携帯電話が久方ぶりの役目を果たし、さも面倒臭そうに唸っていた。
それにより自室に寝転び呆然と天井を眺めていた私は、
夏季休業に入ったというのに唯一の通信手段を鞄の底に収めたままにしていた事に気が付いた。
何故だか心が逸ってしまう。
携帯電話を鞄の底から抜き出し、開くべきか、開かざるべきか。
ただそれだけのことなのに。
覗きこんだ所で画面に映し出されるのは、単なる文字列でしかないはずなのに。
点けっ放しになっていたテレビでは、主婦を対象とした下劣な内容のワイドショーをやっているらしく、
そこから時折漏れるわざとらしい笑い声が薄暗い部屋の中を満たしている。
その笑い声を四度ほど聞き流した後、私は端的に結論を下した。
「もしかすると、学業に係る重要な連絡事項なのかもしれない」
講義への出席率は、ほぼ無遅刻無欠席であった高校の頃と比べると遥かに悪いが、
それでもここ3年分の経験を活かして致命傷には至らない程度に配意を施し、そつなく熟しているつもりだ。
けれども世の中絶対は無い。
何らかのミスを犯していれば、それにより足元を掬われる可能性だって十二分にある。
ならば早い段階で芽を摘んでおくべきだ。
ようやくにして行動理由を得た私は、反動を付けて身を起こす。
すると待っていたと言わんばかりに短く、ポキリとだけ背骨が呻いた。
「運動不足、なのかもね」
呟きに起因してか、かつて体重でからかわれていた時の思い出が脳裏を過ぎっていった。
恥ずかしく、嫌な思い出だったはずだ。
少なくともあの時の私はその事に憤慨し、それを理由に友人と軽い諍いを巻き起こしていたのだから。
けれども今となってはその出来事が、何処か懐かしく思えてしまうのは何故なのだろうか。
その先を考えようとしたが、結局面倒になったのでやめておくことにした。
やはり言うべきか。
私は携帯電話を覗いたことを後悔していた。
From:こなた
件 名:無題
『お久しぶり。
今度のお盆、帰ってこない?』
素っ気ない文章。
なのに高校時代そのまま、彼女の特徴でもある間の抜けたような声色で、鮮明に読み上げられてしまう。
そういえばもう二年近く顔を合わせてはいなかったのか。
いや、そればかりか私は、学業が忙しい事を正当な理由として説き、長らく実家にも帰ってはいない。
しかしこいつは、夏と冬の休暇が訪れる際に私宛への招待状を律儀にも送ってくるのだ。
それが片道切符であるということを、何度もの経験から周知しているにも拘らずに。
顧みる。
最後に会ったのは何時だったのだろう。
大学一年生の夏、運転免許の取得を名目に里帰りしたときだったか?
灼ける夏日のなか、本当に多忙らしかったみゆきを覗き、私とつかさ、こなたの三人で教習所へと通ったんだっけ。
そうそう、あの時だって無駄に器用で上達の早いあいつに茶化されていたんだ。
日課の教習を終えると、共に街を歩き、他愛のない談笑を交わしていた。
僅か半年前の高校時代のこと。
将来に向けての眺望のこと。
そして、今。
大学生活のこと。
実に他愛も無い内容だった。
少なくとも、彼女達にとっては。
「懐かしいわね……」
思わず口を衝いた出た独白。
それに一驚を喫したのは、紛れもない私自身だった。
もう、三年目を折り返した今となってさえ、煌めくようなかつての残滓に縋っているのだろうか、私は。
戻りたいとは思わない。
戻れないから望まない。
変わりたいとも思わない。
変えれないから望まない。
どうしようもないのだ。
これはライトノベルやゲームなどの空想の物語りではなく、紛れも無い現実なのだから。
今さら寂しいとも思わない。
入学時に期待と不安を抱き、月日と共に次第に固められていく周囲の関係に焦り、
夏季休暇による帰郷で旧友との決定的な隔たりに絶望し、やがて陰鬱とした秋が来て、寒さに怯えた冬を越し、ようやく季節が一巡りした。
何時しかそれらの日々にも慣れてしまい、気が付けば全てが取るに足らない問題と化していた。
そう、心の折れたクラスメイトが息を顰めるようにドロップアウトしていく中で、私は自身の力のみで試練の時を越えたのだ。
だからこそ私は、今こうしてここに居ることが出来るのだ。
けれどもそれらと引き替えるように、薄味で漠然とした”何か”という想いを抱える日々がやってくる事となった。
今すぐやらなければという声。
それとは正反対に働く意志。
ゆっくりと、しかし確実に拡がりゆく旧友や同期達との経験の差。
しかしそれを埋める手立てを、残念ながら私は持ち合わせていない。
故に私は途方に暮れている。
……いや、今は下らない思いに耽っている場合ではなかった。
彼女からの誘いをどう運ぶべきか、というのが目下の議題だったのだ。
休止モードのまま眠っていたパソコンを寄り起こす。
予測通り、開きっ放しにしたままであったウェブラウザがディスプレイに映し出された。
即座に慣れた手付きで”お気に入り”から大学のウェブサイトへと飛び、行事予定表を眺め見る。
なるほど。
試験結果の発表が七月末で、追試が八月頭。
さらに追試の結果が出るのが八月末、か。
仮に追試を落としたとしても、すぐさま手を打てば挽回の余地はあるんだっけ。
教授にもよるんだろうけど。
そうだ。
世の中絶対は無い。
何らかのミスを犯していれば、それにより足元を掬われる可能性だって十二分にあるのだ。
例えば必修科目の試験結果が追試験で、次いでもをしくじった場合、来年度が危うくなってしまう。
だったら、万一に備えておくのが利口というもの。
最早、腹積もりは決まった。
私は今夏も帰らない。
学業が忙しいから帰れないのだ。
従ってメールも返さない。
会える見込みがないのだから、返せないのだ。
断言と同時に携帯電話をベッドの上へと放り投げ、
その手でテーブルにあったラッキーストライクのボックスを掴み取る。
それから箱を振るように片手で抜き出し咥え、空いた手にジッポを収める。
キンッ、という小気味良い金属音に続いての点火。
気の流れの無い室内には、次第に紫煙が燻り始めていく。
その行方をぼんやりと見送っていると、新たな疑問が湧いて出てきた。
煙草を吸い始めたのは何時からだったのだろうか。
一旦は放った筈の携帯電話を念の為にと充電器に繋ぎつつ、頭を捻ってみる。
斯くして、私はまたも思いを馳せていくこととなった。
そうした所で依然として続く”何か”を拭えないと解っていながらも、他に行う当てなどないのだから。
大丈夫、大したことはないさ。
今流行りの鬱だったか?
あんな風に心を病んでしまうほどの問題でもない。
第一、私はそんなに弱くはないから。
慣れた御蔭か、新入生の頃ほどに強く、ネガティブな感情を抱くこともないから。
自身の心内を探りつつ椅子に腰かけ、煙草を吹かしながら思考を切り替えてみる。
そうやって得られたのは正とも負とも言えぬ、ある意味では完璧なバランスを保ったゼロ地点の感情だった。
不安など無い。
悩みなど無い。
けれども、ただどうしようもなく、やるせない。
思考が行き着く先に残されるのは、何時もその想いだけだ。
最終更新:2008年09月21日 21:55