この講義は、文教大学人間科学部の「学部専門科目」の必修選択科目として置かれていると同時に、人間科学部の学生が中学社会と高校公民の教職課程を履修するときに、必修科目として置かれている「教育原理」の該当科目となっている。従って、この授業の目的はふたつあることになる。
第一は、人間科学の基礎的な概念を履修するという意味と、第二に、教職科目としての意味である。
まず第一の意味について考えてみよう。
「教育」は、学生たちにとって「理解困難」の難しい問題はない。12年間の教育を受けて大学に入学し、現在もなお教育を受け続けている「現役」である。
学校とは何か、教師は何をするのか等々、教育学で扱う概念については、学生諸君は熟知しているだろう。それにもかかわらず、大学で「
教育学概論」を学ぶ理由があるのだろうか。
「教育」について現役であることは、逆にその理解について「規定」「拘束」されているということである。「経験的な見方」を土台に、それぞれの教育観が形成されていると考えてよいだろう。しかし、人によって経験は同じではない。日本の教育は世界的にみても画一的であると言われているが、実際には地域ごとに違いがあるし、また、同じ地域であっても、となりの学校同士かなり異なる教育が行われていることは稀ではない。
また、同じ現象であっても、立場やそれぞれのおかれた境遇によって、見方や感じかたが異なることはいくらでもあるだろう。「
いじめ」という現象を多くの学生は経験しているだろうが、いじめに伴う「いじめる」「いじめられる」「傍観している」という3つの立場のどこに主に自己を置いていたによって、いじめ観は異なってくるといえるし、また、経験したいじめの深刻さ、教師や学校の対応によっても異なるものがあるだろう。
実はこうしたそれぞれの経験の相違を確認しながら、各人の教育観を検証していくと、教育に対する実に多くの考え方があり、どれが正しいのかを決めることは困難であることも理解できるのである。
また、各人の教育観はそれぞれの社会的な価値観と密接に結びついている。何のために教育を受けているのか、あるいは親として受けさせているのか、言い換えれば、教育を受けることによって、将来をどのように切り開いていくのかというイメージ、そして、実際に受けている教育の中でどのようなことを重視していくのか、これらは人によって多様なものである。極端な例をあげれば、学校に「知的な教育」を求める人たちと、「しつけ」を求める人たちがいる。後者の人たちにとって、知的な教育はむしろ塾のような教育機関に求めることになる。
このように、これまで各人のとっての「明確な教育観」は、多くのひとの「多様な教育観」と一端相対させ、検証することが必要なのである。そうした検証、考察を経た「教育観」こそ、現実に自分の行動を導く力をもつと思われるからである。
次に第二の目的について考えてみよう。
もっとも、ここで述べるのことは、概念そのものの目的というよりは、教職への適性を判断するためのことがらである。
教師という職業については、ほとんどの学生がかなりたくさんの教師にこれまで接してきたはずである。従って、どのような人が教職に向いているかどうかは、多くの人が自分なりの考えをもっているに違いない。ただ、それは前に述べたことと同様、自分の経験に則して、また自分にとってのいい教師、悪い教師という判断が多いのではないだろうか。
そこから一歩踏み込んで、本当に自分が教師に向いているかどうかを判断するための評価軸を提示してみよう。
最初は極めて簡単な軸が設定されてよい。
教師は子どもに対して、勉強を教える職業である。従って、「子どもが好きだ」「勉強が好きだ」というふたつの「好きな」性格をもっていることが大切である。しかし、抽象的に子どもや勉強が好きだという判断はあまりあてにならないと考えたほうがいいだろう。実際に子どもが好きだと思っていても、子どもは様々な側面をもっている。子どもはとても正直だから、大人に対して好感をもっていないと、それを率直に言葉に表す。また大人のいうことを常に聞くわけでもない。そうであれば「学級崩壊」など生じないだろう。
実際に子どものそうした側面に接してもなお、子どもが好きだと言い切れるだろうか。
では、「子どもが好きだ」というのはどういうことなのだろうか。それは「接している人の長所をまず意識する」という性格のことである。子どもは誰でも、「好かれる」「自分のいいところを認めて欲しい」と思っている。そして、大人がその点でどのように感じているか、とても敏感なものだ。だから、長所をまず意識する大人は、子どもとスムーズにコミュニケーションをとることができる。少なくとも短所をまず意識する大人よりは。
他方、勉強が好きだということはどういうことだろうか。
後述するが、多くの学生は高校生だったとき、決まったことを覚え、ひとつの正解答を求める機械的な作業である受験勉強を好きではなかっただろう。受験勉強が好きだった生徒は、勉強そのものよりも、言い点をとる、他人に勝つという歓びを感じていたのではないだろうか。
ここでいう「勉強」とはもちろんそういうことではない。既に正しいとされていることではなく、まだわからないこと、あるいは正しいと思われていることにも疑問をもち、より深い理解や発見を求めていくという姿勢のことである。近代哲学の祖と言われるデカルトの有名な「方法的懐疑」を思い出してほしい。つまり勉強が好きな人というのは、他の人が正しいと思い込んでいることにも疑問をもち、疑ってかかり、真実を追求していく人のことである。つまり、人の言っていることを「疑う」性格を強くもっていることが、勉強好きの条件となる。
ここまでの説明で、「子どもが好きだ」ということと、「勉強が好きだ」ということは、実は矛盾する、反対方向の性格であることがわかるだろう。反対方向の性格をともにもち、それが望ましい形で現れるということは、非常に難しい。従って、教師に向く性格をもっている人は、実はとても少ないのだ、ということが理解されるだろう。実際に「あの先生はすばらしい」という教師は、これまで実に少なかったのではないだろうか。
教師という職業は、子どもの未来を担うすばらしい職業である。しかし、その本質的な属性において、極めて困難な課題を負った仕事であるということを、教職を履修しようと思っている学生諸君は、まずしっかりと認識すべきである。