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 日本の教育の特質を整理しておこう。
 もちろん、学生諸君が自分で、考えることが大切であり、これはあくまでも、ひとつの案である。
 日本の子どもたちは、教育の過剰に悩んでいる。あふれるほどの勉強量、毎日出される宿題、そして、青春のエネルギーを注ぎ込む受験、等々。
 日本のトップの高校に在学した生徒が、「俺の青春を返せ!」と叫んで、親に暴力を振るったという。
 もちろん、こうした教育過剰は世界中で見られるわけではない。むしろ例外的な状態だろう。日本よりもっと過剰な学校教育にあえでいる子どもたちもいる。例えば、シンガポールでは、小学校の4年生になる時に、大きな選抜があり、中学、高校、大学へと行くにつれて、厳選されていくシステムになっている。子どもたちの勉強への抑圧は日本の比ではないとも言われる。
 しかし、やはり日本の教育熱心は世界でも有数のものだろう。
 一方、その反面として、日本の子どもは大変大切に育てられる。途上国の子どもたちは、売春の対象だったり、戦争に参加させられたり、およそ「子どもの権利条約」に相応しい扱いをされていない場合が多い。
 まずそうした子どもの現状を、概括的に見ていくことから始めよう。
 もちろん、日本の子どもが、全く途上国の子どもと異なっているわけではなく、意外な共通点もある。前回紹介したように、近年の日本の子どもに対する報道は、いわゆる「援助交際」に多くが割かれている。「売春に走る子ども」という点で、日本と途上国の子どもには、共通性があるとも言える。では、同じ問題を抱えているのか。
 こうした問題を考えるために、ひとまずは、教育の基本に帰ってみよう。
 教育は、生活や労働の中で元来行われてきたものであるが、文字文化が発生するとともに、学校が発生した。文字は、ある一定期間、特別の教育を受けることによって、はじめて自由に扱えるようになる。文字を扱う職業人、僧侶や役人を養成するために、学校がつくられたのである。古代エジプトでも、子どもを役人に育てたいのに、あまり勉強をしないことをなげく親の言葉が、刻まれているという。近代までは文字を扱う人が、ある程度限定されていたために、学校は特別の人のためのあり、身分的な性格をもっていた。
 社会の圧倒的多数は、学校とは無縁な場所で、伝統的な知識や技術を習得して、成長したのである。
 近代社会になり、近代的工業が興隆するに及んで、文字を修得することが国民の利益となって、小さな規模の学校に通う者も出てきた。
 産業革命を経て、本格的な資本主義、工場生産が始ると、児童労働が大きな部分を占め、そして、教育制度が国民的な制度に変化していく。
 世界で初めて産業革命を経たイギリスでそうだったが、日本でも婦人労働や児童労働が生産を担う時期があった。このことを確認することは、過去の歴史という意味ではなく、世界の多くの国では、まだこの段階にあって、児童労働のために学校教育が未発達の国があることを認識しておくためもに必要である。
 工場での協業に、学校教育を受けた労働者が適当であったこと、児童労働が少年の発達を著しく阻害して、犯罪少年になったり、病気で死亡する例が続出し、経済的な観点からも学校教育が支持されるようになり、先進国のほとんどで19世紀後半から末にかけて、義務教育制度が採用された。
 先進国ではその後、エリートの選抜の底辺層の拡大や科学技術の進展などの理由で、中等教育が拡大していく。そして、高等教育の拡大に向っていくことは必至である。
 拡大された教育制度は、支配層から見れば、エリート選抜の合理化であり、また大衆からすれば、立身出世の手段であった。
 このような教育は「競争」を媒介にしている。資本主義が競争経済であることに対応して、人材の育てることを「競争」を軸にして行なってきた。そして、「競争」の教育を常に、教育内容を同質化していく必要がある。同じ内容だからこそ、より効率的に競争を組織することができるからである。
 先進国であるためには、同時に、その逆の要請に直面する。
 先進国は先進的な技術を保持しなければならない。現在では、人材の育成は学校教育や社会の教育に依拠している。そして、先進的な技術の開発は、常に自由な雰囲気を必要としている。それを国家的な範囲で行なうには、国家的に組織された教育制度の中で、自由を尊重することが、必要なのである。これまでの技術先進国の教育は、いずれもその例外ではない。
 日本がこれまで「管理的教育」であったのは、先進的な技術を自ら開発するのではなく、むしろ海外から輸入していたからに他ならない。しかし、日本での技術開発が進むにつれて、教育の自由を求める声が強くなっている。
 当然のことであるが、自由な教育は多様な教育を許容しなければならない。ここで同質性を求める競争と、先進技術のための多様で自由な教育が、 二律排反的に同居しなければならない。
 さて、以上のような、「一般的要約」を踏まえて、いくつか問題を提起しておこう。

Q 戦前の日本では、学校は「立身出世」の手段であった。事実、少数であったとはいえ、貧しい家庭の優秀な子どもが、まわりの援助もえて、帝大を卒業し、出世していく事例はあった。
 しかし、現在でも、学校は「立身出世」の手段になっているか。
 それとも、階層格差の拡大再生産の手段でしかないか。
Q 経済的豊かさ、子どもの減少等で、「管理主義」教育は、薄れていくと考えられるか。それとも、いわゆる底辺校などを中心として、管理教育は継続していくだろうか。
最終更新:2007年09月25日 20:20