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 教育内容を規定する、最も根源的な要因は社会そのもの、社会のあり方との分業のあり方であろう。社会そのものが、基本的に人々に求められる能力を決めるし、それを教育という形態で育成する内容も規定する。分業がまったく存在しない社会では、おそらく「組織的な教育」という営みはなかったと考えられる。子どもを育て、仕事を教えることも、仕事を手伝いながら自然に覚えていったに違いない。
 未開社会においては、教育とはその種族の習俗を習得し、その成員となるための大人世代による営みであった。

The purpose of primitive education is thus to guide children to becoming good members of their tribe or band. There is a marked emphasis upon training for citizenship, because primitive people are highly concerned with the growth of individuals as tribal members and the thorough comprehension of their way of life during passage from prepuberty to postpuberty. *18)http://www.britannica.com/eb/article?eu=108329\&tocid=47438\#47438.toc

 もちろんのことながら、子どものころの教育には系統的な標準化されたカリキュラムなどは存在しなかったが、その社会の文化が伝達すべき内容を枠づけていたと言える。そして、成人になるイニシエーションにおいては、比較的厳格な内容がそれぞれの種族・社会において成立していた。
 さて、学校は「文字文化」の成立とともに現れたといわれている。文字は集中的に長期間学習に専念しなければ、なかなか修得できないかからと考えられる。最初に学校に行ったのは、「文字」を使用する「僧侶」や「官吏」であった。文化が異なれば、教育内容も変わってくる。また、社会の中に複数の大きな文化があったり、あるいは、社会の中が、価値観的に分裂している場合がある。分業が生じると、管理労働が必要となり、まずは管理労働に従う人員を養成するために、組織的な教育(学校)が始まったと考えられている。
 現在のように高度に分業が発達した社会は、それぞれの領域の教育だけではなく、分業のどの部分を占めるのか、子どもの頃は未決定であるために、またある仕事に就いたからといって、一生変わらずにその仕事を続ける人は少数であるから、「共通教養」や「応用力」が必要であると考えられる。
 しかし、社会が教育内容を決める、というだけでは、ほとんど意味がないだろう。実際に学校で教えられるべきであるとされる内容と、社会で求める内容が常に等しいとは限らず、学校にしか存在しないと考えられる「文化」も存在するし、社会の中にある文化の一部分が取り入れられる以上、より具体的に内容決定に影響を及ぼす実体があると考えなければならない。
 教育の内容に対する要望は、経済界、政治等様々な分野から出される。そして、学習指導要領は文部省が任命した専門委員が作成する。大体学者、現場の教師が中心となる。しかし、多くは官僚機構と政府の委員との間の調整で原案が作成されていくと考えられる。
 学習指導要領を柱に、各民間の教科書会社が執筆者を依頼し、教科書が作成される。教科書をめぐっては、日本では国際的に有名な「教科書訴訟」が1960年代から行われ、家永三郎を引き継ぐ形で継続して訴訟が行われている。学習指導要領や教科書で何を取り上げるか、あるいはどのような教材、教具を使用するかなどについては、教材・教具を制作するメーカーの圧力なども見逃すことはできない。小学校で使用される楽器がハーモニカからリコーダーに変化してことなどは、単に音楽的立場からだけではなかったと言われている。
 体育に武道が入る、家庭が男女共習になるなども、様々な社会的な見解の反映であろう。
 社会にはほとんど存在しない、あるいは意識されないにも拘らず、学校の教育内容に存在する文化も稀ではあるが存在する。先述したように、例えば「学校文法」がそのひとつである。学校を卒業した人が、「か行変格活用」「連用形の中止法」などを意識することはありえないだろう。しかし、高校入試では常に一定の割合で出題され、生徒たちの学習を規制している。

Q 他に学校にしか存在しない文化をあげてみよう。

 また、日本ではほとんど問題にならないが、国際的には使用言語の問題などもある。シンガポールでは2カ国語政策をとっており、国民は学校で必ず二つの言語を学ばなければならない。これは、言語をめぐる対立を学校教育によって緩和しようとする政策であるが、逆に、言語使用が社会問題となることもある。(詳しくは三年時の『異文化理解論』で扱う。
 かなりラフな整理となるが、社会が求める内容を土台に、国家が国家的要請で基準化した内容が、主な公教育の内容となっていく。しかし、社会が大きく変化し、社会の求める内容と既存の学校教育の内容にずれが生じていくことが、歴史的に何度か起きた。市民革命や産業革命の後などであるが、現在もおそらくそうしたミスマッチが強くなり、不登校や高校の退学となって現れているとも考えられる。
最終更新:2008年08月04日 21:19