◆◇◆◇
ひとつ。誰も殺してはならない。
“心”は誰も殺したくないから。
ふたつ。誰も死なせてはならない。
“心”は誰も死なせたくないから。
それは、私“
シュヴィ・ドーラ”の愛したひとが掲げた盟約。
誇りある愚者―――人間として誓った信念。
創られることも、望まれることもなく。
それでも大戦を越えるべく立ち上がった、心の矜持。
私の記憶に焼き付いた世界は、灰燼に満ちていた。
対峙する十六の種族。
絶え間なき戦火。轟音と閃光。
繰り返される破壊。空を覆い尽くす黒影。
戦って、散り。戦って、死に。戦って、消えてゆく。
都市は滅ぼされ、大地は焼き尽くされ、弱者は踏み躙られる。
唯一神の座を巡る戦禍は、星をも蝕む災厄だった。
“彼ら”は、生きることさえも必死だった。
あの世界において、人間はひどく脆弱だった。
肉体は他種族に遠く及ばず、魔術の探知も行使も適わない。
神々に創られず、神々に望まれることなく、か細き命と共に大地へと立った唯一の存在。
それでも彼らには、知恵があった。
苦境や絶望と対峙し、それを克服できる活力があった。
そして。他者を愛し、他者を慈しむ、“心”があった。
私の愛したひと。
リクは、誰よりも人間だった。
私が焦がれたひと。
リクは、あの世界を変えた。
知っている。座の知識というものが、記憶に刻まれている。
私がいなくなって。同胞達が神殺しを成し遂げ。リクは全てを終わらせた。
その後に広がった景色は、どんなものだったのだろう。
結局、それは知る由もない。しかし。
――――ああ、この世界は。
――――こんなにも、空が青いとは。
界聖杯。東京23区。
この世界で、私の“心”は確かに震えていた。
予選期間。マスターに召喚され、最初の朝を迎えたあの日。
私の視覚に映り込んだ世界に、目を奪われた。
澄み切った空。純粋なまでの蒼。
何処までも無垢に、晴れ渡っている。
陽の光を遮るものは、何一つ無く。
天の輝きは、遍く世界を照らしていた。
人々は眩い光の下で、平穏な日々を営んでいる。
戦火なき世界。
人類が繁栄を遂げ、盤石の平和を築いた社会。
あの大戦を経たあと。
私達の世界にも、このような祝福が降り注いだのだろうか。
願わくば、そうあってほしい。
そして。“あのひと”と共に、こんな景色を見つめていたかった。
この空の下。愛を誓うとき。
この世界では、こう唱えるらしい。
――病めるときも。健やかなるときも。
――喜びのときも。悲しみのときも。
――富めるときも。貧しいときも。
――死がふたりを分かつときまで。
――愛を、誓います。
それは、“神”に対する祈り。
この世界における“神”とは。
人を見守り、人を祝福するもの。
人の想いを受け止める、大いなる器。
こうあってほしいと、私は祈った。
この街の“神”は、人を愛しているのだから。人々の営みを、幸福を、見守っているのだから。
こんな世界に生まれていれば。リクと私は、いつまでも添い遂げることが出来たのだろうか。
否、あの戦禍の中でも―――私達は、きっと最期まで一緒だったのだろう。
それでも尚。私は、渇望してしまう。
あの人の温もりを。あの人の愛を。
世界を動かした、あの人の心を。
マスターは、“神”を憎み続ける。
私といっしょで。
誰かを求めて、誰かのために聖杯を求める。
だけど。その為ならば、他者を殺すことも選ぶ。
胸に訪れる感情は、哀しみであり。
そして、心の痛みだった。
誰も殺したくはない。
誰も死なせたくもない。
それでも、マスターを止めることなど出来ない。
大切なひとに逢いたいという想いは、理さえも超える程の祈りだから。
◆◇◆◇
窓の外。果てなく続く街並み。コンクリートの建造物が、幾度となく視線を行き交う。
その背で、何処までも広がる空。
空の蒼さに感傷を覚えるほど、無垢にはなれなかった。
喪失を体験した“あの日”を経てから、世界は何処か色褪せて見えた。
大切ななにかを奪われた瞬間、人間は呪いを背負うのだろう。
こんな宿命を与えた“神”への憎悪を抱えながら、生き続ける。
死を迎えるその日まで―――否、死を迎えてもなお避けられることのない、輪廻のような業。
呪いを解く方法は、“神”を超える奇跡に他ならない。
山手線、上り方面。
新宿から乗車し、新大久保を越えた直後だった。
人々が疎らに存在する昼下がりの車両の中で、
リップは座席に腰掛けていた。
世間とやらは“夏休み”らしく、若い男女が寄り添っていたり。何処かへ遊びに行くらしき親子が仲良く戯れていたり。あるいは、一人でスマートフォンを見つめている者がいたり。
誰も彼も、現実に気付くことはない。吊るされた暢気な広告に囲まれながら、安穏と日々を過ごす。
まるで“神の戯れ”も知らずに翻弄されていた、あの頃のように。
空の美しさに思うところはなくとも、過去の想いだけは断ち切れない。
リップは己を自嘲するように、ひとり“聖杯戦争”について思考する。
滞在していたホテルを去り、次の拠点を目指している最中だった。
新宿は恐らく“奴ら”の息が掛かっている。ある程度距離の離れた場所であるべきだ。
身を隠すならば、都市部の方が都合が良い。果てしない数の群衆に紛れ込むことが出来る上に、火力の都合からサーヴァントによる襲撃を避けられる可能性も高い。
それでも“奴ら”はガキと言えど、油断ならない。何せあのようなヤクを所持しているのだから。
ヘルズ・クーポン。
摂取者に脅威的な身体能力を齎す悪魔的麻薬。恐らくは超人との対峙すら可能とする、一種の決戦兵器(リーサル・ウェポン)。
複数の麻薬、増強剤、漢方薬を奇跡的な配分率で調合することにより精製できる。
アーチャーによる分析を用いて成分は把握できた。素材となるヤクさえ手に入れば、生み出すことはそう難しくはない。
そう、手に入れればだ。
――――これが此処でも“容易く”作れるんだったら、連中はもっと徒党を組んで俺を殺しに来ただろうよ。
奇跡的な配分率が必要となる以上、製造には一欠片の抜けも許されない。
しかし空間もコミュニティーも限られたこの界聖杯においは、“一部の麻薬の調達”という点において致命的な欠陥が生じることが分かった。
近い成分を持つ薬物で代替はできるかもしれないが、効果は大きく落ちるか。あるいは、より粗悪になるか。そのいずれかは避けられない。
仮に“完璧なヤク”が作れたとしても、精々数回分。それが“不治”によって本当に都合よく永続の強化を齎すかも不明だ。
適当な拠点を確保してヤクを複製し、浮浪者か何かを被検体として利用するとしても、過信は禁物だろう。
それに、実験の結果に関わらず。
アーチャーの目は、できるだけ遠ざけたい。
あまり彼女に、見せたくはない。
――――そして、これを持ち込んだ“連中”のことも気になる。
自身を襲った“ガムテープの奴ら”は身の程知らずのガキ共だった。しかし、ただの堅気でもない。
明らかに殺しの術を知っていた。即ち、腐っても玄人(プロ)だ。
ただの半グレや不良の類とは明らかに違う。そもそも、あんなヤクを所持している時点でそこいらの悪ガキ共とは一線を画す。
そんな連中が社会の陰で、表舞台に悟られることなく潜み続ける―――この点においても素人の立ち回りではない。その上で、マスター単体へと“鉄砲玉”を飛ばすほどの人材も備えている。
裏社会でも与太話のような噂を聞いたことがある。非合法の殺人を請け負い、それを生業にしている暗殺者の集団がいると。
それがあの少年達であるという確証はない。しかし事実ならば、連中は愚連隊どころか、反社会的組織の端くれであったとしても不思議ではない。
日本の裏社会で生き残り、優位に立ち回る者達。それは即ちビジネスで成功するか、権力者に取り入るか、あるいはヤクザや半グレの一員になった者達だ。
あの少年達が本当に例の殺し屋集団だとすれば、恐らくはヤクザなどが一枚噛んでいる連中だろう。
そんな集団が身体増強作用を持つ麻薬を保有し、末端にまで行き渡らせている。脅威と言わざるを得ない。
しかし、仮にそうだとするのならば。
マスターを割り当てた瞬間に、そのヤクで強化した尖兵を次々に送り込めばいいだけのこと。
たった二人だけで襲撃する必要などない。十人もいれば、それらが全員ヤクを摂取していたとすれば。幾ら自分とて、無傷では済まされないだろう。
だが、連中は二人だけで襲撃を仕掛けてきた。それもヤクを使い惜しみした状態で。
恐らく、奴らのヤクは“潤沢ではない”。数に制約があり、下手に乱用できない可能性が高い。
そして奴らに一定の組織力や経済力があるとすれば、“それだけの規模やバックを備えた集団であってもヤクの自家生産は難しい”ということになる。
その過程が正しければ、物資が削られる持久戦になればなるほど連中は不利になるだろう。
仮にヤクを生産できる手段があったとしても、奴らが派手に活動すればするほど―――他の主従からは存在を認知されるようになる。
例えヤクを用いたところで、人知を超えたサーヴァントに敵う筈もない。アーチャーの戦闘力を考慮すれば明白だ。
そしてヤクの供給量に関係なく。奴らが自身を襲ったときと同様に、他の主従にも手を出しているのならば。
奴らを撃退し、その存在を把握し、対策を組み始めた主従が現れている可能性は高い。
連中が何処までこちらの情報を把握しているのかは分からない。仮に奴らがこちらの素性さえも掴んでいるとすれば、今すぐ攻勢に出るべきことも選択肢に入るだろう。
しかし予想される敵の規模や行動範囲、それによる他主従のリアクションを考えれば、下手に深追いすれば乱戦に巻き込まれる可能性も高い。
実際にガムテープの集団が他の主従も積極的に攻撃しているとすれば、それだけ敵意を集めることになる。
そうして他主従がガムテープの集団を中心に動き始めれば、盤面は混沌へと落ちるだろう。
“否定者”同士の戦いなれば勝手も分かる。しかし、サーヴァントとは理を否定する者ではない―――理を超越する者達だ。
アーチャーの戦闘力を見れば、それは明白な事実だった。そんな連中が多数存在するこの状況。
いつ戦況が混乱するかも分からない中で、台風の渦中に突っ込むのは得策ではない。
そしてアーチャーの運用においても慎重にならざるを得ない。
アーチャーは強力なサーヴァント。しかし彼女が長けているのは敵の殺害ではない。敵の殲滅だ。
“戦闘では専門の同族に劣る”という解析機でありながら、彼女が備える破壊能力は最早対人向けのレベルではない。
明らかに対軍、対城の領域。火力という点においては“過剰”そのもの。
この市街地でそれを無闇に放てば、確実に甚大な被害をもたらす。それだけの破壊を行えば、間違いなく敵主従から探りを入れられるだろう。
最低でも人目に付かない舞台。そして火力と機動力を可能な限り活かせる広大な空間。
それらが無ければ、アーチャーは十全な実力を発揮できない。この東京都内において、そのような戦場は大いに限られる。
否、どちらにせよ。
お膳立てを用意したとしても。
彼女に全力を出させるのは、難しいのかもしれない。
――――盟約に誓って(アッシェンテ)。
夢で見た、彼女の記憶。
シュヴィの回路に焼き付く、心の矜持。
結局彼女は、誰よりも無垢だ。
願いの為に悪の道を進む自分よりは、余程“人間”だ。
機械の生命でありながら、自分よりも余程無垢な少女。
アーチャーの生前を追憶しながら、自身の手元の荷物へと視線を落とす。
この世界においても、自分は“元医者”となっていた。
界聖杯に招かれた時点では既に職を捨てているようだった。医者だった頃の出来事は実感のない“記憶”として覚えている。
“医療ミス”で自ら医師としての職を捨て、自暴自棄の末に社会の闇へと身を落とし、今では非合法薬物を売買して生計を立てている。
傷とすら見做せない程の、ちっぽけな快楽。それをコソコソと仕入れて、ヤク中どもを相手に売り捌く。
医者だった頃の蓄えはそれなりにある。当時は新宿の“皮下医院”にも何度か顔を出していたらしい。胡散臭い院長のことは遠目に見る程度で、殆ど交流は無かったが。
その頃に比べれば、今の稼ぎはほんのささやかなものだ。
社会の片隅で、ドブネズミのように生き抜いている。
地平の果てに辿り着いても、自分は何かを“失敗”しているらしい。
自身の居場所は、何処まで行っても地の底“アンダー”だ。皮肉なものだと、
リップは自嘲混じりに思った。
“神”はよほど、俺という人間を呪いたいようだ。俺達は、“神”によって幸福を“否定”されている。
だが、そんな宿命も―――聖杯によって断ち切る。
隣に相棒“ラトラ”はいない。それでも、見据えるものは同じだ。
ならばこそ。彼女の願いも、共に背負おう。
『マスター』
そして。
電車に揺られる
リップの脳内に、声が響く。
アーチャーからの念話だった。
『近くに、サーヴァントがいる。恐らくは霊体化している』
その報告を、何も言わずに受け止めた。
願いを背負い、奇跡を成し遂げる。
その為には、他の主従を蹴落とす必要がある。
その為ならば、己は幾らでも悪になる。
リップはそう誓ったのだ。
◆◇◆◇
高速で疾走する、山手線の列車。
その車両の天井――屋根の上。
そこに佇む、一つの影。
全身を覆うローブを身に纏い、赤紫色の髪を靡かせる幼子。
無垢な瞳。幼き顔立ち。まだ十にも満たぬような背丈。
しかし、そのフードから覗く“機械の耳”は、彼女がただの少女とは決定的に異なる存在であることを物語る。
アーチャーのサーヴァント、
シュヴィ・ドーラ。人々が生きる日常のすぐ傍で、彼女は佇む。
街を行き交う大衆が自分に気づいていないことは、超高度の演算能力による迅速な索敵で既に察知している。
彼女の心を震わせた、青い空さえも。
今この瞬間は、過ぎゆく景色に過ぎなかった。
戦場であるこの舞台を見下ろす、開け放たれた証明だった。
霊体化を解いてから、十数秒。否、数秒足らず。
彼女は、直ぐ側に存在する“サーヴァントの気配”を待ち受ける。
ほんの数秒。
それだけの沈黙。
それだけの静寂。
アーチャーは、佇み。
――――そして、もうひとり。
金色の髪を持ち、深淵にも似た黒衣を纏う少女が、同じく屋根の上に姿を現した。
霊体化を解いて現れた金髪の少女を、アーチャーは何も言わずに捉える。
アーチャーの誘いに乗せられたように現れた少女―――フォーリナーもまた、身構える。
彼女達は、気付いている。
目の前に佇む少女は、自分と“同じ”であると。
古今東西の英霊。マスターと呼ばれる存在に召喚された、サーヴァントであることを。
風が、吹き荒れる。
景色が、過ぎ去る。
線路上を疾走する電車。
街の風景を振り切るように、走り抜ける。
少女達の頬を撫で、髪を靡かせる。
二人は、ただ向き合う。
目の前の“敵”を前に、睨み合うように佇む。
赤紫髪の少女―――アーチャーは、表情を動かさない。
沈黙と無表情を保ったまま、魔力を研ぎ澄ませる。
金髪の少女―――フォーリナーは、その眼差しに憂いを帯びていた。
この場での相対が不本意であったかのように、視線を落とす。
沈黙。拮抗。コンマ数秒。その間、場が動くことはなく。
二騎の英霊は、ただ互いを認識しながら相対を続ける。
アーチャーにとっては、最初の“対峙”だった。
その火力故に不用意な戦いは出来ず、またアーチャー自身が殺しを嫌うが故に、
リップはサーヴァントとの交戦を可能な限り避けていた。
リップ自身がマスターの殺害を敢行したことはあれど、アーチャーはこの界聖杯の東京においてほぼ交戦を経験していない。
ゆえに、彼女にとってはこれが最初の“サーヴァントとの接触”だった。
一秒。十秒。沈黙、緊張。
一分にも満たない時間。
それさえも、永遠の如く流れ続ける。
揺れ動く風景の中。可憐な英霊達は、動かない。
何方が、先に仕掛けるか。
何方が、先に動き出すか。
風切り音だけが響く中、静寂の対峙が続く。
アーチャーは、眼前の少女“フォーリナー”を見据える。
その姿は、人間の幼子と殆ど変わりはなく。
されど。サーヴァントとして互いに認識し合っている今、彼女は警戒を解かない。
頭部に内蔵された回路を、フル稼働させる。
目の前の敵を認識し、構え続ける。
機凱種(エクスマキナ)。
それこそがアーチャー、
シュヴィ・ドーラの種族名。
太古の神霊種の手によって創造された機械生命である。
神託機械をも超越する演算能力。
あらゆる攻撃、魔術、物質を解析し、瞬時に模倣する技術力。
彼女らの持つそれらの能力は、異世界―――現代日本の言語やテクノロジーさえも、ごく短時間で解読・把握できるほどの域に至っている。
例え未知の科学であっても。
例え次元の異なる領域であっても。
それが彼女達の演算能力によって分析できるものならば、全て“理解”される。
故に。アーチャーは、それを稼働させる。
眼前の敵を、読み解かんとする。
確認。演算。分析。
対象のパーソナリティを認識――――。
混濁が、流れ込む。
混沌が、溢れ出る。
深淵が、雪崩れ込む。
暗黒が。宇宙が。虚空が。
狂気が。未知が。恐怖が。畏怖が。
概念的恐怖。根源的運命。超越的存在。
これは、“神の一片”。名伏し難き“神話”。
アーチャーが、目を見開く。
機械製の琥珀色の瞳孔を、啓く。
思考回路が、夥しき泥で溢れ返る。
これは―――――なに?
その疑問の答えは、解けず。
脳裏に、警告のサイレンが淡々と轟く。
エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。
深刻な異常を感知。予期せぬ情報と接続。
エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。
深刻な異常を感知。予期せぬ情報と接続。
エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。
観測を中止せよ。観測を中止せよ。
観測を中止せよ。観測を中止せよ。
観測を中止せよ。観測を中止せよ。
危険。異常発生。危険。異常発生。
エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。
エラー。エrrー。erラor。error。error。
errrrooorrrrrrrrr――――――,
――――拒絶。
――――咄嗟に、判断した。
――――観測を、中断した。
アーチャーは、後ずさっていた。
動力源の奥底。胸の内の“鼓動”が、激しく反応している。
彼女の中に根付く心が、黒衣の少女の抱える“深淵”に戦いている。
すぐに理解できた。これは、恐怖なのだと。
心ある機械さえも蝕むほどの、根源的な畏怖なのだと。
機凱のアーチャーは。
目の前に立つ少女を“識る”ことを、拒絶した。
“神”さえも打ち倒す未来へと繋いだ彼女が、“神”への恐怖を叩き付けられた。
手が、足が、震える。視界が、揺らぐ。
彼女が観測したものは、知ってはならない“虚無の暗黒”だった。
沈黙を保ち続けていた銀鍵のフォーリナーは、視線を落としながら口を開く。
「今は、駄目なの。どうか、来ないで」
まるで敵に対して、懇願するかのように。
同時に、慄くアーチャーを、何処か哀れむように。
「マスター……すごく、疲れてるから」
その一言と共に。
フォーリナーは霊体化を行い、その場から姿を消した。
それを目の当たりにして。アーチャーは、脱力するように膝を突いた。
そのまま彼女もまた、その場から逃げるように霊体化を行う。
『マスター』
ほんの1分足らず。
それだけの、刹那の対峙。
交戦と呼ぶにはあまりにも短く、接触と呼ぶにはあまりにも呆気ない。
それだけの、一瞬の対決。
この都内を生きる人々には気付かれもしないほどの、僅かな時間。
にも関わらず、アーチャーは霊体化してもなお身体の震えを感じ続ける。
『マスター……ッ』
声を強張らせながら、自らのマスターへと念話を飛ばした。
まるで助けを求めるかのように。
怯えるような音色で、言葉を放った。
その記憶回路に浮かぶのは、もっと遠いところにいる“大切な人”。
生涯を共に歩むことを誓い、神なき未来を夢見た“伴侶”。
――――リク。
――――怖い。怖いよ。
――――震えが止まらない。
――――リク。リク、リク。リク。
『アーチャー、もういい。……退け』
直後に“回路”へと届いた言葉が、アーチャーの意識を引き戻す。
アーチャーのマスター、
リップ。
その声はあくまで平静を保っているが、アーチャーも気付いていた。
驚いている。マスターもまた、自身の様子に少なからず動揺をしている。
『……ごめんなさい。ごめんなさい……』
『謝るな。いいから、戻れ』
『……うん』
そんな彼の態度を察して、アーチャーはただただ謝罪を繰り返していたが。
マスターの一言と共に、言葉を止めた。
素っ気ないような声色であっても。
その言葉には、確かな心配が込められていたから。
“心”を持つアーチャーには、それを察することが出来た。
心を蝕む猜疑心。伝播する狂気。
やがて魔女狩りへと至る不幸(アンラック)。
アーチャーは、その門の一端に触れた。
そして―――――目を逸らした。
◆◇◆◇
率直に言えば、疲れていた。
今はもう、ゆっくりと休みたかった。
自宅は元の世界と変わらなかった。
日暮里の周辺で、マンション暮らしだ。
渋谷駅から乗った山手線の電車内。
線路を往く車両に揺られながら、彼女―――
仁科鳥子は思う。
端っこの座席を確保し、ぐったりと壁際に寄りかかりながら、虚脱感に身を委ねる。
いざ椅子に座ると、それまでの疲れがどっと溢れ出てくる。
あのような無茶な行動で勝利を掴んだ、ということもあるけれど。
それ以上に―――本戦に入り、初めて経験した“サーヴァントとの交戦”。それによる緊張が、全身に打ち付けられていた。
ぼんやりと、視線を動かす。
窓から覗く、青い空。
照り付ける夏の日差しは、少しだけ煩わしい。
私の苦労などいざ知らず、景色は何事もなくいつも通りだった。
遡ること、数十分前。
渋谷の路上、自身のサーヴァントであるフォーリナー/アビゲイルとの親睦を深めていた矢先。
忽然と、あらゆる気配が“消えた”。
都心部の一角であるというのに、人の姿が一切見えなくなった。
気配も音も、何処かへと消し去られた。
それは“中間領域”に酷似した怪現象であり―――その空間を仕組んだ張本人と、対峙した。
臓物。腸(ハラワタ)。死肉。腐敗と荒廃に満ちた、不快な気配と共に現れた敵。
アルターエゴ、リンボと名乗るサーヴァントとの交戦。
アビゲイルが鳥子を守るべく応戦した。
しかし、戦いの年季において。
そして悪辣さにおいて、リンボが明らかに上回っていた。
このままでは、駄目だ。あの子が傷付いてしまう。
そうして鳥子は、一計を案じた。
アビゲイルとの連携により、その“怪異を掴む透明な腕”で―――リンボを“捉えた”。
正体は使い魔のような存在に過ぎなかったけれど。それでも、敵を撃退することに成功した。
そして、時は現在へと戻る。
我ながら、無茶をしたなぁ。
鳥子はそんなことを思う。
だけど、悪い気はしなかった。
あの胡散臭いサーヴァントに、一矢報いてやった。
本当に疲れたし、手袋も焼けちゃったけど。今はポケットに突っ込んで無理やり誤魔化してるけど。
それでも、痛快だったのは間違いない。
この場にいない相棒、
紙越空魚に思いを馳せるほどに。
『……マスター』
『アビーちゃん、どうだった?』
『相手のサーヴァント……小さな女の子で、びっくりしちゃったけれど。
すぐに去ってくれたわ。多分、追ってくることもないと思う』
『そっか。……ごめんね、疲れる筈なのに』
『大丈夫よ。マスターなんて、さっきはもっと無茶してたんだから……』
念話でアビゲイルと連絡を取った。
諌めるような彼女の一言に、鳥子は思わず内心で苦笑してしまう。
サーヴァントが、すぐ側にいる。ほんの数分前、アビゲイルは念話でそう伝えてきたのだ。
霊体化しているアビゲイルが察知できるほどの気配が、この列車内で感じ取られた。
そしてアビゲイルは、屋根の上へと登り―――新たなサーヴァントと対峙したのだという。ものの一分足らずの相対で済み、戦闘にもならなかったのは幸いか。
あのアルターエゴとの交戦で疲労しているはずの彼女に連戦をさせるのは忍びないと、鳥子自身も思っていた。
それでもサーヴァントへの対処にはアビゲイルを頼らざるを得ないのが、歯痒いばかりだった。
この広大な東京23区で、数百万は下らないであろう群衆の中で、たった十数組しかいない競合相手と出会うなど「無理じゃない?」と最初は思っていたが。
サーヴァントやマスターというものは、案外引かれ合うものなのかもしれない。
裏世界の探検を繰り返してきた“私達”が、異界の念に触れやすくなったのと同じように。
聖杯戦争の主従もまた、何かしらの引力が働いているのかもしれない。
この都内に負けないほど―――かは、さておき。
あれほど広大な裏世界で、自分が空魚と出会ったのも。
ある意味で一つの引力だったのかもしれないと、鳥子はふいに思う。
――――引力。
――――人と人を結びつける、繋がり。
そこで鳥子は、一つの可能性に行き当たる。
かつて“冴月”を探して裏世界を彷徨っていたとき、
紙越空魚と出会った。
二人で共犯者でいよう。その約束を結び、怪異との対峙や冴月を巡る一件などを経て―――鳥子と空魚は、かけがえのない親友同士になった。
思えば、運命のようなものを感じた。
鳥子は思う。
自分が先に、裏世界へと足を踏み入れ。
それから、空魚が迷い込んだように。
この界聖杯においても、空魚がいるとしたら。
自分と同じように、怪異や異界に触れている彼女ならば。
マスターとして共に現状に巻き込まれていても、不思議ではないのではないか。
こんな時に、空魚がいれば。
本戦が始まった直後に、鳥子はそう思った。
ふたりでひとつ。誰よりも大切な相棒。
いっしょにいれば、なんだってできる。
それが空魚と鳥子。だけど。
仮に此処に居るとすれば、どうなるのだろう。
生き残れる主従は一組。それ以外の存在は、すべて処分される。
そう、つまり―――――。
《―――池袋、池袋に到着です―――》
アナウンスが流れ、意識が現実に引き戻された。
気がつけば池袋まで付いていた。電車が停まり、扉が開く。
それと同時に、座席に座っていた親子連れや吊り革を掴む若者などが駅へ通りていく。
ふと、周囲に視線を向けた。
斜め前に座っていた“眼帯の男の人”が遅れて立ち上がり、そそくさと降車していくのが見えた。
何か考え事をしている様子だったけれど、知る由もない。
先程まで考えていたことを隅に置くように、鳥子は虚空を見つめた。
窓越し。駅のホームから覗く青空は、やはり晴れ晴れと広がっている。
鳥子が行き当たった可能性、そして不安。知ったことではないと言わんばかりに、快晴は変わらず照っている。
ほんと、他人事みたいだ―――なんて、内心悪態をついた。
【豊島区・池袋駅/1日目・午後】
【
リップ@アンデッドアンラック】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:走刃脚、医療用メス数本
[道具]:ヘルズクーポン(紙片)
[所持金]:数万円
[思考・状況]
基本方針:聖杯の力で“あの日”をやり直す。
1:池袋近辺の宿に拠点を移す。
2:敵主従の排除。同盟などは状況を鑑みて判断。
3:ヘルズ・クーポンを製造し、効力を試したい。
4:ガムテープの殺し屋達(グラス・チルドレン)は様子見。追撃が激しければ攻勢に出るが、今は他主従との潰し合いによる疲弊を待ちたい。
[備考]
※『ヘルズ・クーポン@忍者と極道』の製造方法を知りましたが、物資の都合から大量生産や完璧な再現は難しいと判断しました。
また『ガムテープの殺し屋達(グラス・チルドレン)』が一定の規模を持った集団であり、ヘルズ・クーポンの確保において同様の状況に置かれていることを推測しました。
※ロールは非合法の薬物を売る元医者となっています。医者時代は“記憶”として知覚しています。
皮下医院も何度か訪れていたことになっていますが、
皮下真とは殆ど交流していないようです。
【アーチャー(
シュヴィ・ドーラ)@ノーゲーム・ノーライフ】
[状態]:恐慌
[装備]:機凱種としての武装
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:叶うなら、もう一度リクに会いたい。
1:マスター(
リップ)に従う。いざとなったら戦う。
2:マスターが心配。殺しはしたくないけと、彼が裏で暗躍していることにも薄々気づいている。
3:フォーリナー(アビゲイル)への恐怖。
【豊島区・山手線(池袋駅近辺)/1日目・午後】
【
仁科鳥子@裏世界ピクニック】
[状態]:疲労(中)
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:護身用のナイフ程度。
[所持金]:数万円
[思考・状況]
基本方針:生きて元の世界に帰る。
1:日暮里のマンションに帰って一旦休む。
2:出来るだけ他人を蹴落とすことはしたくないけど――
3:アルタ―エゴ・リンボに対する強い警戒。
4:もしかしたら、空魚も。
[備考]
※鳥子の透明な手はサ―ヴァントの神秘に対しても原作と同様の効果を発揮できます。
式神ではなく真正のサ―ヴァントの霊核などに対して触れた場合どうなるかは後の話に準拠するものとします。
※手を隠していた手袋が焼失しました。今のところはポケットに手を突っ込んで無理やり誤魔化しています。
※荒川区・日暮里駅周辺に自宅のマンションがあります。
【フォ―リナ―(
アビゲイル・ウィリアムズ)@Fate/Grand Order】
[状態]:疲労(小)
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:マスタ―を守り、元の世界に帰す
1:マスタ―にあまり無茶はさせたくない。
時系列順
投下順
最終更新:2021年09月19日 07:08