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 「好きこそものの上手なれ」というように、能力の発達には、精神的な要素が深く関わっている。膠着状態に陥った勝負では、最後に勝つのは、精神的に頑張った方であろう。
 このようなことは誰でも知っているのだが、しかし、ではどうやったら精神的な要素を向上させることができるか、という点については、解明が極めて難しい。
家庭教師とか、サークルなどで後輩に教えたことがある人であれば、この人は、もっと意欲をもって取り組めば、絶対に伸びるのに、どうしても、意欲が感じられない、だから、伸びないんだ、というような感想をもったことがあるに違いない。しかし、意欲を高めることは、極めて難しい。特に意識しなくても、意欲が高まってしまう場合もあるし、その逆もある。
 次のような経験をした者も少なからずいるだろう。以前の学生のレポートにあった意見である。
 元々数学や物理が得意で英語や世界史が苦手であったが、担任の教師(数学担当)と全くあわず、数学を見るのも嫌になり、世界史の教師が好きだったので得意になれるように努力し、また、英語も自分で頑張ってみようという気になった。その結果、偏差値が著しく上昇した。こういう経験は、程度の差はあれ、多くの人がもっているのではなかろうか。つまり、教師の好き嫌いで、その教科が好きになったり、嫌いになったりし、また、それが成績に影響する。

Q 人間が誰でも、「知的好奇心」を持っていて、学習意欲を先天的にもっているのだろうか。それとも、学習意欲は、後天的なものなのだろうか。

 小さな子どもは、大抵、次のような態度を見せる。
  • 何か知らないものがあると、口に入れてみる。
  • 言葉を覚えると、「これ何?」と繰り返し聞く。
 これは決して教えられるわけではない。
 しかし、大きくなるに従って、口に入れなくなるし、また、何でも知りたがる好奇心は喪失していく。何故だろうか。
 この点については毎年議論している。
 まず小さい頃から比較して好奇心の低下があるかどうか。多くの学生はやはり好奇心は低下している感じているようだ。もちろん、かなり多く知識が蓄積されたから、一見好奇心がなくなっているように見えるが、さまざま新しいことを知りたいと思うことはあるから、決して好奇心は低下していないという学生もいる。
 心理学の研究によれば、好奇心というのは経験したことのない未知のことに対する知りたいという欲求であるから、知ってしまえば好奇心はなくなる。従って、多くの知識を蓄積すればその面での好奇心が薄らぐことは明らかである。
 しかし、いくら多くの知識を蓄積しても、わからないことはたくさんあり、わからないことを自覚すれば、好奇心は沸くはずであるのに、わからなくても「知らなくてもいい」と妥協する姿勢が出てくる。もちろん、誰もがすべてのことに好奇心が沸くわけではなく、好き嫌いが生じるだろうから、知らなくてもいいという感覚が出てくることは自然である。だが、教育を受けている中で、教えられるはずの教育内容に対して、好奇心が沸かない部分もたくさん出てくるとしたら、それは教育の質の問題として吟味されなければならない。

4-5 飴と鞭、褒美か侮辱か
4-5 飴と鞭、褒美か侮辱か

 人間は社会的動物であると言われるように、お互いに依存しあいながら生きている。したがって、他の人にどのような評価をされているかは、重要な意味をもっている。また評価が公になったり、評価が評価以上のものを意味したりすることもまた大きな影響をその人に与える。極めて自立的な人は別として、多くの場合、人から高く評価されたり、その評価が公表されたり、また、評価に基づいて報奨が与えられることで、そのひとのやる気が形成される。また逆に悪く評価されたり、罰せられたりすることを恐れるから、そうならないように頑張るという側面も普通に見られることである。前に説明したピグマリオン効果はそれに関係している。
 現在の教育は、さまざまな評価システムがあり、評価を利用した競争システムになっているが、それはこのような人間の感性を利用した制度であると言えよう。
 また、制度ではなくても、個人的なレベルでのやり方もある。
 成績が上がったら小遣いをもらえる、褒美に何か買ってもらえる、という経験がある人は少なくないだろう。このような態度をとる親はけっこう存在する。しかし、長期的にその効果はあるのだろうか。
 教師がそうした教え方をしたらどうだろうか。
 ある小学校の教師が、子どもが問題を解けると、いろいろものをあげる指導をしていた。例えば「めんこ」など。それを喜ぶ生徒もいたが、中には侮辱されたように感じる生徒もいた。しかし、教師はそれに気づくことがなかった。
 そういうことをする教師が、教え方が上手で、生徒を授業の中で引きつけていることは、あまり考えられないであろう。その教師は、とても教え方がまずく、実際に何を教えているのか、子どもたちにはよく理解できなかった。そして、親が他のクラスのノートと自分の子どものノートを比較して、同じ教材なのに、まったくノートが違っていて、他のクラスのノートは、やっていることが一目瞭然であった。
 この担任は、父母の運動で学年末をもって交代せざるをえなくなったのだが、その後も、相変わらず「めんこ」を配る授業は止めていないようだった。ここまではっきりやらなくても、「飴と鞭」の方式を取入れている教師はいるだろう。成績を貼りだすのも、「飴と鞭」の一つであろう。

Q 「飴と鞭」は、意欲を向上させるのだろうか、あるいは低下させるのだろうか、または、条件によって異なるのだろうか。

4-6 態度
4-6 態度

 「態度」は学校教育上、重要な位置を占めている。「態度の良い」子は、「良い子」とされ、同じ点数なら、態度の良い生徒がいい成績を得る可能性も高いに違いない。最近、文部省の強調している「新しい学力観」にしても、単なる知識ではなく、「考える態度」を形成することを意味している。
  しかし、本当に「態度のよい」生徒は「良い子」なのだろうか。また、「態度」がいいと、成績が向上したり、高い評価を得るのにふさわしいことなのだろうか。
 もちろん、「態度が悪い」ことを、「よい」ことよりも、ずっといいことだと考える人はほとんどいないだろうが、「態度がいい」から、能力がある、あるいは、能力か高まる、と考えることが妥当なのか、簡単には言えないだろう。また、「態度」を重視する教育観は、典型的には、「形」を重視する教育になる。「行進」「整列」授業を受けるときの「姿勢」「服装」等。もっとも極端になるのと、質問をするときや分かったときの手をあげる角度を指定したりすることもある。
 45度で手をあげる人の方が能力が高まる、などと言えば、多くの人が笑うに違いない。
 しかし、次のようなことはどうだろうか。
 「新しい学力観」と言われる、10数年前からの文部省学習指導要領の中心概念は、従来の学校が知識の伝達に終わっていたとして、これからは、新しい事態に対して、積極的に関われる、自分の頭で考えることができる能力が必要で、資料等使用して、考える態度を形成することを求めているのである。教育の目標として「態度形成」を設定するのが妥当か、という問題になる。
 第一の考え方は、「態度」とか、「意欲」は、結局、伝えることが不可能であり、伝えたと思っていても、それは、外観に過ぎない、従って、確実に伝えることができる「知識」や「技能」が教育の目標であり、その結果として、「態度」や「意欲」は付随するものである、とする。
 第二の考え方は、教育は「自立」させることが最終的な目標だから、むしろ、知識の伝達などは、手段に過ぎない。社会に蓄積された膨大な知識を伝えることは、不可能であり、学校で伝えるものは、その極々一部に過ぎない。従って、むしろ、学校卒業後、自分の力で知識を習得できるような能力を獲得させることが学校教育の目標となるのであって、それには、「態度」形成は不可欠である、と考える。
 戦後の教育及び教育学の世界では、態度をめぐる問題は度々論争の対象になってきた。その代表的な例が前にあげた広岡氏の構造論である。広岡構造図では、態度が学力の中心になっている。従って態度の形成が教育の最も重要な目標になるわけである。しかし、態度の形成は極めて主観的であるし、その測定が困難であるから、明確な基準で確かな知識なり学力を形成することが難しい。そのことが批判され、計測可能性を重視する立場から、学力を再構成する考え方が出されたのである。しかし、その後、落ちこぼれや学校の荒れという事態に直面して、生徒たちの「乱れ」が表面化するに及んで、単に知識としての学力を保障しようとしても無理であり、その土台になっている意欲や態度を重視しなければらないという意見も制度登場し、いまでも論争になっている。
 現在の文部科学省は態度を非常に重視する立場になっている。
 1997年11月に出された「教育課程審議会」のまとめからいくつか引用しておこう。

ア 各学校段階の役割の基本
 各学校段階の役割の基本については、次のように考えた。
 幼稚園においては、幼児の欲求や自発性、好奇心を重視した遊びや体験を通した総合的な指導を行うことを基本とし、人間形成の基礎となる豊かな心情や想像力、ものごとに自分からかかわろうとする意欲、健全な生活を営むために必要な態度の基礎を培う。
 小学校においては、個人として、また、国家・社会の一員として社会生活を営む上で必要とされる知識・技能・態度の基礎を身に付け、豊かな人間性を育成するとともに、様々な対象とのかかわりを通じて自分のよさ・個性を発見する素地を養い、自立心を培う。
 中学校においては、個人として、また、国家・社会の一員として社会生活を営む上で必要とされる知識・技能・態度を確実に身に付け、豊かな人間性を育成するとともに、自分の個性の発見・伸長を図り、自立心を更に育成していく。
 高等学校においては、自らの在り方生き方を考えさせ、将来の進路を選択する能力や態度を育成するとともに、社会についての認識を深め、興味・関心等に応じ将来の学問や職業の専門分野の基礎・基本の学習によって、個性の一層の伸長と自立を図る。
 盲学校、聾学校及び養護学校においては、幼稚園、小学校、中学校及び高等学校に準ずる教育を行うとともに、障害の状態を改善・克服するために必要な知識や技能等を養い、個性を最大限に伸長し、社会参加・自立に必要な資質や能力の育成を図る。*20)

 この部分は各学校段階の基本的な役割を整理した部分であるが、必ず「態度」の形成が入っている。
 学習態度が学習効率に影響を与えることは、多くの人が実感しているだろう。だから、良い態度が必要であり、積極的な態度を形成することが大切であることを否定するひとはほとんどいないと思われる。ではなぜ、態度の強調が問題となるのか。
 それは先述したように、学校の目標とはそれに応じた「評価」が伴うものであり、知識を身につけさせることが、その検証としてどの程度学力が身についたか評価を行い、成績が付けられる。しかし、態度はそのような評価が可能かどうか、もし可能ではないとしたら、それは明示的な教育の目的・役割ではなく、前提的な認識であると考えた方がよいからである。
最終更新:2008年08月15日 18:44