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 さて先天性について検討してきたが、これは教育にとってどういう意味があるのだろうか。先天的に障害がある人たちは、歴史的には教育から排除されてきた。義務教育制度においても、障害がある場合に免除されている。以前は障害者の教育は二重の義務免除があった。ひとつは障害者自身の義務が免除され、また国家も障害者への教育保障義務を免除されていた。現在では、後者の義務免除は廃止され、国家及び自治体は障害者に対して教育を保障する義務がある。しかし、障害者自身は義務を免除されることがある。これは免除であって排除ではないから問題ないのだろうか、それとも免除は事実上排除として機能する場合もあるから問題なのだろうか。
 また障害のある者は健常者と同じ教育を受ける権利があるのか、あるいは独自の教育を受けざるをえないのだろうか。だれがそれを決定する権利があるのだろうか。こうした問題は日本ではまだまだ未解決の問題として残っている。(詳細は別の講義で扱うので、ここでは問題の指摘のみを行う。講義では議論をする機会があるかも知れない。)
 逆に特別に優れた才能を持った人の教育はどうだろうか。日本ではこの側面の教育は行わないという意識が強い。しかし、アメリカには「天才」のための学校があり、天才はかなり若い年齢で大学に入学する場合がある。ブッシュ政権の安全保障問題のライス大統領補佐官は15歳でデンバー大学に入学し19歳で卒業した経歴をもつ。日本ではごくわずかな大学に18歳未満の入学を許可しているが、極めて例外的である。また戦前は存在した飛び級制度はまだ戦後の日本にはない。
 しかし、欧米社会と日本で「才能」に関する大きな違いは、芸術教育に対する考え方や制度に現れているように思われる。日本では音楽的才能や美術的な才能が、数学や国語の才能と特別異なっているようには考えられていないし、また入学試験などで別のやり方が行われているわけでもない。一方欧米の「入試」はほとんどの場合、下級学校の成績認定が最も重要な判断材料になっていて、特別の「入学試験」を課すことは例外的である。(たとえばアメリカの難関私立大学など。)しかし、音楽学校などは特別の入学試験を行うことが普通なのである。つまり、それだけ芸術分野は特別な分野だと思われている。
 20世紀の代表的なピアニストであるマウリッツィオ・ポリーニは、インタビューでイタリアでは天才的な音楽家が多数生まれているが、音楽学校はどのような教育をしているのですか?という質問に対して、「ただひたすら天才が入学してくるのを待っているだけだ。天才が入学してきたら、天才に教えることは何もないので、ただ自由にさせている」と答えている。半ば冗談であるかも知れないが、少なくとも希有の天才であるポリーニは音楽学校でこのように扱われたのだろう。
 このような発想の違いは、「臨界期」のところで述べた「絶対音感」に対する接し方についても現れている。日本では音楽教育を子どもに対して施している親の間で「絶対音感」に対する意識が非常に強い。そして、絶対音感を形成するメソッドがある。しかし、ヨーロッパでは絶対音感はむしろ、才能そのものの現れと見られているようだ。もちろん努力して形成されることがあったとしても、むしろ先天的にせよ環境にせよ、努力もせずについていることが大切で、そういう者が音楽家として育っていくのだという感覚があるように思われる。少なくとも日本の音楽教室のように、絶対音感を身につけさせるための特別なメソッドによる教育活動が行われていることはないようだ。(ソルフェージュは絶対音感の形成に有効であるとされているし、また欧米でもさかんに行われているが、それは絶対音感の形成の目的で行われているわけではなく、広く有効な音楽教育の一環として行われていると考えられる。)
 もちろんヨーロッパのような才能をもった特別の人と一般の人の芸術教育を、原理的に区別することが適切であるかどうかは大いに議論すべきところであろう。少なくとも日本では学校教育でかなり充実した音楽教育が行われ、それが広く日本の音楽人口を形成し、そこから才能をもった人たちが育っていったことは否定できないだろう。しかし他方で、こうした特別な分野は才能だけではなく、好みが大きく分かれるところであり、広く学校教育で行うのがよいのかは、そうした「好み」というレベルでも考える必要がある。
最終更新:2008年08月05日 23:23