学校は本来「安全」な場所であるというとき、最も安全性が確保されなければならないのは、いうまでもなく「授業」である。教師は、危険な要素のある授業を行う際には、細心の注意を払う必要がある。しかし、授業そのものの中に、危険性はつきまとうのである。
イ 体育の事故 --- 「公立中学校水泳授業飛び込み事故」
昭和50年、助走つきの飛び込み練習で、空中でバランスを失い、水深1メートルのプールに、垂直に頭部から落下して、全身マヒになった。
授業中のプール事故、横浜市の賠償1億3千万円確定 最高裁
昭和50年7月、横浜市内の市立中で体育授業中に、教諭の指導でプールに飛び込む練習をしていた3年生が、水底で頭を強く打ち全身マヒとなった事故をめぐり、その生徒と両親が「教諭の指導に過失があった」として横浜市に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第2小法廷(林藤之輔裁判長)は6日午前、横浜市の上告を棄却する判決をした。これで横浜市に対して1億3000余万円の支払いを命じた2審判決が確定する。この金額は、学校事故に関するものとしては最高額となる。
判決は、原告側が請求の根拠にした国家賠償法1条1項に定められた「公権力の行使」の解釈について、「公立学校における教師の教育活動も含まれる」との判断を初めて明確に述べた。
この日勝訴が確定したのは、横浜市緑区竹山2丁目、今野良彦さん(26)と両親。
1、2審判決によると、今野さんは、同区内の市立中山中3年生だった50年7月15日、体育の授業中、教諭の指示通り助走をつけてプールに飛び込んだ際、バランスを失って水面にほぼ直角に頭から突っ込んだ。水深は約1メートルで、水底に頭を打ちつけた。事故後、首から下がマヒし、肩を上げたり、ひじを曲げたりする以外体を動かすことができなくなった。今野さんは、現在、週1度リハビリ訓練に出かけるほかは自宅にこもる生活を余儀なくされている。
1審勝訴のあと、2審東京高裁も、59年5月、「教諭が指示した飛び込みの方法は、体育の水泳指導書などによったものではない。踏み切りのタイミングや位置が難しく、安全な空中姿勢をとることも困難となる危険性を含んでいる。指導教諭は注意を怠った過失がある」などと判断した。
そして賠償額については、今野さんの逸失利益(49年間就労を想定)約5300万円、付き添い看護費用(52年間分)約4800万円、療養のための自宅改造費、雑費約1100万円、慰謝料2000万円、両親への慰謝料700万円、弁護士費用1100万円の計約1億5000万円の損害を算定したうえ、すでに支払われた見舞金など1900万円を差し引いた額とした。*30)朝日新聞 87/02/06
この飛び込み事故の大きな問題点は、教師が飛び込みをするように授業の指導として行なっていたことであろう。
つまり、かなりの事故と犠牲者が存在していることになる。
飛び込みについては、「逆飛び込み」が指導内容に入っていたが、それを改め、クロールと平泳ぎという泳法の指導を重視していると答えている。
また水深については、基準が80センチ以上であるが、1メートル以上が望ましいと指導しているという。そして、1.2メートル以下の水深の部分では飛び込み台を作らないように指導している。
1966年の「水泳プールの建設と管理の手引」(部分的に改めたと答弁している。
文部科学省が「水泳プールの建設と管理の手引き」のなかで、プールの水深を定める。
小学校で、0.8~1.1メートル。
中学校で、0.8~1.4メートル。
Q 教師の指導は適切であったか。
プールの水深は妥当な条件であったか。
この結果プールでの飛び込みは次第に禁止されるようになった。(これは妥当か)
ロ 理科実験の事故 --- 過酸化水素水加熱実験
公立中学校で、過酸化水素水を加熱して、酸素を取り出す実験で、授業時間内に終わらせるためには、アスベスト金網を用いる正規のやり方だと、時間が足りないことを考慮して、炎を小さくして、金網を用いない方法で、実験授業を行ったところ、試験管が爆発して、6名が目を負傷、一人は外傷性白内障になった。
この実験が、適切なやり方でないことは間違いないが、時間数の配当等、カリキュラムが適切にくまれていたかが問題となろう。
ハ 小学校3年生の持久走授業での死亡事故
持久走時の事故は非常に多い。そして死亡事故も少なくない。
事故のあった翌日、福岡市教育委員会は、記者発表を行った。それを受けた記者の一人が父親の宮崎さんに取材したところ、持参した発表資料の時間的経過が、実際と異なっているのに宮崎さんは気がついた。救急車が病院に搬送した時刻を、実際より28分も早く報告していたのだ。
家族が調べ直したところ、事故隠しとも受け取られかねない学校側の対処が次々に明らかになってきたという。
最愛の娘を失った宮崎さんが本誌に、やり場のない怒りと悲しみを訴えた。
「私は、福岡市立警固小学校三年二組の故宮崎陽子(享年九歳)の父です。陽子は、平成二年の夏に晩婚の我が家において待望の長女として生まれました。私達は、太陽のように明るくおおらかな慈愛に満ちた女性に成長するようにとの願いを込めてこの名をつけました」
後に二女、長男にも恵まれ、陽子さんは3人兄弟のお姉さんとして、明るく素直で思いやり深い子に育ったという。
その陽子さんが3年に進級した5月ごろから、軽い喘息の発作を起こすようになったという。このときは1週間ほどの服薬で治ったというのだが、学校の持久走大会に向けての練習が始まった11月18日以降、体調不良を訴えだし、再び、軽い喘息発作が起こるようになっていた。
「11月26日の朝、私がいつものように娘を学校に送っていく道中で、ふと気がつくと娘はシクシクと泣きながら遅れ気味に歩いていました。『どうしたの』と聞くと、娘は『今日、学校で持久走の練習があるんだけど、体がきついから、ほんとは走りたくないよぅ』」と答えました。『体調が悪いんだったら、持久走の練習ぐらい、先生に言って休めばいいじゃない。無理するのはよくないよ』と言いましたが、『陽子のような子供が言っても先生は絶対信じてくれないから……。もう学校に行きたくないよぅ』」
そこで宮崎さんは教室まで出向き、担任のA講師に持久走の練習を、休ませてくれるように頼んだという。
「私が先生に頭を下げて、健康面についての配慮をお願いしている姿を見て、娘は多くの級友の前で、まるで何かの重圧から解き放たれたかのように大声で泣きじゃくりました。その姿は今でも私の脳裏に鮮明に焼き付いています」
陽子さんが亡くなったのはそのわずか1週間後、12月3日のことだった。
前日、前々日とも軽い喘息発作があったため、宮崎さんは持久走の練習を休ませてくれるように「れんらくノート」に書いておいた。だが、当日は、担任に通常より20分早い8時10分に登校するよう、指導されていたため、あわてて飛び出す娘の「ノート」に書き込む暇がなかったのだという。*31)週間読売
http://members.tripod.co.jp/TMiyazaki/yomiuri.htm 事故全体についての父親のホームページ
http://members.tripod.co.jp/TMiyazaki/index.htm
最終更新:2008年08月06日 22:46