次の瞬間――アビゲイル・ウィリアムズの体が木に囚われた。
 溢れ出していた混沌の魔力が更なる異形の力に片っ端から置き換えられていく。
 理解不能の事象の中、少女は微かに手を伸ばしたが…その手が誰かに届く事はなく。
 哀れな巫女は樹木の中へ。
 彼女の存在を核として伸びたのは蒼白の大樹であった。
 雛見沢領域を突き破ってその外側は成層圏まで直ちに成長していく異形の大樹。
「…何だ、こりゃ」
 思わず伏黒甚爾が声を漏らす。
 これは彼をして理解不能の概念だった。
 呪いとも違う。
 かと言って魔術の領分だとも思えない。
 只一つ確かに分かる事は、これが人類にとって果てしなく有害な概念であるという事だけ。
「ン、ンンン、ンンンンンン…! フハハハハハハハハ!
 愚鈍なり、そして哀れなりアビゲイル・ウィリアムズ! 銀の鍵の巫女!
 漸く……えぇ本当に漸く、このリンボめの手を取ってくれましたなあ!!」
 解りやすく溜めのある切り札。
 見るからに致命的だと解る大技。
 仙術の大秘奥等、所詮は囮に過ぎぬ。
 アルターエゴ・リンボの本懐は最初からこれ一つ。
 外なる神、"全にして一、一にして全なる者"。
 底のない無限の叡智を約束する神性を己が一部に取り込んで新生する事のみ。
 彼は一度だとてこの未来を捨てて等いなかった。
 手に入った力に溺れ、目指した結末への邁進をやめる事等しなかった!
「冥土の土産に教えて差し上げましょう、猿よ。
 これは空想樹と呼びまする。いや正しくは拙僧が独自に再現と再構成を行い仕立てた"亜種"と呼ぶべきモノですが…」
 今やリンボはかの異星の神とは接続が切れている。
 だからこそこれはあくまで再現された力。
 構想だけはずっとあった。
 しかし顕現を実行に移すだけのエネルギーが足りなかった。
 計画を推し進めながらもさてどうしたものかと考えあぐねていた時に舞い込んだ龍脈の話はまさに降って湧いた僥倖。
 見事龍の心臓を掠め取り、百年の因果を持つ要石を堕落させ。
 禍津日神を自称出来る程の力を手に入れ、それで漸く準備が整った。
 そして外神の巫女はまんまと手中に収まり。
 聞けば誰もが唖然とした空前絶後の机上の空論が今遂に現実へと侵食を開始する。
「オロチ、ソンブレロ、メイオール、スパイラル、マゼラン、セイファートにクエーサー!
 いずれも何する者ぞ、銀河如きがこの叡智に及ぶものか。異星如きがこの輝きに勝るものか!
 これなるは亜種空想樹・窮極の地獄界曼荼羅! 我が野望の結晶――究極至高の地獄そのものよ!」
 リンボの髪が白く染まっていく。
 髪だけではない、肌もだ。
 純白に――蒼白に。
 塗り潰されて新生を果たしていく。
 宛らそれは新たなる神の降臨だった。
 銀の鍵を核にした亜種空想樹へ自らを接続したリンボの力は今や先刻までの比ではない。
「おお…宇宙(ソラ)が見える。虚無の中に鈍く輝く窮極の門が見える。
 ンンンン素晴らしき哉、これが真の神の視座というものか……!」
 神は成った。
 虚空より空想の根が落ちた。
 リンボの背から広がるのは翼によく似た異形の触手。
 蝉の羽根を思わすそれが伸びていき、少しずつ形を確かにしていく。
 昆虫とも蛸とも付かない冒涜の神性そのものと化しながら、彼は歓喜の絶頂を繰り返し羽化登仙を果たす。



「へぇ。それで?」
 伸びる羽根が動きを止めた。
 霊基の変動が急停止をした。
 一秒ごとに膨れ上がっていく魔力が静まり返った。
「その真の神とか言う奴は、そんな見窄らしいナリをしてるもんなのかよ」
 染まった白髪は瞬く間に艶を失い神聖さではなく単なる老いを思わせるそれへと変わり。
 皺だらけのままで固まってしまった羽根は出来損ないの虫を思わせる。
 体内を突き破って出現した触手までもが萎れていき、蛸の干物のように情けのない形で安定した。
 彼の右腕に像を結びつつあった、アビゲイルがかつて振るっていたのよりも数倍巨大な鍵剣も。
 リンボを突如見舞ったあらゆる進化の急停止に伴って形成されるのをやめてしまい、ボロボロと砂のように崩れて消えてしまった。
「…………」
 僧はそれを暫く只見つめていた。
 何一つ口を開く事なく、只黙ってそうしていた。
 やがて漸く目前の現実に理解が追い付いたのだろう。
 乾ききって罅割れた唇を開いて吐き出した言葉は――
「…………は?」
 心底からの困惑だった。
 呆けたように固まっていた眼が次の瞬間、弾けたように見開かれる。
 その形相も同じだ。
 怒髪天等という生易しい物では断じてない。
 ありとあらゆる血管を浮き上がらせ、口角泡を飛ばしながらリンボは絶叫していた。
「な、ッ。何だ――これはァァァァァァァァッ!
 力の流入が途絶えている! 神の息吹が聞こえぬ! 門が見えぬ叡智が絶えた羽化が進まぬ何が起きた何が起きた何がァ!!」
 …窮極の地獄界曼荼羅とは。
 フォーリナー、アビゲイル・ウィリアムズを核として起動される術式である。
 この地で得たあらゆる力を重ねがけして作り出した術理と神秘の合成獣(キメラ)、余りに無理矢理な継ぎ接ぎで再現した空想樹。
 其処から流れ込む力は全てがアルターエゴ・リンボ、蘆屋道満に糧として捧げられる。
 クラス・ビーストへの進化とは行かずとも。
 三千世界に地獄を齎しながらあらゆる命を奪い弄ぶ最後の神として完成するには十分な働きが期待出来た。
 現にリンボはつい数刻前までそう成るべく霊基の進化を続けていたのだ。
 計画は完遂される筈だった。
 一度は頓挫した地獄界曼荼羅大陰謀は、外なる神の巫女という新たな人柱を得て"窮極"の一語を付け加え今度こそ成功する筈だった。
 なのに今の彼の姿と来たらどうだ。
 輝きは失われ門への道は閉ざされ、ソラは見えず羽根は萎れ神の触腕さえも死に絶えて枯れている。
「何をしている空想樹! おのれがァッ、儂の設計に誤りはなかった筈!
 何故儂に力を運んで来ぬ! 何故に地獄の拡大が止まっている! 有り得ぬ有り得ぬ有り得ぬ有り得ぬ!!」
 そう叫んでも空想樹は沈黙を保つのみ。
 種子を撒き散らす事もこれ以上生育する事もなく、只静かに主となる筈だった男を見下ろしている。
 何もかもが全く理解不能な事態だった。
 焦りと怒りに支配された脳でそれでも考えに考えて、リンボはある可能性に行き当たる。
「さては…ッ」
 手順に誤りはなかった。
 燃料は潤沢に注ぎ込んだ。
 人選も最上のものだった。
 何一つ間違いらしい物は思い浮かばない――であれば疑わしい可能性等一つを除いて他には存在しない。
「――晴明ェェェェエエエエエッ! よもや貴様、このような辺境の宙にまで邪魔立てしに顕れたか!!」
 即ち安倍晴明。
 言わずと知れた陰陽師の最高峰。
 法師蘆屋道満の名に常に付いて回った忌まわしき男。
 歪み狂い堕ち果てた今も尚癒える兆しのない憎悪の業病を彼の裡に渦巻かせる瞬きの星。
 あの男が何処かから介入して自分の野望をまたしても頓挫に導いたのだとリンボはそう確信していた。
「姿を見せよ! この拙僧の道をまたしても阻むか晴明ィ! 貴様は、貴様だけは、貴様だけはこの儂が――」
「違えよ阿呆。勝手に因縁見出して気持ち良くなってんじゃねえ」
 だがその確信を。
 安倍晴明の介入という妄言を。
 にやりと嘲笑を浮かべた伏黒甚爾が真っ向から切って捨てた。



「祭具殿でオマエに刺した呪具を覚えてるか?」
 無論覚えている。
 結果として致命傷にはなり得ない一撃だったが、それでも一度は退けた猿に不覚を取らされた事はリンボにとって小さくない屈辱だった。
 鉾のような形をした奇妙な呪具だった。
 異質な呪力を放っている事から恐らくは宝具に並ぶ代物だろうと見立てていたが、それが今何の関係があるというのか。
 感情が臨界点を突き破った上、晴明の介入という可能性さえ否定されたリンボは呪殺さえ可能だろう凶念を向けながら甚爾の言葉を聞いていた。
 しかし甚爾の言葉に淀みはない。
 彼は天与の暴君。
 神の寵愛と憎悪を一身に受けた存在。
 誰よりも強く呪われているからこそ、その体に遠回しな呪殺なぞ通じない。
「あれは天逆鉾ッつってな。触れた術式を強制的に解除できる」
「それが…何だと言う。あの鉾に貫かれた時、拙僧は地獄界曼荼羅をまだ展開等していなかった……!」
「そうだな。確かに俺はあれ以降、オマエを逆鉾で刺しても斬ってもいねえよ」
 はッと鼻を鳴らして。
 甚爾の眼が活動を停止した空想樹へと向く。
「俺は、な」
 その時だった。
 止まっていた空想樹が内側から解け始める。
 はらりはらりと、まるで桜の花が散るように。
 或いは風に乗って舞う紙吹雪のように。
 結合が解除され、役目を終えたとばかりに分解されて雛見沢の大気へ溶けていく。
 それは奇しくも春に喰われる今の東京によく合致した絶景であったが、リンボにとっては言わずもがな悪夢でしかなかった。
 夢の終焉。
 野望の頓挫。
 言い訳のしようもない敗北の象徴と化した死にゆく空想樹の内側から――何かが一歩、歩み出る。
 白い。
 何処までも白い少女だった。
 淫猥な程に肌の露出は増え、連なる羽虫に似たリボンが申し訳程度にそれを隠す。
 ラフレシアを思わす巨大な花をあしらった三角帽子はまさに魔女の象徴のよう。
 だがそれら全ての変化が霞む程の特徴が、顕れた少女の額に出現していた。
 ――鍵穴だ。額に鍵穴が空いている。
 茫然と見つめるリンボの事を、少女が漸く認識した。
「こんにちは」
 淡い紫に染まった双眸が夢破れた陰陽師を優しく見つめる。
「…………ッ!」
 その瞬間。
 リンボはゾッと自らの背筋を絶対零度の寒気が突き抜けていくのを感じた。



「逆鉾を持ってたのはあのガキだ。オマエがあれを狙ってる事は解ってたんでな。
 オマエみたいに欲深で無駄に向上心の強い輩が、多少強くなったからって目の前にある据え膳を無碍にするとは思えなかった」
 アビゲイル・ウィリアムズの力は時間と空間の超越。
 全ての時間と空間に門を開くその力は、先刻までの半端な状態でも既に片鱗を現していた。
 甚爾はリンボと彼女の交戦を観察しながらそれを悟り、その上で好都合だと判断した。
『俺は直に死ぬ。だが、あのクソ坊主の断末魔を聞き逃すってのも癪だ』
 天逆鉾。
 何処までも肥え太り増長するリンボに待ったを掛けるにはこれ以上ない切り札。
『隙を見て俺の鉾を掠め取れ。リンボはいずれ必ずオマエを狙う。その時が野郎の終わりだ』
 それをアビゲイルに託したのだ。
 手渡しでなく彼女の力による奪取であれば、驕り高ぶったリンボの眼を欺ける可能性は高い。
 そして実際その通りになった。
 リンボは甚爾達のやり取りには気付かぬまま、新免武蔵のみを危険視して窮極の地獄界曼荼羅へと手を付けた。
 アビゲイル・ウィリアムズを人柱として亜種空想樹の顕現に踏み切ったのだ。
 彼女が特級の危険物を…自身の地獄を完膚なきまでに瓦解させる最悪の癌細胞(アポトーシス)を抱えている等とは露知らぬままに。
「で、オマエはまんまとその据え膳をカッ喰らった。毒入りだとも知らずにな」
 その結果何が起きるか。
 空想樹だの地獄界曼荼羅だのと言えば途方もない物に聞こえるが、リンボがこの地で用いたそれはあくまで術式だ。
 かつて白紙化された地球に聳え立った正真の空想樹とは全く性質が違う。
 あくまでも再現は再現。
 オリジナルの空想樹とはその成り立ちからして全く異なる代物だった。
 そしてその真贋の差が、決定的な破滅を齎す。
「オマエは大事な曼荼羅(じゅつしき)の内側に逆鉾を取り込んじまったんだよ、蘆屋道満」

 ――特級呪具"天逆鉾"
 ――その効果 発動中の術式強制解除

「どうした? 天でも仰げよ。ま、今見えんのは良くて青空だ。おたくがご満悦で眺めてた宇宙(ソラ)とやらは二度と見えねえだろうけどな」
 斯くして空想樹は内側から崩壊した。
 正確には、アビゲイルの力を道満に流入させる仕掛けが崩れた。
 欲深な道満は空想樹を単なる道具として使わなかった。
 自分へ外なる神の力を無尽蔵に供給する苗床として使う気で居たのだ。
 その力の送信だけが途切れ。
 リンボによって吸われかけた彼方の邪神は――
「きさ、まァァァァァガガガガガガガッ!? ギ、ぃイイイあああああああああッ!!
 何だこれは、拙僧の力が吸われ、吸い取られている、だとおッ…!? 巫山戯るなッ、やめろ止まれグガァァアアアアッ!?」
 吸い上げられた己の力を、当然のように取り返す事を選んだ。
 リンボの中に満ちていた龍脈の力諸共に吸い上げた筈の邪神の力が逆流していく。
 全身を内側から鉄の爪で掻き毟られるような激痛に絶叫しながら、リンボは愚弄した甚爾を殺そうとするのも忘れてこの事態の対処に追われた。
“拙い、吸い尽くされる…! やむを得ぬッ、窮極の地獄界曼荼羅との接続を解除せねば!”
 空想樹との間に繋がるラインを切断して強引に力の逆流を止める。
 これで取り敢えずかの神に全てを徴収される事だけはなくなった。
 だがリンボの受難はまだ終わらない。
 逆流が止まり漸く落ち着いた筈の体が――今度は内側から、まるでひび割れるように崩れ始めたではないか。
“な――何故だ!? 何故拙僧の体が崩れる。何故崩壊が止まらぬ!?
 確かに邪神の力は儂の体にとって異物そのもの。完全な降臨を果たす前に空想樹との接続が途切れれば毒になる、それは理解出来る!
 だがそれしきの不具合など、ハイ・サーヴァントとして名実共に英霊の生体機能を逸脱している拙僧にとって支障になる筈が…!”
 其処まで考えて。
 今度はちゃんと答えに思い当たった。
 心当たりがあった。
 不具合の理由となる現象の心当たりが一つ。
「猿…! 貴様よもやあの時……!」
「正解」
 祭具殿での奇襲。
 あの時リンボは、天逆鉾で背後から貫かれている。
 その時点で伏黒甚爾はリンボの機能を一つ破壊していたのだ。
「嫌がらせの一つになればと思ったんだが、此処まで覿面に効くとはな。
 さてはオマエ、回復した気になってただけで根っこの部分はまだ弱ってたんじゃねえのか?
 あれだけ派手に臓物撒き散らして絶叫してたんだ。もうちょい大人しく寝とくべきだったな」
 それ自体は軽微な損傷に過ぎない。
 平時のリンボならば違和感を覚えつつもすぐに対応出来る程度の不具合。
 しかし彼の霊核は、甚爾の一撃を受けた時点で既に酷く傷付いていた。
 蘇る東京タワーでの記憶。
 背後から受けた屈辱の一撃。
 取るに足らぬと思っていた傭兵の一刺し。
 リンボがその手で戯れに殺めた少女の無念を背負った"復讐(リベンジ)"。
 既に過ぎた過去と忘れ去っていたリンボだが、その傷は彼が想像するよりも遥かに根深くその身を苛んでいたのだ。
「そういう訳で年貢の納め時だクソ坊主。見ろよ、お姫様がお待ちだぜ」



 体の崩壊が止まらない。
 早急に失われた力を補填しなければ命に関わる。
 かつてない焦りに狂うリンボへ、少女が一歩を進めた。
 彼女は外なる神の巫女。
 リンボが取り込もうとして失敗した全知の邪神に寵愛を受けた銀の鍵の担い手。
 役目を失った空想樹は、窮極の地獄界曼荼羅なる惨事を地上に広げる事こそなかったが。
 中核の巫女へ内に溜め込んでいた力を流れ込ませる増幅器(ブースター)としての役目を果たした。
 その結果がこれだ。
 二度目の霊基再臨。
 肌と髪は白く染まり、額には鍵穴が浮かび。
 神との接続が最終段階まで進行した事を示す悍ましい美しさを湛えて、アビゲイル・ウィリアムズは真の意味でこの界聖杯に"降臨"した。
 右手が伸びる――前へ。
 それに呼応するようにリンボは一歩退いた。
 されど、神の眼からは逃げられない。
「――急々如律令ォッ」
 力の殆どを吸い取られながら、それでもリンボは吠えた。
 そうするしか手がなかったというのも有るが術師の自負がその無茶に理屈を与える。
 外なる神の力は脅威だが目前のあれは只の巫女。
 神の分霊を使役し扱う己と何が違う。
 顕現させるのは巨大なる五芒星。
 更にチェルノボーグ、イツパパロトル。
 二神に加えて蘆屋道満の呪の粋を全て結集させた大呪術。
「神など所詮は玩具に過ぎぬ。喰らわれ弄ばれるしか能のない木偶の坊に、ましてやその巫女如きに――この道満が遅れを取るなど有り得ぬわ!」
 空想樹が破算に終わったならば直接その霊核を喰らってやると。
 殺意を漲らせながら肉食獣が咆哮する。
 それに対し、右手を伸ばしたまま。
 アビゲイルはその額の穴を微かに輝かせた。
 そして――
「『光殻湛えし虚樹(クリフォー・ライゾォム)』」



 …一瞬の後に、蘆屋道満の大呪術は掻き消えた。
 チェルノボーグとイツパパロトルが塵と化した。
 後に残るのは蘆屋道満、禍津日神…否。
 只の"アルターエゴ・リンボ"が一騎だけ。
 野望は潰え、手の内の全てを砕かれて。
 とうとう往生際を受け入れるかと思われた男は、しかし何処までも悪党だった。
「おおおおおおおお――舐めるなァッ!」
 生活続命はとうに機能していない。
 神々は使い物にならず盟友も破壊された。
 龍脈、邪神、いずれも既に手の内を離れた。
 特権領域への接続はこの傷付いた体ではとても行えない。
 誰がどう見ても詰んでいる状況でありながら、それでもリンボはまだだと吠える。
 彼がまず最初に行ったのは、既に死に体であるチェルノボーグ、イツパパロトルを自らの霊基から切り離す事だった。
“骸の神など糞にも劣る。抱えていても仕方がない…!”
 贅肉を切り離すようなものだ。
 未だ体内に残っている邪神の力と合わせて切り離し、取り敢えずこれ以上の霊基崩壊を止める。
 後は呪術、反転術式の範疇で肉体の復元自体は可能と判断。
 二柱の神を失い盟友である悪霊を当面使用不能にされたのは痛手だが、当座の消滅さえ凌げれば再起は決して不可能ではない。
“此処は拙僧の負けとしておきましょう、無謀なる猿と出来損ないの巫女。
 しかし忘れるな。いずれ骨の髄まで沁み込ませてくれる…この儂を嘲り笑った報いを……!”
 意地の張り合いで全て失っては元も子もない。
 此処はこの異界を畳んで退くのが賢明だろうと、屈辱ながらリンボはそう判断を下す。
 幸いにして命は繋いだ。
 それに…北条沙都子という希望もある。
“あの娘の中にはまだ龍脈の力が残っている筈。ンンンン天はまだ拙僧を見放してはいないようだ。
 愉快な見世物故に多少惜しいが背に腹は代えられませぬ。此処を脱出次第すぐに取り込んで――”
 次だ。
 次は必ず勝ってみせる。
 必ずやこの脳裏に描く地獄界を顕現させてみせるぞと。
 翳る事なき野望を胸にいざ退かんとした道満の視界の端に――



 女が、立っていた。
 桜の花弁が視界を横切った。
 リンボはこの瞬間、真の戦慄に硬直する。
 最早言葉は無用だった。
 感情を発散する為の絶叫さえ今だけは要らなかった。
 それ程までに巨大な応報が、不動明王が如く其処に立っていた。
「新免、武蔵……」
「漸く顔が見えたわね、蘆屋道満」
 そう。
 これは敗者を喰らう屍山血河の死合舞台。
 途中退場など許される筈もない。
 リンボがこれまで用いてきた理を体現するように武蔵は現れた。
 彼女の刃と天眼を欺いて逃げ切る程の余力は今の彼には残されていない。
「――下総で斬り損ねたその宿業、両断仕る!」
「おおおおおおおおおッ、儂へ報いろ要石よッ!」
 絶叫しながら無理やりに力を回収して。
 アルターエゴ・リンボ…いや。
 一切嘲弄の英霊剣豪"キャスター・リンボ"は、かつて逃れた死合舞台へと再び立たされた。

   ◆  ◆  ◆

 引き金が引かれて銃弾が放たれた。
 まさにその瞬間、急に世界の凍結が解けた。
 体が動く。
 それを理解するなり梨花は無我夢中で真横へ転んだ。
 不格好だったが、そうする以外に逃れる術がなかったのだ。
 刀で斬るなどと格好付けた事をしている余裕は皆無だった。
“外した…?”
 困惑と共に沙都子の方を見て。
 梨花は思わず叫び出しそうになった。
 領域の再展開をもって勝利を確定させた少女。
 猫の敵でありそして親友である彼女は――ぐらりと蹌踉めいて仰向けに倒れ込んでいた。
「…沙都子?」
「――あ…。……、何かと思えばそういう事ですの……」
 沙都子は最初こそ驚いた顔をしていたがすぐに事の次第を理解したらしい。
 酷くつまらなそうな、興冷めしたような顔で溜息をついてみせた。
 その手から握り締めた銃がからりと零れ落ちる。
 それが、どうしようもない程にこの戦いの終わりを暗喩していた。
「本当に…どうしようもない貧乏籤を引いてしまいましたわ。結局私、あの方の玩具として踊らされていただけだったんですのね……」
「何してるのよ…早く立ちなさい。私達の部活はまだ終わってない。勝負はまだこれからでしょう……!?」
「…ふふ。どうぞ笑ってくださいまし、梨花。私、自分のサーヴァントに切られてしまったようですわ」
 普通ならばそれは逆の場合で起こるべき事態だ。
 マスターがサーヴァントを見限って手を切る。
 これは聖杯戦争において比較的起こり易い事態だが、その逆は稀有だ。
 しかし今の沙都子は他ならぬリンボの手によって力を賜り変生した身。
 恐らく力を与える段階で既に、そういう工作が行われていたのだろう。
 いざとなれば沙都子の意思に関係なく強制的にその身に宿る神秘と力を回収する――そんな悪辣極まりない工作が。
「…ふざけないで! 何処まで人をコケにすれば気が済むのよ、あんたのサーヴァントは……!」
 ふざけるなと梨花は吠えた。
 そうせずにはいられなかった。
 漸く通じ合えたのだ、自分達は。
 魔女だの神だのではなく只の親友二人、部活メンバー二人に立ち返って。
 互いの感情全てを曝け出して…勝っても負けても悔い等ないとそう思い合えた。
 後は決着を着けるだけだった。
 なのに此処まで来て勝負は下衆の横槍で台無しにされてしまった。
 こんな理不尽があるか。
 こんな非道があるものか。
「…つぼみ! お願い、私の全てを捧げても構わないわ! だから沙都子を……私の親友を助けてッ」
 梨花は必死に叫ぶ。
 だが声が告げるのは残酷な答えだった。
『ごめんなさい、梨花ちゃん。それは出来ないわ』
「――どうして! あんたは私に力を与えてくれた…私を助けてくれたでしょうッ! そんなあんたならきっと、この子を助ける事だって!」
『それはあなたが夜桜(わたし)の血を取り込んだから。
 私は酷く朧気で不確かな存在だから…縁もゆかりもない相手にまで影響を及ぼす程の力はないの』
 仮に梨花が沙都子に夜桜の血を与えたとしても結果は変わらないだろう。
 皮下という"純血"と、それを賜った梨花の血では値打ちと重みが違う。
 ましてや初代の血は一際猛悪に人を蝕む強毒だ。
 よって夜桜には沙都子を救えない。
 それはつまり、古手梨花に彼女を救う手立てが何一つないという事を意味していた。
“力が…消えていく。はぁあ。解ってましたけど本当に最悪のろくでなしだったんですのね、あの方”
 沙都子は人間を辞めた代わりに、降臨者という定義(かたち)ありきの存在に変わってしまった。
 英霊の領分に踏み入る程強化された体を運用するには、それに見合うだけのエネルギーが要る。
 その全てをリンボに奪われてしまったのだ。
 体ばかり強くても、それを動かすエネルギーがない沙都子は只静かに枯れていくしかない。
 上位存在に見初められて繰り返す力を得、この異界にまでやって来て暗躍の限りを尽くした北条沙都子という少女の哀れな末路だった。
「立ちなさい、沙都子。…立ってよ、ねえ……ッ」
「をっ…ほっほ。何ですの梨花、その顔は。大事なのは過程じゃなくて結果でしょう?
 梨花は……あなたは、私に勝ったんですのよ。だったら部活メンバーらしく胸を張って…小憎たらしい顔の一つもしたらどうなんですの」
「――違う! 私は…私は、勝ってなんかない……! こんな勝ち、こんな終わり…認められるもんですか!」
 これが勝ちであるものかと梨花は叫ぶ。
 後ほんの一秒でもリンボの行動が遅ければ自分は死んでいたのだ。
 あの弾丸は時の止まった世界で自分の心臓を撃ち抜いていた。
 なのに偶々、ほんの偶々難を逃れる事が出来た。
 これをどうして勝ちだなどと称して誇る事が出来よう。
「…いいえ。勝ったのは梨花ですわ」
 そんな親友の姿を見ながら敗れた少女は綴る。
 負けたのは自分だ。
 最後のあれは悪あがきに過ぎなかった。
 仮にあの銃弾が彼女の心臓を貫いていたとしても。
 それでも自分はきっと、勝ったぞと誇る事など出来なかっただろう。
「何度も何度も何度も何度も、ありったけの悪意であなたの旅路を踏み躙りました。
 あの手この手であなたを殺して、自分の小さなわがままに付き合わせようとしました。
 そんな私に向けて"一緒にやり直したい"だなんて。
 思わず毒気も抜かれますし、根負けの一つもしたくなるというものですわよ。全く……」
 思うにあの言葉が決め手だった。
 あれが自分の中に渦巻く妄執を吹き飛ばしてしまった。
 最後の対話を経て、神だとか魔女だとか今まで執着していた事が何だか凄くどうでもよく思えてきたあの瞬間が。
 …きっと、北条沙都子が古手梨花に敗北した瞬間だったのだ。
「でも残念なのは同感ですわ。この部活だけは最後まで続けたかった」
 負けを認めているのに勝負に固執するなんて矛盾しているが。
 それでもこれが、嘘偽りのない沙都子の本心だった。
 最後の最後に横槍が入って終わってしまった事。
 それだけは…やっぱり口惜しい。
「沙都子…」
「…大勢殺した。大勢狂わせた。
 雛見沢だけの話じゃありませんわ。この世界でだってそう。
 でも私もリンボさんの事を言えないくらいにはろくでなしですから。後悔なんて微塵もしていませんわよ」
 これもやっぱり本心だ。
 今まで重ねてきた罪も業も沙都子は何一つ省みない。
 世界の全てと周りの全てを巻き込んで行った攻防戦。
 あれもまた、沙都子にとっては一つの部活だったのだ。
 だから後悔などある筈もない。
 ある筈もない、が。
「ねえ…梨花は、楽しかった?」
「……」
「そんなどうしようもないろくでなしとこうして最後に一緒に遊んで、部活をして。
 語り合って殴り合って殺し合って…つながり合って。楽しいって、そう思っていただけました?」
「――そんなの…当たり前じゃない、バカ」
 一つだけ問いたい事があるとすればそれだった。
 梨花は、この強情な友人は果たして楽しんでくれたのか。
 その問いに対する答えはほぼほぼ即答で返ってきて、思わず沙都子は目を丸くする。
「…そう」
 だがそれはすぐに安堵と喜びに変わった。
「なら、良かったですわ」
 同時に改めて思う。
 こんなつまらない事、下らない事で安心して喜ぶような精神性が人間の…子供以外の何かであるものか。
“結局、全部梨花の言う通りだったって訳ですのね”
 神も魔女も似合わない。
 私は、只の人の子。
 人間――北条沙都子。
 雛見沢に生まれて雛見沢で育った普通の子供。
 そんな事、もっと早く気が付けば良かった。
 そうしたらこの結末も少しは変わったのだろうかと思うし。
 そうだったなら、こんなにも満足したまま死ねはしねなかったかもとも思う。
「そんな顔しないでくださいまし、梨花。別にこれが最後の別れって訳でもないでしょう」
 手を伸ばす力はまだ辛うじて残っていた。
 伸ばした手で親友の頬へと触れる。
 ふわふわ柔らかくてつい引っ張りたくなるほっぺた。
 透明な水で濡れてしまっているのが玉に瑕だったが。
「あの村に…私達の雛見沢に還るだけですわ。私は梨花よりも少し先に其処へ逝くだけ。一体何を悲しむ事があるというんですの」
 いや、そうでなくたっていい。
 行き先が雛見沢でなくたって構わない。
 大した差はないのだと今なら解る。
「あなたが何処に行っても…何処に逃げても……必ず追いかけて、その手を掴みますわ。何度だって、必ず……」
「…なら。私は何度だってあんたの手を取ってみせる。今度こそ……今度こそ、絶対に離したりなんかしないんだからッ」
 運命は捻れた。
 結末は歪められた。
 北条沙都子が絶対の魔女に成る事はなく。
 古手梨花が奇跡の魔女に成る事もきっとない。
 ラムダデルタは誕生せず、ベルンカステルは切り離されたカケラの彼方。
 人として生きて別れた少女達の縁は此処で一度途切れる。
 だが。
 それでも。
 もしも彼女達の運命に、魔法と呼べる物があるのなら。
「また会えるわ。そうでしょう」
「…ええ。百年も一緒だったんですもの、すぐにまた会えますわ」
「親友だったもんね。…ずっと一緒だったもんね……」
「はい。そしてこれからも、ずうっと一緒ですわ」
「そっか。…じゃあ、寂しくないね」
「うん。寂しくないんですのよ、梨花」
 彼女達はきっと――
「"また"ね、梨花」
「…"また"ね、沙都子」
 ――また何かのなく頃に。

   ◆  ◆  ◆

「武蔵ィィ!!!」
 要石を使い潰す事によって力は戻った。
 禍津日神を名乗るには荷が重いが、それでも集められる限り全ての力を掻き集めて結集させたのだ。
 となれば後は挑むしかない。
 逃げも搦め手も使えないのならば残された選択肢は只一つ。
 …この時遂に蘆屋道満は全ての卑劣非道を剥ぎ取られ。
 骸一つの英霊剣豪として、挑む新免武蔵を迎え撃つ事を選んだ。
 握る呪符に横溢する呪詛が赫の軌跡を描いて炎となる。
 要石から引き出した龍の力も惜しむことなく炎に載せる。
 結果として生まれ出るのは質量を持った炎という有り得ざる現象。
 大気を大地を空間を震撼させながら煌めいた赫炎。
 それを手繰り奏でるリンボの姿はまさに妖星の如しだった。
 恐るべし、キャスター・リンボ。
 安倍晴明の宿敵という大役を勤め上げた悪の陰陽師。
 真実は蘆屋道満のカリカチュアなれどその実力は紛れもなく本物。
 龍脈の力も合わされば力量ではどの英霊剣豪をも上回る。
 エンピレオや黒縄地獄でさえ猛るリンボを破る事は至難であろう。
 武蔵もそれは承知だ。
 敵が何者なのか。
 どれだけ強いのか。
 全て理解した上で静寂を保ち、立つ。
 言葉は最早無用だった。
 だから何も言わない、大仰な口上等以ての外である。
 只その信念と思い、重ねてきた因縁の全てを刀身に込める。
 あの下総で宿業狩りを担った者として。
 そして、古手梨花という小さな少女に召喚されたサーヴァントとして。
 全神経全存在を注ぎ込み、此処でこの悪僧と決着を着けるのだと静かに猛る。
「この身この宿業、両断するぞとよく吠えた。
 思い上がった人斬りめが。その研鑽の全てを踏み潰し、貴様の天眼を穿り出して我が新たな陰謀の糧としてくれるわ!」
 放たれるキャスター・リンボ本気の一撃。
 下総では開帳される事のなかった正真正銘の全力。
 神の力を失ったとて蘆屋道満は蘆屋道満。
 安倍晴明に次ぐ術師として語られたその名は決して伊達ではない。
「――死ねい! 武蔵!!」
 当たれば確実に消し飛ぶ。
 武蔵はそう確信しながら前へと踏み出し――地を蹴り駆けた。
 真打柳桜。
 桜花の神剣が、宿命に揺らめく。
 古手梨花の開花と奇跡的なタイミングで同調する事により放てた左府両断の一閃はもう再現出来ない。
 だがそれでも武蔵はこの時確かに、己の剣がかつてない程冴え渡っているのを感じた。
 だからこそ太刀筋に迷いはなく。
 妖星の輝きに対し刃を滑り込ませて――



 斬(ザン)。
 そんな音が響いた。
 武蔵の姿はリンボの後方にある。
 擦れ違う形で交差した両者は暫し動かなかった。
 やがて血潮が噴き出し、敗者が天を仰ぐ。
 英霊剣豪七番勝負…横紙破りにより先延ばしとなっていたその決着が此処に着いた。
「…――つくづく目障りな女よ。最後の最後で拙僧の道筋に立ち塞がろうとは」
 天を仰いだのはリンボだった。
 彼の体に袈裟に刻み込まれた斬傷が死合の結末を物語っている。
 妖星の輝きは、舞い散る桜吹雪に吹き散らされていつの間にやら姿を消していた。
「我ながら…良い線は言っていたと思うのですがなぁ。
 海賊に取り入り、不和と悪意を振り撒き……龍の心臓を簒奪し、巫女の身柄にすら手が届いた………。
 後少し。後ほんの一つでも歯車が噛み合っていたならば、拙僧の夢は叶ったでしょうに………」
「これに懲りたら、次はもう少し人の為になる事をしてみなさいな。一応御坊なんでしょう、そんなナリでも」
 武蔵の剣はリンボの――蘆屋道満の核を完全に断ち切っている。
 左府を断たれ女神と悪神を放逐させられた今の彼ではこれ以上の現界維持はどうやっても不可能だった。
 即ちこれにて完全敗北。
 再三に渡り界聖杯の盤面を引っ掻き回して跳梁を続けたこの蝿声のような陰陽師に、とうとう終わりの時が来た。
「天網恢々疎にして漏らさず、この世に悪の栄えた試しなし。きっと次も何処かの誰かが立ち塞がってアナタの悪事をぶった斬るわよ? きっと」
「ンンンン…それはまた頭の痛い話だ。しかし――ンフフフフ。うまく行かぬと解っていても、止められぬのだなぁこれが」
 世界が崩壊する。
 雛見沢という閉ざされた井戸を模倣した誰かの夢が終わりを迎える。
 その崩壊に呑まれる形でアルターエゴ・リンボは墜ちていった。
 そう、これなるは屍山血河舞台。
 敗者の魂を喰らう死合舞台。
 故にその末路は必然だった。
 宿命。因縁。運命。
 全てに追い付かれた最後の英霊剣豪は、己で定めた理に呑まれて消える。
「次は何処でなにを仕出かしたものか。ンンンンン――悪事の種は尽きませぬなァ」
 戦いが終わり。
 昏き陽の沈む時が、来た。
「それでは英霊の皆々様。
 愚かしき常世の総てよ。
 これにて暫し、御免……!」
 ――宿業両断、此処に完遂。

【北条沙都子@ひぐらしのなく頃に業 死亡】
【アルターエゴ(蘆屋道満)@Fate/Grand Order 完全敗北――消滅】

   ◆  ◆  ◆

 世界が崩壊する中で、男は一人腰を下ろした。
 その半身は欠けていた。
 肩口から吹き飛んだ腕の傷口は熱で焦げ付いているが内臓の損傷が巨大過ぎる。
 どの道未来はない前提で無茶をしたが正解だったと伏黒甚爾は確信していた。
「ま、やってもやらなくても同じだったって事だ」
 賭け金のオールイン。
 残弾全部注ぎ込んで勝ち取った勝利と吠え面。
 博打の弱い男にしてみれば、なかなかに酔える戦果だったと言える。
 詰まる所悔いのようなものはあまりない。
 このまま此処で朽ちていけば、もう二度と聖杯戦争なんてけったいな仕事にお呼ばれする事もないだろうが構わなかった。
 折角気持ち良く寝ていた所だったのだ。
 過重労働の報酬代わりに長い惰眠を貪るのも悪くない。寧ろ魅力的というものだった。
「行けよ。巻き込まれても知らねぇぞ」
「帰らないの?」
「帰ってどうすんだよ、これから死ぬだけの男が」
 随分な姿になったものだと思う。
 銀に染まった髪と白磁を通り越した蒼白の肌。
 仁科が見たら泣くな、と鼻で笑った。
 だが置き土産としては十分すぎる程有用だろう。
 久遠の彼方に座する虚空の神が遠く離れたこの世界へ送って来た呪い。
 銀鍵の魔女、アビゲイル・ウィリアムズ。
 紙越空魚が聖杯戦争を制する為に必要なマスターピースだ。
「俺の持ってたコネと情報は此処に来る前にあいつに渡してある。何の問題もねえ」
「そういう問題…なのね、あなたにとっては。不器用な人。本当はとても優しいのに」
「冗談だろ。本気でそう見えてるんだったら、リンボの野郎から良い眼も貰っとくべきだったな」
 紙越空魚は甚爾にとって面倒なクライアントでしかなかった。
 注文は多いし無駄に覚悟が決まっているから何とも調子を狂わされる。
 とはいえ面倒だと思っていたのはあっちも同じだろう。
 念話も通じず令呪でも縛れないサーヴァント等、面倒以外の何であるというのか。
 つまりお互いに面倒な奴だと思いながら、此処まで戦ってきた訳だ。
「こういう仕事は二度と御免だね。タダ働きにしちゃしんどすぎる。まだ上がれないオマエに心底同情するぜ、アビゲイル」
「空魚さんに」
「あ?」
「空魚さんに――何か伝える事、ある?」
 ねえよそんなもん。
 そう言いかけて、黙った。
 一拍の間を置いてそれから口を開く。
 最後の最後なのだ。
 それなりに長い仕事だったのだし、一言くらい餞を残しても良いかと思った。
「…そうだな」
 散々面倒を掛けられた。
 であれば残すべきは決まっている。
「負けんなよ」
 そんな呪いこそが相応しい。
 踵を返したアビゲイルの姿を見送りながら甚爾は小さく息づいた。
 それにしても本当に不味い仕事だった。
 もう二度と御免だ。
 眼を閉じれば後はそれきり。
 深い深い眠りの中へと、落ちていくだけ。

【アサシン(伏黒甚爾)@呪術廻戦 消滅】

   ◆  ◆  ◆

 世界の全てに絶望していた。
 目が覚めるなり始まる"知っている"時間。
 目に入る全てが色褪せて見えた。
 楽しくて仕方がない筈の部活でさえ退屈で仕方なくて。
 美しい夕暮れの景色さえ白々しいハリボテに思えてしまう。
 此処は井戸の中。
 自分を惨劇という名の格子で囚えた運命の檻。
 世界の何処よりも美しく、そして悍ましい地獄だ。
 繰り返す回数が重なれば重なる程、ループの歩み方もこなれて行ったが。
 それでもまだ回の浅い頃は疲弊の連続だった。
 無理をして登れば登った分だけ落ちた時の痛みも膨れ上がると知らなかったから。
 毎回気体をしては打ちのめされて、引き摺って。
 そしてまた殺されて巻き戻ってを繰り返すばかりの日々だった。
 いつになっても乗り心地の変わらない、停滞の象徴のような自転車を引き摺って歩く。
 影は二つ。
 世界の真実など知らぬまま、楽しそうに明日のトラップのアイデアを語る親友が隣に居る。
「ちょっと梨花? 聞いていますの?」
「…みー。ごめんなさいです、沙都子。少し考え事をしていたのですよ」
「最近の梨花ったらそればっかり。…ねえ、やっぱり本当は何か悩みがあるのではございませんの?」
 こうして心配されるのは心苦しかった。
 けれど打ち明けたからと言って何か変わるとは思えない。
 寧ろいたずらに惨劇の渦中へ巻き込んでしまうだけだ。
 だから曖昧に笑って濁すのがお決まりだった。
 この頃にはもう、梨花はその手の誤魔化し方を心得始めていた。
「ねえ、梨花? 私…今とっても幸せなんですのよ」
 自転車を停めて。
 数歩分前に進んで、沙都子はくるりと身を翻した。
 夕陽が逆光になってその小さな体が照らされる。
 綺麗だなと、その時だけは惨劇の事も忘れてそう思った。
「梨花が居て、皆さんが居て…来る日も来る日も楽しい事ばかり。まるで夢のようですわ」
「…でも、夢はいつか覚めてしまうものなのですよ」
「そうかもしれませんわね。けど、それならまた次の夢を見ればいいだけでしょう」
 幸せな夢の終わり程痛いものはない。
 梨花はその事を多分この世の誰よりも知っている。
 だからこそ親友の言葉に、思わず皮肉じみた言葉が漏れた。
 そんなみっともない八つ当たりに沙都子は苦笑して、でも続けた。
「しゃんとなさいませ。もしこの夢が覚めても、私はずっと梨花の一番の親友ですの」
「ボクは…」
 そんな言葉に背中を押されたような気がして。
 気付けば、今まで誰にも口にした事のない"夢"を口にしていた。
「ボクは、いつか外の世界を見てみたいのです」
 それは雛見沢という井戸の高さを知っているからこそ芽生えた夢。
 古手家の梨花としてではなく、一人の人間として、自分の事なんて誰も知らないような広い世界を旅してみたい。
 別に海外でなくたっていい。
 世界の何処だって構わない。
 自分の知らない空を仰いで知らない土を踏んでみたい。
「雛見沢が嫌いな訳じゃありません。でも…どうしてもそんな夢を描いてしまう。それが叶わないと頭では解っているのに」
 ほんのそれだけの願いがいつになっても叶わない。
 昭和58年の運命は今も自分を捕らえ続けている。
 運命の束縛が長引けば長引く程夢見る気持ちは強くなって。
 なのに現実問題夢は夢のままで。
 その矛盾が針の付いた首輪のように、強く痛く梨花の心を締め上げていた。
「叶わないなんて事はないのではなくて?」
「ボクを縛る物は信じられない程多いのですよ。結局ボクはいつになっても、この井戸の中から出られないのかもしれません。
 このとても綺麗で楽しくて、気心の知れた雛見沢という井戸の中で…少しずつ擦り切れて死んでいく。それがボクの運命なのだと思います」
「んー…。梨花はどうしてそう物事を小難しく考えるんですの?」
 梨花の答えに沙都子は唸ってしまう。
 しかしすぐに、名案が思い付いたとばかりに手を鳴らした。
「そうだ! じゃあその時は、私も梨花について行ってあげますわ!」
「――沙都子が、ボクに?」
「それでしたら安心でしょう? 梨花が臆病風に吹かれても、私があなたの手を引っ張って前に進んであげればいい」
「…みー。沙都子は変な所でドジを踏むから心配なのです」
「な、ななななな何ですのそれー!?」
 気恥ずかしくてつい誤魔化してしまったが。
 その言葉は本当に眩しくて、救いの手のように思えた。
 いつかこの惨劇が終わったならそんな日も来るのだろうか。
 沙都子と手を繋いで、二人でこの井戸の外へ出る。
 知らない空の下を歩いて想像した事もないような景色を見る。
 歩き疲れたら二人で座って他愛ない話で笑い合って、夜になったら寝床で雛見沢の思い出を語り合う。
 そんな日々がやって来るのだろうか。
 …やって来るのかもしれない。
 そう思うと力の抜けた足に、再び活力が戻るのを感じた。
「でも、楽しみにしてますです。いつかその日が来る事を」
「…元気、ちょっとは出ましたの?」
「はい。沙都子のお陰なのですよ、にぱー☆」
 もう少しだけ頑張ってみよう。
 それはきっととても辛い旅路だけれど諦めたら何もかも失ってしまう。
 何処の誰が仕掛けているとも知れない惨劇等に、この未来まで売り渡して堪るものか。
 そう思って自転車を再び押し始めた。
 二つの影を伸ばしながら家路に就く。
 知っている明日が少しでも知らないいつかに変わる事を祈りながら。
 大好きな親友と二人、魔女でも何でもない只の子供同士のように笑い合って歩いた。

 …そんな事が昔確かにあったのを。
 古手梨花は眠りについた友を抱き締めながら、ふと思い出していた。

【品川区・崩壊領域/一日目・午前】

【古手梨花@ひぐらしのなく頃に業】
[状態]:深い悲しみ、夜桜の瞳、右腕に不治(アンリペア)、念話使用不能(不治)、夜桜つぼみとの接続
[令呪]:全損
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数万円程度
[思考・状況]
基本方針:生還を目指す。もし無ければ…
0:――――バカ。
1:白瀬咲耶との最後の約束を果たす。
2:ライダー(アシュレイ・ホライゾン)達と組む。
3:咲耶を襲ったかもしれない主従を警戒、もし好戦的な相手なら打倒しておきたい。
4:櫻木真乃とアーチャーについては保留。現状では同盟を組むことはできない。
5:戦う事を、恐れはしないわ。
6:私の、勝利条件は……?
[備考]
※ソメイニンを大量に投与されました。
古手家の血筋の影響か即死には至っていませんが、命を脅かす規模の莫大な負荷と肉体変容が進行中です。
皮下の見立てでは半日未満で肉体が崩壊し死に至るとの事です。
※拒絶反応は数時間の内には収まると思われます。
※念話阻害の正体はシュヴィによる外的処置にリップの不治を合わせた物のようです
※瞳に夜桜の紋様が浮かんでいます。"開花"の能力に目覚めているのかは不明です。
※『開花』を発動しました。反動で肉体の崩壊が加速しています。二度目の発動は即時の死に繋がります。

【セイバー(宮本武蔵)@Fate/Grand Order】
[状態]:"真打柳桜"、ダメージ(極大)、魔力充実、令呪『リップと、そのサーヴァントの命令に従いなさい』、第三再臨、右眼失明
[装備]:刀が二振り(残りは全て焼失)
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]基本方針:マスターである古手梨花の意向を優先。強い奴を見たら鯉口チャキチャキ
0:七番勝負、これにて終い。…マスターを探さないと!
1:梨花を助ける。そのために、方舟に与する
2:宿業、両断なく解放、か。
3:アシュレイ・ホライゾンの中にいるヘリオスの存在を認識しました。武蔵ちゃん「アレ斬りたいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ。でもアレだしたらダメな奴なのでは????」
4:アルターエゴ・リンボ(蘆屋道満)は斬る。今度こそは逃さない。
※古手梨花との念話は機能していません。
※アーチャー(ガンヴォルト)に方舟組への連絡先を伝えました。
また松坂さとうの連絡先も受け取りました。

※梨花に過剰投与されたソメイニンと梨花自身の素質が作用し、パスを通して流れてくる魔力が変質しています。
影響は以下の通りです。
①瞳が夜桜の"開花"に酷似した形状となり、魔力の出力が向上しています。
②魔力の急激な変質が霊基にも作用し、霊骸の汚染が食い止められています。
③魔力の昂りと呼応することで、魔力が桜の花弁のような形で噴出することがあります。


【フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)@Fate/Grand Order】
[状態]:霊基第三再臨、狂気、令呪『空魚を。私の好きな人を、助けてあげて』
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]基本方針:マスターを守り、元の世界に帰す
0:マスター。私は、ずっとあなたのサーヴァント。何があっても、ずっと……
1:さようなら、不器用な人。
2:空魚さんを助ける。それはマスターの遺命(ことば)で、マスターのため。
[備考]※紙越空魚と再契約しました。


【品川区と港区の境界/一日目・午前】

【紙越空魚@裏世界ピクニック】
[状態]:疲労(中)、覚悟
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:マカロフ@現実
[所持金]:一般的な大学生程度。裏世界絡みの収入が無いせいでややひもじい。
[思考・状況]基本方針:鳥子を取り戻すため、聖杯戦争に勝利する。
0:…どうなった?
1:マスター達を全員殺す。誰一人として例外はない。
2:リンボの生死に興味はない。でも生きているのなら、今度は完膚なきまでにすり潰してやる。
3:『連合』についてはまだ未定。いずれ潰すことになるけど、それは果たして今?
[備考]※天逆鉾によりアサシン(伏黒甚爾)との契約を解除し、フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)と再契約しました。


時系列順


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160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編- 古手梨花
160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編- セイバー(宮本武蔵)
160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編- 北条沙都子 "WHEN THEY CRY"
160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編- アルターエゴ・リンボ(蘆屋道満) GAME OVER
160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編- 紙越空魚 166:共犯者、まだ終らない
160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編- アサシン(伏黒甚爾) GAME OVER
160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編- フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ) 166:共犯者、まだ終らない

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最終更新:2023年08月27日 23:58