握った彼の手には、温度がなかった。
雪の溶け出す小川にそっと指をつけたような、背中がすっと冷える冷たさ。それが、彼の大きな手に触れた時の感覚だった。
きちんとした医学知識を持っている訳じゃない。けれど脈を計るために重ねた指からは、一つの鼓動も感じられなかった。
それでも、脈もない、温度もない、そんな死人の身体を持つブチャラティの瞳は――強い光を持って活きている。
「ねえ、どうしてあなたは死んでいるの?」
私に手を触れられたまま、沈黙を守るブチャラティにもう一度同じ言葉を投げかける。彼は見開いた目を閉じた。
レバーから手を下ろし、私の手もそのまま振り払う。それは柔らかい拒絶だった。
「どうして……?」
ブチャラティのその一言で、車内の温度まで冷え込んだ気がした。それでも私は座席から乗り出した身体を戻すことない。
「ごめんなさい……私、読唇術を習ったことがあって。ほんのちょっぴりだけど……」
「つまり俺がさっきしていた事を見ていたと?」
無言で頷くと、ブチャラティは両手でハンドルを握りしめた。
彼は怒っているのかしら。
私が盗み聞きみたいな事をしたせい?
余計な事を言ったせい?
罪の意識と恐怖が、私の喉を締め上げる。ブチャラティが身体を動かす音が、やけに耳に響いた。
でも私の震える手に気がついた彼は、それを見て笑った。この殺し合いに巻き込まれてから何度も見てきた、安心させようとする優しい微笑み。
「ああ……すまない。別に怒っている訳じゃあないんだ!ただ俺は驚いただけで」
不思議と人の心を落ち着ける声だ。私も安堵の笑みを浮かべることができる。
しかしブチャラティはその微笑みをかき消すと、顔を近づけてきた。じっと私の瞳を覗き込む彼に、再び緊張が走る。 なんて強い目なのかしら。
「君は不思議な子だ……。ただの少女かと思っていたが、強い意志と行動力を持っている」
――そんなことはない。
その言葉は声にならなかった。
――私が持っているとすれば、それは……あの人への愛だけよ。
ブチャラティの方がよっぽど強い何かを持っているくせに、そんな事を言う。そうだ。彼は
ジャイロ・ツェペリに似ているのかもしれない。どことは言えないけれど、その前だけを見つめる背中とかが。
そっと、彼の手が私の頬を撫でる。一瞬の冷たさに、私は思わず息を忘れてしまった。恋人のような甘いものではない。子供に何か言い聞かせるような仕草で。
「君が信頼できない訳じゃあないんだ……。ただ『知らなくていい事』とか『知らない方がいい事』はいくらでもあるだろう。
……君に秘密はあるように、俺にも言えない事はある。
気をつけて……。純粋すぎる好奇心は君を傷つける事もあるから」
頬を撫でた手がそのまま下へ下りる。とん、と一度だけ軽く心臓の上をその指が示した。彼に撃たれた心臓がズキズキと痛み出す。
ブチャラティは固まったままの私を横目で見て、ハンドルとレバーに手をかけた。
彼の目線から開放された私は、呪縛から開放されたように車の座席に体重を預ける。体温が上がった。異常な程のスピードで、血液が巡っている気がする。思わず胸を片手で握りしめてしまうくらい。
「すまない……。君を責めている訳じゃないともう一度言わせてくれ。
ただ、これは言い訳みたく聞こえるかもしれないが……聞かない方が君のため、という事さ」
分かっている。
彼が私を責める気などなく、私の身を案じてくれているだけだということは。瞳がそう語っていたから。
だから私が怯えているのは、もっと違うこと。
一つの単純な恐れ――。
私が嘘をついたことを、彼は知っている……!
こんな目をした人を欺けるなんて思ってはいけなかった。私は甘かったのよ。
そして何より、彼は私を信じてくれている。その信頼を裏切っているという事実が、私にはひどく重い。
私もブチャラティの事を信じている。でもそれ以上に彼の敵を裁く躊躇いのない姿は、私を不安にさせる。
気がつくと、窓から見える景色は前から後ろへ流れていた。ブチャラティは無言でハンドルを握っている。その姿を見ていられなくて、私は景色をじっと眺めることにした。
窓に写った私の顔はひどく憔悴しきっている。怯えた瞳から一粒だけ流れた涙を、ブチャラティに気づかれないように拭った。
※※※
「――シー……ルーシー?」
その声に目を覚ました。心地よく揺れる感覚に、私は眠ってしまっていたらしい。はっとして運転席のブチャラティを見ると、真剣な顔で私を見ている。
「あ……ごめんなさい!」
「いや、いいんだ。休めるときに休んだ方がいい……。それより、少し降りよう」
ブチャラティの発する緊迫感は、どうやら外へ向けられているらしい。それでも、肌を刺すような緊張は車内を支配していた。
彼は私に声をかけながらも、じっと外を見ている。その様子に身体は強張った。私はブチャラティに続いて車を降りる。
「これって……」
そこで見たのは、一目で分かる悲劇の跡だった。
地面には穴が幾つも穿たれている。弾丸の跡のような丸いものや、切り裂いたような跡。辺りをキョロキョロと見回していると、地面が不自然に黒く染まった場所がある事にも気がついた。
あれはもしかして――。
「ルーシー。此処は独立宣言庁舎だ」
ブチャラティがいつの間にか取り出していた地図を私に見せてくれる。確かに此処は見覚えのある独立宣言庁舎だ。しかし人の気配は全くない。
「見ての通り、どうやら此処で何か衝突があったようだ。そして恐らく……死人が出ている……」
ブチャラティがその言葉と同時に赤黒く染まった地面を足先で示す。
やっぱりこれは血。それもかなり大量の。
詳しい事は分からないけど、この量の出血は危ないってことなんだろう。羽織っていたフードを握りしめ、改めて思う。やっぱりこれは殺し合いなんだ。
「だが恐らく、此処で戦闘があったのも少し前のことだ。生き残った方も既にどこかに立ち去っているとは思うが……」
ブチャラティはそう言って考え込んだ。彼の思案を邪魔しないように、私は黙って地面を見つめる。
きっと彼は今、私なんかには難しくて分からないことに集中してるのね。でもブチャラティが再び口を開くのに、そんなに時間はかからなかった。
「……とにかく、少しこの辺の捜索をしてみよう。ルーシー、危険だから俺の側を絶対に離れないようにしてくれ」
その言葉にした頷こうとして、止めた。
「いえ……ブチャラティ。私、どこかに隠れて待ってるわ」
「え?」
「万が一戦闘になったら、私がいたら足手まといでしょ?それにきっと貴方だけの方が探索もすぐに済むと思うし……」
「だが……」
「此処も人が寄ってきたら危険だろうし、車の中も目立つから……そうね、何処かの民家の中で待ってる」
そう一息で言い切ってから、ブチャラティを見つめる。彼は何か言いたげだったが、結局口を紡いだ。
小さく分かった、と了承するブチャラティ。本当は安心したけれど、それを隠すために微笑む。
「なるべくすぐに戻る。何かあっても出来るだけを離れないでいてくれ」
「ええ」
そして私は辺りの民家へ目を通す。目立たなくて、この場に溶け込んでいて誰も見向きしないような家――。
私は適当な一件を指さした。外から見てもおかしなところはないし、人の気配もないみたい。
「あそこ、あの家に隠れてることにするわ……。外から分からないように灯りはつけない」
彼が頷いたのを見て、私は小走りに駆け出した。後ろは振り向けない。
――きっと、彼が私を穿つような目で見ているから。
※※※
民家の一階、カーテンの閉まった窓のすぐ下に私は荷物を下ろした。カーテンをちょっぴり開けて外を見てみる。外は少しずつ白んできているような気がした。
この家は、やはり何の変哲もない民家のようだった。ぼんやり暗がりの中に見える内装からは生活感が漂っている。それなのに、どこか歪で作られたような違和感を感じるのはなぜなのかしら。
窓の外からはさっきまでいた独立庁舎前の道が見える。ブチャラティの姿はもうなかった。そして車も。車で辺りを回るつもりなのか、どこかに車を隠したのかは分からない。
カーテンを隙間のないように閉めると、部屋は真っ暗になった。灯りのない、静かで寂しい部屋。
自分がワガママだということは十分わかっている。でもそれを押してでも一人になりたかったのは、少しだけ考える時間が欲しかったから……。
悩んでいる私の顔を、ブチャラティには見せたくなかった。
このままブチャラティに全てを隠したままで一緒にいてもらおうなんて、私はズルいのかもしれない。
もしこの殺し合いに、大統領とか遺体が――そして『大統領に呼び出された最後の刺客』が関わっているなら。私のこの行為は、彼の信頼を傷つけるひどい裏切りだわ。
……それでも私は怖い。
私には想像出来てしまう。正義の人であるブチャラティが、スティーブンを真っ直ぐな目で切り裂く姿が。それを……甘んじて受け入れてしまう、夫の姿が。
私は窓の下で、膝を抱えて座っていた。考えれば考えるほどに自然と涙が零れそうになり、唇を噛み締める。
一人は怖い。
でも今は一人がいい。
真っ暗闇の中、どのくらい一人でいたんだろう。
そんなに長くはなかった気がする。
トントン、と音がした。
リズミカルに床を叩く音。それが二種類重なって聞こえる。
はっとして部屋のドアを見つめた。目線を外さず、音も立てないようにゆっくり立ち上がる。
間違いない。
『誰かが階段を降りてきている――』
二つの足音は部屋の前で止まった。
誰かがいる。部屋に入ってくる。侵入者だ。
いや、違う。彼らは元から此処にいた。二階にいた。侵入者は私だ!
悲鳴を上げそうになる口を必死に抑える。何も見えない中で、音だけが状況を教えてくれていた。
ドアノブのまわる音。
左手は口を抑えたまま、右手は鉈を握りしめる。二つの足音がゆっくりと床を踏みしめて部屋に入ってきた。
後ずさろうとして、背中が壁にぶつかる。カーテンの擦れる音が、部屋中に響いた。
「やはり……誰かいるな」
「――っ!」
恐怖で頭が真っ白になる。
喉から小さな声が絞り出された。言葉になっていない、悲鳴にすらならないうめき声だった。
「高い声……女か?」
「此方に戦う意志はない。ひとまず落ち着いてくれ」
ドアの前に立っているらしい二人のせいで、私はもうこの家の外には逃げられない。窓から逃げるという手もあるけれど、『この暗闇の中でカーテンを開いて鍵を探し解錠をして飛び出す』……そんなことをしている余裕もなく捕まってしまう。
だったら私が取らなくてはいけない行動はただ一つ、時間を稼ぐことだ。
声からして、両方とも男。まともに戦っても勝てないわ。
息を吸い込んで、出来るだけ落ち着いた声を出そうとしてみる。もう随分とおびえている空気は伝わってしまっているけれど。
「――外の……血の跡は?」
「……」
「知らない、関係ない……なんて言えないでしょう?」
挑発にも取られてしまいそうな発言だったと気がついたのは、暗闇が静寂に包まれてからだった。
がしがしと頭を掻く音と、舌打ちが聞こえる。思わず息をのんで後ずさってしまい、踵が壁を打った。
「君の予想通り……あそこで戦闘があった。戦ったのは、俺達と襲撃者だ」
「襲撃者……?」
「ああ。おそらく殺し合いに乗った者だろうな」
私の質問に答えているのは、二つの声の内の一人だけだった。先ほど舌打ちした方の男は黙っている。
光のないこの状況で、三人の呼吸とポツポツとした話し声が部屋を支配している。
「襲撃者は二人組。片方には逃げられてしまい、今は二人でこのあたりを探していた所だ」
……つまり、もう一人はもうこのゲームから下ろされたという事なんだろう。その命を代償に。
まだ警戒は解けない。
私と同じ、この戦場下において、「ウソ」は重要な意味を持つんだから。
でも無防備な女の私を即座に狙わなかったという事は、この人たちには殺し合い以外の狙いがある……のかも。警戒しているだけの可能性だって十分あるけどね。
「貴方たちは……二人?」
「ああ」
「いや、三人だった」
二人の会話に混ざってきた声は、もう一人の男のものだった。
その声に含まれる感情が、うまく読みとれない。でも何かを必死に押し殺しているような、そんな気がした。悲しみ?怒り?
「……おい」
「本当のこと言っといた方がいいだろう……」
二人が静かに何かを探り合うような時間が流れた。
しばらくすると――どちらかというと落ち着いた声の男の方が、折れたようで「分かった」と声が聞こえる。
「俺は……その戦いで仲間を失った」
「ッ!」
「だが俺は『逃げたもう一人』を討つだけで満足するつもりはねぇ……。本当に叩かねぇといけないのはもっと上だ」
まさか。考えられる最悪のシナリオが頭の中に展開される。
もっと深刻に予想すべきだった。さっきまでの状況が『最悪』ではなかったッ!
「俺たちは主催者を引きずり落とす――そして俺たちの誇りのために、報いを取らせる」
あの会場にいた百人以上の中で、一体何人が夫の命を狙っているの!?
大統領が裏にいることは分かっている。
そして……その他の百人以上の参加者までも、スティーブンを殺そうとしているかもしれない。
もしも誰かがこのゲームの黒幕に近づいたとして、その時に夫が「トカゲの尻尾」にされるのなんて分かり切ったこと。
またしても、私の身体は小刻みに震えている。鉈を両手で握りしめて震えを止めようとしても、荒い息が漏れるのは止められない。
この鉈だけが、私とスティーブンを繋いでくれている証のような気がする。
助けて、と誰に向けているのかも分からない救いを求めてしまう。もうこの世界に希望なんてないような、暗闇の中に彷徨う気分だった。
「……だが、俺にはあの演説かましてた爺が全ての黒幕だとはどうしても思えねえんだよ」
でもその中に小さな火が見える。
あまりにいきなりの事で、私は声も上げられずに男のいるだろう方向を見つめていた。
「あんな何百人から恨まれるって分かり切った状態で堂々と顔晒すなんて狂気の沙汰だぜ。あの爺がそんな狂った奴には思えねぇ」
思わず頷きたくなるのをこらえて、私は彼の言葉を待った。
「黒幕は、暗い穴蔵の中にいる。そっちを叩かなくちゃあ、終われねえ……爺は利用されてるだけかもしれないしなあ」
ドッと、全身から力が抜けたような気がした。今までずっと私を支配していた緊張が消えて、座り込みそうになってしまう。
この人なら、この人たちなら分かってくれるかもしれない!
一歩、二歩と足が彼らの方へ進んでいく。ぼんやりと二人の影を捉えた。
「君は一人かな?一緒に行動しないか。少しでも協力者が欲しい
「え、あ……実は一人、人を待っていて……。彼に聞いてみないと……」
でもきっと、ブチャラティだって協力者が欲しいはず。上手くいく。全て上手くいくわ!
もうひっそりと隠れる必要もないだろう。荷物の中から懐中電灯を取り出して彼らに向けた。
新しく仲間になるだろう二人の姿を確認したい。弾くような高い音が聞こえて、暗闇は瞬間掻き消える。
そう、瞬間だった。
全ては幻で、ウソで、安すぎる希望で、未だ私は生温かい暗闇の中にいるのだと、一瞬で気付かされたのは。
手前に立っていたのは、白い服の男だった。短いくせ毛と、鋭い目を隠すように眼鏡をかけている。
眩しさに目を細めてから、彼は私の心臓を掴むような視線で此方を睨みつけていた。
そしてもう一人、見覚えのある男がその背後にひっそりと立っている。ジョッキー服を着た青年。首筋に添うように伸ばした明るい金髪。
その姿を私が忘れられる訳がなかった。
「ディエゴ……ブランドーッ!」
もう一人の男と同じように目を細めていたディエゴは、私の姿を認めると柔らかい笑顔を浮かべた。人好きする、明るい、それでいてハリボテみたいな笑い。
「ルーシー……?良かった!貴方だったのか!」
手前に立っていた男を押しのけるように私へ近づいてくる。それに合わせるようにして、私の足は再び後ずさる。
こんな風に彼と再会するなんて、思っていなかった。ぎゅっと握りしめた鉈が汗で滑りそうなほどに緊張している。
なぜ、なぜ……!今の私は「アレ」を持っていない!こんな鉈一本で彼に敵う訳がないッ!
「そんなに警戒しないでくれ……。確かに俺はレースの中でジョニィたちと対立した。でも今はレースの勝者なんて気にしている場合じゃないだろう?
……それに、君も……あの人を助けたいんじゃないかな……?
なあ――マダム?」
ディエゴの言葉は全て、私の心を上滑りしていく。何も耳に残らなければ、意味を理解出来るほど心の奥に届く訳でもない。
でも、最後の一言だけが胸の奥に爪となって突き刺さった。
(誓いを立てて結婚したなら夫のために守り続けろーーーッ!!)
……私はあの時決めた。何を犠牲にしてでも彼を守り続けると。
彼と私の幸せを、掴んでみせると。
もう何があっても退けないのよ。
彼が本心から協力したいと望んでたとしても、私は彼をスティーブンには近づけない。絶対に、彼を守ると決めたのだから。
そのために――何人もの命を犠牲にしてしまったのだから。
同じように全てを犠牲にしたジョニィの意志も、私の彼への思いも、全てが
ディエゴ・ブランドーという男を拒絶している。
そう決意すると、頭は逆に冷静になるようだった。
必要なのは、時間と――狼煙。
「待って!止まって!こっちに来ないでッ!」
お腹に力を込めて、出来る限りの大声を出す。そのままなるべく自然に後ずさり、窓に背中をつけた。
ディエゴは動きを止める。一瞬だけ、彼の瞳が冷たく細められたのに、私は気付いていた。
「……貴方、遺体はどうしたの?」
「い、遺体……?」
遺体と口にすると、彼の様子は明らかに変わった。
ディエゴの後ろの男は何を考えているのか、何も言わず私たちを見ている。
「その様子だと……貴方も利用されているだけかしら?それとも何か企んでいるの!?」
「……」
「どちらにしろ、私は貴方とは組めないわッ!分かっているでしょう!?私たちは決して相容れない!!貴方がどんなに甘い言葉を吐いてもッッ!!!」
喉がぴりぴりと痛み始めた。
怒りに身を任せているように見せればいい。そんなの簡単よ。全てぶちまければいいだけだから。
ディエゴはすっかり「演技」を忘れているようだった。その瞳に疑惑と怒りを湛えながら、私を見ている。
「……ルーシー、君は――」
「それじゃあ困るんだよなぁ」
唐突に声がした。
それは、今まで私たちの会話を言葉も挟まず聞いていたもう一人の男だった。いつの間にか彼は苛立ったように、身体を揺すっている。
その鋭い眼光は、一度ディエゴを見てから、私へ向けられる。
私は再び恐怖を思い出していた。
一体、彼は何者なんだろう。
二人の関係の「イレギュラー」であるこの人が何をするのか……私にはまったく予想ができない。
「テメーには何としても一緒に来てもらわなきゃ困るんだよ……」
「おい、待て……
ギアッチョ」
『ギアッチョ』とディエゴに呼ばれた男は、大きく足を広げて歩み寄ってくる。
「どうやら、テメーは黒幕とあの爺を殺すのに役立つらしいじゃねーかッ!」
逃げ場のない私を、男はあっという間に追いつめた。鉈の握りながら何も出来ない私の右手が締め上げられる。
無我夢中で腕を振りまわしながら逃げようとしても、首を絞めるように身体を持ち上げられてしまう。
「イヤッ!は、放して……ッ!!」
「キイキイうるせーなあ!冬のナマズみてーにおとなしくしてろ」
「ギアッチョ!」
どれだけ大声を張り上げても、何も変わらなかった。それどころか、私の首を締め上げる力は増していく。
鉈を取り落としそうになりながら、絶対にそれは手放せない。これだけは――スティーブンが私にくれた、この武器は……。
頭がぼおっと霞んでくる。
何も考えられなくなる。
金魚のように、ひたすら空気を求める。
でも望んだ酸素は肺には届かない。
ごめんなさい。ごめんなさい。
そんな気持ちだけでいっぱいになる。
誰に向けているのかも分からない。
もう一度、スティーブンに会いたい。
貴方の隣で、また……。
切り裂く音が聞こえた。
いや、それは切り開く音だった。
押しつけられていた壁がなくなり、支えを失った身体が外に投げ出される。
私を押さえつけていた男の顔が遠ざかっていった。男はなぜか私ではなく、もっと奥をじっと見ている。その目は驚愕に彩られていた。
床に叩きつけられると思った身体は、何か柔らかいものに支えられた。
私は、そのたくましい腕を知っている。
温かさを失いながらも、力を、信念を失わないこの身体を。
「ブチャラティ……ッ!」
「ルーシー、大丈夫か」
私の身体をしっかり受け止めた彼は、壁の向こうを観察する。
するとすぐに、私の肩を抱いて走り始めた。
「二対一では危険だな……。走れルーシー!向こうに車を隠してあるッ!」
ブチャラティのスーツを握りしめながら、私は走る。彼が隣にいるというだけで、涙がぼろぼろと流れてきた。
「ごめんなさい……ごめんなざいッ!ブチャラティ……」
「……いいんだ。君に時間が必要だと思って、一人にした俺にも責任はある」
ブチャラティは、私の肩をより一層強く抱いてくれる。彼の優しさにまた涙がこぼれて、ほとんど視界も見えなくなった。でも彼が私を支えてくれるから、私は迷わず走ることができる。
本当に良かった。ブチャラティが私の叫びを聞き届けてくれて――。
「ルーシー……。俺は、あそこにいた男を知っている」
はっとして、私はブチャラティの顔を見上げた。彼は真っすぐに前を見ていたが、その眉は歪んでいる。
「……君に全て話そう。だから……君も俺に打ち明けてくれないか」
その言葉に彼から視線を外した。
――全て打ち明けて、それでも彼は私を信じてくれる?
――ブチャラティはいい人よ……。でもだからこそ、あの人たちのように死んでしまったら……。
もつれそうになる足を必死に動かして私は走った。涙の流れなくなった視界が徐々に開けていく。
夜明けがやってきた。
※※※
失敗した。しくじったのだ、このDioがッ!
ファスナーで開かれた壁。走り去る後ろ姿を見ながら俺は拳を握りこんでいた。ギアッチョは何も言わずに、ルーシーと男の背中を見ている。
「ギアッチョ、とにかく二人を――」
「……何でだよ……」
「……?」
「クソッ!クソッ!クソッ!何で毎回毎回毎回毎回アイツなんだよ!!!なぜテメーは俺たちの邪魔をするッ!ブチャラティーーーッ!!!」
ギアッチョはもはや俺を見ていなかった。その怒りに燃えた目は
ルーシー・スティールを見ている訳でもなく、ただ彼女を連れ去った男に向けられている。
そこからは一瞬だった。
ギアッチョは即座にスタンドを発動させると、二人を追って走りだす。俺はその場に一人だけ残された。その状況に、俺の苛立ちは更に増した。
この家にルーシー・スティールが入ってきたことには気がついていた。
ゲームの黒幕を叩くと決めたものの、まずはどう動くべきか俺たちは悩んだ。とりあえず二人組の襲撃者の内のもう片方を探しに、狙撃出来そうな家をいくつか回る。
「らしき」家は見つけたのだが、その二階はすでにもぬけの殻で誰もいない。そのままその部屋で今後の動きについて話し合っていた。
――そしてその時、俺たちは車の音を聞いた。
窓から外を見て様子を伺うのも手だったが、俺はより安全な手を選ぶ。
ギアッチョに付けたままだったカエルを元にした恐竜を、その場所へ向かわせたのだ。
そこで俺は、車に乗っていた片方がルーシー・スティールだと知った。丁度恐竜が到着した時に二人は別れる所だったので、もう一人は確認できなかったが、それ以上に嬉しい情報を手に入れられたのだ。
俺たちの今現在潜伏している家屋に、ルーシーが飛び込んできてくれるとは!
正直、ギアッチョに彼女のことを話すのは不安だった。しかし此処に入ってきた女が、主催の男の妻だと話しても奴は案外冷静を保っていたのだ。
彼女は何も知らないが、うまく使えばいい道具にはなるだろう――そう言うと、ギアッチョはルーシーを取り込むことに同意する。
おそらく、本当に彼女は何も知らない。利用されているだけの哀れな娘だ。
利用され終わったとしても、あの大統領が「知りすぎた」ルーシー・スティールを生きたままにしておく訳がない。
だから、俺はあの「ルーシー・スティール」は「別世界のルーシー・スティール」だと思ったのだ。
しかし、いざルーシーと対峙するに当たって誤算が多すぎた。
交渉をした時のギアッチョの口ぶりは実に鮮やかなものだ。事前に俺が流れを提案していたとはいえ――あそこまですらすらと言葉をつむぐ様に、俺は驚いた。ここまで冷静になれるなら、今まで以上にうまく使えるかもしれないと。
まず第一の誤算は、ルーシー・スティールがギアッチョの仇敵と協力していたことだった。
もう一人同行者がいたとしても、ルーシー一人言いくるめてしまえばどうにでもなると思っていた。
「ブチャラティ」
それは、ギアッチョの仲間を殺したチームのリーダー。冷静に主催を狙う、と宣言したはずのギアッチョがあんなに簡単にキレるとは。
そしてもう一つ……あのルーシー・スティール自身だ。
あの女は遺体を知っていた。ならば「基本世界のルーシー・スティール」に他ならない。
――ならばなぜ、そのルーシーが参加させられている!?
大統領の狙いは?まさか本当にあの女は大統領と繋がっているのか?
……そして、ルーシーの言葉の意味は。
(……やはり、あのルーシー・スティールは『俺の知らない未来』を知っているという事か……ッ)
だとしたら、やはり俺は何としてもあの女からそれを聞き出さなければならない。
「俺は『イレギュラー』は嫌いなんだよ……」
五感が更に研ぎ澄まされる。
恐竜のそれに変わった四肢を動かし、ギアッチョの背中を追い始めた。
夜明けが来てしまった。
【F-4 独立宣言庁舎前路地→? 1日目 早朝】
【
ブローノ・ブチャラティ】
[スタンド]:『スティッキィ・フィンガーズ』
[時間軸]:サルディニア島でボスのデスマスクを確認した後
[状態]:健康 (?)
[装備]:なし
[道具]:
基本支給品×3、不明支給品1~2(未確認)、
ジャック・ザ・リパーの不明支給品1~2(未確認)
[思考・状況]
基本行動方針:主催者を倒し、ゲームから脱出する
1.ルーシーを連れて逃げる。逃げ切ったらウソ偽りなく、ルーシーと互いの情報を話したい
2.なぜ死んだはずの暗殺チームの男が…
3.ジョルノが、なぜ、どうやって…?
4.出来れば自分の知り合いと、そうでなければ信用できる人物と知り合いたい。
【ルーシー・スティール】
[時間軸]:SBRレースゴール地点のトリニティ教会でディエゴを待っていたところ
[状態]:健康・混乱
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、鉈
[思考・状況]
1.スティーブンに会う
2.ブチャラティに全てを話すべきなの?
【ギアッチョ】
[スタンド]:『ホワイト・アルバム』
[時間軸]:ヴェネツィアに向かっている途中
[状態]:健康 怒り
[装備]:なし
[道具]:基本支給品一式×2、ランダム支給品1~2(未確認)、ディエゴの恐竜(元カエル)
[思考・状況]
基本的思考:打倒主催者。
1.ブチャラティを追う(頭に血が上ってそれ以外の考えは一時的に忘れています)
2.暗殺チームの『誇り』のため、主催者を殺す。
3.邪魔をするやつは殺す。
【ディエゴ・ブランドー】
[スタンド]:『スケアリー・モンスター』
[時間軸]:大統領を追って線路に落ち真っ二つになった後
[状態]:健康 恐竜状態
[装備]:なし
[道具]:基本支給品一式×2、ランダム支給品2~4(内1~2は確認済み)
[思考・状況]
基本的思考:『基本世界』に帰る
1.ギアッチョを追う。ルーシーから情報を聞き出さねば
2.仲間を増やす
3.あの見えない敵には会いたくないな
4.ギアッチョ……せいぜい利用させてもらう……
5.別の世界の「DIO」……?
[備考]
ルーシーとブチャラティは今、どこかに隠しておいた車に乗ってギアッチョから逃げるつもりです。
どこに向かうかはお任せします。
ギアッチョとディエゴ・ブランドーは『護衛チーム』、『暗殺チーム』、『ボス』、
ジョニィ・ジョースター、ジャイロ・ツェペリ、
ホット・パンツについて、知っている情報を共有しました。
フィラデルフィア市街地は所々破壊されています。
ギアッチョの支給品はカエルのみでした。
※ローマ近くの村にあった車(5部)
ブチャラティ達がサルディニアからイタリア本土に上陸し、
チョコラータ達の攻撃を避けてローマに行くために盗んだ車。
盗んだと言っても車の持ち主は『グリーン・デイ』で死亡済み。ジョジョ本編でもブチャラティが運転していた。
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最終更新:2012年08月24日 03:13