……霧子も、にちかも。
その光景を、ただ無言のままに見つめていた。
場所は東京スカイツリー。最上階、天望回廊。
そこからは、
死柄木弔と
神戸しおの決戦の図がはっきりと見通せた。
始まりの時間、そこにあった筈の街並みはもう影も形も残っていない。
改めて実感する。方舟の夢を終わらせた男は、もはや人間と呼べる生物ではないのだと。
まるで、書き損じに消しゴムをかけるみたいな戦いだった。
つい数秒前まであった景色が、次の瞬間にはどこにもない。
白く、白く、さも当たり前のように世界が塗り潰されていく。
霧子達が言葉を失ってしまったのも無理はない。
眼下の街で繰り広げられている戦いは、まさに非現実の産物であった。
嫌でもわかる。
彼らは今、殺し合いをしているのだ。
互いのすべてをかけて、相手の命を奪うための戦いをしている。
「……ていうか霧子さん、本当に大丈夫なんですか。ここ」
「うん……。大丈夫だと思う……"あの人"とは、お話ができたから……」
魔王と天使の戦いが行われている以上、この東京のどこにも安全な場所は存在しない。
何しろ死柄木は、その気になれば本当に東京のすべてを更地にしてしまえる怪物だ。
下手に遠くへ逃げるよりは、彼の動向を逐一把握できる近場にいた方がまだ安全とすら言える。
そんな中、行き場所にスカイツリーを提案したのは他でもない
幽谷霧子だった。
界聖杯とわずかながら言葉を交わせたこの場所ならば、きっと最後が来るまでは大丈夫なはずだとそう言ったのだ。
その言葉に根拠は何もなかったが――どの道安全地帯など存在しない現状である。藁にもすがる思いで、その言葉に従った形だ。
そして現在に至るまで、このスカイツリーはあれほどの激戦の被害を一切被っていない。
霧子の予想は当たったのか、それともたまたまか。
定かではないが、今のところ首の皮一枚で繋がっている状況だ。
「ここにきてから、でたらめなものは見飽きたつもりでしたけど」
眼下の街では、冗談みたいな戦いが現在進行形で続いている。
一秒ごとに街並みが消える。戦時下の爆撃でさえこれに比べればもう少し穏当だろう。
そんな戦いが、かれこれ十分以上は継続しているのが一番理解不能だった。
これが聖杯戦争――これが、敵連合。方舟を終わらせた者達の戦い。
改めてそのことを実感すると共に、沸いて出るのは嫌悪ではなくどこか気の滅入るような感情であった。
「……これで、どっちかが死ぬんですよね。あの二人の」
「……うん。そう、なるだろうね………」
「――なんか、すっごくヘンな気分です。私、どっちも嫌いだったはずなのに」
死柄木弔、
神戸しお。
その両方と、にちかも霧子も多少なり会話を済ませていた。
だからもう、アイドル達にとって連合の両翼は顔も知らない誰かではない。
顔を知り、言葉を聞いた、関わったことのある知り合いなのだ。
そんな二人が、殺し合いをしている。
そしてじきに、どちらかがこの界聖杯から消えてなくなる。
それは、本当なら敵が減るという意味で願ってもないことの筈だった。
なのに、今にちかは――
「ちょっとだけ、寂しいなって思ってるんです」
そんな、余分としか言いようのないだろう感情を抱いてしまっていた。
けれどそれを、霧子は否定しなかった。
何も言わずに、ただ隣に立って頷いた。
「……やっぱり私、あの人達が嫌いです。
人でなしのくせに。敵のくせに――」
――私達とおんなじように、生きてるんだもん。
戦いの終わりを間近に控えた地上を見下ろしながら。
絞り出したその声が、何かを変えることはない。
ひどく無力で、だからこそ尊い、素朴な慈しさがそこにはあった。
◆◆
衒いも、外連も、絶望も、結末も。
すべてをかき消していくエンジン音が鳴る。
立ち込めていた敗北の香りをかき消して。
少年は今、魔王の前に立っていた。
魔王はそれを、笑みと共に見据える。
紛れもない不倶戴天の敵だというのに、彼の心にはどこか清々しいものさえあった。
そうだ。結局のところ、一番否定するべきだったのはこの男。
自分と同じ匂いのする、けれど何もかもが違うこの英雄(ヒーロー)。
「……挑んでたのは、俺の方だったってわけか」
「何の話だよ」
「こっちの話だ。やっぱり壊すのはいいな、見えなかった真実(こと)が見えるようになる」
デンジの頭は既にチェンソーの怪物……否。
悪魔を狩る悪魔、チェンソーマンのそれに変わっている。
支配の悪魔を殺しても、彼はチェンソーマンとして悪魔狩りに勤しみ続けた。
霊基の再臨を経た今の
デンジは、間違いなくその名を正当に名乗る資格を有している。
チェンソーの悪魔が去ったことが、奇しくも彼を完成させるための逸話再現となったのだ。
死柄木弔が殺すべきは、この男の方だった。
だから彼は、逸話をなぞって本当の敵を引きずり出す必要があった。
玉座にふんぞり返った魔王を殺すためにヒーローが現れただなんて、思い違いも甚だしかったと理解する。
挑んでいたのは魔王の方。そして彼は今、ようやく宿願を果たす権利を得た。
――英雄譚(エンジンサウンド)は、響いている。
「一人でいいんだ。こんな生き物は」
先に地を蹴ったのは、死柄木だった。
彼の言葉の意味は、実のところ
デンジにも伝わっていた。
デンジは
死柄木弔という人間について何も知らない。
だが、チェンソーの心臓から流れてくる記憶が。
彼が
神戸しおに対して語ってみせた過去が、それを理解させるヒントの役目を果たしていた。
「だから俺は、お前が気に入らない」
「俺も、テメエのことが嫌いだからよ」
振るわれる、魔王の腕。
不滅を誇る大悪魔さえ消し飛ばした、この界聖杯における最強の矛。
無論、多少霊基が強まったとはいえ
デンジにとっても致死的であることに疑いの余地はない。
だが、
デンジは躱すのではなく迫る死柄木へ向けて踏み込んでみせた。
「"そういうこと"にしといてやるぜ」
チェーンを伸ばし、それをすぐさま自分自身の刃で断ち切る。
伸長の勢いを残したチェーンの破片が、魔王の両手を弾丸のように射止めた。
空中で跳ねる腕。今まさに
デンジへ触れようとしていた死/未来が変わる。
そのままもう一歩前へと足を進め、
デンジが彼の腹に己が刃を突き立てた。
壮絶な流血と共に内臓がシェイクされ、血霧となって白紙の街に舞い遊ぶ。
「俺は、マキマさんに拾って貰った。
けどよ、あの人の思い通りにはならなかったんだ」
死柄木弔は、社会に棄てられた塵だった。
神戸しおは、母親に棄てられた孤児だった。
そして
デンジは、人生に棄てられた骸だった。
ロクでなしの父親を殺しても、彼の人生は何ひとつ好転などしなかった。
借金苦の中で誰からも見下され、唯一の友人は拾った悪魔だけ。
身体は病魔に冒されて、挙げ句最期は騙されてゾンビ達の餌だ。
何の価値もないまま終わる筈だった、まさに骸のような人生。
それを救ったのは、ある美しい女であった。
「テメエ友達いなかったろ。俺にはいたぜ、み~んないなくなっちまったけど」
女は
デンジを利用しようとしていた。
というよりも、彼の中に眠るチェンソーの悪魔以外に欠片の興味も抱いていなかった。
理想の容れ物として飼われ、いつかはそのまま果てる筈だった彼は、しかし。
そうはならなかったのだ――彼はひとりではなかったから。
「友達ならいたよ。どいつもこいつも悪いことしか出来ないロクでなしだったけどな」
少年の夢を優しく否定する世界の中で、彼は開花を迎えてしまった。
咲き誇った滅びの花は、芽吹いてしまった悪は、彼のすべてを呑み込んだ。
忌まわしい檻を壊しても、その先に待っていたのは誰も手を差し伸べてくれない冷たい街並みだった。
何の救いもないまま終わる筈だった、まさに塵のような人生。
それを救ったのは、ある巨大な悪であった。
「そう、俺の人生には悪だけが満ちていた。だから当然、そんな姿なんて目指しもしなかった」
悪もまた、弔を利用しようとしていた。
いずれ来る新生の時、新たな魔王が宿る器として彼を見初めただけに過ぎなかった。
未来の容れ物として飼われ、いつかは未練のままにその時を迎える筈だった彼は。
そうはならなかったが、けれど、ヒーローにだけはなれなかった。
デンジは、志村転弧という男のIF/"もしも"だ。
すべてを失ったどん底から這い上がって返り咲いたドブ育ちのヒーロー。
志村転弧が失った可能性のそのすべてを、彼は体現している。
だからこそ、彼の存在を"
死柄木弔"は許容できない。
その姿は、その人生は――
「死ねよヒーロー。お前を見てると吐き気がするんだ」
あの日、家族と共に滅ぼした志村転弧(過去)そのものだからだ。
胴体が張り裂けるのも構わずにチェンソーを無理やり引き抜く。
そして蹴りを放ち、
デンジの横っ面を蹴り抜いて吹き飛ばした。
それだけでもあまりに絶大な威力。サーヴァントの徒手空拳と比べて遜色ない。
その上で追い縋り、間近から再び手を伸ばして確殺を狙う。
「念入りに殺したつもりだったが、案外過去ってのはしぶといもんだな。
生意気なクソアイドルのせいで、しっかり塞がってた古傷が膿み出しちまった」
最初に、
死柄木弔の古傷へ触れたのは
田中摩美々というアイドルだった。
咄嗟に殺意で応えたあの瞬間が、廻り廻ってこの状況に繋がっている。
方舟の刃は届いていたのだ。そうでなければ、魔王は完全な獣として完成されていたに違いないから。
「お前を殺して、今度こそ俺は完成する。
荒野の王、崩壊の主――現代の魔王だ」
死柄木の手が、
デンジの腕に触れた。
しかし彼の判断は速い。
即座に触れられた腕を切断し、崩壊の伝播を打ち止めにする。
落ちた腕が触れた地点から、地面が崩れてまた奈落の津波が生まれるからチェーンを伸ばしてしおを担ぐ。
その上で死柄木の追撃を、巻き上げられた粉塵に紛れた辛うじて爪先が乗るサイズの石塊を着地点に跳躍することで凌いだ。
次に来る行動は、分かっていた。
その予想をなぞるように、蒼い火柱が噴き上がる。
分かっていれば対応も出来る――地面へ戻り、着地ざまを襲う崩壊を躱して、すれ違いざまに片腕を斬り飛ばした。
「俺も、やっと分かったよ」
至近距離で、死と殺意が応酬を繰り広げる。
被弾はすべて死柄木側だったが、彼の身体はそもそも被弾することを脅威としていない。
だからこそあらゆるリスクを厭わず、愚直なまでの前進一辺倒で敵を圧倒できるのだ。
それそのものも脅威であるのは間違いない。
しかし驚くべきは、その無茶苦茶な死の台風をすべて捌きながら生を譲らずにいる
デンジの奮戦だろう。
「元々気に入らねえ奴だとは思ってた。だけどな、龍脈だっけ? あれを手に入れてからのお前は特にいけ好かなかった」
霊基の強化と同時に獲得した、数年分にも及ぶ悪魔との戦闘経験。
今の
デンジは比喩ではなく再臨前の倍以上の性能を発揮していた。
ノウハウとセオリー。厄介な能力に対する戦闘の組み立て方。
すべて実戦で獲得したそれらの理屈を脳の奥からひっぱり出して、片っ端から目の前の脅威を捌いている。
まさしく、
死柄木弔がこの界聖杯でそうしてきたように。
「だってよぉ――お前、ずっと笑ってんだもん」
その言葉が、死柄木の脳裏に決別した師の面影を想起させる。
かの"先代"も、いつでも笑っていた。
自分の蒔いた悪事の種がヒーロー側に潰されても尚、顔を歪めることなく不敵に笑っていた。
「俺なんざにコンプレックス燃やしてるような人間(チンピラ)がよ。何バケモノの真似事してんだ?」
ヴィランとはよく笑うもの。
ヒーローとはよく怒るもの。
であればヴィランの王たる"魔王"が常に笑みを浮かべるのは、道理としては通っている。
しかし。しかしだ。結局のところ、真の魔王なぞ人間の社会には存在しない。
どのような力を持っていようが、それでも人間は人間なのだ。
それはきっと、
死柄木弔を造り上げた先代の魔王さえ例外ではない。
「真似事、か」
「大体よ~……お前もしおも、いい歳こいて真剣な顔で魔王だ何だって言ってて恥ずかしくねえのかよ?
ンなもんどんなに突き詰めたところで結局真似事(ごっこ)だろうが。俺だったらハズくてとても人前じゃ言えねえぜ」
"彼ら"にとって笑顔とはメッキのようなものだ。
自分を偽り、記憶の彼方に人間性を隠すためのメッキ。
要するにそれが気に入らなかったのだと、
デンジは事此処に来てようやく思い至る。
それは
神戸しおに対しても言えることだった。彼女も、やはりよく笑うから。
「腹立ったらブチ切れて、ヤバかったら泣けよ。酔っ払いの相手させられる側の身にもなりやがれってんだ」
デンジは、彼らの神話を否定する。
この界聖杯に、神などいない。
天使も魔王も存在しない。
いるのは英霊と、人間だけだ。
「そうかもな。所詮、俺達がやってるのは命を賭けたごっこ遊びさ」
腕を再生させながら殴り付ける。
触れた場所を切り落とされるなら、純粋に被弾箇所を増やして切除が追い付かなくしてやればいい。
癌細胞と同じやり方を死柄木は取る。そして彼の"崩壊"は、癌よりも格段に浸潤の速度が速い。
「だが、俺は魔王だ。そう成ったのさ、だから此処に立ってる」
「いいや、人だろ」
デンジは此処で初めて、後ろへ下がる。
死柄木の案じた計は、確かにこの膠着状態を破るのに適したものだった。
しかし、あくまでも一時の後退に過ぎない。
伸ばしたチェーンを蜘蛛糸のように死柄木の足へ絡め、そのまま一気に引き寄せる。
「そうにしか見えねえよ、お前らは」
死柄木は脚力のみでそれを引き千切ったが、無茶の代償に歩行機能が一時的に破壊されてしまうのは避けられなかった。
退避を封じた。狙いを果たした
デンジは、すぐさま再び攻勢に転じる。
死柄木の肉体は限りなく完璧に近い状態にあるが、それでも不滅ではない。
心臓の完全な破壊。あるいは、斬首。そのような決定的かつ即死に通じる殺害手段を用いれば、殺せる筈。そう
デンジは踏んでいた。
それに対し死柄木は、やはり手で応じる。
先ほどまではあらゆるホーミーズを駆使し、戦略兵器もかくやの戦いぶりを見せていた彼が、
デンジとの戦いではほぼ手を使っている。
これは決して気のせいでも、ましてや因縁の対決故に自ら縛りを課しているわけでもない。
――龍脈の力を得た死柄木は、確かに限りなく完璧に近い状態にある。
だが、無限の力などというものはこの世に存在しない。
無からエネルギーを生むことができない以上、そこには必ず限界がある。
死柄木は今、まさにその限界に直面していた。
原因は言うまでもない。チェンソーの悪魔を屠るために使った"全因解放"……あの一撃が完全なる肉体に、普通なら起こる筈のないガス欠をもたらしていたのだ。
(あのチェンソー野郎に持ってかれすぎたな。魔力が上手く練れねえ)
そうでなければ、不死身の魔人を相手に馬鹿正直な肉弾戦など挑まない。
ホーミーズの釣瓶撃ちと広域崩壊の連発でしお諸共に消し去っている。
先に成し遂げたヒーロー殺しの代償。それが、毒のように死柄木の身体を蝕んでいた。
(力が戻るまで……五分は要るか。それまでのらりくらりと引き伸ばして、確実に勝つ方を――)
安牌を選ぶならば、きっとそれが一番いい。
力が戻りさえすれば、チェンソーの悪魔とさえ互角に渡り合った自分がその残りカスに遅れを取る道理はない。
龍脈によって強化された身体能力が健在であることは、既に確かめ終えている。
であればインターバルを逃げに徹してやり過ごし、力が戻ったところでゆっくりと目の前の宿敵を調理してやればいい。
・・・・・・・・・
――だが、それは雑魚の思考だ。
「はッ」
死柄木は、ちょうど切り飛ばされたばかりの腕の断面から露出している骨を振り上げた。
そしてそのまま、自らのこめかみへと突き刺してぐちゃぐちゃと中をかき回す。
飛び散る鮮血、脳漿。正気を疑うような自傷行為だが、しかしそれで構わない。
正気を塗り潰すためにこうしているのだから、問題などある筈もない。
「……いいね。スッキリした」
まともに動く脳を破壊して、正気を狂気で支配する。
雑魚の思考に落ちぶれてやるつもりはない。
逃げ回って時を待ち、確実に殺すなど魔王のやることではないからだ。
「見かけによらず御高説を垂れるクチなんだな。だが残念、一から十まで的外れだ」
復活するなり、死柄木が風になった。
峰津院大和との交戦で更に磨かれた獣の躍動。
瞬く間に懐へと入り、拳の一撃で
デンジの内臓を砕き打ち上げる。
崩壊の発動条件は五指の接触。やり方さえ工夫すれば、こうして拳でだって他者に触れられるのだ。
チェーンが身体に絡み付き、突き刺さってくるが気になど留めない。
望むところだと、今度は五指で握ってたぐり寄せてやる。
「オール・フォー・ワンが見出し、
ジェームズ・モリアーティが完成させた『終局的犯罪(カタストロフ・クライム)』。
すべてを壊し、クソッタレな世界をまっさらに均すヴィランの王……それが俺なんだよ、ライダー!」
浮かべるは狂笑。
そこに、志村転弧の影など微塵もない。
人の殻などとうに脱ぎ捨てた。未練がましい古傷は所詮傷跡でしかない。
であれば。であるのならば――
「否定したけりゃ俺を殺せ! 俺はお前で、お前は俺だ!!」
一切鏖殺、それでもって自己を証明するのみ。
崩れゆく鎖を自切して逃れようとする
デンジだが、最初の"引き寄せ"で両者の距離は既に詰まっている。
それはつまり、この魔王の手が触れる射程圏内にいるということを意味する。
巻き上げた砂に崩壊を触れさせ、回避不能の接触を強いる。
今まで何度となく使ってきた、死柄木の得た知恵の中でも最も凶悪だろう殺し技。
これに対し
デンジは、自ら回転してチェーンを振り回し、即席の人間竜巻となることで対策を講じた。
「言われなくてもそのつもりだぜ」
突き進んできた死柄木に、回転の力を乗せた回し蹴りを打つ。
想像以上の硬さに骨が砕けるが、衝撃で多少でも軌道をずらせればそれでいい。
「お前よぉ! 海賊ババアの力使えなくなってんだろ!!」
「だったらどうした? 所詮借り物さ、俺の本領は崩壊(こっち)だ」
「偉ぶりやがって。触ったら死ぬ力ってことはよォ~……逆に言えば"触らなきゃ殺せねえ力"ってことだろうがア!」
確かに、
死柄木弔の"崩壊"は強力無比な異能だ。
デンジの知る限り、これ以上に命を奪うことに特化した能力は存在しないだろう。
だが――xxしてはいけない、なんて
ルールの中で戦うことには
デンジだって慣れている。
悪魔という生き物は、基本的にあっちの
ルールを一方的に押し付けてくる存在だ。
だからこそ、その
ルールを躱し/時にねじ伏せて殺すのがデビルハンターの日常である。
そういう世界で生きてきた
デンジにとっては、死柄木と殺し合うことだってそれほど怖くはない。
生き物として単純に巨大すぎて堅すぎて何も通じなかったあの皇帝達の方が、
デンジにとっては目の前の男より余程脅威に思えた。
「ババアの力が戻る前にブッ殺してやるよ~……死柄木!」
「こっちの台詞だぜ、電ノコ。薄汚いナリのヒーロー一匹、元よりこの手だけで十分だ……!」
悪魔と魔王が踊っている。
それは、死の舞踏だ。
どちらかの死でしか終わることのない、地獄の舞踏会だ。
しかし制限時間はある。
死柄木弔に力が戻れば、その時点で
デンジの死は確定する。
英霊
デンジでは、あの規模の破壊と崩壊に相対することはできない。
追い詰められているのは圧倒的に
デンジの方。
されど
デンジは、そんな事実をまるで恐れることなく進撃を続けていた。
魔王と踊り狂う、この最初で最後の喧嘩に明け暮れていた。
刻む、刻む。
潰す、潰す。
最終決戦と呼ぶにはあまりに無骨な光景だった。
「ッは――」
死柄木が全身を刻まれ、血潮を撒き散らし。
内臓すら飛沫かせながら、
デンジの刃で殺され続けている。
「――ッぐ!」
デンジが死柄木の蹴りを浴び、骨肉を砕かれ。
彼に負けず劣らずの血を零しながら、死柄木の悪意を受け止め続けている。
不良同士が夕暮れの河原で殴り合う、そんなチープな情景を。
ただ単にスケールを広げて、バイオレンスとスプラッターを注ぎ足したみたいな光景だった。
それを、
神戸しおは言葉も挟むことなくひとり見つめていた。
もう、彼女が二人にかけられる言葉は何もない。
伝えたいことはすべて伝えた。だから、しおはただ見ている。
がんばれ。
"彼"に捧げた祈りを、その小さな胸に抱きしめて。
幼子が見るにはあまりに腥すぎる殺し合いを、見ていた。
不死身と、事実上の不死身。
肉体強度だけで言えば規格外に近い者同士の殺し合い、これほど不毛なものはない。
結局、どれだけ見た目が派手でも彼らにとってはほぼすべての負傷が無意味なのだ。
だからこれは豪快な殺し合いのようであって、同時にたった一つの王手を探る対局でもあった。
斬撃。打撃。崩壊。殺意。
それぞれの武器をぶつけ合って、ヒーローとヴィランがしのぎを削る。
デンジのチェンソーが、死柄木の胴体を血霧に変えた。
しかしこれは、死柄木の狙い通りの展開。
心臓への傷だけを巧みに反らし、それ以外すべてを受け入れて直進。
両手を振り上げて彼の頭頂部に叩き付け、強引にその場へ縫い止めることに成功する。
これならば逃げ場はない。
チェーンでの小細工もさせない。
更に、崩壊の始点も工夫を入れる。
死柄木がその両手で触れたのは、同じく
デンジの両手だった。
封じたのは自切。中途半端に触れたのでは始点を切除されて逃げられる――だから自切という手段そのものを封じつつ殺す。
理に適った殺し方だったが、
デンジの無茶苦茶は更にその上を行った。
彼は瞬時に死柄木の意図を理解すると、頭のチェンソーで両腕ごと胴体を真横一文字に切断したのである。
チェーンは後方に伸ばして、地面に突き刺すことで離脱手段にする。
着地点はしおのすぐそばだ。両腕と下半身を喪失したなんとも憐れな姿だったが、しかし互いに動揺はない。
「らいだーくん」
「おう。ちょっと貰うぜ」
チェンソーで軽く、しおの腕を切り。
傷口からこぼれる血を、喉を鳴らして飲み込んでいく。
契約で繋がったマスターの血だ。摂取効率は言わずもがな最高であり、瞬時に彼は蘇生の条件を満たす。
――ぶうん、と音が響いて。チェンソーマンが再起動する。
「下がってろ」
「うん!」
しおは後ろに、
デンジは前に。
追い付いた死柄木に、チェンソーを振るって応戦する。
淀みのない離脱と復帰、そして迎撃だった。
彼の戦いを間近で見てきたしおには、今の
デンジがどれほど強くなっているのかがよく分かる。
いや、違う。
彼はずっと、
神戸しおにとってのヒーローだった。
それは、一度は遠ざけた在り方。
かつて彼がそう在ることを否定したのは、無意識に彼のことをそう思ってしまっていたからだったのかもしれない。
自分の歩く道は、きっとヒーローでは成し遂げられないものだから。
だから否定した――武器として、ただ血を流すことだけを望んだ。
(……そっか)
だが、結果はどうだ。
結局自分は、ヒーローとしての彼を求めてしまった。
つまりこれは、ただ単に回り道をしただけだったのだ。
(もっとはやく、気付いてあげられればよかったな)
そして彼も、きっとそうありたかったのだろうと思う。
死柄木弔という魔王と戦う彼の姿は、今までの戦いと何も変わらずぼろぼろで。
けれど舞い踊るその背中がどこか清々しく見えるのは、たぶん気のせいではない。
デンジは、チェンソーマンは、ヒーローであることを望んでいる。
彼の居場所は、生きる形は、ヴィランでも殺戮の武器でもなかった。
それを理解したからこそ。今、この主従はかつてないほどに同調を深めていた。
「見違えたじゃねえか。最初からやっとけよ」
「俺だってやりたかったぜ。この身体なら、あのいけ好かねえ覆面野郎にしてやられることもなかったかもな」
デッドプールという名の、覆面のヒーローを思い出して
デンジは吐き捨てる。
結局、あの男にはやられっぱなしになってしまった。
何が腹立つって、奴に喫した敗北には納得しかなかったことだ。
あの時、
デンジはまだヒーローではなくて。
神戸しおも、ようやく飛翔(ライジング)に至ったばかりだった。
だから勝てなかった。少年を守るヒーローの強さを、乗り越えることができなかった。
――けれど、今は違う。
「残り何分だよ」
「言う義理はないが、そうだな。二分ってところだろ」
彼らに足りなかった空白は、もう埋められている。
しおはこの時初めて、兄の見ていた背中を理解した。
自分を無条件に助け、導いてくれるヒーロー。
その背中を見つめている時、心の中にあるものは――
(あったかい)
それは、愛する彼女と一緒にいる時ともまた違った熱だった。
すべての不安や懸念が蒸発していくような、そんな安心感が胸を癒していく。
あの時、あの病室で自分に何も言えなかった兄が、自分の目を見られるようになっていたこと。
きっと要するにあれは、"勇気"というものだったのだろうと遅まきながらしおは気付いた。
結局のところ、要するに。兄だけでなく自分にとっても、ヒーローが必要だったということらしい。
神戸家という壊れた家族に必要だったのは、結局それだったのだ。
「割と短えじゃん。じゃあ、まあ……急いで殺すか」
デンジが、改めて死柄木に向き直る。
リミットは二分。それを逃せば、一切の勝機は霧散する。
此処から先が、正真正銘のラストダンスだ。
はじめ、の合図はもうなかった。
お互いに示し合わせることもしない。
電刃がうなり。崩壊が、それに応える。
土を、粉塵を、巻き上げながら奏で合う死の旋律。
交差する意志と意志、生き様と生き様がぶつかり合っては砕け散る。
この上なく暴力的で、この上なく燦然とした決戦だった。
ゴミ捨て場の街で繰り広げられる、男と男のぶつかり合いだ。
いつしか死柄木は、手を広げなくなっていた。
理由は一つ。その方が、
デンジに対してよく当たるからだ。
「アアアアアアアァアァ!」
「オオオォオオオオオオ!」
五指を開かねば崩壊は使えない。
だが、今の
デンジには崩壊を当てたところで素早く切り落とされる。
やはりインターバルを乗り越えるまでは出力不足。
であれば、純粋な肉体の性能差に物を言わせて圧殺した方が理に適うと死柄木は判断したのだ。
そうなると、二人のぶつかり合いは先ほどまでよりも更に無骨な様相を呈してきた。
それは――二人の男による、殴り合いも同然だった。
デンジは腕からチェンソーを生やしているが、死柄木の拳も当たる度彼の肉体を血袋に変えているのだから大差はない。
腕と腕、拳と拳をぶつけ合って繰り広げる極めて原始的な絵面。
ありったけの暴力をもって己の生き様を謳い上げる、どこまでも飾り気のない殺し合いだ。
デンジの骨肉が弾けて。
死柄木の臓物が、噴き上がる。
それはまるで、彼らが辿ってきた人生の"色"を物語るように身も蓋もない光景。
美しさなど、華などありはしなかった。
あったのはただ、暴力と生への執着だけ。
野良犬は二匹いた。
どちらもが、星を名乗る泥を見た。
けれど一匹は泥の中で仲間を見つけ。
もう一匹は、更に深くの泥濘へと沈んでいった。
ゴミ捨て場のような街を駆けるヒーローと。
社会をゴミの山に変えようとするヴィラン。
二匹の生き様は、そうも明確に分かたれて。
だからこそ、彼らは決して相容れない。
聖杯戦争なんて関係なく、絶対に相容れられない二人なのだ。
「死ね!」
「テメエが死ね!」
命の削り合いの中、確実に互いは削れていく。
死柄木は応酬を重ねるにつれ、
デンジの刃が自分の急所へ正確に迫り出しているのを感じていたし。
デンジもまた、せっかく補充したばかりの血液が凄まじい速度で失われていくのを感じていた。
死。その文字が、それぞれの野良犬の脳裏に浮かぶ。
その上で彼らは吠えるのだ。
そうだお前が死ね。これは、俺の物語だ。
刻限(リミット)が、迫る。
どちらとも、生きているのが不思議なほどの有様だった。
身体中、血で濡れていない場所が本当に存在していない。
潰れていない内臓も、壊れていない骨もない。
しかし"死なない"ことはもはや、彼らの中では当たり前のこと。
後は死ぬまでの時間をどれだけ引き伸ばせるか。
その上で、どうやって相手の不死身を殺し切れるか。
そういう領域の話になっているのだ、彼らの中では――既に。
【龍脈の力の回帰まで 残り45秒】
死柄木は思う。
認めざるを得ないことだ。
デンジは、この忌々しい男は強い。
最初は、見所のない三下だと思っていた。
口ばかり達者で実力の伴わない、まるでチンピラのような輩だと。
そう、今思えばまさに自分と同じだった。
あるいはその言葉は、自分自身に向けたものだったのかもしれない。
しかし、彼は強くなった。
今になってそうなったわけではない。
いつの間にか、死柄木の中で無視のできない存在にまで成長していた。
彼の中に潜むチェンソーの悪魔、その脅威を度外視してもだ。
死柄木弔は、
デンジというチンケでつまらない容れ物に価値を見出すようになっていた。
そして同時に、彼の存在を認めてはならないことを悟り始めた。
そこにあるのは、鏡であると。
彼はそう、まさに。
田中摩美々が指摘したような、未だにヒーローへの古傷(みれん)を抱えた自分の――"あったかもしれない"姿なのだと。
【魔王の再臨まで 残り30秒】
デンジは、これを英雄と魔王の決戦だなどと思ってはいなかった。
そも、先に直接伝えたように彼はその手のノリについて行けなかった節がある。
英霊の付属品でありながら、彼は死柄木よりもしおよりも現実を直視していた。
彼も彼女も、決して人外の存在などではない。探せばどこにでもいるような、跳ねっ返りの変わり者にしか見えなかった。
デンジにとって死柄木という男は、兎にも角にもいけ好かない、それこそ殺してやりたいような相手だった。
口を開けば悪態ばかりで、おまけに人の心がない。
しおと切った張ったができるくらい、わけのわからないことばかり喋るガキみたいな大人。
しかし
デンジもまた、彼を己の鏡なのだと気付いていた。
もういなくなってしまった"あの二人"も、自分を鍛えてくれた"師"もいなかった己の姿を、
デンジも確かにそこへ見い出していた。
だからといってやるべきことは何も変わらない。
躊躇いが生まれるわけでもない。
デンジは、そういうノリに浸るタイプの男ではない。
死柄木弔は殺す。殺さなければ、こっちが殺されるだけだからだ。
ただ強いて言うなら、そこに少しでも理由を付け加えてやるのなら。
自分にとっても、あの"敵連合"は……ちょっとだけ、本当にちょっとだけだが悪くない居場所だった。
遊びの時間を、楽しいままで終わらせる。
そのために
デンジは、この"卒業"へと臨むのだ。
それが、散っていった連中にも……そして目の前の馬鹿に対しても、最高の手向けになると確信しているから。
力の高まりを感じる。
死柄木の身体が、着実に再生している。
故に
デンジは此処で、勝負を決めることを選んだ。
拳に合わせて拳を放つ。咄嗟に五指での崩壊に切り替えられるリスクはあったが、そこまで考慮してはいられない。
真っ二つに腕を叩き割りながら、膝をかち上げて腹腔を粉砕。
その上で左の鎖骨にチェンソーを減り込ませ、袈裟がけの一刀両断を狙った。
「ッ、ぎ――!」
「避けてたもんなあ、心臓への直撃だけはよぉ~~!」
ゲラゲラと高笑いをあげながら、刃を進める
デンジ。
阻まんと伸ばした手も抜かりなく切断する。
チェンソーマンは全身にチェンソーの刃を有する。よって、この手の機転も利きやすい。
「殺せると、思ってんのか……!? 俺を誰だと思ってやがる、人類史の残響が!!」
「ただのチンピラ崩れだろうがアアアア! イキり腐ってねえでさっさと死にやがれってんだよオ!!!!」
「死にはしないさ。死なねえからこそ、魔王なんだよ!!」
「おう知ってるぜ~? ならよぉ、死ぬまでブチ殺してやるだけだぜ~~!!!?」
死柄木には自負がある。
魔王とは滅びぬもの、滅びを超えて世界を蝕み続けるもの。
そういう存在を指すのだと、彼は特等席で学習し続けてきた。
だからこそ、不滅を吐きながら彼は最後の抵抗へ全力を振り絞る。
実際、
デンジの殺戮と拮抗する勢いでの再生と抵抗を彼は見せていたが――しかし不運だったのは、
デンジにとって"死なない悪魔"なんて存在は、もう何度となく相手取り殺してきた"慣れた相手"であるということだった。
死なない、何度殺しても蘇る。ああそうか勝手にすればいい。
ならばその上で、死ぬまで殺し続けるだけだ。
永遠の悪魔へそうしたように。軽口を叩く英雄にそうしたように。
いつも通りのやり方で、正々堂々真っ向勝負で正面突破する。それ以外に、
デンジが取る選択肢は存在しない!
【決着まで 残り10秒】
男たちの、聲が響いている。
それは叫びだ。
命を、譲れないものを乗せた咆哮だ。
あまりにも愚直で、混じり気のない殺意が清々しく残骸の街に反響していく。
張り裂ける玉体(マスターピース)と、迫る終焉の時。
されど時間は、打って変わって
デンジの味方をしていた。
残り十秒。その時間は、間近にまで死が迫っているこの状況ではあまりにも――永く、重い。
そして、今。数秒の猶予を残しながら、
デンジがこの拮抗勝負を押し破った。
「ブッッッッッッ、壊れろォオォオオオオオオオオオオオオ~~~~~~!!!!!」
魔王のお株を奪う、崩壊の叫び。
それと同時に、刀身に纏わり付いて侵攻を阻害させていた骨肉を力ずくで引き裂いた。
こうなれば後はもはや、斬り刻むだけ。
いつも通りの、チェンソーマンにとってあまりに慣れた趣向が待っている。
「――――――――――――――――――――――!!!!!」
壮絶なエンジン音の前に、もはや声らしい声は聞こえない。
死柄木の絶叫が、魔人の殺意の前に押し流されていく。
血反吐を吐きながらのそれは、まさしく絶叫だった。
生命の終わりを前にして、無縁となった筈の死に直面して、その時人があげる絶叫。
断末魔とも言い換えられるだろう、心血を注いで絞り出す狂音だった。
古今東西、悪役(ヴィラン)の末路は見苦しい叫びと爆風の中にあるべきと相場が決まっている。
であれば
死柄木弔の最期はまさしく先人たちのそれに倣うお約束通りのものであり。
デンジの刃を前に肉体を爆散させ、血と肉の破片に成り果てる未来は確定していた。
【敵連合の終焉まで 残り5秒】
だが。
【玉座まで 残り■■■■■■■■■】
その未来が今、より強き想いの前にねじ伏せられていく。
デンジがそれに気付いた時、彼が見たのは深遠と続く莫大なる闇だった。
臨界に向かい脈打つ闇という成立する筈のない現象が今、目の前の魔王を柱にして現出している。
「死ぬかよ、この俺を――」
龍脈の力が回帰し、魔王が再臨を果たすまでには残り五秒の時間が必要な筈であった。
しかし
デンジの猛攻によって防波堤は突破され、そのわずかな時間は死柄木にとっての永遠になろうとしていた。
それが道理。この決戦を終幕へと導く、理屈に適った敗因。
そう、理屈上ではそうなるべきだったのだ。
「――俺を、誰だと思ってやがる!!!」
もっと先へ。更に向こうへ(プルス・ケイオス)。
根性論での限界突破は何もヒーローだけの専売特許ではない。
死柄木弔はここで、自らの限界を粉砕した。
死の敗亡を前にして、あらゆる理屈を度外視し時間の壁をぶち破る。
残り五秒のインターバルをねじ伏せて、壁の向こうからあるべき力を引き出した。
無形をも掴む"崩壊"、海賊から継承した王の力、龍脈より取り込んだ土地の力。
それらが瞬時にして三位一体(トリニティ)を描き上げ、死柄木を完璧で究極の魔王へと再生させていく。
「……化け物かよ、お前」
さしもの
デンジも、これには絶句するしかなかった。
こんな無茶苦茶が押し通るのなら、戦いなんて成立しようがない。
これまで彼が築いてきたすべてのプロセスを無視して、死柄木は玉座に舞い戻ってしまった。
そして再臨を許したことの代償は、言わずもがなこの上ない破滅という形で彼を襲う。
「終わりだ――――ライダー」
心臓を斬り刻む筈だった電刃が握られると同時に、崩れ去っていく。
炸裂する崩壊の速度も、規模も、先ほどまでの比ではない。
都市ひとつを消し去る威力の崩壊が、考えられる限り最短の間合いで
デンジに触れた。
それはあまりにも明確なチェックメイトで。
魔王の勝利と、狩人の敗北を明白に分かつ決着だった。
「死柄木。テメエ、俺が死ぬ方に賭けやがったな?」
伝播していく崩壊の速度はこれまでで最速。
よって、頼みの自切ももはや間に合わない。
今から切ったのではどうやったって遅い。
動作を挟んでいる間に、死柄木の崩壊は
デンジのすべてを崩すだろう。
「なら、テメエに言うことはひとつしかねえよ」
そう、今から切ったんじゃ遅いのだ。
それでは、再臨した死柄木の魔の手を止められない。
この状況から命を繋ぎたいと思うのならば、それこそ。
"最初から、腕を切り離していた"なんて種明かしでもなければ、不可能だ。
デンジの腕が、千切れる。
しかしそこから噴き出したのは、崩壊を受けた者特有の白い粉塵ではなかった。
赤い、少し黄色っぽい脂肪も混ざった鮮血である。
その事実が何を物語っているのかを、
死柄木弔は瞬時に理解し。
だからこそ驚愕した。脳が高速で回転する。
完成した筈の詰み盤面に現れた理外の事象、そのトリックを咀嚼したのと、
デンジの叫びが耳へ届くのはほぼほぼ同時のことだった。
「――――――――残!!! 念!!! だったなあ~~~~~~~~~~~!!!!!」
死柄木が土壇場で起こした"無茶苦茶"は、
デンジにとって完全な想定外だった。それは事実だ。
だが、死柄木が生きてインターバルを終えてしまう……自分がそれまでに彼を殺せない可能性の方は、想定していた。
あの崩壊もホーミーズどもの馬鹿みたいな火力も、
デンジ個人の実力ではどうやったって相手しきれない。
つまり、完成した死柄木をまともにやり合って殺すことは不可能だ。
ならばもしそうなってしまった場合、勝機は死柄木の初撃、その瞬間だけだと
デンジは踏んだのだ。
自分の腕にチェーンを食い込ませ、予め切断し。
その上で、肉の内側にチェーンを張り巡らせて補強する。
要するに、自分で斬った腕をこれまた自分で縫合して使い続けていたのである。
再三に渡る近接戦で浴びた血肉をカモフラージュにし、死柄木に悟られることなく
デンジはラストチャンスのための準備を終えていた。
死柄木の"崩壊"が触れてきた瞬間に、肉の中のチェーンを切断して腕ごと切り離す。
先置きの自切。これならば、最速かつ最強威力で放たれる崩壊に対してでもギリギリ回避が間に合う。
チェンソーの悪魔の内側で目の当たりにした死柄木の全力。
そこから自分の中に作り出した勘を元にした、ほぼほぼ博打と言っていい時間計算。
切り離された腕だけが、崩壊で消える。
伝播すら起こる余地はなく、風に吹かれて消え去った。
事実上の空振り。致命の隙を晒す死柄木に、
デンジが踏み込む。
崩壊は間に合わせない。
その前に、一薙ぎで両腕を断ち切った。
崩壊の個性の最大の弱点。それは、五指で触れなければ発動しないという発動条件にこそある。
死柄木が十全の力を取り戻していたとしても、腕の再生が完了していないのならば崩壊は使えない。
その間だけは――彼は破滅の魔王ではなくなるのだ。
「これで、俺の……!」
「いいや――勝つのはッ」
「少なくともテメエじゃあねえ!!」
解き放たれるホーミーズ。
あらゆる力が、嵐になって
デンジの肉体を削る。
だが、それでも、怯まない、止まらない。
一歩分の距離をやっとの思いで詰めて。
肉を吹き飛ばし骨まで削る熱風に全身を炙られながら、残る隻腕を前へと突き出した。
「俺達の――――勝ちだアアアアアアアアアア!!!!」
怒号、隻腕、チェンソー。
闇を拓いて閃いた、血と殺戮の電刃が。
ぶうん、と、鎮魂曲の音を奏でながら。
遂に。
今この瞬間、遂に――
終局的犯罪、地平の魔王の心臓を両断した。
◆◆
夢を見ていた、そんな気がした。
ひどく永くて、迂遠な夢だ。
陽だまりのように暖かいのに、水中のように息苦しい。
真綿で首を絞められながら、子守唄を囁かれているみたいな夢だった。
その夢の仔細は覚えていないし、どちらだろうと然程の意味はない。
どうせ最後は、すべてが崩れて終わるのだ。
青年は、それをよく知っていた。
「とむらくん」
頭が重い。
視界が、やけに霞む。
胸に目を落として、ようやくその理由に気が付いた。
胸に穴が空き、折れたチェンソーの刃が突き刺さっている。
心臓の無事など、確認するまでもなく明らかだった。
その証拠に、あれほど満ち溢れていた魔力がちっとも制御できない。
龍脈の力を得て無敵となった筈の肉体は、たかが大穴のひとつも修復できずに手をこまねいている。
そんな体たらくが、戦いの行方がどちらに転がったのかを如実に物語っていた。
「……おい、どうした」
どうやら自分は、あれだけの力を持っていながら見るも無様に負けたらしい。
力が戻れば、いや戻らなくても、少し力を込めたら捻り潰せるような格下の英雄。
自分にも用意されていたかもしれない人生の先からやってきた、殺すべき、否定すべきifの英霊。
彼は勝ち、自分は負けた。
絶対に覆らない筈の戦力差を覆して、ヒーローはヴィランの夢を駆逐した。
蓋を開けてみれば、それはあれほど唾棄していたお決まりの結末で。
最初の憎悪(オールマイト)もその後継者も関係なく、資格など問うことなく、魔王など誰にでも殺せるのだということを証明している。
なんと無様で、滑稽で、つまらない話だと思う。
いっそ手を叩いて自嘲したい気分だったが、今青年が笑った理由は自嘲(それ)ではなかった。
「笑えよ。お前の勝ちだぜ」
「……うん。私の勝ちだね」
そしてじきに、自分はきっと死ぬだろうことを青年は感じ取っていた。
何しろ、今こうして佇んでいるのだって相当な無理をして格好つけている。
気を抜けばこの全身が、今にも地に向けて崩れてしまいそうだった。
みなぎっていた生命力も、狂おしいまでの恩讐も、すべてが命の終わりと共に消えていくのを感じる。
そんな自分を目の前で見つめる小さな影は、勝者となったというのにやけに浮かない顔をしていて。
肝心な時に限ってあの鬱陶しい笑みを浮かべないその姿に、思わず青年は失笑してしまった。
「――アイさんが死んだときも、悲しかったんだ」
少女は、振り返るようにそう言った。
星野アイ。連合に弓を引き、その結果裏切り者として処刑されたアイドル。
「とむらくんも、死んじゃうんだね」
「手前で殺しといて何言ってやがる。ガキが」
これで、敵連合は本当に終幕となる。
構成員はみんな死んでいった。
そして今、連合の王も玉座を追われようとしている。
独りきりでは、もう"連合"とは呼べないだろう。
聖杯戦争の終焉に先駆けて、ひとつの小さな物語の臨終がやってきた。
本当のところ、青年だってもう少しは足掻きたかったのだ。
あの女王がそうだったように、みっともなく生に執着したかった。
生を繋ぐ手段を探すために地を這い、本当の最後の最後までこの妄執にすべてを費やしたかった。
たとえ、無駄だと分かっていても。
そうすることで、自分の糞みたいな人生を最後の一滴まで否定しきりたかったのだ。
この生に、妄執に、己という人間には何ひとつ価値などなかったのだと。
ヴィランらしくすべてを失い死んでいくのなら、きっとそれが一番美しい。
そう考えていたのだが、結局それは出来ずじまいになってしまった。
そのことに無理矢理にでも理由を与えるのならば、それは。
多少なりとも付き合いのあった近所の子どもの前で、少しは格好付けてやりたくなった――そんなところなのかもしれない。
「私、とむらくんのことが好きだったよ」
「浮気か? だったら生憎だな。ガキを侍らす趣味はねえよ」
「ちがいますっ。愛してる人と友達とは別なんだよ」
「……ああそう。お前も大概、よく学ぶ奴だよな」
少女は、そして彼女のヒーローは、二人の犯罪王が完成させた終局の犯罪を打ち破った。
崩壊の異能と数多の魂を携えて地平線上に君臨した魔王は、じきにこの世界を去る。
そうなればいよいよもって、最後の時はすぐそこだ。
残るサーヴァントは三体。残る器は、三人とひとり。
界聖杯が降り立ち、地平線の彼方へ辿り着く者が現れる。
これは嵐の前、束の間の静寂。
本当の祭りが始まる前の、ちっぽけな葬送でしかない。
「叔母さんも、アイさんも、ゴクドーのおじさんも、えむさんも、田中さんも……みんな、好きだったよ」
どこまでも歪で、どこまでも終わりが見えていて。
だけど、ほんの少しだけ誰もにとっての居場所だった集団。
悪の組織と呼ぶにもカジュアルすぎる、サークルみたいな連合。
その物語を、少女はそう締め括った。
「だけど、私は行くね。私には、愛があるから」
友達と別れるのは、いつになっても名残惜しいものだ。
けれど、世の中には友情よりも大切なことがしばしばある。
少女にとってそれは、いつかの日に誓い合った"愛"だった。
だから、少女は手を振って去りゆく友とお別れができる。
「……すべてをブチ壊す野望が、色惚けたガキの愛に阻まれるか。
は……ジジイも先生も、田中の奴も浮かばれねえな」
「……あは。くやしい?」
「そうでもないな。どちらかと言うと、今はゆっくり寝腐りたい気分だ」
何しろ、身体のそこかしこが鉛に置き換わったみたいに重いのだ。
失血で意識は飛んだり跳ねたりを繰り返しているし、限界云々抜きにしてもそろそろ休みたい。
思えば、ここに来る前もギガントマキアとの戦いで連日徹夜だったのを思い出す。
道理で眠いわけだ、と青年は小さく笑った。
「まあ……何にせよ、これで俺は死ぬわけだ」
ここに来てからの時間は、ほんの一月だったとは思えないほどに濃密だった。
特に最後の三日間だ。ここに一生分の濃度が詰まっていたとすら思う。
それも、もう終わる。未練は別段ないが、最後にひとつ気まぐれをしたい気分になった。
体内で行き場をなくしたように暴れ回っている魔力を無理やり一握ほどの大きさに纏める。
そして、恐らく最後になるだろう力の行使を行った。
崩壊ではない。ビッグ・マムから継承した、魂を操る能力の方だ。
龍脈の力、今となってはもはや絞りカスと言っていい量だがそれをかき集める。
形はどうするか、と思ったところで――少女の身なりがぼろぼろなことに気が付いた。
戦いで巻き上げられた粉塵や泥に塗れ、元の小綺麗さは見る影もない。
「さっきはああ言ったけど、やっぱり多少は無念だよ。
世界のすべてをブチ壊して、まっさらにしたその上で君臨する。
俺がずっと思い描いてきた未来は、これで叶わなくなっちまったわけだ。
俺は――このクソみたいな世界を破壊したかった。社会の片隅で連綿と繋がれてきた俺達の夢も、もうお終いさ」
生憎と、色気や女っ気とは無縁の人生を送ってきた身である。
思いつく形は、自分が纏っていたジャケットくらいのものだった。
記憶の中にあるそれをひっぱり出して、再現する。
サイズだって合っちゃいない。自分の、夢の仇にそこまで配慮してやる義理も思いつかなかった。
「だが……まあ、すべては終わったことだ。俺からお前に言えるのは、そうだな……」
なけなしの力で作った最後のホーミーズ。
それを、自分より二回り以上も小さい目の前の影に被せてやる。
これでいい。この程度でいい。
敵連合は心に刃を潜ませた、敵同士の呉越同舟。
であれば贈る餞の品も言葉も、少しの皮肉を滲ませた毒のあるものでいいに決まっているから。
だから――
「次は…………………………お前だ」
形はどうあれ、先代から次代を託された者として。
胸の奥にすとんと落ちるそんな言葉を遺し、青年は少女とすれ違うように倒れ臥した。
「……、……」
そしたら、もう青年は動かない。
血溜まりを広げながら、薄い笑みを浮かべて事切れている。
誰がどう見ても、魔王は死んでいた。
そんな彼の姿を見下ろして、一瞬何かを口にしようと口を開いて……やめて。
それから、勝者の少女は改めて口を開き直した。
「うん」
敵連合、ここに壊滅。
魔王・
死柄木弔、ここに死する。
魔王の夢を踏み越えて進むのは、天使と呼ばれたひとりの少女。
貰ったジャケットを、サイズの合わないそれを、風に遊ばせて。
「次は、私」
少女は、散った片翼に背を向けた。
もう振り返ることはない。
その必要はないと信じているから振り向かない。
確かに存在した楽しかった時間。
多くを学んだ、賑やかな日常。
ほんのちょっとだけそれを名残惜しく思いながら――
神戸しおは、歩き出す。
友の死を悼む暇もなくやってくる、次の災禍。
乗り越えるべき壁にして、壊すべき可能性。
それを殺すために――願いを抱いて、突き進む。
◆◆
決戦が終わり。
嵐がやってくる。
空が、銀色に染まっていく。
水銀のような、もしくは箒星を映す水面のような、銀色の空が広がっていく。
流れ出した神の兆し。
流れ出した、愛という狂気。
それは冷たく、そして熱く、いま空から降臨(おり)てくる。
右手には鍵を。
額には鍵穴を。
空に孔を穿って、巫女が立つ。
◆◆
『転弧、起きて、起きてってば!』
夢を見ていた、そんな気がした。
ひどく永くて、迂遠な夢だ。
夢の中から、僕は耳慣れた声で浮上する。
やけに重たい瞼を開ければ、そこには家族がいた。
『もう、いつまで寝てるの。もう朝ごはんできてるよ!』
『ああ……うん、ごめん華ちゃん。昨日、ちょっと夜ふかししすぎたみたいで』
『根詰めるのもいいけど、それで寝坊してたら世話ないでしょ。ほら、ちゃっちゃと起きる!』
まったくもってその通りだ。
僕は苦笑しながら、起き上がって伸びをした。
夢の内容を思い出そうとしたけれど、どうにも靄がかかったみたいに思い出せない。
なんだか、とても大切な夢だった気がする。
悲しくて、だけどどこか清々しいような。
そんな、永い夢を見ていた気がするんだ。
『今日、雄英の入試なんでしょ。実技厳しいんだから、ちゃんと目覚ましとかないと落ちちゃうよ!』
ああ、そうだった。
今日は雄英の入試の日じゃないか。
この日まで、ずっと長いこと準備をしてきた。
勉強も死ぬほどしたし、個性を伸ばす訓練だってそうだ。
僕の"個性"はヒーロー向きじゃないから、練習に付き合ってくれる人を探すのだって大変だった。
たまたま巡回中の"あの人"に見つけて貰えなかったら、そもそも受験を許してもらうところにだって辿り着けなかったかもしれない。
『お父さん、結局仕事休むことにしたって。転弧のこと、試験会場まで送っていくって言ってたよ』
『え。お父さんが?』
『うん。……まー、なんだかんだで転弧のこと応援してたんじゃない? 本当に頑張ってたしね、ずっと』
華ちゃんにそう言われて、心の中になんだかとても暖かいものが広がっていく。
だとしたら、尚更ここまで来てしくじるわけにはいかない。
あんなにヒーローを嫌っていた、僕がヒーローを目指すことを否定していた人が、僕の背中を押してくれるんだとしたら。
――そうだ。僕は、ヒーローになれる。
いや、僕だけじゃない。きっと誰にだって、そうなる資格はあるんだ。
『ほら。行くよ』
『……うん。華ちゃん』
これは、僕の夢の始まりの日だ。
何者でもなかった僕が、何かになるための第一歩。
朝ごはんを食べて、そして夢を叶えに出かけよう。
誰かを壊すことしかできないと思ってたこの手で、これからは泣いてる誰かを助けるんだ。
ああ、空が晴れ渡っている。
こんな日は、なんだかとても良いことがありそうだ。
そう思いながら、僕は華ちゃんの手を取って。
"みんな"の待っている食卓へと、駆け足で歩き出した。
【死柄木弔/志村転弧@僕のヒーローアカデミア 脱落】
最終更新:2024年03月24日 16:01