ドッドッドッ!
大きな音を立てて、黒色のRZが走り出す。
徐々にフェードアウトしていくその音が完全に聞こえなくなるまで待って、俺は隠れていた物陰から身体を出した。
「あの野郎……、早速人のバイクを使いやがって」
思わず、まだ微妙にむず痒さの残る左手首を包帯の上から摩りつつそう毒づいていた。
はっと思って周囲を見渡す。
休日だがもともと町の雑踏から少し離れた位置にあり、更に朝の9時半という中途半端な時間のせいか周囲に人影は少なく、幸いにも俺の呟きに気づいたものはいないらしかった。
ふう、と息をつく。
何だか、この身体になってから独り言が増えているな。
この外見で、俺の地の口調が出てしまう独り言を聞かれるのはちとまずい気がするし、俺の今のこの特殊な状況を差っ引いたって、独り言を聞かれるのを好む人間は居ないだろう。
因みに人と話す時には、と言ってもまだこうなってから数人としか話していないが、俺は鈴菜の口調で話すことにしている。
生き返り先の身体が女だと分かる前はだんだんと地を出していこうと考えてはいたが、もうそれは適わない。
俺はこれからずっと鈴菜の口調、最悪でもこの外見からよほど不自然さを与えない程度の口調を強いられるのだ。
「っくそ、あの腐れ……っと」
犬の散歩らしいおばさんが歩道を歩きながらこちらを眺めていることに気づき、慌ててまた自然に出ていた独り言を打ち切る。
「……?」
不審そうに俺を見つめるおばさんに軽くお辞儀をしてなるべく自然な所作で目的地へと歩き始めると、向こうもわざわざ見知らぬ少女に声をかける程のおせっかいさも無いのか、視線を外して通り過ぎていった。
「はぁ……」
ため息を吐いて、もう一度周囲を見渡す。
自意識過剰なのは分かっては居るが、どうしても今の俺がこれからしようとしていることを他人に見られるのに抵抗がある。
別に疚しいことをしている気持ちなんてさらさら無い。
なのに何故、かって知ったるこの辺りを歩くのにこんな指名手配犯の如くびくびくしなくてはならんのか。
どこにぶつけたらいいか判らない憤りをとりあえず心の中で腐れ死神にぶつけ、俺は目の前のアパートの敷地内に足を踏み入れた。
834 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:32:35.72 ID:lRITagc0
大きな音を立てて、黒色のRZが走り出す。
徐々にフェードアウトしていくその音が完全に聞こえなくなるまで待って、俺は隠れていた物陰から身体を出した。
「あの野郎……、早速人のバイクを使いやがって」
思わず、まだ微妙にむず痒さの残る左手首を包帯の上から摩りつつそう毒づいていた。
はっと思って周囲を見渡す。
休日だがもともと町の雑踏から少し離れた位置にあり、更に朝の9時半という中途半端な時間のせいか周囲に人影は少なく、幸いにも俺の呟きに気づいたものはいないらしかった。
ふう、と息をつく。
何だか、この身体になってから独り言が増えているな。
この外見で、俺の地の口調が出てしまう独り言を聞かれるのはちとまずい気がするし、俺の今のこの特殊な状況を差っ引いたって、独り言を聞かれるのを好む人間は居ないだろう。
因みに人と話す時には、と言ってもまだこうなってから数人としか話していないが、俺は鈴菜の口調で話すことにしている。
生き返り先の身体が女だと分かる前はだんだんと地を出していこうと考えてはいたが、もうそれは適わない。
俺はこれからずっと鈴菜の口調、最悪でもこの外見からよほど不自然さを与えない程度の口調を強いられるのだ。
「っくそ、あの腐れ……っと」
犬の散歩らしいおばさんが歩道を歩きながらこちらを眺めていることに気づき、慌ててまた自然に出ていた独り言を打ち切る。
「……?」
不審そうに俺を見つめるおばさんに軽くお辞儀をしてなるべく自然な所作で目的地へと歩き始めると、向こうもわざわざ見知らぬ少女に声をかける程のおせっかいさも無いのか、視線を外して通り過ぎていった。
「はぁ……」
ため息を吐いて、もう一度周囲を見渡す。
自意識過剰なのは分かっては居るが、どうしても今の俺がこれからしようとしていることを他人に見られるのに抵抗がある。
別に疚しいことをしている気持ちなんてさらさら無い。
なのに何故、かって知ったるこの辺りを歩くのにこんな指名手配犯の如くびくびくしなくてはならんのか。
どこにぶつけたらいいか判らない憤りをとりあえず心の中で腐れ死神にぶつけ、俺は目の前のアパートの敷地内に足を踏み入れた。
834 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:32:35.72 ID:lRITagc0
大金市初井町、大金街道から西に少し外れた所に、俺が少し前まで住んでいたアパートはあった。
築13年、三階建て。1LDKの風呂トイレ付きで8万円は学生には結構きついランクだったが、友人の澤田と二人暮しだったため何とかなっていた。
俺が死んだために澤田はこれから家賃の全額を払わなければいけない身となったが、どうするんだろう。
あいつも実家はかなり金持ちだし仕送りも結構貰っていた筈だから、大丈夫か。それとももう少し安いところに引越しするのだろうか。
俺が死んでからもう一週間も経ってるのにまだここに住み続けている上、暢気に休日の習慣に繰り出しているところから見ても、まあ前者だと思うが。
建物に入ってすぐの場所にある集合郵便受けの前に立ち、少し息をつく。
結構疲れるな。
運動なんて学校の体育でしかしない上それだってお世辞にもまじめに授業を受けていなかった鈴菜の体力は、はっきり言って下の下だ。
たかだか一キロも離れていないこの場所まで歩いただけだってのに、なんだかデニムのパンツに包まれたふくらはぎが張ってきた気がする。
軽く舌打ちをして、俺が住んでいた302号室の郵便受けにかけられた番号錠に手を伸ばす。
かなり、いや相当にずぼらな性格をしていた澤田はしょっちゅう部屋の鍵を忘れる癖があった。
俺と一緒に行動をしていたり俺が部屋にいる時はいいんだが、何せあいつと俺はいくら大学が同じでも学部が違う。
しょっちゅう閉め出されていた。
柄でもないオートロックは澤田のずぼら対策だったんだが、そういう意味では裏目に出た。まあ、鍵をかけ忘れたままにするよりはマシだと思うけど。
そのため苦肉の策として、家を出るときに俺は合鍵を郵便受けに入れる事にしていたのだ。
正直毎度毎度あいつが家を出るときに、女相手でもないのに鍵を持ったかどうか聞くのに嫌気が差していたというのもあるんだが。
「おし、入ってるな」
さすがに俺が死んで一週間ちょっとじゃあポカはしなかったか。一月にいっぺん位の頻度だったしな。
しっかり入っていた合鍵を回収して番号錠を戻す。
そして、俺は自宅に向かうために階段を登り始めた。
一応見知らぬ女の子が大学生の男二人が住んでいた部屋に入って行くように見えるという客観的事実を承知していた俺は、誰にも見られぬようかなり慎重に足を進める。
そして、部屋の前に立つと改めて周囲を見渡し、誰も見ていないことを確認して急いで鍵を開けて部屋に飛び込んだ。
気分はまるで泥棒か何かだ。
835 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:33:23.07 ID:lRITagc0
「ただいまっと」
懐かしき我が家へ一週間ぶりの帰宅だ。
「ん?」
そこで俺は違和感に気づいた。何かいやに片付いている。それが俺の物がまとめられているということにはすぐに気づいた。
澤田にこんな甲斐性はない。これは……。
「姫香か」
澤田の妹である澤田姫香。これまでもちょくちょく来ては掃除やら洗濯をしに来てくれていたあいつと血が繋がっているとは思えないほどにいい子だ。
おそらく昨日ぐらいに掃除に来たのだろう。
「澤田のやつ戦々兢々だったろうな」
あいつは自分の趣味を妹に知られないようかなり気を使っている。
ま、だからこそ、種になるわけだが。
さて。
細かい持ち物は全部部屋の隅のダンボールの中に収められていた。俺の実家にでも送るつもりだったんだろうか。
そこから、とりあえず通帳や印鑑を取り出す。一応、目的の半分はこれで果たした。
あとは……。
「お、これもあったか」
ふと、ダンボールの奥のほうに入っている物に目が留まった。
俺が愛用していた銘柄のタバコだ。
「うーん、まぁ、もう俺の体だしいいだろ」
少し考えてそう結論を出し、部屋の隅に転がっていた居酒屋の名前の入ったマッチに手を伸ばした。
一本取り出したタバコをくわえ、火をつけて、
「~~~~!! っげほっこほっけほっ!! 」
きついっ、頭が、喉が、むせてっ。
思わずじたばたしそうになるのを、火のついたタバコを持っているのを思い出して堪えたためか余計に苦しくなった。
「はぁはぁ、……あかんなこれは」
あわてて灰皿に押し付ける。
836 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:33:52.70 ID:lRITagc0
さすがに、初心者にいきなりショートピースはきつかったか。
いや、この体でタバコを吸うのはやめといた方がいいって事かも知れない。あれだけ好きだったタバコが、何か根本的に好きになれない気がして来る。
かつての俺を確認する、いい手段だと思ったんだが。
「とりあえず、二十歳になるまではやめておこう」
うん。それがいい。
持っていたタバコを、ちょっと考えて、勿体無いがゴミ箱に放り込む。
無駄な時間を潰したな。そろそろ、もう一つの目的を果たしに行くとするか。
時計を見る。ここからの所要時間を考えれば、少し早いがまあ頃合だろう。
ダンボールからさらに去年の手帳とデジカメを取り出す。
携帯を取り出し、手帳のアドレス欄に書かれたメールアドレスの中からとある人物のものを探して携帯のアドレス帳に打ち込んだ。
無駄な習慣だとは思っていたが、どこで役に立つか判らないものだ。永い人生、いつか役に立つ日が来るかもしれないと思ってはいたが、まさか人生一回短く終わってから役に立つ日が来るとはね。
運命の皮肉という奴に少し笑って、立ち上がる。そろそろ行くかな。
信じてるぜ、親友。
そう心の中でつぶやいて、俺は部屋から立ち去った。
837 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:34:27.59 ID:lRITagc0
築13年、三階建て。1LDKの風呂トイレ付きで8万円は学生には結構きついランクだったが、友人の澤田と二人暮しだったため何とかなっていた。
俺が死んだために澤田はこれから家賃の全額を払わなければいけない身となったが、どうするんだろう。
あいつも実家はかなり金持ちだし仕送りも結構貰っていた筈だから、大丈夫か。それとももう少し安いところに引越しするのだろうか。
俺が死んでからもう一週間も経ってるのにまだここに住み続けている上、暢気に休日の習慣に繰り出しているところから見ても、まあ前者だと思うが。
建物に入ってすぐの場所にある集合郵便受けの前に立ち、少し息をつく。
結構疲れるな。
運動なんて学校の体育でしかしない上それだってお世辞にもまじめに授業を受けていなかった鈴菜の体力は、はっきり言って下の下だ。
たかだか一キロも離れていないこの場所まで歩いただけだってのに、なんだかデニムのパンツに包まれたふくらはぎが張ってきた気がする。
軽く舌打ちをして、俺が住んでいた302号室の郵便受けにかけられた番号錠に手を伸ばす。
かなり、いや相当にずぼらな性格をしていた澤田はしょっちゅう部屋の鍵を忘れる癖があった。
俺と一緒に行動をしていたり俺が部屋にいる時はいいんだが、何せあいつと俺はいくら大学が同じでも学部が違う。
しょっちゅう閉め出されていた。
柄でもないオートロックは澤田のずぼら対策だったんだが、そういう意味では裏目に出た。まあ、鍵をかけ忘れたままにするよりはマシだと思うけど。
そのため苦肉の策として、家を出るときに俺は合鍵を郵便受けに入れる事にしていたのだ。
正直毎度毎度あいつが家を出るときに、女相手でもないのに鍵を持ったかどうか聞くのに嫌気が差していたというのもあるんだが。
「おし、入ってるな」
さすがに俺が死んで一週間ちょっとじゃあポカはしなかったか。一月にいっぺん位の頻度だったしな。
しっかり入っていた合鍵を回収して番号錠を戻す。
そして、俺は自宅に向かうために階段を登り始めた。
一応見知らぬ女の子が大学生の男二人が住んでいた部屋に入って行くように見えるという客観的事実を承知していた俺は、誰にも見られぬようかなり慎重に足を進める。
そして、部屋の前に立つと改めて周囲を見渡し、誰も見ていないことを確認して急いで鍵を開けて部屋に飛び込んだ。
気分はまるで泥棒か何かだ。
835 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:33:23.07 ID:lRITagc0
「ただいまっと」
懐かしき我が家へ一週間ぶりの帰宅だ。
「ん?」
そこで俺は違和感に気づいた。何かいやに片付いている。それが俺の物がまとめられているということにはすぐに気づいた。
澤田にこんな甲斐性はない。これは……。
「姫香か」
澤田の妹である澤田姫香。これまでもちょくちょく来ては掃除やら洗濯をしに来てくれていたあいつと血が繋がっているとは思えないほどにいい子だ。
おそらく昨日ぐらいに掃除に来たのだろう。
「澤田のやつ戦々兢々だったろうな」
あいつは自分の趣味を妹に知られないようかなり気を使っている。
ま、だからこそ、種になるわけだが。
さて。
細かい持ち物は全部部屋の隅のダンボールの中に収められていた。俺の実家にでも送るつもりだったんだろうか。
そこから、とりあえず通帳や印鑑を取り出す。一応、目的の半分はこれで果たした。
あとは……。
「お、これもあったか」
ふと、ダンボールの奥のほうに入っている物に目が留まった。
俺が愛用していた銘柄のタバコだ。
「うーん、まぁ、もう俺の体だしいいだろ」
少し考えてそう結論を出し、部屋の隅に転がっていた居酒屋の名前の入ったマッチに手を伸ばした。
一本取り出したタバコをくわえ、火をつけて、
「~~~~!! っげほっこほっけほっ!! 」
きついっ、頭が、喉が、むせてっ。
思わずじたばたしそうになるのを、火のついたタバコを持っているのを思い出して堪えたためか余計に苦しくなった。
「はぁはぁ、……あかんなこれは」
あわてて灰皿に押し付ける。
836 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:33:52.70 ID:lRITagc0
さすがに、初心者にいきなりショートピースはきつかったか。
いや、この体でタバコを吸うのはやめといた方がいいって事かも知れない。あれだけ好きだったタバコが、何か根本的に好きになれない気がして来る。
かつての俺を確認する、いい手段だと思ったんだが。
「とりあえず、二十歳になるまではやめておこう」
うん。それがいい。
持っていたタバコを、ちょっと考えて、勿体無いがゴミ箱に放り込む。
無駄な時間を潰したな。そろそろ、もう一つの目的を果たしに行くとするか。
時計を見る。ここからの所要時間を考えれば、少し早いがまあ頃合だろう。
ダンボールからさらに去年の手帳とデジカメを取り出す。
携帯を取り出し、手帳のアドレス欄に書かれたメールアドレスの中からとある人物のものを探して携帯のアドレス帳に打ち込んだ。
無駄な習慣だとは思っていたが、どこで役に立つか判らないものだ。永い人生、いつか役に立つ日が来るかもしれないと思ってはいたが、まさか人生一回短く終わってから役に立つ日が来るとはね。
運命の皮肉という奴に少し笑って、立ち上がる。そろそろ行くかな。
信じてるぜ、親友。
そう心の中でつぶやいて、俺は部屋から立ち去った。
837 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:34:27.59 ID:lRITagc0
190に届かんとする長身、道を歩けば思わず女性が振り返るほどの整った甘いマスク。幼少の頃から続けていた野球におかげか、黒いジャケットの上からでも分かるほど引き締まった肉体。
頭脳も大学では主席に後一歩及ばないほどに優秀で、将来の夢は弁護士。周囲の人間は、家族も友人も、彼ならきっと立派な弁護士になるだろうとの信頼を寄せている。
そんな勝ち組人生をまっしぐらに駆け抜ける青年、澤田治。
だが彼には、もう一つの顔があった。
「お、お帰りなさいませ。ご主人様」
休日の昼間。歩行者天国に多くの人がごった返す秋葉原にあるとある店舗。
そこに、彼の姿はあった。
黒のジャケットの下に黒のシャツ、首にはごついシルバーアクセ。ジーンズ生地のズボンにコンバットブーツを履き、おまけにグラサンをかけた姿はその長身もあいまって場違いな怖さを演出していた。
周りの人たちがどこか彼を避けるように歩くのは気のせいだろうか。
目の前の少女の声が少々震えているのもまた気のせい?
しかし彼はそんな周りの動向を気にする様子も見せずに、口を開く。
「ただいま~」
あまりに外見からは考えられないような猫なで声に、正しい言葉を返されたはずの少女はびくりと身体を震わせた。
が、やはり彼は気にしない。気にしないことに決めている。俺の事を知らないって、この子は新人かな? 始めてみる顔だし。と、そんなことを考えていた。
「で、では、ご案内しますので、こちらにどうぞ~」
「うん、よろしく」
そう言って、前を歩く少女の後ろを、てくてくとついて行く。
その、サングラスの下に隠された顔は、例えば彼を尊敬し慕う妹が見ればショックで寝込みたくなるだろう程に、やに下がっていた。
彼を先導する少女が着ているのはメイド服。彼が少女を追って入ったその店はメイド喫茶。彼の普段のファッションとはあまりに違う格好は、じつは知り合いに見られてもすぐに気づかれないための変装だ。
端的に言って、彼、澤田治は隠れオタクだった。
それも、一週間前に死んでしまった親友のほかは家族にすらばれていなかったほどの筋金入りの。
838 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:34:59.55 ID:lRITagc0
頭脳も大学では主席に後一歩及ばないほどに優秀で、将来の夢は弁護士。周囲の人間は、家族も友人も、彼ならきっと立派な弁護士になるだろうとの信頼を寄せている。
そんな勝ち組人生をまっしぐらに駆け抜ける青年、澤田治。
だが彼には、もう一つの顔があった。
「お、お帰りなさいませ。ご主人様」
休日の昼間。歩行者天国に多くの人がごった返す秋葉原にあるとある店舗。
そこに、彼の姿はあった。
黒のジャケットの下に黒のシャツ、首にはごついシルバーアクセ。ジーンズ生地のズボンにコンバットブーツを履き、おまけにグラサンをかけた姿はその長身もあいまって場違いな怖さを演出していた。
周りの人たちがどこか彼を避けるように歩くのは気のせいだろうか。
目の前の少女の声が少々震えているのもまた気のせい?
しかし彼はそんな周りの動向を気にする様子も見せずに、口を開く。
「ただいま~」
あまりに外見からは考えられないような猫なで声に、正しい言葉を返されたはずの少女はびくりと身体を震わせた。
が、やはり彼は気にしない。気にしないことに決めている。俺の事を知らないって、この子は新人かな? 始めてみる顔だし。と、そんなことを考えていた。
「で、では、ご案内しますので、こちらにどうぞ~」
「うん、よろしく」
そう言って、前を歩く少女の後ろを、てくてくとついて行く。
その、サングラスの下に隠された顔は、例えば彼を尊敬し慕う妹が見ればショックで寝込みたくなるだろう程に、やに下がっていた。
彼を先導する少女が着ているのはメイド服。彼が少女を追って入ったその店はメイド喫茶。彼の普段のファッションとはあまりに違う格好は、じつは知り合いに見られてもすぐに気づかれないための変装だ。
端的に言って、彼、澤田治は隠れオタクだった。
それも、一週間前に死んでしまった親友のほかは家族にすらばれていなかったほどの筋金入りの。
838 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:34:59.55 ID:lRITagc0
およそ二週間ぶりの来店だというのに、あまり気分が盛り上がらない。
先ほどここに来た当初は、久しぶりに目にするメイド服の少女にあれほど癒されたというのに。
その原因が分かるだけに、彼、治の内心は更に強く沈み込む。
「どうしたんですかぁ? せっかく久しぶりに来たっていうのに~」
この店の中では自分的に一番かわいいメイドであるサヤの声に、治はうん、と生返事を返しながら食後のコーヒーを口に運ぶ。
治にとって、毎週の日曜にこのメイド喫茶に来て昼食を取り、そして食後に満ち足りた気分に浸りながらメイドさんとおしゃべりをすることは殆ど習慣のようなものだった。
実家からの仕送りを潤沢に貰っている治は、バイト代の殆どを遊行費に当てることが出来る。
それを店に来るたびに惜しげもなく使い、更に去年からの常連でもあるために、彼はこうしてそれほど店が込み合っていない時間ならば可愛いメイドさんとおしゃべりを楽しむことが出来る。
その周りの客から見れば非常に羨ましい状況を自覚しつつも、彼の沈んだ心はサヤとのおしゃべりを楽しむ気持ちになれない。
「本当に~、変ですよぉ? 今日のご主人様は」
「そうかな」
「そうですっ」
それでも、サヤの優しい言葉は落ち込んだ治の心に染み渡った。
こんな優しい女の子に自分を気にしてもらって、それでもそれを無視して悲劇のヒーローを気取るのはへたれのすることだ。
少々エロゲに毒された脳内でそんなことを考える。
ここは、自分の内心を打ち明けるべきだろうか。そうして、慰めてもらうべきなんだろうか。いや、そうするべきだ。きっと、あいつだって俺がこんなうち沈んだ心のままで居るよりは早く立ち直ったほうがいいと思うはずだ。妹の姫香だって、この前うちのアパートに来たときにそんなことを言っていた。
「なあ、サヤちゃん。ちょっと、暗くなるような話をしてもいいかな」
「え? いいですけど……」
店内は、外からは見えない造りになっている。その為彼はサングラスを外していた。
例え知り合いに見つかっても、店内で出会ったならばきっと同好の士になれるだろうという思惑も働いた結果だ。
その、切れ長の瞳でサヤを見つめると、サヤは少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
この子ならきっと自分を癒してくれる。そんな根拠のない確信が心に浮かぶ。
「その、さ。先週、俺ここに来なかったよね。それってさ、子供の頃からの、本当に餓鬼の頃からの親友が……」
839 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:35:37.83 ID:lRITagc0
そしてそんな優しいメイドであるサヤに、先週起こった彼を酷く落ち込ませる要因となった事件のことを話そうとして。
「お帰りなさいませ、お嬢様! って、あの、ちょっと……!」
何が、と考える余裕も無かった。
パシャリとシャッターの切られる音と共に、フラッシュの閃光が彼の目を焼いた。
「んな……?」
一瞬、きかなくなった視界が戻る。
そこに居たのは、メイド服では無く普通の私服を着た少女。
白のブラウスに黒のショートベスト。下はスキニーデニム。髪は短すぎるほどにカットされたストレートショート。
ボーイッシュな服装で顔立ちも髪がかなり短いことも相まって中性的に見えるが普通に、いや相当に可愛い女の子だ。
ことメイド喫茶内において治にはメイド服以外の女の子に価値は見出さないが。
それよりも問題なのが一点。
彼女は右手にデジカメを持っていて、それで今、治を撮ったということだ。
自分の今の状況を思い出す。
4人用のテーブル席に座り、左手には寄り添うようにサヤが座ってる。いや、重要なのはサヤがメイド服だということだ。
そして今彼は彼にとって大事な話をする為に、サヤを正面にするように身体を左に向けている。
「…………」
例えば、治は想像したことがあった。
もし、メイド服に通いつめている自分を知り合いに見られたら? もし、写真を撮られてそれを種に脅されたら?
そんな、ありえてはいけない最悪の想像が、今現実となって襲い掛かっている気がした。
「お客様っ! 困ります、店内での撮影行為等は禁止させていただいています!」
呆然とする治を尻目に、状況は動く。
少女を追うように現れたメイドが詰め寄り、捲くし立てられた少女は少し戸惑ったようだった。
「え? 撮影禁止って……、そうなの?」
「そうなんですっ。そこにきちんと書かれているでしょうっ!」
メイドが壁に張られた注意書きを指差し、それを追った少女の目が軽く見開かれる。
840 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:36:16.48 ID:lRITagc0
「あー、ホントだ。悪い、知らなかった」
とはいえ言葉と裏腹に少女の態度には悪びれた様子は無い。
そのことが気に入らなかったのか、サヤもまた少女に対してきつい目をくれ始めた。
だが少女は気にせずに、
「えーと、何々? 『そのような行為をなさったお客様に関しては、ご退店頂く場合がございます』。なるほど。それじゃあ帰るよ」
そう言って、一瞬のためらいも見せずにそのまま店を出て行った。
残されたのは、少々ざわめいた店内だけ。
「な、なんだったんでしょう?」
サヤが呆けたような声を上げるが、治に分かるはずも無い。
だが、写真は撮られた。それも、治にとっては最悪の写真を。
あっさりと帰った少女の様子から見るに、初めからそのつもりで、治の写真を撮ることだけが目的でこの店に来たのだろうか。
そのことに思い当たり、すっと胸の中を恐怖心が浸透した。
いや、大丈夫だ。見たことも無い女の子だった。彼女に写真を撮られたからといって、別になんでもない。そもそも向こうだってこちらを知っているはずが無いんだから。俺がこのメイド喫茶に通いつめていることは、今は死んだ親友を除けば家族だって知らないんだぞ? だから大丈夫なはずだ。
そう、治は自分に言い聞かせるが、心は晴れない。
「それで、さっき言いかけていたお話はなんだったんですかぁ?」
いつの間にか店内のざわめきは落ち着いて、サヤもまた先ほどの出来事なんか無かったかのように治に構い始めた。
それでも、先ほど少女に撮られた写真のことが気になって、治は結局サヤに慰めてもらうことが出来なかった。
841 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:36:52.38 ID:lRITagc0
先ほどここに来た当初は、久しぶりに目にするメイド服の少女にあれほど癒されたというのに。
その原因が分かるだけに、彼、治の内心は更に強く沈み込む。
「どうしたんですかぁ? せっかく久しぶりに来たっていうのに~」
この店の中では自分的に一番かわいいメイドであるサヤの声に、治はうん、と生返事を返しながら食後のコーヒーを口に運ぶ。
治にとって、毎週の日曜にこのメイド喫茶に来て昼食を取り、そして食後に満ち足りた気分に浸りながらメイドさんとおしゃべりをすることは殆ど習慣のようなものだった。
実家からの仕送りを潤沢に貰っている治は、バイト代の殆どを遊行費に当てることが出来る。
それを店に来るたびに惜しげもなく使い、更に去年からの常連でもあるために、彼はこうしてそれほど店が込み合っていない時間ならば可愛いメイドさんとおしゃべりを楽しむことが出来る。
その周りの客から見れば非常に羨ましい状況を自覚しつつも、彼の沈んだ心はサヤとのおしゃべりを楽しむ気持ちになれない。
「本当に~、変ですよぉ? 今日のご主人様は」
「そうかな」
「そうですっ」
それでも、サヤの優しい言葉は落ち込んだ治の心に染み渡った。
こんな優しい女の子に自分を気にしてもらって、それでもそれを無視して悲劇のヒーローを気取るのはへたれのすることだ。
少々エロゲに毒された脳内でそんなことを考える。
ここは、自分の内心を打ち明けるべきだろうか。そうして、慰めてもらうべきなんだろうか。いや、そうするべきだ。きっと、あいつだって俺がこんなうち沈んだ心のままで居るよりは早く立ち直ったほうがいいと思うはずだ。妹の姫香だって、この前うちのアパートに来たときにそんなことを言っていた。
「なあ、サヤちゃん。ちょっと、暗くなるような話をしてもいいかな」
「え? いいですけど……」
店内は、外からは見えない造りになっている。その為彼はサングラスを外していた。
例え知り合いに見つかっても、店内で出会ったならばきっと同好の士になれるだろうという思惑も働いた結果だ。
その、切れ長の瞳でサヤを見つめると、サヤは少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
この子ならきっと自分を癒してくれる。そんな根拠のない確信が心に浮かぶ。
「その、さ。先週、俺ここに来なかったよね。それってさ、子供の頃からの、本当に餓鬼の頃からの親友が……」
839 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:35:37.83 ID:lRITagc0
そしてそんな優しいメイドであるサヤに、先週起こった彼を酷く落ち込ませる要因となった事件のことを話そうとして。
「お帰りなさいませ、お嬢様! って、あの、ちょっと……!」
何が、と考える余裕も無かった。
パシャリとシャッターの切られる音と共に、フラッシュの閃光が彼の目を焼いた。
「んな……?」
一瞬、きかなくなった視界が戻る。
そこに居たのは、メイド服では無く普通の私服を着た少女。
白のブラウスに黒のショートベスト。下はスキニーデニム。髪は短すぎるほどにカットされたストレートショート。
ボーイッシュな服装で顔立ちも髪がかなり短いことも相まって中性的に見えるが普通に、いや相当に可愛い女の子だ。
ことメイド喫茶内において治にはメイド服以外の女の子に価値は見出さないが。
それよりも問題なのが一点。
彼女は右手にデジカメを持っていて、それで今、治を撮ったということだ。
自分の今の状況を思い出す。
4人用のテーブル席に座り、左手には寄り添うようにサヤが座ってる。いや、重要なのはサヤがメイド服だということだ。
そして今彼は彼にとって大事な話をする為に、サヤを正面にするように身体を左に向けている。
「…………」
例えば、治は想像したことがあった。
もし、メイド服に通いつめている自分を知り合いに見られたら? もし、写真を撮られてそれを種に脅されたら?
そんな、ありえてはいけない最悪の想像が、今現実となって襲い掛かっている気がした。
「お客様っ! 困ります、店内での撮影行為等は禁止させていただいています!」
呆然とする治を尻目に、状況は動く。
少女を追うように現れたメイドが詰め寄り、捲くし立てられた少女は少し戸惑ったようだった。
「え? 撮影禁止って……、そうなの?」
「そうなんですっ。そこにきちんと書かれているでしょうっ!」
メイドが壁に張られた注意書きを指差し、それを追った少女の目が軽く見開かれる。
840 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:36:16.48 ID:lRITagc0
「あー、ホントだ。悪い、知らなかった」
とはいえ言葉と裏腹に少女の態度には悪びれた様子は無い。
そのことが気に入らなかったのか、サヤもまた少女に対してきつい目をくれ始めた。
だが少女は気にせずに、
「えーと、何々? 『そのような行為をなさったお客様に関しては、ご退店頂く場合がございます』。なるほど。それじゃあ帰るよ」
そう言って、一瞬のためらいも見せずにそのまま店を出て行った。
残されたのは、少々ざわめいた店内だけ。
「な、なんだったんでしょう?」
サヤが呆けたような声を上げるが、治に分かるはずも無い。
だが、写真は撮られた。それも、治にとっては最悪の写真を。
あっさりと帰った少女の様子から見るに、初めからそのつもりで、治の写真を撮ることだけが目的でこの店に来たのだろうか。
そのことに思い当たり、すっと胸の中を恐怖心が浸透した。
いや、大丈夫だ。見たことも無い女の子だった。彼女に写真を撮られたからといって、別になんでもない。そもそも向こうだってこちらを知っているはずが無いんだから。俺がこのメイド喫茶に通いつめていることは、今は死んだ親友を除けば家族だって知らないんだぞ? だから大丈夫なはずだ。
そう、治は自分に言い聞かせるが、心は晴れない。
「それで、さっき言いかけていたお話はなんだったんですかぁ?」
いつの間にか店内のざわめきは落ち着いて、サヤもまた先ほどの出来事なんか無かったかのように治に構い始めた。
それでも、先ほど少女に撮られた写真のことが気になって、治は結局サヤに慰めてもらうことが出来なかった。
841 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:36:52.38 ID:lRITagc0
ため息を吐きながら店を出る。
後ろ手に聞こえる「いってらっしゃいませ~」という声も、本当なら明日から一週間大学生活を行うための活力になる筈だというのに、一向に治の心には響かなかった。
先ほど撮られた写真の事が頭を離れない。腹が痛くなるほどの不安に押しつぶされそうになる。
癒されに来たというのに、ここに来る前よりも最悪の気分だった。
筋違いと分かっていても、メイド喫茶に恨みを抱かずに居られない。
いや、メイド喫茶に罪は無いだろうと、慌てて治は首を振る。恨むべきは間抜けな自分……でもない。そうだ、あの少女が全部いけないんじゃないか。あいつのおかげで俺はこんな気分にならなくちゃ行けなかったんだ。
不安がそのまま怒りへと摩り替わる。
いつもならこの後エロゲショップ等を冷やかしに行くのだが、さすがに今の治はそんな気にはなれなかった。
今日はもう帰ろう。そう決め、サングラスのブリッジを押し上げて荒々しく雑踏の中を歩き出そうとして、
「やっと出てきたか。何時間待たすつもりだよ?」
後ろからかけられた声に、ぎくりと足を止めた。
こわばる身体で、それでも無理やりに振り向いて、予想通りの光景に声を失う。
「こんにちは、澤田治さん」
そこに立っていたのは、先ほど店内で彼の撮られたくない写真を撮った少女。右手には先ほどと違って携帯が握られていて、左手は後ろ手に何かを隠している。そう言えば先ほども治は良く見てはいなかったが同じような体勢だった気がした。
いや、今気にするべきは少女が言った言葉だ。
「な、なんで、俺の名前……」
先ほどまでの怒りなど、あっという間に霧消した。
ただ、自分の名前を知っている少女への恐怖心が治の心を満たす。
「さっきの写真、よく撮れてましたよ? ほら」
少女が携帯を突き出す。SDカードか何かで移したのだろうか、携帯の画面には、はっきりとさっき撮られた写真が写っていた。
メイド服の少女に向かって、真剣な表情で何かを喋っている自分。
「……なんのつもりだ」
強く言ったつもりだったが、かなり情けない声になってしまう。
842 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:39:24.75 ID:lRITagc0
自分を知っている少女に、こんな写真を撮られた。
絶望的な心境だ。
だが、続いて喋った少女の言葉は、更に治を絶望のどん底に落とし込むものだった。
「××××××@××.ne.jp」
「え……?」
「そこにこれ、送ったとしたらどうなるんでしょう?」
携帯を見ながら呟く。
彼女が今言ったメルアドは、治の良く知るものだった。
「あ、言い忘れてましたけど、私、姫香さんとはクラスメートなんですよね」
「う……ぁ」
自分がオタクであることを知られたくない面子の中でも、一番知られたくない妹の名前。
それが少女の口から出た時点で、治は抵抗する気力も失ってしまった。
「何が望みだ……」
吐き出すように言う。少女はその言葉を待っていたとばかりににやりと笑って、口を開いた。
「とりあえず、澤田さんのお部屋に行きましょうか?」
そう言って、隠していた左手を突き出す。そこに持っていたのは、ヘルメットだった。
「澤田さん二輪免許を取ってから先月で一年経ってますよね、なら二人乗りも問題ないですし」
「…………うぅ」
何でそんなことまで知っているのか。聞きたかったが、聞けない。
ただ頷きながら、治は自分の胸の高さまでしかない少女に、底知れぬ恐怖を感じていた。
843 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:39:59.41 ID:lRITagc0
後ろ手に聞こえる「いってらっしゃいませ~」という声も、本当なら明日から一週間大学生活を行うための活力になる筈だというのに、一向に治の心には響かなかった。
先ほど撮られた写真の事が頭を離れない。腹が痛くなるほどの不安に押しつぶされそうになる。
癒されに来たというのに、ここに来る前よりも最悪の気分だった。
筋違いと分かっていても、メイド喫茶に恨みを抱かずに居られない。
いや、メイド喫茶に罪は無いだろうと、慌てて治は首を振る。恨むべきは間抜けな自分……でもない。そうだ、あの少女が全部いけないんじゃないか。あいつのおかげで俺はこんな気分にならなくちゃ行けなかったんだ。
不安がそのまま怒りへと摩り替わる。
いつもならこの後エロゲショップ等を冷やかしに行くのだが、さすがに今の治はそんな気にはなれなかった。
今日はもう帰ろう。そう決め、サングラスのブリッジを押し上げて荒々しく雑踏の中を歩き出そうとして、
「やっと出てきたか。何時間待たすつもりだよ?」
後ろからかけられた声に、ぎくりと足を止めた。
こわばる身体で、それでも無理やりに振り向いて、予想通りの光景に声を失う。
「こんにちは、澤田治さん」
そこに立っていたのは、先ほど店内で彼の撮られたくない写真を撮った少女。右手には先ほどと違って携帯が握られていて、左手は後ろ手に何かを隠している。そう言えば先ほども治は良く見てはいなかったが同じような体勢だった気がした。
いや、今気にするべきは少女が言った言葉だ。
「な、なんで、俺の名前……」
先ほどまでの怒りなど、あっという間に霧消した。
ただ、自分の名前を知っている少女への恐怖心が治の心を満たす。
「さっきの写真、よく撮れてましたよ? ほら」
少女が携帯を突き出す。SDカードか何かで移したのだろうか、携帯の画面には、はっきりとさっき撮られた写真が写っていた。
メイド服の少女に向かって、真剣な表情で何かを喋っている自分。
「……なんのつもりだ」
強く言ったつもりだったが、かなり情けない声になってしまう。
842 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:39:24.75 ID:lRITagc0
自分を知っている少女に、こんな写真を撮られた。
絶望的な心境だ。
だが、続いて喋った少女の言葉は、更に治を絶望のどん底に落とし込むものだった。
「××××××@××.ne.jp」
「え……?」
「そこにこれ、送ったとしたらどうなるんでしょう?」
携帯を見ながら呟く。
彼女が今言ったメルアドは、治の良く知るものだった。
「あ、言い忘れてましたけど、私、姫香さんとはクラスメートなんですよね」
「う……ぁ」
自分がオタクであることを知られたくない面子の中でも、一番知られたくない妹の名前。
それが少女の口から出た時点で、治は抵抗する気力も失ってしまった。
「何が望みだ……」
吐き出すように言う。少女はその言葉を待っていたとばかりににやりと笑って、口を開いた。
「とりあえず、澤田さんのお部屋に行きましょうか?」
そう言って、隠していた左手を突き出す。そこに持っていたのは、ヘルメットだった。
「澤田さん二輪免許を取ってから先月で一年経ってますよね、なら二人乗りも問題ないですし」
「…………うぅ」
何でそんなことまで知っているのか。聞きたかったが、聞けない。
ただ頷きながら、治は自分の胸の高さまでしかない少女に、底知れぬ恐怖を感じていた。
843 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:39:59.41 ID:lRITagc0
いくらなんでも、びびらせ過ぎただろうか。
がちがちに緊張した様子の澤田を見て、少しそう思う。
ま、人のバイクを勝手に使った罰だと思え。これ手に入れるために俺はどれだけバイトをしたと思っているんだ。
そう思いながら、バイクを降りてメットを脱ぐ。続いて、澤田もあからさまにぎこちなくバイクを降りた。
と思ったらこちらを見てびくりと固まった。
なんだ?
澤田の視線を追う。俺の左手、バイクに乗っていたためか少しめくれて、真新しい包帯が見えていた。
……あー、そりゃ驚くか。
「すいません驚かして、これ、この前転んだときに切っちゃって。私ってドジなんです」
「そ、そ、そう、なん、だ……」
意図せず更にびびらせてしまった。
怖がるのも無理ないけどな。今の俺、というか鈴菜って正真正銘のメンヘラだったし。
そんな女に自分の事を色々と知られていて、更に脅されている、と。
向こうからしたら下手なホラーより怖いだろ。うん。俺でも同じ状況になったらびびるわ。
844 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:40:36.34 ID:lRITagc0
「早く行きましょう。案内してくださいよ」
「わ、分かった」
がくがくと頷いて、逃げるように歩き始める。
……さすがに可愛そうになってきたな。これ以上びびらすのは止めておこう。
黙ってついていく。
敷地に入り、階段を上り、今朝にも来た部屋へ。
「あ、あれ?」
だが、澤田は部屋の前に立ってごそごそとポケットの中をやっているだけで入ろうとしない。
というかこいつまさか。
「どうしたんですか」
「いや、部屋の鍵を忘れたみたいだ。い、いや、本当に!」
呆れの目つきが、どうやら苛立ちに見えたらしい。澤田は大仰に手を振って弁解し始めた。
「そ、そうだ。郵便受けに合鍵を入れてあるんだよ。今取ってくる!」
「待って下さい」
静かに声をかけただけで、飛び上がるようにして立ち止まる。
「これ、どうぞ」
それを冷ややかに見つめつつ、俺はポッケの中に入れっぱなしだった鍵を差し出した。
「え? これって」
「合鍵ですよ? 郵便受けに入ってました」
「ひぃいいぃい!!」
自業自得だ、馬鹿野郎。
845 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:41:05.62 ID:lRITagc0
がちがちに緊張した様子の澤田を見て、少しそう思う。
ま、人のバイクを勝手に使った罰だと思え。これ手に入れるために俺はどれだけバイトをしたと思っているんだ。
そう思いながら、バイクを降りてメットを脱ぐ。続いて、澤田もあからさまにぎこちなくバイクを降りた。
と思ったらこちらを見てびくりと固まった。
なんだ?
澤田の視線を追う。俺の左手、バイクに乗っていたためか少しめくれて、真新しい包帯が見えていた。
……あー、そりゃ驚くか。
「すいません驚かして、これ、この前転んだときに切っちゃって。私ってドジなんです」
「そ、そ、そう、なん、だ……」
意図せず更にびびらせてしまった。
怖がるのも無理ないけどな。今の俺、というか鈴菜って正真正銘のメンヘラだったし。
そんな女に自分の事を色々と知られていて、更に脅されている、と。
向こうからしたら下手なホラーより怖いだろ。うん。俺でも同じ状況になったらびびるわ。
844 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:40:36.34 ID:lRITagc0
「早く行きましょう。案内してくださいよ」
「わ、分かった」
がくがくと頷いて、逃げるように歩き始める。
……さすがに可愛そうになってきたな。これ以上びびらすのは止めておこう。
黙ってついていく。
敷地に入り、階段を上り、今朝にも来た部屋へ。
「あ、あれ?」
だが、澤田は部屋の前に立ってごそごそとポケットの中をやっているだけで入ろうとしない。
というかこいつまさか。
「どうしたんですか」
「いや、部屋の鍵を忘れたみたいだ。い、いや、本当に!」
呆れの目つきが、どうやら苛立ちに見えたらしい。澤田は大仰に手を振って弁解し始めた。
「そ、そうだ。郵便受けに合鍵を入れてあるんだよ。今取ってくる!」
「待って下さい」
静かに声をかけただけで、飛び上がるようにして立ち止まる。
「これ、どうぞ」
それを冷ややかに見つめつつ、俺はポッケの中に入れっぱなしだった鍵を差し出した。
「え? これって」
「合鍵ですよ? 郵便受けに入ってました」
「ひぃいいぃい!!」
自業自得だ、馬鹿野郎。
845 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:41:05.62 ID:lRITagc0
部屋に入って、澤田は少し落ち着いたようだった。
ま、こいつにとってはホームグラウンドに帰ってきたようなものだし、当然だろう。
俺にとってもホームである訳だけどな。
「飲み物は要りません。のど、かわいてないですし」
真っ先にキッチンに向かおうとした澤田を止める。
「わ、分かった。そこに座ってくれ。これ、座布団」
姫香が片付けに来たからだろうか、少し片付いているリビングに入り、受け取った座布団を敷いてその上に座る。
澤田は、正面に座った。
「それじゃ、話を聞こうか。何が望みだ?」
落ち着いたと同時に、肝も据わったらしい。もともと、脅しに屈するような奴じゃないのだ。
ここで金でも求めようものなら、断固として断るだろう。さらに、恐喝の現行犯で警察に突き出されかねない。
ま、そんなつもりさらさらないが。
「別に大した要求をするつもりじゃない。一つだけ、信じてほしい事があるだけだ」
「何だって?」
急変した口調と、おそらく予想もしていなかった言葉に、またペースを乱されたのか澤田は戸惑ったように聞き返してくる。
ごくり、と唾を飲み込む。さすがに緊張してきた。不安が、俺の心を蝕み始める。
信じてるぜ、親友。
そう心の中で呟いて、口を開く。
「俺は、芳田次郎だ」
「………………は?」
846 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:41:38.27 ID:lRITagc0
ま、こいつにとってはホームグラウンドに帰ってきたようなものだし、当然だろう。
俺にとってもホームである訳だけどな。
「飲み物は要りません。のど、かわいてないですし」
真っ先にキッチンに向かおうとした澤田を止める。
「わ、分かった。そこに座ってくれ。これ、座布団」
姫香が片付けに来たからだろうか、少し片付いているリビングに入り、受け取った座布団を敷いてその上に座る。
澤田は、正面に座った。
「それじゃ、話を聞こうか。何が望みだ?」
落ち着いたと同時に、肝も据わったらしい。もともと、脅しに屈するような奴じゃないのだ。
ここで金でも求めようものなら、断固として断るだろう。さらに、恐喝の現行犯で警察に突き出されかねない。
ま、そんなつもりさらさらないが。
「別に大した要求をするつもりじゃない。一つだけ、信じてほしい事があるだけだ」
「何だって?」
急変した口調と、おそらく予想もしていなかった言葉に、またペースを乱されたのか澤田は戸惑ったように聞き返してくる。
ごくり、と唾を飲み込む。さすがに緊張してきた。不安が、俺の心を蝕み始める。
信じてるぜ、親友。
そう心の中で呟いて、口を開く。
「俺は、芳田次郎だ」
「………………は?」
846 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:41:38.27 ID:lRITagc0
何を言ってるんだ? この子は。
思わず、治はぱちくりと目を瞬かせた。
「信じろ。それが俺の要求だ。……質問なら受け付けるぜ?」
そう言って笑いながら携帯をちらつかせる少女に、治は心が急速に冷え込んでいくのを感じた。
「そうだね、じゃあ一つだけ」
「おう、どんと来い」
「帰ってくれないか?」
怒りを押し殺しながら言葉を吐き出す。彼女が女の子で無かったら、治はぶん殴るくらいしていたかも知れない。
自分の秘密を種に脅されることよりも、それを一番知られたくない妹に知られることよりも、得体の知れない少女に感じた恐怖よりも。
一週間前に死んだ、治の親友。それをこんな冗談みたいな話にされることに、治は激しい怒りを感じていた。
「……ぁ、はは、まさか、こうも完全に拒絶されるとは予想外だったな……」
治は怒りを押し殺したつもりだったが、充分に外に出ていたようだった。
戸惑ったように、怯えたように少女は呟いて、携帯を突き出す。
「そんな事言っていいのか。これが……」
「好きにしろ。妹にでも何でも送ればいい。だから早く帰ってくれ。……それとも警察を呼んだほうがいいかな?」
「…………治っ」
「気安く呼ぶな!!!」
一瞬、治を呼ぶ少女の姿に親友がダブった気がして、怒鳴りつけるような声になってしまう。
「……ひっ」
子供のころから野球をやっていて、ポジションはずっと変わらずキャッチャーだった治の声量はかなりのもので、それを真っ向からたたきつけられた少女は恐怖にか、肩を震わした。
安普請というわけではないそれなりの厚さの壁をも突き抜けるだろう大声を上げたことに、一瞬治の脳裏に近所迷惑の言葉が浮かぶが、今の彼にそれを気にする余裕は無い。
ほら見ろ。次郎なら俺とずっとバッテリーを組んできたんだ。俺の大声に驚くなんてあり得ない。
お前は、次郎じゃない。
そう自分に言い聞かせている。別に少女が次郎だと信じかけている訳ではなく。あり得ない希望に思わず縋りそうになる自分に活を入れるためだ。
だが、少女の怯えは一瞬で消えて、またふてぶてしい(次郎を思い起こさせるような)表情で口を開く。
847 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:42:14.52 ID:lRITagc0
「……はは、ったく、相変わらず声でかいな。覚えてるか? キャッチャーは声張り上げなきゃつとまらないってお前少年野球のコーチに言われてさ、カラオケボックスに餓鬼の頃とは言え野郎二人で初めて行ったよな」
「もうやめてくれ!!」
「あの頃のお前ってかなり華奢だったしさ、ピッチャーの俺より声出ないのにセンターまで届くような声出せるようになるのか正直疑ってたけど、中学にあがる頃には……」
最早、少女がどうしてそんなことを知っているのかも聞く気がしない。
再びもたげた恐怖は恐慌となって治の怒りに火を注いだ。
土足で、次郎の大切な思い出にずかずかと踏み込んでくる少女。
身を焦がす怒りに突き動かされて、治は立ち上がって座っていた少女の腕を掴んだ。
「痛っ、ち、何しやが……」
「出て行け!!」
折れてしまいそうなほどの華奢な感触に一瞬戸惑い、それでも治は強引に少女を立ち上がらせてどんと押した。
軽い。190に迫る長身に、だが痩せては見えないほどに筋肉もついている治にとって、少女の体は想像以上に軽かった。
自覚せず、次郎に対する時のような力を込めてしまったのか。治ほどではないとはいえ長身でがっちりと筋肉質だった次郎とは違い、少女はほとんどリビングから放り出されるような形で吹き飛ばされ、腰から落ちる。
やりすぎたという気は起きない。
痛そうに腰をさすりながらこちらを怯えたような目で見上げる少女を、次郎はただ冷ややかに見下ろしていた。
「もう一度言う。出ていけ」
大声ではなく、だがそれゆえにぞっとするほどの冷たさがこめられた声。
少女はそれを、泣き出しそうな顔で聞いていた。
「次郎はそんな顔はしない」
続けて言う。
「どこで調べたのか知らないが、本当にいい加減にして欲しいんだ。腰が抜けたんならそのまま座っていてもいいさ。警察を呼ぶから」
そう言い放って、少女に背を向けて電話へ向かう。
848 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:42:45.98 ID:lRITagc0
その時治は、ぶちりと、何かが切れるような音が聞こえた気がした。
「……おい」
そして、背中越しにかけられた、押し殺したような声。
立ち止まり、思わず振り返った。
少女の態勢は変わらない。相変わらず痛そうに腰をさすっている。
だが、表情は一変していた。先ほどの泣きそうな顔はなんだったのかと問いたくなるほどに、般若のごとく歪んでいる。
瞳は怒りに満ち満ちて、治を真っ向からにらみ付けていた。
やばい、と治は思った。あれはいつのことだったか、そう、まだ幼稚園に通っていた頃、初めて喧嘩をしたとき、彼の親友は同じ目をしていなかったか。
下らない事で怒られて、つまらないことに意地を張って、幼馴染の少年に冷たく当たってしまった時。
あの時、散々無視され蔑ろにされながらも少年は治を元気付けようとしていて、でもいい加減限界に来たのかいきなり切れ始めたのだ。
そして、
「ぐぇ……!」
治が昔を思い出している間に、唐突に立ち上がった少女は一気に治との間合いを詰めて、思いっきり治の鳩尾に拳を突きこんだ。
思ったよりも軽い。そう安堵した直後にさらにもう一発。
「がはっ!」
肺から息が搾り出される。悶絶するまもなく、痛みに俯いた治の鳩尾にさらにもう一発、アッパーの要領で下から突きこまれた。
「……!!」
それはいつかと同じだった。渡された玩具を投げ返すと、それは偶然にも少年の頭に当たって。
痛そうにうつむいた直後、いきなり飛び掛ってきて治を殴ったのだ。三発なところも、同じ。
「三倍返しだ、馬鹿野郎!!!」
そして、吐き捨てるように言い放った言葉もまた、同じだった。
849 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:43:27.22 ID:lRITagc0
「……ま、さか、本当に、次郎なのか?」
「……!」
思わず蹲って、その体勢のままに見上げて言う。さっきとは逆の、見下ろす側になった少女は治の言葉に目を見張った。
泣きそうに、嬉しそうに、整った顔立ちをくしゃくしゃに歪めた。
「気づくのが――」
すぐにその顔は、怒りに染まる。色白の為か、真っ赤になっているのが治には良く分かった。
少女は、きしむ音がしそうな程に強く握りこまれた拳を振り上げ、
「――遅ぇんだよ、この馬鹿野郎が!!」
脳天に振り下ろされた。治は目から火が出たかと思った。
「~~~~~!!」
物凄く、痛い。
三倍返しといいながら四倍返しになったのも、いつかと同じだな。
そう思いながら、痛む頭をさすって立ち上がる。
「……俺たちってなんでこうなんだろ?」
死んだと思っていた親友との再会。状況だけ言葉にすればどんな感動的なシーンなんだと思うだろうが、彼らの場合はこれだ。
まだ格闘漫画とかで、死んだと思っていた友が主人公のピンチに颯爽と訪れる場面の方が感動できると治は思う。
「へ?」
苦笑いしながら言うと、少女は戸惑ったような声を上げた。
「いや、次郎と親友になった時のことを思い出してさ」
「あ、ああ。なるほど。……ぶっちゃけ俺もあの時の事思い出してた」
それを聞いて少女も笑う。そして、何かを思いついたかのようににやりと、唇の端の角度をさらに上げた。
850 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:43:54.84 ID:lRITagc0
「なら、どうせなら最後までやっておくか?」
「そうだね。これが無いと俺たちって締まらないし」
少女とかがみ合わせに向かい合って、胸の前で拳を握った。少女も同じようにする。
「つーか、大の大人が泣きそうになってんじゃねえよ」
言われて、治は視界が滲んでいる事に気づいた。
「ったく、泣きそうなのはこっちだっての」
「あれ、そうなんだ。なら胸ぐらい貸すけど?」
「男の胸なんぞ勘弁こうむるね」
冗談を言い合う。いつもの、二人の調子が戻ってきていた。泣きそうに顔を歪めて笑う少女の顔は、どきどきするほどに魅力的でとても次郎とは思えなかったが、それでも目の前の少女が次郎であることに治はもう疑いを持ってはいない。
「何の記念だろうな?」
「うーん、じゃあ、次郎の生還祝いってことで」
「なるほどな、はは。よっし、俺が女だからって手加減すんじゃねえぞ?」
もちろん。そう頷きあって。
治と次郎は、思いっきり拳をぶつけ合った。
かつては初めて親友になったときに。野球を始めてからは、勝利をおさめる度に。最近では、互いに大学の合格を確認したときに。
幾度となく繰り返した“ぐーたっち”を、治と少女は、再び繰り返した。
思わず、治はぱちくりと目を瞬かせた。
「信じろ。それが俺の要求だ。……質問なら受け付けるぜ?」
そう言って笑いながら携帯をちらつかせる少女に、治は心が急速に冷え込んでいくのを感じた。
「そうだね、じゃあ一つだけ」
「おう、どんと来い」
「帰ってくれないか?」
怒りを押し殺しながら言葉を吐き出す。彼女が女の子で無かったら、治はぶん殴るくらいしていたかも知れない。
自分の秘密を種に脅されることよりも、それを一番知られたくない妹に知られることよりも、得体の知れない少女に感じた恐怖よりも。
一週間前に死んだ、治の親友。それをこんな冗談みたいな話にされることに、治は激しい怒りを感じていた。
「……ぁ、はは、まさか、こうも完全に拒絶されるとは予想外だったな……」
治は怒りを押し殺したつもりだったが、充分に外に出ていたようだった。
戸惑ったように、怯えたように少女は呟いて、携帯を突き出す。
「そんな事言っていいのか。これが……」
「好きにしろ。妹にでも何でも送ればいい。だから早く帰ってくれ。……それとも警察を呼んだほうがいいかな?」
「…………治っ」
「気安く呼ぶな!!!」
一瞬、治を呼ぶ少女の姿に親友がダブった気がして、怒鳴りつけるような声になってしまう。
「……ひっ」
子供のころから野球をやっていて、ポジションはずっと変わらずキャッチャーだった治の声量はかなりのもので、それを真っ向からたたきつけられた少女は恐怖にか、肩を震わした。
安普請というわけではないそれなりの厚さの壁をも突き抜けるだろう大声を上げたことに、一瞬治の脳裏に近所迷惑の言葉が浮かぶが、今の彼にそれを気にする余裕は無い。
ほら見ろ。次郎なら俺とずっとバッテリーを組んできたんだ。俺の大声に驚くなんてあり得ない。
お前は、次郎じゃない。
そう自分に言い聞かせている。別に少女が次郎だと信じかけている訳ではなく。あり得ない希望に思わず縋りそうになる自分に活を入れるためだ。
だが、少女の怯えは一瞬で消えて、またふてぶてしい(次郎を思い起こさせるような)表情で口を開く。
847 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:42:14.52 ID:lRITagc0
「……はは、ったく、相変わらず声でかいな。覚えてるか? キャッチャーは声張り上げなきゃつとまらないってお前少年野球のコーチに言われてさ、カラオケボックスに餓鬼の頃とは言え野郎二人で初めて行ったよな」
「もうやめてくれ!!」
「あの頃のお前ってかなり華奢だったしさ、ピッチャーの俺より声出ないのにセンターまで届くような声出せるようになるのか正直疑ってたけど、中学にあがる頃には……」
最早、少女がどうしてそんなことを知っているのかも聞く気がしない。
再びもたげた恐怖は恐慌となって治の怒りに火を注いだ。
土足で、次郎の大切な思い出にずかずかと踏み込んでくる少女。
身を焦がす怒りに突き動かされて、治は立ち上がって座っていた少女の腕を掴んだ。
「痛っ、ち、何しやが……」
「出て行け!!」
折れてしまいそうなほどの華奢な感触に一瞬戸惑い、それでも治は強引に少女を立ち上がらせてどんと押した。
軽い。190に迫る長身に、だが痩せては見えないほどに筋肉もついている治にとって、少女の体は想像以上に軽かった。
自覚せず、次郎に対する時のような力を込めてしまったのか。治ほどではないとはいえ長身でがっちりと筋肉質だった次郎とは違い、少女はほとんどリビングから放り出されるような形で吹き飛ばされ、腰から落ちる。
やりすぎたという気は起きない。
痛そうに腰をさすりながらこちらを怯えたような目で見上げる少女を、次郎はただ冷ややかに見下ろしていた。
「もう一度言う。出ていけ」
大声ではなく、だがそれゆえにぞっとするほどの冷たさがこめられた声。
少女はそれを、泣き出しそうな顔で聞いていた。
「次郎はそんな顔はしない」
続けて言う。
「どこで調べたのか知らないが、本当にいい加減にして欲しいんだ。腰が抜けたんならそのまま座っていてもいいさ。警察を呼ぶから」
そう言い放って、少女に背を向けて電話へ向かう。
848 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:42:45.98 ID:lRITagc0
その時治は、ぶちりと、何かが切れるような音が聞こえた気がした。
「……おい」
そして、背中越しにかけられた、押し殺したような声。
立ち止まり、思わず振り返った。
少女の態勢は変わらない。相変わらず痛そうに腰をさすっている。
だが、表情は一変していた。先ほどの泣きそうな顔はなんだったのかと問いたくなるほどに、般若のごとく歪んでいる。
瞳は怒りに満ち満ちて、治を真っ向からにらみ付けていた。
やばい、と治は思った。あれはいつのことだったか、そう、まだ幼稚園に通っていた頃、初めて喧嘩をしたとき、彼の親友は同じ目をしていなかったか。
下らない事で怒られて、つまらないことに意地を張って、幼馴染の少年に冷たく当たってしまった時。
あの時、散々無視され蔑ろにされながらも少年は治を元気付けようとしていて、でもいい加減限界に来たのかいきなり切れ始めたのだ。
そして、
「ぐぇ……!」
治が昔を思い出している間に、唐突に立ち上がった少女は一気に治との間合いを詰めて、思いっきり治の鳩尾に拳を突きこんだ。
思ったよりも軽い。そう安堵した直後にさらにもう一発。
「がはっ!」
肺から息が搾り出される。悶絶するまもなく、痛みに俯いた治の鳩尾にさらにもう一発、アッパーの要領で下から突きこまれた。
「……!!」
それはいつかと同じだった。渡された玩具を投げ返すと、それは偶然にも少年の頭に当たって。
痛そうにうつむいた直後、いきなり飛び掛ってきて治を殴ったのだ。三発なところも、同じ。
「三倍返しだ、馬鹿野郎!!!」
そして、吐き捨てるように言い放った言葉もまた、同じだった。
849 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:43:27.22 ID:lRITagc0
「……ま、さか、本当に、次郎なのか?」
「……!」
思わず蹲って、その体勢のままに見上げて言う。さっきとは逆の、見下ろす側になった少女は治の言葉に目を見張った。
泣きそうに、嬉しそうに、整った顔立ちをくしゃくしゃに歪めた。
「気づくのが――」
すぐにその顔は、怒りに染まる。色白の為か、真っ赤になっているのが治には良く分かった。
少女は、きしむ音がしそうな程に強く握りこまれた拳を振り上げ、
「――遅ぇんだよ、この馬鹿野郎が!!」
脳天に振り下ろされた。治は目から火が出たかと思った。
「~~~~~!!」
物凄く、痛い。
三倍返しといいながら四倍返しになったのも、いつかと同じだな。
そう思いながら、痛む頭をさすって立ち上がる。
「……俺たちってなんでこうなんだろ?」
死んだと思っていた親友との再会。状況だけ言葉にすればどんな感動的なシーンなんだと思うだろうが、彼らの場合はこれだ。
まだ格闘漫画とかで、死んだと思っていた友が主人公のピンチに颯爽と訪れる場面の方が感動できると治は思う。
「へ?」
苦笑いしながら言うと、少女は戸惑ったような声を上げた。
「いや、次郎と親友になった時のことを思い出してさ」
「あ、ああ。なるほど。……ぶっちゃけ俺もあの時の事思い出してた」
それを聞いて少女も笑う。そして、何かを思いついたかのようににやりと、唇の端の角度をさらに上げた。
850 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/20(火) 20:43:54.84 ID:lRITagc0
「なら、どうせなら最後までやっておくか?」
「そうだね。これが無いと俺たちって締まらないし」
少女とかがみ合わせに向かい合って、胸の前で拳を握った。少女も同じようにする。
「つーか、大の大人が泣きそうになってんじゃねえよ」
言われて、治は視界が滲んでいる事に気づいた。
「ったく、泣きそうなのはこっちだっての」
「あれ、そうなんだ。なら胸ぐらい貸すけど?」
「男の胸なんぞ勘弁こうむるね」
冗談を言い合う。いつもの、二人の調子が戻ってきていた。泣きそうに顔を歪めて笑う少女の顔は、どきどきするほどに魅力的でとても次郎とは思えなかったが、それでも目の前の少女が次郎であることに治はもう疑いを持ってはいない。
「何の記念だろうな?」
「うーん、じゃあ、次郎の生還祝いってことで」
「なるほどな、はは。よっし、俺が女だからって手加減すんじゃねえぞ?」
もちろん。そう頷きあって。
治と次郎は、思いっきり拳をぶつけ合った。
かつては初めて親友になったときに。野球を始めてからは、勝利をおさめる度に。最近では、互いに大学の合格を確認したときに。
幾度となく繰り返した“ぐーたっち”を、治と少女は、再び繰り返した。