◆◇◆◇
聖杯戦争―――予選開始直後。
閑静な夜の住宅地。
その片隅にひっそりと残る廃屋にて。
「夕飯のチミチャンガだ。たんとお食べ」
寝室と思わしき薄汚れた一室に、赤黒いスーツを纏った怪人が顔を出す。
その右手に、香ばしい香りが漂うレジ袋を携えながら。
その中にあるものは、紙袋に包まれていたソウルフードだった。
肉や煮豆にサルサなどの具材をトルティーヤで包み込み、丸ごと揚げたメキシコ料理。
そう―――この怪人の好物、チミチャンガである。
「……チミ……何?」
「チミチャンガ」
「何だよ、それ」
「この世で最も響きが素敵な食い物さ」
部屋の隅で蹲るように座り込んでいた少年――
神戸あさひは、怪訝な顔で問い掛ける。
眼の前の怪人は、どこか見せびらかすようにレジ袋を掲げて。
チミチャンガ、チミチャンガ、チミチャンガァ―――そんな言葉の語感を楽しむようにその名を呟き続けている。
そんな飄々とした彼の態度を、あさひは何とも言えぬ表情で見つめていた。
日雇いの仕事を終えて、あさひは休息を取っていた。
聖杯戦争と、孤独な日常。二足の草鞋を履くような日々に、少なからず疲労を感じていて。
ここ数日の滞在場所として見つけた廃屋で、彼は無気力に座り込んでいた。
―――そんな矢先に、何処かへと出掛けていた自分の“従者”が戻ってきたのだった。
「知らない?チミチャンガ」
「知らないよ」
「まぁとにかく食え、美味いから。カロリー高いけど」
コミックだと元々そんな好きじゃない設定だったんだけどね。
そんな訳の分からないことを呟きながら、怪人はあさひの隣に腰掛ける。
そのままレジ袋からチミチャンガ入りの紙袋を取り出し、あさひの分を手渡す。
「何処で買ったんだよ」
「そのへんのメキシコ料理屋でテイクアウトだ」
「というか……まさか、その格好で?」
「店主のヤツ、“未知との遭遇”って感じの顔してドン引きしてやがった」
「お前なあ……」
愉快だったぜ、と言わんばかりにケラケラ笑う怪人。
マスクの口元を捲り、自分のチミチャンガをもしゃもしゃと咀嚼している。
それを買った金の出処は語らないが、以前は「敵マスターからカツアゲしてやったぜ」なんて言っていたこともあった。
そんな彼を呆れるように見ながら、あさひは手元のチミチャンガを一口ずつ食べ始める。
―――まあ……確かにうまい。そんなことを思っていた。
アヴェンジャーのサーヴァント、
デッドプール。
彼は、
神戸あさひが召喚した従者であり。
饒舌で掴み所がない、破天荒な奇人だった。
常にお喋りで、軽口を叩き続け。
緊張感のない態度で、いつも接してくる。
まるで道化のように戯けて、自分を散々に振り回してくる。
聖杯戦争の予選が幕を開けてから、何日か経ったけれど。
あさひにとって、
デッドプールは未だに“距離感の分からない相手”だった。
自分の人生の中で、一度も出会ったことのないような人間だった。
あさひが知っている“大人”は。
いつだって余所余所しくて、知らぬ存ぜぬの顔をしていた。
煙たがるように、自分のことを遠ざけていく。
関わりたくない。怖い。迷惑だ。
そんな眼差しを向けて、突き放してくる。
だからこそ、
デッドプールは未知の存在だった。
躊躇なく踏み込んできて、容赦なく突っ掛かってくる。
そんな彼との交流に、あさひは少なからず戸惑いを覚えていた。
口元だけが捲られたマスク。
そこから覗く素肌は、酷く爛れている。
それが意味するものを、あさひは聞くことができない。
「なぁ、あさひよ」
「お前いっつも辛気臭い顔してるな。
DC映画のキャラみたいだぜ」
ふいに、誂うようにそんなことを言ってくる。
あさひは思わず呆気に取られる。
「『ザ・バットマン』のロバート・パティンソンを気取りたいんなら辞めとけ。
ありゃ見るからに根暗だ。クールと思う奴もいるだろうが、女には絶対モテない」
相変わらず捲し立てるように喋る
デッドプール。
辛気臭い顔―――図星と言えば、図星なのだろう。
あさひはそう思って、俯きがちに視線を落とす。
「……俺は、むしろ」
やがて食事の手を止めて、あさひはぽつりと呟き始める。
「あんたの方が、分からない」
「そうかい?」
「なんで、軽口叩いてられるんだよ」
確かに自分は、後ろ暗い顔をしているのだろう。
笑顔を枯らして、久しいのだから。
あさひは、自らを俯瞰して思う。
だからこそ、彼にとっては寧ろ。
そんなに軽口を叩いていられることの方が。
そんなに気ままに振る舞えることの方が。
こんな戦いの中で、常にふざけられることの方が。
よっぽど奇妙で、不思議に映っていた。
絶対に、聖杯を掴み取る。
家族との日々を取り戻すためにも。
本当の幸福を手に入れるためにも。
だからこそ、負けられない。
あさひは、そう決意していた。
あの病室での“妹”との決別を経て。
“母さん”との約束を果たせなくて。
それ故に彼は、奇跡の願望器へと縋っていた。
勝てば、自分はようやく人生を始められる。
負ければ、何も得られず―――下手をすれば命を落とすことだって有り得る。
そんな状況の中で、あさひは戯けていられる余裕などあるはずがなかった。
悲しみを抱え。喪失を背負い。
自分の願いを、賭けに乗せた。
あさひの心は、張り詰めていた。
デッドプールの振る舞いを、理解できなかった。
「ましてや、こんな命懸けの状況で―――」
「変だと思うか?坊や」
だから、あさひは。
真面目な声色の返事に、驚きを隠せなかった。
「命懸けだからこそさ」
そして、
デッドプールがそう告げる。
自分は確かにふざけている。それは間違いない。
だが、それは――――今が“命懸け”だからこそ。
彼は、そう伝えたのだ。
「人生ってのは困難の連続だ」
それから彼は、言葉を続ける。
「幸福な時間ってのは、いつだって短い」
自分の人生を、省みるように。
「だから俺ちゃんは戯ける」
不敵に笑いながら。
そして、過去を噛み締めながら。
「笑い飛ばして、ふざけ倒して―――」
彼なりに、子供に何かを教えるように。
あさひに対して、語りかける。
「クソッタレな事態も、楽しんでやるのさ」
―――そして、
デッドプールは。
自らのマスクを、脱ぎ取った。
その下に隠されていた顔を、あさひは目の当たりにする。
まるで焼け爛れた痕のように。
腐敗していく果実のように。
顔中の皮膚が、病に蝕まれていた。
赤黒の覆面に覆われていた、その容貌を見て。
思わずあさひは顔を引き攣らせ、言葉を失い。
しかし、とうの
デッドプールは―――ニヤッと笑ってみせる。
俺ちゃんはこんな酷いツラだ。
素顔を晒せば、こんなクソッタレな姿だ。
シワだらけのキンタマみたいだろ?
だがそれでも、気ままに楽しく生きられた。
こんな不幸を背負っても、なるようになった。
だから――――。
「―――お前も、笑ったっていい」
そう伝えながら、
デッドプールは。
あさひの肩を、穏やかに叩く。
「胸張って生きな、あさひ」
笑みを見せながら、そう語りかける
デッドプール。
いつになく穏やかで頼もしい、そんな姿を前にして。
あさひの緊張と動揺は、自然と解れる。
眼の前の相手に対する困惑が、少しだけ緩む。
先も述べたように。
あさひにとって、
デッドプールは“未知の存在”だ。
戯けて、ふざけて、気楽に喋り倒す。
デリカシーが無くて、いつも図々しく絡んでくる。
そんな傍迷惑な男だった。
それでも、この瞬間。
あさひの心の奥底で。
微かに芽生えた想いがあった。
この人は―――もしかしたら。
信用してもいいのだろうか。
まだきっと、笑うことは難しいけど。
あさひは、無言の中で思う。
“俺ちゃんは、ガキのために戦う男だ”。
初めて出会った日に、
デッドプールはそう告げていた。
その言葉に込められた感情を、ずっと掴みかねていたけれど。
今は少しだけ、理解できるような気がした。
◆◇◆◇
孤独な世界で、空を見上げた。
景色が、僅かな明るさを帯び始めていた。
夏風と共に流れていく雲。
仄かな灯火に照らされたような、深い紺色。
そんな情景を、ぼんやりと見つめる。
荒れ狂う激戦を経て。
焦土と化した新宿の路地で。
少年は―――
神戸あさひは、立ち尽くす。
彼の傍には、誰一人居ない。
廃墟のような世界で、独り佇む。
先程まで行動を共にしていた“殺戮の王子”は、死地へと向かっていった。
多くの仲間の犠牲を経て、先程の戦いを乗り越えた。
彼らから託された遺志を、途切れさせる訳にはいかない。
だからこそ―――彼は、絶対に勝たなければならないと。
そう決意して、件の“霊地”へと向かっていった。
あの場にいた、しおも。
死と破壊をカタチにしたような、白髪の青年も。
きっと、同じように戦場へと臨んでいる。
最早この激流は止められない。ここから先、彼らに足踏みする暇なんかない。
雌雄を決するために、彼らは果てなき死地へと踏み込んでいるだろう。
戦う術を持つ者達は、勝つことを望む者達は、この土壇場で歩みを止めたりはしない。
そんな渦中で、あさひは。
ただ一人の相棒を喪った。
共に戦ってくれた従者。
傍で支えてくれたヒーロー。
何処までも饒舌だった男は、もう隣には居ない。
―――ああ。
―――こんなにも、静かなんだな。
あさひは、痛感する。
この静寂に。この沈黙に。
どうしようもない哀しみを覚える。
デッドプールは、もう何処にも居ない。
そんな覆しようのない現実に直面して。
彼は、立ち止まっていた――先程までは。
孤独の中で、あさひは考えていた。
今の自分に出来ることは、何なのか。
今の自分がやるべきことは、何なのか。
サーヴァントはいない。
デッドプールは、いない。
戦いに関わることは、出来ない。
けれど、ひとつ―――思い残したことがある。
ガムテと共に新宿へと向かった、少し前。
あさひは、一つの“再会”を経ていた。
元の世界で、妹をがむしゃらに追い続けていた自分に。
一欠片の愛を与えてくれて、幸せを祈ってくれた。
彼女は、そんな優しい人だった。
やがて彼女とは死別して。
この世界で、思わぬ形で再会して。
一つの決意へと至った彼女とは、別々の道を進むことになったけれど。
それでも、いつか必ず自分を迎えに行くと約束してくれた。
例え目指す未来が分かたれるとしても。
彼女は――
飛騨しょうこは、ただ直向きに願っていた。
神戸あさひも含めて、皆が幸せになる道を。
《飛騨さんへ。》
《俺の相棒は、最後まで戦い抜きました。》
《新宿区の×××の付近で、彼と別れました。》
《その上で、伝えなければならないことがあります。》
《貴方達から託された“欠片”は、相棒が所持し続けていました。》
《彼が役目を終えた場所に、それが残留しているかもしれない。》
《所在を確認できた際には、また連絡します。》
《貴方達もどうかご無事で。》
《俺も、悔いのないように前へと進んでいきます。》
新宿での戦いの直前、
デッドプールから預かっていたスマートフォン。
あさひはそれを使って、
飛騨しょうこにメッセージを送信していた。
例の“欠片”―――ミラーピースを回収する際に円滑な合流ができるようにと、彼女とは連絡先を交換し合っていた。
しょうこのサーヴァントから、
デッドプールに渡されたものがあった。
その提案が出た際の彼女の反応や、後々に
デッドプールから聞いた話からして。
それはきっと、彼(アーチャー)にとってはとても大切なものであり。
話を聞く限りでも、恐らくは掛け替えのない意味を持った宝具であり。
それでも彼は、しょうこやあさひが最後まで生き残る道を作るために、敢えて
デッドプールにその欠片を託していた。
改めて、あさひは思う。
先程も考えたように、彼らはきっとあの場にはもう居ない。
しお達は―――あの怪物のような青年に率いられた“連合”は。
ガムテと同じように、霊地という戦場へ向かったはずだ。
霊地を中心に、戦いは佳境へと向かっている。
恐らく、決着はそう遠くないだろう。
どの陣営も、この機を逃す訳にはいかない。
つまり、今しかない。
この戦いで徒党を組む陣営が、いずれも霊地へと意識を向けている。
霊地が戦局の中心となり、数々の主従達がそこへと収束している。
最早“サーヴァントを失ったマスター”になど構っている暇はない。
今この機会を逃せば、敵主従達の動きなどの状況は読めなくなる。
自分が少しでも確実に行動できるタイミングは、今だけだ。
だからこそ、あさひは思う。
あの場に戻って―――せめて、アーチャーから託されたものを取り戻したい。
デッドプールが消滅して、それだけが現場に残されているとしたら。
しょうこ達との約束のためにも、あの欠片を回収したい。
自分にとって、
デッドプールが大切な相棒だったように。
しょうこにとっても、あのアーチャーは掛け替えのない存在なのだろう。
短い関わりの中で、あさひはそれを読み取っていた。
だからこそ、彼が託してくれたものを無下にしたくはない。
アーチャーの想いを守ることは、彼に寄り添うしょうこの想いを守ることでもあるから。
それ故に、“ミラーピースの欠片”は取り戻さなければならなかった。
果たしてそれが、本当に残されているのか。
もしかすれば、戦闘の余波によって消滅しているのではないか。
その可能性に、至らない筈は無かったけれど。
それでもあさひは、一抹の希望に賭けたかった。
アーチャーとしょうこから託された意志を、何とかして繋ぎ止めたかった。
彼らのためにも。そして、しょうこへの恩がある自分自身のためにも。
あさひはそうして、己がまずやるべきことを定めていた。
――――ごめん、
デッドプール。
――――お前が、守ってくれたのに。
――――俺を、逃してくれたのに。
心の中で、あさひは謝罪をする。
あの戦場で、命を賭して自分を守り抜いてくれた“相棒”に。
最後まで自分の背中を押し続けてくれた、
デッドプールに。
――――だけど。
――――お前が言ってくれたように。
――――俺は、胸を張りたい。
――――自分を信じ続けるためにも。
――――俺は、歩みを止めない。
それでも、あさひは。
彼に支えられたからこそ。
彼の言葉があったからこそ。
自らの意志を、納得を優先することを決めていた。
胸を張って、前へと進んでいけるように。
自分が通したい筋を、貫くために。
だからあさひは、歩き出す。
例え、傍らにヒーローが居なくても。
この聖杯戦争で、再び一歩を踏み出すべく。
そうして、決意をして。
歩を進めて、荒廃した大通りに出た直後。
あさひは――――思わず、立ち止まった。
彼の視界に、“人影”が映る。
数十メートル先から、ゆっくりと歩いてくる影。
あさひの姿を確認して、一歩一歩に。
歩を進めながら、彼の方へと進んでいく。
あさひは、息を呑み。
眼前から歩み寄ってくる相手を、見つめた。
身構えるように、その場へと佇んだ。
「やっぱり」
透き通るような声が。
焦土と化した街道に、仄かに響く。
「残ってたんだね、あさひくん」
距離にして、二十数メートルほど先。
そこには、一人の“偶像”が佇んでいた。
あの新宿での戦いの時に、あさひを狙った拳銃を右手に携えて。
彼女のことを、あさひが忘れる筈などない。
この聖杯戦争で、自身を陥れた敵を見過ごす筈がない。
だからこそ彼は、その表情を強張らせる。
腹を括ったように、相手を見据える。
「まだいると思ったから、会いに来ちゃった」
「……星野、アイ」
飄々と気さくに話しかけてくる偶像。
彼女の名を、あさひはポツリと呟いた。
「まだ、此処にいたのか」
「うん。君と同じで、私のサーヴァントはもういない」
彼女の傍らに“極道のライダー”は居ない。
もう一人の極道――“殺戮の王子”が、死力を尽くして彼を仕留めた。
その顛末は、異なる戦局に立っていたあさひも知っている。
子供達の救世主たる少年から、直接聞いている。
「皆に付いていったところで、足手まといになるだけなんだよね」
だから、皆を見送って“お迎え”待ち。
わざとらしく肩を竦めながら、アイはそう言って苦笑いする。
「ガムテ君も、きっとあの戦場へと向かうと思ってた。
あれだけの犠牲を払って殺島さんをやっつけたんだから、後には退けない」
彼女もまた、現状の盤面を見つめていた。
敵連合が既にこの場を去っていることを、あさひが読んだように。
ガムテが次なる戦いへ向かっていることを、アイは読み取っていた。
新宿の各地に潜んでいた“子供達”も、ライダーが余すことなく殲滅した。
あの規模の宝具を発動―――即ちライダーの伝説を再現したのだ。
少なくとも、この地に彼らは一人たりとも残されていないと確信していた。
「それに……今はもう、あの霊地ってやつを中心に戦場が回ってる」
そう、この局面が“霊地”へと収束しているからこそ。
乱戦の終着点は、都心の象徴である二つの施設だからこそ。
「だから、私達なんかに構ってる暇はない。
此処にはもう、私達だけしかいないってこと」
残されたアイは、敢えて行動に出ていた。
たった一人。自分と同じ。
取り零した“ちっぽけな敵”を探して、ここまで来た。
「―――君一人なら、私でも十分でしょ?」
そうして、彼女は。
穏やかに、不敵に、微笑んだ。
アイの目元に浮かんでいた紋様を。
あさひは、ただ見つめていた。
地獄の回数券(ヘルズ・クーポン)。
服用者に人知を超えた力を齎す、禁断の薬物(ヤク)。
ライダーから遺されたものを、再び服用したのだろう。
ただ一人残っている敵(あさひ)と、対峙するために。
アイと対峙して、あさひは察する。
例え、あの場に留まり続けようと。
きっと彼女は、自分の元へと現れたのだろう。
拳銃を片手に握り締めて、立ちはだかっていたのだろう。
退いても進んでも、この邂逅は避けられないものだった。
それを悟ったからこそ、あさひは。
覚悟を決めて―――ただ、身構えた。
「にしても、すぐにでも逃げれば良かったのに」
「……あんたの方こそ」
あさひの右手には、刃物が握られていた。
“割れた子供達”の亡骸から拝借した、一振りの短刀(ドス)。
ほんの少し前まで生きていた少年が遺した、血塗れの忘れ形見。
自分の身を守るために、立ちはだかる壁を乗り越えるために。
彼は、それを手に取っていた。
「私は、逃げないよ」
「……俺も、そのつもりだ」
とうに覚悟は、決めていた。
だからこそ、あさひもまた。
“殺戮の王子”から渡されていた薬物(ヤク)を、既に摂取していた。
“もしも”の時の自衛手段として。
彼の口内に、それは既に仕込まれていた。
あさひの目元に浮かぶ、紅い紋様。
血管の網を思わせる、禍々しい痕。
星野アイと、全く同じものだった。
「あの人に、逃してもらったのに?」
「あいつが、命を繋いでくれたからこそ」
ほんの少し微笑みながら、アイが問いかけて。
あさひは、毅然とした眼差しで言葉を紡ぐ。
「俺は、生きることを考えたい」
生きていくことを、決意した。
ここから先の道を歩んでいくことを、決意した。
だからこそ、納得は捨てたくない。
「生きていくなら―――後悔だけは、したくない」
自分の中に、悔いを残したくない。
人生は、苦難の連続だというのなら。
せめて自分が願う道を、真っ直ぐに歩んでいきたい。
大切な恩人――――
飛騨しょうこ。
彼女の相棒が託した想いを、繋ぎ止めたい。
そして、証明したい。
例え
デッドプールがいなくても。
掛け替えのない相棒が去っても。
自分は、前へと進んでいけることを。
彼が安心できるように、己の脚で歩いていく為にも。
だから、此処を退く訳にはいかない。
自らの想いを紡ぐ、あさひの言葉を。
アイは何も言わずに、聞き届けて。
「わかるよ」
一言、そう呟いた。
否定も、嘲笑もせず。
無謀だと見下すこともなく。
「私も、後悔はしたくないから」
彼女は、そう告げる。
そして、思いを馳せる。
――――あの子達を置いて、いなくなる。
――――そんな結末は、決して望まない。
――――だから、どんな手を使ってでも生き抜く。
――――それに、私は。
「胸を張って、殺島さんに応えたいの」
だから、逃げない。
彼女もまた、歩みを止めない。
自分はここから先も、戦っていける。
そう宣言するように、アイはあさひと対峙した。
結局のところ。
二人を駆り立てるものは、理屈ですらなく。
――――傍に居てくれた“守護者”がいなくなっても。
――――自分の願望(いのり)を肯定してくれた“大切な人”がいなくなっても。
――――それでも前へと進めることを、ただ証明したい。
なけなしのプライドのような、一握りの意地だった。
そして、彼女の言葉を聞いて。
あさひは少しだけ、驚いたように沈黙する。
ただの狡猾な敵だと思っていた相手の、意外な表情を見つめて。
僅かな時間、沈黙した後。
「あんたは……」
アイを真っ直ぐに見据えて。
「どうして、聖杯が欲しいんだ」
あさひは、そう問いかける。
そんな言葉を投げかける自分を、彼は我に返ったように見つめる。
なんで、こんなことを聞いてしまったのだろう。
あさひの脳裏に、そんな疑問が浮かんで。
やがてその答えは、さしたる時間を掛けることもなく思い至る。
自身の相棒に胸を張りたい。
そう告げる彼女の姿に、感じるところがあったからだ。
そして、ほんの少し前に―――しおと対峙して、妹の幸福に触れたからこそ。
己の矜持を背負って戦う、ガムテのようなマスターを見たからこそ。
あさひは、アイに踏み込んでいた。
アイは、沈黙する。
考え込むような素振りを見せて。
顎に手を当てたり、虚空を見上げたり。
そんな落ち着かない所作を見せてから、数秒。
やがて意を決したように、彼女は口を開く。
「―――子供がいるの」
そうしてアイは、きっぱりと事実を伝えた。
若き偶像にあるまじき、スキャダラスな真実。
彼女はそれを、なんてこともなしに伝えた。
普段だったら、打ち明けることなど有り得なかった。
体面。体裁。世間体。迂闊ではあっても、彼女なりにそういったことを考えていて。
それはこの世界においても、同様だった。
にも関わらず、彼女はそれを明かした。
それは何故なのか。答えは、簡単だ。
神戸あさひとは、ここで決着を付ける。
そう腹を括ったからだ。
星野アイは、アイドルであり。
そして、母親だった。
「16で産んだ、かわいい双子の兄妹」
新進気鋭のタレントだった。
将来有望と目された少女だった。
そんな彼女が、ある人物と関係を持ち。
10代で妊娠して―――自らの子供を産む決意をした。
「私の、大好きな子供たち」
嘘を本当にするために、アイドルになった。
誰かを愛するという実感を得るために、業界へと身を投じた。
そして
星野アイは、双子の子供を得て。
最期の最期に、自らの愛を悟った。
彼女にとって、子供は宝物だった。
自らの心を教えてくれた、大切な存在だった。
それだけではない。
自分の存在を待ち焦がれているファンが大勢いる。
晴れ舞台を目前に控えて、彼女は命を落としてしまった。
「だからね」
そう、だからこそ。
アイドルとして。
母親として。
「生きなきゃいけないの」
戦い抜かなければならない。
最後の勝者になるまで、絶対に。
彼女はそう誓って、微笑む。
「あの人にここまで送迎(おく)ってもらったから」
アイは、振り返る。
そんな自身の想いを背負ってくれた、大切な人の存在を。
子供達の元へ帰りたいと願う自身に、心ごと寄り添ってくれて。
そしてあの激戦の中で散っていった、ライダーのサーヴァント。
殺島飛露鬼―――彼が居たからこそ、此処まで辿り着けた。
「ここからは、私の足で歩く」
アイはそれを、噛み締めていた。
だからこそ、彼に応えることを望んだ。
「私は教えたよ。次はあさひくんの番」
自らの願いを語り終えたアイが、微笑みかける。
「私だけが秘密をバラすなんて、ズルいでしょ?」
悪戯な笑みと共に、言葉を投げかけられて。
沈黙していたあさひは、意識を引き戻される。
彼はただ、言葉を失っていた。
――――ああ。なんだよ。
――――お前も、そうだったんだ。
――――お前も……。
あさひの、心という器から。
感情が、零れ出しそうになる。
驚愕。衝撃。困惑。悲嘆。動揺―。
想いが混ざり合って。
今にも吐き出しそうになって。
短刀を握る手の力が、自然と緩んでいた。
だけど、その瞬間。
マスク越しに笑う“ヒーロー”の姿が。
あさひの脳裏を、鮮烈に過る。
―――足を止めるな。ガッツを見せろ。
―――お前はまだ、ゲームオーバーじゃないんだぜ。
彼がそんな風に、訴えているような気がして。
あさひは呼吸を整える。
自らの心を、落ち着かせるように。
成すべきことを。答えるべきことを。
彼は、まっすぐに見つめる。
「俺は――――」
もう、目の前の敵ですら。
他人事のような気がしなかった。
だからあさひは、想いを吐露できた。
「取り戻したかった」
何のために、戦うのか。
何のために、祈るのか。
何のために、進むのか。
きっと、誰もが同じだ。
「やり直したかった」
この聖杯戦争という舞台において。
皆、同じ想いを背負っている。
「家族と笑い合って過ごせる、普通の日常が欲しかった」
そこには、譲れない想いがあり。
妥協できない、矜持がある。
だから、ぶつかり合う。
たった一つの奇跡を求めて。
あるいは、自分の意志を貫くために。
前へ、前へと、走り続ける。
ああ、そうだ。
だから、飛騨さんも。
おでんさんも。櫻木さんも。
ガムテも。
松坂さとうも。
そして――――妹(しお)も。
誰もが、戦っていて。
それは、あさひも同じだった。
「――――母さんに、笑ってほしかった」
―――そして、俺も。
―――笑って生きたかった。
―――あの人が。
―――飛騨さんが、望んでくれたように。
そんな想いを、心の奥底で吐き出す。
溢れ出しかけた、涙を堪えて。
「そのために、聖杯が要るんだ」
あさひは、そう宣言する。
己の意志を、真っ直ぐに。
「……俺が、物心ついたとき」
それから、どこか憂いを帯びた面持ちで。
寂しげに自嘲するような笑みを浮かべて。
あさひは、静かに言葉を紡ぐ。
「母さんは、あんたとそう変わらない歳だったんだ」
自らの出自を。
自らが、どのように生まれたのかを。
「きっと俺は……本当なら、望まれない子供だったんだと思う」
一言、二言。
ただそれだけで、物語る。
それを聞き届けたアイは、何も言わず。
ほんの少し、目を丸くして。
眼前のあさひを、じっと見つめていた。
「そっか」
そしてアイは、ただ悟った。
眼の前の少年が、一体どのような人生を歩んできたのか。
如何なる環境の中で、この世に生まれてきたのか。
それ故に、何を望んでいたのかを。
「……そうだったんだね」
物心ついたとき、“お母さん”は酷く若かった。
そんな生い立ちが意味することを、彼女は誰よりも知っていた。
きっと目の前の少年は、そんな母親が背負っていたものを間近で見ていて。
そして、“母さんに笑ってほしかった”と告げたように。
自分の人生を“やり直したかった”と伝えたように。
彼の育った世界は―――決して恵まれたものではなかったことも、察して。
「そりゃ、戦うしかないね」
アイは、微笑みながら。
あさひの想いを、まっすぐに受け止めた。
脳裏に浮かんだのは、二人の我が子の顔。
彼が“母親”と共に在るように。
彼女もまた“子供”と共に在る。
ただ、それだけだった。
「ああ。俺は、戦う」
互いの傍らに、相棒は居ない。
己の想いに寄り添い、守ってくれる。
そんなヒーローは、もういない。
だから、ここに佇むのは。
なけなしの命で立つ、ふたりの人間だけだった。
やがて二人は、沈黙する。
互いを分かつ、二十数メートルほどの幅。
近くもなく、遠くもなく。
されど、殺意を届かせるには十分な距離。
互いに、真っ直ぐに見据える。
まるで、荒野の決闘のように。
眼前の敵を、視る。
呼吸の音だけが、聞こえる。
息の詰まるような静けさの中。
ただ、凶器を携え。
二人は、身構えて。
そして―――駆け出した。
悪魔の麻薬に突き動かされるように。
神戸あさひが、地を蹴った。
その右手に、小さな刃物を握り締めて。
迫り来るあさひ。
殺意を手に、駆けてきた彼を見据えて。
アイは、拳銃を構える。
両手でしっかりと握り締めて。
真正面に向けて、構えて。
意識を集中して、照準を定める。
互いに、肉体と精神の限界を超えていた。
本来なら、こんな一騎打ちなど出来なかっただろう。
鋭い殺意を向けて、俊敏に駆け抜けることも。
凶気を前にして、驚異的な集中力を発揮することも。
普段の二人ならば、成し得なかっただろう。
しかし、二人は最早境界を超越している。
禁断の麻薬によって、常人の域を抜け出している。
正道ではなく。死物狂いの世界へと。
二人の意識は、閃光のように迸っている。
それだけではない。
神戸あさひも、
星野アイも。
とうに覚悟を決めていた。
他者を踏み越えてでも、勝ち残る。
たった一つの聖杯を手にして、譲れない願いを掴み取る。
待っている“家族”がいるから。
ここで、止まる訳にはいかない。
だからこそ、二人は。
互いに凶器を手に取り、対峙する。
殺意と祈りを胸に、交錯する。
刃物を構えて、奔るあさひ。
銃器を構えて、見据えるアイ。
たったの一秒、否。
コンマ数秒に満たないかもしれない。
永遠に続くような刹那。
極限に凝縮される一瞬。
集中。集中。集中。集中――――。
二人の決着が、僅か先に待ち受ける。
呼吸を整え。
敵を捉えて。
アイは、指を掛けていた。
黒い拳銃の、引き金に。
ほんの少し、指を動かす。
それだけで、全てが終わる。
最早、迷いはなく――――。
そして、次の瞬間。
アイの視界の中に。
ふいに、何かが“飛んでくる”。
刃物とあさひ自身に集中していた彼女の意識に。
それは、唐突に“割り込んでくる”。
アイは、飛来してきた物体を見た。
小さな何かが、顔面へと飛んできた。
それに対して、反応しようとして。
しかし間に合わず、その何かが右頬に直撃する。
その物体は―――ただの石ころだった。
あさひは、刃物にアイの意識を向けさせて。
その僅かな隙を突いて、左手に隠し持っていた石を投げた。
薬物で引き上げられた身体能力と、集中力。
それによってあさひは瞬間的に、そして正確に。
アイの顔面へと、石を命中させた。
あさひは、短刀を握る手の力を強めて。
アイの正面へと、一気に迫る。
ほんの数メートル。あと一歩踏み込めば、彼女の懐へと入れる。
そして、この刃が―――眼の前の敵へと届く。
ちっぽけで、真っ直ぐな投石。
アイの頬に当たったそれは、彼女を怯ませるには十分。
たった一瞬の隙さえ作れば、自分は勝てる。
この瞬間に、全てを懸けて。
一気に踏み込んで、そしてこの短刀で仕留める。
あさひは、そう思っていた。
自身の勝利を、目前に見ていた。
「――――知ってた?」
だから、目の前の敵を―――アイを見据えて。
そして、驚愕した。
「アイドルはね、目を逸らさないんだよ」
星野アイは、微笑んだ。
意地を張るように。
己(アイドル)を演じるように。
彼女は、あさひを見つめ続けていた。
煌めく星のような瞳は。
迷うことなく、真正面を捉え続けていた。
「舞台(ステージ)の上から」
怯みなんかしない。
隙なんか、見せない。
だって―――“私”は、アイドルだから。
そう告げるように、強がるように。
「真っ直ぐに、ファンを見つめるの」
静かに口角を上げて。
ただ、笑みを見せる。
自らの輝きを、絞り出しながら。
だからこそ。
ほんの一瞬。
あさひの視界に。
“彼女”の姿が、重なった。
傷付いた心に寄り添い。
やがて自身の窮地を支えてくれた。
櫻木真乃の姿が。
アイドルの姿が。
健気で、必死で、眩しくて。
そんな少女の“舞台”を幻視した。
未来を唄い、希望を担う。
そんな偶像の佇まいが。
確かな形を伴って。
そこに、存在していた。
コンマ数秒。
たったそれだけの時間。
されど、その僅かな瞬間。
あさひが抱いた感傷は。
ほんの微かにでも、彼の隙を作った。
真っ直ぐに見据える、偶像の眼差し。
自身を睨みつける、漆黒の銃口。
引き金にかかる、細い指。
後一歩で届きかける、右手の短刀。
だから、その瞬間。
そんな刹那の合間。
決着が、付いた。
――――パァン。
たった一発。
銃声が、響いた。
それだけのこと。
それが、全てを決した。
それが、結末を定めた。
誰が生きて。
誰が死ぬのかを。
◆
銃(チャカ)を構えるんなら。
決して敵から視線を逸らすな。
真っ直ぐに、臆せずに向き合え。
そして――――集中しろ。
両手でしっかりと、握り締めて。
確実に撃ち抜くことを想像(イメージ)しろ。
それから何より、怖気付くな。
咄嗟に判断しろ。即座に体を動かせ。
奴さんはこっちの葛藤(マヨイ)なんか待っちゃくれねえ。
だから、絶対に手を止めるな。
並の素人はビビっちまうだろうが、アイなら出来るさ。
ま、それがコツってワケだ。
こんなこと教えるのは、気が引けるけどな。
それでも、勝つためにアイが本気(マジ)だって言うのなら―――オレは止めない。
子供(ガキ)の元へ帰るって、腹括っただろ?
なら、恐れるモンは何もねえ。
アイ。お前なら、未来(みち)を切り開けるさ。
◆
静寂。沈黙。
風だけが、吹き抜ける。
うだるような暑さ。
光を取り戻しつつある空。
ほんの僅かな、一時。
真夏の早朝が、口を紡ぐ。
壊滅した新宿。
コンクリートの路地。
仰向けに倒れる、一人の少年。
胸から止め処なく血を流し。
荒い呼吸で、辛うじて息をする。
瀕死の少年を、傍らで偶像(アイドル)が見下ろす。
憐れむように嘲笑することも無く。
敗者として蔑むことも無く。
ただ、じっと。
終わりへと向かう少年を、見つめていた。
弾丸が、一発。
神戸あさひの左胸を。
真っ直ぐに、撃ち抜いていた。
彼の脈動の根源を、穿いていた。
ヘルズクーポンの服用による驚異的な治癒力。
その効能が、奇跡的に即死を回避させていた。
それでも、風前の灯だった。
最早あさひの命は長くない。
溢れ出る真紅の血液が、淡々と物語る。
力無く倒れて。
虚ろな眼差しで。
空を呆然と見つめて。
神戸あさひは、横たわっていた。
ひゅう、ひゅう、と。
枯れた吐息が、その口から溢れる。
朽ち果ててゆく命。
遠ざかっていく現実。
彼の世界は、終わりへと向かっていく。
「あさひくん」
そんな彼を見下ろしながら。
アイは、静かに呟く。
「残念だったね」
漂う死の匂いを、間近に感じ取って。
彼女は、淡々と呟く。
初めて出会って、それから間もない時。
神戸あさひは、ただの敵でしかなかった。
櫻木真乃を利用し、紙腰空魚らと結託した同盟における邪魔者。
それだけの存在でしかなかった。
だから躊躇なく陥れたし、そのことに痛みも覚えなかった。
「……もし、泣きたかったら」
そう、それだけのちっぽけな存在だった。
だというのに―――何故だか、酷く寂しかった。
「好きに泣いていいよ。気にしないから」
だから、そんな一言を。
ふいに、ぽつりと呟いてしまう。
神戸しおとの交流。
そして、この数分の遣り取り。
そんな僅かな合間に。
神戸あさひという少年は、アイの中で輪郭を伴っていた。
手の届く先に居る、ひとりの等身大の人間として。
死へと向かう少年を、ただ見つめていた。
きっと、無念の最期なのだろう。
悔いを遺して逝くことになろうだろう。
そう思っていたからこそ、アイは。
ほんの僅かに、自らの目を丸く見開いた。
神戸あさひは。
その口の両端を、静かに吊り上げていた。
まるで――――微笑むかのように。
「……あさひくん?」
思わず、アイは声を上げた。
驚嘆を隠しきれなかったように。
予想だにしない様子に、困惑するように。
「俺は……悔いてないよ」
そして。
今にも消えそうな、か細い声で。
「こうして、生き抜いたんだから」
あさひは、言葉を紡ぎ出す。
絞り出すような想いを、ゆっくりと。
「あいつが……」
彼の眼差しは、遥か彼方を見つめる。
ここではない、遠い果て。
この世界ではない、“地平”の先。
「“俺のヒーロー”が、言ってくれたんだ」
最期まで寄り添い、共に戦ってくれた。
たった一人の“ヒーロー”。
彼が去っていった、遥か彼方へと。
あさひは、想いを馳せる。
「どんな苦境も、困難も」
いつだって飄々としてて。
いつだってふざけた態度で。
だけど、誰よりも優しかった。
そんなヒーローの姿を、思い出しながら。
あさひは―――自分の願いを、追憶した。
「全部笑い飛ばして、楽しんで生きろって」
あの“悪魔”に虐げられて。
苦しむばかりの日々を送って。
自分達は、笑顔を喪っていた。
幸せの形が、分からなくなっていた。
いつか家族三人で、やり直したい。
自分達の人生を、取り戻したい。
そう願って、聖杯に縋った。
家族に笑ってほしかった。
自分も、笑っていたかった。
ずっと、そう思っていた。
だけど今は、少しだけ違う。
一人のヒーローが、教えてくれた。
困難を前にしている時だからこそ。
苦難に喘いでいる時だからこそ。
ニヤリと笑って、強がってみせる。
そうすることで、自分を鼓舞して。
苦しみや悲しみさえも、笑い飛ばして。
前を向く勇気を得るのだと、彼は伝えてくれた。
いつか笑うためじゃない。
いつでも胸を張って、笑い続ければいい。
そうすることで、自分を奮い立たせられるのだから。
そして――――それでも、挫けそうになった時には。
“
飛騨しょうこ”や、この世界で出会った人達が、寄り添ってくれたように。
慈しい人(ヒーロー)が手を差し伸べてくれるのだと、彼は確かに伝えていた。
「だから俺は、笑うんだ」
そうして、あさひは。
不敵な顔で、笑ってみせた。
息も絶え絶えな表情で。
それでも強がるように、笑みを作って。
「“俺は生きてやったぞ”って」
弱々しく、覚束ない右腕を。
ゆっくりと、動かす。
自らの存在を、誰かに伝えるように。
どうしようもないほど、熱烈に。
右手を、高く上げた。
「あいつに、思いっきり伝えるんだ」
なけなしの意地を見せるように。
眩い光へと、手を伸ばすように。
夜明け前を、手に入れたように。
神戸あさひは、笑って空を見上げていた。
もっと遠くへ。
遠くへ行け、遠くへ行けと。
己の中で、心が唄い続ける。
遥か彼方まで、この想いが届くように。
――――なあ、
デッドプール。
――――お前が傍にいてくれたから。
――――お前が背中を押してくれたから。
――――俺は、救われてたんだ。
――――だから。
「俺は、もう……幸せだったよ」
届け。みんなに。
愛してくれた人達に。
どこまでも、遠くへ。
―――俺の人生。俺のすべて。
神戸あさひは、笑顔だった。
最期まで。終わりの瞬間まで。
走馬灯のように。
彼の脳裏に、よぎったもの。
それは、たった一人の妹のこと。
自分の脚で生きていく決意をした、
神戸しおのこと。
“あの病室”のしおは。
自分自身の“幸せ”を見つけて。
家族の元から、巣立っていった。
彼女は、彼女自身の意思で、進むべき道を選んだ。
そんな妹のことを思い出して。
とうに決別したはずの妹を振り返って。
胸の奥底に、寂しさを覚えて。
そして、ただ「よかった」と安堵を抱いた。
やがて、ふっと。
その笑みから、力が抜けて。
高く掲げられた右腕が。
ゆっくりと、崩れ落ちて。
その瞳から―――光が、喪われた。
◆
この世界は、公演(ライブ)とは違う。
一つの舞台を、やり遂げたとしても。
周囲から返ってくるものは、何もない。
歓声も、応援も、祝福も。
自分を労う輝きは、何処にもない。
あるのはただ、沈黙だけ。
命のやり取りを経た、勝利の静寂のみ。
そこに遺されるのは、踏み越えた死の匂い。
必死に奔った果ての虚脱だけが、横たわる。
いつもの戦場(ステージ)とは、まるで違う。
歓喜に湧く光の海は、此処には存在しない。
虚しさのような、寂しさのような。
そんな想いが、胸の内に訪れる。
やがてアイの意識は、目の前の現実へと引き戻される。
神戸あさひを、見下ろした。
物言わぬ亡骸になった少年を、見つめていた。
彼のすぐ傍に、アイは佇み。
その姿を、目に焼き付けていた。
瞼は、虚ろに開かれて。
瞳は、その光を喪い。
口元には、ほんの僅かな笑みが残り。
先程まで掲げられていた右手は、力無く横たわっていて。
その身体や衣服は、胸元から零れ出ていた鮮血の紅色に染め上げられていた。
もう、動かない。
虚しい静寂の中で。
ただ、沈黙を続ける。
茫然と事切れた少年は。
物言わぬ死体として。
アイの瞳に、記憶に、刻まれていく。
人の死という現実は。
人を殺したという事実は。
ただ其処に、言葉もなく。
忽然と、転がっていた。
この聖杯戦争の中で。
彼女の短い人生の中で。
初めて手に染めた、確かな罪だった。
殺人。誰かの命を、自らの手で奪った。
我に返ったアイは、そのことに僅かな動揺と恐怖を感じて。
それと同時に―――驚くほど淡々と受け止めている自分がいることにも、気付いていた。
覚悟は、既に決めていた。
ライダー―――“殺島さん”と共に勝ち残る決意をした時から。
彼女はとうに、腹を括っていた。
家族のためにも。ファンのためにも。
どんな手を使ってでも、絶対に勝ち残る。
だからこそ、臆するつもりはなかった。
ただ一度の殺人で、足を止めたくはなかった。
自分を送迎(おく)ってくれると約束した、彼への恩義のためにも。
アイは決して、立ち止まる訳にはいかなかった。
だからこそ。
覚悟を決めていたからこそ。
そう悟っていた筈だったからこそ。
アイは、呆気に取られる。
「……あれ」
自分自身を、呆然と見つめる。
ぽかんとした表情のまま。
彼女は右手を動かして、自らの顔に触れる。
微かな熱が、頬に伝っていた。
ほんの一筋。されどそれは、確かな感情の証で。
やがてアイは、ようやく現状を飲み込む。
――――泣いてるのか、私。
その事実に。
アイは、ただ気付かされる。
なんでだろう。
そんな一言が、脳裏に浮かぶ。
今更人を殺したことに、怯えている訳ではない。
自らの罪悪を突きつけられて、震えている訳でもない。
やがてアイは、彼が告げた言葉を思い返す。
“母さんに、笑ってほしかった”。
その一言。
答えは、それだけで十分。
アイは、自らの涙の意味を悟る。
――――そっか。
――――私自身の手で。
――――“子供”を、殺したんだ。
自分が、殺したのは。
家族を想い、家族との幸福を求める。
そんな直向きな“子供”だったから。
だからアイは――“母親”は、哀しみを抱いた。
彼が先程まで握り締めていて。
今では亡骸の傍らに転がっている、短刀へと視線を向けた。
それは、あの“子供達”が携えていた刃物だった。
“割れた子供達”。
殺島は彼らについて、アイに詳しく語ることはなかった。
まるで何かの真実を覆い隠すように。
アイに知ってほしくない事柄を、遠ざけるように。
けれどアイは、彼らの姿を目の当たりにして。
必死に戦い抜く子供達の姿と、直に対面して。
そして
神戸あさひの“願い”を聞き届けて。
一つの答えを、悟っていた。
だからこそ――――彼女は、改めて誓う。
その涙を拭って、言葉を紡ぐ。
「……絶対に、帰るよ。私は」
子供達の元へ、必ず帰ってみせる。
あの子達を、置き去りになんてしない。
愛する二人を―――決して“不幸な子供”になんかさせない。
そして。
この聖杯戦争という舞台で。
この“子供”達を踏み越えたことも。
絶対に、何があっても、忘れたりはしない。
決意を新たにしたアイは、あさひの傍にしゃがみ込む。
彼の顔を見つめて、思いを馳せる。
あさひを乗り越えたからこそ。
あさひの生きた世界に、触れたからこそ。
自分は、前へと進むことができた。
自分にとって、何が大切なのか。
何を背負わなければならないのか。
アイは、それを改めて悟ることができた。
だからこそ、彼女は。
「じゃあね、あさひくん」
そっと、右手を添えて。
あさひの両瞼を、ゆっくりと降ろさせた。
開いたままだった眼は、安らかに眠るように閉ざされる。
その死を弔うように、静かに微笑んで。
彼女は立ち上がって、やがて空へと向けて。
―――右手を、高く掲げた。
さらば、掲げよう。
貴方への、一度限りの愛を。
これで、お別れ。
例え“殺島さん”がいなくなっても。
私は、願いのために先へと進む。
◆
夜が明けつつある。
星は静かに去っていく。
アイは、自身の携帯を確認した。
デトネラットの社員からの連絡が来ていた。
間もなく“迎え”は到着するらしい。
彼らの車に乗って、この戦線から離脱する。
孤独に浸る一時。
その余韻を確かめるように。
アイは、遠い空を見つめる。
今日は、きっと。
綺麗な“朝日”が見れるんだろうな。
何故だか、そんな気がした。
【新宿区/二日目・早朝】
【
星野アイ@推しの子】
[状態]:疲労(小)、サーヴァント消失
[令呪]:残り三画
[装備]:拳銃
[道具]:ヘルズクーポン(複数)
[所持金]:当面、生活できる程度の貯金はあり(アイドルとしての収入)
[思考・状況]基本方針:子どもたちが待っている家に帰る。
0:私は生きるよ、殺島さん。
1:じきに迎えに来るデトネラットの
NPCと共に戦線から離脱する。
2:敵連合の一員として行動。ただし信用はしない。
[備考]
※
櫻木真乃、
紙越空魚、M(
ジェームズ・モリアーティ)との連絡先を交換しています。
※グラス・チルドレンの情報をM側に伝えました。
※間もなくデトネラットの
NPCが車で迎えに来ます。
[共通備考]
※
神戸あさひが
飛騨しょうこにメールを送りました。
アヴェンジャー(
デッドプール)がアーチャー(ガンヴォルト)からミラーピースを預かった際に連絡先を交換したようです。
◆
母さん。
俺は、あなたの元には帰れません。
これから、遠くへと旅立ちます。
迎えに行くことが出来なくて。
願いに応えることが出来なくて。
本当に、本当に、ごめんなさい。
けれど、叶うならば。
俺の結末を、嘆かないで下さい。
俺の人生を、悲しまないで下さい。
母さんがいたから。
愛してくれる人達がいたから。
俺は、幸せでした。
胸を張って、最後まで生きられました。
例え、酷いことばかりでも。
苦痛や悲嘆が、何度立ちはだかったとしても。
それでも、きっと、この世界は。
俺達が思ってるよりも、ずっとずっと慈しいもので。
眩い光は、確かにそこにあると。
それを教えてくれた人達が、いました。
俺の道筋を照らしてくれたのは、そんな人達でした。
だから、俺は祈り続けます。
いつか母さんの前にも、そんな人達が現れて。
慈しい温もりと共に、貴方を導いてくれることを。
母さんが、少しでも前を向いて。
自分の人生を、真っ直ぐに歩いていける。
そんな日が来ることを、切に願います。
この世界には、希望があるから。
さようなら。お元気で。
ずっと想ってくれて、ありがとう。
どうか、幸せになってください。
俺はいつまでも、貴方に寄り添います。
貴方の息子、あさひより。
精一杯の笑顔(ユーモア)を込めて。
◆
――――ああ、そうさ!
――――人生にピースだ!
――――笑っちまおうぜ!
――――なぁ、あさひ!
【神戸あさひ@ハッピーシュガーライフ 死亡】
時系列順
投下順
最終更新:2023年01月31日 01:08