{大分県の教員採用・昇任不正事件}
2008年の春から夏にかけて、教育界を揺るがしたのは、大分県における教員採用試験と昇任試験の不正摘発であった。実に最近は4割近くの採用者が不正採用であったとも言われ、人脈と収賄の関係で教員採用と昇任が左右される実態が明らかになった。そして、刑事事件にまで発展している。
このとき、大分県は特殊なのかという問題がメディアでも大いに議論されたが、多くの人は程度の差はあれ、他県でも似たような状況があるのではないかと考えたようだ。確かに、教育界では「コネ」があるかないかが、教員に採用される際に重要な役割を果たすと、信じている人が以前から少なくなかった。事実はわからないにせよ、しかし、そうした気分が広まっているだけで、教育界にとってマイナスだろう。
大分県の事例は、公正であるべき採用試験が、公正さがまったく欠けていることを示した。
では、採用試験における公正さとは何だろうか。
通常の公立学校の教師は地方公務員であるが、地方公務員法は、競争試験の原則を「競争試験は、人事委員会の定める受験の資格を有するすべての国民に対して平等の条件で公開されなければならない。」と規定している。もっとも、教育公務員は「教育公務員特例法」において、競争試験ではなく、「選考」によるとされているので、多少異なるが、しかし、この原則の上に選考も行なわれると考えるのが妥当であるから、「国民に対して平等の条件で公開されなければならない」という原則は、教員採用試験にも当然適用される必要がある。つまり、大分県の採用試験は、「平等の条件」が保障されていなかったわけである。
{日本の
教師の評価の高さ}
これまでかなり多数の教師に接してきただろう。その中ですばらしい教師、合格の教師、不適格と思われる教師は、どのような割合だっただろうか。もちろん、人によって違うだろうが、少なくとも少数ながら、教師として向いていないと思われる人たちに出会ってきたのではないだろうか。
1980年代以降、教師や学校への批判は強くなってきた。従って現在の学生世代は、学校批判・教師批判の中に生きてきたわけだから、昔のように、教師は偉い人、言うことを聞かなければならない人、という素朴な感情に支配されてきた人は少ないに違いない。冷静に教師を見てきた人が多いと思われる。
ところで日本の教師は経験的にみて、多くの国に比較して、非常に優秀な集団を形成している。およそ先進国で「教師不足」に悩んでいない国は、日本以外にあまりないように思われる。教師への批判が強くなったとは言え、教師に対する社会的な評価は低くないし、教師になりたい青年は毎年多数に上り、教職はいまだに狭き門である。(団塊の世代が教職を定年で去る数年間は募集が多くなり、多少広き門になっているが、それでもかなりの倍率である。)
ボストンパブリックというアメリカの公立高校を描いたドラマがあるが、その教師が比較的広めの住居を買おうと思って、銀行に融資を申し込むが断られてしまう。理由を問いただすと、最初は認めないのだがやがて、教師であることが理由であることがわかる。つまり、教職は社会的な地位や経済力が低いので住宅ローンは貸せないというわけである。日本ではおそらく考えられないことだろう。ドラマでの話として割り引く必要はあるが、アメリカの教師の地位が低いことは否定できない。イギリスでは教師の不足は深刻で、英語がきちんとできれば外国人でもすぐに教師になれるとまで言われている。文字通りの事実ではないにしても、イギリスにおける教職の人気のなさを示している逸話であろう。
それに対して日本の教職の人気の高さは際立っている。そして事実優秀な人材が多数受験しているのである。それにもかかわらず、なぜ教師に不向きであると思われる人たちが少なからず現場に採用されていくのだろうか。また、研修に相当な時間が割かれているにもかかわらず、成長していかない教師がいるのはなぜなのだろうか。
{教員採用試験は何を見るのがよいのか}
日本の教員採用の特質は、通常は一部の政令指定都市を除いて、都道府県単位の一括採用であり、原則として一学校単位での採用はないことである。(私立学校は例外)そして、
7、8年毎に移動がある。
一般的に公務員の採用は、「試験」によるとされている。この「試験」とは通常、「競争試験」を指す。国家公務員の上級職などは、具体的な官庁への所属決定は別として、合格は、試験の点数で決まる。
他方、教員については、「選考」によると、教育公務員特例法に明記されている。
13条1項 校長の採用及び教員の採用及び昇任は、選考によるものとし、その選考は、大学付置の学校にあってはその大学の学長、大学付置の学校以外の国立学校にあっては文部大臣、大学付置の学校以外の公立学校にあってはその校長及び教員の任命権者である教育委員会の教育長が行う。
「選考」とは、競争的な試験だけではなく、さまざまな要素の試験を加味して、総合的に判定することをいう。
実際に応募要項から引用しておこう。
三重県の場合次のようになっている。
6 選考試験について
(1) ねらい
ア 公立学校教員は、児童・生徒の人間形成に深くかかわるという社会的使命を負っていることから、教育公務員特例法により、競争試験ではなく選考試験により採用することとなっている。
イ 本県では、有為な人材を得るために、選考にあたっては、試験当日実施する各種試験以外に、志願書に記入された部活動歴等、ボランティア活動・自主活動歴、趣味・特技・資格等のほか、複数免許状の所有状況等も考慮することとしている。
各種試験には、教職教養、専門科目(
小学校なら全科目、中学、高校なら担当科目)、一般教養等の筆記試験に加えて、小学校の場合には体育や音楽、美術の実技試験が適宜加わる。そして面接が行われるのが普通だが、更に「模擬授業」を課せられるところもある。
教師の採用を、競争試験ではなく、選考によって行うことについては、反対論はあまり見られない。しかし、選考という手段は、逆に、縁故、学閥の問題という問題を生む土壌ともなる。実際に、文教大学でも、自分の親は教師だから、一次試験が通れば、採用は大丈夫と考えている者もいるようだ。
ある県では、ほとんどの教師が特定の大学の出身者で構成されており、少なくとも、教頭や校長になるのは、その大学出身者でなければなれない、といわれている。(ただし、その事実を示す公開資料は存在せず、内部情報による報道がなされているだけである。)
したがって、選考の「基準」(何によって選考をするのか)と、判断プロセスを誰が行うのか、という問題が重要な意味をもってくる。
残念ながら、教員採用試験の問題は、ほとんどが「勉強の意欲」をかき立てるような問題ではない。端的な例が教育法規関係の問題で、単に条文を暗記することが求められる問題ばかりです。その条文が具体的にどのような場面で問題になり、どのような考え方で現実と法規の関係をつけるのかを問うような問題は出されない。少なくとも、私は学生と教員採用試験のための勉強会をやっきてきたが、そのような問題は見たことがない。
このような勉強を強いているとしたら、「新しい学力」や「考える力」や「生きる力」を豊かにもった学生を確実に選抜することができるとは思えない。もちろん、優秀な学生はどのような問題にも適応できると考えられるから、このような問題による合格者はそうした能力を欠いた学生ばかりだとは言えないが、不適格な者が入り込む余地は十分にあるだろう。なぜ、深い勉強や問題意識を持った学生を選びだせるような問題を作成しないのだろうか。
また、近年重視されている「模擬授業」などの実際の授業能力を試す試験も、大きな原点をもっている。私がオランダ滞在中に調査した限りでは、オランダの学校でも模擬授業を行うが、それは実際の生徒に対して授業を行うのだが、日本の採用試験では、試験官たちを相手に授業を行う。つまり、子どもに対する授業ではないのである。実際に授業を行うことは積極的な意味があるだろうが、子どもに対する授業と大人に対する授業では大きな相違があり、子どもを相手にする教職の適格性を見るには不十分であるといえる。子どもを相手にしたときこそ、その人の教職適格性が端的に現れるし、また、子どもの反応こそ、最も的確な判断基準を提供するものである。
Q 選考の対象となる「基準」は、どのようなものがあるとよいと考えるか。三重県の例なども参考にして考えてみること。
Q 誰が「選考」過程に関与すべきか。
最終更新:2008年08月18日 22:35