教育は、何か教える内容をもっている。教える対象があることが前提されている。「
教育学概論」でアメリカのボストン郊外にあるサドベリ・バレイ校を紹介した。*17)
http://www.asahi-net.or.jp/~fl5k-oot/sud1.htm\footnote詳しくは「教育哲学」「
国際教育論」で分析するが、そこでは決められたカリキュラムは一切存在しない。学ぶ内容は、生徒自身が学びたいと思った内容である。しかし、サドベリ・バレイ校のような教育は、極めて例外的である。というより、サドベリ・バレイ校だけの実践と言えよう。
世界中の「学校」は、あらかじめ決められた「内容」を効率よく教え込んでいくための組織なのである。効率よく教える必要のある一定量の知識があることを、社会が認識したときに学校が成立する。
教育内容といっても、かなり様々なレベルがある。学校教育に限定してみても、教科に関する内容と行事や部活によって取得を期待される内容もある。教科に関するもので主なものは以下のような内容がある。
国家基準(学習指導要領)、
教科書、入試問題、参考書、教室での授業
日本人にとって最も普通に考える教育内容は、学習指導要領(国家基準)に基づいて検定された教科書の中身のことであろう。しかし、よく吟味すると、教科書はそのまま教えられているわけではないし、教科書以外の教材や行事、運営などが、子どもたちの学習内容を枠づけする場合も少なくないのである。国家基準にしても、戦前の日本や社会主義国家のように、国定教科書として、単一の教育内容が国家として決めている場合と、検定制度で見られるように、基準として存在している場合がある。また、検定はしなくても、補助金に関係する国家試験などの基準として存在する場合もある。国家基準の存在しなかったイギリスでは、サッチャーが初めて導入し、それを浸透させるために、補助金を利用している。
さらに国家基準だからといって、必ず浸透するわけではない。国家基準で教えられなくても子どもたちに浸透している「内容」はいくらでもある一方、国家基準で指定され、学校で教えられ、試験でも重視されているにも拘らず、人々の中に一向に浸透しない学習内容もあるだろう。「音楽」などは代表的な事例といえるだろう。「唱歌校門を出でず」と言われたが、学校で教わる音楽と、人々が受け入れる音楽とが異なることを示した言葉である。
また、中学で習った日本語の「文法」は、どれだけ身についているだろうか。
今この文章を読んでいる学生諸君は、すぐに「か行変格活用」の活用語尾を口に出して言って欲しい。言えた者は○、言えなかった者は×をつけておこう。どのくらいの人が○になったろうか。
おそらくその割合は低いと考えられる。しかし逆に、「か行変格活用」を忘れても、日本語を使用する上でなんらの不便もない。ではなぜ記憶として定着もしないし、また、役にもたたない「文化」を学校では教えているのだろうか。
Q 学校で教わらなくても浸透し、学校で教わっても浸透していない例を他に考えてみよう。
教科書も、国定教科書、検定教科書、自由な教科書、一般図書を教科書として使用するなど、さまざまな形態がある。学校では教科書を使用して勉強することは、日本では一般的であるが、教科によっては外国では必ずしも一般的ではない。
例えば、歴史の教科書は、日本では小学生、中学生、高校生用にそれぞれ用意されているが、欧米では通常の歴史の概説的な書物を使用する場合も少なくない。つまり子ども用に編集された中身の薄い書物よりも、多少難しくても大人用の書物で学習する方が、歴史の興味を喚起するには適切であるという考えるによるものであろう。
入試のあり方も教育内容を規定する。その最も大きな事例が中学入試であろう。
開成などの合格が難しい私立中学は、学習指導要領などはまったく無関係な問題を入試で出す。学習指導要領などに準拠した問題では、やさしすぎて選抜の役に立たないからである。そのため、そうした私立中学を受験する小学生たちは、学校の教科書などは多くの場合無視して、せっせと「入試問題」を勉強するのである。大都市圏では無視できないほどに、そうした学習は広まっている。そして、このような学習では、公立の学校よりも、私的な進学塾がもっぱら行っているし、受験生たちには大きな影響力を行使する。
入試が、国家的な管理で行われる場合には、一種の国家基準になる。
日本の共通テストは、公的な機関(入試センター)が実施しているから、国家基準的な色彩をもつ。以前のフランスのバカロレア試験は、国家的な統一試験であったから、国家基準的な代表的な例だったが、現在では高校単位で実施することが多くなったから、国家基準的な要素は少なくなった。
ドイツ、オランダ、フランス等の高校卒業資格試験は、部分的に国家基準的要素が入るといえる。
日本では、公立高校の入試などはもちろん、個別に行われる私立の入試も学習指導要領に準拠するので、国家基準の大きく規制されている。
Q 国家基準はあった方がよいのだろうか。その得失は何か。
Q 教科書の形態はどのような形態が望ましいと思うか。
教室での授業は、統制が難しい分野であるが、視学の監視(指導主事の参観)等による統制や、事実上のスパイ行為等で、統制することも試みられてきた。
しかし、他方で、国家基準と相当異なる授業が行われていることは事実であり、ときとして問題となることもある。
cf 伝習館訴訟、千葉県の旧字体での授業
また教育内容とは、決して教科内容だけにかかわるものではなく、行動に関わる部分もある。日本のような部活はヨーロッパには少ないし、学校行事の種類ややり方も大きく異なっている。
運動会や入学式は日本的色彩の濃い行事であり、卒業式は広く行われているが、「厳粛さ」を求めることはそれほど多くはない。
また「隠されたカリキュラム」という概念がある。教育社会学の分野で主に主張されていることであり、学校制度には、表向きのカリキュラムだけではなく、社会が要請する価値観に基づいた、制度化されないカリキュラムが存在し、それが大きな意味をもっていると考えられている。
時間通りに生活する習慣形成、目上の者に対する服従、画一的な行動の反復習慣の形成などである。これまでの学校の様式は、工業社会に適していると考えられ、工場労働者の割合が低下し、サービス業従事者が多くなった社会では、学校の隠れたカリキュラムが桎梏となる場合もあるだろう。
価値や生活習慣に関する教育内容は、より複雑な状況に直面する。
cf 排便教育
Q
学校の機能として、それぞれがどのような意味をもつか、あるいは、含むべきではない、主要なものであるべきだ、と考えられるのは、どれか、考えてみよう。
最終更新:2008年08月04日 21:18