人物名鑑:星野仙一
ゲーム内における星野仙一
魔王軍の幹部で、
レプリ東京の統治を任されている。名前の表記は「1001」。
しかし
海原雄山と結託した
落合軍の奪還作戦の前に徐々に追い詰められ、
ゲマにも見捨てられてしまう。
打つ手がなくなってしまったことで
イチロー達に直接対決を挑むことになるが、これに敗れて爆散した。
エドガー曰く「
有能な者は自分が育てたと言い、育てたがる」と言い張ることで有名らしい。
現実における星野仙一
岡山県の倉敷商業高校から明治大学を経て1968年のドラフトで
中日ドラゴンズに1位指名されて入団。
明治大学で島岡吉郎の元でプレーしたことが影響したのか闘志を前面に出すスタイルで中日の選手、監督として活躍した。
後に阪神、楽天でも監督を務め、いずれの球団でもリーグ優勝を経験している。異なる3球団でいずれのチームを優勝に導いたのは史上3人目だった。
2018年に膵臓がんで逝去するが、楽天は星野の功績を讃えて監督時代に背負っていた背番号77を永久欠番とした。
上記の通り監督としての経歴は輝かしいが評価が分かれる人物である。いずれのチームも大型補強によるチーム力の強化によって躍進というパターンのため、監督の采配というよりも星野自身の政治力を生かしたチーム編成、いわゆるゼネラルマネージャーとしての手腕が評価されていると言った方が正しいかもしれない。
事実、監督としての采配はミスした選手に挽回の機会を与える「温情采配」が多く、北京五輪ではこれが仇となって
G.G.佐藤が再三致命的なエラーを繰り返してメダルを逃す結果となっている。
時代の違いもあるが、中日監督時代には選手に鉄拳制裁をしていたこともマイナスイメージとなっている。試合中でも平気で選手を殴り、鼻血を流したままグラウンドに出ていた選手もいたという現在であれば100%アウトな逸話がてんこ盛りである。
しかも星野が自ら暴力をしていたことで中日ドラゴンズのチーム全体にも暴力が蔓延し、後に中日の監督を務める
落合博満がチームから暴力を根絶するのに数年かかったというほどの負の遺産を残してしまった。
しかし野球から離れると上記の鉄拳制裁がウソのように優しかったらしく、特に選手のアフターケアや選手の家族に対する根回しはケチが付けられない程良かったという。また、鉄拳制裁された選手は代わりに一軍でプレーする機会を与えてもらえたため「暴力はともかく使ってもらったことには感謝している」という元選手も多いのも事実である。
ネット上のネタである「
わしが育てた」というネタの発祥でもある。詳しくは
こちら
。
最終更新:2023年01月05日 12:06