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 この問題は結局、教育が社会的な制度として存在している理由に係わる。
 もし教育の成果を個人が100%受けるのであれば、社会は公的な費用を教育に対して支出することはない。ある個人が教育を受けても、それが社会全体の利益になると考えるから、公費が支出されるわけである。しかし、個人が受ける利益と社会が受ける利益が、具体的にどのように数量化されるか、という点については、確定できるものだろうか。
 極めて単純に言えば、個人の利益として受け取る部分の費用は私費負担する、通常それは「受益者負担」と言われる。そして、個人が負担するにはあまりに大きな部分や社会全体の利益に係わる部分の費用は公費で支出する。まずこのように考えてみよう。
 欧米の学校では、多くが学校教育に係わる費用は、すべて公費で支出されると書いた。つまり、教材や学用品、遠足の費用等も公費で支出される。それらの中で、日本では多くの私費負担がある。学用品類をはじめてとして、遠足、部活の費用、制服(学校指定の様々なもの)等。
 しかし、給食などはオランダではなかったので、お弁当にするか、帰宅して昼食を食べるかの選択であり、公費支出はなかった。つまり、「食」に係わる部分は個人の利益と考えられていた。
 それに対して、日本のように給食に関して、材料に係わる部分についてもある程度の公費補助がある。このように、国によって、私費負担する部分と公費負担する部分とでは大きな相違がある。
 ではどのような考え方に基づいて、公費負担をする、しないが決められるのだろうか。もちろん、大きな理由は財政的な事情があるだろう。できるだけ多くの子どもが、できるだけ教育を実質的に受ける機会を保障されることが、社会全体の国民の教育水準を高めることになり、そのために教育に公費をできるだけ支出すれば、個々人が経済的事情で教育を受けることができたりできなかったりすることがなくなり、平等が実現し、それが社会全体の利益となる。
 このように考えれば、教育に多くの公費を支出することになるだろう。そして、教育から受ける利益は社会全体にはあまり関係なく、個人がほとんどを受け取るのだと考えれば、公費支出はできるだけ小さい方が好ましいと考えるはずである。しかし、教育が社会全体の利益になると考えても、次のように考える場合には、事情が異なってくるかも知れない。
 教育というのは個々の家庭なり親・子どもが選択対象とするひとつに過ぎない。また教育といっても、公教育とばかりは限らず、ホームスクールや塾等の私的な教育組織に期待する場合もありうる。家族は子どもだけではなく、大人もいるのだから、大人も含めれば家族としての選択肢は多様になる。その場合、公費支出を多くすることは、税金も高くなることを意味し、家庭で支出できる部分が狭まることを意味する。むしろ教育もひとつの選択肢ではあるが、家庭が支出できる資金をできるだけ多くし、個々の家庭が自分たちの実現したい価値に選択的に支出できるようなやり方の方が好ましい。
 この場合には、公費部分は小さいものであるべきだと考えるだろう。この考えにたつと、経済的に貧しいために進学できない人がいるとしたら、それは様々な教育補助、生活扶助、奨学金等で補助すればよいということになる。
 このような補助には以下のようなものがある。
  • 教育扶助  生存権保障のための「生活保護」の一環として助成
   教科書等の学用品、給食費その他義務教育に必要なもの。原則として金銭給付。
  • 教育補助  教育法規に基づく助成
 小・中学校における義務教育の円滑な実施のため、経済的な理由で就学が困難な学齢児童、生徒の保護者は、国および市町村から援助を受けることができる。
 就学援助の内容は、学用品費、通学用品費、校外活動費、通学費、修学旅行費、クラブ活動費、体育実技用具費、新入学児童生徒学用品費、学校給食費、医療費の補助と日本体育・学校健康センター掛金の免除である。
  • 奨学金   返還不要、返還必要(利子あり、利子なし)等様々なものがある。ただし、以前は育英会の奨学金は教職等に就くと返還免除になる特権があったが、現在では廃止されている。このような「免除」規定の是非も議論となるところである。

   cf 留学生の授業料
最終更新:2008年08月04日 21:29