学校教育の問題として、「管理主義」の問題を考えてみたい。「管理主義」こそ、現代の学校教育の最大の特色になっており、また多くの批判にさられていながら、教育現場で強固な力をもっているからである。
女子高校生殺人事件の犯人の少年たちにある「人間を人間と思わない」感性は、端的にいって、彼等自身が「人間」として扱われなかった成育暦の反映であろう。自分が人間的に扱われなければ、あるいは、自分を思いやってくれる人が存在しなければ、人間的に扱ったり、他人を思いやる感情がおきたりはしないだろう。(事件については「教育学」のテキストを参照)
Aは中学校時代に立直ってはいたが、それは柔道で強くなりたい、という感情で、そのために自分の生活を律することはできたが、他人に対する思いやりの感情を育てていたかは疑問である。恋人との関係でも、恋人に助けられる、励まされる関係が中心で、彼が助けたり、励ましたりする関係ではない。
その点で、Aが立直っていた時期があったとしても、それは自己中心的なもので、まわりが彼を認めて、彼が中心的な位置を占めることができたからだった。
Aがこのような性格をもったことを、直ちに学校の教育の在り方に結び付けることはできない。しかし、その背景として考えると、現在の学校を覆っている「管理主義」に行き着く。
管理主義はよく問題になる「生活指導」に関する場面だけではなく、教科指導に関しても現在の学校の支配的な傾向となっている。基本的な子ども観として、つねに子どもの感性を大切にし、そこに長所を見出して褒めてやり、その点を伸すことによって、自動的に短所を克服していこうという発想と、常に短所を見つけててそれを指摘し、短所を直させることによって生徒を指導するという発想と、大変対照的な二つの子ども観があるように思われる。
大切なことは、言葉の問題ではなく、実践的な行為として存在している点である。
後者の発想を「管理主義」ということができる。
まず教科指導の管理主義とはどのようなものか、見ておこう。
これは学習の進行を教師の管理下におく勉強のさせ方で、概して次のような特徴をもつ。
- 授業態度や姿勢、机やその他の荷物類の整頓状態が常に問題にされる。
- 授業は静粛に聞くことが大切で、そのために、答える時の約束ごとがきまっている。
- 学習は教師の指示にしたがって行うもので、問題集や教科書の先を自発的にやってはならない。
- 試験で勉強の動機付けをする。
- 正しい答えや考え方がひとつだけあるという前提の授業をする。(正解答主義)
- 間違いの中にこそ重要な教育的な要素があるが、間違いはあくまで排すべきものとして扱う。
- 宿題を自発的な学習と結び付けず、宿題によって学習を管理する
次に生活指導での管理主義をみてみる。
細かい校則や行動の規制に現れる。髪や服装の指定、校内校外での行動の制限などが管理主義の現れである。こうした方法と無縁だった学生は、大変幸運な例外であろう。
管理主義が原因で起きた事件をまず紹介しよう。
高校には「三ない運動」というのがある。「免許をとらない、乗らない、買わない」が三ない原則で、こうした校則を決めようというのが、「三ない運動」である。
通常まず、親から要求が出る。多くの親は、子どもを規制することができない。親は自分で指導する自信を失っている。だから学校に校則として決めてもらい、それで規制しようとする。学校としても、事故がある以上、バイクを全く野放しにすることはできない。(この点は親のありかたとしても、多いに検討する必要がある。自分で言うべきことを言わない親を、子どもは尊敬するだろうか。「従わないから言えない」のではなく、「言えないから従わない」のだろう。)
千葉県の私立高校で起きた「バイク三ない校則違反退学事件」というのがある。
母の許しを得て、バイクの免許を取得した高校生が、友人にバイクを貸し、その友人が更に他人に貸して、借りた者が無免許運転をした。警官を負傷させて、露見した。そこで、先の高校生は自主退学という形の処分を受けたが、それを不服として訴訟を起こしたのである。
オ-トバイは現在の高校で、対策に悩む大きな問題の一つである。
法的には許されているのに、学校では禁止されているのが、多くの高校の実情である。
そこに無理があり、問題が絶えず出てくる理由がある。
個人の事故を、純粋に個人の問題として処理する社会的な風潮があれば、個人の問題で済むが、高校生が事故を起こした時、通常学校の指導責任が追及される。そのため学校も、禁止することになりやすい。禁止しておけば、事故が起きた時、禁止を破った生徒個人の責任になるからである。ところがこのやり方だと、多くの生徒にとって必要な安全教育を軽視することになりやすく、無免許で乗る生徒が事故を起こしやすくなる欠点がある。車の免許をもっている者の方が、事故にあう確率が低い。交通ルールや、危険性を良く知っているからである。だから、高校生や中学生に対して、オ-トバイを禁止する、しないに拘らず、もっと交通安全教育をする必要があると思われる。
山口県のある高校はバイクにめ関して次のような取組みをしている。
免許をとって、オ-トバイに乗ってもよいが、条件がある。成績がいいこと。もし成績が落ちたら、戻るまであずかる。そして、安全教育を次のようにしている。警察を呼んで安全教育をする。免許を取りたい生徒を集めて、工場にいく。生産工程をみて、その後、バイクを学校が1台買って分解する。分解しながらバイクの構造を知る。こういう運転は危険だとか、そういうことを教えながら分解する。そうすると乱暴な運転というのは、本当に少なくなるそうだ。
体罰事件として有名な水戸5中事件を紹介しておく。
1976年5月20日に、中学2年生の佐藤君が、原因不明の脳内出血で死亡した。解剖しようかという医師の勧めを、「これ以上苦痛を与えたくない」ということで、母は断った。そのために、原因はわからなくなった。
死後訪ねてきた生徒に、事情を聞かされて、体罰があったことを知る。
体育で体力測定があり、佐藤君は加藤先生の手伝いの係であった。ところが突然先生が、佐藤君の頭を強く殴り、まわりではどうしたことかと、驚いた程だったという。その日から、彼は元気がなくなり、気分が悪くなったり、鼻血を出したりしたが、結局1週間後に死亡する。死亡した日、学校から教頭が来て、「火葬か、土葬か」と尋ねていった。
通夜や葬式に、学校は参列させず、(葬式には遠くでみるようにして参列させ、式とには代表のみ)また、家に焼香に行くことも禁じた。そうこうする内に、体罰によって死亡したという噂が地域に広まり、警察も無視することができなくなって裁判になった。(この時、佐藤家では、学校を信じていたので、告発という手続をとらなかった。これが後で後悔する原因になる。)
裁判では、行政上の仕組みから、仕方のない面もあるが、体罰を加えたことを見た生徒を、非行少年と非難したり、あるいは証言しないように圧力をかけたり、学校は教育機関とはいえないような対応をすることになる。また加藤教諭は、栄転とも言える転任をしている。この点、教育委員会の体質も問題となる。
一審では有罪となり、二審では無罪となった。(この時、東京高検は上告を諦めている。両親の告発がなかったので、ここで裁判は終了した。)高裁判決は、ある意味で体罰を容認するような内容を含んでいて、話題になった。「教育上必要な場合、ある程度の、有形力の行使は認められる」というものである。
二つの事件で、一方では退学になり、他方では生徒が死んだ。その原因は機会的な校則の適用であり、体罰だった。しかも学校当局は、そのようなやり方自体を否定していない。
しかし、このような極端な事例ではなく、毎日あるいは毎学期繰返される方法こそ、生徒の意識を形成していく点で、大きな影響力をもっている。
最終更新:2008年08月05日 23:58