魔王の乱入。
 魔王の名は死柄木弔――この地平聖杯戦争の行く末を握る怪物共の代表格。
 最後の皇帝が地平を去った今、彼が結末の如何を握る最有力優勝候補であることに疑いの余地はない。
 空間に緊張が走る。だが、今や戦いを終わらせる力を持った存在は彼だけではなかった。
 その証拠に。七草にちかを連れて燦然たる登場を果たした死柄木を前に、微塵も退くことなく迎え撃つ少女の影がある。

 青白い少女だ。額に鍵穴を携えた、異界の巫女。
 アルターエゴ・リンボが北条沙都子を用いて造ろうとした存在の、その完成形。
 空から振り下ろされる崩壊の腕へ――アビゲイルが鍵剣を振り上げる。

 二つの、世界を終わらせるほどに圧倒的な力と力の激突。
 破壊者達の浮かべる表情は、共に笑顔。
 意味は違えど、どちらも狂気を湛えてこの"最大の敵"と相対していた。
 深層への墜落道中の中で弾けた二つの力が、界聖杯の深層へ続く孔の中で更なる崩壊(カタストロフ)を生む。

「ははははははははは――!」
「ふふ、ふふふ、ふふ――!」

 死柄木の片腕が波打つようにひしゃげて、関節の数が物理的に増える。
 出力では間違いなくアビゲイルの方が上を行っているのは明らかだったが、それで怖気づく死柄木ではない。
 いや、そもそも怖気づく理由がないのだ。
 今の彼の肉体は龍脈の力謹製のマスターピース……肉体の自動再生くらいの機能は前提として搭載されている。

 だから、片手が潰されたのならもう片方を使えばいい。
 治っている間に右腕を向けて、炎のホーミーズの力を引き出す。
 荼毘を象らせている余裕はないが、この閉所ならばそれでも十分だった。
 持ち出すのはフレイムヒーローの必殺技、それを模倣した男のそのまた模倣。

「――赫灼熱拳」

 轟炎の暴風が吹き荒ぶ。
 その気になれば、今の死柄木は残りの面子も全員攻撃に巻き込むことさえ可能である。
 熱波による気道やけどと一酸化炭素中毒による即死狙い。
 それだけでも十分に、二人のアイドルと砂糖菓子の少女、そして未だ舞台に上がらずにいるアビゲイルのマスターを殺すことは可能だった。
 なのにそれをしない理由は、火力を分散させていては勝てないと判断したからに他ならない。
 用立てるべきは突破力と貫通力。一箇所に火力を集中させて押し破る、崩壊の伝播で攻められないこの"落下"の中ではそれこそが最適解だ。

「おい、邪魔だ」
「はあ!?」
「あっちの六つ目男は方舟(おまえら)サイドだろ? 子守りの続きはそっちに頼め」
「んなっ……ひゃあああああっ――!?」

 ひょい、と死柄木が偶像の少女を放り投げた。
 咄嗟に霧子が「セイバーさん!」と慌てた様子で叫ぶ。
 となると黒死牟も動かないわけにはいかない。
 億劫げに舌打ちしながらにちかを受け取り、アビゲイルが飛ばしていた羽虫の残滓を月の呼吸で駆除する。

「これで身軽になった」

 死柄木は笑う。
 血塗れの姿で、それでも笑う。
 ヒーローはよく怒る。ヴィランはよく笑う。
 その点、彼と彼女はまさにヴィランの形を体現していた。
 どちらも整った顔立ちに狂気/凶気の笑みを浮かべ。
 世界を滅ぼして願いを叶える為に、相対しているのだから。

 後ろで抗議するにちかの声も。
 何がなんだか分からずひたすらあわあわしている霧子の声も――聞こえない。
 死柄木が歯を剥いて凶相を浮かべ突撃する。
 アビゲイルがそれを――鍵剣の一閃で迎え撃った。

 触れれば崩す。
 触ったら壊す。
 それが、死柄木弔の力のすべてだ。
 単純にしてそして明快。だが、単純が故に最悪の力だ。
 死をも呑み込む力に曝されながら、それでもなお少女は笑っていた。
 分かっている。この一撃を受ければ、自分であろうとただでは済まないと。

「すごいわ。宙(ソラ)に触れられるのね、あなた」

 宙に触れる。
 空を、掴む。
 かつては形あるものに触れて崩壊を伝播させるのが精々だった死柄木だが、今や彼は実体の有無にさえ囚われない。
 死柄木弔にとって、あらゆるものは"そこにある"というだけの意味しか持たないのだ。
 つまり、今の彼はシンプルに――攻性において無敵に等しい。

 だが、アビゲイルも一歩として後退しない。
 死柄木を見つめ、彼の一撃へ真っ向勝負でぶつかり合う。
 あらゆるものが"そこにある"だけになると言うのなら、その上で打ち砕けばいい。
 元を辿れば彼が先に口にした言葉だ。触れる前に壊せばどうということはない――それは他ならぬ死柄木に関しても適用できる話だった。

「でも、いけないわ。イカロスの神話をご存知ないの?」

 アビゲイルの額が、光を放つ。
 水面に張った油膜の七色の光。まるで鏡のように輝く、そこは宛ら第三の瞳のように。
 ――刹那にして、死柄木の伸ばした右手が骨になるまで焼き焦がされた。
 破滅の光はより強く輝きを増していく。「は」と、死柄木が小さく声をあげた。

「手の届かない光に触れようとしたお方が、目指した処に辿り着けないまま光に焼かれて死んでしまうお話。
 駄目よ、手なんて伸ばしたら。駄目よ、触れようとなんてしたら。お父様はとても怖い方だから。子どもの手じゃ、届かないのよ」
「イカロスは落ちただろうが、俺は落ちない。精々上から見てればいいさ、その内足元を掬ってやる」

 右手の再生が追い付くなり、死柄木はすぐさま動いた。
 創造(つく)ったのは風だ。竜巻のように渦巻く風は自然現象をそのまま操るような荒業だが、今の死柄木にはそれが容易く叶えられる。
 真上から振り下ろす風王の鉄槌。アビゲイルはこれを鍵剣の一刺しで内側から崩壊させ、霧散させるが、その矢先に彼女は虚空を切り裂いて殺到した鉄騎馬の乗り手に衝突される憂き目に遭った。

「ほら、早速俺の手番だ」

 風のホーミーズ。死柄木が知る、今はもう亡いとある現人神の姿形を象った騎馬の駆り手。
 暴走族(ライダー)……偶像を運ぶ運転手にして、一つの街を己の軍勢でもって滅ぼした男。
 だが、今はもういない。ただ姿形が似通っているだけの張りぼてだ。
 しかし敵連合の王が生み出したとなれば、それはもはや単なる張りぼてに留まらない。

 空間上に存在する些末な位相の変化を壁に見立てての跳弾舞踏会。
 個性のみならず、受け継いだ悪魔の実の力さえコントロールの精度が一段上がっていた。
 空を掴む感覚への到達は、ただでさえ超人的だった破壊のセンスをより異次元の方へと開花させたらしい。
 萬の個性を持つ大欲の魔王、かつて師と仰いだ男をすら上回って余りある超常の才覚。
 全方位から襲ってくる風の魔弾は、少女の肢体を蜂の巣にするのに十分すぎる火力と密度であったし。
 事実――アビゲイルの身体は、一秒と保たずに文字通り"穴だらけ"になった。

 頭の上から足の先まで風穴で埋め尽くされた、見るも無残な惨殺死体が完成する。
 蓮の種を思わせる、同サイズの穴の集合体と化した少女の肉体。
 だが、だが。
 その有様でありながら、輪郭の途切れた口が弧を描いて引き裂かれたのはどういう理屈か。

「は。マジかよ」

 刹那、死柄木の腹が触手に食い破られた。
 溢れ出す吐血と、内臓だったものの残骸。
 剥いた歯が全て血で赤く染まり、狂おしさに拍車をかける。

 貫かれながら放つ、偏執の蒼炎。
 拳の形に歪めたそれを、百二百と重ねて穿つ。
 炎は、巫女の全身をあっという間に焼き尽くした。
 嵐の過ぎた後に立つのは、人の形に焼け残った炭だけだ。

 ――――だが。
 その炭が一箇所、ぽろりと剥げ落ちて。
 黒い鍍金の下から、紅い瞳が死柄木(こちら)を覗いた。

 それと全く同時のことだ。
 連合の王の全身が、生身で宇宙に放逐されたようにひしゃげて砕けたのは。

「がッ……! は、ァ……!?」
「はじめまして、ならず者の王さま」

 再生が追い付いていない。
 再生した端から、復元した端から砕かれている。
 次元の飛んだ戦いに介入する余地のない者達は、誰もがそれを見て理解した。
 上弦の壱と悪魔狩りの少年。彼ら二人を相手取っていた時、アビゲイルは本気の断片すら出していなかったのだと。
 子犬と戯れるように、あどけなく遊んでいただけだったのだと。

「すごく、怖い人だと思っていたけれど。――思っていたより、かわいいのね」
「は、ッ」

 当代の魔王でさえ、彼女を前にしては後塵を拝するしかない。
 与えた傷は炭の殻が剥がれると共に、衣服まで含めて傷一つない姿で現れたアビゲイルという形で完全に否定された。
 天地神明を屈服させる、恐るべきマムの力が通じていない。
 従って、巫女の処断を成し遂げるとなれば死柄木が縋れる力は最早一つだけだった。

 不明な、この世の外側の理で魔王を圧し潰すアビゲイル。
 だが死柄木は、それを無視して虚空の内を前進する。
 無茶の代償に全身が隈なく砕け散っているが、そう大したことではない。

 少なくとも彼にとっては、たかだか数回死ぬほどの苦痛など問題ではなかった。
 心臓など止まった端から動かし直せばいいだけのことなのだから。
 それよりも、自分の描く未来を曇らせる眼前の障害を破壊したいという衝動の方が遥かに勝っている。
 だから進むのだ。そして遂にはひしゃげた右手を翳し――

「邪魔だ」

 自分を苛む力の万力、それそのものを破壊するという絶技を成し遂げた。
 死柄木弔にとっての最大の死線は、間違いなく先刻、アシュレイ・ホライゾンと演じた死闘であったと言っていい。
 文字通り紙一重の攻防の末にもぎ取った勝利は、その事実以上の価値を死柄木にもたらしていた。
 アビゲイル・ウィリアムズが規格外ならば、死柄木弔もまた規格外。
 世界の主役。自らの存在で、自らの意思で、運命さえもをねじ曲げて進める存在。
 この世界にて誕生した――"特異点"なのである。

「なあ。おまえ、何のために戦ってんだ?」

 死柄木は、問いかけていた。
 単純な興味から出た質問だ。
 今まで、いろんな敵がいた。
 いろんな理由で、戦っている奴らがいた。

「そんなキモい形(なり)にまでなってよ。何を求めてる?」
「私が弱いせいで亡くしてしまった、大好きな人を取り戻すため」

 その瞳は未だ底知れない神性を宿しながら、しかしどこか遠くを見つめている風にも見えた。
 物理的な距離では測れない、大きな大きな彼岸を超えた彼方のどこかを。

「そして――ある人の愛を守るため。よ」

 死柄木はそれを聞いて、思わず噴き出した。
 悪意でもってアビゲイルの動機を笑い飛ばしたわけではない。
 笑わずにはいられなかったから、つい噴き出してしまったというだけだ。

「……愛、ね」

 よりにもよって、それか。
 此処でお前まで、それを口にするのか。
 運命論者になったつもりはなかったが、しかしこうも重なると因果というものを感じずにはいられない。
 すべてを壊す、愛。世界をさえ冒す、愛。
 その甘さで道理を溶かす、猛毒のような、愛。

 そういうものを、死柄木弔はずっと身近に置いていた。
 ジェームズ・モリアーティが彼のために用立てた相棒にして宿敵。
 人選が彼女だったことの意味が此処で活きてくるとは、あの蜘蛛の悪巧みの冴えにはいい加減辟易さえ覚えてくる。

「ビビってたわけじゃないんだが、正直だいぶ面食らってたんだ。
 方舟は壊した。カイドウのジジイも死んだらしい。となるともう目ぼしい敵も因縁も一つだけだとばかり思ってたからな。
 まったく知らねえぽっと出のバケモンに初っ端からボコられるって展開は、流石に予想外だったよ」

 でも安心した。
 死柄木はそう言って、屈託のない笑みを浮かべた。

 アビゲイルの戦う理由は"愛"だという。
 誰かの"愛"を守るため、貫くためにこれは怪物をやっている。
 であれば――

「愛(それ)なら殺せる。そいつは俺がずっと見据えてきたターゲットだぜ」

 殺す覚悟は、もうずっと前から決まっている。
 悪の教授に師事した弟子が、真にその教室を卒業するために必要な最終課題がそれだ。
 ならこの戦いは、所詮その前の予行演習に過ぎない。
 殺せる。殺せなきゃ、何一つ始まりゃしない。

 死柄木は笑いながら、右手で空を握った。
 凝縮されていく崩壊の力。
 星殺しさえ成し遂げた滅びの力が、魔王の掌で極限まで圧縮されていく。

 本来であれば解き放ち、伝播させてこその力を何故集めるのか。
 一見非効率的に見えるその用法はしかし、アビゲイルの表情を消させた。
 空間が、無尽蔵に等しい超常の流入と即時の圧縮によって軋み、詠うように絶叫する。
 増幅、激震、共振――界奏を滅ぼした崩壊の御業、新次元の星殺しが、悪夢のような偶然で先人をなぞった。
 理屈は違えどそこから生み出される結果は同一。
 対消滅という性質が崩壊にすげ替えられている分、こと殺傷能力という点では勝っていると言ってもいい。

「凌げよお前ら。最後の最後なんだ、退屈させるな」

 それがアビゲイルのみならず、方舟の生き残りや彼にとっての宿敵にまで向けられた言葉であるのは明らかだった。
 場合によっては、この場で全員を殺してしまう可能性さえある"最凶"が解き放たれる。



「ブッッッッ――――
 壊れろォォォォ――――
 オオオオオオオオオ――――――――!!!!!」



 その現象の名、『闇黒星震・全力発動(ダークネビュラ・フルドライブ)』。

 あらゆる命を堕天の崩落で呑み込む、極小規模の大崩壊(カタストロフ)。
 深層へ続くディープホールの道筋そのものを破壊するような、サーヴァントの宝具解放にさえ容易に届く死の炸裂。
 死柄木の崩壊に区別はない。そして、温情もない。
 呑まれれば、触れれば、誰もが等しく死に絶える――そしてそれは、霊基の深淵に至ったアビゲイルでさえ例外ではなかった。

「綺麗な黒色。だけどとても寂しくて、悲しいくらやみ……それがあなたの星空なのね」

 彼方に坐す全知全能の神性ならば、いざ知らず。
 覚醒を果たしたとはいえサーヴァントの身でしかないアビゲイルでは、彼の崩壊に堪えられない。
 彼女にとってもこの大崩壊は致命的な事象の筈だったが、しかし彼女は逃げを選ばなかった。
 静かにその手を伸ばし、それと同時に額の穴に神の光を灯す。

「愛を知らない、悲しいひと。いいわ、受け止めてあげる。私が……」

 死柄木弔は、愛を知らない男だ。
 かつてそれを浴びていたことは確かにある。
 だが彼は、その事実を認識していない。
 背を向け、血と汚泥に塗れながら此処まで歩んできた。

 アビゲイルは、ある愛の守り人たる巫女は、果たして彼の狂気の中にそれを垣間見たのか。
 慈母のように微笑みながら、彼女もまた更なる力の真髄を開帳した。
 迫る崩落の中で、巫女が言う。

「救ってあげるわ、あなたのことを」
「虫酸が走るぜ。消えてなくなれよ」

 神と、人が――巫女と魔王が、再度激突を果たして。
 それと同時に人々は、二度目の世界の崩壊を見た。

 硝子が割れるような音を立てて砕け散る、世界。
 悲鳴、怒号、轟音、哄笑。
 あらゆる音で満たされたどこでもないどこかを、無音になるまで吹き飛ばされていき。
 そして器達は、再び漂流する。
 今度こそ、界聖杯の内側――この世界の"深層"へと。


◆◆


 墜ちる――
 落ちる――
 堕ちる――
 ――おちていく。

 どこへ?
 どこだろう。
 その答えが出せる人間は一人もおらず。
 おちる時間は一瞬だったかもしれないし、一日だったかもしれない。
 刹那とも永遠ともつかない墜落の果て。
 少女が目を開けたそこは見慣れた街並みの上だった。

 そう、上だ。
 彼女は、都市を見下ろしていた。
 世界有数の大都市。眠らぬ街、摩天楼。
 一面の焦土から復興を果たした不滅の不夜城。
 日の昇る国を体現するかの如き東京都に楔さながら聳え立つ、白き塔の最上階。
 東京スカイツリーは天望回廊・フロア445。
 墜落から目覚めた幽谷霧子はそこで、涙の滲む目を擦りながら周囲を見渡す。

「……ここ、は……?」

 此処がどこなのか。
 それは、分かる。

 スカイツリーは今や、東京タワーに代わって都内一の名所となって久しい。
 霧子も何度か訪れたことがあったし、それにこの眺めを見れば都民でなくても察しは付く筈だ。
 分からないのは、自分が何故、どうしてこんな場所にいるのかということ。
 周囲に人の姿はない。にちか、しお、死柄木もアビゲイルもいない。

「セイバーさん…………?」

 それだけならば、まだいい。
 だが、今の霧子の傍には影法師すら不在だった。

 三対六目の侍。
 すべての眼が彼岸花の赫色を湛えた、上弦の月。
 幽谷霧子がこの地で巡り会い、絆を共にしてきた剣鬼がいない。
 気配も感じ取れない辺り、霊体ですら近くに存在しないらしい。
 これが異常事態であることを察せないほど、霧子は愚鈍ではなかった。
 何が起きたのかは分からない。だけど、とにかくこの状況は危険だ。
 令呪を使ってでも、あの人と合流しないと――そう思い、今まさに行動しようとしたその瞬間。




「それには及ばない。俺の方から呼んだんだ、君を危険にさらすような無粋はしないさ」



 とても、懐かしい人の声が、したから。
 霧子はすべての思考を忘れて、声の方を振り向いていた。
 幽谷霧子はまだ、彼との永訣を知らない。
 声の主がもうこの世界のどこにもいない、残っていないことを知らない。

 だがそれでも、あの場で現れたのが七草にちかだけだったのを見た時。
 なんとなく、分かってしまうものはあった。
 あ、と。どこか本能的な、とても寂しい悟りがお日さまの偶像の中を通り抜けていった。

 七草にちかと、死柄木弔。
 そこには、会いたかった"彼"も。
 "宇宙一"だと頷きあった仲間の姿も、なくて。
 それはつまりそういうことなのだろうと、思ってしまった。

 現実は、いつでも物語でいてくれるわけじゃない。
 だから約束は時々、信じられないほど無慈悲に破られる。
 宇宙一の輝きがあっても。"またね"と誓い合っても。
 それが叶わないときは、往々にしてやってくるものなのだ。
 もう何度も味わったそれが、またしても霧子の大切なものを掻っ攫っていった。
 その筈なのに――今視線の先で笑っているのは、ああ確かに。

プロデューサー、さん…………?」

 283プロダクションの『プロデューサー』。
 もういないのだとばかり思っていた人が、椅子に座って微笑んでいた。

 一瞬、表情がぱっと明るくなる。
 気付けば霧子は駆け出していた。
 しかしその足は、距離が近付くにつれて遅くなり。
 やがて完全に止まってしまう。表情に浮かぶのは、戸惑いだった。

「…………あの………えっと………………」

 霧子の目は、脳は、椅子に座って微笑みかけるその男を『プロデューサー』だと認識している。
 実際、記憶の中にある彼の姿と今そこにいる彼との間に違いらしいものはまったく見て取れない。
 髪型、人相。背格好、服装。すべてが霧子の知るままの『プロデューサー』だ。
 なのに霧子が足を止めた理由は、それでも分かってしまったから。
 理屈ではない、もっと深くてぼんやりとした部分が視覚から伝わってくる"彼"の存在に否を唱えたからだ。

「…………どなた、ですか…………?」

 似ている。
 とてもよく、似ている。
 でも、違うのだ。何かが違う。絶対に違うと断言できる。
 だから霧子は足を止め、問いかけた。
 すると男は「ははっ」と聞き慣れた笑い方で微笑み、言う。

「霧子はすごいな。俺の中に記録されたデータを参照して、外見も内面も寸分違わず再現している筈なんだけどな」
「……えっと……。うまく、言えないんですけど……何か、違う気がして………」
「そうか。まあ、悪く思わないでくれ。何しろ俺には形がない。だから、君の記憶を参照して"通じる"姿で喋っているんだよ」

 ……言っている意味がわからない。
 そんな感情が、きっと顔にも出てしまっていたのだろう。

 困惑する霧子に対し、プロデューサーは……その姿を模倣(まね)た誰かは肩を竦め。
 次の瞬間、その場から消えた。
 比喩ではなく、本当に消えてなくなったのだ。
 そして彼の代わりとばかりに、椅子の上には新たな人間が座る。

「例えば、こんな感じでな」

 タンポポの綿毛のような、独特な髪型をした男だった。
 顔に貼り付けた笑みは若々しく爽やかなのに、しかしどこか老練さを含んでいる。
 霧子は、この人物を知っていた。忘れることなど出来るわけもない、ついさっき別れたばかりの男。
 最後までとうとう手は取り合えず、けれどどうしてか、最後の最後に自分を助けてくれた人。

「既存の器の形を再現して、霧子さんに接触してるんですよ」

 次は、ほわほわとした笑顔の似合う少女だった。

紙越空魚には驚かされたねー。まさか世界をぶっ壊して、私に直接近付いてくるとか思わないしー」

 その次は、紫色だった。

「でも、せっかくの機会だもの。儀式が終わってしまう前に、あなたの声を拾ってあげようと思ったの」

 蒼い黒髪の少女。

「ていうか、そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔しないでくださいよ。願ったのはあなたじゃないですか、霧子さん」

 緑髪の後輩。ついさっき会った彼女よりも、心なしかやさぐれて見える。

 その間延びした口調と、独特なペースから勘違いされることも多い。
 だが、霧子は馬鹿ではないのだ。医者の道を本気で志せる学力もあれば、それを身に着けられるだけの地頭も持ち合わせている。
 この異常な状況と、そして目の前で今まさに起こっている異常な現象。
 それをひけらかすでもなく淡々と語りかけてくる、彼/彼女の言葉の中身。
 それらを踏まえれば、"これ"が一体誰であるのかは自ずと見えてきた。
 "そんなことがあり得るのか"という根本的な疑問をさえ除けば、だったが。

「わたしが、望んだ…………」
「そうだ。君が願った。
 その言葉に、俺は興味を抱いた。
 何せそんなことを考える器は、霧子以外には一人だっていなかったからな」
「あ――」

 最初、霧子は目の前の"これ"が放つ言葉の意味が分からなかった。
 君が願った。だから呼び寄せた。
 最初こそ面食らったが、確かにそうだと頷ける。

 そっか。
 そうだ。

 そう願った/問いかけたのは、私だ。



『あなたの願いは……なんですか……。あなたの物語は……そこにありますか……』



「この戦争は、じきに終わる。その前に、霧子の言葉を聞いてみたかったんだ」
「……そっか…………。あなたは…………」
「鋼翼は墜ちた。皇帝は潰えた。曼荼羅は引き裂かれ方舟は敗れた。
 君がどれだけ優しくても、戦いの終わりは止められない。
 幽谷霧子。君の可能性は、もうどこにも向かうことはないだろう」

 霧子はこの世界に、方舟という思想を持ち込んだ功労者の一人である。
 結果的に死柄木弔という敵に滅ぼされ、その理想は叶うことなく藻屑と化したが、彼女達の存在は間違いなく大きかった。
 願いを叶えるための戦いで、願いを叶えることなくより多くの命を救うことを目指したアイドル達。
 ともすれば願望器そのものの存在意義を脅かしていても不思議ではなかった、いや事実脅かしていたイレギュラー。
 その中でも霧子は間違いなく、最も非凡な"想い"を抱いて戦っていた器だった。
 お日さまと称された少女の、あまりに無垢すぎる輝き。
 虚空に消えるばかりと思われたその輝きはしかし、地平線の彼方にまでも光と熱を届かせていたらしい。

「だから。すべてが無に帰すその前に、少しだけ話をしようか」

 これは、プロデューサーにあらず。
 皮下真にあらず。櫻木真乃にも、田中摩美々にも、古手梨花にも、もちろん七草にちかにもあらず。
 これはなんでもなれる、なんでもできる、そういう万華鏡(kaleidoscope)のような存在だ。
 強いてその命に名を与えるならば、それは、そう、きっと。


「はじめまして、霧子。君達の方舟には正直参ったよ」
「こちらこそ……はじめまして、"界聖杯"さん…………」


 ――界聖杯(セカイ)と、そう呼称するべきに違いない。


 方舟は敗れ、優しい未来は永久に失われた。
 聖杯戦争はじきに終わる。アイドル達はもう、その可能性を示せない。
 それでも。それでも、もしも彼女が変わらず"お日さま"であるのなら。

 誰もいない、誰も知らない、少女と神だけのおわす世界塔の内側で。
 いつかの願いが叶い、霧子の言葉が聖杯(かみ)へと届いた。


◆◆


 ――目を開ける。
 手を動かす。
 自分が生きていることを確認する。
 そうして、私はようやく肺の奥に溜まってた酸素を溜息に変えて吐き出すことができた。

「死ぬかと思った」

 賭けなことは自覚してた。
 アビーに宝具を使わせて、世界そのものに孔を開ける。
 この発想に至れた一番の理由は、やっぱり<裏世界>絡みの事件で揉まれていたことだと思う。
 あの世界と繋がって分かったこと。世界は、人間が思ってるよりもずっと簡単に狂う(バグる)。

 実話怪談の世界でも実際、そういう話はよく見かける。
 恐怖に息を呑むよりも、思わず首を傾げてしまうような話。
 つまり? と聞きたくなるような、ただただ不思議な話。
 世界は狂うのだ。私達の暮らしている領域は、意外と全然完璧じゃない。
 そしてバグの頻度は、世界に異物が混ざり込めば込むほど多くなる。
 例えばそれは、<裏社会>から干渉してくる<かれら>の影響であり。
 この世界で言うならば、界聖杯が自ら取り込んだ器と英霊達の織りなす物語だ。
 私は魔術師じゃないし、実のところ未だに聖杯戦争という儀式について本質的に理解してるわけじゃない。
 そんな私でも分かる。此処までの戦況の中に、界聖杯が予想していなかっただろう展開はきっとごまんとあった筈だ。

 例えばその筆頭が、あの憎たらしいリンボの跳梁だろう。
 聖杯戦争のセオリーを無視して荒唐無稽な未来予想図を描き、実現させるために行動したあいつの存在が界聖杯の想定通りだったとは思えない。
 そこまで不安定で、たったの二日で傾いでしまうような脆い世界ならば。
 更なる負荷を与えることで未知のバグを引き出し、構造そのものを壊してしまうことは決して不可能じゃないと考えた。
 だから行動した。博打は承知で、世界を壊した。
 この期に及んで長期戦なんて冗談じゃない。
 逃げ場のない袋小路に引きずり込んで、全員を殺して戦いを終わらせる。そのつもりで、私は行動した。

 結果から言うと、作戦は成功だったと言っていい。
 戦況的に見て、あの場に居合わせてた以上のマスターが生き残ってるとは思えなかったからだ。
 最大の障害だったカイドウはアビーが殺した。

 ……漁夫の利を得た形だったけど、そこに拘るつもりはもちろんない。
 というかなんだよあのクソ化け物。あれが万全で生き残ってたら、こう上手くはいかなかったはずだ。
 その点、生き残り諸君はよくやってくれたと思う。
 カイドウを消滅寸前まで追い込んでくれた働きは間違いなく、"私達"にとって最大の追い風だったから。

「……死柄木があそこまで強くなってたのは、ちょっと計算外だったけど」

 実際、さっきのはかなり惜しかったのだ。
 死柄木弔の介入がなければ、アビーはあの場の全生命を皆殺しにできていただろう。

 死柄木はアサシンから聞いていたのよりも数段、もしかしたらそれ以上に成長していた。
 素人目にも分かった。あれはもう、サーヴァントすら超越している。
 逆に言えば死柄木さえ排除できれば、もう私達を阻むものは何もない。
 そして障害は障害でも――相性と実力、どっちを勘案してもそれはカイドウほどのレベルじゃない。

 アビゲイル・ウィリアムズにとって一番相性が悪いのは、きっと死ぬほど真面目に強い存在だ。
 搦め手だの奇策だの小難しい手段を用いることなく純粋に強い、アビーの繰り出すデタラメに振り回されてくれない絶対強者。
 そういう意味でもカイドウは最悪の相手だった。だってあれ、宝具の解放で簡単に流れてくれるようにはぜんぜん見えなかったし。

 その点、死柄木は強敵ではあっても最悪じゃない。
 現にさっきの戦いでは、終始こっちが奴の上を行っていた。
 勝てる。殺せる。そして死柄木を殺すことが叶ったなら、それは私達の勝利と同じだ。

 ――勝てる。取り戻さなきゃいけない何もかもが、もうすぐそこで輝いている。

 仁科鳥子。私の、私だけの、共犯者。
 初めて出会ったその日から、私の世界を変えてくれた女。変えやがった、女。
 そこまでしていったくせに、自分だけ一人で勝手に消えやがったあんちくしょう。
 鳥子のいない世界に生きる価値はない。少なくとも私は、もうそれを見出だせない。
 だから殺すのだ。だから、勝つのだ。何を犠牲にしても。たとえ私がそうすることを、あの女が喜ばなかったとしても。
 私は私のために、私が笑って生きていく未来のために、願いを叶えてみせるのだと誓った。

「大丈夫、空魚さん」
「……うん、問題ない。ちょっとヒヤッとはしたけどね」
「ごめんなさい。本当なら、すぐにでも決めてしまうつもりだったのだけど……」
「いいよ、下手に全力出して死柄木に漁夫られるのも癪だったし。それに分かったこともある。ここに、私達を阻める奴らはもう残ってない」

 まさか界聖杯の中に、もうひとつ東京があるとは思わなかったけれど。
 それでも、ここならもう逃げ場はない。
 猪口才な社会戦や、水面下での攻防を要求されることもない。
 NPCを使った頭脳戦だって起こることはない。目障りな蜘蛛たちの置き土産が活きる余地も、どこにもない。

「私達が<最後の敵(ラスボス)>なんだ。もう、挑む側でも振り回される側でもない」

 やるべきことはあとひとつ。
 最後の最後に、負けないこと。
 誰かの"最後"を、阻むこと。
 界聖杯の前に伸びる最後の直線に陣取って、最後の"可能性"を摘み取ること。
 それだけが、私とこいつの行く手に存在する唯一のミッションだ。

「じゃあ、私達から手を伸ばすことはもうしないのね」
「付け入る隙を作りたくない。こっちから動けば、どうしても大なり小なり隙ができる」
「さっきみたいに、横槍を入れられるかもしれないってこと?」
「そう。でもあっちから挑んでくる分にはその可能性は排除できる。
 一番強い私達は、残ってる連中がどう動くのかを上から見つめてゆっくりしてればいいんだよ。それに」
「……それに?」

 こっちから打って出たとしても、そうそう負けることはないだろう。
 だけど最後なのだから、万全を期したい気持ちの方が強かった。
 余計なリスクを抱える必要はもうないのだ。だって、何しろ。

「あいつらはきっと、どんな理由でも協力なんてできないでしょ」

 偶像(ヒーロー)と敵(ヴィラン)は、決して手を取れない。

 死柄木弔という人間に対して私が知っていることは多くない。
 でも分かる。あれは、誰かと手を取り合うことができない人間だ。
 生粋の破綻者。人間として大切などこかが、致命的に破綻してしまっているたぐいの人種。
 相互理解を求めることは徒労にしかならないし、人というよりも獣として見た方がいい相手。
 もしかすると、最初からそうではなかったのかもしれないけど――でもたぶん、そこの隙間はもう埋まってしまっているんだと思う。




『死柄木自体はそう厄介でもない。いや、"でもなかった"って言うべきだな』

 戦いの合間に、アサシンは私にそう言った。
 連合との利害関係は既に破綻も同然の状況。
 そうでなくても、死柄木弔という巨大な敵をどう殺すかは考えておかなければいけない。
 死ぬほど強い死柄木を殺すなら、それこそアサシンの得意とするところの権謀術数に頼るのが一番だろうと私は思ったし、今でも思っている。
 でもプロの見立ては、そう簡単なものではなかったようで。

『アレ自体はただの人間だ。ありふれた悲劇にたまたま出くわして、その結果として壊れたフリをしてるガキだ。
 だからどれだけの力を持ってても本質的には容易い。思考にも行動にもガキならではの隙が必ずできる。何より、精神にだな』
『傷口が見えた瞬間にそれを抉じ開ける。もしくは幼稚の逆鱗をなぞって、急所を晒させればそれでいい』
『本来なら大した相手じゃなかった。その前提を変えたのは、連合お抱えの蜘蛛野郎だ』

 "蜘蛛"。
 それが、死柄木弔を大きく変えた。

『今の死柄木は化け物だ。手段がどうあれ簡単には殺せない。蜘蛛(M)は、究極の悪(マスターピース)をしたためて死にやがった』
『もしも俺が先に死んで……お前とフォーリナーの二人であれと戦う時が来たなら、そん時はこれだけ肝に銘じとけ』

 力のあるだけの子ども。
 幼児的な全能感を振り回すだけの、ただの人間。
 確かにその筈だった器に、知恵と成長を授けてしまった。

『あれは獣(ヴィラン)だ。鼻が利くし、隙はないし、どうやったって人間(こっち)には帰ってこない。ヒーローの手はもう届かない』
『そこを見誤れば確実に殺される。何せケダモノだからな。敵の喉笛食いちぎるのはお手の物ってわけだ』



 ――でもそれは、私達にとって必ずしも悪いことばかりってわけじゃない。

 死柄木は獣になった。
 であれば、今度こそ誰かと手を取り合う余地はない。
 徒党を組んでラスボスの攻略に臨んでくる世界線は、蜘蛛の手によって丁寧に否定された。

「私達の最後の敵は――死柄木か、それ以外か。どっちにしたって私達の勝てる相手しか残らない」

 だからこそ、動く必要はないのだ。
 動かないことこそが、むしろ私達の戦況を良くする。
 投げられたサイコロがどんな目を出そうとも。
 もう、私達にとって悪い目は絶対に出やしないのが確定している。

 聖杯戦争は、終わる。
 じきに、すべてが終わる。
 狂ってしまったものは私だけでいい。
 私の周りの世界は、何ひとつとして狂わせない。
 私が勝って、私だけが狂う。
 たとえその結果、もう戻れないところにまで堕ちてしまっても臨むところだ。
 その時は狂った女ひとりと、死に戻りした女ひとりで持ちつ持たれつ怪異をやろう。


 私達が――――鵼(ぬえ)になろう。



「鳥子に会うぞ、アビー」



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最終更新:2024年03月24日 16:02