この授業は「
教育学概論」という名称が与えられている。「学」というのは、通常「科学」につけられることが多い。では、「教育学」は「科学」なのだろうか。この場合、「教育学」とは何か、「科学」とは何かというふたつの概念があり、その上で「教育学」が「科学」であるかどうかが検討される必要がある。
前節で述べたように、「教育」とは通常「人間による発達に関する意図的な働きかけ」のことである。従って、「どのようにすれば、その働きかけが効率的、かつ好ましい結果をもたらすことができるか」を究明することが、「教育学」のひとつの課題である。「教育方法論」「教育課程論」「
教授学」等々がこうした教育学の分野に含まれる。
しかし、人間の発達が狭い意味での教育だけによるものではなく、4つの要因があることは既に述べた。その発達の全体的な構造を明らかにすることも、教育学の大きな課題であり、複数のサブ領域をもっている。教育心理学は個人的なレベルでの発達の課題を扱う学問であるが、今日教育は社会的な制度として存在しているので、社会的なレベルで問題を扱う必要もある。教育社会学や教育制度・行政論がそうした分野として分類できる。
また、教育が発達を目的とする行為であるといっても、すべての発達を目的とするわけではない。また、目的は時代によって変遷する。武士の時代には、人を殺す技術を磨くことは、武士にとって重要な教育課題であった。しかし、現在ではそうした技術はほとんど否定されている。軍隊の一部には残っているにせよ、民主主義社会における軍隊は、原則として「平和の維持」のためにあるのだから、「殺傷能力」が価値であるかは疑問だろう。
また、人間の能力には様々なものがある。盗む能力、人をだます能力等々。こうした能力は通常教育の目的とはならない。では、いかなる人間の能力・発達が教育の課題としてふさわしいのか。それを考察する領域として、教育哲学などがある。
教育学とはこのような学問の総体である。
では「科学」とは何か。
その前に少し辞書的な言葉の検討をしておこう。
日本語には、「学」に関して、主な単語がふたつある。「科学」と「学問」である。しかし、欧米の言語ではこれは区別されていない。まず和英辞典で「科学」は science となっている。「学問」は、 learning, study, science である。英和で、science は「科学」「学問」である。Oxford の英々辞典で、science は 1,knowledge about the structure and behaviour of the natural and phisical world, based on facts that you can prove, 2,the study of science となっている。ドイツ語の科学は、Wissenschaft であるが、訳語としては「科学」と「学問」の両方が載っているから、science と同じ意味範囲をもっていることがわかる。事実、英独辞典と独英辞典でも、science と Wissenschaft は相互に一語だけ訳語として掲載されている。
さて、このことから何がわかるだろうか。日本では、学の領域として「科学」という単語が用いられ、領域と学を行うという意味での実践的行為を指す言葉として「学問」という言葉がある。しかし、英語やドイツ語では、領域と実践はひとつの語で表されている。 では、「学問」と「科学」は日本語ではどういう意味なのだろうか。
小学館の『日本国語大辞典』で見てみよう。
「科学」とは、「普遍的真理や法則の発見を目的とした体系的知識。その対象領域によって、自然科学と社会科学に分類され、またこれに数学・論理学を含む形式科学や、哲学を含む人文科学を加えることもある。」と解説されている。そして、「科学」という語が使われた最初は明治2年であることが示されている。
「学問」はどうか。
1、武芸などに対し、漢詩文、仏典、和歌など広く学芸一般について学習し、修得すること。
2、先生についたり、また書物を読むことなどによって身につけた学芸。修得した知識。
3、一定の原理に従って、体系的に組織化された知識や方法。哲学、文学、科学など。
用法として1は古代から、2は中世から使用されているが、やはり3は明治からである。従って、欧米の「科学」にあたる言葉は、日本では開国後の欧米の科学を学ぶ中で造り上げた翻訳語であったと考えることができる。もちろん、似た言葉(学問)はあったわけだから、もちろん日本に科学的要素がなかったわけではないが、やはり、「証明可能な」という実証的な感覚をもった実践的内容は乏しかったのだと考えられる。
この辞書的な検討でわかったことは以下の通りである。
まず欧米的な科学は、内容としては実証されることが重要であり、科学的な実践と不可分のものであるが、日本では学の修得という実践のみが長い間意識され、実証的な要素は欧米から学んだということである。つまり「実証」と「実践」が科学の本質であると考えておこう。もちろん、この小文では科学の本質を論じることはできないから、興味のある人はそうした書物を繙くべきだろう。
さて、「実証」が科学性を支えることは、広く承認されている。特に自然科学の場合には、実験の反復が可能であるから、実験によって確認された事実が「科学的」な結果であると考えられる。しかし、教育学の場合には、この実験という手段が大きな問題をはらむことになる。
理論とは何か
学問はもちろん「理論」を構成することを目的とするものである。広辞苑によれば3つの意味が区別されている。
1 個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性をもつ体系的知識
2 実践を無視した純粋な知識。この場合、一方では高尚な知識の意であるが、他方では無益だという意味のこともある。
3 あるもだについての特定の学者の見解・学説
もちろん、研究者がその構築を目指しているのは、1番の「普遍性をもつ体系的知識」である。そして、普遍性をもつということは、通常実際生活に応用可能性を意味する。応用できないものに「普遍性」はないからである。
では普遍性をもつ知識の体系とはどのようなものだろうか。また、それは教育という分野についてもありうるのだろうか。数学や物理学の体系では、当然普遍性をもつことは、自明のこととされている。地球上のどこでも、物を落とせば落下するし、電気の現象などは、条件が同じであれば、異なる結果がももたらされることはない。
しかし、人間を相手にする、特に精神に働きかける教育という行為では、対象である人間が異なる条件をもつわけだから、同じ行為も同じ結果をもたらすことはむしろ稀で、結果が多様であれば、そこに普遍的な理論が成立する余地があるのか、当然自明のことではない。また、普遍的でなければならないのだろうか。
実践とは何か
実践とは、人間がある対象に働きかけることである。
再び広辞苑に登場してもらおう。
人間が行動を通じて環境を意識的に変化させること。この意味での実践の基本的形態は物質的生産活動であり、さらに差別に対する闘争や福祉活動のような社会的実践の他、精神的価値の実践活動のような個人的実践も含まれる。認識(理論)は、実践の必要から生まれ、また認識の真理性はそれを実践に適用して検証される、という立場で実践の意義を明らかにしたのはマルクスとプラグマティズムである。
教育は、通常教師が生徒を教える行為、つまり、実践である。もちろん、自ら学ぶ自己教育(教育学では「学習」という。)もあるが、どちらにせよ、「実践」が教育の本質的要素である。もちろん、教師と生徒との通常の意味での教育以外に、実践と言えば、教育行政者が教育制度を実現する行為や、教師集団や地域の人々が学校を良くするために、様々な努力をすることも、実践であり、それは広い意味での教育的実践と言える。
そして、それらの実践は、社会、そして実践者が認める教育的価値を実現するために行なわれるものである。もちろん、教育的価値は、自動的に実現するものではないし、また、理論や価値が正しければ必ず実現するというものでもない。歴史を見れば、今日の目から見る場合にはもちろん、当時の人々の意識からみても、「教育的価値」とは言い難い、むしろ逆の反価値ともいうべきことを、生徒に教え込むことが行なわれていたことがあった。代表的には、ヒトラー時代のドイツの教育である。(ヒトラー時代の算数の
教科書には、「障害者一人にいくらかかるので、障害者の教育を止めれば、いくら予算が浮くか」とか、一個の爆弾で何人殺せるが、ロンドンの人口を抹殺するためには、何個の爆弾が必要か」などという「問い」が掲載されていた。)
従って、正しい教育的価値の選択と、その実現のための適切な実践方法の開拓が、教育学に課せられた課題の一つとなる。
子どもにある知識を理解させるために、子どもの発達の特質を踏まえて教えるのと、やみくもに教えるのとでは、効率が異なることはいうまでもない。また、知識そのものの系統性だけではなく、理解しやすい配列があれば、効果的に学ぶことができる。更に、子どもが陥りやすい難所や、誤解しやすい点を理解していれば、単に教えやすいだけではなく、子どもの理解を確実なものにできる。子どもの発達の特質や教材理解の際の様々な問題点を明らかにすることもまた教育学の課題だろう。そして、前者に関しては、心理学との協力が有効だろう。
最終更新:2008年08月17日 19:09