リノリウムの緑の床を、一人の男が鬱々とした足取りで歩いていた。
右手に落ち着きが無いのはタバコが恋しいのだろうか、何度も懐に手を伸ばしては慌てたように戻している。
彼は別にヘビースモーカーというわけでは無い。不安な時や苛々している時など、精神が不安定になってくると吸いたくなるだけで、タバコを吸わないと精神が不安定になる程に喫煙という行為に取り付かれている訳ではないのだ。
しかも彼が今歩いているのは病院の廊下である。
当然彼もそれを良く弁えてはいるのだろうが、それでもつい吸いたくなるらしい。
つまりそれは、現在の彼の精神状態が非常によろしくない事の証明でもあった。
右手に落ち着きが無いのはタバコが恋しいのだろうか、何度も懐に手を伸ばしては慌てたように戻している。
彼は別にヘビースモーカーというわけでは無い。不安な時や苛々している時など、精神が不安定になってくると吸いたくなるだけで、タバコを吸わないと精神が不安定になる程に喫煙という行為に取り付かれている訳ではないのだ。
しかも彼が今歩いているのは病院の廊下である。
当然彼もそれを良く弁えてはいるのだろうが、それでもつい吸いたくなるらしい。
つまりそれは、現在の彼の精神状態が非常によろしくない事の証明でもあった。
805 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:11:54.78 ID:zqiPYzc0
彼は、所轄の警察署の生活安全課に所属する警官である。
今年でもう40も半ばを超える年齢の彼にとって、最も愛するべきは己の生活の平穏だった。
若い頃、それこそ警察に入りたての頃の彼はもっと市民の生活の安全を守る警察官としての使命感に燃えていたように彼には思えたが、さすがに家庭を持ち、相応に年も取った今は以前の情熱は残っていない。
そんな彼であるから、半年前に部下が受け持ったという少女の相談は非常に頭を悩ませるものだった。
警察にとって、虐待と並んで非常に対応の難しい、学校でのいじめの相談だ。
彼女は何度も繰り返し警察に相談に現れた。
まだ課に配属されて日の浅い部下は、対応に非常に苦慮したらしい。それは何度も部下に相談を受けた彼には良く分かった。
彼は何度も学校や児童相談所に任せるべきだと助言をしたのだが、相談者の少女が警察での対応を強く望んだこと、そしてまだ若く正義感の強いその部下もまた彼女の要望に真摯に応えようとしていた事が問題を複雑化させた。
部下はそう思っていなかったようだが、一度少女の相談の時部下に付き添った際の彼の目には、そう喫緊の問題に映らなかったのも大きいだろう。
何せ聞けば彼女は両親にすら相談していないのだ。
今思えば、それは彼女と両親の間に大きな溝が出来ていていた為と分かるが、その時の彼はそうは思わなかった。
806 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:12:42.00 ID:zqiPYzc0
家族への相談などの順序を無視し、直接警察に訪れて苛めの詳細や首謀者の名前等を淡々と述べる少女は、彼にはいじめの解決よりも彼女をいじめる者たちへの復讐心の方が強いように思われたのだ。
彼は面倒を厭い部下の足を引っ張るようになり、横槍の入ったいじめへの対応は遅々として進まず、そして一昨日、相談者の少女は自宅の浴槽にて手首を切っての自殺を図った。
そこまで回想して、彼はふと笑い出したくなった。
回想にまで建前を挟んでいる自分への、自虐の嗤いだ。
少女の思惑がどうだったかなど全て建前。面倒を厭ったなんて全部嘘。本当は、彼自身が少女の相談に対してどうしても警察を動かしたく無かっただけなのだから。
そしてその気持ちは今でも変わらない。部下に不審と恨みを抱かれながら、彼は一命を取り留めた少女から話を聞くためにこうして病院を訪れている。
いや、話を聞くためとは少し違う。彼は、少女に警察で対応は出来ないときっぱりと告げるためにここに来たのだ。
目的の病室を目指して暫く歩き、ようやくドアの横にあるネームプレートに、彼の知る名前を見つけた。
『水城鈴菜』
緊張と不安と、それよりもっと大きな良心の痛みを押し殺して、彼は扉を二度叩いた。
今年でもう40も半ばを超える年齢の彼にとって、最も愛するべきは己の生活の平穏だった。
若い頃、それこそ警察に入りたての頃の彼はもっと市民の生活の安全を守る警察官としての使命感に燃えていたように彼には思えたが、さすがに家庭を持ち、相応に年も取った今は以前の情熱は残っていない。
そんな彼であるから、半年前に部下が受け持ったという少女の相談は非常に頭を悩ませるものだった。
警察にとって、虐待と並んで非常に対応の難しい、学校でのいじめの相談だ。
彼女は何度も繰り返し警察に相談に現れた。
まだ課に配属されて日の浅い部下は、対応に非常に苦慮したらしい。それは何度も部下に相談を受けた彼には良く分かった。
彼は何度も学校や児童相談所に任せるべきだと助言をしたのだが、相談者の少女が警察での対応を強く望んだこと、そしてまだ若く正義感の強いその部下もまた彼女の要望に真摯に応えようとしていた事が問題を複雑化させた。
部下はそう思っていなかったようだが、一度少女の相談の時部下に付き添った際の彼の目には、そう喫緊の問題に映らなかったのも大きいだろう。
何せ聞けば彼女は両親にすら相談していないのだ。
今思えば、それは彼女と両親の間に大きな溝が出来ていていた為と分かるが、その時の彼はそうは思わなかった。
806 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:12:42.00 ID:zqiPYzc0
家族への相談などの順序を無視し、直接警察に訪れて苛めの詳細や首謀者の名前等を淡々と述べる少女は、彼にはいじめの解決よりも彼女をいじめる者たちへの復讐心の方が強いように思われたのだ。
彼は面倒を厭い部下の足を引っ張るようになり、横槍の入ったいじめへの対応は遅々として進まず、そして一昨日、相談者の少女は自宅の浴槽にて手首を切っての自殺を図った。
そこまで回想して、彼はふと笑い出したくなった。
回想にまで建前を挟んでいる自分への、自虐の嗤いだ。
少女の思惑がどうだったかなど全て建前。面倒を厭ったなんて全部嘘。本当は、彼自身が少女の相談に対してどうしても警察を動かしたく無かっただけなのだから。
そしてその気持ちは今でも変わらない。部下に不審と恨みを抱かれながら、彼は一命を取り留めた少女から話を聞くためにこうして病院を訪れている。
いや、話を聞くためとは少し違う。彼は、少女に警察で対応は出来ないときっぱりと告げるためにここに来たのだ。
目的の病室を目指して暫く歩き、ようやくドアの横にあるネームプレートに、彼の知る名前を見つけた。
『水城鈴菜』
緊張と不安と、それよりもっと大きな良心の痛みを押し殺して、彼は扉を二度叩いた。
807 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:13:21.24 ID:zqiPYzc0
白い室内着を着た少女は、青白い顔でベッドに上半身だけを起こしたまま座っていた。
未だ目覚めたばかりの病み上がりの為か頬は多少こけて、いつか見た彼女よりもずっと弱々しく彼の目には映った。
「すいません、こんな格好で」
「いや、気にしなくていいよ」
彼女の性格から、皮肉の一つでも覚悟していた彼は少々面食らいながら挨拶を交わす。
「どうぞ、そこ、座ってください」
「ええ。あ、これをどうぞ。何にしようか迷ったんだがね、やはりお見舞いと言ったらこれだろう?」
「お見舞いに、来たんですか?」
そして、彼が差し出した果物の詰め合わせを受け取りながらの彼女の言葉に、すっと顔を引き締めた。
「もちろん、お見舞いの意味もあるよ」
それは一瞬のことで、すぐ彼は柔らかな笑みを浮かべて安心させるような言葉を返す。
だが彼女は取り合わずに、更に言葉を紡いだ。
「手紙、受け取ってくれたんですよね。だからここに来たんでしょう?」
淡々と、少女は言う。
自殺直前に彼女が出したと思われる警察宛の手紙。彼は無論読んでいた。警察では、彼しか読んでいないが。
彼女が受けたいじめの詳細。首謀者の名。そして、一週間以内に行動を起こさない場合同じ内容の手紙を主要マスコミに送るよう両親に頼んであると言う、恫喝にしか思えない最後の文。
「もちろんだ。それで、今日は少し話があって来た訳だが……」
この少女は、やはりどこかおかしい。そう思い、それを免罪符に何とか説得を始めようとして。
「あの、手紙に書いてあったことは全部無しってことでお願いします」
「……なんだって?」
あまりに予想外で、それでいてあまりに彼にとって都合の良すぎる言葉に、彼は思わず己が耳を疑った。
未だ目覚めたばかりの病み上がりの為か頬は多少こけて、いつか見た彼女よりもずっと弱々しく彼の目には映った。
「すいません、こんな格好で」
「いや、気にしなくていいよ」
彼女の性格から、皮肉の一つでも覚悟していた彼は少々面食らいながら挨拶を交わす。
「どうぞ、そこ、座ってください」
「ええ。あ、これをどうぞ。何にしようか迷ったんだがね、やはりお見舞いと言ったらこれだろう?」
「お見舞いに、来たんですか?」
そして、彼が差し出した果物の詰め合わせを受け取りながらの彼女の言葉に、すっと顔を引き締めた。
「もちろん、お見舞いの意味もあるよ」
それは一瞬のことで、すぐ彼は柔らかな笑みを浮かべて安心させるような言葉を返す。
だが彼女は取り合わずに、更に言葉を紡いだ。
「手紙、受け取ってくれたんですよね。だからここに来たんでしょう?」
淡々と、少女は言う。
自殺直前に彼女が出したと思われる警察宛の手紙。彼は無論読んでいた。警察では、彼しか読んでいないが。
彼女が受けたいじめの詳細。首謀者の名。そして、一週間以内に行動を起こさない場合同じ内容の手紙を主要マスコミに送るよう両親に頼んであると言う、恫喝にしか思えない最後の文。
「もちろんだ。それで、今日は少し話があって来た訳だが……」
この少女は、やはりどこかおかしい。そう思い、それを免罪符に何とか説得を始めようとして。
「あの、手紙に書いてあったことは全部無しってことでお願いします」
「……なんだって?」
あまりに予想外で、それでいてあまりに彼にとって都合の良すぎる言葉に、彼は思わず己が耳を疑った。
808 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:14:04.20 ID:zqiPYzc0
さて、俺が“水城鈴菜”として生き返ってから約一週間が過ぎた。
マジで自殺も考えてはいたが、さすがにあの腐れ死神に嫌がらせをするだけが目的で死ぬというのはむかつくし、早計だろう。
あんまりこの身体で生きていける自信は無いが、さすがに少しは頑張ってみるのもいいのではないかとようやく前向きに考え始められたところ……なん……だが。
「本当にご迷惑おかけして申しわけありませんでした。ほら、鈴菜も頭を下げなさい。ほら!」
「す、すいませんでした」
俺が自分を水城鈴菜だと受け入れた後すぐに、医師に連れられて鈴菜の両親が現れた。
想像はつくと思うが、この子にしてこの親ありか、いや、実際の用法は逆だがそれは置いておいて、とにかく鈴菜の両親もどっちも碌な奴じゃない。
会う前から、鈴菜の記憶で十分に分かっていたことだが。
母親は泣いて俺に縋り、父親は自殺という過ちを犯した娘を厳しく、でも助かった安堵のためか暖かな目で見つめている。
ここまでならいい両親に見えるが、その態度が、どうにも俺には嘘くさく思えたのだ。
世間一般のいい母親、いい父親を演じて、その自分に酔っているかのような、そんな不快さを彼らの動向の端々に感じる。
鈴菜の記憶を持つ俺は、その原因も良く知ってはいる。だから尚更、分かってしまうのだろう。
そして手首を切って自殺を試み、一日ぶりに息を吹き返した少女とその両親の対面という、“とても感動的な場面”が終わったのが一週間前。
そして今日、俺は両親とともに退院の手続きを行っているというわけである。
「すいません。本当に、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、もう鈴菜ちゃんも直ったことですし、ああその、どうか頭を上げてください」
受け付けの看護師を相手に、もうこの母親は5分くらいは頭を下げ続けている気がする。
俺……というか鈴菜もこの看護師さんに世話になったわけじゃないし、彼女に謝っても仕方ないんじゃないだろうか。ほら、彼女も困ってるし。
父親に目配せするが、彼は俺の視線には気づいても何やら暖かさを込めているつもりなんだろう表情で笑いかけてくるだけ。
809 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:15:21.56 ID:zqiPYzc0
なにやら勘違いさせてしまったらしい。
仕方ない。俺が言うしかないのか。
そう諦観し口を開こうとして、母親が言った言葉に愕然と固まった。
「はい。申し訳ありませんでした。もう二度とこんなことでお世話にならないよう気をつけますので。ね、鈴菜」
「…………」
おいおい。
あんまりな言い分に思わず舌打ちをしようとして、それは何とか思いとどまる。
「鈴菜?」
「まあまあ、お母さん。鈴菜ちゃんだって昨日の今日です。まだ落ち着いていないところもあるでしょうし、今はやさしくしてあげて下さい」
こんなこと、だって? 自殺するやつの気持ちを理解しようとは思わなかったが、幸か不幸か俺はそれをこの上なく実感している。
確かに鈴菜は馬鹿なことをしたと思うし、動機も最悪だ。
でも、鈴菜は自殺するほどに追い詰められていたのは確かで。こいつらがそんな娘の様子に気づけなかったのも事実だ。
子の甘えというものなのかも知れない。親だって完璧な人間じゃない。
それは分かる。だが、それにしたって今の言い分は、自殺しようとした娘にかける言葉じゃないだろう。
鈴菜じゃない俺が何か言う資格もないけどな! くそっ!
「さ、そろそろ行こう。弘子、ほら」
「え、ええ。ごめんなさいね鈴菜。今のは……」
今更失言に気づいたって遅い。いや、何もかもが遅すぎる。
鈴菜は死んだ。その元凶とまではいかなくても、少なくとも一因を担った両親。
なにやら謝罪と言い訳を繰り返す母親を無視して、出口に向かう父親の後を追う。
ちらちらと気遣わしげに振り返る父親の態度も、何かあざと過ぎて苛々する。
ああ、この両親も、好きになれそうに無い。そう思いながら、俺はただ黙って歩き続けた。
マジで自殺も考えてはいたが、さすがにあの腐れ死神に嫌がらせをするだけが目的で死ぬというのはむかつくし、早計だろう。
あんまりこの身体で生きていける自信は無いが、さすがに少しは頑張ってみるのもいいのではないかとようやく前向きに考え始められたところ……なん……だが。
「本当にご迷惑おかけして申しわけありませんでした。ほら、鈴菜も頭を下げなさい。ほら!」
「す、すいませんでした」
俺が自分を水城鈴菜だと受け入れた後すぐに、医師に連れられて鈴菜の両親が現れた。
想像はつくと思うが、この子にしてこの親ありか、いや、実際の用法は逆だがそれは置いておいて、とにかく鈴菜の両親もどっちも碌な奴じゃない。
会う前から、鈴菜の記憶で十分に分かっていたことだが。
母親は泣いて俺に縋り、父親は自殺という過ちを犯した娘を厳しく、でも助かった安堵のためか暖かな目で見つめている。
ここまでならいい両親に見えるが、その態度が、どうにも俺には嘘くさく思えたのだ。
世間一般のいい母親、いい父親を演じて、その自分に酔っているかのような、そんな不快さを彼らの動向の端々に感じる。
鈴菜の記憶を持つ俺は、その原因も良く知ってはいる。だから尚更、分かってしまうのだろう。
そして手首を切って自殺を試み、一日ぶりに息を吹き返した少女とその両親の対面という、“とても感動的な場面”が終わったのが一週間前。
そして今日、俺は両親とともに退院の手続きを行っているというわけである。
「すいません。本当に、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、もう鈴菜ちゃんも直ったことですし、ああその、どうか頭を上げてください」
受け付けの看護師を相手に、もうこの母親は5分くらいは頭を下げ続けている気がする。
俺……というか鈴菜もこの看護師さんに世話になったわけじゃないし、彼女に謝っても仕方ないんじゃないだろうか。ほら、彼女も困ってるし。
父親に目配せするが、彼は俺の視線には気づいても何やら暖かさを込めているつもりなんだろう表情で笑いかけてくるだけ。
809 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:15:21.56 ID:zqiPYzc0
なにやら勘違いさせてしまったらしい。
仕方ない。俺が言うしかないのか。
そう諦観し口を開こうとして、母親が言った言葉に愕然と固まった。
「はい。申し訳ありませんでした。もう二度とこんなことでお世話にならないよう気をつけますので。ね、鈴菜」
「…………」
おいおい。
あんまりな言い分に思わず舌打ちをしようとして、それは何とか思いとどまる。
「鈴菜?」
「まあまあ、お母さん。鈴菜ちゃんだって昨日の今日です。まだ落ち着いていないところもあるでしょうし、今はやさしくしてあげて下さい」
こんなこと、だって? 自殺するやつの気持ちを理解しようとは思わなかったが、幸か不幸か俺はそれをこの上なく実感している。
確かに鈴菜は馬鹿なことをしたと思うし、動機も最悪だ。
でも、鈴菜は自殺するほどに追い詰められていたのは確かで。こいつらがそんな娘の様子に気づけなかったのも事実だ。
子の甘えというものなのかも知れない。親だって完璧な人間じゃない。
それは分かる。だが、それにしたって今の言い分は、自殺しようとした娘にかける言葉じゃないだろう。
鈴菜じゃない俺が何か言う資格もないけどな! くそっ!
「さ、そろそろ行こう。弘子、ほら」
「え、ええ。ごめんなさいね鈴菜。今のは……」
今更失言に気づいたって遅い。いや、何もかもが遅すぎる。
鈴菜は死んだ。その元凶とまではいかなくても、少なくとも一因を担った両親。
なにやら謝罪と言い訳を繰り返す母親を無視して、出口に向かう父親の後を追う。
ちらちらと気遣わしげに振り返る父親の態度も、何かあざと過ぎて苛々する。
ああ、この両親も、好きになれそうに無い。そう思いながら、俺はただ黙って歩き続けた。
810 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:16:14.50 ID:zqiPYzc0
車で30分。ようやく“自宅”に辿り着いた。
車の中に居るときから何やら色々と話しかけて来た母親を徹底無視して、とにかく“自室”に向かう。
鈴菜の家は大金市の東にある樫場町の住宅地の一角。
俺が住んでいたアパートからも結構近い。実際ここらに来た事はないが。
二階建て4LDKの間取りは三人家族には少し広い。
両親共働きの上に母親の実家が結構な金持ちの為、こんな家が買えたのだろうが。
二年前までは父方の祖母も同居していたのだが、脳卒中で帰らぬ人となっている。
そんな基本情報をつらつらと頭に浮かべながら階段を上り、“自室”に入る前に奥の部屋に向かう。
ドアを開けると、線香の香りが鼻をついた。
部屋には殆ど物が無く、唯一少し奥まった場所に仏壇が置いてある。
鈴菜の、祖母が生前使っていた部屋だ。
飾られた写真の中で、鈴菜の記憶と相違ない笑顔で、一人の老婆が笑っていた。
仏壇の前に座り、線香を上げる。祖母が死んでからの、鈴菜の習慣。
両親はあんなだが、いつも優しかった祖母には鈴菜もよく懐いていた。
と言うより、共働きでいつも忙しく家を空けていた両親のかわりに、祖母は殆ど一人で鈴菜を育てていたというだけの話だが。
だからこそ、祖母が亡くなった途端にまるで手のひらを返すように、仕事を減らし急に母親面をし始めた母親や、休日に家族で外出や旅行を計画する父親に反発したのだろう。
車の中に居るときから何やら色々と話しかけて来た母親を徹底無視して、とにかく“自室”に向かう。
鈴菜の家は大金市の東にある樫場町の住宅地の一角。
俺が住んでいたアパートからも結構近い。実際ここらに来た事はないが。
二階建て4LDKの間取りは三人家族には少し広い。
両親共働きの上に母親の実家が結構な金持ちの為、こんな家が買えたのだろうが。
二年前までは父方の祖母も同居していたのだが、脳卒中で帰らぬ人となっている。
そんな基本情報をつらつらと頭に浮かべながら階段を上り、“自室”に入る前に奥の部屋に向かう。
ドアを開けると、線香の香りが鼻をついた。
部屋には殆ど物が無く、唯一少し奥まった場所に仏壇が置いてある。
鈴菜の、祖母が生前使っていた部屋だ。
飾られた写真の中で、鈴菜の記憶と相違ない笑顔で、一人の老婆が笑っていた。
仏壇の前に座り、線香を上げる。祖母が死んでからの、鈴菜の習慣。
両親はあんなだが、いつも優しかった祖母には鈴菜もよく懐いていた。
と言うより、共働きでいつも忙しく家を空けていた両親のかわりに、祖母は殆ど一人で鈴菜を育てていたというだけの話だが。
だからこそ、祖母が亡くなった途端にまるで手のひらを返すように、仕事を減らし急に母親面をし始めた母親や、休日に家族で外出や旅行を計画する父親に反発したのだろう。
811 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:16:46.60 ID:zqiPYzc0
鈴菜はいつもここで今日あったことなどを祖母に報告するのだが、さすがに俺はそれをする気になれない。
俺は鈴菜ではないし、何より死人の裏事情の一端を知っている。
言っても届きやしないのだ。
きっと鈴菜の祖母も、とっくにあの腐れ死神が裁判所とやらに連れて行った後だろう。
祖母の部屋を出、今度こそ“自室”に向かう。
「うわ」
思わず、呆れと驚嘆の入り混じった複雑な声を上げてしまった。
クリーム色のドアの向こう。そこに広がるのは、分かってはいたが何とも殺風景な部屋。さっきまで居た祖母の部屋にも負けては居ない。
あるのはベッドと箪笥をクローゼット。そして勉強机とその上に置かれたノートパソコンくらい。
それ以外は本当に何も無い。記憶があるため間違いじゃないとは理解しているが、それでも本当にここに生活していたのかと疑問がわく程だ。
俺が生前、友人の澤田と金を出し合って借りていたアパートに比べると尚更そう感じる。
まあ、あの部屋はむしろ雑然とし過ぎていたとも言えるけど。何せ男二人の共同生活だったからな。
そう言えば、せっかくここからも近いのだし、あの部屋にも出来るだけ早く向かう必要があるだろう。
俺の、芳田次郎の趣味の物がいっぱいある。どうにかしないと、全部澤田の物になっちまう。
通帳とかへそくりも回収しなくちゃな。財布は諦めるしかないだろう。俺の死体と一緒だろうし、だとしたら家族の手に渡っているはずだ。
可能なら、澤田の奴に俺を俺だと信じさせたくもあるな。
本当にガキの頃からの親友だしな。弱みを握って脅しでもすれば、糸口はつかめるだろう。
丁度いいタネもあることだし。
そう考えながらバッグを床に投げ置き、ベッドに向かう。放り投げられたバッグが床に落ちがちゃんと音をたてたが、入っているのは化粧道具やら何やらだ。
正直、俺が気遣う気はしない。
仰向けに、ばたんと倒れこむ。
柔らかい。病院のベッドよりはいい材質を使っているみたいだ。ましてやアパートの煎餅布団なんかとは比べようも無い。
812 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:17:19.81 ID:zqiPYzc0
そのまま暫くぼんやりとする。
「……無趣味ってのも問題だよな」
暇だ。パソコンでも起動しようかと思いながら起き上がり、ふと気になることに思い当たった。
立ち上がって箪笥に向かう。少々ずぼらだった鈴菜は、自分の服やらをほとんど把握していない。
まあ、学校に友人も居ずどこかに遊びに行くことも少なかった彼女は、学校の制服のほかは着やすいのが数点あればいいと思っていたらしいが。
同感だ。俺だって、いくら今女の子になってしまったからといっても精神的女装をするのは気が進まない。
学校に行くのは仕方ないし、故に制服を着るのは避けられないだろうが、それ以上は最低限にしたいのが本音だ。
が、だからといって、女の子の服に興味が無いわけじゃない。女性と付き合うのは苦手だが、女性に興味が無いわけじゃないし、可愛い服を着た女の子は好きだ。
がらりと引き出しを引っ張れば、そこに畳まれていたのは鈴菜のイメージに合わないような可愛らしい服ばかり。
鈴菜の記憶にも、これらを着た記憶は無い。
両親が、鈴菜にプレゼントした物だったか。
少しいやな気分になったが、それだけだった。
「……よく考えりゃ、女物の服だけを、しかも自分が着るかもしれない服なんか見たって楽しいわけが無いよな」
思わず独り言をつぶやいて、引き出しを戻す。
そのまま何の気なしにすぐ下の引き出しを引き抜いて、俺は固まった。
そこにあったのは、ピンクやら黄色やら白やらの、下着の、山。
俺は全身を強張らせたまま、腕だけを動かして引き出しを戻した。
「か、考えてみれば当然だ。うん。当たり前の事だよな。だって、鈴菜は女の子なんだし。今だって――」
俺は、女物の下着を着けているのだ。
変なことじゃない。今の俺は女の子、なの、だから。
813 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:17:49.66 ID:zqiPYzc0
現状の確認と、鈴菜と言う女の子になってしまったことの驚愕、そして嫌悪感で正直そう言ったことを考えている余裕は無かった。
更に意識して考えないようにしていた。
俺だって成年男子。女体への興味は思春期の中学生ほどじゃないが人並みにある。あるが、だがすぐ手の届くところにある女体は俺の体なのだ。
なんというか、背徳感とでも言えばいいのか。澤田に言わせれば潔癖とでもなるんだろうが、これが俺の性格なのだから仕方が無い。
「……っ」
拒否感を宿した思考はそのままに、手は自然に胸と股間に伸びていた。
俺は、知っている。鈴菜は、友人の少ない内向的なこの少女は、自慰を覚えるのが早かった。
それがどれほどの気持ち良さなのかも、私は知っている。
私の記憶を持つ俺は、今もそれを明確に思い出していて――。
突然、刺すような恐怖が全身を駆け抜けた。
その正体に唐突に気がついて、
「――――だあぁああ!!」
全身の力を振り絞って、手の動きを止めた。拳を、思いっきり握り締める。
逆に言えば、それだけ必死にならなければ、手は止まってくれなかったろう。
「俺は、俺だ」
自分に言い聞かせるように呟く。心の中では叫んでいた。芳田次郎。水城鈴菜として生まれ変わったが、俺は芳田次郎なんだ!
814 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:18:20.84 ID:zqiPYzc0
「はぁ、はぁ」
別人の記憶が丸々頭の中にあると言う事は、こういう事なのか。
うすうす感づいてはいたとは言え、これは、俺が鈴菜に染まるとか言うレベルじゃない。
一週間。病院に入院している間にも、何か漠然と恐怖を感じることがあった。例えば、着替えているとき。初めて今の自分の身体を隅々まで見た時や、看護師さんに身体を拭いてもらっている時。傷が塞がって、ようやくシャワーを浴びる許可を貰って入った時など。
あくまで漠然とした不安。その時は、それが何だかなんて分かって居なかった。
だが、もう分かってしまっている。
これは……、これは俺の記憶と鈴菜の記憶が混じりあおうとしてやがるんだ。
「冗談じゃ、ない」
そんなことになったら、俺は俺じゃなくなってしまう。
芳田次郎という人間が、この世から消えて無くなってしまう。
そこに残るのは、かつて芳田次郎であった水城鈴菜という新しい人間だけ。
「……俺は、俺だ……」
酷く、頭痛がする。圧迫されるような痛み。
とある違和感を思い浮かべる度に、それは強くなっている気がする。
二人分の記憶が脳内で鬩ぎあうのが、物理的な痛みをもたらすのか。
いっそ混じりあってしまえば楽なのかも知れない。
でも怖かった。
あの死神に、初めて相対した時にだってこれほどの恐怖は味わってはいない。
自分の心が、存在が、完全に別人へと変わってしまう。それこそ、真の死と呼べるのではないだろうか。
815 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:18:51.32 ID:zqiPYzc0
俺も、鈴菜も人間だ。
人の心ってのは以外に柔軟で、誰でも共通する何かを持っている。共感とはそういうものだ。
良心への反発。友人関係の煩わしさ。自殺したこと。苛められていたこと。クラスで孤立していたこと。その他全ての鈴菜の経験、それに付随する彼女の思考の記憶。
ある一つの事柄を除いて、俺はそれを理解できなくも無い。共感できなくも無い。
その記憶を、俺は自分の記憶の延長線上に持ってくることが出来る。制御し、自分のモノにすることが出来る。
でも。
鈴菜の“女”。それについては全く理解できない。共感出来ない。
それを理解し、共感出来るのは、俺じゃない。
その記憶に触れるたびに、俺は俺じゃ無くなっていくだろう。
避けることは出来ない。水城鈴菜は女なのだ。俺は、これから女として生きていかなくてはならないのだから。
今はまだ大丈夫だろう。だが、一年後は? 五年後は? 十年後は?
それを考えると、怖くてかたかたと身体が震えてくる。
別に下着や生理など女性特有のものでなくても、全ての思考の根本には多かれ少なかれ性差というものがあるのだ。さらに、この身体は、女だ。
あまりにも、分が悪い。
「……負けねぇぞっ」
俺は、俺であることを辞めはしない。絶対に。
いざとなったら性同一障害とでも主張して、性転換してやる。
気を抜くと弱気になりそうな心を鼓舞するかのように、俺は固い決意を込めて言葉を吐き出す。
それでも、その声はどう聞いてもか細い女の子のものでしかなかった。
俺は鈴菜ではないし、何より死人の裏事情の一端を知っている。
言っても届きやしないのだ。
きっと鈴菜の祖母も、とっくにあの腐れ死神が裁判所とやらに連れて行った後だろう。
祖母の部屋を出、今度こそ“自室”に向かう。
「うわ」
思わず、呆れと驚嘆の入り混じった複雑な声を上げてしまった。
クリーム色のドアの向こう。そこに広がるのは、分かってはいたが何とも殺風景な部屋。さっきまで居た祖母の部屋にも負けては居ない。
あるのはベッドと箪笥をクローゼット。そして勉強机とその上に置かれたノートパソコンくらい。
それ以外は本当に何も無い。記憶があるため間違いじゃないとは理解しているが、それでも本当にここに生活していたのかと疑問がわく程だ。
俺が生前、友人の澤田と金を出し合って借りていたアパートに比べると尚更そう感じる。
まあ、あの部屋はむしろ雑然とし過ぎていたとも言えるけど。何せ男二人の共同生活だったからな。
そう言えば、せっかくここからも近いのだし、あの部屋にも出来るだけ早く向かう必要があるだろう。
俺の、芳田次郎の趣味の物がいっぱいある。どうにかしないと、全部澤田の物になっちまう。
通帳とかへそくりも回収しなくちゃな。財布は諦めるしかないだろう。俺の死体と一緒だろうし、だとしたら家族の手に渡っているはずだ。
可能なら、澤田の奴に俺を俺だと信じさせたくもあるな。
本当にガキの頃からの親友だしな。弱みを握って脅しでもすれば、糸口はつかめるだろう。
丁度いいタネもあることだし。
そう考えながらバッグを床に投げ置き、ベッドに向かう。放り投げられたバッグが床に落ちがちゃんと音をたてたが、入っているのは化粧道具やら何やらだ。
正直、俺が気遣う気はしない。
仰向けに、ばたんと倒れこむ。
柔らかい。病院のベッドよりはいい材質を使っているみたいだ。ましてやアパートの煎餅布団なんかとは比べようも無い。
812 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:17:19.81 ID:zqiPYzc0
そのまま暫くぼんやりとする。
「……無趣味ってのも問題だよな」
暇だ。パソコンでも起動しようかと思いながら起き上がり、ふと気になることに思い当たった。
立ち上がって箪笥に向かう。少々ずぼらだった鈴菜は、自分の服やらをほとんど把握していない。
まあ、学校に友人も居ずどこかに遊びに行くことも少なかった彼女は、学校の制服のほかは着やすいのが数点あればいいと思っていたらしいが。
同感だ。俺だって、いくら今女の子になってしまったからといっても精神的女装をするのは気が進まない。
学校に行くのは仕方ないし、故に制服を着るのは避けられないだろうが、それ以上は最低限にしたいのが本音だ。
が、だからといって、女の子の服に興味が無いわけじゃない。女性と付き合うのは苦手だが、女性に興味が無いわけじゃないし、可愛い服を着た女の子は好きだ。
がらりと引き出しを引っ張れば、そこに畳まれていたのは鈴菜のイメージに合わないような可愛らしい服ばかり。
鈴菜の記憶にも、これらを着た記憶は無い。
両親が、鈴菜にプレゼントした物だったか。
少しいやな気分になったが、それだけだった。
「……よく考えりゃ、女物の服だけを、しかも自分が着るかもしれない服なんか見たって楽しいわけが無いよな」
思わず独り言をつぶやいて、引き出しを戻す。
そのまま何の気なしにすぐ下の引き出しを引き抜いて、俺は固まった。
そこにあったのは、ピンクやら黄色やら白やらの、下着の、山。
俺は全身を強張らせたまま、腕だけを動かして引き出しを戻した。
「か、考えてみれば当然だ。うん。当たり前の事だよな。だって、鈴菜は女の子なんだし。今だって――」
俺は、女物の下着を着けているのだ。
変なことじゃない。今の俺は女の子、なの、だから。
813 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:17:49.66 ID:zqiPYzc0
現状の確認と、鈴菜と言う女の子になってしまったことの驚愕、そして嫌悪感で正直そう言ったことを考えている余裕は無かった。
更に意識して考えないようにしていた。
俺だって成年男子。女体への興味は思春期の中学生ほどじゃないが人並みにある。あるが、だがすぐ手の届くところにある女体は俺の体なのだ。
なんというか、背徳感とでも言えばいいのか。澤田に言わせれば潔癖とでもなるんだろうが、これが俺の性格なのだから仕方が無い。
「……っ」
拒否感を宿した思考はそのままに、手は自然に胸と股間に伸びていた。
俺は、知っている。鈴菜は、友人の少ない内向的なこの少女は、自慰を覚えるのが早かった。
それがどれほどの気持ち良さなのかも、私は知っている。
私の記憶を持つ俺は、今もそれを明確に思い出していて――。
突然、刺すような恐怖が全身を駆け抜けた。
その正体に唐突に気がついて、
「――――だあぁああ!!」
全身の力を振り絞って、手の動きを止めた。拳を、思いっきり握り締める。
逆に言えば、それだけ必死にならなければ、手は止まってくれなかったろう。
「俺は、俺だ」
自分に言い聞かせるように呟く。心の中では叫んでいた。芳田次郎。水城鈴菜として生まれ変わったが、俺は芳田次郎なんだ!
814 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:18:20.84 ID:zqiPYzc0
「はぁ、はぁ」
別人の記憶が丸々頭の中にあると言う事は、こういう事なのか。
うすうす感づいてはいたとは言え、これは、俺が鈴菜に染まるとか言うレベルじゃない。
一週間。病院に入院している間にも、何か漠然と恐怖を感じることがあった。例えば、着替えているとき。初めて今の自分の身体を隅々まで見た時や、看護師さんに身体を拭いてもらっている時。傷が塞がって、ようやくシャワーを浴びる許可を貰って入った時など。
あくまで漠然とした不安。その時は、それが何だかなんて分かって居なかった。
だが、もう分かってしまっている。
これは……、これは俺の記憶と鈴菜の記憶が混じりあおうとしてやがるんだ。
「冗談じゃ、ない」
そんなことになったら、俺は俺じゃなくなってしまう。
芳田次郎という人間が、この世から消えて無くなってしまう。
そこに残るのは、かつて芳田次郎であった水城鈴菜という新しい人間だけ。
「……俺は、俺だ……」
酷く、頭痛がする。圧迫されるような痛み。
とある違和感を思い浮かべる度に、それは強くなっている気がする。
二人分の記憶が脳内で鬩ぎあうのが、物理的な痛みをもたらすのか。
いっそ混じりあってしまえば楽なのかも知れない。
でも怖かった。
あの死神に、初めて相対した時にだってこれほどの恐怖は味わってはいない。
自分の心が、存在が、完全に別人へと変わってしまう。それこそ、真の死と呼べるのではないだろうか。
815 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/18(日) 03:18:51.32 ID:zqiPYzc0
俺も、鈴菜も人間だ。
人の心ってのは以外に柔軟で、誰でも共通する何かを持っている。共感とはそういうものだ。
良心への反発。友人関係の煩わしさ。自殺したこと。苛められていたこと。クラスで孤立していたこと。その他全ての鈴菜の経験、それに付随する彼女の思考の記憶。
ある一つの事柄を除いて、俺はそれを理解できなくも無い。共感できなくも無い。
その記憶を、俺は自分の記憶の延長線上に持ってくることが出来る。制御し、自分のモノにすることが出来る。
でも。
鈴菜の“女”。それについては全く理解できない。共感出来ない。
それを理解し、共感出来るのは、俺じゃない。
その記憶に触れるたびに、俺は俺じゃ無くなっていくだろう。
避けることは出来ない。水城鈴菜は女なのだ。俺は、これから女として生きていかなくてはならないのだから。
今はまだ大丈夫だろう。だが、一年後は? 五年後は? 十年後は?
それを考えると、怖くてかたかたと身体が震えてくる。
別に下着や生理など女性特有のものでなくても、全ての思考の根本には多かれ少なかれ性差というものがあるのだ。さらに、この身体は、女だ。
あまりにも、分が悪い。
「……負けねぇぞっ」
俺は、俺であることを辞めはしない。絶対に。
いざとなったら性同一障害とでも主張して、性転換してやる。
気を抜くと弱気になりそうな心を鼓舞するかのように、俺は固い決意を込めて言葉を吐き出す。
それでも、その声はどう聞いてもか細い女の子のものでしかなかった。