昔は学校に行く人は極めて少数であった。世界史的にみて、学校が初めて登場したのは、5000年前のエジプトであると言われているが、これは文字文化が登場したことと関連している。つまり、学校というのは、文字を扱う人たちが文字に関わる文化を特別に学ぶ機関として成立し、その点は現在でも変わりがない。従って文字を必要とする人びとの増加とともに学校に行く人たちは増加してきた。
しかし、人びとの社会における営みは、必ずしも文字を媒介とするわけではないから、学校を必要としない人びと、あるいは学校という文化機関に好意をもたない人びとは、つい最近までたくさんいた。不登校などが少なくないことを考えてみれば、現在でも事態は変わっていないのかも知れない。ただ、現代社会においては、ほとんどの人は文字や計算が社会生活で不可欠であることを理解している。特に、先進国と言われる地域では、「全員」がそう思っているだろう。
このような社会では、教育を受けること、中でも学校に行くことが、全ての人に必要であり、かつ権利であることが認識されている。そして、その権利を実現するために、国家が学校制度をつくっている。国際人権においても、また国内の人権規定(憲法)においても、国民は
教育を受ける権利をもっていると宣言されている。日本の場合は、憲法26条で規定されている通りである。
しかし、本当に国民はすべて「教育を受ける権利」を保障されているのだろうか。教育を受けることが不当に侵害されている人はいないのだろうか。ここではまず、何らかの理由で、学校に行くことができなかった、あるいは認められなかった、あるいは自分の望む学校に行くことができなかったという事例をとりあげることで、「教育を受ける権利」とは何かを考えてみよう。
教育を受けられない事情
近代以前 教育を受けることは特権だった。江戸時代を考えても、武士として生まれた場合と、農民として生まれた場合には、受ける教育は大きく異なっていた。上の階級の者ほど、整った教育を受けることが可能であった。しかし、平等が保障されている現代社会では、そうした階級的な差によって、受ける教育の質が左右されることは、著しく減少したが、しかし、皆無になったわけではなく、むしろ近年、家庭の経済状態や教育程度によって、受けられる教育の質が左右されることが指摘されることも少なくない。
序章で説明したように、日本国憲法は26条で、全ての国民が、能力に応じて平等な教育を受ける権利があることを規定していることを説明した。しかし、全ての国民が教育を受ける権利があるといっても、年齢に関わらず、国が全ての国民の教育を保障しているわけではない。実際に、全ての国民が教育を受けられるように、文字通り国が保障しているのは、
義務教育の段階であって、それ以外の年齢層については、教育を受けている者とそうでない者があり、特に、社会に出て労働している人々については、教育の状況は著しく多様であり、また、「権利」が保障されているかどうかも違憲が分かれるところだろう。 更に、義務教育段階でも、また、それ以外については更に、ある条件によって、教育を受けることが阻害されることがある。そうした条件によって、教育を受ける権利の実態が大きく異なってくるのである。
学校の未整備
家庭の経済事情
身体的状態 障害・病気
親の無理解
教師の力量不足・不適格
犯罪を犯した者の教育を受ける権利は 更生教育・矯正教育のみか
本当に国家が教育を受ける権利を保障するのであれば、このような条件を解消するように、施策が講じられるべきであろう。
まずこうした条件において、教育を受けることがどのように充足されたり、されなかったりしたのか、そしてその意味するところは何か、次に具体的に見ていこう。
最終更新:2008年08月04日 18:34