第047話 銀色の刃◆SzP3LHozsw


一体、どれほどの時間が流れ去ったのだろうか。
十分か、一時間か、それとも一日が過ぎてまた夜が訪れたのか――。
晴子は頭上で揺れそよぐ木々の枝葉を眺めながら、ぼんやりと考えた。
このままここに座り続けていれば、いずれはこのエリアが禁止区域に指定され、首輪に仕込まれた爆弾が爆発することだろう。
そうしたことを晴子は充分理解していたが、しかし同時に、それは晴子にとって些細な問題となっていた。
最早そうしたことに頓着していられるほど、晴子の精神に余裕はなかった。

――むしろ死んでしまった方が楽になるのではないか?

そうした考えが湧いたのも、一度や二度のことではない。
ここに座ってからというものずっと、そんなことばかりが頭の隅にチラついて離れなかった。
そうなれば着実に迫り来る死の恐怖に立ち向かわなくて済むし、兄のあの惨たらしい最後の姿を思い出すこともなくなる。
いつか晴子はそう信じて疑わないまでなっていた。
全ての戒めから解放されるのであれば、このままここで死んでしまうこともそれほど悪いことだとは思わなかった。
ひどく破滅的で終局的な考えではあったが、憔悴しきった今の晴子にはそれが全てであった。
晴子はデイパックに手を伸ばし、中をまさぐる。
首輪が破裂するまで待てなかった。今すぐ終わりにしてしまおうと考えた。そのためには自ら命を絶ってしまうほかない。
流川や桜木、三井や宮城のことを考えないでもなかった。でき得ることならもう一度彼らに逢いたいと、強く願った。
だがそれが叶わぬ夢だということを、晴子は身に徹して知っている。或いは流川たちはもう、兄同様この世の人ではないかもしれないのだ。
晴子の細く白い指が、バッグの中で確かな手触りを感じた。それを掴み上げる。
出てきたのは刃を布でくるまれた『出刃包丁』だった。
ズシリとした重量の包丁に少々面食らいながら、それでも晴子は淡々と布を剥いでいく。
これほどの包丁なら、きっと仕損じることなく死んでしまえると思いながら。
しかし実際に月光を鈍く反射させる大身の刃を前にすると、さすがに気持ちがぐらついた。

――死ぬのは恐い。

唐突にそう思った。涙が自然と溢れてくる。
もう泣き枯らしてしまったのではないかと思っていたのに、涙は止め処なく溢れ、晴子の尖った頤を伝っては地面に黒い染みを作っていった。
本当は死にたくなどないのだ。
が、眼の前で兄を惨殺された少女は、それ以外に解決法を持たなかった。
なんとか生き抜こうという術も、そして気力も、兄を失った時点で少女の中から消え去っていた。
ひくひくと泣きじゃくりながら、晴子はどうしようもない気持ちのまま白木の柔らかい柄を持ち直した。
銀色の刀身に瞳を落とす。
16年間という長かったようで短かった時間が、またも走馬灯のように駆け巡った。
小さい頃、兄の背中を見てバスケを始めたこと。
中学に上がり、バスケ部に入部したこと。
練習試合で初めて流川を知り、一目惚れしてしまったこと。
運動神経がないからと、高校でのバスケを諦めたこと。
でも全国を目指す兄のために、桜木という逸材を見出してきたこと……。
あれもこれもと思い出しては、みんな涙で霞んでしまった。僅か16年と言えど、湧き起こる想い出は数知れなかった。
その想い出全てに別れを告げ、晴子は今、旅立たねばならない。

「ごめんね……お父さん……。ごめんね……お母さん……」

晴子は思いを断ち切るように呟くと、包丁を自分の首筋にあてがった。

     * * *

顔に覆い被さってくる木枝を払い除け、足を取ろうと待ち受ける草葉を踏みしめながら、滑りやすい山坂を登っていく。
既に掌や膝頭は泥にまみれ、額には玉の汗が浮いていた。
清純派アイドルなどと謳われているにも拘わらず、葦月伊織はそんなこと少しも気にもとめず、ただ一心に足を動かし続けている。
別段この先の頂上に何かを求めていたわけではなかった。強いて言えば瀬戸一貴を捜しているのであって、山登り自体が目的ではない。
ただ目覚めたのが山の中腹だったということもあり、視界の利かない夜に下山するのは危険だろうと判断し、
じっとしていることもできず仕方なく上を目指しているという次第である。
一貴を思うあまり突発的衝動に駆られて動いたわけだが、非力な女子高生が一人で夜間登山を決行するのは些か無謀だったようだ。
身体を上へ上へと押し上げていく単調な動作に疲れ、足の裏や脹脛に軽い痛みを覚えはじめると、ようやくそのことを感じだした。
せめて明るくなるまでじっとしていて、それから一貴を捜しに出ればよかったのだと、伊織は胸のうちで小さく後悔する。
それなら山登りもここまで苦ではなかっただろうし、誰かに見つかることにさえ注意を払っていれば下山することだって容易だったはずだ。
だがそれでは手遅れになっている場合があるかもしれない。肝心の一貴が死んだあとでは遅いのだ。
そう考えれば、やはり少し無茶をしていたとしてもこうやって動いているのは間違いではなかったのだと、伊織は思い直した。

額の汗を制服の袖で拭い、足を止めようともせず歩き続ける。
しかし無理が祟ったのか、その次の瞬間、伊織は大きく足を踏み外し、山肌を滑り落ちていた。
登ってきたばかりの道なき道を腹這い姿で滑降していく。
幸い伸ばした腕が樹の根を素早く絡め取ったのと、地面が湿った土だったため、
膝を少し擦り剥いたくらいで怪我らしい怪我はしていなかったが、おかげで着ていた制服まで泥だらけになってしまった。
伊織は滑り落ちた数メートルを下から見上げ、そっと身を起こした。
それほど痛くもないのに惨めになるのを必死に堪え、服についた泥をはたき落とすと、その場にしゃがみ込んだ。

「瀬戸くん……」

募る思いがそのまま溜息となって吐き出される。
この三年余りというもの、相思相愛でありながら互いに素直になれず、ずっと近づくことができなかった相手――瀬戸一貴。
最近になってようやくお互いの気持ちを打ち明け合い、わかり合えたというのに、
その彼もまたこの島で『ゲーム』と称するおぞましき犯行の犠牲者として名を列ねている。
彼が今何処に居て、どういう状態に置かれているのか、伊織は一切知る由もなかったが、
それだけに伊織の心は不安で一杯に満たされ、一貴の無事を願わずにはいられなくなっていた。

「逢いたいよ……」

二度と逢えなくなるのではないかという不吉な予感が頭をよぎり、伊織は血の滲む膝を抱きかかえた。

――せめてもう一時。
――叶わずとももう一目。

気付くとそう強く願っているのである。
気持ちが焦っていた。自分がどれほど一貴を愛し、必要としているのか、改めて思い知らされていた。
伊織は悲しみの色を湛えた瞳を虚空に泳がせ、居るはずのないその人の姿を捜した。

――何処? 何処に居るの?!

必死になって視線を辺りに巡らせる。

――瀬戸くん、瀬戸くん、瀬戸くん……!

だがいくら呼べど一貴の姿を認めることはできず、伊織はガックリと気落ちした。
そんなことは初めからわかっていたことだった。こんなところに都合よく一貴が居るはずないということは。
それでも呼ばずにはいられなかった。捜さずにはいられなかった。
普段気丈に振舞うことの多い伊織でも、さすがに今は少し取り乱しているようだった。
そんなときである。
顔に何かキラキラと輝く反射を受け、伊織は息を呑んだ。
こんな真っ暗な山中に、あんな風に煌くものがあっただろうか? 疑問に感じながら身を縮める。
もしも危ない人間だとしたらと、不吉な予感がしないこともなかった。
しかしその光は不思議にも蠱惑的な力を秘めており、伊織も放っておくことができなくなり、惹かれるようにして歩き出した。
距離はさほど遠くない。横巻きにちょっと山肌を降りれば、すぐそこにそれは見えるはずだった。
これが一貴であるなら、これほどの僥倖もなかった。山肌を滑り落ちていなければ、完全に見逃してしまっていたところなのだ。
正体の分からない存在がとてつもなく恐ろしくもあったが、それ以上に期待の方が強かった。
伊織は血の流れ出る膝を庇うことも忘れ、急いだ。

けれど、そこで伊織を持っていたのは、恋焦がれていた瀬戸一貴ではなく、
涙や鼻水で顔中をグチャグチャにしながら包丁を握る、見ず知らずの一人の少女であった。
伊織はひと目で彼女が何をしようとしていたのか、すぐにわかった。
彼女は自ら命を絶とうとしているのだ、と――。

     * * *

眼の前に現れた自分と同じほどの歳の女の子。その突然の登場は、晴子を驚かせるに充分な効果を上げた。
首にあてがっていた包丁が、僅かの時間そこでピタリと止まったのだ。
既に首には無数の躊躇い傷が走り、鮮血が流れ出ている。どれも致命傷ではないものの、その傷は見る者には痛々しい印象しか与えなかった。
晴子はハッと我に変えると、ばつが悪そうに左手で包丁を隠し、右手で首の傷を覆った。

「それ……大丈夫?」

女の子が心配そうに訊ねる。どうやら晴子のしようとしていたことの意味を理解しているようだった。
だがそう訊かれても、晴子は蒼い顔を俯けることしかできなかった。

「どうしてそんなこと……。とにかく、傷を見せて」

晴子がふるふると力なく首を振る。
女の子は無理を押してまで傷を改めようとはしなかったが、しかしただならぬ気配を感じ取ったらしく、
何も言わずに自分の荷物を地面に下ろすと、晴子の隣に静かに腰掛けた。
女の子は言うまでもなく伊織だった。


【E-05/神塚山山中/一日目・午前3時30分ごろ】

【女子01番 赤木晴子@SLAM DUNK】
[状態]:精神的に不安定、首に切り傷
[装備]:出刃包丁
[道具]:支給品一式
[思考]:1.何も考えられない

【女子16番 葦月伊織@I''s (アイズ)】
[状態]:若干の疲労、膝に擦り傷
[装備]:なし
[道具]:支給品一式(※ランダムアイテムは未確認)
[思考]:1.一貴・寺谷・泉との合流
    2.晴子を落ち着かせる


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最終更新:2008年02月13日 13:40