さて、細かい評価法を考える前に、基本的なことの確認をしておこう。量を計測するためには、単位量となるものの質を一定のものにしなければならない。通常の物質の計測においては、常に、こうした量的な計測が行われる。
しかし、人間の特に精神的能力については、ある単位量なるものが想定できるかどうかも、議論の余地がある。
例えば、「文章を書く能力」を考えてみると、例えば10分で何字の文章を書けるか、などということは、特殊な場合を除いて、あまり意味をなさないであろう。つまり、「文章を書く能力」は、数値化することは困難であり、しかも、かなり主観的な評価にならざるをえない。
Q 次のような能力は計測可能だろうか。あるいは評価可能だろうか。
コミュニケーション能力、芸術的能力、思いやり
まず、成績に利用される評価の基本的なふたつの形態について考えてみる。
絶対評価とは、ある基準を定め、その達成の有無や程度によって評価する手法である。戦前の日本の学校の評価は、絶対評価(甲乙丙丁)で行われていた。しかし、戦後の改革で、この評価方法は「主観的」ということで批判され、相対評価に変更された。つまり、絶対評価が、教育的であるためには、教えるべき内容の理解度を正確に設定し、その判定をその設定基準に従って行い、その人の能力の度合いが、合理的に示されるのでなければ、単なるラベル貼りになってしまうのである。
戦前象徴的に言われたことは、「村長と医者の子どもは甲」ということである。これは戦前の絶対評価の主観性を端的に示している。また、大学の成績のように、90~100点がAA、80~89点がA、70~79点がB、60~69点がC、59点以下がDなどと決めても、その評価が、個人の能力の現段階を示し、それによって、次の課題が明らかになる、などということはない。つまり、教育的評価としての意味を欠いているのである。
相対評価とは、ある個人の能力を、集団の位置で示すものである。最も単純なものは、「順位」であり、パーセント表示、5段階評価の通知表とか、偏差値などが、この代表的なものである。
日本の学校での評価として、相対評価が多く採用されてきたのは、学力競争を通じて、国家的な人材を選抜していくことが重視されてきたからであろう。戦前は、立身出世主義と言われたが、「仰げば尊し」の中の「身を立て、名をあげ」という歌詞によって示されるように、これは、学校教育の重要な目的だったわけである。
一流の中学・高校・大学・官庁(企業)という階段を昇るためには、競争に勝ち抜かなければならない。そういうシステムをつくり出す上で、相対評価は有効であった。戦後、偏差値が編み出され、高校だけではなく、大学まで、共通テスト以降、偏差値で格差付けがなされるようになって、相対評価は、日本の学校教育全体を支配するようになっている。
こうした相対評価が、国民の中に競争意識を醸しだし、世界にも少ない教育熱心な姿勢を生み出し、それが、経済的繁栄の基礎になったことは否定できないだろう。1980年代に、アメリカ経済が落ち込み、日本経済が脚光を浴びていたとき、多くの論者は、日本の教育に、その要因を求めた。例えば、ヴォーゲルというハーバード大学の日本学者は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という著書で、偏差値が、いかなる学力段階の生徒にも、競争意識を生み出し、勉強に駆り立てるために、日本の競争力を高めている、と評価した。それに対して、アメリカのようなSATで一定の成績をとれば、通常の州立大学に入学できるような仕組み、ボーダーライン前後の生徒以外には、勉強意欲を喚起しないという欠点を指摘していた。
相対評価の利点として、入試で内申点を重視するときに、学校格差を無視することができることが指摘されることがある。格差を無視することは、一見不合理であるが、実際にある格差を格差に応じて是正することはできないのであり、逆に、格差を無視することによって、学校の格差に基づく越境入学などを防ぐことができる、という見解である。
さて、学校における教育評価で、相対評価が使用されている国は、少なくとも、経済や教育の発達した国では、ほとんど存在しない。あるとすれば、日本をモデルとして、社会システムを構築した国が多いと思われる。
相対評価が使用されない理由は、相対評価が、教育的には、極めて大きな欠点があるからである。相対評価は、個人個人の具体的な能力を表現しない。
例えば、ある生徒が、数学のどの点が理解され、どの点が理解されていないか、というようなことは、相対評価では表現することができない。しかし、それでは、数学を指導する立場、あるいは、数学の勉強をする立場としても、指針とならないのである。指針とならない評価法は、教育的評価とはいえない。
したがって、世界のほとんどの国では、評価は、いわゆる「絶対評価」で行われる。絶対評価とは、ある基準を決めて、いかなる基準を満たしているかで評価するものである。もっとも単純な形としては、あることが、「できる」「できない」というような評価である。
前回の学習指導要領から、文部省は、
小学校における評価を、原則、絶対評価に変えた。
一例として以下のような形式になっている。
*35)
相対評価は当然のこととして、絶対評価も、集団の中にいる個人の評価を前提にしている。しかし、集団の中に個人がいるとしても、評価を個人のレベルに限定して行う方法もある。
一斉授業を行わず、授業が完全に
個別授業であれば、個々人の学習目標を設定し、その目標をどの程度達成したかを評価することも可能である。例えば、数学の得意なA君は、1次方程式から1次関数まで進むという計画で、その7割な達成したからB、不得意なB君は、1次方程式をじっくりやるという計画で、それをほぼ達成したからAというような評価スタイルである。こうしたやり方は、アメリカの高校などでは普通に行われている。
こうした評価においては、AとかBなどの評点は、学力を表わすよりは、計画を真面目に遂行したかどうかの態度点に近いものであろう。だから、大学入試で高校の成績を求めるが、それとは別に、全国共通テスト(SAT)の点数を求める。
最終更新:2008年08月06日 00:30