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 この講義は、現代の学校の主に制度的な側面を扱う。しかし2005年度から教職科目ではあるが「教育行政学」(3年生科目)という講義が新設されることになったので、重なりを避ける必要があるので、「現代学校教育論」は、「制度」における「法規的側面」と人間の定型的な「行動的側面」のうち、主要に後者を扱い、前者は「教育行政学」で扱うことにした。例えば、「教育を受ける権利」の問題を扱うときに、「現代学校教育論」では、教育権が争われた「具体的な事例」を素材にして、そこにある考え方や人々の対応について考察し、「教育行政学」では、法律論的な権利論の歴史的かつ現代的な紹介・分析を行うという分担である。「教育行政学」は教職科目であるので、教員採用試験を受験する学生を考慮して、「教育法規」という科目に対応させる必要があり、このような分担にしたものであるが、更に、「法」は、「まず法ありき」ではなく、人々の行動およびそこに生じる争いがあり、その争いを裁く原理が求められるのが「順序」であり、そういう意味で最初に「現実」を扱うのが妥当だと考えられる。
 人間科学部の学生の多くは人間の心、つまり「個人」のレベルに関心をもっているが、個人はまた社会の中に生きており、個人が集まって集合体となると、そこに独自の行動様式や価値観が生まれると言ってよいだろう。個人と社会の関係に関する詳細な検討はここでは行わないが、例えばほとんどの学生は「嫌々ながら」受験勉強をしてきたに違いない。個人の価値観としては「受験勉強」に重きを置かないとしても、受験のために勉強せざるをえず、そのような行動をとり、そこになんらかの自分への納得をする根拠を求めるのが普通である。もちろん個々の対応は多様であるが、社会の価値観が個人に迫ってくることは否定できない事実として認めるだろう。学校教育に関するそのような側面を、「現代学校教育論」では扱う。人間科学部の学生の多くはむしろ「苦手」な領域と考えられるが、じっくりと個人と社会の関係について取り組んでほしいと思う。

 さて、現代の教育の制度を扱うといっても、漠然としているから、もう少し限定しておこう。制度といっても、時代によって制度の背景にある「理念」は異なるが、現代においては「制度」とは基本的人権の実現のために、社会が組織する法的規定を軸とした仕組みのことである。従って、教育制度は「教育権」の実現きための社会的システムをさしている。もちろん、それはあるべき姿としての制度であって、すべての制度が「権利の実現」のためにあるわけではなく、権利の抑圧のための国家的な制度も存在するのだから、単純に「権利の実現」のためのシステムとは言えないが、しかし、そうしたシステムであっても、表向きは「権利の実現」という説明をせざるをえないのが現代社会であるとも言える。従って、ここでは「教育学」が「価値」的志向をもっているということと合わせて、(「臨床教育学」参照)「教育権」の実現のための学校制度の構造を考察することを、この授業の目的として設定することができるだろう。

 本論に入る前に、「教育権」の構造について説明をしておく必要があるだろう。

 教育は「教える行為」と「教わる行為」とで成り立っている。もちろん、「自己教育」や同じ意味で使われる「学習」という言葉があるから、「教える行為」はなくても、「教育」は存在しうる。しかし、通常制度としての教育制度は、教える教師と教わる生徒・学生とが、別の位置で存在している。従って、「教育権」は教える側の権利・義務と教わる側の権利・義務とが中核となり、それらを保障する存在(国家・親)等の義務が脇を固めるように構造化されている必要がある。

 しかし、日本国憲法では「教育権」の全般的な規定はなく、国民が「教育を受ける権利」を有することと、保護者が子女に法律に定める普通教育を受けさせる義務を負うことを定めているに過ぎない。権利の構造については、かなりあいまいである。
 日本国憲法は26条で次のように規定している。

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 そこで、この講義では、教育権の構造、あるいは、教育権が実現するためには、どのようなことが必要であるのか、具体的な事例を材料として考察することにする。
 第一に、「教育権」とはどのような権利なのか。日本国憲法でも規定されている「教育を受ける権利」に加えて、欧米では「教育をする権利」が重要な構成要素となっている。しかし、日本では「教育をする権利」は実定法レベルでは認められておらず、私立学校を設立することはできるが、権利の実質にはほど遠い。

 ここで規定されていることは、「教育を受ける権利」であり、それ以外はその保障の主体の義務について規定されているのみである。つまり、「教わる行為」に関する権利が規定されているが、「教える行為」に関する規定はない。また、保護者については「義務」が規定されているが、「権利」は規定されていない。これは、基本的に日本国憲法の教育権規定の欠陥と考えておく必要がある。
 つまり、教える行為を行う教師やそのための組織である「学校」の権利・権限が、教育権の一環として考察される必要がある。もちろん、これは現行規定に存在しないから、あくまでも論理的な検討になる。
 更に、保護する子どもに教育を受けさせる「親・保護者」の権利についても考察する必要があるだろう。そうして後に、教育を受ける権利を保障するための、様々な主体の義務について明確にすることが、求められる。以下の章は、そのように構成される。

{制度とは何か}

 制度とは何か。これは意外と難しい問題である。
 ブリタニカ国際百科事典は次のように説明している。

 学習すべきことの規範的な妥当性が、社会的に認知されているものとして認知されるような行動様式。制度は規範的な拘束力をもって諸個人に働きかけ、しばしばこれに合致しない行動を取る個人には、制裁が加えられる。諸個人の思念から独立した、社会的な実在として現れるところに、制度の重要な特徴がある。

 大辞林では、こうだ。

 社会における人間の行動や関係を季節するために確立されているきまり。また、国家・団体などを統治・運営するために定められたきまり。

 マイペディアはこうだ。

 社会内で規範として確定された行動様式の体系。伝統社会は習俗としての制度が自明的に安定している社会であるのに対し、近代社会では、制度が明文化されて法や組織に構築され、一方、内面的規律としての個人倫理が生まれる。さらに大衆社会においては制度に持続性がなく、制度の融解現象が起こる、といわれる。

 三者三様である。近代の制度は、法などの規則によって制定されることが多いが、法そのものが制度であるわけではない。大辞林はこのレベルでの説明になっているが、他のふたつのように、通常、人々の行動を一定の様式に拘束するものが制度であるとされる。逆に、一定の行動様式が制度ともいえる。
 そうすると、規則と行動様式の間に乖離が生じることが、少なくないのが社会である。教育の世界でも、「体罰」は日常的に見られるが、明治以来、体罰が法的に許容されていたことはない。ずっと体罰は法的には禁止されているのである。つまり、法と行動様式の間に明らかに齟齬がある。法は公認された規範であるから、通常は守られる。法と制度の間には矛盾がある不自然である。とくに、民主主義社会であれば。しかし、このように、法規範と実際の人間の行動様式には、相違が生じるわけである。
 したがって、制度について学ぶ場合には、常に、法などの拘束的規範と、実際の行動様式のずれを意識する必要がある。
 特に、日本においては、法のような規定は、ある種の理想を掲げ、必ずしも守られることを想定していないという場合もある。これは、欧米との法意識の相違として、よく問題になるところである。
 憲法や教育基本法が、現実と、大きくずれても、それほど問題にされないのは、そうした日本人特有の意識によるかも知れない。


 体制の整備 条件整備 教育内容・教育財政(教育費)・教師・設備
       整備する組織形態 学校・地域・自治体・国

 問題論   価値・選抜
最終更新:2008年09月17日 12:16