“ひかるちゃん…!”
 脳裏に響く念話を聞いて。
 キュアスター…星奈ひかるは申し訳ない気持ちになった。
 あぁ、心配かけちゃったなぁ。
 また泣かせちゃうなんて。
 わたしはほんとにダメなサーヴァントだ。
 もっと頑張らないと。
“えへへ…ごめんなさい、真乃さん。ちょっとドジしちゃいました”
“ドジしちゃいました、じゃないよ…! 今すぐこっちに来て! そしたら皆で逃げることも――”
“真乃さん。…ほんとにごめんなさい。それはできないんです”
 星奈ひかるはちゃんと理解していた。
 自分が背負う役割の重要さを。
 自分が持ち場を離れれば、当然"彼"もそっちに向かってくることになる。
 そうなったらいよいよもう取り返しがつかない。
 真乃が令呪を使えば話は違うだろう。
 令呪を使ってただ一言、自分を連れて逃げろとそう命じれば。
 ひかるは真乃を連れてこの場を離れる。
 そしたらもしかしたら…本当に低い確率ではあるけれど。
 致命傷を負ったひかるが一命を取り留めることもあり得るかもしれない。
 でも。
“…真乃さんは。それ、できないですもんね。
 わたしは真乃さんがそんな人だからこそ、大好きになったんですから”
 念話ではない、本当の心の声でひかるは独りごちる。
 櫻木真乃にその選択はきっとできない。
 にちか達や摩美々を、彼女達のサーヴァントを見捨てて逃げるなんて。
 そんなことをできる筈がないのだ、あの優しい人が。
 あんなに優しいアイドルが。
“わたしは…真乃さんと、真乃さんの大事な人たちのために最後まで戦いたいんです。心配かけてごめんなさい。でも、わかってほしいな”
“っ――最後だなんて言わないで! 最後なんかじゃない、最後なんかじゃないよ、ぜったい…!”
 拳と拳を交わし合いながら。
 血を撒き散らし踊りながらひかるは小さく笑う。
 そして思った。
 ああそうだ。
 これは最後なんかじゃない。
 これを最後になんてしてやるもんか。
“…わかりました。わたしはちゃんと真乃さんのところに帰ります”
 わたしは真乃さんのサーヴァントで。
 真乃さんを最後まで見届ける責任がある。
 だから負けられない。
 これは、最後なんかじゃないんだと。
 そう自分に言い聞かせて――時間経過と共に少しずつ尽き始める自分の命運(リソース)から目を背けて。
“だから…応援してください真乃さん。そしたらわたし、どれだけだって戦えます!”
“……なら!”
 瞬間。
 ひかるの消えかけの霊基に光が灯る。
 熱が宿る。
 戦いの最中だというのに思わず目を伏せてしまった。
 しかしその迂闊を誰が責められるだろう。
 いいや誰にも責めさせない。
 ひかるにとってそれは、この世界の何よりも暖かくて眩しいエールだったから。
“令呪を以って、命ずる――勝って、帰ってきて。ひかるちゃん”
“…はい。はい、はい……!”
“令呪を以って――っ、重ねて、命ずる!”
 片目を潰されて。
 腹を不意討ちで貫かれて。
 全身余す所なく痛くて苦しいのに。
 なのにひかるはこう思わずにはいられなかった。
 ああ、なんてわたしは幸せなのだろう。
 こんなに優しくてあたたかいマスターに恵まれて。
 ただでさえあんなに楽しくて素敵な、キラやばな人生を過ごせたのに。
 わたしばっかり。
 こんなにたくさんもらって、いいのかなぁ。
“勝って――帰ってきて。帰ってくるの、ひかるちゃん……!”
 …令呪二画で重ねがけされた命令。
 それは精神論の領域を飛び越えて現実の利益となってひかるの霊基を満たす。
 イマジネーションにすら依らない増幅。
 覚醒――誰かが誰かのために流す涙と。
 誰かを大切に思うこと、それを起爆剤に起こす奇跡の結実。
 たとえこの世界に令呪というシステムがなくとも。
 それでも星奈ひかるは、キュアスターは輝いただろう。
 何故ならプリキュアは全ての人の味方で。
 全ての人々の願いと応援を受けてこそ真に輝く戦士なのだから。
「はあぁあぁああああ――!」
「ッ…!」
 あなたのサーヴァントでよかった。
 あなたのサーヴァントでいたい。
 この先もずっと、もっと!
“馬鹿な…何故まだ動ける。何故この期に及んで強くなれる!
 貴様の霊核は既に……現界を保てる状態ではないというのに!”
 猗窩座の猛追を全て打ち払う。
 力ずくで押し返して、キュアスターは吠えていた。
 もしかしたらその姿はヒーローとして褒められたものではなかったかもしれない。
 けれど今この時キュアスターは既にヒーローではなかった。
 櫻木真乃という、この世界で出会ったお姉さん。
 優しくて明るくて。
 一緒にいるだけで心がぽわぽわしてくるあの人のために。
 あの人と過ごす最後の思い出をどうか涙で終わらせないために。
 あの人と、もっと一緒にいるために!
 それだけのためにキュアスターは今戦っていた。
 生きるということ。
 生き続けるということ。
 生物の本能にも繋がる執着が引き起こす異次元のイマジネーションが令呪二画分の命令と共鳴して輝き猛る。
「破壊殺――鬼芯八重芯ッ!」
 猗窩座、躍動。
 両手を起点に繰り出す怒涛の拳連撃はキュアスターの矮躯など易々覆い隠す規模であったが。
「こんな…もの、っ!」
 キュアスターはそれを力ずくで突破する。
 そう、文字通りの力ずくでだ。
 そこに小難しい理屈や術技は存在しない。
 ありったけブーストされた拳の一撃で打ち払う。
 そして拳撃の激流に逆らいながら猗窩座へ駆ける。
 猗窩座はこの時初めて――その背筋に冷たいものを覚えた。
“何だ、これは…?”
 一秒二秒と時間が経過する毎に目前の敵が進化していく。
 次から次へと先の段階へ足を進めていく。
 その度増していく輝きは。
 彼女を打ち砕き進まんとする猗窩座という名の闇が見えなくなる程に眩い光であった。
「破壊殺――ぐ、がァッ…!?」
 キュアスターの拳に触れた猗窩座の拳が砕けた。
 それだけに留まらず彼の体が襤褸切れのように吹き飛ぶ。
 受け身を取るなりやって来る"次"に猗窩座は逃げの一手を選ぶしかない。
 今にも消えかけていた瀕死の相手を前にだ。
 そんな消極的な手を打たねばならない程に、猗窩座は追い詰められていた。
“真乃さん…わたし、わたしっ……!”
 それは修羅には臨めない輝きだった。
 彼らは何かを切り捨てることで前に進んでしまうから。
 何かを大事に思うが故の。
 誰かとずっと一緒に居たいが故の強さに辿り着けない。
 あるいはそれこそが猗窩座とキュアスターの間にあった一番の違い。
 それが此処に来て克明に浮き出てくる。
“わたし…まだあなたと――さよならしたくありません!”
 何かを切り捨てる強さと何かを守る強さ。
 自分さえも蔑ろにする強さと自分の幸せも視界に含めた強さ。
 どちらが強いと一概に決め付けることはできないだろうが。
 その二つが競い合った一つの結果は今こうして現出していた。
 キュアスターの拳に光が灯る。
 これまでで最大の輝きを放つそれは、まさしく星の光と呼ぶべきもので。
 猗窩座は確信する。
 これが最後の激突になると。
 破壊殺・終式――最早口上など要らぬ。
 出せる限り全ての力を尽くして猗窩座は舞った。
 そして突き進む。
 目前の光を消し去るため。
 目前の星を落とすため。
 花火の煌めきをその身に帯びながら押し迫る躯の霊基に。
“勝ちます! 帰ります! だから…だから!”
 キュアスターは只吠えた。
「わたしに力を貸してください――真乃さんッ!」
 その輝きはまさに超新星(スーパーノヴァ)。
 爆光とすら化した光で以って。
 されど猗窩座を殺すと意気込むことは一切せず。
 ただ勝つために。
 ただ生きて帰るために。
 …ただ、ずっと一緒にいるために。
 彼女のサーヴァントであるために、キュアスターは輝いた。
 そこに挑むは猗窩座、修羅。
 顔は鉄面皮など保てない。
 鬼気を浮かべた形相で迫る姿は鬼どころか鬼神の如し。
 度を越した熱量に肉体が蒸発する感覚すら覚えながらも足は止めず。
 光と闇、ヒーローと修羅の最後の激突が起こるその刹那に。


    ◆ ◆ ◆


“令呪を以って重ねて命ずる――勝て、ランサー”
 誰かの。
 誰かの、声がして――


    ◆ ◆ ◆

 次の瞬間――戦いは終わっていた。
 猗窩座の総身は八割方が焼失。
 残ったのは腕の肉を除けばほぼ全てが骨格という有様。
 それでも彼の腕は。
 土壇場にてキュアスターに捧げられたのと同画数の令呪の加護を得るに至ったその凶手は、確かに。
「…獲ったぞ、アーチャー」
 アーチャー、キュアスターの胸を。
 半壊状態にあったその霊核を確かに今一度。
 類稀なる精度で以って貫いていた。
 再生が始まり猗窩座は元の形を取り戻していく。
 しかしキュアスターはいつになっても回復しない。
 潰れた目も腹の大穴も、砕け散った霊核も。
 どれ一つとして…、蘇ることはない。
「…これで終わりだ。貴様は敗れた」
「…、……」
「――目障りだ」
 腕を抜けば。
 キュアスターは崩れ落ちた。
 いつしかその姿はキュアスターから星奈ひかるのそれへと戻り。
 血の海に倒れ伏した彼女に、猗窩座は言う。
「戦士が泣くな」
「…っ。ぁ……。泣いて、なんか…ないです」
「…そうか。ならば……俺の見間違いだったか」
 少女は泣いていた。
 その目から滂沱の涙をぼろぼろと流して。
 もう立ち上がるどころか指一本すら動かせない状態で。
 猗窩座にも余力はもうほぼないが。
 それでも彼女にとどめを刺すくらいはできる。
 にも関わらず彼は踵を返した。
 負けて泣く哀れな娘のことを謗ることすらしなかった。
「安心した。泣き味噌の小娘に敗れかけるようでは俺も立つ瀬がない」
 猗窩座は確かに死にかけていた。
 紙一重だった。
 プロデューサーの令呪の援護があって、その御蔭で勝てたのは確かだ。
 だがそれでも…それだけであの局面を確実に勝てていたかと言われれば答えは否になる。
 勝算は良くて五分五分。
 ともすればそれを下回っていた。
 敗北し地に臥していたのは猗窩座だったかもしれない。
 むしろその可能性の方が、高かった。
“――何をしている? 俺は。これが…これが、サーヴァントの在るべき姿だとでも言うのか?”
 自分と互角に立ち回った娘に。
 猗窩座は結果的に、ある種の敬意を示したことになるのだろう。
 そのことをわずかに遅れて理解して、猗窩座は煩悶の中に放り込まれた。
 もはや敗者を振り返るつもりなどない。
 ないが。
 今の言葉は、いや振り返らぬというその姿勢そのものが。
 勝利を求める身にあるまじき贅肉ではないのかと。
 そう自問せずにはいられなかった。
 ああなぜ。
 今此処であの男の顔が脳裏をよぎるのか。
 町のごろつきでしかなかった盗人の己を叩きのめし、一から鍛え上げてくれたあの男(ひと)の顔が。
 あの人ならば…どうしただろうか。
 あぁ。
 考えなくても分かる。
 きっと――同じようにしただろう。
“…反吐が出る”
 それは不要だ。
 それは要らない、今の己には。
 そう分かっていても結果猗窩座は後ろを振り向けず。
 修羅の鬼によるキュアスターとの戦いは…苦味の残る勝利という形で幕を下ろした。




 そして敗者は。
 ただ這い蹲っていた。
 もはや指の一本も動かせない。
 泣いてない。
 泣いてなんかいません。
 わたし、わたし。
 そう強がっても瞳から流れるのは涙で。
 体は嗚咽に合わせてわななくばかりで。
 説得力など欠片もなくて。
“わたし…負けちゃったんだ……”
 否応なくそう理解させられる。
 分かってしまう。
 立ち上がろうにも足が動かない。
 這って追い縋ろうにも腕が動かない。
 当たり前だ、もう体の中の何処もかしこも壊れている。
 とどめとばかりに霊核を砕かれて。
 キュアスターは、星奈ひかるは。
 後はただ消えるのを待つだけのサーヴァントになりさらばえた。


“――ひかるちゃん! ひかるちゃんっ!”
 …わたしの名前を、よんでる。
 真乃さんが、よんでる。
 あぁ。やくそく、守れなかったな。
 勝ってって言われたのに。
 帰ってきてって言われたのに。
 どっちも、守れなかったや。
“ごめん、なさい…真乃さん。わたし……真乃さんとの約束、守れませんでした”
“…っ。うそ……だよね。嘘、だよね……!? ひかるちゃん……ひかるちゃんっ……!”
 真乃さんが、ないてる。
 わたしのせいだ。
 真乃さんはアイドルなんだから。
 わらってる顔が、一番かわいいのに。
“わたし…とっても。とっても、たのしかったです。
 真乃さんと一緒にいられて、すごく。
 まるでお姉さんができたみたいで、新鮮で。ずっとこんな時間が続けばいいのになぁ、って……”
“続くよ…ずっと続くよっ……! わたしもひかるちゃんと一緒にいられてすごく楽しかった……!
 だから変なこと言わないで、まるで……まるでこれから居なくなっちゃうみたいなこと、言わないでっ……!”
 真乃さんの声は聞いているだけで辛くなってくるような涙声で。
 だからわたしも自然と、ただでさえ溢れていた涙の勢いが強くなってしまいます。
 ――やだ。
 ――やだ、やだよ。
 さよならなんてしたくない。
 わたしはまだ。
 真乃さんのために何もできてない。
 真乃さんのこと、何も知らない。
 もっとたくさんおはなししたかったのに。
 もっとたくさんいっしょにいたかったのに。
 なのに。
 これで終わりなんて、あんまりじゃないですか。
 あんまりだよ。
 だけど。
 そう思うけど。
 でも…自分の体のことは自分が一番よく分かっていて。
 もう何をどうしたってわたしは"この先"には行けないんだって分かっていたから。
“真乃さん。どうか…どうか、幸せになってください”
 だからせめて。
 心の声だけは気丈に。
 真乃さんを悲しませてしまわないように。
 あんなに優しくて素敵な人をこれ以上泣かせないように。
 努めて明るく、お別れなんて平気みたいな声色にしようと。
“わたしは…真乃さんの隣から、いなくなっちゃいますけど。
 真乃さんにはまだたくさんの味方がいます。その人たちと一緒に、幸せになって”
“そんなの…そんなの……ずるいよ、ひかるちゃん。
 ひかるちゃんは――私のサーヴァントなのに。
 私に……サーヴァントのあなたを置いて、幸せになれなんて……っ”
 頑張ってるんだから。
 頑張ってるんですから、分かってくださいよ。
 もう言わないで。
 これ以上は我慢できなくなっちゃうから。
 うぐ、えぐ…なんて情けない嗚咽を漏らして。
 わたしはそれでも。
 がんばって、お別れの言葉を紡いで。
“わたしは…真乃さんを悲しみや辛さから守ってあげることもできなくて。
 おまけに、一足先にいなくなっちゃうようなダメなサーヴァントでしたけど”
 これが最後だから。
 せめて意味のある言葉を残そうとがんばって。
“でも…真乃さんの人生は、こんなところじゃきっと終わらないはずですから。
 生きて――生きてください。生きて、こんな狭い世界からは早く飛び出して……真乃さんのキラやばを見せてください。
 その時わたしは、きっと真乃さんの隣にはいられないけれど。
 真乃さんのサーヴァントでは、いられないけれど……きっと、必ず。世界の何処かから真乃さんのことを見てますから”
“――やだ。…やだよ、そんなの……!”
 がんばって。
 がんばって……。
“ひかるちゃんが…見届けてよ。
 私が元の世界に帰るまで、最後まで……!
 そうじゃなきゃ、やだよ……私、私っ……!”
 がんばって、がんばって。
“ひかるちゃんと一緒じゃなきゃ、やだよぉ……!”
 ――あぁ。
 もうやめてください。
 そんなこと言わないで。
 そんなこと言われたら。
 あなたに、そんなこと言われたら。
 わたしだって…。
 わたしだって、我慢できなくなっちゃうじゃないですか。
“だいじょうぶ”
 やだ。
 やですよ、嫌ですよ。
 わたしだって、嫌ですよ。
 真乃さんを置いていくなんて。
 最後まで真乃さんのサーヴァントでいられないなんて。
“だいじょうぶです。真乃さんは、きっと”
 最後まで真乃さんのサーヴァントでいたかった。
 お姉さんみたいなあなたの隣にいたかった。
 辛いこと、悲しいこと、全部いっしょに乗り越えて。
 あなたが元の世界に帰る最後の最後までを見届けたかった。
“真乃さんは…わたしがいなくても幸せになれます。
 だって真乃さんはとってもかわいくて、とっても綺麗で…とっても優しくて強い人ですから!”
 行かないで。
 行きたくない。
 まだ、此処にいたい。
 もっと此処にいたいです。
 わたしだって。
 わたしだって此処にいたい。
 あなたと、いたい。
“だから――”
 ああでも。
 それを口にしたらきっと。
 それは、真乃さんへの呪いになってしまうから。
“だから、心配しないで!
 わたしのことは…あはは、忘れてほしくはないですけど。
 真乃さんはこの先も、わたしの大好きな真乃さんのままで頑張ってください!”
 言えない。
 言えるわけなんてありません。
 わたしは所詮サーヴァント。
 一度死んだ人で。
 生きている人間にはどうやったってなれないんだから。
“わたし――どこに居たって真乃さんのことを忘れません! ずっとずっと…応援してますから!”
“…ひかる、ちゃん”
 わたしはプリキュアなんだから。
 キュアスターなんだから。
 誰かを泣かせるようじゃダメなんです。
 わたしがいなくなった後も、真乃さんが前を向いて歩けるように。
 いつかこの世界を後にして…真乃さん自身の人生に戻れるように。
“だから――さようなら、真乃さん!
 あなたは…わたしにとって、とってもキラやばな、最高のマスターさんでした!”
 せめて呪いだけは。
 傷だけは残さないように旅立ちます。
 …。
 ……。
 ………。
“ひかる…ちゃん。
 ありがとう――今まで…本当に、ありがとうっ……!”
 …。
 ……。
 ………。
“私も…ひかるちゃんのこと、あなたのこと、絶対に忘れないよ。
 この先何があっても、どんなことがあっても……ひかるちゃんと過ごした日々のこと、絶対に忘れたりなんかしない! だから…だから、っ……!”
 …。
 ……。
 ………。
“見てて――ひかるちゃん。わたしのこと、みんなのこと。ずっと、ずっと…!”
 ――なんで。
 なんでわたしは、この人の隣にいられないんでしょう。
 この人のことを置いていかなきゃいけないの。
 もっと真乃さんといたいよ。
 テレビを見たりお菓子を食べたり。
 なんてことのない時間を一緒に過ごして、笑い合いたかった。
 笑っていたかったよ。
“――はい。もちろんです! ずっと見てますから…わたしが!”
 だけど。
 わたしがどれだけ願っても時間は来てしまう。
 顔中涙と鼻水でぐちゃぐちゃで。
 とても格好なんてつかないけれど。
 それでも…真乃さんの前では最後まで格好つけられた。
 何一つ呪いを残さず。
 心を傷つけることなく。
 プリキュアらしく、さよならできた。


 真乃さん。
 いっしょにいられたのは少しの間だけだったけど。
 それでも…わたしのお姉さんみたいだったあなた。
 どうかずっとあなたはそのままでいてください。
 あなたはあなたのままで、誰もに愛されるアイドルになって。
 わたしもきっと、何処かでそれを見てるから。
 だからどうか。
 生きて。
 わたしがいなくなっても生きてください。
 あなたがあなたの人生に戻って、あなたとして生きられることを。
 わたしはずっとずっと…心の底から祈っています。


「――さよなら」
 さよなら、真乃さん。
 わたしの最高のマスターさん。 
 わたしの一番大好きな、アイドルさん。
 わたしにとってあなたは。
 初めて会った時からずっと。
 これからも、ずっと…。
「あなたはずっと。最高にキラやばでしたよ――真乃さん」

【アーチャー(星奈ひかる)@スター☆トゥインクルプリキュア  消滅】

    ◆ ◆ ◆

 空に。
 太陽が浮かんでいた。
 黒く昏い太陽には貌があって。
 それは地に群れる衆生全てを等しく嘲弄していた。
 悪意と憎悪に淀み狂った怨霊の魂が。
 かつて都を転覆させんと詛呪の限りを尽くした悪霊左府が。
 光の代わりに呪いと災いを降り注がせる闇の太陽としてそこにある。
「ふ、ふふふ、ふふはははははは、あはははははァ――」
 一人呵々大笑するはアルターエゴ・リンボ。
 リディクールキャットは地獄へ通ずる穴を常世に穿って愉快愉快と手を叩いている。
 事実この戦場は既に八割方決着を迎えていた。
 身も蓋もない理由。
 彼らでは、リンボという脅威に対応できない。
 捨て駒の式神相手ならばいざ知らず。
 宝具の解放すら厭わない捕食者としてのリンボを相手に勝利を勝ち取るのは彼らには荷が重すぎた。
 唯一の頼みの綱はこの中で最も戦闘に特化したスペックを有するアシュレイ・ホライゾンだが。
 その彼がリンボへ加勢しようとすれば、彼の呪を受けたチェス兵達がそれを阻む。
「くそッ…!」
 思わず苦渋の声が漏れた。
 降り注ぐ呪いの嵐は致死的であり、事実溢れた呪詛に掠りでもすればマスターの少女達は死毒にも似た呪いに蝕まれるだろう。
 にも関わらず未だそうなっていない理由は一つ。
 リンボはこの圧倒的優位な状況を嗜虐の観点から愉しんでいる。
 逃げ惑う姿を、絶望に青褪める姿を。
 心底面白がっているからすぐには殺しにかかっていないというだけのことなのだ。
 アシュレイの剣が裂帛の気合を載せ振り抜かれた。
 チェス兵一体の魂魄を両断し、残骸も残さず燃やし尽くすが。
 次の瞬間真横から振るわれた剣閃がアシュレイの胴に一直線の斬傷を刻んだ。
 反撃を繰り出して押し返しながらアシュレイは歯噛みする。
“一番厄介な手を取られた。質の伴った物量での力押しは、こっちが最も避けたい事態だったんだ。
 ――人の嫌がることを考えるのなら誰より得意ってワケか…!”
 ひかるの手を借りられればもっと楽だったのは間違いない。
 だが果たして彼女でも、この水準の敵を四体も瞬殺できるかは怪しいだろう。
 そして苦戦を強いられるアシュレイの耳朶を陰陽師の粘つく声が撫ぜた。
「おやおや残念。猶予は差し上げたつもりだったのですが…」
 ぞわりと背筋を這う悪寒。
 でかいのが来ると悟るや否やアシュレイの行動は速かった。
 光との和解。
 燃え盛る太陽の制御と調和。
 界奏に至り烈奏を鎮めた彼が、その死後にようやく成し遂げられた偉業。
 光も闇も受け止める灰色に辿り着いた男が示す優しい答え。
 癒やしの炎により肉体の負傷を即座に回復させつつ、寄せ来る呪いに備えるべく劫炎の津波を生じさせたが。
「残念、時間切れでございます! ――急々如律令ォ!」
「がッ――!」
 永久機関化された炎はしかし決して突出をしない。
 暴走もせずそれによる自傷も起こらない只人の炎。
 故にこそ火力上限を超えた制圧攻撃に対する免疫は格段に落ちた。
 その欠点を示すようにリンボの呪詛は暗黒の魔力という形で彼へ降り注ぎ。
 放っていた攻防一体の火炎流を蒸発させながら、アシュレイの総身を押し潰して地面に這わせた。
「便利な力ですなァ芥虫のように死ににくい!
 力を込め押し潰しても拙僧としては一向に構いませんが…丁度いい!」
 反撃しようにも立ち上がれない。
 炎を発動体から絶え間なく生じさせているが片っ端から掻き消される。
 仮ににちかが令呪を使ってアシュレイの能力値を底上げしたとしても、果たして彼我の差を埋められるかどうか。
 それ程までの出力差の前に地へ押し潰され続けるのを余儀なくされるアシュレイ。
 リンボの言う通り、身動きは取れずとも生命活動だけは星辰光の性質のおかげで続行できていたが。
「そこで黙って見ていなさい。
 貴方の使い道はそれから考えますのでね」
 損傷と再生を繰り返すアシュレイを前に悠然と踵を返したリンボ。
 その眼は彼に比べて格段に戦闘能力で悖るアイドル達と、それを守るメロウリンク・ウィリアムの二人へ向けられていた。
 そしてそれに呼応するように空の太陽がぎょろりと瞳を動かす。
 次に呪い殺すべき獲物達を。
 滅ぼすべき都の民達を。
「ン、ン、ンンンン――というわけでお待たせ致しました役立たずの皆様方」
 嬲るような眼差しだった。
 リンボも、そして太陽も。
「現実とは斯くも無情なもの。
 罠を張り巡らせ策を張り巡らせ!
 持たざる者なりに小癪に裏を掻こうと尽力していたのに、こうして白日の下に引っ立てられてしまうとは」
 そして視線の先の彼らはどうしようもない程に詰んでいる。
 機甲猟兵メロウリンクが得意とする戦場が此処に今更生まれてくれる余地はなく。
 犯罪卿ウィリアムの策謀も交渉術もリンボという名の圧倒的暴力の前には何の意味も持たない。
 アイドルの少女達は論外だ。
 令呪を駆使したとしても…そもそもからして英霊としての霊格が低い彼らが果たして命令通りに逃げ切れるかどうか。
 何しろ彼らが相対しているのは美しき肉食獣。
 弱者を追い詰め、甚振り、弱りに弱った所を喰らい貪ることを生業とした生き物なのだから。
「あちらの彼はやたらと死ににくく、ついつい拙僧芥虫などと謗ってしまいましたが…」
 弧を描く口から鋭利な牙が覗いた。
「その点あなた方はそれにも劣る。無力で惨めで何にもならない…蠢くばかりの蛆虫のようですな?」
 もはや一方的に虐殺するだけで事は足りる。
 勝利を確信するが故にリンボの舌もよく回る。
 光り輝く少女達と、それを尊いと思ったサーヴァント達を虫になぞらえ嗤う獣に。
「…じゃあ。さしずめあなたは、誰にも評価されない"害虫"ですか」
 声の震えを押し殺しながら言葉を吐きかけた少女が、一人。
 声の主は、田中摩美々というアイドルだった。
 悪い子を自称し笑った彼女が今目の前にしているのは正真正銘本物の悪。
 誰かを踏みつけ痛めつけ、大切なものを奪われた人の悲しみや憤りを肴に笑う邪悪。
「リンボさんでしたっけー。あなた…なんていうか、可哀想なヒト――なんですね」
「ははは。愛らしいですなァ。大切なご同輩を侮辱されて腸でも煮やしましたかな」
「たまにいるんですよー、アイドルやってるとー…」
 二人のにちかの視線が摩美々へ向かう。
 何を言ってるんですか。
 余計怒らせてどうするんですか。
 言葉には出さなかったが、口に出されたら摩美々も文句の一つも言い返せなかっただろう。
「新曲が好きじゃなかったーとか。SNSで返信してもらえなかったとか。
 流石に私はそこまではなかったですケドー、握手会でやらかして出入り禁止にされて逆恨みで…とか。
 そういうほんのちょっとした理由でファンからアンチに変わっちゃう人って多いんです」
 彼女のサーヴァントであるウィリアムもそうだった。
 だが彼は敢えて何も言わなかった。
 何も言えなかった、に近いかもしれない。
 合理的に考えればどう考えても得策とは思えない行為なのにも関わらず。
「リンボさんってー。そういう人たちに、すっごい似てますよ」
「…ほう?」
「人の嫌がることばかりして。人の悪口ばっかり思い付いて。
 でもー…自分がどういう人なのかってことは誰にも伝えようとしない。
 一人で歪んで腐って、その結果みんなに煙たがられて嫌われてしまう。
 そういう人って……私みたいな駆け出しでも覚えがあるくらい、現代にはいっぱいいるんですよー」
 摩美々は決してリンボに同情しているわけではない。
 そんなわけがない。
 そこには怒りがあって嫌悪がある。
 したり顔で戦場に現れて。
 恥も外聞もなく全てを横取りしていくような男に対し、優しい心を持てる程田中摩美々という少女は"いい子"ではなかった。
「拙い言葉ですねェ。詰まるところ何を仰りたいので?」
「…リンボさんってー」
 震えは今も止まっていない。
 恐怖が心を焦がし削る。
 絶望の二文字を極力見ないようにしているだけだ。
 でも。
「つまんない人なんですね。私の知ってるサーヴァントさん達とはー、大違いです」
「――ンン」
 それ以上に腹が立っていた。
 だから言わずにはいられなかった。
 そして摩美々の紡いだ勇気ある言葉は。
 勝者を気取り嘲笑うアルターエゴ・リンボの本質の一端を確かに射抜いていた。
「耳を貸すまでもありませんでしたな。どのような愉快な遺言を吐いてくれるものかと拙僧密かに期待していたのですが」
「…じゃあ"愉快"ではなかったんですねー。摩美々さんの言ったことって」
 顔を不織布マスクで半分覆った方のにちかが、何を思ったか追い打ちをかけた。
 摩美々が驚いたように彼女を見る。
 にちかはそれに対して困ったように笑ってみせた。
「全く以って下らない。苦し紛れの戯言を唱えている暇があるなら、いっそ令呪に頼って逃走でも図っていれば良かったものを…」
 アルターエゴ・リンボ。
 真名を蘆屋道満
 彼はまさに田中摩美々が言うように、誰かの存在を苦にして魔道に堕ちた存在であった。
 通常の法師を基準で考えれば十二分に天才であるとの評価を下されていた道満を。
 遥かに置き去り燦然と輝く才能があった。
 蘆屋道満があらゆる努力を費やしても届き得なかった。
 その肩に手をかけることすら叶わなかった神才。
 リンボの誕生のプロセスにおいて彼の存在は欠かすことのできないもので。
 だからこそ摩美々は彼を言い負かしたと言える。
 悪魔のように嗤う美しき獣の奥底にある真実を、たとえ一部なれど彼女は確かに射止めてのけたのだから。
「お喋りはもう良いでしょう。では現実を見せて差し上げる」
 しかし、しかし。
 口ではこの男は止められない。
 横溢する魔力/呪力。
 破滅的な一撃が数秒と経たない内にやってくると分かったからこそ、犯罪卿ウィリアム・ジェームズ・モリアーティは即座に行動していた。


“我々に勝率はない。七草にちかのアーチャーの存在を勘定に含めても、アルターエゴ・リンボを討ち斃すには遠すぎる”
 頼みの綱はアシュレイ・ホライゾン。
 そして彼方の地で奮戦する星奈ひかるだった。
 しかし前者はリンボによって無力化されている。
 残るはひかるのみ。
 だが彼女も…時間を増す毎に気配と魔力反応が弱まっていた。
 櫻木真乃の様子を見るに彼女も彼女で死力を尽くしてくれているようだが――果たして間に合うか。
“出し惜しみをしていられる状況ではない”
 ウィリアムは懐から取り出した少量の紙片を口に含んだ。
 その名は地獄への回数券(ヘルズ・クーポン)。
 この地で手に入れた、ウィリアムをして驚く程の効能を持った合成麻薬だった。
 通常のサーヴァントが服用してもきっと意味はないだろう。
 しかしウィリアムはこの界聖杯に集められたサーヴァント達の中でも最も非力であり…最も人間に近い。
 だからこそ。
 英霊でありながらその薬効の効き目に与ることができた。
 これより数時間の間は、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティは超人の領域に爪先だけでも踏み込むことができる。
“もしも万一。星奈ひかるが敗れ去り、あの修羅のランサーがリンボに加勢するような事態になれば…”
 とはいえそれは事態の好転を意味しない。
 クーポンを服用(キメ)たウィリアムでも、リンボには間違いなく敵わない。
 希望はもはやひかるだけだ。
 彼女が猗窩座に敗れたならその時点で…283プロダクションに起因する主従の連合軍の完全敗北は確定する。
“…私は。マスターに……彼女に、最悪の決断を迫らなければならないだろう”
 己一人で何処まで逃げられるかは分からない。
 しかし残りのマスターやサーヴァントを囮に使えるならば話は変わる。
 犯罪卿ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ。
 彼はマスターとその縁者がこの界聖杯を脱せることを最善としそのために尽力していたが。
 それでも――彼の中には確かな優先順位が存在していて。
 もしもこれまでの現状が"維持できる"という大前提が崩れたなら、その時は。
 己がマスターのために悪に徹することさえも辞さない構えでいた。
 そうならないことを祈りつつ。
 クーポン服用の証拠に目元へ独特の紋様を浮かび上がらせたウィリアム。
 そんな彼の行動や内心など無問題とばかりに――アルターエゴ・リンボは嗤っていた。


「では。第一打と行きましょう」
 その言葉と共に。
 世界が揺れた、揺らいだ。
 リンボの行動は実に単純。
 撒き散らす呪詛の太源たる太陽から呪力を引き出し適当に叩きつけただけ。
 しかしそれだけで。
 水面に大岩を叩き込んで波紋が生まれるように、莫大なまでの呪いの波が生まれ。
 それはまともな戦う術を持たない少女達とそのサーヴァントに容赦なく襲いかかった。
 抵抗の余地などあろう筈もない。
 ライフル弾を打つ? 手持ちの爆薬を使う? 策を弄してこの状況からでも生き延びられる手を探る?
 無駄だ。
 全て無駄だ。
 そして更に。
 呪詛の炸裂が起こる一瞬前。
 此方の物事になどまるで意識を割けない程もう片方の戦争に意識を集中させていた少女が…櫻木真乃が。
「ぁ――」
 アーチャー、星奈ひかるのマスターが。
「ぁ…あ、ああぁあぁあああああ……!!」
 慟哭の声をあげて。
 それを以って全ての希望は潰えた。
 星は潰え境界線は地に堕し。
 光(おまえ)の出番は二度とない。
 嘲笑う獣の第一打が放たれ。
 忌まわしき波濤が、地を覆った。

    ◆ ◆ ◆

「おや」
 第一打、吹き荒れて。
 悪なるリンボは驚いたように目を開いた。
「おやおや、おやおやおや…存外にしぶといですね? あるいは悪運が強いと言うべきか。兎も角、ンン――」
 彼の一撃で命を落とした者は結論から述べるといなかった。
 アーチャー、メロウリンクのマスターである方の七草にちかは。
 己のサーヴァントに庇われながら地を転がることでどうにか押し寄せる呪いの波の安全圏に入ることができた。
 そして田中摩美々ともう一人の七草にちかはウィリアム・ジェームズ・モリアーティが助けた。
 神算めいた目算で安全圏を割り出し、そこに転がり込む形で二人を押し込んだ。
 損傷は大きかったが地獄への回数券の効力ですぐさま再生する。
 そんな彼も失意の櫻木真乃にまで手を伸ばす余裕はなかったが。
 彼女は――何の幸運か。
 最初から、疎らに押し寄せる呪詛の波の安全圏に座っていた。
 だから地を転がり意識を失う程度で済んだ。
 傷一つ許されないアイドルの体は細かな擦傷と土埃で塗れていたが…それでも命が残っているだけで僥倖だろう。
 果たして彼女が無事で済んだのはもうこの界聖杯に存在しない"星"のおかげなのか。
 そこの所は定かでなかったが…しかし。
 事態は依然として、何も好転などしていない。
 少なくとも二度目はないとこの場の全員が確信していた。
「もはや令呪を扱える者すら少なくなりましたなァ…」
 サーヴァントを失った櫻木真乃とウィリアムのマスターである田中摩美々は意識を手放していた。
 今や意識があるマスターは二人の七草にちかのみ。
 彼女達が今此処で令呪を駆使し…よしんば逃亡が上手く行ったとしても。
 それでも最低限櫻木真乃と田中摩美々の二人は見捨てることを余儀なくされる。
「さて、さて。頭を捻り策を捏ね回すしか能のない蜘蛛めは良いとして」 
 リンボの目が向いたのは――機甲猟兵。
 メロウリンク=アリティーの方であった。
「不思議なお方だ。
 敢えて安全圏を用意したのはひとえに拙僧の諧謔ですが…貴方はマスターを守りたいが余り、自らの身を呪詛の氾濫の中へ置かねばならなかった筈」
「…ならどうした。勲章でも贈ってくれるのか?」
「いえ? ただ…興味を惹かれたものですから」
 ザッ、ザッ…と。
 リンボは彼の方に足を進め。
「少々試してみたくなった次第」
 そのまま手を翳した。
 それだけで確殺の準備は整う。
 神秘の残る時代の都を転覆させんと燃え盛った怨霊。
 それだけに留まらず、異なる邦の二柱の神をも取り込んだ陰陽師。
 その霊基及び行使できる権能の桁――土臭く泥臭い猟兵なぞとは比べ物にもならない。
「貴方はどうやら類稀なる星の元に生まれておられるらしい。
 特異点とまでは行かずとも。その近似値になれる程度の素養はありましょう」
「…随分と多弁なものだ」
 メロウリンク・アリティーは生きていた。
 あの呪いの波状攻撃の中、形振り構わない挺身を強いられながら。
 それでも全身に大小様々な擦過傷を負うのみで済んでいた。
 浴びた呪詛の総量も極めて小さい。
 異能じみた生存力。
 特異点の近似値
 ああ、ならば?
「あぁ、あぁ、あぁ! では、では? この拙僧めが全霊で貴方という個の滅殺に注力したならば、どうなるのでしょうねェ――?」
 リンボの択は正解であった。
 彼は近似値。
 人より多少死ににくい。
 コンマ1%程度の可能性ならばモノにできる。
 だが、だが。
 所詮は近似値。
 本家本元の異能生存体には程遠く。
 この距離そしてこの状況で、圧倒的な出力差のあるサーヴァントを前にして。
 それが他でもない自分個人を狙い澄まして放つという先述の確率を遥か下回る"死"を前にして奇跡を掴み取れる程――万能ではない。
「興味深い。早速試してみるとします」
 リンボの魔手が伸びる。
 メロウリンクの判断は速かった。
“俺に此奴と継戦できるスペックはない。此奴の攻撃を耐えられるとも思えない”
 ――即ち。
 継戦でも耐久でもなく応戦。
 対ATライフルに備え付けられた最大武装。
 ATの硬い装甲すら紙のように引き裂く機甲猟兵の牙…パイルバンカー。
 それを以ってリンボを撃ち抜き滅殺することを、彼は選んだのだ。
“…マスター。今から賭けに出る。令呪を使って援護を頼みたい”
“わ…分かりましたけど。大丈夫なんですよね……勝算、あるんですよね?”
“ある。少なくともゼロではない筈だ”
 令呪一画を載せた一撃であれば。
 慢心しきっているリンボの虚を突き終わらせられる可能性もある。
 苦し紛れの希望的観測ではない。
 メロウリンクは大真面目に、その勝利へと続くか細い糸口を見据えていた。
“ただそれで無理だった時は即座にもう一画を切ってくれ。
 令呪の効力があるとはいえこの身で何処まで無理が効くか分からないが…可能な限りの人員を連れて離脱する”
 七草にちか一人だけならば成功率も高いのだろうが。
 摩美々や失意の真乃、そしてもう一人の自分を置いて逃げ馬に乗ることを彼女は良しとしない…できないだろう。
 賭けに次ぐ賭けにはなる。
 それでも元より絶体絶命の断崖絶壁。
 無抵抗で殺されるよりは遥かに良い筈だとメロウリンクは信じていた。
“…不甲斐ないサーヴァントですまないな”
“謝んないでくださいよ…こんな時に。誰のおかげで私達が今生きてられると思ってるんですか。
 もうひとりの私のライダーさんに、摩美々さんとこのアサシンさんも確かに頑張ってくれましたけど。
 それでも……その。アーチャーさんだって、いっぱい仕事してたじゃないですか”
“……ふ”
“なっ! なんで笑うんですかー! 今の真面目な所なんですけどー!?”
“いや、すまない。笑うつもりはなかったんだが…ついな”
 丁度良かった。
 肩が心なしか軽くなった気がする。
 良い援護を貰えたとメロウリンクはそう独りごちながら。


 瞬時に――機甲猟兵メロウリンクの顔に戻る。
 敵はATに非ず。戦車にも歩兵にも非ず。
 敵は悪のアルターエゴ。
 ATを遥か置き去る破壊力と未知の危険性を多分に含んだ害悪存在。
 勝率、コンマ1%の果てしない下方。
 しかしゼロではない。
 ゼロではないのなら。
“令呪を以って命じます…アレ、ぶっ殺しちゃって! アーチャーさん!”
 機甲猟兵は戦える。
 弱者の牙、パイルバンカー。
 照準――アルターエゴ・リンボへ。
「ふはははははなんと無様! そしてなんと不格好な鼠か!
 今、今! このリンボめが貴様の運命を試してくれる!」
 リンボの手が印を結ぶ。
 そして高らかに叫ばんとした。
「死ねェ――何ッ!?」
 そこでメロウリンクは発射した。
 パイルバンカーを。
 令呪一画で強化されたそれは初速から音に届く。
 言葉はない。
 勝利への確信など存在しないからだ。
 無言のメロウリンクと動揺のリンボ。
 パイルバンカーの穂先は反応の追い付かないリンボの顔面に迫り――そして。
 爆ぜた。
 メロウリンクの牙はアルターエゴ・リンボに届いた。
 黒い灰のようになり崩れていくリンボの像。
 しかしそれを見た瞬間。
 今尚リンボの呪詛との耐久戦に束縛されているアシュレイと彼女のマスターたる七草にちかが同時に叫んだ。
「ダメだ――アーチャー!」
「まだですッ、そいつまだ死んでない!」
 彼らがそれに気付けた理由。
 それは昨日の夕方に彼らがリンボを一度退けていたことにある。
 あの時もアルターエゴ・リンボは灰のように崩れ去った。
 しかしどうだ。
 リンボは悠々と生きており、跳梁跋扈し続けている。
 式神――。
 陰陽師の十八番であり、在り方を工夫すれば偽りの生活続命にも通ずる法術。
「 ン ン 」
 声はメロウリンク達の背後からした。
 空間からまろび出るアルターエゴ・リンボ。
 いつ入れ替わった。
 その疑問をようやく浮かべられたのはこの段階。
 そして目前で起こったことに思考が追い付いたにちかは一画減った顔面の令呪にすぐさま意識を集中させる。
「あ…アーチャーさん! 令呪を以って……!」
 だが。
「遅い」
 既にその時、リンボは行動を終えていた。
 その手から迸る呪わしき魔力。
 咄嗟にライフルを向け直そうとするメロウリンクだが間に合わない。
 そしてそれは、令呪の行使においてもだ。
 にちかが命令を口にし終える前に、問題なくリンボはメロウリンクを抹殺できる。
 完全なる詰み。
 確定する死。
 犯罪卿ウィリアムが増強された肉体性能に飽かして仕込み杖を投擲していたが、それも遅きに失した。
“…何か無いか。手は――”
 降り注ぐ死を前に近似値はそれでもと思考する。
 最後の一瞬まで考え続けた。
 しかし無情。
 さしもの彼もこの苦境では活路の一つも見出だせず。
 死は堕ちた。
 命が散った。
 死臭と噎せ返るような呪詛の中で一つの命が壊れる。


 …きっと。
 「七草にちか」はこの時起こったことを忘れられないだろう。
 全ての希望が潰えていた。
 そこには何もなくて、ただ絶望だけがあって。
 嘲笑う陰陽師の手から放たれた闇が機甲猟兵を貫かんと迫っていた。
 令呪行使は間に合わない。
 メロウリンクの反撃もやはり間に合わない。
 そんな中で、全ての時間が遅滞する錯覚をにちかは覚えた。
 …一ヶ月。
 それは日常ならば短いが、非日常であればあまりに長い時間だ。
 それだけの時間を七草にちかはメロウリンク=アリティと共に過ごしてきた。
 朝起きてご飯を食べて他愛ない話をして夜が来て。
 たまにはナーバスになって八つ当たりしちゃって、それでもメロウリンクは変わらず自分のサーヴァントで居てくれて。
 本戦が始まれば危ない所は助けてくれて。
 最初は随分と陰気臭い人を喚んでしまったと思ったものだったけど。
 それでもいつの間にか。
 メロウリンクはにちかにとって、唯一無二の存在になっていた。
 家族を失ったばかりのにちか。
 翼のないまま現実を生きることを選んだにちか。
 孤独で虚ろな少女(ヴァニティーガール)の隣にふらりと現れたメロウリンクの存在は。
 彼女にとってかけがえのない、少なくとも代えは利かない"パートナー"になっていた。
 誰だとて人間、孤独なままじゃ生きられない。
 肉体的にも社会的にもそうだし。
 何より心が耐えられない。
 ましてや多感な時期の少女であるなら尚のこと、そう。
 別に色恋じゃなくたって。
 その手の感情じゃなくたって…誰かを大切に思うということに貴賤はなくて。
 もう何もかもが取り返しのつかない時になって初めて七草にちかは気付いた。
 あぁ。私は――この寡黙なクセして変な所で可愛げのある猟兵のことが、思いの外好きだったらしいと。
 だから。
「…アーチャーさん!」
「――にちかッ!?」


“…うわ”
 その時。
“何やってんだろ…私”
 体が勝手に動いていた。


    ◆ ◆ ◆

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最終更新:2022年05月14日 22:15