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 では、日常的な大学での学習では、どのような作業をすることが必要なのだろうか。基本的なことであるが、確認しておきたい。もっとも、学問分野によって、求められる具体的な作業あるいは能力は、かなり異なっているといえる。実験や調査が必要な分野と、ほぼ文献を読むことが多くの部分を占める分野とは、専門家も普段行なっていることは違う。従って、ここではあくまでも「教育学」を前提としている。とはいえ、人間科学という共通の土台がある以上、そこに「共通の作業課題」があることも事実である。
 まずは、「授業」とくに「講義」を念頭において考えてみよう。
 日本の大学では、「講義」を効果的に行なう基本的条件が欠けているといえる。「演習」科目では各自の分担にそって、それぞれ調べたり、実験したりという作業を行い、それを発表して討論する。その場合、それぞれの課題は他の学生にとっては、普段はあまり関係のない作業となる。言ってみれば、「発表」のときにだけ、その内容に触れることも多いだろう。
 しかし、「講義」は教員が全員に話す共通のものであり、しかも、講義そのものは多くの場合、学生にとって受け身である。受け身ではない学習をするためには、「講義のための準備」、「講義におけるやりとり」そして「講義後の作業」という3つの要素をできる限り行なうことが求められる。この要素を確実にこなせば、講義ほど多くの内容を学べる教育スタイルはないとも言えるのである。
 ではどのような「準備」が必要なのか。
 第一に、絶対不可欠なのが、その日の講義の予定となる部分の「教科書」を熟読し、何が講義で問題とされるのかを、できるだけ理解しておくことである。そして、そこでの論点に関する自分の見解をまとめておけば、講義をより深く理解できるだろう。また、討論型の講義であれば、積極的に参加することもできる。
 第二に、可能ならば、教科書に書かれている参考文献に目を通すことである。
 「講義」の時間において注意すべきことは何か。
 問題はノートのとり方だろう。高校までの授業では、教師が黒板に大事なことを板書すると、それをノートに写すという勉強方法をとってきたと思われる。また、高校までの教師は、そうした方法を前提として、板書すべき大事なことを、予め整理しておくのが普通である。しかし、大学の教員は、そうした作業をほとんどしないと考えてよい。つまり、ノートすべきことを丁寧に板書するやり方を、大学の講義に期待しても無駄だと考えるべきである。ノートは自発的に、自分で重要だと思うことを書いていくものと考えられている。私自身は、大学時代、ノートは教授が話している内容を、できるだけ詳細に書き取るものだという意識で書いていた。もちろん、板書とは無関係であり、板書の内容は、話している内容、つまりノートしている内容の確認の意味をもっていたに過ぎなかった。もし可能なら、そのようなノートのとり方は、少なくとも、主に教員がほとんど話して終わる、つまり、学生が参加することのほとんどない授業では、望ましい方法であると思われる。 しかし、最近の大学の講義は、単に話しているだけではなく、パワーポイント等の投影資料を用いることが多くなっている。これは図表や写真なども多く、ノートに書き取ることができない場合が多い。比較的学生の満足度が高いと考えられるため、この種の授業方法は今後も増えていくと考えられる。だが、提示資料を学生が授業後に利用できないと、実は効果がかなり薄れてしまう。従って、できるだけ教員は、資料を事後利用可能な状態を保障すべきだろう。ただ、こうした資料は授業中に教室で提示することは問題ないとしても、事後も利用可能なように、例えばホームページで公開するには、著作権上の問題が発生することが多い。従って、必ずしもすべてを事後利用可能にすることはできないのが実情である。学生は、教員に事後にも利用できるように要請すべきであると思うが、工夫が必要であることは理解すべきだろう。
 質問や許されるなら意見発表等は、できるだけ行なうことが、力をつける上で重要であることは言うまでもない。
 では、授業後に必要なことは何か。
 もちろん、講義で扱った内容について、自分の見解を「書く」ことが効果的である。いかなる知識も「表現」されてこそ消化されるものである。頭の中で理解したつもりになっていても、実際に書いてみると、あるいは他の人に説明しようとすると、きちんと書けない、説明できないという経験をした人は多いだろう。それでは「理解」は不十分なのである。従って、できる限り毎回、「書く」訓練をすることが、確実に理解力、また自分の見解を向上させる上で有効である。
 以上の作業は、この「教育学概論」においては、すべて求められている。現実に、この作業をすべて求める講義は、あまりないだろう。教科書がない場合は当然だが、あったとしても、授業との関連をあまりつけていない講義もある。そういう場合に「予習」は困難だが、この「教育学概論」では、テキストに従って、講義を進む。しかし、テキストを解決することが講義の目的ではない。読んでいることを前提に行なうために、逆に事前に読んでいないと理解が不十分になる可能性がある。
 講義においては、最大限学生の発言を促すようにしている。もともと、教育学というのは、新しい、複雑な知識を学ぶという領域ではない。学生はすべて「教育」という行為の「現役」であり、「教育とは何か」について、みな自分の見解をもっており、よく知っている。従って、知識を学ぶことよりは、既にもっている「知識の吟味」こそが大切なのである。自分の知識を吟味するためには、「討論」するのが最も有効である。できるだけ積極的に討論に参加することが期待される。
 さて、講義後、掲示板に「書く」ことが求められる。題は講義で扱った内容であれば、自由である。
 しかし、近年、学生が書いた文章を読んでいて、より進んだ課題に取り組む必要を感じている。それは、自分の「見解を述べる」ことと、「説明すること」との区別に関してである。ある程度のことを調べ、自分の見解を述べること、その際、自分とは異なる見解についてのコメントを含ませることも、比較的きちんとできる学生が多いのだが、ある事実、概念等について、包括的な説明を、分かりやすく行なうことは、うまくできない学生が多いことがわかった。そのために、「見解」を主に述べる形の掲示板以外に、「説明」のための「人間科学事典プロジェクト」を立ち上げたのである。この二つを利用することで、「書く」力を総合的に延ばすことが可能であると考えられる。
最終更新:2008年07月26日 15:10