メギドラオン。
それは極大の火力に他ならない。
単純な破壊力だけに絞って言えばリンボ自身の本来の宝具よりも数段上を行く。
龍脈の龍を経由してその身に会得した異世界の魔法。
蘆屋道満程の術師であれば、それを最上の形で扱いこなすなど朝飯前の茶飯事だった。
更に禍津日神・九頭竜新皇蘆屋道満として完成された素体をもってすれば尚の事。
結果として歓喜のままに解き放たれた最上の炎は屍山血河舞台の総てを焼き尽くし。
後に残された者達は、当然のように敗残者らしい姿を晒す憂き目に遭った。
「これはこれは」
アビゲイル・ウィリアムズは右腕を黒焦げの炭に変えられ。
新免武蔵は髪房を焼き飛ばされた上、炎の中に生存圏を捻出する為に多刀の半分以上を溶かさねばならなかった。
そして
伏黒甚爾の損傷が一番重篤だ。
彼は左腕を肩口から消し飛ばされ、それだけに留まらず左胴全体に大火傷を被っていた。
如何に彼が天与呪縛のモンスターであると言えども、これは紛うことなき致命傷だった。
「皆様お揃いで、随分と見窄らしい姿になりましたな」
らしくもなく息を乱した姿に溜飲が下がったのかリンボは満足げに彼の、そして彼らの有様を嘲笑する。
一番被害の軽い武蔵でさえ二天一流の強みを大きく削ぎ落とされた形。
アビゲイルと甚爾は四肢を三肢に削がれ、後者に至っては生命活動の続行さえ危うい容態にまで追い込まれている始末。
無様。
神に弓引いた者達の顛末としては実に"らしい"体たらくではないか。
そう嗤うリンボだけが唯一無傷だった。
三人が負わせた手傷もダメージも、メギドラオンの神炎が晴れる頃にはその全てが消え失せてしまっていた。
「…大丈夫、二人とも」
「私は、なんとか。でも…」
アビゲイルの眼が甚爾を見やる。
甚爾は答えなかった。
それが逆に、どんな返事よりも雄弁に彼の現状を物語っている。
“…こりゃ駄目だな。流石に年貢の納め時らしい”
冷静に自分の容態を分析して判断を下す。
此処まで数秒足らず。
自分の肉体の事は嫌という程よく分かっている。
何が出来るのかも、何が出来ないのかも。
以上をもって伏黒甚爾は自分の末路を悟った。
“不味い仕事を受けちまったな。タダ働きの果てがこれじゃ全く割に合わねぇ”
ほぼ間違いなく自分は此処で死ぬ。
反転術式なんて便利な物が使える筈もない。
マスター経由での治癒も見込めず、体内は主要な臓器が半分程焼損している有様だ。
今こうして生き長らえている事が奇跡と言っても決して大袈裟ではなかった。
“従っても歯向かっても、結局汚れ仕事やるような奴は長生き出来ねぇってか。…返す言葉もねぇな”
あの時。
伏黒甚爾は、アイドルの少女を射殺した後――芽生えた違和感に逆らわなかった。
大人しく尻尾を巻いて逃げ帰った。
それでも結局こうして屍同然の姿を晒すに至っているのはどういう訳か。
問うまでもない。
そういう訳なのだ。
散々暗躍して来たツケか、どうやら往生際という奴が回ってきたらしい。
何か途轍もない幸運に恵まれて生き長らえる事が出来たとしても隻腕の猿など何の使い物にもなりはすまい。
つまり此処で自分は、ごくあっさりと詰んだ訳だ。
仕事人らしくひっそりと…呆気なく。
似合いの末路だ。
甚爾は満身創痍の体の可動域を確かめながら自嘲げに笑う。
とはいえこれで最後なら、もう後先考える必要もない。
最後に死に花咲かせてアビゲイルにバトンを渡せばそれで終いだ。
“化物退治の英雄になるつもりなんざ端からねえんだ。ド派手な英雄譚なんざ、持ってる奴らに任せとけばいい”
例えば、得体の知れない神に魅入られているガキだとか。
例えば、差し向けられた呪いも力も全部真っ向斬り伏せちまう剣客だとか。
華々しい勝利や首級はそれが似合う奴らに任せるのが絶対的にベターだ。
能無しの猿がやるべき仕事はその手伝いと後押し。
奴らが気持ちよく本懐果たせるように裏方仕事で敵を削り、死ぬ前に野郎の吠え面が見られればラッキーと。
そうまで考えた所で、
『猿では儂は殺せぬ。誅せぬ。一芸、一能、道具を用いようと知恵を使おうと、人の真似を超えませぬ』
『黄金ほどの衝撃もない。
雷光ほどの輝きもない。
火焔ほどの鋭さもない。
絡繰ほどの巧拙もない。
鬼女ほどの暴力には、些か足りない』
――違和感。
自らの意思と相反して隻腕に力が籠もった。
その右腕を見下ろす視線は忘我。
次に浮かんだのは苦笑だった。
「俺も懲りねえな」
"違和感に逆らい続けると、ろくなことがない"。
結局の所猿は猿なのだろう。
然り。
この身に正義だの信念だのそんな大層な観念は今も昔も一度だって宿っちゃいない。
只強いだけの空洞。
そしてその空白を埋める物は、もう未来永劫現れる事はない。
自分も他人も尊ぶことない。
そういう生き方を選んだのだから。
そんな青を棲まわせる余地なぞ、この体に一片だってあるものか。
それは今も変わらない。
きっとこれからも。
何があろうとも――。
「フォーリナー」
リンボの五指は今や指揮棒だった
振るその度に呼吸のような天変地異が発現する光景は悪夢じみている。
地震。火災。雷霆に怪異の跳梁、束ねた神威を放てばそれは必滅の審判と化す。
傷口が炭化して血すら流れない欠けた体で地面を蹴り、それらをどうにか掻い潜りながら。
すれ違う僅か一瞬、甚爾はアビゲイルへと耳打ちをした。
「――――――」
少女の眼が見開かれる。
だめよ、と口が動いた気がした。
それに耳は貸さない。
伝えるべき事は伝えたと、猿は戦端へ戻っていく。
“しかし流石に坊さんだな。人の陥穽探しは得意分野か”
捨てられるものは残らず捨てた。
何だって贅肉と断じて屑籠へ放り込んだ。
それをとっとと焼き捨ててしまわなかったのが"あの時"の失敗。
だから今回は歯車たれと。
依頼人のオーダーを完璧にこなして座へ帰る、そういう役割に殉ずるべきだと。
そう決めていた。
今だってそのつもりだ。
なのに猿は何処までも愚かしく。
そして、何処までも人間だった。
――後先がなくなった。
未来が一つに定まった。
後任は用意出来ている。
何より今この場を仕損じれば、その時点で仕事は失敗に終わるのが確定している状況。
そんな数々の理由が…言い訳が。
英雄が生前の偉業をなぞるが如くに。
術師殺しの男に、その愚行をなぞらせる。
「…さて」
右腕は問題なく動く。
両足の火傷も軽微だ。
内臓の損傷は重度。
失血で脳の回りは悪い。
何より片腕の欠損がパフォーマンスを著しく低下させている。
仕事人として、術師殺しとして片手落ちも良い所だ。
以上をもって伏黒甚爾は結論付ける。
――問題ない。
「やるか」
悪神と化したリンボを討たずして仕事の続行は有り得ない。
ならばその為に今此処で死力を尽くそう。
この違和感に逆らって。
この衝動に従って。
甚爾は地を蹴った。
無形の魔震を斬り伏せながら吶喊する。
嘲笑うリンボへ獰猛に笑い返して、男は愚かのままに突き進んだ。
呪霊の海が這い出でる。
禍津日神の呪力によって無から湧き出す百鬼夜行。
それを切り払いながら進む甚爾の奮戦は隻腕とは思えない程に冴え渡っていたが、しかしそれは大局に何の影響も及ぼしていなかった。
「健気なものよ。これしきの芸当、今の儂には無限に行えるというのに」
夜行は攻め手の一つに過ぎない。
甚爾を嘲笑うように九頭竜の顎が開き、九乗まで威力を跳ね上げた魔震を炸裂させた。
アビゲイルが鍵剣を振るって空間をねじ曲げる。
そうして出来上がった脆弱点を武蔵が押し広げ、力任せにぶち破った。
だが足りない。
無茶をしても尚砕き切れなかった震動の余波が彼女達の体を容赦なく蹂躙する。
武蔵が血を吐いた。
アビゲイルが片膝を突いた。
されど休んでいる暇などない。
甘えた事を宣っていれば、足元から間欠泉宛らに噴き出した呪炎の泉に呑まれていただろう。
「チェルノボーグ、イツパパロトル」
二神が列び立って天元の桜を迎撃する。
暗黒と吸精が、女武蔵の体を弾丸のように弾き飛ばした。
彼らは次の瞬間にアビゲイルの喚んだ触手に呑み込まれ即席の牢獄へ囚えられたが、それも所詮は僅かな時間稼ぎにしかならない。
空に瞬く赫い、何処までも赫い太陽。
先刻三人が見た最強の魔法を嫌でも想起させるそれが弾ければ、地上はまたしても熱波の地獄に置き換わった。
「メギド」
メギドラオンに比べれば遥かに威力は落ちる。
だがそんな事、何の救いにもなりはしない。
最上に比べれば威力が幾許か落ちる。
――だから何だというのだ。
「では十度程、連続で落としてみましょうか」
今のリンボが繰り出せばどんな術でも致命の威力を纏う。
ましてや格が低いという事は、即ち連射に耐える性能であるという事でもあり。
稚気のように言い放たれたその言葉は、彼女達に対する死刑宣告となって降り注いだ。
「絵画を楽しむ趣味は御座いませんでしたが。なかなかに愉しい物ですなぁ、絵筆で何か描くというのも」
この体を筆に、この力を絵具に。
自由気ままに絵を描く。
世界という名の白紙を塗り潰す。
そうして描き上げるのだ、色とりどりの地獄絵を。
地獄の業火より逃れ出んとする不遜者があれば直ちに罰を下そう。
羅刹王を超え髑髏烏帽子を卒業し、現世と地獄を永久に弄ぶ禍津日神と化したこの蘆屋道満の眼が黒い内は斯様な不遜なぞ許さない。
「このようになァ」
「あ、ぎ…!」
鍵を掴み立ち上がろうとした巫女の右足が吹き飛んだ。
リンボの放った呪詛が鏃となって無慈悲に罪人を誅する。
「如何ですか、アビゲイル・ウィリアムズ。純真故に怒る事すら正しく出来ない哀れな貴女」
全身の至る所に火傷を負い、酷い部分は炭となって崩れ始めているその様相は悲惨の一言に尽きる。
そんな彼女の姿にはこの状況でも尚何処か退廃的な美しさが宿っており、それを嬉々と感傷しながらリンボは綴る。
「主の仇を討つ事は愚か、彼女へ引導を渡したのと同じ攻撃で為す術なく膝を突かされる気分は。
是非とも、えぇ是非とも、この九頭竜新皇蘆屋道満へお聞かせ願いたい。それはさぞや芳しい蜜酒となりてこの身を潤すでしょうから」
「…とても痛くて、辛いわ。泣いてしまいそうになるくらい」
向けられるのは只管に思慮等とは無縁の悪意。
生傷に指をねじ込んで穿り返すような嗜虐。
それに対し滔々と漏らすアビゲイルの声にリンボは笑みを深めたが。
そんな彼に対して巫女は、鍵を杖によろよろと立ち上がりながら言う。
「可哀想な御坊さま。貴方は、私に怒ってほしいのね」
「ほう、これはまた面妖な事を仰る。
確かに、ええ確かに銀の鍵の巫女たる貴方が髪を振り乱し目を剥いて怒り狂う姿を見たくないと言えばそれは嘘になりますが」
ギョロリとリンボの眼が動いた。
「言うに事欠いてこの拙僧を哀れと評するとは…いやはや、異界の感性というのは解らぬ。
こうも満ち足り、満ち溢れて止まらないこの霊基が貴女には見えぬのですかな?
今まさにこの蘆屋道満は過去最高の法悦のままに君臨し、御身らの奮戦さえ喰らって地平線の果てへ漕ぎ出さんとしているというのに!」
「ええ。貴方はきっと…とても可哀想なひと。酷い言葉と、棘のような悪意で着込んでいるけれど……」
今のリンボは奈落の太陽そのものだ。
底のない黒を湛え、脈打ち肥え太る破滅の熱源。
既にその性質は赤色矮星と成って久しい。
彼はあるがまま思うがままに全てを呑み干すだろう。
まさに至福の絶頂。
哀れまれる理由等何もない。
「本当は…とても寂しいのね。
分かるわ。その気持ちを、私は何処かで知っているから」
巫女はそんな彼の逆鱗を、その指先で優しく撫でた。
「どれだけ手を伸ばしても届かない誰かに会うために歩き続ける。
星に手を伸ばすみたいに途方もない事だと知りながら、それでも諦められない何か。
頭のなかに強く、そう太陽みたいに焼き付いて消えない憧憬(ヒカリ)……」
…朧気に揺蕩う記憶が一つ、アビゲイルにはあった。
それはきっと"この"アビゲイルに起こった出来事ではない。
魂の原型が同じだから、存在が分かれる際に偶々流れ込んでしまっただけの記憶と想い。
ある少女の面影を探して、きっと今も宇宙の果てを旅しているのだろうもう一人の自分の記憶。
「だからお空を見上げているのでしょう。あなたは」
「――黙れ」
そんなものを抱えているから、アビゲイルはこうして悪逆無道の法師へと指摘の杭を打ち込む事が出来た。
昂るばかりであったリンボの声色が冷たく染まる。
絶対零度の声色の底に煮え滾る怒りの溶岩が波打っている。
その証拠に次の瞬間轟いた魔震は、先刻彼女と武蔵が二人がかりで抉じ開けた物より更に倍は上の威力を持って着弾した。
「ン、ンンンン、ンンンンンン…!」
それはまさに極大の災厄。
自分で生み出した呪符も百鬼夜行も全て鏖殺しながら、リンボは刃向かう全てを押し潰した。
立っている者は誰も居ない。
猿が倒れ。
巫女が吹き飛び。
剣豪でさえ地に臥せった。
「…いけない、いけない。神たるこの儂とした事が餓鬼の戯言に揺さぶられるとは」
誰一人禍津日神を止められない。
天を目指して飛翔する禍津の星を止められない。
力は衰えるどころか際限なく膨れ上がり、無限大の絶望として悪僧の形に凝集されている。
彼こそが地獄、その体現者。
この偽りの地上に地獄の根を下ろし。
いずれは世界の枠さえ飛び越えてありとあらゆる平行世界を悪意と虐殺の海に変えるのだと目論む邪悪の権化。
そんな彼の指先が天へと伸びた。
昏き陽の輝く空には鳥の一匹飛んでいない。雲の一つも流れていない。
孤独の――蠱毒の――お天道様が口を開けた。
白い歯と真っ赤な舌を覗かせながら、神に挑んで敗れた愚か者達を嗤っている。
「とはいえ今ので多少溜飲は下がりました。拙僧も暇ではありませんので、そろそろ幕を下ろすとしましょう」
そうだ。
これは太陽などではない。
斯様な悪意の塊が天に瞬いて全てを笑覧する豊穣の火であるものか。
彼男の真名(な)は悪霊左府。
かつて藤原顕光と呼ばれ、失意の内に悪霊へ堕ちた権力者の成れの果て。
蘆屋道満の盟友にして、彼の霊基に宿る三つ目の柱に他ならない。
「因縁よさらば。目覚めよ、昏き陽の君」
其処に収束していく呪力の桁は最早次元が違った。
単純な熱量でさえ先のメギドラオンを二段は上回る。
放たれたが最期、全てを消し去るに十分すぎる凶念怨念の核爆弾だ。
全ては終わる。
もの皆等しく敗れ去る。
「この忌まわしい縁の悉く平らげて、三千世界の果てまで続く大地獄の炉心と変えてくれよう――」
太陽が瞬くその一瞬。
リンボの高らかな勝利宣言が響き渡る中。
「ぞ……?」
…しかし彼はそこで見た。
視界の中、倒れた三人の中で誰よりも早く。
灼け千切れた体を動かして立ち上がった女の姿を、見た。
その姿は見る影もない程ボロボロだった。
勇ましく啖呵を切ってのけた時の清冽さは何処にもない。
死に体と呼んでもそう的外れではないだろう。
二天一流を特殊たらしめる多刀も今や二振りが残るのみ。
足を止めて死を受け入れても誰も責めないような、血と火傷に塗れた姿格好のままで。
それでもと、女武蔵は立ち上がっていた。
「――」
その姿を見る蘆屋道満。
惨め、無様。
悪足掻き、往生際悪い事この上なし。
罵る言葉なぞ幾つでも思い付くだろう醜態を前にしかし彼は沈黙している。
得意の嘲笑を口にするのも忘れて。
道満は――リンボは己が霊基の裡から浮上する光の記憶を思い出していた。
“…莫迦な。そんな事がある筈がない”
既視感。
本願破れて失墜し。
常世総ての命を殺し尽くすとそう決めた己の前に立ち塞がった男が、居た。
青臭くすらある喝破は子供の駄々とそう変わらなかったが。
それを良しとする神が笑い。
愚かしい程真っ直ぐなその男に、英雄に――剣を与えた。
あの光景と目の前の女侍の姿が重なる。
有り得ぬと。
布石も理屈も存在すまいと。
理性ではそう解っているのに何故か一笑に伏す事が出来ず、リンボは抜き放たれたその刀身を見つめ呟いていた。
「――神剣」
都牟狩、天叢雲剣、草那芸剣。
神が竜より引きずり出した都牟羽之太刀。
霊格では到底それらに及ぶべくもない。
禍津日神は愚か羅刹王にさえ遠く届かないだろう、桜の太刀。
それが何故ああも神々しく目映く見えるのか。
あれを神剣だなどと、何故己は称してしまったのか。
「…そう。貴方がそう思うのならきっとそうなんでしょうね、蘆屋道満」
「……否。否否否否否否否! 有り得ぬ!
そんな弱い神剣がこの世に存在するものか! 世迷言を抜かすな新免武蔵ィ!」
「残念吐いた唾は飲めないわ。他でもない貴方自身が"そう"認識したんですもの。
うん、ちょっと安心しました。私、まだちゃんと貴方の敵であれてるみたいね」
これは神剣等ではない。
宿す神秘はたかが知れており。
神域に届くどころか一介の宝具にさえ及ばないだろう一刀に過ぎない。
だがリンボは先刻確かにこれに神の輝きを見た。
かつて己を滅ぼした、あの雷霆の如き光を。
悪を滅ぼしその企みを挫く――忌まわしい正義の輝きを見た。
「…銘を与えるなら"真打柳桜"。繰り返す者を殺す神剣」
勝算としてはそれで十分。
リンボの示した動揺が武蔵の背中を後押しする。
他の誰でもない彼自身がこの剣に神(ヒカリ)を見たのなら。
それこそは、これが目前の大悪を討ち果たし得る神剣なのだという何よりの証明だ。
たとえ贋作の写しなれど。
贋物が本物に必ずしも劣る、そんな道理は存在しない。
「――おまえを殺す剣よ、キャスター・リンボ!」
「ほざけェェエエエエエエ新免武蔵! 光の時、是迄! 疑似神核並列接続、暗黒太陽・臨界……!」
桜の太刀、煌めいて。
満開の桜に似た桃光が舞う。
見据えるのは空で嗤う暗黒の太陽。
地上全てを呪い殺すのだと豪語する奈落の妄執。
これは呪いだ。
これらは呪いだ。
改めて確信する。
こいつらが存在する限り、あの子達は笑えない。
あの二人が共に並んで笑い合う未来は決して来ない。
…それは。
爆ぜる太陽の猛威も恐れる事なく剣を握る理由として十分すぎた。
「伊舎那、大天象ォォ――!!」
「――狂乱怒濤、悪霊左府ゥゥッ!!」
光と闇が衝突する。
成立する筈もない鬩ぎ合い。
それでも。
負けられぬのだと、武蔵は臨む。
その眼に。
あらゆるモノを斬る天眼に。
桜の花弁が、灯って――
◆ ◆ ◆
必中、そして必殺。
古手梨花のみを殺す、古手梨花を確実に殺す領域。
時の止まった世界を駆ける弾丸、それは沙都子の先人に当たる女が駆使した運命の形だった。
人の身に生まれながら神を目指した愚かな女。
自分自身でもそう知りながら、しかし只の一度として諦める事のなかった先代の魔女。
今となっては彼女さえ沙都子の駒の一体でしかなかったが。
それでも梨花に勝つ為ならばこれが最良の形だろうと沙都子は確信していた。
上位の視点から異なるカケラを観測する術も持たぬ身で、百年に渡り黒猫を囚え続けた女。
彼女が振るった"絶対の運命"は後継の魔女、今は神を名乗る沙都子の手にもよく馴染んでくれた。
…止まった世界の中を弾丸が駆け。
そして古手梨花は為す術もなく撃ち抜かれた。
胸元から血が飛沫き、肉体を貫通した弾丸は彼方へ飛んでいく。
「チェックメイトですわ、梨花」
夜桜の血による超人化。
それも即死までは防げない。
梨花が頭と心臓への被弾だけは避けていたのがその証拠だ。
そんな解りやすい弱みを見落とす沙都子ではなかった。
部活とは、勝負とは相手の弱みを如何に見つけどう付け込むか。
仮に自分でなくとも、部活メンバーであるなら誰しも同じ答えに辿り着いただろうと沙都子は確信している。
「最後の部活…とても楽しかった。今はこれで終わりですけど、すぐに蘇らせますから安心してくださいまし」
決着は着いた。
役目を終えた領域が崩壊する。
それに伴って止まった時間も動き出した。
世界に熱と音が戻る。
心臓を破壊された梨花の体がぐらりと揺らぎ、地面へ吸い込まれるように倒れていき…
「――なってないわね、沙都子」
完全に崩れ落ちる寸前で、踏み止まった。
――え。
沙都子の眼が驚愕に見開かれる。
演技でも何でもない。
本心からの驚きに彼女は目を瞠っていた。
馬鹿な。有り得ない。そんな筈はない。
弾丸は確実に命中していた――心臓を破壊した確信があった。
それに何十年分という体感時間を鍛錬に費やして技術を極めた自分がこの間合いで動かない的相手に外す訳がない。
じゃあ何故。
どうして。
答えが出る前に思考は中断された。
梨花の拳が、沙都子の呆けた顔面を真正面から殴り飛ばしたからだ。
「が、ぁッ…?!」
鼻血を噴き出して転がる。
只殴られただけだというのに、先刻刀で斬られた時よりも酷く痛く感じられた。
垂れ落ちる血を拭いながら立ち上がる沙都子の鋭い視線が梨花の顔を見据える。
「どう、して。どうして生きているんですの…! 私は外してなんかない、確実に貴女の心臓を撃ち抜いた筈ですのに!」
「さぁね。私にも…答えなんて解らない。所詮借り物の力だもの。小難しい理屈や因果なんて知らないわ」
そう言い放つ梨花の瞳には或る変化が生じていた。
桜の紋様が浮かび、発光しているのだ。
梨花にはこの現象の理屈は解らなかった。
しかしそんな彼女の裡に響く声がある。
『それは"開花"。夜桜(わたし)の血が極限まで体を強化したその時に花開く力』
…夜桜の血を宿した者は超人と化す。
これはその更に極奥の極意。
流れる血をまさに花開かせる事で可能となる正真の異能だ。
『元々兆候はあったけれど…まさか実戦で使えるまでに至るなんて。梨花ちゃんはつくづく夜桜(わたし)と相性がいいのね』
開花の覚醒は夜桜の力を数倍増しに強化する。
古手梨花は夜桜と成ってまだ数時間という日の浅さだが、しかし初代も驚く程の速度でこれを発動させる事に成功した。
北条沙都子が彼女に対して用いた絶対の運命――領域展開はまさに確殺の一手だった。
認めるしかない。
あれは梨花にとって本当にどうする事も出来ない詰みだった。
梨花もそれをすぐに悟った。
失われた記憶の断片が自分に告げてくる底知れない絶望の感情。
この運命からは逃げられないと、古手梨花の全てがそう語り掛けてきた。
「私は、こんな所で終われないと強く強く思っただけ」
「…ッ。そんな事で……そんな事で、私の運命を破れるわけが!」
「あら。私の通ったカケラを全部見てきた癖にそんな簡単な事も解らないの?
良いわ、改めて教えてあげる。運命なんてものはね、金魚すくいの網よりも簡単に打ち破れるものなのよ」
だとしても。
まだだ、と。
今際の際に梨花は詰みを回避する唯一の手段を捻出する事に成功した。
それが開花。
夜桜の血との完全同調。
簡単にとは行かなかったが。
それでも確かに古手梨花は、北条沙都子が繰り出した絶対の魔法を打ち破ってみせた。
「勝ち誇った顔をしないでくださいまし。たかが一度私の鼻を明かしたくらいでッ!」
「言われるまでもないわ。こっちもようやく温まってきた所なんだから」
これにて戦いは仕切り直し。
沙都子が銃を向け、梨花は切っ先を向ける。
『だけど気を付けて。その体は、開花の負担に耐え切れていない』
そんな事だろうと思っていた。
奇跡とはそう簡単に起こるものではない。
奇跡の魔女となる可能性を秘めた少女も、人の身では依然その偉業には届かないまま。
中途半端な希望は脳内に響く初代の声によって否定される。
『貴女の開花は"奇跡"。肉体の死を跳ね返す、本家本元の夜桜にさえ勝り得る異能』
生存の可能性がゼロでない限り、小数点の果てにある奇跡を手繰り寄せて自身の死を無効化する。
それこそが梨花の開花。
沙都子は絶対の魔女として急速に完成しつつあるが、神の因子を得た今の彼女でもまだ真なる絶対(ラムダデルタ)には程遠い。
だから彼女が扱う絶対の魔法には穴があった。
人間にとっては"無い"のと同義と言っていいだろう限りなくゼロに近い穴。
真なる奇跡(ベルンカステル)と袂を分かった梨花のそれもまた、沙都子と同様に穴を抱えていたが。
絶対のなり損ないと奇跡のなり損ないとでは本来あるべき相性の構図が反転する。
絶対の中に生まれた小数点以下極小の「もしも」を梨花の奇跡は必ず手繰り寄せる事が出来るのだ。
故に梨花は生を繋いだ。
しかしこんな、夜桜の血縁にさえ例がない程の芸当をやってのけた代償もまた甚大だった。
『二度目の開花で貴方は完全に枯れ落ちる。だから事実上、次はないと思っていい』
一度きりの奇跡。
まさに首の皮一枚繋いだ形という訳だ。
仮に沙都子がもう一度あれを使って来る事があればその時点で今度こそ梨花の敗北は確定。
断崖絶壁の縁に立たされたのを感じながら――それでも梨花は恐れなかった。
「行くわよ、沙都子」
「…来なさい、梨花!」
地を蹴って刀を振るう。
弾丸が脇腹を吹き飛ばすが気になどしない。
恐れず突っ込んだのは結果的に正解であった。
“力が、使えない…!?”
当惑したのは沙都子だ。
先刻まであれだけ漲っていた力が、急に肉体の裡から出て来なくなった。
消えた訳ではない。
確かに体内に溜まっている感覚がある。
なのに出力する事だけがどうやっても出来ない。
もう一度時を止めて撃ち殺せば済むだけだというその想定が、不測の事態の前に崩壊する。
――沙都子は術師ではない。
だから当然知る筈もなかった。
領域の展開は確かに絶技。
生きて逃れる事は不可能に近い。
だが反面弱点も有る。
領域を展開して暫くの間は、必中化させて出力した術式が焼き切れるのだ。
従って今、沙都子は時を止められない。
黒猫殺しの魔弾を放つ事が出来ない…!
“もう一度あれを使われたら、その時こそ私の負け”
“もう一度あれを使えれば、私の勝利は確定する”
――最後の部活。
その制限時間が決まった。
北条沙都子の術式が回復するまで。
それが、この大勝負と大喧嘩のリミット。
梨花はそれまでに沙都子を倒さねばならず。
沙都子は、その刻限まで逃げ切れば勝ちが決まる。
有利なのは言わずもがな沙都子の方だ。
しかし彼女は、梨花から逃げ回る事を選ばなかった。
間近に迫る刀を躱す。
降臨者化を果たした体は完成度で決して夜桜に劣らない。
だからこそ梨花の斬撃を紙一重まで引き付けて躱し、その上で間近から頭部に向け銃弾の乱射を見舞うような芸当さえ可能だった。
梨花はこれを桜の花を出現させて受け止めさせ対処するが、先のお返しとばかりに沙都子の拳が鼻っ柱をへし折った。
次いで腹を蹴り飛ばされ、もんどり打って転がった所をまた銃撃の雨霰に曝される。
「は、はッ…! どうですの梨花ぁ……! 貴方が私に勝てるわけ、ないでしょうが!!」
「げほ、げほ…ッ。はぁ、はぁ……良いじゃない、そっちの方がずっとあんたらしいわよ沙都子。
神様気取りなんて全然似合わない。あんたはそうやって感情を剥き出しにして、生意気に向かってくるくらいが丁度いいのよ……!」
「その減らず口も…いつまで利いてられるか見ものですわね!」
群がる異界の羽虫を斬り飛ばし。
殺到する触手は斬りながら逃げて対処する。
湧き上がらせた桜の木々が触手を逆に絡め取って苗床に変えた。
異界のモノ…沙都子を蝕む冒涜的存在を片っ端から捕まえて殺す食虫花。
古手梨花は徹底的に、神としての北条沙都子を否定していく。
「そう――こんなの全然似合ってない。らしくないのよ、あんたが黒幕とか悪役とか!」
「私をこうしたのは梨花でしょうが!」
「解ってるわよそんな事! だから、引きずり下ろして同じ目線でもう一回話をしようとしてるんじゃない…!」
鉛弾が右腕を撃ち抜いた。
刀を握る力が拔ける。
知った事かと左手で沙都子を殴った。
沙都子の指が引き金から外れる。
知った事かと、沙都子も右手で梨花を殴る。
そうなると最早武器の存在すら彼女達の中から消えていく。
能力も武器もかなぐり捨てて。
二人は只、思いの丈をぶつけ合いながら殴り合っていた。
「そんなまどろっこしい事してられませんわ…! 私が勝って貴方を思い通りにすればいいだけの話じゃありませんの!
雛見沢を、私達を……私を捨てて何処かへ行こうとする梨花の言う事なんて信用出来る訳がありませんわ!」
沙都子が殴れば。
「うるさいわね、馬鹿! 捨てるだの何だのいちいち言う事が重いのよあんたは…!」
梨花も負けじと殴り返す。
容赦のない拳は肉を抉り骨をも砕く。
だが双方ともに、人間などとうに超えているのだ。
少女達は可憐さを維持したまま無骨な殴り合いに興じていく。
「外の世界に行きたい。今まで知らなかった景色を見たい。そう願う事が悪いなんて話は絶対にない!」
「貴女がそんなだから私がこうして祟りを下さなければいけないのでしょうが…!
あんな監獄みたいな学園で、背中が痒くなるような連中に囲まれてちやほやされて暮らす未来。
それが……そんなものが、梨花の理想だったんですの? ねえ、答えて――答えなさいよッ!」
「そんな、わけ…ないでしょ――!」
そうだ、そんな訳はない。
憧れがなかったとは言わない。そういう世界に。
何しろ百年の日々は自分にとってそれこそ監獄だった。
雛見沢の古手梨花以外の何者にもなれない。
オヤシロさまの巫女。
古手家の忘れ形見。
村人みんなに愛される村のマスコット。
自分は只、そんな世界から一歩踏み出してみたかっただけ。
自分の事なんか誰も知らない世界で自由に生きてみたかった、それだけ。
そしてその横に…一つ屋根の下で一緒に暮らして来た親友が居てくれたらとそう思ったのだ。
「雛見沢症候群も安定して、何処にでも行けるようになった。
そんなあんたと一緒に外へ出て、色んな物を見てみたいと思った。
だからあんたを誘ったのよ。お山の大将になるのが目的だったなら、あんたみたいなお転婆連れてく訳ないじゃないッ」
「だったら…! 私とずっと二人で居れば良かったじゃありませんの!
梨花が一緒に居てくれたのなら、梨花さえ一緒に居てくれたら……!
私だって大嫌いでしょうがない勉強も、いけ好かないお嬢様気取りの連中も…我慢出来たかもしれませんのに!」
一際強い拳が打ち込まれて梨花が蹌踉めき後退する。
荒い息が口をついて出る。
夜桜の血を宿し、仮に一昼夜走り続けても疲れないだろう体になったにも関わらず酷く呼吸が苦しかった。
見ればそれは沙都子も同じのようだ。
「ッ…。それは、……本当に後悔してるわよ。誓って嘘じゃない」
理由や因果を求める等無粋が過ぎる。
彼女達は今、かつてない程に本気なのだ。
だから息も乱れる。汗も掻く。拳が痛くなるくらい力も込める。
「すれ違いがあったとかそんなのは体のいい言い訳に過ぎないわ。
…私はあの時、周りの連中を振り切ってでもあんたに会うべきだった。
ふて腐れてむくれたあんたの手を引っ掴んで側に居てやるべきだった。
病気が治って狂気が消えても、……あんたの心に残った傷までなくなった訳じゃないって事、忘れてた」
北条沙都子には傷がある。
人間誰しも心の傷くらいある。それは確かにそうだ。
でも沙都子のそれは常人と比にならない数と深さであると、梨花は知っている。
両親との不和とそれが生んだ悲しい惨劇。
叔母夫婦からの虐待。
兄への依存とその顛末。
村人からの冷遇。
全て解決した問題ではある。
過ぎ去った過去ではある。
だとしても…心に残った傷痕まで消える訳ではない。
その傷が雛見沢症候群なんて関係なく不意に疼き出す事も、きっとあるだろう。
それをかつての自分は見落としていた。
蔑ろにしていた、見ていなかった。
…それが古手梨花の"業"。
「――なにを、今更」
梨花の告白を聞いた沙都子は思わずそう口にした。
湧いて出た感情は怒りとやるせなさ。
後者は見せる訳にはいかないと。
そう思ったから唇を噛み締めて拳を握る。
そのまま梨花の横っ面に叩き付け殴り飛ばした。
「誰が…! 信じるって言うんですの、そんな言葉……!」
梨花は拳を返してこない。
されるがままだ。
地面に倒れたその胸へ馬乗りになって沙都子は拳を振り下ろした。
「何度繰り返しても、何度閉じ込めても! 私がどんなに工夫して殺しても甚振っても追い詰めても…!
それでも最後の世界まで雛見沢の外を目指し続けたわからず屋の梨花!
必死に説得してどうにか心をへし折っても、きっかけ一つあればそうやってまた外の方を向いてしまう!
そんな貴女の言う事なんて……! 何一つ信用出来ないんですのよ、馬鹿ぁッ!」
何度も何度も。
何度も何度も振り下ろす。
鼻が砕けて歯がへし折れる。
顎が砕けて目玉が潰れ、顔を顔として識別するのが不可能になっても沙都子はそれを続けた。
「私は…! 外の世界なんて一生知らないままで良かった!」
何が悲しくて大好きな雛見沢を捨てなければならない。
そうまでして見る価値があるのか、あんな世界に。
「外なんて大嫌い、勉強も都会も全部だいっキライ!
何処もかしこも排気ガス臭くて五月蝿くて暑くて…雛見沢の方がずっといい!
何が良いんだかさっぱり解らない甲高いだけの歌声をバカみたいな音量で流してありがたがってる神経もさっぱり解らない!」
井の中の蛙と呼ぶならそれでいい。
あの井の中には全てがあったから。
北条沙都子が幸福に生きていける全てが揃っていた。
「…私は!」
梨花も同じだとばかり思っていた。
そして今も、自分と同じになるべきだと思っている。
「私は……あの家であなたと一緒に居られたなら、只それだけで良かったのに!」
…それが北条沙都子の"業"。
此処に二人は互いの業をさらけ出した。
梨花の手が。
ずっと無抵抗だった彼女の手が動いて、沙都子の拳を受け止める。
次の瞬間沙都子は顔面へ走る衝撃によって吹き飛ばされた。
顔を再生させながら梨花が立ち上がる。
沙都子も呼応するように立ち上がった。
仕切り直しだ――梨花は再び刀を、沙都子は再び銃を握って相手に向ける。
「…ねえ、沙都子」
「…何ですの、梨花」
忌まわしい花だ。
視界にちらつく花弁を見て沙都子は思う。
桜は嫌いだ。
門出の季節をありがたがる気にはなれない。
"卒業"なんて誰がするものか。
この業は、これは、私のものだ。
誰にも渡さない。
一生、世界が終わったって抱え続けてやる。
「私が勝った時の罰ゲーム。今の内に言っておくわね」
そんな沙都子に梨花はこんな事を言った。
沙都子はそれを鼻で笑う。
負ける気などさらさらないのだ、何だっていい。
どんな罰ゲームだって受けてやるとそう不遜に示す。
「ボクは…もう一度、沙都子とやり直したいです」
「――――」
そんな沙都子の思考が止まった。
魔女としての言葉ではなく。
敢えて猫を被り、自分のよく知る"古手梨花"として話す彼女の言葉。
「外の世界への憧れはやっぱり捨てられません。
沙都子の言う通り、ボクは何度だって雛見沢という井戸の外を目指してしまう。
そしてボクの隣に沙都子が居て、二人で同じ景色を見る事が出来たらいい。そんな夢を見てしまうのです」
「…何、を。言って――話、聞いてませんでしたの? 私は……!」
「解っています。だからこれは沙都子にとっては罰ゲームなのですよ」
それはあまりにも愚直な言葉だった。
馬鹿げている。
何を聞いていたのかと思わず反論しそうになったが、罰ゲームの一語でそれを潰された。
理に適っているのがまた腹立たしい。
相手が嫌がる事でなくては罰にならないのだから。
「沙都子が勉強したくなるように、定期テストは毎回ボクら二人の部活にしましょう。
負けたら当然罰ゲーム。それなら沙都子だってちょっとはやる気が出ると思います」
「…付き合ってられませんわそんなの。毎回カンニングでクリアしてやりますわよ、面倒臭い」
「みー。沙都子はやる気になれば出来るタイプだと思うので、そこは実際にやってみて引き出していくしかないですね。
ちなみにボクの見立てじゃ沙都子は二回目くらいから真面目に勉強してくるようになる気がしますです。
部活で負けた罰ゲームを適当にこなすなんて、ボクが許しても魅ぃの部活精神が染み付いた沙都子自身が許せない筈なのですよ。にぱー☆」
「む、ッ…。見透かしたような事を言うのはおやめなさいませッ」
そんな未来は来ないと解っていてもついつい反応してしまう。
威嚇する犬のように声を荒げた沙都子に、梨花は微笑みながら問い掛けた。
「沙都子は、どうしますか?」
「……」
「ボクが負けたらその時は言った通りどれだけだって沙都子に付き合います。
それでも外を目指してしまったら、沙都子が頑張って止めてください。
何なら決して外に出られない…そんなカケラを作って閉じ込めたって構わないのですよ。
ボクに勝って先に進んだ沙都子ならきっとそういう事も出来るようになるでしょうし」
梨花の言う通り、きっと遠くない未来にはそんな事も可能になるだろう。
沙都子にはそもそもからして魔女となる素養が秘められている。
其処にリンボの工作と龍脈の力が合わされば、最早そう成らない方が難しい。
カケラを自由自在に渡り歩きはたまた自ら作り出し。
思うがままに神として振る舞える存在として"降臨"する事になる筈だ。
そう成れれば当然、可能である。
古手梨花を永遠に閉じ込めて飼い殺す封鎖された世界。
ガスが流れ込む事のない猫箱を作り出す事なぞ…朝飯前に違いない。
「私、は…」
自分自身そのつもりで居たのに。
今になってそれが何だかとても下らない考えのように思えて来るのは何故だろう。
梨花のあまりに場違いで暢気な言葉に毒気を抜かれてしまったのだろうか。
魔女の力。
神の力。
絶対の運命。
永遠の牢獄。
魅力に溢れて聞こえた筈の何もかもがつまらない漫画の、頭に入ってこない小難しい設定のように感じられてしまう。
「私は…梨花と雛見沢でずっと暮らしていたい。それだけで十分ですわ」
そうして北条沙都子は原初の願いに立ち返った。
此処にはもうエウアもリンボも関係ない。
願いは一つだったのだ。
其処にごてごてと付け足された色んな恐ろしげな言葉や大層な概念は全て自らを大きく見せる為の贅肉に過ぎなかった。
「ちゃんと罰ゲームでしょう? 梨花にとっては。
あの息苦しい学園にも、人混み蠢く東京にも出られないで私と一緒にずっと暮らすなんて」
「…みー。ボクは猫さんなので、沙都子の眼を盗んでお外ににゃーにゃーしちゃうかもしれないのですよ?」
「その時は首根っこ引っ掴んででも捕まえて連れ帰ってやりますわ。逃げ癖のある猫だなんて、ペットとしては面倒なことこの上ありませんけど」
一瞬の静寂が流れる。
それから少女達はどちらともなく笑った。
「――くす」
「……あはっ」
「どうして笑うのですか、沙都子。くす、くすくす……!」
「ふふっ、ふふふふ! 梨花の方こそおかしいですわよ、あははは……!」
もっと早くにこうしていればよかった。
そう思ったのは、果たしてどちらの方だったろう。
或いはどちらもだろうか。
答えは出ないまま刀と銃が向かい合う。
彼女達の部活が…終わる時が来た。
「ごめんなさいね、梨花」
沙都子が口を開く。
その笑みは何処か寂しげだった。
部活はいつだって全力勝負。
手を抜く事だけは絶対に許されない。
それが絶対不変の掟だ。
だから沙都子はこの瞬間も、自分に出来る全力で勝ちに行く。
「終わりですわ」
少女達が想いを交わし合っていた時間。
互いの罰ゲームを提示し合い、久方振りに通じ合って笑い合った時間。
その間に沙都子の勝利条件は満たされていた。
領域展開の後遺症。
術式が戻るまでのインターバル。
それはもうとうの昔に――
「…梨花……」
名前を呼ぶ。
梨花は答えない。
体が動く事もない。
時は、既に止まっていた。
引き金が引かれる。
弾丸が発射される。
二度目の開花は死を意味し。
そして開花以外にこの死を逃れる手段はない。
――たぁん。
長い大喧嘩を締め括るには些か軽すぎる、寂しい破裂音が響いた。
◆ ◆ ◆
「――莫迦な」
目を見開いて溢したのは悪僧だった。
美しき獣と称されたその視線は天空へと向けられている。
嘲笑う太陽は既に笑っていない。
代わりに響いているのは、消え逝く悪霊の断末魔であった。
「莫迦な――莫迦な莫迦な莫迦な莫迦なァッ!」
剣豪抜刀と暗黒太陽。
一閃と臨界が衝突した。
起こった事はそれだけだ。
その結果、嗤う太陽は中心から真っ二つに両断された。
文字通りの一刀両断。
それはまるでいつか、この女武蔵という因縁が自身に追い付いてきた時の光景を再演しているかのようで…
「偽りの…紛い物の神剣如きが何故呪詛の秘奥たる我が太陽へ届く!」
溶け落ちる太陽はリンボにとっての悪夢へと反転した。
最大の熱を灯して放った一撃を文字通りに斬り伏せられた彼の顔に最早不敵な笑みはない。
この有り得ざる事態に動揺して瞠目し、冷や汗を垂らしていた。
太陽を落とす花という不可思議を成就させた武蔵はそんなリンボへ凛と言い放つ。
「黒陽斬りしかと成し遂げた。此処からが本当の勝負よ、蘆屋道満…!」
「黙れェ! おのれおのれおのれおのれ新免武蔵! 我が覇道に付き纏う虫螻めがッ!」
駆ける武蔵を包むように闇色の球体が出現した。
それは一層だけには留まらない。
十、二十…百を超えてもまだ重なり続ける。
呪詛を用いて造った即席の牢獄だ。
彼程の術師になれば帳を下ろす技術を応用して此処までの芸当が出来る。
しかし相手は新免武蔵。
そう長い時間の足止めは不可能と誰よりリンボ自身がそう知っている。
急がねば――そう歯を軋らせた彼の左腕が、不意に切断されて宙を舞った。
「…ッ! 死に損ないめが、邪魔をするなァ!」
「憎まれっ子世に憚るって諺、お前の時代にはなかったのか?」
隻腕の伏黒甚爾が釈魂刀を用いて切り落としたのだ。
普段なら容易に再生可能な手傷だが、今この状況ではそちらへ余力を割く事すら惜しい。
暗黒太陽…悪霊左府はリンボの霊基を構成する一柱である。
以前にもリンボは武蔵によってこれを両断されていたが、今回のは宝具による破壊だ。
受けた痛手の度合いは以前のそれとは比べ物にならない程大きい。
「いい面じゃねぇか。似合ってるぜ、そっちの方が道満(オマエ)らしいよ」
不意打ちが終われば次は腰に結び付けていた游雲へ持ち帰る。
咄嗟に魔震を発生させ、羽虫を振り払うように甚爾を消し飛ばそうとしたが――この距離ならば彼の方が速い。
リンボの顔面に游雲が命中しその左半面が肉塊と化す。
あまりの衝撃に叩き伏せられたリンボが見上げたのは嘲笑する猿の顔だった。
「古今東西何処探しても安倍晴明の当て馬だもんなオマエ。ようやられ役、気分はどうだい」
「貴、様…! 山猿如きが軽々と奴の名を口にするでないわッ」
立ち上る呪詛が怒りのままに甚爾を覆う。
しかし既にその時、猿は其処に居ない。
片腕を失って尚彼の速度に翳りなし。
天与の暴君は依然として健在であった。
無茶の反動に耐え切れず游雲が千切れ飛ぶが、それすら好都合。
ギャリッ、ギャリッ、と耳触りな金属音を響かせて。
甚爾は折れた游雲同士をぶつけ合い擦れ合わせ、その折れた断面を鋭利な先端に加工。
綾模様の軌道を描いて飛来した無数の呪詛光の一つが腹を撃ち抜いたが気にも留めない。
痛みと吐血を無視して前へ踏み出す。
その上で棍から二槍へと仕立て直した特級呪具による刺突を高速で数十と見舞った。
「づ、ォ、おおおおォ……!」
如何なリンボでもこの間合いでは分が悪い。
相手はフィジカルギフテッド。
純粋な身体能力であれば禍津日神と化したリンボさえ未だに置き去る禪院の鬼子。
呪符による防御の隙間を縫った刺突が幾つも彼の肉体に穴を穿ち鮮血を飛散させた。
「急々如律――がッ!?」
「黙って死んでろ」
こめかみを貫かれれば脳漿が散る。
猿が神を貫いて惨たらしく染め上げていく冒涜の極みのような光景が此処にある。
一撃一撃は致命傷ではなく自己回復――甚爾の常識に照らして言うならば"反転術式"――を高度な次元で扱いこなせるリンボにとっては幾らでも巻き返しの利く傷であるのは確かにそうだ。
だが塵も積もれば山となるし、何より重ねて言うが状況が悪い。
左府を破壊された損害とそれに対する動揺。
それが自然と伏黒甚爾という敵の脅威度を跳ね上げていた。
猿と蔑んだ男に弄ばれ、蹂躙されるその屈辱は筆舌に尽くし難い。
リンボの顔に浮いた血管から血が噴出するのを彼は確かに見た。
「■■■■■■■■■■――!」
声にならない声で悪の偽神が咆哮する。
物理的な破壊力を伴って炸裂したそれが今度こそ甚爾を跳ね飛ばした。
すぐさま再び攻勢へ移ろうとする彼の姿を忌々しげに見つめつつ、リンボは武蔵を閉ざした牢獄に意識を向ける。
“そろそろ限界か…! しかし、ええしかし――今奴に暴れ回られては困る!”
今この瞬間においてもリンボは目前の誰よりも強い。
指先一つで天変地異を奏で、気紛れ一つで視界の全てを焼き飛ばせる悪神だ。
にも関わらず彼をこうまで焦らせているのは、ひとえに先刻経験した予想外の痛恨だった。
重なる――あの敗北と。
輝く正義の化身に。
星見台の魔術師に。
彼らの許へ集った猪口才な絡繰に。
何処かで笑うあの宿敵に。
完膚なきまでに敗れ去った記憶が脳裏を過ぎって止まらない。
そんな事は有り得ないと。
理性ではそう理解しているのに気付けば武蔵の"神剣"を恐れているのだ。
“恐るべしは新免武蔵! 忌まわしきは天元の花! よもやこの儂にまたも冷や汗を流させようとは…!
しかし得心行った。奴を討ち果たすには最早禍津日神でさえ役者が足りぬ!
拙僧が持てる全ての力、全ての手段をもってして排除しなければ――!”
猿の跳梁等どうでもいい。
さしたる問題ではない。
武蔵さえ消し飛ばせれば、あんな雑兵はいつでも潰せる。
かくなる上はとリンボは瞑目。
修験者の瞑想にも似たらしからぬ静謐を宿しながら意識を芯の深へと潜らせ始める。
「天竺は霊鷲山の法道仙人が伝えし、仙術の大秘奥…!」
それは単純な攻撃の為にあらず。
疑似思想鍵紋を励起させ特権領域に接続する仙術の領分。
安倍晴明を超える為に用立てた技術の一つ。
かの平安京ではついぞ開帳する事叶わなかった秘中の秘。
反動は極大、この強化された霊基で漸く耐えられるかどうかという程の次元だが最早惜しんではいられない。
「特権領域・強制接――」
全てを終わらせるに足る切り札。
嬉々と解放へ踏み切らんとしたリンボ。
しかしその哄笑は途中で途切れた。
肉食獣の双眼が見開かれる。
彼の肉体は、触手によって内側から突き破られていた。
それは宛ら寄生虫の羽化。
宿主を喰らい尽くして蛆の如く溢れ出す小繭蜂を思わす惨劇。
「ぞ、…ォ、あ?」
片足を失った巫女が笑っていた。
その手に握られた鍵は妖しく瞬いている。
「貴、様」
リンボは勝ちに行こうとしていた。
此処で全てを決めるつもりでいた。
後の覇道に多少の影響が出る事は承知の上で、絶大な反動を背負ってでも目前の宿敵を屠り去るのだと腹を括った。
そうして始まったのが擬似思想鍵紋の励起とそれによる特権領域への接続。
只一つ彼の計画に陥穽があったとすれば、励起と接続という二つの手順を踏まねばならなかった事。
それでも十分に正真の天仙へも匹敵し得る驚異的な速度だったが、"彼女"にとってその隙は願ってもない好機であった。
「――巫女! 貴様ァァァァァァァァ!」
「大丈夫よ。抱きしめてあげるわ、御坊さま」
接続のラインに自らの神性を割り込ませた。
無論これは演算中の精密機械に砂を掛けるも同然の行為。
特権領域とリンボの疑似思想鍵紋を繋ぐ線は途切れ。
逆にアビゲイルが接続されているかのまつろわぬ神、その触腕が彼の体内へ流れ込む結果となった。
臓物をぶち撒け。
洪水のように吐血しながら絶叫するリンボ。
その姿に巫女は微笑み鍵を掲げる。
全てを終わらせる為、絞首台の魔女が腕を広げた。
「さようなら」
リンボの断末魔は単なる雑音以上の役目を持てない。
命乞いか、それとも悪態か。
定かではないままに処刑の抱擁は下され。
外なる神の触手が…かつて彼が求めた窮極の力が――悪意と妄執に狂乱した一人の法師を圧殺した。
…その筈だった。
だが――しかし。
血と臓物に塗れたリンボが。
血肉で汚れたその美貌が白い牙を覗かせた。
「これ、は…?」
途端に神の触腕が動きを止める。
巫女の笑みが翳る。
其処に浮かんだのは確かな動揺だった。
「…油断を」
それが、この処刑劇が半ばで遮られた事を他のどんな理屈よりも雄弁に物語っており。
「しましたねェエエエエエエエエエエアビゲイル・ウィリアムズ!
――――急々如律令! 喰らえい地獄界曼荼羅ッ!」
最終更新:2023年08月08日 02:54