきっと逃げる筈だからって」
『……なんで、俺にそれを頼むんだ』
――何を言ってるんだ、このP野郎は。
怒るのを通り越して呆れかえる。確かにあの紫髪のマスターから「元から自分がいなくてもなんとかなると思っているっぽい」だの「辞める前はずっと元気がなかった」という情報は聞いていたが、それにしたって、である。
「お姉ちゃんとか、その中のアイドルさんとか、そんな皆を動かせるのは、プロデューサーさんしかいない
……お姉ちゃんからの又聞きですけど、それは、私もその通りだと思います」
少なくとも聞いて、向こうの世界で接した限りでは、本当にその通りだった。
実直で、若さ故の青さや至らなさもありながら、それでもアイドルに対して――アイドルとなっている少女たちに対してはどこまでも誠実であったと。
姉自身、彼のまっすぐな部分に助けられたことがあるらしいことや、葬儀での丁寧な物腰、そしてもう一人の仲間が彼に向ける親愛から、にちかもそれに関しては確信に至っていた。
『……はづきさんや、事務所にいるアイドルが、マスターの可能性はあるのか?』
「……私からは言えません、というか、言っちゃ駄目って言われてますけど。少なくとも、お姉ちゃんは
NPCです。聖杯なんて何も知らない、一般人なんです。
あ、じょうほ……ソースは内緒ですよ。企業秘密なので!」
ちょっと言ってみたかったことを、軽口代わりに言ってみる。
事実、それは隠さなければいけない、と、あのアサシンは言っていた。プロデューサーがマスターであり、仲間として動けるとしても、今のところ「誰がマスターか」という点については伏せておくべきだと。
それは、「自分以外に網をかけている人間がプロデューサーにもその手を伸ばしているかもしれない」というのもあるし。
何より、まだ少し――ほんの少しだけ、「283プロダクションに何の連絡も入れないプロデューサー」を疑っているらしい、というのもあった。
『……はづきさんが、そんなに、心配なのか』
けれど。
そういう教わったこととか、言っちゃいけないこととか、そういうことが軽く吹き飛んでしまうくらいには。
次の言葉は、にちかの逆鱗に触れるものだった。
「――心配に決まってるじゃないですか!お姉ちゃんの心配して、何が悪いんですか!?」
だだっぴろいカラオケルームいっぱいを揺るがすように、端末を怒鳴りつける。
電話の向こうが突然の大声に驚いたのを感じてふと冷静になるが、それでもどこか興奮を残したままに、スマートフォンへと語り掛ける。
「……そっちは、分からないけど。もう、いないんですよ。お姉ちゃん」
そう言った時、電話の向こうで、息を吞む音が聞こえた。
向こうでも過労で倒れたらしい、というのは聞いた。生きていただけで丸儲けだし、その分「お姉ちゃんをほっぽってどこに行ったんだ」と、向こうの自分に思わない訳でもない。
けれど、そんなことよりも、今は。
「お姉ちゃんがいてくれれば、それでいい……なんてことは言いませんけど。でも、喪わないで、また一緒にいれたら」
……今は、それを取り戻せたら。
もしも泡沫の夢で、そう間もなく消える定めで、私ごと喪われる可能性だってあるんだとしても。
「多分、それだけで、私がここにきて良かったって――こんな私でも、ちょっとは幸せになれたって、思えるから」
それだけで、きっと私は幸福だから。
零すようなその言葉に、電話の向こうの声が、ほんの少しだけぶれた気がした。
『……にちか。いや、初対面の君をそう呼ぶのは、失礼かもしれないけど。一つだけ、聞かせてほしい』
少しの、静寂を挟んで。
何かを探るように慎重に。
何かを確かめるように決然と。
『――君は』
『八雲なみについて、どう思ってる?』
そんな問いかけが、返ってきた。
「……なんでここで、なみちゃんが出てくるんですか?」
『いや……ちょっとだけ、聞きたくなって』
――なんですかそれ。私一回そっちのオーディションで落ちてるんですよ?嫌がらせじゃないですか?
この電話が初対面で泣く、元から同じ世界の知り合いならば、流石にそう言っていただろうけど、やはり飲み込む。
ついでに、なんでこのタイミングでこんな話題を出すのか、という謎についても、一旦横に置いておく。
「……でも、そうだなあ」
とはいえ。
八雲なみ――なみちゃんについて改めて話すことなんて、何があるだろう。
好きであること自体は、きっと、向こうの私から聞いたのだろう。だとしたら、どう思ってるかなんて、既に知っているはずなのに。
「……憧れ、です。すごくて、聞いてるだけで鳥肌が立って」
そう、それは間違いない。
だってすべてのきっかけは、間違いなく彼女だったから。
幼い頃に聞いた曲。生まれる前に既に姿を消していた彼女の、何百回と耳にした唄声。
家族の前で歌って踊って、いつかにちかはアイドルだねだなんて言われた想い出。
ああ。
けれど。
「でも、私は絶対になみちゃんにはなれないって――なみちゃんの真似事なんて、私は逆立ちしたってなれないって、そう思います」
■
――七草にちかの話をしよう。
平凡な少女の話をしよう。
凡百で退屈な人間の話をしよう。
ただの、ありふれた人間の話をしよう。
とは言っても、そう長い話ではない。
起点がどこにあるかは、大した問題ではないのだから。
七草はづきが、本来よりも少しだけ、体が弱い、或いは弱くなっただとか。
七草にちかが、本来よりも少しだけ、アイドルになるための努力に利口だっただとか。
その結果として、七草にちかが、アイドルとしての自分と、七草家の一員の自分を天秤にかけてしまう機会を得ただとか。
はじまりは、その程度の違いしかない。
そのすべてが原因だったともいえるし、あるいはこれらすべてに関係なくいずれにちかが辿り着いていたのかもしれないともいえる。
重要であることは、たった一つの事実。
「君は」
――全部トップアイドルを目指しうるものに取り替えたとして、
――私は、元の私と違うという違和感に耐えられる自信がない。
彼女が、すべてを諦めた段階で。
『靴に合わせる』ことを、諦めていたという、事実。
彼女が愛していた八雲なみの、そのインタビューで心に突き刺さったはずの一文よりも、彼女にとって大切なものができていたという、事実だけだ。
「アイドルは、しないのか?」
だから。
「この」七草にちかが、平凡だったとするならば。
それは、ただ一つ。
『できませんよ、私には』
――七草にちかは、諦めた。
どうしようもないくらいに諦めていた。
自分は平凡であることを、受け入れていた。
八雲なみのコピーをして、齧りついて、それでもいいからと、そう思うような渇望が、擦り切れていた。
――七草にちかが何者でもないことを受け入れた上で、立ち向かうような想いが。
何てことはない。
ある意味で、彼女はとうに救われている。
偶像による自己肯定は叶わず、そうでなくても生きていける。
七草はづきの死も、かけがえのない母の死も、彼女が偶像たりえぬことと相関関係がない。
彼女は最早ただ純粋に不幸であるだけで、今更偶像と成ったところでそれを覆す未来は訪れようもない。
元居た世界において、『君はアイドルを目指さない方が、有意義な人生を送ることができる』と言われたことが、真であるように。
彼女はただ、何の衒いもない七草にちかであることを、どうしようもなく受け入れて。
そうして生きていくことを、是とできる少女であった。
――叶えるべき憧憬はない。
――信じるべき未来はない。
――広げるべき双翼はない。
最初の奇跡は、叶う前から喪われていた。
この『七草にちか』は、どうしようもなく凡人だ。
偶像とは関係のないところで、決して満ち足りはしないけれど、そうでない幸福も知っている。
知っているからこそ喪失に泣いて、そして泡沫であってもその幸せを再び感じたいと願う。
普通で、見よう見まねで、平凡で、そして、本当にただそれだけの、どこにでもいる少女だ。
「あ、でも。一つだけ言いたいことがあります」
「『私』のこと、プロデュースしてたって聞きました」
そして、それ故に七草にちかは思う。
「もし『私』に会ったら、伝えてください。あのステップだけは、やめろって」
七草にちかの敗因は、八雲なみの模倣であり、彼女自身を信じなかったことだと。
だって彼女は、もう既に、自分を見ているから。
どれだけ足りなくて、どれだけ凡人でも、それでも私は私であるからと。
だから、誰かの模倣である七草にちかを、赦すことはできない。
どれ程みっともなかろうが、それでも七草にちかには、七草にちかしかなかったのに、と。
「でも、それだけは聞けないな」
けれど。
少なくとも、プロデューサーという男にとって、それは違った。
「――君はもう、君を、見つけられているみたいだけど」
見よう見まねで、自己流で、素人っぽくて、平凡で。
それでも、アイドルが好きで、諦めたくなくて。
だから、好きなアイドルの模倣をして、自分を殺してでも、アイドルになりたいと切望した。
そんな、七草にちかの、どうしようもなく自分を信じていない様を、見て。
その不格好な拘泥を。
その不器用な執着を。
そのどうしようもない哀切を、幸福に変えてあげたいと思った。
そんな、個人的な、たった一つの理由の為に、彼は七草にちかをプロデュースしようと思った。
それが、アイドル・七草にちかと、プロデューサーの原初の出会い。
「あの子はきっと、まだその途中なんだ」
だから、この七草にちかは、プロデューサーという男の琴線に触れることはない。
だって、彼女はどうしようもないくらいに、別の幸福を抱いているから。
――あの、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いた、にちかではないから。
「……いや、あの。これは親切心で言うんですけど、そういうふわっとした物言い、そっちの私でも絶対無理って言いますよ?」
――そして、それでも。
その言葉が。
他人行儀だったこの七草にちかが言い放ったその歯に衣着せぬ物言いが、当然のようににちかと重なるのが、なんだかおかしくて。
「――ははっ」
『えっ、私、なんか変なこと言いました?』
「いや、そうじゃなくて――そういうところは、にちかなんだなって思ってさ」
ああ、久しぶりに笑ったな、と。
彼女ではない彼女の声に、少しだけ救われながら、プロデューサーだった男は思った。
「はづきさんについては、俺から連絡しておくよ」
そう告げた時、電話の向こう側の声が、ぱあっと明るくなるのが分かった。
『本当ですか!』
「ああ。なんだったら、そっちの番号に掛け直すように言っておくよ」
電話のブッキングでも起こらない限り、十五分以内に折り返す、と言付けておくと伝えると、向こうも納得してくれたようだった。
その後も、ほんの少しだけ調整――はづきや事務所のアイドルをどこに向かわせるべきだとか、後々どういう風に誤魔化すかとか――をしていたが、そこはそれ、にちか側の細かく考えていたらしい誰かが丁寧にプランニングを済ませていたようで、打ち合わせはすぐに終わった。
「……それじゃ、連絡してくるから一旦切る。――この後、どうするかは分からないけど、また連絡する時はこっちから連絡するよ」
『……まあ、それは、はい。とりあえず、お姉ちゃんによろしくお願いします!』
そう言い残した彼女の声を、耳に焼き付ける。
姉を救われて、ささやかながら、それでも幸福そうな七草にちかの声を、最後の一瞬まで、聞き届けて。
「……さようなら」
『……?』
最後の、その言葉。
ゆっくりと、惜しむように放たれた言葉。
それに疑問を感じるような吐息を最後に、電話は切れた。
なんでもないように。
なんでもなかったかのように。
――そこに、縁が、なかったかのように。
■
嘘は、吐けなかった。
まだ、迷いはあるから。
本当に、自分がアイドルの皆を殺せるのか。どうしようもなく大切で、忘れようもなく輝いている少女達を血に染めてまで、自分が勝ち残ることを選べないから。
だから、この連絡先を悪用して、にちかやそれに類するのであろう誰かの情報を聞き出す為に根掘り葉掘り使う――悪用することは、憚られた。
だから、それは後回し。
いいや、向き合い続けなければいけない問題だから、ずっと後ろ向きではいられないけれど。
でも、その迷いに答えを出す前に、絶対にやらなくてはならないことができたから。
「にちかに、会う」
――もう一人の、『七草にちか』。
NPCで置換されていないであろう、wingに負けたという、もう一人の彼女。
彼女が現実としてここにいるのであれば、そして、こうして会場にいるのであれば――ようやく、あの時失ったその影に追いつけるのではないか。
無論、あの七草にちかが何等かのバグとして混ざり、この世界における彼女が上書きされなかったという可能性も存在する。
そうであるとしても――彼女が、「自分が幸せにするべき七草にちか」である可能性が存在する以上、探さない訳にはいかない。
ならば、自分がするべきは、まず彼女を探すことだ。
この会場の中で、聖杯を求めているかもしれない彼女と、再会することだ。
その上で、もし、彼女が
その彼女が、自分が何としても幸福にしたいと願った、七草にちかであるのなら。
(……ランサー。君には、申し訳ないけれど)
その時は、迷う必要はない。
聖杯は、彼女に捧ぐ。彼女が、彼女の笑顔の為に祈れるように。
罪は自分が持っていけるだけ持って行こう。彼女に責任を負わせることのないよう。彼女の幸せの中で、必要のない気負いをしなくて済むように。
そして。
それと同時に、もう一つ。
「……君も、できることなら、殺したくはない。勝手に救われておいて、虫がいいって、思って貰ってもいい」
事務所の連絡先を開きながら、思う。
今から行うこれは、確かにNPCの七草はづきを逃がす為の行動だ。
そうして、あの子にとって代わりのない、家族という名の幸せを与える為の行動だ。
「けれど、少なくとも、君は違う」
けれど、これきりだ。
あの『彼女』の為に行う行動は、これで最後。
あの七草にちかが得るべき、ただの平穏な幸せを彼女に与えた時点で、関係は終わる。
アイドルではない彼女と、プロデューサーとしての自分の関係は、それで本当に終わり。
「俺が、幸せにさせたいのは――にちかだから」
――彼女と話して。
七草にちかではない七草にちかと話して、改めて、分かった。
彼女を幸せにしたいというのは、どうしようもなく本心だ。
幸せそうに話していた声を聞いて、彼女に、こうして笑ってほしいと思った。
願いが叶った時の声を聞いて、彼女に、こうして喜んでほしいと思った。
……その為にアイドルを殺せるかどうかは、わからない。まだ迷っている。
けれど、他のアイドルを、まだ迷って殺せないとしても――一人だけ。
彼女を殺すことだけは、きっと自分は躊躇しないだろう。
あの時笑えなかった七草にちかの為に、そうでなくても笑える七草にちかを殺そう。
救えなかった少女の為に、既に救われている少女を殺そう。
どれだけ迷い、悩み、立ち止まることがあっても
その天秤は、絶対に違えず、偏らせなければいけない。
「君とにちかだったら、俺は、にちかを選ぶよ」
それだけは。
あの哀しい笑顔を浮かべた少女に報いる為の、絶対の誓い。
とうに戻れなくなった彼にとって、破ることのあってはならない制約。
たったそれだけの決意を胸に、彼はもう一度立ち上がる。
「――もしもし、はづきさんですか。ご無沙汰しています。突然で申し訳ないんですけど――」
【品川区・プロデューサーの自宅/1日目・午後】
【プロデューサー@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:精神疲労(大)、
七草にちか(弓)への……
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:携帯電話(283プロダクションおよび七草はづきの番号、アドレスを登録済み)、
283プロのタオル@アイドルマスターシャイニーカラーズ
[所持金]:そこそこ
[思考・状況]基本方針:聖杯を獲る。
0:にちか(騎)に会う。会って、自分にとってのにちかかどうか確かめる。
1:聖杯を獲ってにちかの幸せを願う。しかし…
2:咲耶……
3:『彼女』に対しては、躊躇はしない。
■
電話が切れると同時に、カラオケボックスのソファに倒れ込む。
ふかふかのソファの心地にも構わぬまま、にちかは思い切り声を上げた。
「あーーーーーーーーーーーっ、もう!何あの人!なんであんなわけわかんないことばっか言うんですかね!知らないけど!」
最後まで、よくわからない人だった。
というより、最後まで『私』を見ていなかった。
向こうが見ていないんだから、私もあの人を理解できる筈もない。
でも何故か、それでいい、と思う。
あの人は良い人なのかもしれない。摩美々さんから思われていたように、本当に優しい人なのだろう。
けれど、それでも多分、この『わたし』にとっては知らない人だ。その優しさの対象に、私は入らなかった。それだけの話。
お姉ちゃんに関してはもう本当に連絡してくれるかどうか分からないけれど、きっとお姉ちゃんは少なからずその対象に入っているだろう。あとはアーチャーさん達のピックアップが間に合うことを祈るばかりだ。
これで、私のやれることはひとまず終わった。
アーチャーとアサシンさん、ついでに隣室で連絡をしてるらしい摩美々さんと一緒に、これからどうするか。
多分、考えるべきことは色々あるはずだ。
「何を」
けれど。
今のわたしにとって、もう一つだけ。
どうしても、知りたいと願うことがあった。
「何をやったの、『わたし』」
他人の、借り物のステップ。
酷く不自然で不格好で、最悪のノイズを持っていて。
そのせいでwingという大舞台の優勝を逃したらしい、最悪の私。
それでも尚、あの人の優しさの対象になった、私の持っていない何かを持っているのであろう、私。
あの私のことが、気になってしょうがない。
今の私の在り方を否定するつもりはない。
私は私だ。くだらない凡人の私だ。身内のことしか頭にない、それだけできっと幸せになれる、本当に取るに足らない凡人の私以外の何物でもない。
けれど、それでも。
そうでない私のことが、知りたかった。
それでもきっとと願えるような、その私の姿を見たら。
私の中の夢と、希望と、――私が掴めなかった幸せの正体を、掴めるのかもしれない。
そうすれば、このどうしようもない憧れに、最後の止めを刺せる気がするから。
地に足が着いた。最早奇跡は訪れることがない。
少女は、幸福な凡人は、終わり切った夢と輝きに決着を付ける為の戦いを始める。
【渋谷区・渋谷駅近くのカラオケボックス/一日目・午後】
【七草にちか(弓)@アイドルマスター シャイニーカラーズ】
[状態]:健康、満腹、苛立ち(小)?
[令呪]:残り三画(顔の下半分)
[装備]:不織布マスク
[道具]:予備のマスク
[所持金]:数万円(生活保護を受給)
[思考・状況]基本方針:生き残る。界聖杯はいらない。
1:WING準決勝までを闘った"七草にちか"に会いに行く。あれは、どうして、そんなにも。
2:お姉ちゃんについては、後はもうアーチャーさんたちに任せる。
[備考]
※
七草にちか(騎)のWING準決勝敗退時のオーディションの録画放送を見ました。
時系列順
投下順
最終更新:2021年09月11日 19:57