時は早朝。
土地は墨田区、東京スカイツリー。
赤き塔を下して日本最大の電波塔の座を奪った現代の東京都の象徴。
そこに三人の強者が今集っていた。
一人は褐色の肌を重い火傷で染め上げた片翼の魔人。
命があるのかどうかすら危うい大傷を負いながら、しかしその総身に漲る生命力は余人のそれを遥かに超えていた。
それどころか刀傷を受け、煌翼の火に焼かれる前の彼と比較しても……劣るどころか圧倒的に勝る程。
その男は雄々しくそして不敵に霊地を踏み締める。
焼け付いた疵顔に浮かべる笑みは痛々しい筈なのに、何故こうまで美しく写るのか。
「盗人が…よくぞそうも堂々たる面構えをできるものだ」
混沌(ケイオス)という概念を人の形をした鋳型に流し込んで固めたみたいな男だった。
彼でなければ、今このスカイツリーに結集した二者を指して盗人だなどと切り捨てる事はまず不可能だったに違いない。
彼だからこの状況で笑えるのだ。
絶望? 臆病? 寝言は眠って言うのが作法であろうが。
待ちに待った、そして夢にまで見た飛翔の時である。
雑多な羽虫を当然のように踏み潰して喜んだのではつまらない。
この程度の役者は用意して貰わねば困るというものだ。
だから彼は、鋼翼の蝿王
ベルゼバブは笑うのである。
一度は己を斬り伏せた侍と、新宿で狂宴に興じた青龍に並び得る女傑を前にしても尚。
「マ~ママママ! 宝を前にして笑わねェ海賊が何処に居る!?」
その女傑は大きかった。
ベルゼバブですら見上げねば全貌を見通せない程に巨大だった。
霊地を奪うべくして現れた悪神、その形容を誇張だと笑う者は誰一人居るまい。
全身から荒れ狂う竜巻のように激しい覇気を横溢させながら吠える彼女の姿は、破滅的なまでに暴力的だったから。
「驚きだ。余へけしかけて来るなら、貴様ではなく
カイドウの方だと思っていたのでな」
「そりゃ生憎だったな。あの野郎はアレで意外と女々しいとこがあってねェ。今は宝そっちのけで因縁の侍にご執心さ!」
「フッ、それは愚かな事だ。適切な戦力を適切な場所に割く判断も出来ないとは…そんな体たらくでよくぞ提督などと名乗れたものだ」
新宿で相見えた青龍の鬼神カイドウ。
ベルゼバブは彼に虎の子の"槍"を抜かず。
カイドウもまた、その真の速度を見せる事はなかった。
己の命に最も肉薄できるのは間違いなく奴であろうと踏んでいたベルゼバブは、現れた海賊の顔を見て多少拍子抜けさせられた。
彼女ともまた面識はある。
小競り合い程度の時間ではあったが拳を交えた。
その上で尚、ベルゼバブから彼女に対する認識は――
「身の程を弁えよ、盗人。貴様では余に勝てん」
「へェ…言うじゃねェか。このおれを格下扱いかい?」
「格下扱いしているのではない。事実として、格下なのだ」
今以て、取るに足らない相手止まりであった。
少なくとも今の己に通用する相手ではないと。
何かを魅せる事のできる羽虫ではないと。
心からそう思っているからその声色には侮りすら混ざらない。
舐めているのでも何でもなく事実として、ベルゼバブは目前の"四皇"を下に見ていた。
「晩節を汚したくなければ今すぐ踵を返すがいい。此処は貴様の戦場ではない」
未だかつてない程の侮辱。
それを受けた女帝シャーロット・リンリンもしかし笑みを崩さない。
傲慢にして高慢、全身に隈なく地雷原を埋め込んだようなこの女を知る者ならば逆に不気味に感じただろう。
この女が、恐るべきビッグ・マムが…罵倒を受けて笑って済ませるなど有り得ないと。
嵐の前の静けさにも似た気味の悪さを感じずにはいられなかったに違いない。
「おれはお前に逃げろなんて言わねえぞ、ランサー」
「ほう。流石は海賊だな、処刑執行人にも拘るのか?」
「お前にだけは見せてやりたいのさ。お前の手が届きもしねェ高みまで上ったおれの姿を、歯軋りしながら見上げてほしいんだよ」
ベルゼバブは強い。
恐らくは自分よりも。
それは傲慢な女海賊が何十年ぶりかに感じた畏怖だった。
その不敵な笑みに、リンリンの知る二人の海賊が重なる。
海賊王と呼ばれ…偉大な遺産と傍迷惑な負債を残して死んだ男であり。
世界最強の男と称され、下らない家族ごっこの末に死んだ男であり。
ゾクゾクと背筋が粟立つ感覚を覚えた。
恐怖ではなくあくまで畏怖だ。
そして嵐の海に嬉々として帆を張り漕ぎ出すような愚か者のドリーマーは、しばしば畏怖を高揚へ書き換える。
「這い蹲ってあがくお前の悔しそうなツラ! それを踏み潰しながら奪い取る宝は…さぞかし極上だろうなァ……!!」
「余から奪う夢を描くか。その大望は貴様の器には余るぞ」
「マ~ママママ…。人の器の心配してる場合かい? 今からお前は、その器ごとおれにブチ壊されちまうんだよ」
張り詰める緊張感は爆発寸前の爆弾にも似ていた。
或いは噴火寸前の火山、決壊寸前の水脈。
これから何か取り返しの付かない惨事が起こる直前特有の、痛い程の緊張があった。
そんな中で涼しい顔を保ち不動で立ち続けるその男もまた――蝿の王と母なる悪神に負けず劣らぬ怪物である。
ベルゼバブはその胴に刻まれ、未だ絶える事なく灼熱感を与え続けている刀傷がズキリと疼くのを感じた。
リンリンもまたかの男の強さに関しては微塵たりとも疑っていない。
いや、それどころか…ある意味ではベルゼバブ以上に警戒を払ってさえいた。
「なんだ陰気な男だね。これから殺し合うんだ、今の内に覇の一つも吐いておいたらどうなんだい」
「私は戦いが好きではない」
「ハ~ハハハそりゃいくら何でも勿体ねェだろ! 宝の持ち腐れも良いところだ!」
「他人を好き好んで傷付ける事も、他人から奪い取って悦に浸る感情も。
私には一切理解ができない。従って、この状況でお前達のように猛れる感性がそもそも私には存在しない」
混沌の鋼翼ベルゼバブ。
災厄の地母神ビッグ・マム。
そして侍、
継国縁壱。
今はもうこの世界に存在しないさる悪鬼を討つべく天の神仏が拵えた特注品の人類種。
ベルゼバブを斬り、カイドウの速度にすら並び立った静謐の規格外。
「只斬るのみだ。私はその為だけに此処に立っている」
「相変わらず…癪に障る男だ」
縁壱に一度不覚を喫したベルゼバブが笑う。
縁壱もまた改めてその姿を視界に収めた。
「そういうお前は、"相変わらず"ではないようだな」
「然り。既に余は新生を済ませている」
リ・バース・オブ・ニューキング。
かつて継国縁壱が斬り伏せたベルゼバブはもう此処には居ない。
煌翼に灼かれ、死の淵に瀕して蘇った新たなる王。
その総身に漲る力を縁壱は煮え滾る溶岩のようだと思った。
新生などという仰々しい言葉も、こと彼が今するべき自称としては全く正しい。
縁壱でさえ静かなる戦慄を禁じ得ない圧倒的な完成度と、その中に介在する未完成さ。
戦いの中で成長し完成していく怪物――恐ろしさは縁壱が知る始祖の鬼の比ではなかった。
「心せよ。生半可な剣であれば、硝子のように砕いてくれるぞ」
「心せずして剣を振るった事など……生まれてこの方一度もない」
縁壱はカイドウと契約を交わしている。
鋼翼のランサー、ベルゼバブの討伐という契約。
だがそれを抜きにしても、今の彼にベルゼバブを討たないという選択肢はなかった。
この世に産声をあげたその瞬間から人界の守護者としての役割を任ぜられていた男。
その魂が言っている。
これを生かしておいてはならないと。
半日前に打ち合った時の何倍もの危機感で己に訴えかけている。
「お前達という混沌は、此処で止める」
ベルゼバブだけではない。
ビッグ・マムもまた、縁壱が斬り伏せる標的だった。
これ程強力なサーヴァントが霊地を奪い龍脈の力を得たならば、この世界は急速に破滅へと向かうだろう事が理解できたから迷いはない。
この二体は此処で討つ。
龍脈の力を得させはしない。
全ての混沌、その根を断ち切る。
それが継国縁壱の覚悟で、それを聞いた海賊は哄笑した。
「ハ~~ハハハママママ! 聞いたかいランサー!? この野郎、おれ達を二人纏めて相手にするつもりらしい!」
「羽虫が余に共感を求めるなど億年早い。だが…これに限っては余も笑いを堪えられんな」
「欲を掻くねェ! おれとコイツを纏めて斬るって!?」
「それは――」
「そいつは――」
愉快痛快と大笑するビッグ・マム。
小さく、それでいて確かに笑うベルゼバブ。
二人が揃って笑う光景は一見すると和気藹々としてすらいたが。
それが弾ける程の殺意と獰猛さに挿げ替えられるのは、一瞬だった。
「――おれの」
「――余の」
「「領分だ!!」」
覇気と闘気が手加減無しに溢れ出す。
幸いスカイツリー周辺に一般人は残っていなかったが、もしも残っていたならば失神を通り越して即死していただろう。
皇帝と覇王が同時に全力で解き放った重圧。
そんなものを、"可能性"すら持たない常人が受け止められる筈もない。
「おうおう、全員意向は同じのようだな!」
「フン。羽虫同士寄り合って挑んでくればいいものを…救い難き莫迦共だ」
誰が誰と手を組むこともない。
彼らが望むのは自分以外の滅びである。
皇帝は龍脈を奪う事だけを目論み。
覇王は己の所有物に手を伸ばす不遜者から収奪する。
そして侍は、混沌を齎す者達を斬り伏せる。
相性など介在する余地はとうにない。
力、ただ力。
それだけが雌雄を決する唯一の鍵となる、血で血を洗う三つ巴!
「役者は揃った、じゃあ始めようぜ――楽しんでいこうじゃねェか……!!」
霊地争奪戦――スカイツリー決戦、開幕。