では、近代社会以降成立した国民教育制度の中で、学校はどのような機能を果たしているのだろうか。これも、個人の立場から見るのと、社会の立場から見るのとでは大分違って見えるだろう。しかし、できるだけそこに共通する要素に着目しながら考察していこう。
{資格付与機能 能力の形成}
人は社会の中で生きていくために、職業を獲得して、経済社会的役割を果たさなければならない。そのために、基礎的な教養から職業的な専門知識まで、自己の中に形成していく必要があるが、その主要な手段は教育であり、現代では学校に通うことによって、そうした能力を獲得していく。
学校の最大の機能は、社会で必要とされる能力を形成することにある。
前に指摘したように、以前は職業上の能力は、徒弟制に典型的に見られるように、その職業団体に入って、初めから形成した。しかし、近代社会が進展するに従い、その基礎部分を中心として、学校で能力を身につけておくようになった。徒弟制は明確な形式をとっていない場合でも、基本的にその職業能力を身につけたという「認定」があり、それが資格となって一人前の仕事を与えられるようになる。このような資格付与機能も、社会の中に膨大な資格が存在するようになる一方、学校がその資格を与える機能をもつようになる。この授業も
教師の資格を取るための授業としての性格を、一部もっている。更に、幼稚園から、
小学校、中学校、高校、大学と学校が階層的に構成されることで、学校の卒業そのことが資格としての意味をもつようになる。
欧米では「資格社会化」が進んで、専門職はすぐに仕事ができるというのが前提で、その証明として資格がある。
日本では企業はむしろ多くの部署で働くことを前提にしているために、特定の能力を形成する必要を、欧米ほど要求しない。むしろ専門が狭くなることを嫌う傾向が強い。
したがって日本の学校の、資格付与機能というのは、通常の資格付与と、潜在的能力証明のふたつを含んでいる。
しかし、日本でも最近は専門的資格が重視されるようになってきている。
その原因は、社会が終身雇用体制から、次第に流動雇用政策を取入れ始めたことにある。雇用の流動化によって、企業内教育が部分的に外部化し、労働者の意識もより良い職場を求めて転職を希望するようになると、再雇用者に対しては、専門的な能力の保証を企業は求めざるを得ない。そうしたきっかけで、資格が社会の中で、次第に重視されるようになってきていると考えられる。
したがって、学校は入試に加えて、資格取得の教育に影響されるようになるだろう。現に大学ではその傾向が顕著である。
さて、このように学校が社会への準備機関として、社会に出たときに必要な能力形成を行なう機能をもつことが了解されるが、しかし、問題はそこから先にある。
社会で要請される能力の形成が、すべて学校にゆだねられているわけではない。そこには当然能力種別の選択がある。いかなる能力が学校で形成されるように選択されるかは、極めて複雑な社会現象であるから、別の機会(「
現代学校教育論」で扱うことになる。)に譲るとして、学生諸君の多くが感じているように、そこにミスマッチが多々見られることである。「なんでこんなことを勉強しなければならないのだ」という疑問を感じたことがない学生はいないだろう。このミスマッチは、社会と学校の間でも、また、学校と個人の間でも生じる。個人の問題は、多くが得意不得意の問題であるから、個人的に解決されるべきことがらであるが、社会と学校の間のミスマッチは、改善しなければならない。
{教養の問題}
このミスマッチは、職業上必要な能力以外の対象まで含めると一層大きくなる。人は職業生活だけを生きているわけではなく、むしろ自由時間を活かした「遊び」の中に生きがいを感じる場合も多い。また、職業や遊びを楽しく、生き生きと実践できるために、健康な心身の形成も必要であり、そうした課題も学校に課せられている。
このミスマッチを具体的に見ると、一般社会の中で共有されている「教養」の内容とは別に、「学校にだけ存在する教養」つまり学校文化があることがわかる。体育の「揃った行進」や「右向け右」、学校で教える「文法」、音楽の移動ド唱法等々、他にもあるだろう。また、一般社会の教養は広大な領域に渡っており、それを選択して学校で教えるが、その教養への親しさが、生徒の家庭環境等によって異なることも、多様なミスマッチ感をもたせる。P.ウィリスは『ハマータウンの野郎ども』の中で、労働者階級と中産階級の文化背景が異なり、学校の教育内容が中産階級の文化・教養を前提にしているため、労働者の子どもたちは、最初から学校の教育内容に親しみを感じないというメカニズムを明らかにしている。
Q どのような教養の内容が学校で教えられるのにふさわしいのか、その原則について考えてみよう。
学校は職業が要求する、様々な資格や基礎資格を認定したり、認定する条件を与える。
まずは、一般的に言われている学校の機能を整理しておこう。
世界のほとんどの国は、子どもはある一定の年齢になったら、「学校」に通わなければならないことにしている。先進国の多くは、現在「
義務教育」は12年であるが、日本は未だに9年で、制度的に見れば短い。しかし、実際の就学率は、あらゆる年齢層で、最も高い国の一つである。
学校は経済の発展した国では、膨大な人口を抱えた大組織になっている。したがって、以下のような社会的機能をもつに到っていると理解されている。
学校の表向きの機能として、次の三点があげられることがある。(制度を規定する時、社会の現実の在り方を念頭にして規定する方法と、制度には理念があり、その理念が実現していないにせよ、それがめざすべき姿を示しているとして、その理念で規定する方法がある。前者を「存在論的規定」や「社会的規定」といい、後者を「価値論的規定」や「目的的規定」などという。以下の規定は前者の範疇である。)
①選抜機能
②資格付与機能
③統合機能
③統合機能
教育が単に個人の教養を高め、職業の準備をし、職業に必要な資格を認定するためであれば、個人や職業団体が教育を組織すれば済むことであり、国家が学校制度を設置する必要はない。近代公教育以前の教育システムはそのように運営されていた。国家が国民教育制度として学校制度を成立させているのは、国民が創出され(近代以前には、つまり、国民国家成立以前には、「国民」は存在しなかった。)、国民意識を涵養することが、国家の安定のために必要と認識されるようになったのである。国民教育制度はそうした安定した国民作りに大きな力をもつと考えられている。
日本が近代国家となり、国民教育制度を設置したのは明治維新であるが、その後の「日本国民」のあり方を考えると、こうした学校の「統合機能」の意味が理解できる。
江戸時代までは、中央集権国家ではなかったから、統一的な日本語は存在せず、「日本語」を整備し、それを国民に根付かせる上で、「
教科書」を作成し、それを全国で統一的に教えた教育の力は最も大きかったと考えられる。新聞や文学は、かなり時代を経るまで文語体の影響が強かったが、教科書は早い時期から口語体の日本語を普及させ、しかも国定教科書であったから、日本全体でひとつの言語を学ぶことになったのである。
また、明治政府は日本人の統合を進めるために、教育を最大限利用した。修身や歴史教育を軸とした道徳教育や国民意識の形成、すべての階層の子どもが一緒に学ぶ「統一学校」による一体感の涵養、こうした教育によって、「単一民族国家」という意識が形成されてきた。
もちろん、日本人は決して「単一民族」でもなく、また、様々な価値観をもった人々の集まりであり、こうした統合機能への疑問も存在する。「君が代・日の丸」問題のように、この統合機能は、大変微妙な問題を多く含んでいる。
1950年代のアメリカは、世界の大国としてゆるぎない地位を誇っていたが、その教育の目標は「アメリカナイゼーション」とされていた。移民も含めて、英語を修得し、アメリカ人としての資質、意識を形成することが、教育の最も重要な目的とされたのである。しかし、その後ベトナム戦争の衝撃、難民や不法移民など、以前とは性格の異なる移民の増加などにより、そうした教育がうまく機能しなくなった。アメリカナイゼーションという教育目標は、あまり強調されることはなくなり、むしろ、多民族の文化を尊重しながら、どのように社会の安定を図っていくかという意識が、強くなっている。
しかし、このことは教育の統合機能を否定する論拠にはならない。むしろ、戦前日本の統合はその具体的あり方が問題だったのであって、より自由を含んだ統合であれば、社会の安定に寄与することは明らかであるから、望ましい統合とは何か、そして、どのような教育がそれに寄与できるかという形態を模索することが、必要であるとも言える。
そして、それは更に国際社会における統合の問題に発展する。(この問題については、より「
国際教育論」で詳細に扱う。)
{選抜機能 }
近代社会は複雑な分業社会である。膨大な職種に分かれ、それは多くの場合階層的に構成されている。一つの企業の中も、ピラミッド型に編成され、そこには様々な職種の分化がある。近代以前の身分制社会では、生まれによってそうした職業は定まっており、生まれながら、分業のどの位置に落ち着くかは決まっていた。
しかし、平等な市民社会では、能力と個性と個人の希望に基づく競争によって、それが決まっていく。そして、その競争の場を提供しているのが学校制度である。そして、それは入学選抜制度として定着している。
しかし、「教育の本質」から考えれば、選抜・競争は個人の発達にとって、必ずしもプラスのものではない。「好奇心」を媒介とする学習を促進するためには、競争は不要であるし、また、時には阻害要因にもなるはずである。もちろん、競争が学習意欲を喚起することはあっても、それは、勝者になりうる場合に限定されるだろう。すべての者が意欲をもって学ぶ状況は、競争によって作り出すことは難しい。そのことを強調する立場からは、学校は選抜機能から自由になり、選抜は社会に返還するのがよいという立場になる。選抜機能から解放されれば、学校は教育的立場を貫くことができると考える。確かに、資格付与機能や選抜機能を全くもたないデンマークの民衆学校(フォルケホイスコレ)は、ただ学びたいから入学し、学ぶことが楽しいので学んでいるという学校であり、ある意味ではこうした学校こそ、理想の学校という見方もある。
しかし、他方、社会が選抜機能を必要としている以上、どこが担うのが適切かという点から考えて、入社試験などのような機会の限定された選抜よりも、義務教育から高等教育まで含んだ長い評価期間を経ることができる「学校制度」の方が、性格な選抜ができるから、学校こそ選抜機能を担うのが社会にとっての利益であるという立場もありうる。競争の結果の判定が、各人の能力を正確に計っているほど、社会は安定することになるからである。
ひとつの考えは、選抜は勝者と敗者が生まれるものだから、学校教育が勝者と敗者の差を生むような行為はすべきではなく、社会にとって必要な能力の判定は社会がその社会固有の価値観に基づいて行うべきであるというものである。その可能性は小さいというべきだろうが、考えとしては成立するし、また、現在私立受験を行う児童に対して、小学校は評価に関わっていない場合が多い。つまり、私立受験は塾や教育産業がもっぱら事前教育や評価を行っており、その評価と私立中学独自の試験による評価が私立受験の進行に専ら関わっている。しかし、公立の6年制の中等学校への進学については、公立小学校が評価に関する事務を行うように期待されているので、今後この点も変化があるかも知れない。
もう一つの考えは、大学までの12年間の教育活動の評価は、その人物の様々な能力の評価として最も信頼のできるものであり、学校が社会全体の中のひとつの組織である以上、学校で行われる評価を社会が利用するのは当然であり、かつ合理的であるとするものである。この考えにたてば、評価の正確性や恣意的な利用の防止が問題になる。
Q 学校の評価が社会の選抜に使用されることについて、自分の考えをまとめてみよう。
最終更新:2008年08月18日 05:52