じりじりと角度をきつくする日光が、たくさんの破片になったアスファルトの地面を焼いていく。
 がたがたと、港区の土地が広く壊れたことで起こった地盤崩壊で、道路だったものは通過者をやり過ごすたびに軋むようになっていた。。

 紙越空魚は、災害跡地を迂回しながら港区を脱出するために、進路を北にとっており。
 そのために、粗い路面に舌打ちをしながら自転車(盗品)を漕いでいた。

 そう、自転車である。
 なぜなら、いよいよ公共交通機関はおろか、タクシーの往来さえこの土地では見かけなくなってしまったから。
 そして東京タワーから空魚をその手に掴んで運んできた伏黒甚爾は、打ち合わせを挟んで追撃に出発してしまったから。

 もはや東京は、救護活動をどうこうしようという、次元の世界でさないのだと空魚は悟っていた。
 空魚が地下で隔離されている間に、全東京都民NPCを震撼させる情報が流れていたからだった。

 『この世界は作り物で、お前たちはもうすぐ消滅する再現データで、数少ない本物の人間であるマスターの【聖杯戦争】のために消費されている』

 考えをまとめるために費やした十分の間に、まずそれが拡散されていることを知った。
 後追いでSNSをたどった空魚の目にも、『もはやタイムラインではそれ以外の話題がない』ほどの勢いがあることが分からされた。

 こうなれば、タクシー運転手はもとより、およそ『日常業務』といっていいものに従事できるような存在はごく限られる。
 代わりに港区の往来で見かけるようになったのは、『無謀な試み』か『自暴自棄』にかられて逃走しようとする、たくさんの一般車両だった。

 そう言った車の一つを、車内でマカロフをパンパンして運転手を排除して使わせてもらうという選択肢もあったことはあったし。
 それは、通勤車を運転した経験はなくとも裏世界で重機は乗り回している空魚にとって、できない移動手段ではなかったけれど。
 車(アシ)があったところで、道路が断線するなり渋滞するなりしていたら、たちまち意味をなさないわけで……。
 結果として、盗用自転車を使い捨てながら移動するのがベストではなくてもベターだということになる。
 異界の灰色に身を染めた童女のサーヴァントにひょいひょいと運んでもらうのは、揺れと運ばれ酔いを無視した上で、急いで移動したい時の緊急手段になるだろう。

 そのサーヴァントも、今はちょっとした用事でそばを離れさせている。
 せっかく常に護衛につけられるサーヴァントと再契約したばかりの身としては不用心かもしれないが。
 しかし、『自分たちが優位になるためにできることは何でもやっておきたい』という前のめりさの方が、今は勝っていた。

 そうして前進していると、前方の足元にばっと黒い影のかたまりができた。
 何事かとブレーキを踏むのと、影があったところに重たいものが激突して、その落ちてきたものが車道へと弾み、投げ出されるのがありありと見えた。
 裏世界のグリッチだとか、あれそれの襲撃よりは唐突じゃないなと車道に視線を向ければ。
 なるほど、これは左手のビルの屋上から振ってきたんだろうなと思えるものがあった。

 等身大の男性の身体が、あまり生理的に見つめたくない形に変形し、赤いものをたくさん巻き散らしている。
 空魚はそちらを見ないようにしながら、速度を速めがちにペダルを濃いでさっと通過した。
 投身自殺する人間の身体がけっこうバウンドするというのは、本当だったんだなと思った。

 港区はもともと外資系企業の日本支社やIT企業の高層ビルも多く構えられている。
 そんな土地にいた連中が生きることに対して一様に絶望してしまえば、手っ取り早くこういう手段も取るだろう。
 ともあれ、こうなればまだビルが倒壊せずに残っているような通りを移動するときは気を付けないといけない。

 鳥子が世界からいなくなったことに比べれば、もうどんな死だって衝撃のうちには入らないけれど。
 魂に欠落ができたからといって、生存のための危機感までは麻痺してはならないと、しっかり自我は守るべくして守る。

 投身した男性だったものが車道をふさいだことで、港区を脱出しようとしていた車列が強引に停まらされるブレーキ音が連続して鳴った。
 やがて渋滞になっていく車列から、何人かの運転手や同乗者が降りたつ。
 どろりと濁った眼をしながら死体をどかすべく動き始めたことだけ、振り向けば確認できた。
 グロテスクな惨劇に動けなくなったり胸を痛めるよりも、とにかく『道路を開けて行き先へと急ぐ』ことを機械的に優先したのだろう。
 絶望の中で『渋谷区のような最後を迎えたくない』という結論を出した者たちのとる行動は一つ。
 『逃げ場がない予感に苛まれた上でも、なお都心から逃げようとする』だろうから。

 「もうすぐ、武蔵野市の境目あたりですし詰めが起こるんだろうな……」

 NPC覚醒の規則性などをよく知らない空魚だったけれど、『二十三区の外を目指す』という彼らの行為はまず徒労に終わるのだろうなと推測している。
 『事情を知る人間の区外脱出が可能』なんだとすれば、まぁ『東京都外からの物資調達はできない』というルールは意味をなさないわけで。
 『せめて苦しみが少ない消滅をしたい』というNPCたちも多数現れるのはさもありなんだが、それが叶うかどうかは望み薄だ。
 この様子だと、港区の南東では東京湾に向かう車が渋滞を起こしていそうだ。
 そっちは脱出用とかじゃなく、東京湾の水底で静かに楽になるために。

 「今日一日は、あっちこっちで睡眠薬や、灯油や、練炭の売り切れかな……いや、むしろ奪い合いか」

 ――絞首のロープも、たくさん品切れになるのでしょうね……

 陰鬱な幼い声で声だけの霊体が寄り添い、アビゲイル・ウィリアムズの帰還が伝わった。

 空魚もまだぎこちなく、心の声を返そうとする。
 そう言えばこれが『念話』ってやつなのか、と落ち着かないムズムズ感が沸いてきた。
 知識としては知っていたけど、サーヴァントがサーヴァントだったせいで使うのは初めてだった。
 他の連中は、こんな心を読ませるみたいなことを一か月ずっとやっていたのかと気が遠くなる。
 ……あるいは、仁科鳥子も、このサーヴァントとしていたのか。

 ――壊してきた?
 ――大きい道路は、5、6本ぐらい。もう絶対に通れないぐらに断ち切ってきたわ。でも、どうして道路なの?
 ――今に分かる……いいや、アサシンだけ分かってればいいことだから知らなくていい。

 自分の受けた命令がどういう効果を生むのかピント来ないのは、霊基を変貌させていても、素体は子どもということなのか。

 アビゲイル・ウィリアムズが果たしてきたのは、『港区から他区へと延びる主要幹線道路のうち、東方向に伸びている太い道路を通行不能にしろ』というものだった。
 サーヴァントにとっては道路が塞がれたところで移動になんともないだろうけれど。
 一般人のNPCにとっては、まず通行の妨げになる、違う道路を進むことを余儀なくされるような具合に。
 どうにかして惨たらしい虐殺を逃れようと必死な連中に、『西に進むしかない』という指向性を与えるために。

 追撃をしようとする集団は、まず東京都の東方面ではなく、西方面にいる。

 甚爾の呪力認識や、すぐれた感覚器に頼って逃走痕をたどる追跡能力。
 そして『敵連合の戦闘事後処理をすっかり待ってからコンタクトをとる』という時間はかかるが確実な手段を用いなくとも。
 間違いないのだろうなと、絞り込みはできていた。
 もっと絞るならば、渋谷区と新宿区は既にして壊滅状態だから休憩ポイントには選ぶまい。
 そして、世田谷区は昨晩のうちに更地になっている。
 そう、『脱出を図ろうとしていたアイドル――鳥子とともにいた幽谷霧子の仲間』の一団が襲われて、それで世田谷区が消えた。
 東京タワーでの騒動は、そこから数時間をそう隔てないうちに起こっている。
 であれば『幽谷霧子が合流しようとする仲間』は、世田谷区からそう離れていない場所を仮の滞在先にしているはず。
 なので、二十三区の東ではなく西だ。

 世田谷区の隣区は杉並区、渋谷区、目黒区、大田区だが、渋谷区の壊滅は誰もがご存じの通り。
 そして、空魚が世田谷区にいたとしても大田区は逃走先に選ばないだろう。
 なんせ南と西に会場の端があり、東は東京湾に囲まれているから、北方向から追撃されたら袋のネズミになってしまう。
 残るは目黒区と杉並区。
 どちらかと言えば杉並区だろうと甚爾は言っていた。
 昨晩の時点で二匹の蜘蛛が連合を組んだであろうことはあの峰津院大和も『M』との電話で語っていた。
 その敵連合の拠点が中野区にあることは甚爾が知っている。
 であれば、仮に敵連合と連携をはかることを念頭において行き場所を選んだのなら、中野区の隣区である杉並区の方がそれらしいだろう、と。

 ここで、東方向に向かうための主要な道路を壊してしまえば。
 恐慌のあまりワンチャンスを求めて東京から逃げようとする群衆は西へと誘導され、会場の西端に近い一帯で遠からず立ち往生することになる。

 ここで重要なのは、目当ての集団が東京タワーでずっと相手にしていたという峰津院大和が。
 そしてもう『同盟者』として扱い続けるには零落していて、紙越空魚の右眼のことも、仁科鳥子の為なら手段を選ばないことも知られている、峰津院大和が。
 昨晩の新宿事変から、たてつづけの災害に深くかかわっていることを大衆向けの放送で公言していて。
 覚醒したてのNPCでさえ、『峰津院大和はマスターなのではないか』とすぐに気付けるほどダントツに著名人だということだ。

 もう反壊滅状態になっている港区だけの交通の流れを何とかしたところで、効果は限定的だったり一過性だったりに過ぎないには違いないけれど。
 あの峰津院ならば、冷静さを失った群衆と鉢合っても、赤子の手をひねるどころか、蟻の巣にバケツの水を流し込むようにあっさりと撃退するのだろうけど。
 大衆が峰津院大和を見つけて大騒ぎが起こるようになれば、居場所の特定をすることは容易になる。
 本当にあわよくばだが、他のマスターが周りにいた時に、そいつらの『削り』も狙える。

 そんなプロバビリティーに恵まれたらいいなぁと期待して。
 私の幸運は、鳥子に出会えたこと一点で使い切ってしまった気もするけれど、まだ幾ばくかは残されていたらいいなと切に思う。

 「にしても、あっつ………」

 ハンドルから右手を放し、手の甲でにじんできた汗をぬぐった。
 この暑さだけが、24時間前の東京の午前と変わりないものだった。
 どっかで売り切れになってない自動販売機でもぶっ壊して、水分補給をしようと空魚は思う。


 どうかこの八月二日の晴天が暑くなり過ぎないよう――早々に曇ってくれないものだろうか。


 ◆


 「そういう質問は、助けられたいって期待してる人がするものじゃないですか?」

 七草にちかは、憮然とした。
 必ずかの邪知暴虐の王を除かねばならぬという決意なんて全くさっぱりカケラも無かったけれど。
 その有名な出だしぐらい軽率に、脊髄反射で発言をした。
 田中摩美々の通話が終わった直後のことだった。

 ――世界の崩壊を願うテロリストを、故郷まで安全に送り届けてくれるってんだから

 いや、その問いかけは、話が終わってみればおかしい。
 魔王はアイドルなら求めれば救ってくれると【期待をしていない】から、テロリストをやっているんだとあなた自身が言っていたじゃないか。
 偶像(ヒーロー/アイドル)は自分たちを救うものではないから、そんな役立たずばかりの世の中だから。
 相互理解と絆がある友達(ヴィラン)で力を合わせて、自由かつあるべき姿へと世界を壊す。
 死柄木弔の想いを理解したとまでは言えないにちかでも、死柄木の結論がそういうものだと、これまでの通話を聴いている。

 「別に漫画やドラマみたいな改心イベントを起こさなかったら舟に乗せないとは言いませんよ。でも!
 私はアイドルを当てにしない悪の大魔王(ヴィラン)だけど、アイドルさんどうか助けてください……って。
 そんなスタンスの時点で『大魔王』じゃなくて小悪党じゃないですか。なんでそうなった時の自分の格落ちはスルーするんですか」

 それで煽ってるつもりは無いです、は無理がありますよねと怒るにちかに対して。
 言われた側の田中摩美々は、曖昧に口元だけを緩めた。

 「んー……煽るつもりがあったかどうかは、にちかの言う通りなのかもしれないケド」

 表情には、翳りと疲労が顕れたまま。

 「お節介なら嫌いじゃないケド……『だから気にするな』みたいな話なら、今はちょっと無理かな」
 「で、ですよねー……」

 ああ、またバカなことを言ったと、何度目かの後悔をして。
 気まずい沈黙が生まれるままに立ち尽くすしかなかった。

 「頭のどっかで『あの人の中に、夜に泣いてる迷子がまだそこにいるなら』って……思ってたところは、あったかも」

 言葉として、違うものを与えることはできなかったのか。
 あるいは、結局のところ摩美々たちからは与えられないことを確かに踏まえた上で話すべきだったのか。
 それらを通話している間も意識の水面下でぐるぐるとさせていたのか、吐露は続く。

 「もしも『夜の迷子』がまだあの人の中にいて、その子を泣きやませられたら。
 世界を壊す以外のやり方で、足りないのを満たすことも……と思ってたところは、なくなくもなかったかも」

 でも、こっちのお節介はきっと遅くて、余計で、合わないもので、とっくに良い友達がいたんだろうね。
 海賊を倒した時の電話でも、向こうから楽しそうな声が聴こえてきたし……と言って。
 バラエティ番組でも悪びれないキャラクターを前面に出している田中摩美々が。
 そうやって己の落ち度を挙げていくのを見ていると、やりきれなさと、無力感が足元をぐらつかせる。

 「そんなこと言ってたら……峰津院さんを助けたくないとか言ってた私の方が、よっぽど」

 そのせいでさっきの電話だって……と言いそうになって、さすがに言うのは憚られた。
 真乃も摩美々も、根っこの原因はにちかには無いと言うのだろうけれど。
 摩美々の言葉を詰まらせてしまった副因のひとつに、にちかは関わっている。

 ――それぞれの世界に行って最善手を探し出す。そこで可能なだけ、彼らの叶うはずだった願いの手助けをする。

 にちかのサーヴァントが、その後の世界のフォローならば、全て己が担うと東京のど真ん中で表明したのだから。
 ぞして、彼ならば真面目にまっすぐに、その通りにしたのだろう。
 死柄木弔が帰還したとしても、その心が救われ、その上で世界の破壊も食い止められるような最大限の努力を果たしたのだろう。
 その努力さえも死柄木には、『今さらそんなことしたって魔王は止められない』と言うべきものだったかもしれないが。
 少なくともにちかのサーヴァントが『帰還先の世界への影響』を真面目に、限度を知った上で配慮していたことは皆が知っていて。

 ――なんであなたが……あんなやつなんかに………………

 その責任をアシュレイが担うことに対して。
 他の人にも聴こえる声で猛抗議したのは、他でもない七草にちかだった。
 摩美々からしてみれば、『問題が起こったら全部サーヴァントに丸投げしまーすなんて、誠意も説得力も無くて言えなかった』らしいけれど。
 ……自分の生きて帰りたい気持ちさえ、全部他人に代弁させて。
 そもそも方舟のことをアッシュが最初に提案したのは、にちかが『殺し合いせずに生きて帰りたい』と言ったからじゃないか。
 その計画のケアはすべてアッシュに担わせて、話し合いの矢面には摩美々を立たせた上で。

 ――取り零しや、納得いかない答えしか出せない事もきっとある。
 ――けど願いを諦めて手ぶらで帰れって言うんだ。頭を下げるだけで済ませられる話じゃない。これくらいの骨折りはしなくちゃ釣り合いが取れない

 あれだけの無茶と無理を押し通そうとするような努力が、にちかの望みを発端として捧げられているのに。
 君のもとに帰ろうと思えることで戦えるんだから、気にするなと言われたところで。
 待つことしかできないどころか、傷ついた彼を迎えるための笑顔だってまだちゃんとできやしないのだ。

 バサバサバサと、重なるような羽音が鳴り響いて。
 野性の鳩を複数、櫻木真乃が肩に乗せたまま悄然としていた。
 細い肩が、鳥のせいだけでなく沈んでいて、顔は青ざめていた。
 言うかどうか迷ったけれど、というような沈黙を経て、ぽつねんと呟いた。

 「峰津院さんが無事に帰れなかったら……峰津院さんの世界は、滅びるんだよね」
 「それを言うー?」
 「あ、ごめん……」
 「ううん、そういう耳に痛いことは、悪い子から言わなきゃいけなかったなって」

 カラ元気という言葉にさえ足りていないほど、半端にふわふわとした遣り取り。
 耳に痛いこと、とは……と、にちかは自責を断ち切り思い巡らせて。

 言葉の意味する事実は、あまりに重たいものだったから。
 ずん、と青い空がそのまま落ちてきたような絶望感がのしかかった。
 WING準決勝でも、まるで足元がおぼつかないまま踊っていたけれど、それの何倍もひどい。

 あの、自分でも何をやっていたのか冷静に思い出せないステージ。

 ――立ち位置に気を付けて『審査員が見てる』サビ前のとこは右足からにする――
 ――クロス、横、1,2『手がしびれる』音程ちゃんと聞いて――
 ――ああそうだ次はあのステップだった『うるさい』笑顔がくずれないように――
 ――パ・ダ・ダ・ダをやらなきゃ『寒い』でも直後にダンダンが来る――
 ――美琴さんに合わせないと『空気が、息が、息吸わないと』でも笑顔もやらないと、やらなきゃパ・ダ・ダ・ダ――

 あの吐き気がこみあげる時間でさえ比較にならない大きなものを、永久に背負っていくのだと確信したような。

 もうすぐ、峰津院大和がここに来る。
 龍脈の確保は叶わなかった。
 おでん達をはじめ何組もの主従が倒れていった。
 敵連合は見切りをつけて、陣営としては孤立した。
 それでもライダーは帰ってきてくれたことに安堵して感謝する、小さなエゴもあったけれど。
 峰津院大和の生存は拾えたし、ライダーが彼を助けたこと自体には、嫌という事は無かったけれど。

 念話でも言葉を濁したライダーから察するに、その人は戦闘前に表明したスタンスを変えたわけではないらしく。

 ――世界の崩壊を願うテロリストを、故郷まで安全に送り届けてくれる

 先刻の言葉については、現時点ではそこまで考えなくてもよかった。
 実際に死柄木が方舟で帰りたがっているわけではない前提での、『もしも』を前提とした話だから。

 ――現実において私と貴様は相容れぬ敵であり、貴様の理想論を悠長に待てるだけの時間は、私の世界には残されていない

 だが、これからここに現れる男は、『もしも』ではなく事実として。
 『彼が生還できなければ、世界一つが滅ぶことになる』だけの事跡を背負っている。

 そうして作り上げようとしている世界もまた、ライダーの見立てでは『土台が持たない』ものではあるらしいけれど。
 彼の使命が、あくまで『世界が滅ばないよう守護することには変わりない』ものであるからには。
 その結論が『最大多数を助けたいというなら、峰津院大和が勝利して帰参するために死ぬべきだ』だった時に、七草にちかはなんと答える?



 「……とりあえず、あっちの建物にでも入ってようか。不法侵入とか言ってらんないでしょ――」



 いつの間にか簡易に塗りなおされたネイルの指先で、摩美々は公園の隣にある小学校を指していた。
 ここにいると真乃が目立っちゃうしね、とも付け加えられる。

 「あ……そうだよね。ごめんね、目立っちゃって」

 真乃が慌てて謝ると、両肩の鳩たちが少し傾いた。
 そして気付けば、複数の鳩を乗せたり群がらせることにとどまらず。
 ヒヨドリ、オナガ、ツバメ、シジュウカラ、スズメ、カワラヒワ、ムクドリ等からなる鳥類が、付近の枝や手すりや芝生など、あらゆる目につく所にいた。

 「……いや、集まりすぎでしょ」
 「私も何回か見たことあるけど、真乃が歌い始めるともっとすごいことになるよ」

 櫻木真乃は、鳥に好かれる。
 いや、鳥に好かれるなどという言葉では生ぬるいほど非科学的に懐かれる。
 ペットショップや花鳥園に行けば、ケージの格子ぎりぎりまで鳥類がわっと集まってくる。
 道を歩いているだけで鳩を呼び寄せ、肩に留まらせたまま事務所の玄関をくぐることもしばしば。
 船に乗ればデッキにいるだけでカモメ達が飛んできて、他の乗船者もおおぜい近くにいる中で真乃にだけ群がり始める。
 そして種明かしとして、シンプルに生態系が激変していたという事情があった。
 被災地から昨夕時点で退避してきた野鳥が緑地の生態系を偏らせて、ここまでの密集に至っている。

 「この公園に人を呼んで、お話はできないよね……ごめんなさい」
 「あっ、いえ。どのみちライダーさんなら、ずっと同じ場所に居続けるのは危ないとかで、場所替え指定してきそうだし」
 「そういうこと……それに、公衆電話からはもうかかってこないし」
 「う、うん……でも摩美々ちゃん、休むなら、ごはんとかばどうしよう……」
 「あー……たぶんコンビニとかは品切れだよね? 新宿の時みたいな救護所ってこの辺にあったっけ……」

 暗澹とした思いは継続したまま、目先の話は再開されて。
 しかし、その会話もふいに途切れた。
 摩美々の目線が泳ぎ、ちょっとだけ静かにしてねというように口元に人差し指をあてて、そのまま眼を閉じたからだ。
 しばらく間があって、聴いたことをそのまま反復するように言った。


 「アーチャーさんから念話が来た。なんか……霧子と話すことができたから、河辺で寄り道していく、みたいな……?」


 ◆


 杉並区は港区のようなビジネス都市としての色合いは薄く、むしろ閑静な商店街や住宅街といった区画が景観の多くを占めている。
 二十三区の中でもとりわけ自然や河川沿い公園が多い一帯で、区役所の広報でも住みよく子育てしやすい街づくりを前面に押し出した都市計画がうたわれることが多い。
 だが、地上百メートルに迫る高さの高層ビルディングが存在しないというわけでもない。

 まさにそういうセントラルタワーの頂上へと陣取り、伏黒甚爾は標的を視界に収めようとしていた。
 杉並区内の四方を見はるかし、並大抵の『狙撃』スキルを持ったアーチャーのサーヴァントよりも抜きんでた精密さを持つ視覚を用いて。
 景色におさまった区画にいるすべての人間から『落ち延びた集団ないし主従』を探す。

 とりわけ指標となるのは、仁科鳥子らと共にいた所をはっきり確認できた少女、幽谷霧子。
 あるいは、その幽谷霧子を連れ去ったアーチャーと思しき青年のサーヴァント。

 どうやら仁科鳥子の、この地でそれなりに関係を築いた友人であるらしいことは甚爾の判断に何ら差異をもたらさなかったが。
 同じく、依頼人である紙越空魚にとっても、そのことは殺しの判断にいささかの影響も及ぼしていないようだった。
 否、影響を及ぼしていないというのは語弊があるだろう。
 『向こうは、まだ空魚たちのことを共闘できる仲間だと思っていて、油断を誘えるかもしれない』だとか。
 そういった今後の戦いを優位に勧める影響のことであれば、空魚は考えを伝え聞かせる中で検討していた。

 開戦間もない当時は日和見がちに家に引きこもっていたのが、ずいぶんと研ぎ澄まされた。
 だが、ずいぶん変わったかと言われたら、そうでもないようにも見える。
 今の紙越空魚の姿は、そのぐらいに見えた。

 イカレているが、イカレ切れてない。
 依頼人に対する初めの心象はそれだった。
 生き物を一切の躊躇なく殺(と)りに行ける人間は、客観的に見てイカレていると呼ばれる。
 そして甚爾の身を浸してきた社会では、イカレていることが長生きする必要条件の一つだった。
 その観点からすれば、今の空魚は頼もしいイカレ具合になったと言えるだろう。
 甚爾が舗装する血濡れが約束された道を、勇んで走り始めたのだから。

 だが、一方で別の認識もあった。

 もしも『変わる』ということが。
 人生を変えた女がいなくなることで、腑抜けになるような有様を指すものだとしたら。
 べつだん刹那的にも退廃的にもならず、取り戻すことに腐心している紙越空魚は変わっていないからだ。

 しかし、もしも『落ちる』ということが。
 人生を変えた女が託した遺言(■をお願いね/負けないでね)のことを。
 遺した当人はそういう形で叶えることを望んでいなかったんだろうなという手段でしか成せないことを指すものだとしたら。
 紙越空魚とどこかの人間を辞めた男には、ひとつだけ共通点じみたものがあるのだろう。

 そんな風に過去の誰かと比べることに右脳を少しだけ動かし、その分だけ右眼も微細に動かしていた時だった。
 両眼が現実の対象を捕らえた。

 とりたて幹線道路ではない細い路地で休息場所を探すのさえ煩わしいとばかりに座りこんでいる、瓦礫の土汚れにくたびれたスーツ姿の生気を亡くした男。
 問題はその手に携帯する札を甚爾が視認できたことであり、それはあのリンボが擁していた黒閃の修羅が身体に塗布していた札の形と酷似していたことだった。
 仮にあの修羅に連れられて港区から移動してきたのだとしたら、焼失した新宿区と渋谷区の境あたりを戦禍にかからず擦り抜けたのか。
 いずれにせよ幽谷霧子の関係者であることは、『プロデューサーさん』がどうこうと、修羅が呼び止められていたことから疑いなく。
 そこで交わされていた内容の意味合いはさっぱりと分からなかったが、双方の関係が『救うべき敵方の人質』と見なすには背信行為が強すぎるものであり。
 かといって自発的な裏切りを間に挟んだ関係であるにしては修羅の態度が煮え切らぬ様子であったことが甚爾の見解を困難にした。

 その男が甚爾の追っていた集団のもとに向かう可能性は低くなく、その為の案内役として利用するにせよ、『土壇場でどちらに味方するか』についてはできれば確証が欲しい。
 紙越空魚であれば、別行動中にまた違った背景情報を持っていないだろうか。
 ――もっともあの場でリンボを援護し、仁科鳥子の死の間接的原因の一端でも担った時点で、心象が最悪になることは避けられないだろうが。
 そう算段しながら、甚爾はかねてより依頼人との連携において必需品となっていた携帯電話を再び取り出した。


 ◆


 峰津院の全ては国家の為に。
 術師の力は守護の為に。
 強者としての責任を果たせ。
 そこに揺らぎはない。揺らぎもブレもあってはならない。

 だが、現代の国家を生きる者たちの中に、『猿』ではなく『人間』だと呼べる尊い者がどれほどいる。
 大和にとって将来の同胞となるやもしれない可能性あふれる萌芽が、甘えた猿どもを守る為に貪られていくのはどういうわけだ。
 猿から英雄へと這い上がれる者がいることを否定するつもりはなく。
 故に、猿は皆殺しにしていいとまで鬼たらんとするつもりは毛頭ないけれど。
 猿は嫌いだという己の感性を疑おうというつもりには、どうしてもなれなかった。

 故に、『おれの友達をバカにするな』という理由で弱者を庇いだて激昂し、『お前は凄い奴だ』と吠えた侍の残響が、未だに消えない。

 その男にとっては、衆愚も、現在の峰津院大和も、どちらも等しく人間であり。
 それはどちらも、峰津院大和が人間と見なしていない存在だった。
 故に、光月おでんの守ろうとした判断基準が理解できない。
 それは『方舟』を名乗る、ハーメルンの笛吹きとネズミの集団に対してのそれも同じだった。

 もしも『崩壊』が戦場のすべてを覆す前であれば、方舟という集団は確かに盤上で勝ちの目を拾える集団であったのだろう。
 他陣営からは意外に思われるやもしれないが、峰津院大和はその点については疑っていない。

 大和が方舟を無知蒙昧な、理想足り得ない夢想だと断じているのは、あくまで『思想』の部分においてであって。
 その目的を実現するための『手順』に関しては、方舟はむしろ最短で、堅実で、確実な手筋を持って乱戦に挑んでいた。
 まだ生きているマスターの無条件の生還。
 叶えられる範囲での界聖杯の使用権の分割。
 参加者抹消による無効試合(コールドゲーム)の設定の解除。
 そこに至るための決着手段は、『界聖杯そのものとの交渉』。
 言葉だけを論えば幾らでも誇大妄想の類であればこそ、荒唐無稽さは覆しがたい。
 だが、それを妨害する要因は突き詰めれば『宝具の発動条件が極めて限られる』という一点だ。

 力を借り受けるための手数が限られていることも、力を行使し続けるだけの時間が不足していることも。
 『概念を自在に付与できるという龍脈の真価を発揮した上で、ライダーの霊基を宝具の大規模かつ長時間使用に堪え得る位階にまで強化する』という無法を行使していればどうなったことか。
 龍脈に対して目的をたしかに命じることさえ可能であれば、『東京と大阪間の移動手段に過ぎなかったターミナルを、その龍の一尾だけで北極星に届くための軌道エレベーターにまで底上げする』というような無法とて罷り通る。
 そういった龍脈の真の用途を銀翼のライダーが知らなかったとしても、『あの峰津院主従の秘宝であれば、所有者である峰津院大和がもっとも効率的に運用すれば魔力プール以上の魔法のランプまがいとなる』可能性に眼をつけていたのだとすれば。
 交渉人は、霊地だけを目当てに交渉を仕掛けてきたのではなく。
 龍脈と、それを十全に機能させられる峰津院大和の双方を手に入れる意味を理解して無謀な訴えを起こしたのだ。

 だが、それも今となっては、『たられば』を付けなければ語れない失敗譚のひとつだ。

 大秘宝を獲り、王にはなれなかったのが海賊だ
 最強のまま蒼穹に君臨できなかったのがベルゼバブだ。
 そのベルゼバブに、どちらが上なのか解させる機会をついぞ持てなかったのが峰津院大和だ。

 そして、『界聖杯との交渉』に至るための龍脈(リソース)を保有できなかったのが方舟だ。
 龍脈の一つは海賊女帝を下した魔王の腹におさまり、その個性に染め上げられる形で、とても喰らいつくこと叶わぬ猛毒へと汚染された。
 いまひとつはその汚染によって根源から干からび、界聖杯という瓶の根底へと胡散霧消した。

 もはやこの土地において、方舟の一発逆転を叶えるための元手(リソース)足り得る資源は存在しない。
 ことによっては『平等に手をのばす集団』という看板を投げ捨て、残ったNPCの魂喰いに走るような見苦しさを披露するのやもしれないが。
 それさえ、一度に捕食するための手立てを用意していた海賊に比べれば捕食効率にも龍とスズメの胃袋ほど劣るものになるだろう。

 方舟の真の目的が『界聖杯に対する交渉とそのための宝具発動』であると、詳らかに聴いた大和であればこそ。
 龍脈の確保の失敗が『宝具を発動する手立ての喪失』であり、ほぼ唯一の確かな勝機が途絶えたことを自明とする。
 それでもなお界聖杯に『ルールを変えろ』と要求するようであれば。
 それこそ『界聖杯自身の魔力』を元手する、つまりライダーが提言した『聖杯自身に生還者を出させる』策にでも走り出す集団に成り下がる他ないが。
 果たして『ライダーという英霊がなるべく背中を押すために尽力するから願いを諦めてくれ』と言われて、妥協する者が他にどれほどいるのか。
 まもなく方舟は、『願いを諦められない者との殺し合いを避けられないなら、それは生還を願いに掲げる聖杯狙いとどう違うのか』という現実に衝突して沈没する。

 もっとも、方舟の現状を知らず、『いつ脱出するともしれない集団』程度にか認知していない主従でさえも。
 東京タワーにて龍脈をめぐる戦いに参戦した上で、『崩壊』に飲まれたことを知れば。
 『方舟の計画のためには龍脈が必要だったが、それを手に入れることは叶わず敗北した』程度の想像は働かせるかもしれないが。

 そして、『峰津院大和を認めさせることが叶わなかった』のが、方舟でもある。

 ――全てを使うことを許す。 
 ――武装、仲間、異能、命……全てを賭けて私を地に伏せてみせろ。

 なるほど、大和自身がその口でそう言った。
 そして、仲間を使うことを許すと言ったからには、光月おでんという『仲間』によって禍根を残した方舟側の言い分に、一考する価値を認めてくれないかという問答は、この先で想定されるだろう。
 ベルゼバブの敗因を大和は知悉していないが、『ベルゼバブの戦闘が佳境になり、霊地のすべてを搾取したのと同時進行で、光月おでんもまたセイバーの魔力供給に苦しんでいた』という傍証があるからには。
 『光月おでんのセイバー』がベルゼバブを相手にした『逆襲撃(ヴェンデッタ)』において、一枚噛んでいたという可能性はある。
 であれば、『こちらは仲間の尽力によって峰津院大和のサーヴァントに勝利している』という判定を求めようとする者は現れるかもしれない。

 何も、『峰津院大和はたしかに敗北し、光月おでんとライダーがいなければ戦線で誰よりも先に散っていた』という事実から目を背けて、己だけに二重規範を課すつもりはない。
 『自身に課したロジックをもとに言明し、不正のない結果が出れば、どんなに業腹でも受け入れる』というアシュレイ・ホライゾンの高評価を、覆すような軽挙に走るつもりはなかった。

 だが、霊地をめぐる争いの直接的な、そして唯一ともいうべき勝者はむしろ『崩壊』を行使した魔王であること。
 そして何より、当の『勝利』を招いた原因である方舟の価値、『光月おでんとそのセイバー』は、おでんの脱落により両者ともに存在しないことが、大和の納得を否定していた。
 崩壊を企図した敵連合の者を、あの時点で方舟側の協力者だったと主張するには、方舟側ももろともに攻撃している時点で苦しい。
 そして、そういった小理屈を抜きに、大和自身が納得いっていないという不条理感として。

 光月おでんという強き侍の犠牲に、おでんの仲間として見合わない弱者が『ただ乗り』するなら、それは峰津院大和がもっとも嫌悪するところの輩である。
 才知、知略、漁夫の利を狙う作戦勝ちなどを、大和は力の一つとして否定しないが、それが『才気ある者を使い潰すための奸智』であれば話は別だ。

 今すぐに方舟側のサーヴァントと連戦をしようというほどの軽挙さも無かったし、他の戦局での情報共有を兼ねた話をする程度の義理を果たすつもりはあったが。
 仮に光月おでんに奮戦を果たさせた者達が、おでんの命を糧にして生き延びたことに安穏とするだけの可能性亡きたちだったのだとすれば。
 大和は光月おでんの守ろうとした成果を、むしろ積極的に烏有に帰さねばならないという決意を持っていた。


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最終更新:2023年06月07日 21:50