◆


 鏡が割れる。
 罅割れて裂ける。
 裂けて砕けて、震えて落ちる。


 内的世界・鏡世界(ミロワールド)は変貌を遂げていた。
 一枚一枚磨かれて鮮明に像を映す鏡面が並んで出来ていた、御伽の社は見る影もない。
 幾つもの亀裂が走って歪な形の反射光を繰り返す、異郷に生まれ変わってしまっている。
 コンピュータの許容域に収まらない容量のプログラムを、強制的に押し込んだ結果データがクラッシュしたかのように。
 不可逆の、変化をもたらす。


「……なんなんだ、なんなんだよここ………?」


 我知らず、漏れる声。
 広がる光景を理解できていない、忘我のもの。
 田中一の言葉はしかし、場に集った全員に共通する心情でもある。
 以前の鏡世界を知らない、初めて体験する身だとしても。
 踏み入るべきでない禁足地を、自分達は彷徨ってしまっているのだと。


 進路に問題はなかった筈だ。
 リンボが去り、プロデューサーが去り、ひとつの邂逅が一度幕を閉じて。
 残された2組と1人は次に行くべき進路を定めた。前進を。
 当初決めていた、非戦闘員のマスターを避難させるのではなく、このままより戦場の深くを潜る事を。

 既に、戦端は開かれていた。
 一行を止めるべく放ったリンボの呪符の爆破で荒れ果てたデパートを抜けて外を見れば、それは分かる。
 狼煙が上がっていた。二箇所に、黒い煙。
 街を、空間を、削り取る破壊が起き、今も起き続けている証が。
 破壊が巻き起こるその渦中に、霧子と鳥子、2人のマスターは飛び込む意志を込めて告げた。

 戦いが本命ではない。
 このまま真っ直ぐ突っ込んで、戦う者の間に割って入り、戦陣に名を連ねる為ではない。
 ならば理由は?
 力なき少女、怯えと震えを隠せない弱き少女の行く先とは?
 答えはひとつ。そこに───いるかもしれないから。

 霧子が声を聞き届け、広げたいと願う、溺れ沈む男。
 鳥子が手を伸ばし、掴みたいと叫ぶ、共犯者。

 可能性が、生まれる。
 藁半紙のように薄い約定を通達しに来たリンボに連れたったプロデューサーが届けた幾つかの情報。
 戦線の趨勢を握る鍵でありながら前提の情報から孤立していた霧子と鳥子にもたらされた、多くの事柄。
 そこに鳥子が探している彼女の名前は出てこなかったけれど。
 これから行われる全陣営の一大作戦の裏に、神越空魚が隠れている可能性は、低いものではない。

 霧子にとっては、より確定して、切実な事情。
 事務所のみんなではなく、ただひとりの幸福に自分の全てを捧げようとするプロデューサー。
 命幾ばくもない彼を、断崖を飛び降りる無謀と、そこから退く道すら断たれた彼。
 まだ、戦おうとしているなら。もう本人の意志に関わらず、戦うしかない身であるなら。
 もう一度会うには、そこは戦場でしかならない。



 繰り返すが、戦端は開かれたのだ。
 状況は秒針を刻むごとに変形していく。
 戦局は波の如く流動し、揺れ動く。離れて待っていては置いていかれて、手を伸ばせないうちに物語は幕を下ろす。
 そんな疎外感が消えてくれない。仲間外れとか、そういうのは、今更ないだろう。

 罠の可能性。あのリンボがただ親切に状況を理解させる為に説明したわけではない。
 悪辣・下衆の加減においては、アレを疑う余地もないほど信頼度が高い。
 なので最大限警戒。次顔が見えたら問答無用で殴ってよしの許可(サイン)を出しておく。
 セイバー・黒死牟にすれば、闘争の場に赴く選択に何ら抵触するものはなく。
 フォーリナー・アビゲイルにとって、マスターにして友人の2人の意に沿うよう働きたいのは願ってもない。
 残る田中は黙殺された。というより、本人がもう口を出せる雰囲気でないと諦め早々に空気になる方を選んでいた。

 そう、進路を決めて移動していた筈なのだ。
 前方車も後続車もない道路に出て、杉並区及び墨田区に繋がる交差点に走らせていた。
 だから、自分達がこんな異世界に行き着いてるのはおかしい。
 意図してもいないし、前兆もなかった。
 遠くで大きくて硬いものがぶつかり合う音が聞こえてきて、日が出てきてビルの側面の鏡面の反射光に目を手で覆ったぐらいの僅かな時間。
 摩訶不思議な空間に彷徨うとして、過程がまるきり発生していないのはどういうわけなのか。


「ここは……境界? いいえ、あそこよりはずっと小さいし……お父様の気配もないわ。なら…………」

 譫言を溢すアビゲイル。
 後部座席の車窓を開けて、そこから顔をひょこりと出す。

「アビーちゃん、ここを知ってるの?」
「マスター。ここ、色んなところに繋がってるわ。
 この世界の、この街ぐらいの大きさなら、どこにでも出たり入ったりできるみたい」
「それって──────」

 聞き覚えのある話だった。
 鏡を媒介にした無制限の移動、それと視聴を可能にする異空間。
 それを聞いたのはいつだったかと、鳥子は顎に手を当てる。
 忌々しいリンボじゃない。それよりも前。そう。霧子達と一緒に車を走らせる予定になった、その切欠の時だ。

「じゃあ、ここがMさんの言ってた『鏡の国』? うわあ、覗き放題じゃんこんなの。
 ここ作った奴女の敵決定ね、アビーちゃん霧子ちゃん」

 決して許されざる敵のリストに項目がひとつ増えた瞬間であった。
 盗聴や侵入の方ではなく、乙女の個人情報(プライバシー)を無視貫通する不届きの方にこそ比重が高い。
 アビゲイルも霧子も、否定はせずとも首肯するに困った顔でいるままだ。

「でも……なんで私達も入れてるのかな?」
「分からないわ。でも……さっき、とても凄い揺れがあったわ。
 世界が裏返ってしまいそうな……門の錠前が開いてしまいそうな、凄まじきものが」

 再三ながら、やはり状況は進行している。
 良い方ばかりとは限らないものだが……今回はそう悪いものではないらしい。


「そう……それじゃ、遠慮なく使っちゃおっかな」

 無数の場所に通じるショートカットの裏口。
 敵が使えば迷惑この上ないが、こちらが使用できるとなれば便利この上なく。
 罠であれ何であれ、使える内は遠慮なく活用すべきと前向きに考える。
 馴染みのある単語が鳥子の脳で自然と浮かぶ。
 これもまた裏世界か。それを知り、認識できる側だけが使える秘密の扉。

「空間を生み出す……懐かしき……術だ……」

 アクセルを踏み直して再発進するリムジンを操縦する黒死牟にも懐古の念が生まれる。
 上弦の鬼の記憶には、まさしくこれと相似した空間生成の術を備える鬼がいるのをしかと目にしている。
 各地に散らばる鬼を瞬時に一処に集め、陽光の脅威も遮断できる血鬼術は、癇癪持ちの主にもいたく重用されていた。

「然らば……地形を変化させ……此方を分断させてくるやもしれぬ……余計な気を回すな……」
「は、はい……!」

 素直に返ってきた霧子の声に、何かいたく不可解な感慨が胸を焦がした。
 今のは、何だ。まるで身の安全に努めるよう不注意を咎めるような口だったが。
 枷でもある要石の保全は当然の行いとしても、その理由付けに釈然としない歯切れの悪さを覚えている。


「プロデューサーさん…………」


 "何だ────────?"


 幾ら問答を巡らせようとも頭の中の霞が晴れはせず、やがて回想そのものが無意味であるとして浪費を止めた。
 それが正しいと示すように、鬼の感覚器官はここより遥か遠方にいる筈の生命の気配を探知した。
 ひとつは、つい先刻見えたばかりの同類の戦鬼。
 そしてもうひとつは──────────。


「…………いるのか………………」



 ◆



 命令(オーダー)を実行する。
 情報収集。演算補助。自己なく意義なく、活動が終了するまで装填された機能を発揮し続ける。

 設計時から組み込まれてる基礎概念。
 機械には疑問を生じさせる余分、余白のない理。
 今や心あるシュヴィには、胸がしめつけられる痛みを持ちながら行わねばならない指令。


『連中の相手は適当に回していい。手を抜いてるように思われてもマズイが、全力を投じる必要はない』


 怪しまれない範囲で戦いを長引かせる。遅滞がマスターの出した命令だ。
 敵勢力に対応中でいると、陣営に思わせておくのが肝要。
 その空き時間を利用して、常に戦況を俯瞰できる位置取りにい続ける。


『空を飛べるのはちらほらいるようだが……小回りが利いて、都市区画を丸ごと索敵できるのも併せ持ってるのはお前ぐらいだ』


 サーヴァント化における弊害。各種機能の劣化を踏まえても、解析体(プリューファ)に備わる情報収集能力の有用性は損なわれない。 
 峰津院大和カイドウ。この戦争の勝ち抜け枠の筆頭が一斉に潰し合って膝をつく瞬間を見極める。その為に必要な観測衛星。


『セイバーが向かってるなら都合がいい。令呪の効果は強制より援護の方が効率がいい……んだろう?』


 現に。性能は遺憾なく発揮されていた。
 自身が戦闘を継続中でも、割いた思考と演算回路は逐一情報更新。
 遠く離れたフィールドの戦況……具体的な動向には至らなくとも、記録した魔力パターンと称号しての陣営分けをするには、十分な機能。


『俺も当然前に出る。盤面の駒を減らすのに不都合はねえ。どこにも肩入れしてないあぶれ組は特にな。
 だいぶ負担をかけさせるが……やれるか?』


 ───……うん。やれる、よ。シュヴィには、その能力────ある。


 そう、返した。
 返すしかない。シュヴィの用途。ただひとつの奉仕。
 心が、痛い。
 胸が、苦しい。
 リップを危険な目にあわせてしまうのも。
 シュヴィが災厄を招く側に回ってしまうのも。
 全ての選択を苦痛に感じながらも、シュヴィ・ドーラの魂は穢れなく命令を実行する。



 ───戦意、いまだ喪失せず。

 ───魔力励起、視線から……戦闘状態は継続。


 射撃。狙撃。連射。速射。掃射。解析術式。再現設計。
 撃つ。打つ。射つ。討つ。
 距離を取らせず、離さず、近づけさせず、反撃の来ない位置から情報を削いでいく。
 対サーヴァント用、及び、対電子戦用も引き出して総和した新規戦術は、地を疾走る黄光の手を封殺していく。
 相手が電子操作と別系統の能力を開帳しない限りは、このまま続行すればあと185秒でコード・アーチャーは戦闘不能状態……霊核損傷に陥る。
 この人との勝利は目的でないとはいえ、戦う力を残して逃してしまえば、彼はマスターの元に戻る。
 彼のマスターを狙うリップを追う。
 そうはさせない。させたくない。


 地より、蒼が視えた。
 こちらを見据える、蒼い双眸。
 煤と火傷を段々と作っていくアーチャーが上げた顔を、遠方補正した視力が捉える。
 悔しげにしている。攻め手を潰されていれば焦燥するものだろう。
 苦しそうにしている。マスターに及ぶ危機を案じているのだろう。
 彼は帰れない。マスターに会いに行けない。シュヴィが止めるから。
 愛しさも正しさも関係なく、願いを砕く。


 ───でも……諦めていない。 

 ───まだ、戦う気でいる。

 ───……否定。勝つ。生きる。護る?



「───…………………リク、みたいに?」



 雑音(ノイズ)。
 高速で回転する思考タクティスの片隅で思うに留めておくべき単語を、口腔から溢す。
 何故?
 己が過去の種族総体の中でバグまみれであるのは自覚していても……これを声にするものでは、ないだろうに。

 ただ、人類種(イマニティ)であるというだけで、愛する顔と合わせてしまうなんて。
 雷霆を自力で発生させられる人類種はいないのだから、見かけが似ているだけで、森精種(エルフ)や天翼種(フリューゲル)寄りなのかもしれないけど。
 サーヴァントなのだからむしろ今のシュヴィと同類と見做す方が……論理でいえば、順当だ。


 ───否定。ううん、違う……シュヴィがそう、思いたい、だけ……。 


 人の姿をした、命あるものを。
 生命だと、シュヴィ個人がそう思ってしまった時点で、あらゆる論理は覆される。

 アルゴリズムは変更しない。
 遠からず予測は現実に置き換わると理解し、その未来線への移動を止めようとはしない。
 リップの手ではなく、他ならぬシュヴィの手で、形ある誰かを壊す。殺す。
 幽霊同士の殺し合い。限りなく虚数に近い実数であると分かっているのに。
『幽霊』の思いは、否定してはいけないから。
 彼等の成した事を否定しないように、シュヴィもまた、これから犯す罪を否定しないと回路の強く刻み込んで。


 ───……罪?


 異常(バグ)。
 検知した【疑念】を、シュヴィの根底たる解析体(プリューファ)の機能は速やかに、自動的に精査を走らせる。


 機凱種(エクスマキナ)に、罪罰の概念はない。
 それは生命が備える権利であり、義務であり、法則であり、命なき道具の行為に罪……即ち責任は発生しない。
 するとしたらそれは道具を使う側。他者が意志を以て道具で加害を起こした場合になる。
 ナイフで人を刺した者ではなく、刺したナイフを法廷に立たせる裁判などないのだから。

 かつてのシュヴィに、それは適用されていた。
 複数の端末に分岐する連結体(クラスタ)の内の解析体の一機。
 街ひとつを崩壊させようと、他種族を殲滅させようと、道具の一個、指の爪先には何も求められない。
 罪を認め、責任を問うとすれば、機凱種全機が情報共有と協議によって導き出され、これを背負う。
 偶然の堆積と奇跡と見做した運命の邂逅を経て、命の『心』の概念を得た後でも、その定義をずらしはしなかった。
 自らは道具だと言い張る事で、意志体(シュヴィ)はゲームをクリアする詰め(チェック)の駒を完遂した。
『命』の失落ではなく、『道具』の損失であれば。
 伴侶(リク)の課した『誰も死なせず、誰も殺さない』ルールを破ったことにはならないと。

 だがもう、その論理は使えない。
 サーヴァントは個として独立した存在であり、存在の死後の遍歴体。
 【死後】と【生前】の概念を獲得してしまったという事は、逆説的に、今のシュヴィの命を証明する。
 命あるものが、責任を他所に転化する事は許されない─────。
 聖杯より付与された、界聖杯内都市の基礎定理を読み込み、理に適うと認めてしまった。


 ───……これは、痛い? 苦しい? 怖い?


 雑音(ノイズ)。
 異常(バグ)。
 故障(エラー)。


 機体に損傷の確認、認められず。内部回路の全スキャンにも反応なし。


 ───……そう…………そう、なんだ。


 これは、通常の反応。
 心あるものが抱く、正常の働き。
 機体パフォーマンスを著しく損なう不純物、けれどそれは引き換えに奇跡と呼べる予測外を引き出す。


 ───リクも、こうだったの、かな。


 1日の生存の為に同胞を切り捨てる事を。
 機凱種は当然のコストとゼロカンマで下す判断に、何100秒、脳内ではその数倍の葛藤を抱いてきた最弱種。
 目標達成に伴う損失を成果と釣り合わせてしまう不合理に大量のエラーを吐き出すような思いを、かつてのリクが抱いていたのなら。


 ───……すごい、な。リクも……みんな……。


 涙を滂沱と流しながら嗚咽しそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
 シュヴィにそうした機能はない。機凱種の枷から外れた今でも。
 でも、もし出来るなら、今自分はそうしていたのだろうか。
 世界の構造を理不尽と感じ、それに順応する自分を呪い、それでも諦め切れないまま進むのか。
 だとしたらそれは、喜びといえるものだろうか。それを感じれる己は少々おこがましいようで、誇らしく。目を伏せてしまう。


 滑り込むように迫る飛来物─────敵手の注視を外したわけではないが、戦いには不要の感傷を持ち込んだ隙間に狙いを合わせられたもの。
 既に6割方解析を終えたアーチャーとは異なる魔力の密度と層。即ち、第三方からの奇襲。
 予測済みだ。多勢力同士の揉み合いになるこの戦場、乱入・混戦はどのポイントでも発生し得る。
 どの駒(サーヴァント)が前に出るかまでの候補は、入り組んだ戦線の状況では如何に解析体の演算でも割り出しは困難だが、出現自体は容易に組み込める。
 アーチャークラスが用いるような長距離狙撃でもない、シュヴィを視認できる射程範囲まで接近された事にも、攻撃の寸前まで気配を遮断できるアサシンクラスの存在を知るのなら慮外というほどでもない。
 故に。シュヴィに被弾するより先に反応は間に合い、攻撃手段を視覚にて認識する事も可能。



 ───…………棒?


 奇怪、というべき得物だった。
 漆の朱色の棍棒が3本、短い鎖で連結されている。
 界聖杯からの人類史データーベースより検索をかけると、アジア・中国大陸に由来する、三節棍という武具名がヒットする。
 更に、その端には長大な鎖が結ばれて、地面にまで伸びている。
 空にいるシュヴィに当てる為、ふたつの武具を繋ぎ投擲したものと予測。敵手の感知よりも先に攻撃が到達。回避を優先する。
 武具に込められた魔力は濃度が高く、戦闘型ではないシュヴィの機体に直撃した場合、遠心力の加速も加味して37%の損傷が見込まれる。
 しかし魔力を濃縮してある分範囲は狭く、武具の全長を離れて広範囲へ影響を及ばすものではない。
 三次元空間での線形、回避は、容易。防御陣を敷くよりも成功率は上。選択決定。

 背の翼を可動させての空力調整。周囲の魔力素を取り込んでの急速転身。
 大きな移動をしてポイントを外れれば、その間にアーチャーからの追撃に挟まれる可能性は捨てられない。極限まで現位置は変更しない。
 半身をズラす、微量の傾き。棍は鼻先の1ミリ未満を掠める。紙一重だが、しかし絶対に直撃にはならない。奇襲は失敗する。
 盤面を先読み、至るべく無駄を削り切った、美しいまでの計算式による回避行動。


「──────!?!?!?」


 それらを一瞬で白紙に帰す、計算外(イレギュラー)からの一撃が、文字通りシュヴィの頭蓋を震盪した。


『蹴られた』。
 認識できたのは、そこまでだった。
 解析体───敵の情報を真っ先に測り、読み込み、報告する、機凱種の脅威の基礎になる認識性能の特化性が、追いついていない。
 訂正。これは違う。そうじゃない。
 特別速かったわけじゃない。光はおろか音にすら届いてない速度の攻撃だ。
 手段にしても、ただ背後から頭を足で蹴られたという───それを許したあり得なさを除けば一般的な方法だ。
 威力に至っては、信じがたいほどまったく『無い』。
 衝撃こそあるものの、混乱を他所に機械的に算出される損傷度合いは、思考回路の損傷はおろか、髪の毛一本すら傷ついていない。

 相手は解析の機能を上回った威力・速度・能力を使用したのではない。
 解析にそもそもの姿が映っていないのだ。解析上、そこには誰もいない。『そういう事になっている』。
 まるで、姿の見えない幽霊に殴られたように────────。

「……そんな……………」

 信じられない。
 そう思っても、個人(シュヴィ)と切り離された無機質の性能は起きた結果から速やかに計算結果を導き出した。
 魔力の乗ってない攻撃。対サーヴァント戦アルゴリズムに則った、魔力反応を第一に設定した索敵。
 ───なんとか体勢を取り直して、蹴りを受けた方に振り返って初めて認識した、黒い姿。


 「人類種(イマニティ)…………!?」


 華やかさのない、平凡な服。
 凝縮された筋構造。
 視認していてもアラームを鳴らさない魔力探知。


「動きの割にあっさり引っかかりすぎだな。さては索敵を魔力探知に極振りしてたな?」

 シュヴィの最愛の人。
 生涯の伴侶と同じ種族(かたち)が、獣人種(ワービースト)すら凌ぐ獰猛な顔でこちらを嗤いながら。

 「だから、こんな"猿"の曲芸に引っかかるんだよ。鉄クズ」

 翼なく自由に身を翻して中空で掴んだ棍を捻り、再びシュヴィの頭蓋に振り下ろされる。



「───────ッッ!!」

 堕ちる。
 半分の視界が暗転。制動を失くした翼は用を成さず地面に落下していく。
 損傷状況確認(ダメージフィードバック)。瞬間的に後退(バックブースト)していた為予測値よりは下回っている。
 頭蓋に亀裂。右眼球(アイカメラ)露出。メインフレーム及びメモリ……記憶・記録は無事。


 ───……ッ情報、更新───魔力探知を……すり抜ける───気配遮断スキルを有する、アサシンクラス───不足、攻撃の瞬間まで……スキル効果を継続できるスキル……もしくは宝具を、所有───ッ


 クラッシュしそうな痛みに喘ぎながらも、別系統では計算を欠かさない。
 情報(マトリクス)を纏め、次回に活かす。もう連結(クラスタ)する機体はいないけど、伝えるべきマスターはいるから。
 意識を必死に引き戻し、機能制御。割れ響く音が鳴る頭にうるさい、頑張れと活を入れる。
 叩き落されたのが功を奏して、黒い男───仮称・鬼人種(オーガ)との距離は稼げた。
 魔力反応に絞っていた探知を単生命反応に切り替え。未知の構築(フォルメ)に対する最適なアルゴリズムを構築開始。
 その過程で走らせた機体精査が……付着した異物を検知する。

 背面に張り付く程度の薄さで刺さった、3本の針。
 頭部の一撃と比較して無に等しい軽微な疵。なのに思考は見逃せないと引っ張られる。
 打ち込まれた入射角から方角を逆算し検索する。するとそこには───見覚えのない、球型のオプションが、1基浮いて。


「ッ!」


 ───稲光る蒼き雷霆が、剥き出しの網膜を焼く。
 不意の奇襲で生じた撃墜を、相手は逃しはしなかった。
 鬼人種に重ねたアタックは示し合わせたものか、あるいは粘り強く辛抱して拾った幸運か。
 これこそ千載一遇。地に降りた鳥が羽撃くより前に、雷の縛鎖が展開される。
 逃げ切れない。
 例え【制御違反】(オーヴァーブースト)で急加速しても、この電網はどこまでも追いついてくる。
 機体についた小針、これは避雷針(ダート)だ。
 雷撃を誘導し、匂いを憶えた猟犬に形作る目印(ポインター)。
 最優先対処は針の摘出。式を動かす必要すらない。魔力を体外へ排出させるだけで容易く抜ける────


「音速(おそ)い!」


 雷霆(ひかり)より先に動く愚かを戒める、執行。
 避雷針目掛けて到達した稲妻は表皮を伝って全身に伝播。
 破損した回路を最適な侵入口と見て雪崩込み、シュヴィという体(ハード)と心(プログラム)を蹂躙する蒼刃と、炎の壁(ファイアウォール)が接触。
 自動防護のプロテクトが電子の盾となって受け止めて──────






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第七波動(セブンス)

蒼き雷霆(アームドブルー)

『フェザー』 

電子の謡精(サイバーディーヴァ)

皇神(スメラギ)

歌姫プロジェクト(ディーヴァ)

『エデン』

理想郷(ワンダーランド)

『ミラーピース』



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『『『解けないココロ溶かして 二度と離さないあなたの手』』』』



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 ───何……これ……誰の声───────。


 ───……う、た──────────?



 破砕音が劈くだけの聴覚が拾った、何かの旋律の意味を解くよりも前に。
 シュヴィ・ドーラの機体は、この戦場から忽然と姿を消した。




「……ああ、そうか。令呪の効果が一切効かないなんていう猿は、俺ぐらいのもんだっけな」

 令呪による強制転移を見て、間一髪で自分のサーヴァントを救ったマスターの判断に感心しつつ、伏黒甚爾はゆっくりと周囲を見渡した。
 絡繰仕掛けのサーヴァント、予測するにアーチャーが消え、残るものは、救助対象の金髪のアーチャーだ。
 膝をつき、結わえた後ろ髪が地面に垂れるほど項垂れている。

「何蹲ってやがる。あの程度でもうダウンしてんのか?」

 やっぱりガキの評価なんざアテにするもんじゃねえか……と、内心の愚痴は表に出さず。
 とりあえず協力者としてポーズだけでも手を差し伸べてやるかと考えていたら、唐突に沈黙が破られた。
 やおら立ち上がったアーチャーは血相を変え、甚爾など視界に入れてもない、入れても認識してるか怪しい狼狽した様子で走り去ってしまった。


「あ? おい───」

 声を上げても止まらず、あっという間に影は点になり、かき消えた。
 令呪の使用は確認している。命令の複雑さとマスターの資質から絶対的な命令権といえないまでも、四肢に束縛感を与えるぐらいの感覚はある筈だ。
 それがまるでない様子からすると。

「さっそく契約に抵触する事態ってか。
 ま、パチも馬も禄に当たった試しなんざないしこんなもんか? アフターケアする程の報酬もねえが……はてさてどうするか」




 ◆


 時は、幾らか遡る。

「ひとつ、教えて」

 さとうは、そう質問を切り出した。
 突如として現れ、一方的な要求を押し付けてきた男───禪院を名乗るサーヴァントに対し、怯えを見せずに。

「敵(ヴィラン)連合。この名前は知ってる?」

 しょうこは一瞬、なぜここでその名前を出したのか分からなかった。
 海賊同盟。峰津院。
 最も聖杯に近い有力陣営を挙げる情報通ぶりを見せつけておいて、その列に並べなかった集団の存在を指摘する。
 禪院の方はといえば「あー、そっち側か。成る程ね」と、しょうこを差し置いて納得した風に首を回す。

「弱みを見せる代わりに連合は見逃せ、か。見た目らしい可愛げじゃねえの」
「ちゃんと答えて」
「雇い主さ。マスターとは別口のな。元がつくかどうかは、今後次第ってところか」
「じゃあ関係は維持して。私達もそっちに入る予定だから」

 遅まきながら、ここでしょうこも何を話しているかを理解してきた。
 この男は、しおの属する敵連合と繋がりがあるのだ。それを確認する為の作業だった。
 そして裏が取れたのだから、自分も連合に加わる旨を伝え、まとめて抱き込む。
 どうせなら組織ぐるみにした方が、作戦だって上手くいくでしょうと。
 そこにいるしおの存在を仄めかしつつも、明言は避けて。
 綱渡りのさとうの提案に、禪院は一考するよう首を持ち上げ。

「……ごねられても死ぬのはお前らだけだが。いいだろう、そこで手打ちにしてやるよ」


 そうして、契約は成立した。
 事前の内容に『敵連合への利敵行為』も追加した上で、互いに令呪を消費。
 使用を確認した後、禪院は去っていった。
 地上で奮闘するアーチャーを助けに向かったのだろうか。
 令呪と一緒に連絡もしたから、敵と間違わないようにしてもらわないと。

「……これでよかったの?」
「うん。満点とはいかないけど、進展はしたんじゃないかな」

 一時はどうなるかと思った。
 アーチャーを殿に任せ撤退していたところを第三のサーヴァントに奇襲され、状況の悪さを餌に強者の足場崩しの片棒を担がされ。
 貴重な令呪を削られたのは痛いが、それでも繋ぎは作れた。
 敵連合、しおの居場所へのショートカット。戦争の行方と同等にさとうが重視する道標。
 その切欠が手に入れただけでも、僅かな僥倖と捉えるべきだ。

「えっと、じゃあ私らどうする?」
「そうだね。さっきおじさんの言った事もあるけど……まずはやっぱアーチャーを助ける事かな」
「あっそうだよね……あのオッサンに任せきりにするのもやだしね」

 取りも直さず生き延びねば、しおとの再会もない。
 あの姑息な男には対価に見合うだけの分は働いてもらわなければだし、さとう達の側としても補填するだけの埋め合わせをしなければならない。
 これもキャスターが陽の下を歩けないなんて体質のせいだ。
 こんな難儀な制約がなければ、始めからアーチャーと共闘してれば、要らぬ介入を受けもしなかったかもしれないのに。
 親元が死に克服の兆しがあるというが、どこまで信じられるものか分かりやしないものだ。



「……キャスター?」

 そこまでして、あの口煩い鬼の声がさっきから聞こえない事にさとうが気づく。
 怪訝になって後ろを振り返ると、普段神経を逆撫でする言葉を吐く童磨は、地下通路の鏡張りの壁面の前にぼうと立ち尽くしていた。

「……あれぇ? 何だろ……これ」

 映し出される童磨の表情が、疑問符を浮かべ首を捻る。
 まじまじと鏡面を見つめ、鏡像に違和感がないかつぶさに観察する。

「何か…………懐かしい気配がするような──────」


 その時、写し身の童磨の顔が波打ったように揺れて、一瞬後爆発して弾けた。
 四散する頸は、だが弱所の切断は鏡の中だけの光景で、現実の童磨は無傷のままでいる。
 無傷。そう無傷。
 鏡の泉から突き出て顔面を狙いすました拳を両手の鉄扇で挟み込んで防いだ為、負傷はしていない。


「───────────ははっ」


 鏡が通路になって街中に繋がった世界がある。
 予め知っていなければ対応しようのない闇討ちにも対応してみせた童磨は、だが見せたのは驚きではなかった。
 鏡面を抜けて全身を見せた、脳細胞の記憶と寸分違わぬ姿への、満面の笑顔だった。


「これは凄い! なんて奇跡だ! まさかこんなところで親友に再会するなんて!」


 虹色の虹彩を爛々と燃え上がらせて、乱入者に歓迎の諸手を挙げる。
 泣き別れた半身を取り戻したように。100年来の知己を見たように。


「祝福しよう! やはり俺達の友情は本物だったんだね! 嬉しさの余り抱きしめたい気持ちだよ! なあ猗窩座殿!!」
「死ね」


 壊れた笑みに、構うことなく一打を見舞う。
 破顔したまま楽々受け止めた童磨は、耳障りな言葉を吐き出し続ける。
 上弦の弐と参。
 贄に築いた数多の血に塗れた鬼月の因果が、一処に集結する。




 鏡の中を超えて現れ、童磨に挑みかかる入れ墨の鬼。
 隣接した位置で突如として始まった上弦の血戦に、さとうもしょうこも目がそちらに集中する。
 マスターであるというだけの子供でしかない二人にとっては、余波だけで身が持たないのだから無理もない反応だ。すぐに離れようと鬼同士から遠ざかる動きをする。

 ……結論から言って、この判断は誤りだった。
 さとうが危惧しなければいけないのは、一点だけ。
 童磨の同族やその強さではなく、明白な敵対行為に出た一騎が送り込まれた───敵に位置を把握されたという事実を踏まえるべきだった。しなければいけなかった。
 さとうにとっての最善手とは、令呪を使用してでも童磨に自分を逃がすよう動かす事であり、選び直す時間は既に───────。





「え?」



 記憶の再生が、目の前で始まっていた。
 過去の出来事。とうに終わった犯した行為。
 さとうの頭から勝手に持ち出された映像をフィルムに回して上映しているような、不可思議な光景だ。


『ごめんね』


 確かに、それは起きた事。
 砂糖仕掛けの城が崩れる、切欠の一滴。
 どうして今になってそんなのを思い出すのかと当惑し、困惑し、そうして理解は脳にやっと追いつき言葉に変わる。
 これは再演だ。
 これは再現だ。
 さとうが昔に行った事を、役者を変えて、別の誰かが同じ事をしている。


「───、────っ、っっっ──────────」


 さとうの役は、右目に眼帯を巻いた男。
 今まではいなかった第三者が舞台に躍り出て、もう一人の役者の背後に回っている。
 もう一人の役者は、飛騨しょうこ。演者と同じ名前と顔。
 しょうこは目を大きく見開いて固まっている。筋書きにある、あの時の光景そのものに。
 男はさとうと同じように、しょうこの口を手で塞ぎ、空いた手に握られた小さな刃物をしょうこの首筋に当てて躊躇いもなく横に引き、線からは止めどなく赤い液が流れ落ちてしょうこのシャツを汚し、穢していく。


 危機感よりも、どうしようもない嫌悪と絶望が、さとうに雪崩込んだ。
 体温が失せる。臓腑が痙攣して糖分が出ていく。
 醜さと酷さのあまり、何も考えられなくなる。

 喉から失血を続け、声も出せず青ざめていくしょうこから手を離してメスを翻す眼帯の男。
 その姿が。似ても似つかない人殺しの顔が。
 何故なのか、鏡に映ったさとうの顔に見えてしまった。




 ■



 駄目だな、と悟るのは案外早かった。
 なにせ二度目だ。しかもやり方までもあの時とそっくり。
 喉に入った横一文字の痛みも、そこから溢れる暖かな感覚も、同時に薄れていく意識も、一度目のままだった。
 だから、これから待ち受けるものについても、受け入れる準備を待たずして知っていた。

 それだけなら、ここで終わっていた。
 最期と同じ手法で済まされたなら、最期と変わらずそのままに息を引き取る結末が道理だと。
 どれだけ足掻いても変更はないと、抵抗は無駄で奇跡は無意味と体が憶えてしまっているから。
 後悔と無念を抱きかかえ、再び手は落ちる筈だった。


 でも、そうじゃなかった。
 色のない視界で、見てしまった。
 殺されていく自分を見て、自分がなっているのと同じくらい青ざめるさとうの表情を。はっきりと。


 ───ああもう、なんて顔してんの。

 ───だめじゃん。あんたは笑ってなきゃ。可愛い顔がだいなし。


 自分が殺されながら、自分を殺した事のある相手を気にしてしまうおかしさに、笑みが浮かんでしまう。
 一度死んだからって殊勝な態度でいられるわけじゃない。
 喉の痛みは2回目だからと薄れてはくれず、過去の体感のフラッシュバックで相乗されてすらもいる。許されるなら転げ回って泣き叫んでやりたい。

 死ぬのは、怖い。
 何処にも行けず、何もない場所の手触りを鮮明に思い返してしまえば、またこれを感じなきゃいけないなんて耐えられはしない。


「何──────」


 だから駆け出したのは。
 それ以上の理由に、心が括られていたか為の結果。

 痛みも、恐怖も、どう苦しむのかはもう知っている。辛いし嫌だけど、理解はしてる。
 知っているから、いちいち構っていられない。
 残りの時間には、もうひとつの事しか考えたくない。


  ───怖いのは、もっと別のこと。

  ───あの日と同じになるのだけは、絶対に、やだ。



 ───私は今度こそ、最期までさとうの親友でいるんだ。




 眼帯の男がメスを振り抜くより前に、さとうを力の限り手で押し出す。
 背後には鏡。揺らめく中では反射じゃない、ここではない何処かの景色が見える。

 「しょーこちゃ──────」

 触れた途端さとうの体は沈み込み、違う場所に連れて行かれる。言葉は途切れて、体は完全に見えなくなった。

 「あれ、ちょっとさとうちゃん?」

 キャスターも後を追って鏡に飛び込む。
 これで最低限、身を守る事だけはできる。好きにはなれないが、それでもさとう(マスター)を守れるのは、彼(サーヴァント)だけだから。


 息も吸えず倒れ込む。
 重力が真っ逆さまになったみたいに、意識が暗転する。

 心残り、後悔を抱く時間も残されてない。
 肺に溜まった酸素を使い切った脳は何の思考も形作らず。




 ───ああ。どうせならちゃんとした笑顔のあんたで、見収めしたかったのにな。




 微睡むように、幼い夢を抱き締めた。



【飛騨しょうこ@ハッピーシュガーライフ 死亡】




『……リップ────』
『謝るな。これは俺のミスだ。お前に負担をかけすぎた』
『……でも、シュヴィは、まだ』
『ああ、働かせる。お前に無理をさせる。だから今は休んでくれ。それでいいだろ?』
『……ん、わかった、よ────』

 労いの念話を切り、濡れるメスを血振りして懐に仕舞う。
 出来たばかりの死体を挟んで、リップは鏡世界に潜んでいた男に片目を向けた。

「援護ご苦労。悪いな、別のとこ行くのを引き止めて」
「……いえ」

 くたびれたスーツも相まって、煤けた印象の与える男だった。
 青い春を迎える若鳥を巣立たせる送り手の両肩は、積もりに積もった灰に埋もれている。

 リップがプロデューサーを誘ったのは、鏡世界で例の一向を監視していた折だ。
 追いつきはしたものの向こうにはサーヴァントが1騎健在。
 その後も新たなサーヴァント……そうには見えないが常軌を逸した運動能力からそう判断するしかない……と何らかの取り引きを交わしていた。
 顔に覚えはない。予想はどこか別陣営からの引き抜き。
 勢力の強化も横の繋がりも望ましくなく、ここで狩る必要性が迫る頃に、同じく鏡世界を移動していたプロデューサーを発見し接触、協力を要請した。

「……舌なめずりして楽しめとは言わねえが、少しは喜んだらどうだ。願いに一歩近づいたんだぜ」
「あなたは、楽しんでるんですか」
「別に。過程の殺しに興味はねえ。感情を動かすとしたら全部が叶った後にだろ」
「なら、そういうことなんでしょう」

 不躾にも感じられかねない誘いにも、プロデューサーは快諾。戦力の投入を即座に命じた。
 従者のランサーが、あちらのサーヴァントとは生前の頃から因縁がある相手らしいと知ったのは、後で教えられてから。
 ここにきて前世のツケとは、何が切欠で繋がりができるか分かったもんじゃない。リップの知己が来ていない事を願うばかりである。


 ともあれ、筋書きは決まった。
 ランサーがキャスターを襲い注目を集め、背後に回ったリップがマスターを切る。
 目論見は成功した。唯一予想外だったのは。喉を切り裂かれた少女が、その場で昏倒せずに咄嗟に傍らの少女を助けに動いた事。
 あれほど大胆な行動に出るとは思わなかった。
 遠目で確認していても、荒事の耐性に欠けた、場馴れしていない人種なのはすぐに分かった。
 そんな一般人が、致死性の傷を負って呼吸困難に陥れば、気が動転してその場で止まってしまうものなのだ。
 まして不治の乗った傷。概要を聞かずとも止血の為の行動は全て封じられる。
 助けを求めて足を動かす事は、できない筈なのだ。

 まるで、死に至る傷と痛みを一度は経験して、耐性を得ていたかのような。
 命が惜しくないぐらい、大切な人を守りたいという意思。
 そんな躊躇いのなさが、あの一瞬リップの片目には見えていた。



「俺はもう少し外に残ってるが……お前はどうする」
「……鏡に、戻ります。ランサーが戦っていますし、リンボから呼び出しがあるかもしれないので」

 生気の失せた顔で、男は鏡世界に戻るべく踵を返す。
 初めて顔を合わせた時も、燃え尽きる蝋燭の火の儚さがあったが。
 今はもう、その火すら消えかけている。
 死に体を衝き動かすだけの、伏せられた瞳に秘した意志が、弱々しく揺らめいている。

 潰れてくれるのは結構だ。いずれ退場してもらわなければならない身、手間が省ける。
 とはいえ中途で折れては方舟への牽制どころか逆に寝返る場合もありえる。そう思い釘刺しも兼ねて発破をかけようとするが……すぐに首を戻した。


 ───否定されたクチか。お前も。


 理由は同病相憐れむ、ではなく。無駄だと悟ったがため。
 人生の転機。情熱を傾けるもの。捧げる価値を信じたもの。
 理不尽にせよ自業自得にせよ、これまでの自分を否定された者達と同じ顔をしてるなら、他人のどんな言葉も通り抜けるだけだと、身を以て知っているから。


 ◆



『ああ、可哀想に』


『人間はやっぱり弱いね。こんな傷だけであっさりと死んでしまう』


『でも大丈夫』


『君の友達への思いは、愛は、消えたりしないよ』


『俺の中で永遠に生き続ける』


『もう決して消えたりしない。なくならない。劣化も風化もしない綺麗なままでいられる』


『だから、喜んで、くれるよね?』


 ◆


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最終更新:2023年01月25日 15:28