進み来るチェス兵達自体は大した敵ではなかった。
炎の壁と波を生み出しながらアシュレイが相手取れば、多少の頑強さはあれど問題なく数を減らしていけるその程度の相手。
“早くこいつらを片付けてアーチャーに加勢したい所だが…そう上手くは行かないか。もう少し掛かるな、これは”
とはいえアシュレイはサーヴァントとしてそう抜きん出た力を持つ訳ではない。
煌翼との同調により持久性は大きく改善されたが、その分火力の伸び代に関しては目減りした。
今聖杯戦争に招かれたサーヴァントの中では恐らく中の中程度が良いところ。
下手をすればもっと下に位置付けられるかもしれない点は今までとそう大きくは変わっていない。
そしてキュアスターが襲撃者の相手を買って出ている以上、如何に相手が雑兵でもアシュレイのみでは殲滅速度に限界があった。
しかしその時。
銃声が響き――アシュレイの目前に居たチェス兵が風穴を開けて崩れ落ちる。
「っ、すまないアーチャー。助かるよ、ありがとう」
「如何せん火力には乏しい身だが…やれることはやるさ」
そう、
アシュレイ・ホライゾンは今孤軍(ひとり)ではない。
メロウリンクの援護射撃があったことがその証だった。
最初の襲撃の際には彼と相談して拵えたトラップで対応したが、拠点が粉微塵に吹き飛んだ今はその手の備えも期待できない。
だがこうして援護があることはアシュレイの負担を大きく軽減してくれたし、心情的にも体を軽くしてくれた。
「アサシンはマスター達を頼む」
「…えぇ。非力の身ではありますが、精一杯務めさせていただきます」
「気に病むな。お前はよくやっている」
その言葉に一切の虚飾はなかったが。
受け止めたアサシン――犯罪卿。
ウィリアム・ジェームズ・モリアーティはそれを理由に心を安らがせられる質のサーヴァントではなかった。
“不甲斐ない。しかし私が仮に付け焼き刃を握り彼らの隣に立ったとしても…余計な手間を増やしてしまうだけだ”
善の犯罪卿と悪の犯罪卿の間にある最も大きな差はその善悪だが。
続いて挙げられるものがあるとすれば、それは戦闘沙汰において発揮できる強さの程度だった。
ウィリアムは武術や暗殺術の類は持ち前の才覚と勤勉さで以って一通り修めている。
だから生前の彼は他の"モリアーティ"の仲間達の助け無くしても、単身犯罪卿としての役目を遂行し続けることができた。
されどそれはあくまで人間を相手にした場合の話。
超人怪人魑魅魍魎が跋扈するこの聖杯戦争という土俵においての彼は…どうしようもなく弱者であった。
懐の麻薬を服用したところで、ウィリアムはアシュレイどころかメロウリンクにも及べないだろう。
所詮蜘蛛は巣を、己のフィールドを離れれば只の毒虫でしかないのだと。
改めてその事実を突き付けられたウィリアムに忸怩たる念が無いと言えば嘘になった。
「…大丈夫ですよー、アサシンさん。
いぶし銀なアーチャーさんの言う通りです。アサシンさんは私達のために、たくさん頑張ってくれてますからー」
「…マスター。起きていたのですか」
「そりゃ目も覚めますよー、目の前でこんだけドンパチされてたら」
彼方ではキュアスターと修羅の拳鬼が。
目前ではアシュレイとメロウリンクが押し寄せるチェス兵をどれだけ早く滅ぼし切るかに注力している。
そんな中で
田中摩美々は人知れず目を覚ましていた。
「守られる側の私がこんなこと言うのもアレだとは思うんですけどー。
アサシンさんには申し訳ないとか思うよりも、此処からどうするか考えててほしいなー、なんて」
「…サーヴァントの名が泣きますね。よもや守るべき相手に発破をかけられるとは」
「当たり前ですよー。まみみはアサシンさんの、パートナーなんですからー」
「――パートナー。ですか」
「ですよ。パートナー、です」
契約者でもマスターでもない。
もちろん共犯者などでもない。
パートナーだと摩美々はそう言った。
その言葉にウィリアムは一瞬驚いたような顔をし。
それから小さく、"敵わない"とでも言うように微笑った。
「あは。少しは元気出ましたー?」
「えぇ。ありがとうございます、マスター」
立派な少女だと。
ウィリアムはそう思う。
この世界に来てから何度目の思考だったか最早分からない。
それ程までに田中摩美々という少女は、よくできていた。
悪い子を自称しながら誰よりも優しく思慮深い心。
犯罪卿の失敗にも苦悩にも、彼女は微笑って寄り添ってくれる。
その存在がどれ程心強く温かったか。
こればかりは当人であるウィリアム以外には分からないだろう。
そして激励を受けた彼は視線の先を目前の戦場から動かした。
目を背けたのではない。
新たに目を向けるべき処を見出したからだ。
「気に病む必要はないのは貴女もです。七草にちかさん」
「…それだとどっちか分からないんですよねアサシンさん。
まぁ明確な呼び分け方も無いのでアレなんですけど。すいませんね、同一人物が二人も呼ばれてて」
「こういう形で行われる聖杯戦争が他にどれ程あるのか分かりませんが…珍しいケースであるのは確かでしょうね」
七草にちかの名前に反応したのは弓の方のにちか――もとい。
機甲猟兵メロウリンク・アリティを召喚した、様々な現実を知った方の七草にちかであった。
彼女の自虐的な軽口に苦笑交じりに応じた後ウィリアムは言葉の本来の宛先である七草にちか。
もう一度偶像(アイドル)として羽ばたくことを決めた娘の方を向いて改めて言葉を紡いだ。
「先の会話はあくまで彼のサーヴァントと交わしたものに過ぎません。
貴女が対面し止めたいと願う彼の…
プロデューサーの言葉ではない」
「…だったら何だって言うんですか。そんなの――只の言葉の綾じゃないですか」
その言葉ににちかは。
絞り出すような声色で返事をした後。
腫れた目元でウィリアムの方を見た。
「あのサーヴァントは言ったんですよ、プロデューサーさんのことを"お前よりは分かってる"って」
小さく震える体には動揺の念が顕れていて。
「凄いむかつきましたけど…でも反論できませんでした。
私はあの人にとってたくさん居るアイドルの中の一人でしかなくて。
一ヶ月ずっと傍に居たこともありませんし、あったのはレッスンで会って憎まれ口叩くくらいの時間で……」
口にする言葉は夢破れて現実を認識した、させられた幼子のように頼りなかった。
しかしそれも間違いではない。
七草にちかは先の数合の会話で
猗窩座に現実を突き付けられた。
自分は真にプロデューサーを理解し見ている訳ではないのだと。
他でもない彼のサーヴァントの口からそう否定されたのだ。
これで一切堪えないようであれば、それは精神力が強い訳でもなく。
ただ単に精神(こころ)が愚鈍なだけだとそう謗られるべきだろう。
少なくともウィリアムはそう思う。
そう思うからこそ彼は、傷心の少女に向けて言った。
「では。"彼"は何故貴女に執着しているのですか」
「…っ。それ、は……」
「彼は貴女のことを想っている。
少なくとも特別な存在と認識している。
であれば彼の従僕が貴女のことをどう謗ろうと、それは貴女の"彼と話をする"という意思の否定にはならない筈だ」
それは罪悪感なのか責任感なのか。
それとももっと別な、部外者のウィリアムには想像できない感情なのか。
いずれにせよ七草にちかという少女は間違いなく。
修羅道をひた走るプロデューサーの心に迫り、それを抉じ開ける鍵だ。
「惑わされてはいけません。貴女の意思は他の誰にも否定されるべきものではない」
「でも…アレ、あの人のサーヴァントなんでしょ? だったら……」
その言葉は必然プロデューサーの真実を射止めているのではないかと。
そう続けようとするにちかに、しかし犯罪卿は薄く笑って言った。
「たとえ相手がプロデューサー本人だったとしてもです」
犯罪卿は数多の悪党を追い詰めた。
既得権益にしがみつき民の苦しみを甘い汁代わりに吸っていた貴族達の前に死神の如く現れた。
その時も彼は時に微笑ったが。
今思い悩むちっぽけで青い少女に対し向ける微笑みはそれとは似ても似つかない程柔らかく、そして優しいものだった。
「貴女は貴女だ。七草にちかさん」
七草にちかは未熟者も未熟者だ。
特にこっちの…偶像であろうと決めた方は。
もう一人のにちかに比べてもひどく不格好で危なっかしい石ころだ。
だからこの先もこうして悩み取り乱し、時には周りに当たり散らすこともあるだろう。
しかしそれでも。
まともに話したこともない筈の紳士の言葉はするりとにちかの心の中に入り込んで。
“私は、私…”
暗闇に包まれた荒波の海原に一つ輝く灯火のように。
不安定な心を繋ぎ止める一つの寄る辺となった。
七草にちかは七草にちかで。
プロデューサーはプロデューサー。
七草にちかはプロデューサーになれないし、プロデューサーも七草にちかにはなれない。
二人は赤の他人で別の生き物なのだから。
であればこそ。
七草にちかがプロデューサーの真実とやらに縛られる理由もないのだ。
「歩みたければ歩めばいい。止まりたければ止まればいい。
貴女には全てが与えられていて…そしてそれは"プロデューサー"の真意がどうであったとしても、否定されるべきことではない筈です」
「…なんですかそれ。なんか屁理屈じみてません?」
「屁理屈と言えども理屈は理屈。用法用量を守って正しく扱えば良い薬になりますよ」
指を一本立てていたずらめいた顔で笑う犯罪卿。
その話す内容と仕草はどうにも話に聞いてイメージしていたものとは違っていて。
にちかはなんだか悩むのが馬鹿馬鹿しくなり、「もういいです」と苦笑した。
これにて一件落着。
もう一度羽ばたくことを選んだ少女は立ち直った。
そんな一部始終を横から眺めながら。
もう一人の七草にちか…只人であり続ける少女は、何を想っていたか。
◆ ◆ ◆
百にも達する拳撃の乱舞が星の光を纏った拳を。
それが放つ眩い破壊を押し破ってキュアスターを打ちのめした。
花火玉の炸裂を思わす拳の暴風はその破壊的な威力と裏腹の美しさを秘め。
打ち据えられて地面を転がるキュアスターは一瞬、想いを馳せてしまった。
“この人は…一体どんな人なんだろう?”
鍛え抜かれた技と拳。
雪の結晶を思わす術式を踏み締め舞う目前の彼は。
一体どんな人生を生きてきたのだろう。
キュアスターは損得や善悪の一切を抜きにして、それを知りたいと思った。
“アイさんやライダーさんだってそう。
さっきのランサーさんだってそう。
わたしは…わたしが戦う相手のことを何も知らない”
誰も彼もと手を取り合うことは不可能かもしれない。
だけど努力はしてみたいと思うし、知ってみたいと考える。
敵とか障害とかそんな冷たい言葉一つで片付けるんじゃなくて。
その人はどういう人間で、何を思って立っているのか。
何も知らないまま蹴散らし倒して一件落着だなんて、そんなのは寂しすぎるじゃないかと。
立ち上がって地を蹴り再び猗窩座に挑みかかりながらひかるは双眸にまっすぐな熱を燃やした。
「わたしは絶対…あなたを殺しません。
真乃さんやにちかさん達が大事に思うプロデューサーさんをずっと守ってきてくれたあなたを、敵だからやっつけてそれでおしまいなんて!」
「………」
「そんなの――きっと間違ってる!」
彼女にそれを気付かせたのは先刻表出化した烈奏――煌翼の彼だ。
皆殺しの救世主を止めたその時、彼女は彼女なりの結論へと到達できた。
見る者の網膜を焼き向かう先の敵全てを滅ぼすヘリオスに。
彼に支配されゆくアシュレイに触れ、それでもと理想(きれいごと)を説いたあの瞬間。
彼女は奇しくもかの煌めく翼に教わったのだ。
"悪の敵"ではいけないと。
その道はとても辛くて悲しくて、そして認められるべきじゃないもので。
ならばあの炎に焼かれたわたしは。
煌めく彼に学んでその熱を魂に刻み――わたしにできることをしなければいけないとそう気付いた。
「それがどうした」
にべもなく切り捨てながらしかし猗窩座は目前の少女に対する警戒度を格段に引き上げつつあった。
油断は先刻とうに捨て去った。
これは油断だとか慢心だとか、そういう心の贅肉を切り捨て排した一段先の話。
「お前がどれだけご高説を垂れた所で俺にとっては微風以下だ。
お前の主張や思想の如何に関わらず俺は貴様を殺す」
「…じゃあわたしは!」
猗窩座は何の手心も加えることなく。
それどころか一切の出し惜しみなく全力でキュアスターと戦っている。
キュアスターの繰り出す武は力のみで技に乏しい。
猗窩座という修羅が数百年を費やし磨いた殺戮技巧の数々があれば容易く磨り潰せる敵である、その筈だった。
にも関わらず此処に来てキュアスターの出力が、そして膂力が更にまた一段二段と跳ね上がった。
今や彼女の一挙一動から生み出される火力は猗窩座をすら凌ぐ領域に達している。
「わたしの大事な皆さんのために、あなたを…ぶっ飛ばします!」
正面から激突した拳と拳。
数秒の競り合いの末に砕けたのは猗窩座の方だった。
手首から先が西瓜のように弾け飛び血風に変わる。
拮抗勝負に勝利したキュアスターの踏み込みを止めるべく猗窩座は蹴りを放ち、彼女の細腕を真下からかち上げたが…
「ッ――!」
それでキュアスターは足を止めなかった。
勢いを一切殺さず踏み込んで、跳ね上がった利き手とは逆の手で拳を作り猗窩座の顔面へ叩き込んだのだ。
砲弾のように吹き飛ぶ猗窩座を即座にキュアスターも追いかける。
着地し苦し紛れの防御に両腕を構えた猗窩座へ、乾坤一擲の追撃を突き出した。
“此奴…!”
両腕を一撃で破壊された猗窩座。
しかし同じ轍を踏みはしない。
次の拳を食らわぬように宙へ跳び上がり、そして破壊殺・空式を地のキュアスターに放った。
「っ、お、ぉおおぉおおおお…ッ!」
降り注ぐ無数の拳撃を耐え凌ぐキュアスター。
だが凌ぎ切った瞬間、彼女を猗窩座の本当の反撃が襲う。
「破壊殺・脚式」
「っ…!」
「飛遊星千輪」
空式の拳嵐打が途切れる丁度その一瞬を突いた猗窩座。
その剛脚がひかるの下顎を容赦なく蹴り上げ、彼女の体は空中へと吹き飛ばされた。
「うあぁあああッ――!」
サーヴァントとはいえ人体の構造が共通である以上顎は急所だ。
脳震盪がキュアスターの意識をガンガン揺さぶって撹拌する。
どうにか地に足を着く形で着地することはできたものの、さしもの彼女も立ち直りに数瞬の猶予が必要だった。
しかしその数瞬を親切に待ってやる程猗窩座は甘くも優しくもない。
人間を殺すということにこれ以上ない程特化し尖った修羅の鬼にそんな温情を期待するのはお門違いも甚だしく。
「破壊殺・滅式」
超速での貫手が地に落ちたキュアスターへ迸った。
数値化する気も起きない須臾の一撃。
彼女ができた対応は拳を繰り出し迎え撃つという愚直なものだったが反応できただけでも賞賛に値しよう。
猗窩座の滅式とひかるの迎撃は真っ向激突。
苦し紛れの迎撃弾であることもあって打ち破るまでには行かなかったが、心臓を貫く軌道で迫っていた死の貫手を反らすことはできた。
が…。
「ッ…! あ、ぐぅぅ……!」
激突により逸れた滅式、正しくはその余波としてのエネルギー。
そこまでを殺し切ることは叶わず、結果両者の激突点を外れた力はキュアスターの急所に直撃した。
即ち…彼女の左目に。
美顔に刻まれる縦一閃の裂傷はそれだけで痛ましいにも程があったが、言わずもがな最大の弊害は少女の麗しさが損なわれたことではない。
戦いの土俵において視界の半分を失ったこと。
それがどれ程大きな損失であるかはキュアスターにも理解できていた。
“ま、ずい…っ”
戦闘において視覚情報が占めるウェイトは大きい。
一部の極まった達人でもない限りは、耳や皮膚感覚で視覚の代用をすることは至難だ。
それ程大切な情報源を半分欠いた。
両眼が揃っていても手に余る難敵であったというのに、此処に来てそんな"欠損"が生じてしまえばどうなるか。
言うに及ばず――致命的な結果に繋がる。
猗窩座の追撃は即座に到来。
今しがたキュアスターが失った左側の視界から襲った鋭拳が彼女の腹部へ着弾。
幸いにして貫通にも爆散にも至らなかったが、かと言ってただ吹き飛ばされ土埃に塗れるだけでは済まなかった。
「か…あ、ッ……!」
達人の拳は皮膚や肉のみならず臓腑(なか)まで届く。
中華の発勁にも似た理屈で猗窩座の拳による衝撃はキュアスターの体内へも余す所なく伝播。
小さな口から喀血しきらびやかな衣装が痛ましく彩られた。
這い蹲る彼女を睥睨する猗窩座の眼に熱はない。
かと言って蔑視するでもなく、彼は只目前の敵を見つめていた。
「脆いな、お前達人間は。
眼を潰されれば治らず…臓腑が破けた程度で死に至る。
ほんのわずか肉体の完全性が損なわれただけで取り返しがつかない欠陥品だ」
違う――猗窩座はこんなことを言いたい訳ではない。
鬼であることに優越を感じ他者を徒に修羅道へ招いていた頃の猗窩座は此処には居ないのだから。
第一彼がサーヴァントとして此処に現界しているという事実は、彼もまた何らかの理由で滅んでしまった敗者であることを意味しており。
故に彼の発言は全く以って矛盾だらけ。
何の意味も重みも感情も伴わない、無味乾燥としたものになってしまっていた。
なのに何故。
猗窩座はこんな戯言を今更垂れ流したのか。
その理由もまたひどく不合理な、彼以外にはきっと理解もできないだろうものだった。
“重なる。あの夜と。思えばあの夜から既に猗窩座(おれ)の破滅は始まっていたんだろう”
そもこの状況には覚えがあった。
這々の体で敵を屠り終えたばかりの所に己が現れる。
そしてその中で最も強い人間が己と単身戦う。
技も力も己に遥か劣る人間が、眼を潰されても臓腑を潰されても立ち上がる。
不屈の闘志と輝く意思を双眸に灯して…炎(ヒカリ)そのもののように立つ光景を。
猗窩座は過去一度見ていた。
鬼であった己が初めて人間に敗れかけた瞬間。
人間ごときの意地と機転で滅ぼされかけた屈辱の夜。
その記憶があまりにも、今自分の前に広がる状況と重なってしまうものだから。
だから猗窩座は自然と意味のない戯言を吐いていたのだ。
あの夜、己が炎の剣士に向けて語りかけたように。
そして今宵猗窩座の前に一人立つ"人間"は、そんな猗窩座の言葉に…小さく微笑った。
「そうかもしれません」
キュアスターは、
星奈ひかるは。
人間として生き、人間として死んだ身だ。
だからこそ猗窩座の言葉に反論できない。
人間はひどく脆くて繊細だから。
その身も心も…ごくちょっとしたきっかけで壊れてしまう。
だけれど、だとしても。
「でも…それもまた人間の良さだとわたしは思います。
生きることも死ぬことも。その儚さも含めて、人間という生き物はキラやばなんですよ」
「――そうか」
その答えに。
猗窩座は短くそう答えるだけだった。
それで十分だった。
それと同時に理解する。
やはりこれはあの夜の再演じみていると。
何の因果か。
何の運命か。
まったく以って――どうでもいい。
「よく知っている。今はな」
「…なんだ。じゃあなんで改めて聞いたりしたんですか?」
「答える必要はない」
「またそれですか! 人には質問に答えさせておいて!」
「ない、が」
鬼であった頃なら是が非でも認めなかったろう。
しかし今は違う。
この身は既に上弦の参ではないものの。
それでも鬼であった頃の全てを覚えているから。
我が身を犠牲に"猗窩座"を後一歩まで追い込んだ炎の柱。
何度殴られ打たれても屈さず己と相対し続けた水の柱。
恩師の仇にさえ敬意と慈悲を捨てることなく、最期にこの頸を落とし"猗窩座"を終わらせた耳飾りの少年。
彼らは間違いなく強かった。
殺すしか能のない役立たずの狛犬等よりもよほど。
「強いて言うなら…ただの感傷だ」
サーヴァントと成って尚人間の輝きと強さを失わず。
血と泥に塗れながら立ち上がるキュアスターに対し侮りの気持ちはとうにない。
これがあの夜の再演だと言うのなら、此処から己は無様を晒した末這々の体で勝ち逃げするのかもしれない。
だがそれでも良かった。
構わない。
勝利を持ち帰れるのなら。
あの命令を果たせるのならば、どんな無様も喜んで受け入れよう。
何故なら己は既に役目を終えた燃え滓なのだから。
今の己が成すべきことはただ一つ。
誇りも尊厳も明日(まえ)も過去(うしろ)も余さず燃やして進んだ愚者に、追随しようとする付ける薬のない大馬鹿者に。
人の心と人の体でそう成ろうとする彼に道を示さねばならないのだ。
たとえその勝利がどんな形であろうとも。
今一度この身が、人間の強さと美しさを塵屑のように踏み潰すことになろうとも――
「殺す」
「殺されません。絶対に!」
――構わない。
そうしてでも勝たねばならない戦がある。
この身この魂が再び地獄の底に、人でも鬼でもない伽藍の洞のまま堕ちるとしても。
構うものか。
己は只勝つのみだ。
あの男を"役立たず"にしないために。
素流、破壊殺…全てを使って勝利を掴み取ろう。
修羅の猗窩座が隻眼の少女へ駆けるのと。
少女が猗窩座へ輝きながら向かい始めるのとはやはりというべきか同時だった。
光と力が。
イマジネーションの結晶と一切鏖殺の血鬼術が。
花火のように、乱舞する。
その中でキュアスターと猗窩座は舞っていた。
拳と拳をかち合わせながら。
時にはその肉体を爆ぜさせながら、それでも決して屈さず喰らい合っていた。
猗窩座は使命から成る殺意で。
キュアスターは誰もが明日へ歩き出すための優しい輝きで。
互いを喰らう拳を、力を放つ。
負けるものか。
負けてはならぬ。
その一心で踊り喰らう
シルエットが未明の東京に二つ。
「破壊殺・脚式――冠先割」
掠めただけでも甚大な痛手を齎す蹴撃が夜暗を切り裂くが。
それをキュアスターは逃げるでもなく受け止めた。
当然その代償に彼女の体は苦悶と負荷で苛まれる。
しかし彼女はこれが最善だと理解していたし、実際その行動は理に適っていた。
“不自由な視界で無理に避けるくらいなら…!”
いっそのことダメージ覚悟で受けてやった方が次へと繋げやすい。
捨て身にも近しいその発想は確かな実を結んだ。
猗窩座の足を掴み捕らえることに成功したキュアスターは、そのまま掴んだ足を起点に振り上げて地面へ叩きつけたのだ。
「…!」
小規模なクレーターが生じる程の衝撃。
全身に生じる負荷の中でしかし猗窩座は追撃の拳を迎え撃つべく乾坤一擲を放った。
拳と拳の衝突で空間震めいた"揺れ"が起こるのも果たしてこれで何度目か。
永劫にも思える戦いの中で、猗窩座の姿はその抜きん出た再生力も相俟って不変に見える。
だが実際の所はそうではなく。
キュアスターがそうであるように、彼もまた…着々と追い込まれつつあるのが実情だった。
“…これ以上は無視できないか”
キュアスターとの激戦の中で生じた傷はすぐさま癒える。
しかし肉体の内側に残された疲労やダメージまではそうは行かない。
鈍重とした不快感は猗窩座を苛みつつも、彼に自身の体力が無尽蔵ではないことを改めて教えていた。
“もう終わらせる。犯罪卿と残りのサーヴァントを掃討する為にも、これ以上疲弊する訳にはいかない”
その場を跳んで退き態勢を立て直す。
それと同時に拳を構えた。
これが最後の"立て直し"だ。
猗窩座にこれ以上戦いを長引かせるつもりはなく。
「…ありがとうございます。わたしも正直だいぶ限界で」
「別に貴様の為に退いてやった訳ではない」
キュアスターもまたそうだった。
馬鹿正直に自分の限界を吐露してしまう辺りは彼女らしいが、その呼吸はもはや喘鳴と化しつつある。
もうあまり長引かせることはできない。
奇しくも彼我の指針は一致し…故に此処で。
互いが全力を出すべき状況が整った。
“殺す”
“止める。そして、プロデューサーさんに話し合いのテーブルへ出てきてもらう”
想いはそれぞれありつつも交わらず。
互いに勝利のみを希求しながら、両者は一拍の後に弾丸と化した。
「プリキュア――」
拳に灯る輝きは無謬にして無限。
イマジネーションの脈動はこの期に及んで更に増していた。
輝く限り無敵であるという光の性質を至極健全に。
正義のヒーロー然とした在り方のまま意図せず駆使する彼女は正真の英雄。
星の海にすら躍り出たプリキュアの限界突破は、"誰かのため"であり"自分のため"でもある優しい天星。
プリキュアというヒーローの本質とイマジネーションの真髄を同時に成り立たせながら駆ける姿は流星の如し。
「破壊殺――」
そんな闘気の間欠泉めいた存在を前にしながらも修羅は微塵も怖じない。
今や純粋な性能勝負であれば彼はキュアスターの後塵を拝するしかできないだろう。
しかしプロデューサーが、彼のマスターが刻み付けた令呪が狛犬の鬼をキュアスターへ追いつかせる。
地獄の刑罰を抜け出ても狛治と分けられ、英霊の座へ差し向けられた孤独な魂。
文字通りの鬼気を横溢させながら星を喰らうべく走る修羅の姿は、もはや鬼と称することすら憚られる別種の何かだった。
「――スター、パァァアアアアアアアアアアアンチッ!!」
「終式――青銀乱残光……!!」
視界を塗り潰す光と光。
激突する力と力。
猗窩座は半身を吹き飛ばされながらも只前へと進んだ。
此処こそが勝機。
闘気を探知する羅針は未だキュアスターが健在であることを告げていたし、だからこそ此処を逃せはしないと即断する。
損壊した肉体の再生が追いつくよりも、猗窩座がキュアスターを確殺できる間合いに入るのは速かった。
そして光と粉塵が晴れた中で立つキュアスターの姿がそこで初めて目に入る。
彼女はボロボロだったが、しかしその双眸に灯る眩いばかりの光に翳りはなく。
「破壊殺――」
猗窩座が繰り出さんとしたのは破壊殺・滅式。
見せるのは三度目だが最も速度に優れる技である故、この至近距離で放った場合の勝算は猗窩座の手持ちの技巧の中でも最大であると判断した。
とはいえキュアスターも当然その思考には辿り着いている。
殺し切れるかそれとも否か。
だがたとえ殺し切れずとも必ず此処で押し切る。
裂帛の気合と覚悟の元猗窩座が踏み込んだ。
キュアスターもそれに反応。
昂りを増し続けるイマジネーション、無限大の可能性に任せて滅びの破壊殺を正面からねじ伏せんと拳を突き出す。
互いの"負けられない"が何度目かの衝突を果たして。
佳境に入った激突の中で…猗窩座もキュアスターも衰えるどころかますます勝利に懸ける思いを燃やした。
「――はい、それまで。」
その瞬間の出来事だった。
戦意と戦意。
闘志と闘志を燃やし合いながら相対する二人。
その片割れであるキュアスターの腹から、突然に"何か"が突き出した。
ぬるりと、空間から滑り出るように。
猗窩座とキュアスター双方が目を見開く。
しかしその意味合いは、両者によって違っていたが。
「ンンンン油断をしましたねェ――眩しい貴女。
戦いに熱中するのは結構ですが…戦場では背後(うしろ)にも気を配らなければ、いけませぬぞ?」
「…ぁ…」
潰れた内臓や砕けた骨が。
破れた血管の残滓が、下手人の腕に纏わり付く形でキュアスターの体外に露出していた。
やがて腕が抜き取られればキュアスターは膝から崩れ落ちる。
撒き散らされた鮮血が、雌雄を決さんと全力を尽くし合っていた二人の足元を瞬く間に赤く染め上げていく。
「実に良い働きでしたランサー殿。何やら随分と白熱した戦いを演じられていたようで。お陰で存外、容易い仕事となりました」
嗤うは道化師――否、陰陽師。
猗窩座はその姿に覚えがあった。
一度は事を構え、殺す寸前まで追い込んだ男。
集合体や蛆虫の群れを前にしたような本能的嫌悪感を見る者へ与える極彩色の獣。
即ちアルターエゴ・リンボ。
それこそが、猗窩座とキュアスターの戦いに横槍を入れ決着を誘発した下手人の正体であった。
「貴様…」
猗窩座の瞳がリンボを睥睨した。
そこにあるのは殺意と敵意。
射殺さんばかりのそれを向けられたリンボは大仰な仕草で肩を竦めた。
「おやおや…何故にそれ程憤っておられるので?
拙僧は貴方の勝利を後押しした身。むしろ感謝されるものかと思っておりましたが……」
「――何をしに来た。誰の差し金だ」
「貴方のマスター…"プロデューサー"殿よりも上の御方ですよ。こう言えばお分かりでしょう?」
ビッグ・マム。
猗窩座及びそのマスターの生殺与奪を握る狂った皇帝。
嗚呼…成程。猗窩座は納得する。
確かにこの場にこんなものを遣わす命令を下す輩としては最有力の候補だろう。
それにその采配は腹立たしい程理に適っている。
猗窩座単体への対処ですらキャパシティオーバーのきらいがある彼らなのだ。
そこにこのアルターエゴまでも追加でけしかければ――殲滅はより容易くなる。
「時にランサー殿。この拙僧を一度は追い詰めた貴方のことです。
まさか――まさかまさか。まさかまさかまさか! そんなことは無いと信じておりますがァ…」
キュアスターの血や臓物が纏わり付いた腕。
それをべろりと、妖しい笑みを浮かべながら舐め取って。
「殺し殺されの戦場に。主命を背負って臨んだ鉄火場に。不要な私情を持ち込んでおられる訳ではありませんよねェ――?」
嗤った――嘲笑った。
その言葉に猗窩座は沈黙する。
だがすぐに答えを紡いだ。
その問いは至極愚問のそれであり。
よって返せる答えなど一つしかなかったから。
「殺されたくなければ…それ以上俺の前で戯言を吐くのは止めることだ」
一触即発を地で行く張り詰めた空気。
今にも破裂しそうな風船めいた緊張感を醸す二人に友軍らしさ等は欠片もなかった。
「俺は貴様を微塵も信用していない。殺すべき相手だと今でもそう思っている」
「ンンンンそれは恐ろしい! ですが…えぇ、えぇ。
拙僧の杞憂であったならばそれは何よりです。思わず胸を撫で下ろしてしまうというもの。
その身…拙僧と相対した時よりも霊基性能が向上しておりますな? 令呪の後押しがあったものとお見受けします」
身を捩らせながらリンボは嗤い。
「それ程期待を掛けられている貴方が――よもや、よもや!
斃すべき敵を相手に不要な情動を覚えているなどとは思いたくなかったものですから!」
心底癇に障る声色を肺活量に任せて撒き散らす陰陽師に。
猗窩座は拳を振るうことで応えた。
リンボの顔面の真横を通り過ぎる魔拳。
彼の頬に一筋の掠り傷を生み、傷口からは血が流れ落ちる。
この人でなしでも体内に流れる血はちゃんと赤いようだった。
「言った筈だぞ。戯言は許さんと」
次は殺す。
その言葉に偽りは感じられず、故リンボもこれ以上彼を玩弄しようとはせず。
「えぇ、では拙僧はあちらの方へ向かうとしましょう。
つきましてはランサー殿にはしっかりとこの場の後始末をお願いしたい」
リンボは嘲笑と戯言の矛を収めた。
彼の目的もまたキュアスターではない。
鏡面を通じて現れた際手近な位置に彼女が居たというだけのこと。
そしてそこに横槍を入れることが一番面白そうだと考えただけのこと。
…それが一番、誰も彼もの心を弄べる一手だと思っただけのこと。
「くれぐれも仕損じることのないようお願いします、我が同胞。修羅の君」
「貴様に言われるまでもない。貴様は黙って己の役割を果たせ」
「言われずとも。このリンボめが余計な時間を取られてしまった貴方の分も、目障りな小虫共を踏み躙ってくれましょう」
悠然ともう一つの戦場へ歩みを進めるリンボ。
その背を目で追う気にさえ猗窩座はなれなかった。
ただ、目前の少女に目を向ける。
少女は片目を失い腹に大穴を穿たれ…それでも。
それでも――立ち上がっていた。
足は震え膝は笑い。
見るからに致命傷の傷を負いながら、闘志の炎を消していなかった。
「恨みたければ恨め。殺し合いとはこういうものだ」
気付けば猗窩座はそう口にしていた。
口にする必要のない、全く不合理な言葉であると自覚しながらもだ。
そしてその言葉に少女は、キュアスターは苦笑しながら。
「恨みません。それにまだ、終わったわけじゃない」
キュアスターが拳を構えた。
「諦めたわけじゃ、ないですから」
それに応じるように猗窩座も拳を構えた。
「ならば」
敬意などある筈もない。
尊重などある筈もない。
リンボは成すべきことを成した。
見事な奇襲で猗窩座を苦戦させていた厄介な敵に致命傷を与えてみせた。
しかしまだどうやら敵は死んでいないから。
完膚なきまでに叩きのめして霊核を砕いて、終わらせてやろうというだけのこと。
「決着を着けよう」
それだけの、こと。
「あなたは」
最早結果の見えた戦いは…それでも互いに己の勝利を信じ願いながら。
「…やさしい人なんですね」
再びその幕を、されど先刻とは似ても似つかない程静かに上げるのだった。
◆ ◆ ◆
――ぞわり。
戦場の温度が数度一気に引き下がった。
その感覚を覚えたのはマスターであるにちか達のみならず。
アシュレイ、メロウリンク、そしてウィリアム。
三者のサーヴァントも例外なくそうであった。
そしてその中でただ二人。
アシュレイと、彼を召喚した方の七草にちかのみが…事の深刻さをいち早く理解した。
「嘘…でしょ。これ……この、感覚――っ」
にちかはそれを知っていた。
大気が水気を含んだみたいにどろりと重くなり。
肌を掻痒感にも似た心地の悪い違和感が這い回る。
それは紛れもなく夕方立ち会った悪夢の再演で。
「…まずいな。よりによって此処で奴か」
彼らが辛くも退けた相手であった。
夜闇の向こうから歩み来る影をアシュレイが睥睨する。
所詮は一度倒せた相手? 馬鹿を言え。
黄昏時の品川区で相手取ったそれに比べて、今の彼が放つ猛悪な魔力の桁は数倍も違っている。
端的に言って別次元。
最早同じサーヴァントとは言えない怪物がそこに居る。
“消滅の様子が妙だったからもしやとは思っていた。
所謂陰陽道に連なる術を使ってもいたし、式神か何かだったんじゃないかって疑念もあった。
だが…よりにもよってこの状況で来るか――”
放つ瘴気は泥のように。
そこに存在するだけで地上を死臭で満たす悪霊の王が如き男。
蝿や蟻等ありとあらゆる毒虫の死骸を寄せ集めて人の形に捏ね上げたような。
そんな悍ましさを孕み立つ彼の諱(な)をアシュレイ・ホライゾンは知っている。
残り数体にまで減ったチェス兵の頸を刎ねながら、アシュレイはそれを呼んだ。
「アルターエゴ・リンボ…!」
アルターエゴ・リンボ。
一度退けた筈の脅威は愉快痛快と嗤いながら最悪の状況の中に降り立った。
更に事態の悪化は彼の乱入というだけには留まらない。
それをアシュレイ達はすぐさま知ることになった。
突如口元を抑えて座り込んだ、此処までの戦いを黙し不安そうに見守っていたアイドル――
櫻木真乃の言葉によって。
「…ひかるちゃん、が――」
真名を隠す余裕すらなかったのだろう。
しかしその言葉はあちらの戦場で何が起こっているのかを如実に示していた。
真乃の悲痛な声を聞いたリンボは悦楽の笑みを浮かべていて。
これ見よがしに、新鮮な鮮血で汚れた片腕に舌を這わせてみせた。
「健気な娘ですなァ。拙僧に腹を抉られ致命傷を負っても尚、あの悪鬼めを一人引き受けているとは」
「…ひかるちゃんに――あの子に……っ、何をしたんですか!」
「ははは。あまりに無防備だったものですから、つい魔が差しまして。こう、ブスリと」
真乃の顔が青褪める。
ひゅ、と声が漏れるのが聞こえた。
眉根を寄せたアシュレイがリンボへ剣を向ける。
「真乃さん。できれば、彼女に令呪を使ってあげてくれないか」
「…っ」
「勝手なことを言ってるのは分かってる。でもこのままじゃあっちもこっちも間違いなく全滅だ」
キュアスターが此方に来て加勢してくれればリンボの相手は確かに楽になるだろう。
しかしその場合、犯罪卿を標的と定めているランサー・猗窩座もまた此方へ突撃してくることになる。
そうなれば事態はいよいよ収拾が付かない混沌の只中に堕ちてしまう。
リンボ単体を相手取る以上に戦況は悪くなるし、誰かが命を落とす可能性も高くなるに違いない。
だからキュアスターは致命を負いながらも猗窩座と戦い続けているのだ。
アシュレイはそれを理解していたからこそ、真乃へ令呪の使用を勧奨した。
キュアスターが猗窩座を退けるためのブースト用途の令呪を。
そんな会話を眺めたリンボ。
彼はアシュレイをその双眸で舐め回すように見つめ。
それから満を持して口を開いた。
「ははぁ。黄昏時に拙僧の式神を一つ消し飛ばして下さったのは貴方でしたか」
「…その節はどうも。相変わらず聞いてて気の毒になるような奴だなお前は」
「褒め言葉として受け取っておきましょう。
しかし――しかし、ふむ。些か妙な消え方でしたので、ともすればかの巫女に並ぶ地獄の呼び水になってくれるかと期待しておりましたが…」
式神が突如消し飛んだ瞬間、リンボ本体の中へ微かに流れ込んだ魔力の波長。
それは紛れもなく目前で勇敢に立つ灰髪の青年のものだった。
目を凝らしてみれば。注意して覗いてみれば成程妙な気配を孕んでいる。
サーヴァントの枠組みに収まらない"何か"の存在を感じ取りながらも。
アルターエゴ・リンボは肩を竦めてこう言った。
「つまらぬ」
つまらぬ、と。
ただ一言。
心底呆れ返った様子で吐き捨てた。
「宝の持ち腐れとはまさにこのこと。
ともすれば森羅万象をとて超絶しよう無限の可能性を、そうと知りながらちっぽけに矮小化してしまうとは」
アシュレイ・ホライゾンに起こった星辰光の性質変化。
それは彼の片翼たるヘリオスとの同調が深まったことの証であると同時に、彼が烈奏という覇道へ向かわないことの証でもある。
己が比翼を信じ悠久の果てに再会を果たした煌翼がその姿を現すことはきっと二度とないだろう。
その事を理解したからこそリンボは落胆し、呆れた。
アシュレイというサーヴァントに対する期待や打算はもう一寸たりとも存在しない。
使いでが全く浮かばない訳ではなかったが…それにしても。
彼の、そして彼の中に眠る地獄(モノ)の取った選択のつまらなさには辟易を禁じ得なかった。
「そりゃどうも。此方こそ、褒め言葉として受け取っておくよ」
とはいえアシュレイはリンボの言葉になど小揺るぎもしない。
誰かのカリカチュアでしかない彼の吐く言葉など真の意味で只の戯言だ。
それに…そんなリンボの口からつまらぬと謗られたことは、あの選択を逆説的に肯定されたような心地にすらなれた。
改めて己が内で燃える彼の雄々しさに敬意を覚えながらリンボの行動に備えるアシュレイ。
そんな彼をよそにリンボが取った行動は――
「…おやおや。おやおやおや。
何と粗末な兵でしょう、何と粗悪な兵でしょう。
如何に有象無象の群れなれど泥人形では流石に役者が足りますまい。どれ、此処は一つ」
…アシュレイ及び彼と共に戦うメロウリンクにとって。
間違いなく最も取って欲しくなかった、最悪のそれであった。
「拙僧が油を差して進ぜよう」
残り四体にまで数を減らしたチェスの兵隊。
プロデューサーの魂を元に組み上げられたそれらの体に。
浮かび上がる五芒星。
兵の内で暴走し始める魔力。
意味する所は強制的なアップデートだ。
リンボの…
蘆屋道満の呪という強大で猛悪なエネルギーを後付けで供給され。
彼らは単なる魂の兵隊ではなくなった。
言うなれば荒御魂。
今やサーヴァントにすら匹敵しよう武力を有した、四体の脅威!
「これで良し。青息吐息の有象無象を磨り潰すにはこれだけでも充分でしょうが…」
それではそれこそつまらない。
嗤うリンボに向かって轟いたのはアシュレイの炎だった。
容赦も呵責も微塵もない。
その手の感情がこの怪人に対し全く無用であると彼は既に理解している。
そして動いたのは彼のみではなかった。
“…これ以上旗色が悪くなればいよいよ全滅も見えてくる。上手く仕留め切れればいいが――”
メロウリンクもまたライフル弾を発砲。
パイルバンカーは届かない、爆薬や地雷などの搦め手も今は役に立ちそうもない。
頼りないのは承知で放った弾丸であったが――嗚呼事実として頼りない。
アシュレイの炎を片手で振り払い。
ライフル弾を指で摘み取ってひょいと放り投げ。
無傷のまま嗤うリンボの背後に、膨大なまでの魔力が集約されていく。
「此処は一つ。あの幼子に恩でも売っておくとしましょう。
それに」
それは呪詛であった。
されど只の呪いではない。
秘奥も秘奥、極致も極致。
その霊基の何処に収まっていたのか分からぬ程の禍いが。
万物万象を嘲笑し玩弄するリンボの持ち物では有り得ない世界そのものへの憎悪が。
嵐の形を描いてそこに現出する。
一度解き放たれればそれは止まらず燃え広がり。
戦場に隣接する地域に存在した哀れな民間人はその大半が即座に現代の技術では解呪不能の呪いに冒された。
「――貴方も。そろそろ大惨事の一つも描き上げたい頃でしょう? ねェ 、 顕光殿 」
その名を聞いた途端に。
リンボを知っている筈の七草にちかが嘔吐した。
顔に令呪を刻まれた方のにちかも顔を顰めて口を抑えた。
田中摩美々は顔を背け。
彼方の相棒と念話を交わしていた櫻木真乃でさえもが悲鳴を漏らした。
生き様そのものが呪いと化した存在というものが、この人類史には度々登場する。
彼らがこの世を呪うことにかける想いは常軌を逸して強く。
それ故名にすら呪いが宿るのだ。
「さぁ。光の時は是迄」
これなるは呪術の極致。
生まれた世界が違うが故。
周りに在る法則が違うが故。
そう呼ばれることはなかったし、そう呼ばれるに足る性質を宿すこともなかったが。
もしも蘆屋道満(かれ)がかの世界に生誕していたならば。
かの世界に生まれながらこの大呪術を身に着けるまでに至っていたならば…。
きっとこの業の解放には、こんな枕詞が付いたろう。
「暗黒の太陽を、貴殿らに拝ませて差し上げる!」
――領域展開、と。
◆ ◆ ◆
最終更新:2022年05月14日 22:14