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 実際に、日本の教育をすぐれた教育と考え、真剣に学んで、自分の国の教育に取り入れようとしている人々がいることは間違いない。
 私のオランダ人の友人の校長は、日本の学校を度々訪れ、また、姉妹都市の関係で、隔年にホームステイのため日本を訪れ、また、その間の年には、日本からのホームステイを受け入れている。
 そうして、日本との交流を日常的に行っているのである。
 彼が校長として、日本の学校に驚嘆した最初のきっかけは、全校集会で、小学生たちが、校長の話を静かに聞いているのを見たことだったという。オランダでは、全校集会なるものは、滅多にないが、日本では通常毎週朝礼とか昼礼として行う。そこでは、必ず校長の話がある。
 しかし、オランダのクリスマスなどのような特別の機会に、校長が全校生徒に話をしても、確かに、生徒たちはあまり聞かない。集中力の現れが、日本の生徒とは異なっているように、私は感じた。
 このように、日本の教育の「訓練的要素」が、ある種の欧米の教育関係者を感動させていることは、間違いないだろう。
 だが、一方で、こうした日本の教育について、批判も繰り返されてきた。
 代表的な日本人論であるベネディクトの『菊と刀』は、日本の教育が自主性を育てないもので、一種の甘やかしであることを、批判的に紹介していた。これは既に半世紀も前の書物だが、アメリカ人の日本認識の根底を形成する影響力をもっていると思われる。
 私の子どもの通っていた幼稚園は、とても教育理念が独特で、いわゆる勉強的な要素は入れず、芸術的要素に徹しているが、それに共鳴した親が多数子どもを入れていた。通園バスも給食も才能教育もやらない幼稚園だったが、子どもの少ない状況で、経営の苦しい幼稚園が子ども集めに行なうことを、全てやらないから、信念があると言える。そこにアメリカ人と日本人の夫婦がいて、子どもを入れていた。電車に乗って子どもを連れてきていたので、結構遠くから来ていたのである。
 ところが、どうしても日本の小学校には入れたくないといって、子どもが幼稚園を終える年齢になったときに、わざわざ日本で得ていた仕事を捨てて、アメリカに渡っていった。
 これは丁度NHKが、アメリカは日本の教育を手本にしようと言っていると番組で紹介してた頃のことである。アメリカ国民の本当の気持ちは、かなり違うのではないか、と私は考えざるをえなかった。
 日米の教育を詳細に比較検討した『ジャパニーズ・スクール』という本がある。著者のベンジャミン・デュークは、アメリカで生れ、日本で大学の教師をしており、イギリスにも住んだ経験がある。大筋の分析は次のようなものである。
 日本の教育は数学、国語の習熟、頑張りの精神の涵養などの特質がある。受験という試練に一丸となって家族で努力する中から、労働の基礎能力と企業への忠誠心において優れた労働が、卒業していく。これが優れた品質の製品を生産していく日本企業の秘密になっている。
 デュークは日本の大学の教師をしているので、当然入試の監督をするが、その時の印象的な様子を描いている。
 しかし、アメリカの生徒はこのような1日に向けての緊張と、その結果による悲喜こもごもの反応を示さない。SATを受ける時も、合否はなくただ単に点数が知らされる上、だめだったら何度も短期間の内に再受験できる。日本のように1年に1度だけの儀式ではなく、そのための受験勉強などもほとんどしない。もっともテレビでニューヨークにあるSATのための準備練習をする予備校を放映していたので、塾はあるようだが、日本ほど普及していないことは確かである。
 デュークが言っているように、日本の教育は「品質管理の教育」という言葉に端的に表現される特徴をもっている。そして、それを支えているのが、学習指導要領、教科書検定そして、入試制度である。更に予備校や塾などの私的教育機関が補完している。
 しかし、デュークはアメリカの教育が、全般的に日本に劣っていると考えているのではない。優秀な生徒のための学校はアメリカの方が優れていると言っている。それは、のびのびとして個性も育ち、アメリカの科学技術の発展を生み出しており、設備や教育そのものにおいて、日本の優秀校よりはるかに優れているというのである。
 しかし、入試制度のために、日本では中学生のほぼ全員が、高校生の半分以上が、数学や外国語を学習し、それが仕事に就いたときに大きな意味をもつ。数学や外国語をほとんど勉強せずに社会に出ていくアメリカの労働者とは、差が出てくるというのである。
 私たちが考える必要があるのは、日本人はこうした受験体制を積極的に受入れている、とデュークが評価していることである。
 受験体制の長所として、多くのアメリカ人は、全ての学力段階の生徒が、学習目標をもち、それに精を出すことをあげている。偏差値体制は、1点でもあげることに意味をもちますから、70の生徒も、50あるいは30の生徒も、72に、53に、35にしようという目標が設定できる。このことの教育的意義は確かに論議もあるが、こうして多くの中学生、高校生が勉強に励んでいることは、間違いない。
 ところが、アメリカのように、ある一定の点をとれば、上級学校に進学できるという、資格試験的な要素が強いと、大変学力の高い生徒や、逆に大変低い生徒は勉強をおろそかにしがちになるという欠点がある。こういう点で、全ての生徒を競争に参加させる入試制度が、社会的にも、また個々の親にも支持されているというのである。
 欧米から見た日本の教育の特質が、「品質管理」的同質の生徒を「生産」することにある、と見ていることが確認できる。
最終更新:2007年09月25日 20:19