早朝の空気というのは心地いいものだ。
ひんやりとして、澄んでいる。都会の空気は汚いなどとはよく聞く言葉だが、なかなかどうしてまだ捨てたものではないと俺は思う。
特にこの季節はいい。今は9月の終わり、ようやくしつこい残暑も引いてきて、涼しい風が俺の顔を撫でていた。
うるさい工事の音も、車の音も聞こえない。完全な静寂という訳ではないが、遠く聞こえる鳥の声や、どこかでもう店開きの準備に入っているのか聞こえてくるシャッターの音などは、趣とか言うのに入るものだろう。
家の前に立って、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
だが、そんな静かで心地いい朝は、あまりにも無粋な闖入者によって妨げられてしまった。
「鈴菜? こんな朝早くにどこに行くつもり?」
後ろにドアの開けられる音が聞こえたかと思うと、そんな言葉が投げられてくる。
ため息を吐いて、俺は振り返った。
そこに立っていたのは鈴菜の母親だった。まだ寝ているかと思ったが、俺が家を出る音で起こしてしまったか。
「別に、ただのランニングだけど」
鈴菜の言葉遣いで、俺は両手を広げて今着ている上下のジャージを示す。
「そ、そうなの? でも鈴菜、そんな習慣無かったわよね? なんで今朝になって突然?」
「何か問題ある?」
「そういうわけじゃないんだけど」
「ならいいでしょ?」
「で、でも、まだ退院したばかりじゃない。大丈夫なの?」
「傷はもう塞がってる。医者に運動を止められてるわけじゃない」
「そう。ならいいのよ。うん」
娘の身体の心配なんて、ずいぶん母親らしい行動をする。鈴菜の自殺は、防げなかったくせに。
それきり興味を失って、視線を外した俺は準備運動を始めた。
屈伸から始まって腕や足などの軽いストレッチ。鈴菜は体力こそ無いが、体は俺よりもずっと柔らかい。昔からずっとストレッチを続けた割に、俺の体は結構かたかった。
これぐらい体が柔らかければ、野球を続けることも出来たかもしれないな、とストレッチをしながらふと思う。
そこで、まだ母親がドアの前に突っ立てるのに気づいた。
「何か用でもあるの?」
「え? そ、そういうわけじゃないんだけど……」
じゃあ何で家に戻らないんだ?
気が散る、と言って追い返すのは簡単だがまあ別に必要ない。
そのまま、こちらを心配そうに見つめる彼女に軽く苛立ちを覚えながら、俺は逃げるように走り出した。
ひんやりとして、澄んでいる。都会の空気は汚いなどとはよく聞く言葉だが、なかなかどうしてまだ捨てたものではないと俺は思う。
特にこの季節はいい。今は9月の終わり、ようやくしつこい残暑も引いてきて、涼しい風が俺の顔を撫でていた。
うるさい工事の音も、車の音も聞こえない。完全な静寂という訳ではないが、遠く聞こえる鳥の声や、どこかでもう店開きの準備に入っているのか聞こえてくるシャッターの音などは、趣とか言うのに入るものだろう。
家の前に立って、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
だが、そんな静かで心地いい朝は、あまりにも無粋な闖入者によって妨げられてしまった。
「鈴菜? こんな朝早くにどこに行くつもり?」
後ろにドアの開けられる音が聞こえたかと思うと、そんな言葉が投げられてくる。
ため息を吐いて、俺は振り返った。
そこに立っていたのは鈴菜の母親だった。まだ寝ているかと思ったが、俺が家を出る音で起こしてしまったか。
「別に、ただのランニングだけど」
鈴菜の言葉遣いで、俺は両手を広げて今着ている上下のジャージを示す。
「そ、そうなの? でも鈴菜、そんな習慣無かったわよね? なんで今朝になって突然?」
「何か問題ある?」
「そういうわけじゃないんだけど」
「ならいいでしょ?」
「で、でも、まだ退院したばかりじゃない。大丈夫なの?」
「傷はもう塞がってる。医者に運動を止められてるわけじゃない」
「そう。ならいいのよ。うん」
娘の身体の心配なんて、ずいぶん母親らしい行動をする。鈴菜の自殺は、防げなかったくせに。
それきり興味を失って、視線を外した俺は準備運動を始めた。
屈伸から始まって腕や足などの軽いストレッチ。鈴菜は体力こそ無いが、体は俺よりもずっと柔らかい。昔からずっとストレッチを続けた割に、俺の体は結構かたかった。
これぐらい体が柔らかければ、野球を続けることも出来たかもしれないな、とストレッチをしながらふと思う。
そこで、まだ母親がドアの前に突っ立てるのに気づいた。
「何か用でもあるの?」
「え? そ、そういうわけじゃないんだけど……」
じゃあ何で家に戻らないんだ?
気が散る、と言って追い返すのは簡単だがまあ別に必要ない。
そのまま、こちらを心配そうに見つめる彼女に軽く苛立ちを覚えながら、俺は逃げるように走り出した。
915 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:37:20.83 ID:mpX.mt20
ランニングを終えて部屋に戻ってきた俺は、僅かに汗ばむ体を濡れタオルで拭った。本当ならシャワーを浴びたいところだが、諦めるしかないだろう。
予想通りに体力の無い鈴菜の体を考慮して短い距離をゆっくりと走ったのが功をそうしたのか、あまり疲れてはいない。
その代わりに、時間があまり無かった。
俺が鈴菜の身体で生まれ変わってから、今日で十日目となる。今日は月曜日。そして鈴菜は高校生。
大学と違って、高校は朝のホームルームから出席を取られるのだ。加えて、一週間も入院をしていた鈴菜は退院したことを担任に報告するために、少し早めに学校に行かなければならない。
鈴菜は自殺して、今のこの体は俺のものだ。わざわざ鈴菜の生活を続ける必要など欠片も感じない。
それは澤田への説得に苦労したことで十分に分かった。俺の、そして鈴菜の、今の状況は普通あり得ない。
俺が今すぐにでも地を出してそのままに振舞ったところで、自殺の影響で性格が豹変したとしか思われないだろう。
だが地を出すことによって不審に思われ、それによって増える厄介ごとは出来れば避けたいし、それに鈴菜としてこれから生きていかなければならない以上高校くらいは出ておきたい。出来れば進学もしたいと思っている。
こんな細腕の小娘が一人で生きていけると思うほど、俺は世間を舐めちゃいないのだ。
いや、生きていく事自体は容易いだろうが、フリーター生活のワーキングプアーなんか御免だし男に養ってもらう気も無い。
本当なら、今すぐにでもこの不快な家を出て一人暮らしを始めたいくらいだが、卒業して自立できるようになるまでは我慢するべきだ。耐えられないほどじゃない。
下手に連れ戻しにかかられたら厄介だし、住む部屋にバイト。探さなければならないことも、しなくてはならないことも山ほどある。
ならせめて卒業するくらいまではこの家に住むべきだし、ならば退院直後のサボりは避けるべきだろう。
殺風景な部屋の壁に取り付けられた洋服箪笥の扉を開き、制服を取り出す。
鈴菜の知識があるため着方には迷わないが、どうにも抵抗を覚えるな。
今更なことを考えながら、手早く身に着けていく。
さらに、昨日しっかりと今日の時間割の教材を入れておいたスクールバックを持ち上げれば、準備は完了だ。
部屋を出、階段を下りて玄関に向かう。
その途中で、母親に呼び止められた。
916 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:38:04.14 ID:mpX.mt20
「あ、鈴菜、もう出るの? 朝食準備しておいたけど食べるかしら?」
「…………」
とっさに無視しかけたのを思いとどまり、立ち止まって少し考える。
鈴菜はいつも朝食を摂らない。それなのに母親は毎日鈴菜の分も朝食を作っている。
すでに作ってしまっているというのに、食べろと言わずにわざわざ聞くあたりが卑屈な感じだ。
鈴菜が朝食を摂らないのは、小食なのもあるが、それ以上に両親と食事を摂る機会を減らしたいためだった。
俺だって遠慮したいところだが、だが今朝は鈴菜の習慣には無いランニングを行ってしまっている。
きっと昼前は猛烈にお腹がすくだろう。
早弁をすればいい話ではあるが、そもそも弁当を持ってない。
途中でコンビニに寄って買って行くことは出来るが、女の子が早弁をするという光景は例え自分であっても出来れば見たくない部類のものだ。
それに、学校に行けばかなりの厄介ごとが待っている。お腹がすくだろうなんて小さな問題は、少なくとも今日は避けるほうがいい気がする。
時間も、まあ少し急いで歩かなくてはならなくなるが大丈夫だろう。
うん。シャワーよりも飯を優先するって言うのも、いかにも男の発想だしな。
そう決断を下して頷くと、母親は少し驚いたようだった。
「え、本当に?」
何と言うか、最早笑い出したくなってくる。
「なにそれ? 食べるって聞いたのはお母さんなのに」
好意的に見れば喜びの類の驚きだと取れなくも無いが、相変わらずこの人は言葉に思慮が足りていない。
「そ、そういう意味じゃないのよ? ごめんなさい。じゃあ、一緒に食べましょう」
だから、今更謝っても遅いっての。
母親の後に続いてリビングに入れば、新聞を読む父親と目が合った。
こちらもまた、鈴菜が入ってきたことに目を見張らせている。
やっぱりあのまま学校に向かうべきだったかなと後悔して、俺は内心でため息を吐いた。
本当に、彼らも好きになれそうに無い。
917 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:39:29.70 ID:mpX.mt20
予想通りに体力の無い鈴菜の体を考慮して短い距離をゆっくりと走ったのが功をそうしたのか、あまり疲れてはいない。
その代わりに、時間があまり無かった。
俺が鈴菜の身体で生まれ変わってから、今日で十日目となる。今日は月曜日。そして鈴菜は高校生。
大学と違って、高校は朝のホームルームから出席を取られるのだ。加えて、一週間も入院をしていた鈴菜は退院したことを担任に報告するために、少し早めに学校に行かなければならない。
鈴菜は自殺して、今のこの体は俺のものだ。わざわざ鈴菜の生活を続ける必要など欠片も感じない。
それは澤田への説得に苦労したことで十分に分かった。俺の、そして鈴菜の、今の状況は普通あり得ない。
俺が今すぐにでも地を出してそのままに振舞ったところで、自殺の影響で性格が豹変したとしか思われないだろう。
だが地を出すことによって不審に思われ、それによって増える厄介ごとは出来れば避けたいし、それに鈴菜としてこれから生きていかなければならない以上高校くらいは出ておきたい。出来れば進学もしたいと思っている。
こんな細腕の小娘が一人で生きていけると思うほど、俺は世間を舐めちゃいないのだ。
いや、生きていく事自体は容易いだろうが、フリーター生活のワーキングプアーなんか御免だし男に養ってもらう気も無い。
本当なら、今すぐにでもこの不快な家を出て一人暮らしを始めたいくらいだが、卒業して自立できるようになるまでは我慢するべきだ。耐えられないほどじゃない。
下手に連れ戻しにかかられたら厄介だし、住む部屋にバイト。探さなければならないことも、しなくてはならないことも山ほどある。
ならせめて卒業するくらいまではこの家に住むべきだし、ならば退院直後のサボりは避けるべきだろう。
殺風景な部屋の壁に取り付けられた洋服箪笥の扉を開き、制服を取り出す。
鈴菜の知識があるため着方には迷わないが、どうにも抵抗を覚えるな。
今更なことを考えながら、手早く身に着けていく。
さらに、昨日しっかりと今日の時間割の教材を入れておいたスクールバックを持ち上げれば、準備は完了だ。
部屋を出、階段を下りて玄関に向かう。
その途中で、母親に呼び止められた。
916 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:38:04.14 ID:mpX.mt20
「あ、鈴菜、もう出るの? 朝食準備しておいたけど食べるかしら?」
「…………」
とっさに無視しかけたのを思いとどまり、立ち止まって少し考える。
鈴菜はいつも朝食を摂らない。それなのに母親は毎日鈴菜の分も朝食を作っている。
すでに作ってしまっているというのに、食べろと言わずにわざわざ聞くあたりが卑屈な感じだ。
鈴菜が朝食を摂らないのは、小食なのもあるが、それ以上に両親と食事を摂る機会を減らしたいためだった。
俺だって遠慮したいところだが、だが今朝は鈴菜の習慣には無いランニングを行ってしまっている。
きっと昼前は猛烈にお腹がすくだろう。
早弁をすればいい話ではあるが、そもそも弁当を持ってない。
途中でコンビニに寄って買って行くことは出来るが、女の子が早弁をするという光景は例え自分であっても出来れば見たくない部類のものだ。
それに、学校に行けばかなりの厄介ごとが待っている。お腹がすくだろうなんて小さな問題は、少なくとも今日は避けるほうがいい気がする。
時間も、まあ少し急いで歩かなくてはならなくなるが大丈夫だろう。
うん。シャワーよりも飯を優先するって言うのも、いかにも男の発想だしな。
そう決断を下して頷くと、母親は少し驚いたようだった。
「え、本当に?」
何と言うか、最早笑い出したくなってくる。
「なにそれ? 食べるって聞いたのはお母さんなのに」
好意的に見れば喜びの類の驚きだと取れなくも無いが、相変わらずこの人は言葉に思慮が足りていない。
「そ、そういう意味じゃないのよ? ごめんなさい。じゃあ、一緒に食べましょう」
だから、今更謝っても遅いっての。
母親の後に続いてリビングに入れば、新聞を読む父親と目が合った。
こちらもまた、鈴菜が入ってきたことに目を見張らせている。
やっぱりあのまま学校に向かうべきだったかなと後悔して、俺は内心でため息を吐いた。
本当に、彼らも好きになれそうに無い。
917 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:39:29.70 ID:mpX.mt20
とても、居心地が悪い。
64もの瞳にさらされて、俺は落ち着き無く身じろぎしていた。
法戸中学高等学校高等部――めんどいから以下法戸高校と略す――一年C組。
鈴菜としては一週間ぶりで俺としては初めて登校して、職員室にいる担任に挨拶したのが凡そ三十分前。
その後相談室でスクールカウンセラー相手にいろいろと質問をされた後、俺は担任に連れられて、今こうして鈴菜のクラスに入ったというわけだ。
「病気で一週間入院していた水城鈴菜さんが、一昨日退院して、今日ようやく登校して来ました。勉強も一週間分の遅れもあるでしょうし、先生ももちろんサポートしますが、皆さんも支えてあげてください」
俺の隣に立つ担任の教師が、そう言ってクラスを見回す。
自殺でなく病気といったのは、学校側の気遣いだろう。まあ、自殺を試みて入院してましたなんて普通言わないだろうが。
いじめにあっている生徒としてはとてもありがたくない言葉だったが、仕方ないところもある。この教師は自分が担当しているクラスでいじめが行われていることに気づいてはいないのだ。
鈴菜は最初っから警察に相談しに行っていた。教師も両親も、相談したって役に立たないと思っていたためだ。別に昨今のいじめを取り扱ったニュースやら特番やらの情報を踏まえての事、だけではない。
真実、鈴菜にとってはそれらの相談は意味を為さなかったのだ。
それ故に鈴菜は一度もこの教師に相談しなかったどころか、むしろ被害にあっていることも隠していた。
だから彼の態度は気にしないようにして、俺も教師に倣って教室内を見回した。
さすがに事情は知られているのか、大多数の生徒は俺の視線に晒されると気まずそうに目を逸らす。
まあ、彼らのほとんどは鈴菜のいじめには参加していない傍観者だ。気持ちは理解できなくも無い。
その中に、“俺”が見知った顔を見つけた。
澤田の妹の、澤田姫香。記憶にあったため同じクラスなのは知ってはいたが、俺が鈴菜になってから会うのは初めてだった。
彼女もまた、俺の視線に気づくと慌てたように目を逸らした。
「…………」
鈴菜はともかくとして、俺は姫香の態度を責める気にはなれない。姫香の気持ちは、痛いほどに分かる。
そうはいっても、彼女の幼馴染のお兄さんとしては、彼女の態度はやはりショックだったけど。
918 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:40:40.22 ID:mpX.mt20
「分かりました。鈴菜さんのことは任せてください」
その時、唐突にそう言って一人の女生徒が立ち上がった。
「そうですか。それではよろしくお願いしますね、加瀬さん」
女生徒の言葉に、教師は満足そうに目を細める。
まあ、言葉だけ聞けばなんとも心優しい女の子だしな。
内心苦笑いしながら、俺も加瀬と呼ばれた少女に目を向けた。
「大丈夫よ、鈴菜、任せて。私たち友達でしょ?」
目を合わせると、にっこりと微笑んでそんなことを言う。
「……」
どう答えるべきだろう。一瞬迷った。
鈴菜ならあなたと友達になった覚えは無いとでも言うのだろうが、いくらなんでも教師の前で言う台詞ではない。
彼女は、それを見越して鈴菜をダシにして教師の評価を上げるつもりだったんだろうが。
それにもう一つ。俺は、鈴菜ではない。鈴菜が求めていたことなんて、俺は求めない。
だからとりあえず、この場は目を伏せて頷くだけに留めておく。
同時に、それは俺が鈴菜としてこの学校に通う上での方針を決めるものでもあった。昨日の夜にいくつか考えていたうちの、恐らく最良の道。
徹頭徹尾俺からはもっともかけ離れた性格の少女を装わなければならないことが、ちと面倒だが。
加瀬はおや、という風にちょっと驚いたような目で俺を見て、彼女の周囲に座っている女生徒達は俺を何かものすごい目で睨んでいた。
ちょっと、笑いそうになってしまい、慌てて堪える。
先ほど俺が視線を向けたときに、気まずそうに目を逸らしたのが大多数の傍観者。
そして、それに当てはまらない態度の彼女たちこそ、鈴菜へのいじめの主犯たちというわけだ。
いくら女子高生として高校に通うことは我慢出来ても、いじめにあうのは勘弁である。
さて、少しでも快適な学校生活を送るために、頑張ってみるとしようか。
919 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:45:52.27 ID:mpX.mt20
64もの瞳にさらされて、俺は落ち着き無く身じろぎしていた。
法戸中学高等学校高等部――めんどいから以下法戸高校と略す――一年C組。
鈴菜としては一週間ぶりで俺としては初めて登校して、職員室にいる担任に挨拶したのが凡そ三十分前。
その後相談室でスクールカウンセラー相手にいろいろと質問をされた後、俺は担任に連れられて、今こうして鈴菜のクラスに入ったというわけだ。
「病気で一週間入院していた水城鈴菜さんが、一昨日退院して、今日ようやく登校して来ました。勉強も一週間分の遅れもあるでしょうし、先生ももちろんサポートしますが、皆さんも支えてあげてください」
俺の隣に立つ担任の教師が、そう言ってクラスを見回す。
自殺でなく病気といったのは、学校側の気遣いだろう。まあ、自殺を試みて入院してましたなんて普通言わないだろうが。
いじめにあっている生徒としてはとてもありがたくない言葉だったが、仕方ないところもある。この教師は自分が担当しているクラスでいじめが行われていることに気づいてはいないのだ。
鈴菜は最初っから警察に相談しに行っていた。教師も両親も、相談したって役に立たないと思っていたためだ。別に昨今のいじめを取り扱ったニュースやら特番やらの情報を踏まえての事、だけではない。
真実、鈴菜にとってはそれらの相談は意味を為さなかったのだ。
それ故に鈴菜は一度もこの教師に相談しなかったどころか、むしろ被害にあっていることも隠していた。
だから彼の態度は気にしないようにして、俺も教師に倣って教室内を見回した。
さすがに事情は知られているのか、大多数の生徒は俺の視線に晒されると気まずそうに目を逸らす。
まあ、彼らのほとんどは鈴菜のいじめには参加していない傍観者だ。気持ちは理解できなくも無い。
その中に、“俺”が見知った顔を見つけた。
澤田の妹の、澤田姫香。記憶にあったため同じクラスなのは知ってはいたが、俺が鈴菜になってから会うのは初めてだった。
彼女もまた、俺の視線に気づくと慌てたように目を逸らした。
「…………」
鈴菜はともかくとして、俺は姫香の態度を責める気にはなれない。姫香の気持ちは、痛いほどに分かる。
そうはいっても、彼女の幼馴染のお兄さんとしては、彼女の態度はやはりショックだったけど。
918 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:40:40.22 ID:mpX.mt20
「分かりました。鈴菜さんのことは任せてください」
その時、唐突にそう言って一人の女生徒が立ち上がった。
「そうですか。それではよろしくお願いしますね、加瀬さん」
女生徒の言葉に、教師は満足そうに目を細める。
まあ、言葉だけ聞けばなんとも心優しい女の子だしな。
内心苦笑いしながら、俺も加瀬と呼ばれた少女に目を向けた。
「大丈夫よ、鈴菜、任せて。私たち友達でしょ?」
目を合わせると、にっこりと微笑んでそんなことを言う。
「……」
どう答えるべきだろう。一瞬迷った。
鈴菜ならあなたと友達になった覚えは無いとでも言うのだろうが、いくらなんでも教師の前で言う台詞ではない。
彼女は、それを見越して鈴菜をダシにして教師の評価を上げるつもりだったんだろうが。
それにもう一つ。俺は、鈴菜ではない。鈴菜が求めていたことなんて、俺は求めない。
だからとりあえず、この場は目を伏せて頷くだけに留めておく。
同時に、それは俺が鈴菜としてこの学校に通う上での方針を決めるものでもあった。昨日の夜にいくつか考えていたうちの、恐らく最良の道。
徹頭徹尾俺からはもっともかけ離れた性格の少女を装わなければならないことが、ちと面倒だが。
加瀬はおや、という風にちょっと驚いたような目で俺を見て、彼女の周囲に座っている女生徒達は俺を何かものすごい目で睨んでいた。
ちょっと、笑いそうになってしまい、慌てて堪える。
先ほど俺が視線を向けたときに、気まずそうに目を逸らしたのが大多数の傍観者。
そして、それに当てはまらない態度の彼女たちこそ、鈴菜へのいじめの主犯たちというわけだ。
いくら女子高生として高校に通うことは我慢出来ても、いじめにあうのは勘弁である。
さて、少しでも快適な学校生活を送るために、頑張ってみるとしようか。
919 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:45:52.27 ID:mpX.mt20
それは、意外なほどに早くやって来た。
俺を席に座らせ、朝のホームルームを行った教師が教室を出て行ってすぐに。
俺は、席に座ったまま数人の女生徒に囲まれていた。
「あんた、さっきのはどういうつもり?」
机にどんと手を突いて、俺の正面に立った少女がそう言い放つ。
持田圭子。鈴菜をいじめていた主犯の一人だ。
「え? さ、さっきのって?」
俺は不安そうに、戸惑ったように聞き返す。
「なにとぼけてんだよ! あんたのせいで先生に翠がお前なんかの友だちだって勘違いされちゃったじゃん!」
女の子としては少々乱暴な言葉遣いで、左側から怒鳴ってきたのは吉野美香。彼女もまた、主犯の一人。
鈴菜は、このクラスの生徒の名前を全員フルネームで覚えている。
警察への相談などで何度もメモを取ってるうちに自然に覚えたものだが、何でこの根性をいじめの解決に持っていけなかったのか。
「ご、ごめんなさい……」
ま、それは今更だ。とにかく、俺は俺なりにやる。慌てて謝って見せると、吉野は露骨に驚いたような顔を見せた。
だがそれは、すぐにイラつきを帯びた顔に変わる。
「お前なに猫被ってやがんだよ!」
おお、大正解。確かに俺は猫を被っている。良く見抜けました。ぱちぱち。そう心の中で拍手を送る。
「……そ、そんなつもりじゃ!」
でも、鈴菜が俺だという事は、被った猫が二重になっている事は分からないだろう?
裏の裏は表と同じ。鈴菜だってこういう行動を取る可能性はある。でも、俺が求める結果は鈴菜とは間逆のもの。
だから俺は、ただただ萎縮したように俯くだけ。
「…………」
そんな俺を、持田はじろりと疑わしげな目で見つめていた。
逆に今度こそ、吉野は戸惑いの気持ちが勝ったらしい。毒気の抜かれたような表情で、どうなってるんだなどと呟いている。
920 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:46:31.06 ID:mpX.mt20
もう一押し必要か。
顔を上げて、持田と目を合わせた。鋭くこちらを観察するような視線を一瞬だけ見つめ、すぐに怯えたような素振りで顔を伏せる。
「え……?」
それでようやく、持田にも困惑の声を上げさせることに成功した。
「ね、ねえ、どうなってんの水城の奴?」
「私に聞かれても……」
とうとう二人は目の前でひそひそと話し始める。先ほどまでの威圧的な態度が嘘のようだ。やはりこの方針は間違ってないな。そう確信する。
彼女たちは、誰一人として元々陰険ないじめに手を染めるような性格じゃない。彼女たちにそれをさせていたのは……。
「からかわれているわよ、二人とも」
「あ……」
「翠?」
唐突に吉野たちの後ろから上がった声に、こそこそと何やら話していた二人が俺の机から離れる。
そして俺の前に、一人の少女が進み出てきた。
ようやくの、ご登場か。
顔を上げる。
中身を知っていなければ男として見とれそうなほどの美少女が、そこに立っていた。
シャギーの入ったロングの黒髪は軽くカールがかかって、彼女の明るそうな雰囲気をより際立たせている。
陸上部に入っているせいか肌は健康的な肌色をしているが、褐色というほどではない。よく日焼け対策をしているのだろうか。
鈴菜も女性としては背が高いほうだが、彼女はそれよりも2、3cm高いようだ。奥二重の切れ長の目のためか、可愛いというよりも美人、といった印象を強く受ける。
彼女が、加瀬翠。このクラスにおける主犯の一人にして、その中心人物。
「久しぶりね、鈴菜。元気にしてた?」
あからさまに白々しい台詞だが、皮肉と分かっていても中々にむかつく物言いだなおい。
にこにこと笑いながらのたまう彼女に苛立たなかったといえば嘘になる。
流石に、夏休みを挟めば半年近くもの間鈴菜とやり合っただけのことはあるな。……勿体ない。こんなに美人なのに。
「……う、うん」
そう思いながら、慌てた様に頷いてまた顔を伏せる。
「あら、随分とそのキャラを引っ張るのね? どういうつもり?」
問われても、答えない。とにかく、俯いたまま加瀬たちが居なくなるのを待つ……演技を続ける。
921 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:47:31.64 ID:mpX.mt20
「翠、どうしよう? 何か今日の水城って……」
「あの鈴菜がこんな態度を取っているのに、理由が無いと思うの? 美香は」
「そ、そりゃ、思わないけど」
「でも本当に変だよ? これじゃ私たちが悪者みたい」
そろそろ詰めか。不自然にならないよう、慎重に。そう心がけながら居心地悪そうに身じろぎさせて、ほんの少し、ブレザーの左腕の袖先から包帯を覗かせる。
最初に、ソレに気づいたらしい持田が身体を強張らせた。
「そ、それって……」
続いて、吉野も気づく。教室内もざわめき始めたのは、こわごわとこちらを伺っていた生徒たちの中に気づいた連中が現れ始めたのか。
狙い通りだ。
加瀬たちもうすうすとは鈴菜が自殺を試みたことには気づいていただろうが、実物を見るのはやはりショッキングだったのだろう。
これの効果は、昨日澤田に見られたときに実証済みだしな。
そこで俺は再び顔を上げる。加瀬たちは怖いがそれでも皆がざわめいている理由が気になって思わず……という風に見られるようタイミングを見計らって。
「あ……!」
そして、始めて気づいたとでも言うように声を上げ、慌てて見えてしまっている包帯を手で押さえるようにして隠し、更に机の下に引っ込めた。
「…………」
誰も、何も言わない。おずおずと顔を上げると、持田と吉野は顔にありありと罪悪感を張り付かせて、加瀬も何も言わずに黙って俺を見つめていた。
俺はそれを確認して、また顔を伏せる。
成功の手ごたえはあった。身内ドッキリ(被害者は主に澤田だが)の経験は腐るほどあるし、昨日も同じ事をしたばかりだ。
今回はネタばらしをする予定は無いが、それはともかく今の俺の態度が演技だということにばれた様子は無い。
澤田は例外として、どんな阿呆でも三回同じことをやられれば学習する。
澤田以外に、例えば姫香なんかに仕掛けたドッキリは、ばれたことは二度三度じゃきかない。そのときに彼女は騙されているフリを続けて、ここぞという場面で逆襲してくるのだ。
その為、俺はドッキリがばれたかどうかにも気を使うようになって、それを踏まえた二重三重の備えも心がけるようにしてきた。
だから分かる。誰も俺が演技をしていると気づいては居ない。
それでも、俺は心の裡に奇妙なしこりを感じていた。
加瀬の目に、奇妙な光が宿っていた気がするのだ。それが何かまでは分からないのだが。
そもそも、この段階で加瀬が持田や吉野のように罪悪感を顔に浮かべていないのはおかしい。
そう表情を顔に出す性格ではないといっても、この場合それを隠す理由など無いのだから。
顔を伏せたまま俺の思考は深く沈み、また教室内の誰も、ただ動けずに黙っている。
重苦しいほどの沈黙が教室を包み込み、それは一現の鐘がなるまでずっと続いた。
俺を席に座らせ、朝のホームルームを行った教師が教室を出て行ってすぐに。
俺は、席に座ったまま数人の女生徒に囲まれていた。
「あんた、さっきのはどういうつもり?」
机にどんと手を突いて、俺の正面に立った少女がそう言い放つ。
持田圭子。鈴菜をいじめていた主犯の一人だ。
「え? さ、さっきのって?」
俺は不安そうに、戸惑ったように聞き返す。
「なにとぼけてんだよ! あんたのせいで先生に翠がお前なんかの友だちだって勘違いされちゃったじゃん!」
女の子としては少々乱暴な言葉遣いで、左側から怒鳴ってきたのは吉野美香。彼女もまた、主犯の一人。
鈴菜は、このクラスの生徒の名前を全員フルネームで覚えている。
警察への相談などで何度もメモを取ってるうちに自然に覚えたものだが、何でこの根性をいじめの解決に持っていけなかったのか。
「ご、ごめんなさい……」
ま、それは今更だ。とにかく、俺は俺なりにやる。慌てて謝って見せると、吉野は露骨に驚いたような顔を見せた。
だがそれは、すぐにイラつきを帯びた顔に変わる。
「お前なに猫被ってやがんだよ!」
おお、大正解。確かに俺は猫を被っている。良く見抜けました。ぱちぱち。そう心の中で拍手を送る。
「……そ、そんなつもりじゃ!」
でも、鈴菜が俺だという事は、被った猫が二重になっている事は分からないだろう?
裏の裏は表と同じ。鈴菜だってこういう行動を取る可能性はある。でも、俺が求める結果は鈴菜とは間逆のもの。
だから俺は、ただただ萎縮したように俯くだけ。
「…………」
そんな俺を、持田はじろりと疑わしげな目で見つめていた。
逆に今度こそ、吉野は戸惑いの気持ちが勝ったらしい。毒気の抜かれたような表情で、どうなってるんだなどと呟いている。
920 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:46:31.06 ID:mpX.mt20
もう一押し必要か。
顔を上げて、持田と目を合わせた。鋭くこちらを観察するような視線を一瞬だけ見つめ、すぐに怯えたような素振りで顔を伏せる。
「え……?」
それでようやく、持田にも困惑の声を上げさせることに成功した。
「ね、ねえ、どうなってんの水城の奴?」
「私に聞かれても……」
とうとう二人は目の前でひそひそと話し始める。先ほどまでの威圧的な態度が嘘のようだ。やはりこの方針は間違ってないな。そう確信する。
彼女たちは、誰一人として元々陰険ないじめに手を染めるような性格じゃない。彼女たちにそれをさせていたのは……。
「からかわれているわよ、二人とも」
「あ……」
「翠?」
唐突に吉野たちの後ろから上がった声に、こそこそと何やら話していた二人が俺の机から離れる。
そして俺の前に、一人の少女が進み出てきた。
ようやくの、ご登場か。
顔を上げる。
中身を知っていなければ男として見とれそうなほどの美少女が、そこに立っていた。
シャギーの入ったロングの黒髪は軽くカールがかかって、彼女の明るそうな雰囲気をより際立たせている。
陸上部に入っているせいか肌は健康的な肌色をしているが、褐色というほどではない。よく日焼け対策をしているのだろうか。
鈴菜も女性としては背が高いほうだが、彼女はそれよりも2、3cm高いようだ。奥二重の切れ長の目のためか、可愛いというよりも美人、といった印象を強く受ける。
彼女が、加瀬翠。このクラスにおける主犯の一人にして、その中心人物。
「久しぶりね、鈴菜。元気にしてた?」
あからさまに白々しい台詞だが、皮肉と分かっていても中々にむかつく物言いだなおい。
にこにこと笑いながらのたまう彼女に苛立たなかったといえば嘘になる。
流石に、夏休みを挟めば半年近くもの間鈴菜とやり合っただけのことはあるな。……勿体ない。こんなに美人なのに。
「……う、うん」
そう思いながら、慌てた様に頷いてまた顔を伏せる。
「あら、随分とそのキャラを引っ張るのね? どういうつもり?」
問われても、答えない。とにかく、俯いたまま加瀬たちが居なくなるのを待つ……演技を続ける。
921 : ◆c0NQxleFhE [sage]:2008/05/26(月) 23:47:31.64 ID:mpX.mt20
「翠、どうしよう? 何か今日の水城って……」
「あの鈴菜がこんな態度を取っているのに、理由が無いと思うの? 美香は」
「そ、そりゃ、思わないけど」
「でも本当に変だよ? これじゃ私たちが悪者みたい」
そろそろ詰めか。不自然にならないよう、慎重に。そう心がけながら居心地悪そうに身じろぎさせて、ほんの少し、ブレザーの左腕の袖先から包帯を覗かせる。
最初に、ソレに気づいたらしい持田が身体を強張らせた。
「そ、それって……」
続いて、吉野も気づく。教室内もざわめき始めたのは、こわごわとこちらを伺っていた生徒たちの中に気づいた連中が現れ始めたのか。
狙い通りだ。
加瀬たちもうすうすとは鈴菜が自殺を試みたことには気づいていただろうが、実物を見るのはやはりショッキングだったのだろう。
これの効果は、昨日澤田に見られたときに実証済みだしな。
そこで俺は再び顔を上げる。加瀬たちは怖いがそれでも皆がざわめいている理由が気になって思わず……という風に見られるようタイミングを見計らって。
「あ……!」
そして、始めて気づいたとでも言うように声を上げ、慌てて見えてしまっている包帯を手で押さえるようにして隠し、更に机の下に引っ込めた。
「…………」
誰も、何も言わない。おずおずと顔を上げると、持田と吉野は顔にありありと罪悪感を張り付かせて、加瀬も何も言わずに黙って俺を見つめていた。
俺はそれを確認して、また顔を伏せる。
成功の手ごたえはあった。身内ドッキリ(被害者は主に澤田だが)の経験は腐るほどあるし、昨日も同じ事をしたばかりだ。
今回はネタばらしをする予定は無いが、それはともかく今の俺の態度が演技だということにばれた様子は無い。
澤田は例外として、どんな阿呆でも三回同じことをやられれば学習する。
澤田以外に、例えば姫香なんかに仕掛けたドッキリは、ばれたことは二度三度じゃきかない。そのときに彼女は騙されているフリを続けて、ここぞという場面で逆襲してくるのだ。
その為、俺はドッキリがばれたかどうかにも気を使うようになって、それを踏まえた二重三重の備えも心がけるようにしてきた。
だから分かる。誰も俺が演技をしていると気づいては居ない。
それでも、俺は心の裡に奇妙なしこりを感じていた。
加瀬の目に、奇妙な光が宿っていた気がするのだ。それが何かまでは分からないのだが。
そもそも、この段階で加瀬が持田や吉野のように罪悪感を顔に浮かべていないのはおかしい。
そう表情を顔に出す性格ではないといっても、この場合それを隠す理由など無いのだから。
顔を伏せたまま俺の思考は深く沈み、また教室内の誰も、ただ動けずに黙っている。
重苦しいほどの沈黙が教室を包み込み、それは一現の鐘がなるまでずっと続いた。